第1話 精霊鑑定士
王都・宮廷の最奥。
分厚い石壁と遮光結界に囲まれた「宮廷鑑定室」を、魔導灯の赤い光が照らしていた。
寄り親である公爵家を通じた手続きを経て、ゲルハルト・ボレアス・ヴァルシュタインは室内へ足を踏み入れる。歴戦の武将として「鉄の伯爵」の異名を持つ彼でさえ、外界から隔絶されたこの場所には、自然と緊張を覚えた。
部屋の中央には、近衛騎士たちに囲まれるようにして、一人の人物が佇んでいた。
白い外套に身を包み、深く被ったフードがその顔を隠している。
宮廷が抱える『精霊鑑定士』。
属性を問わず、あらゆる精霊を見ることのできる稀有な存在であり、その正体は宮廷内でも厳重に秘匿されている。ゲルハルトも、その素性については何も知らされていない。
精霊の加護を見極めることを役目とする彼女と対面するのは、ゲルハルトにとって初めてではなかった。
二年前、十四歳になったレオンハルトの加護を確かめるため、彼はこの場所を一度訪れている。その時に下されたのが、「無加護」という非情な宣告だった。
「……遠方よりご苦労様です、ヴァルシュタイン伯」
フードの奥から、以前と変わらぬ澄んだ声が響く。ゲルハルトは短く頷くと、持参した封印の鉄箱を祭壇の上へ置いた。
その中に収められているのは、レオンハルトから提出された二つの物証。一切の干渉を受け付けない『黒い石』と、砕けた『蒼い精霊石』の破片である。
本来なら人間の加護を見定めるための鑑定士に、精霊石そのものを鑑定させる。今回の依頼が、いかに異例なものかはゲルハルト自身も理解していた。
「これを、鑑定していただきたい」
鑑定士は祭壇へ歩み寄り、白い手袋に包まれた手を黒い石へかざした。
その瞬間、鑑定士の手がわずかに止まる。ほんの一瞬の変化だったが、ゲルハルトは見逃さなかった。
やがて鑑定士は手を下ろし、今度は蒼い精霊石の破片へ手を伸ばす。
「……こちらは、単なる魔力枯渇ではありません」
鑑定士は石の表面を見つめたまま答えた。
「外部から異質な魔力が入り込み、精霊石そのものに干渉した痕跡があります。その影響によって、宿っていた精霊の力が失われているようです」
「精霊の力が、失われた?」
「ええ。通常、精霊は魔力を使い果たしても、時間を置けば再び力を取り戻します。ですが、この石は違う」
鑑定士はそこで一度言葉を切り、蒼い濁りの残る破片を慎重に見つめた。
「この状態では、精霊そのものが消滅した可能性が高いでしょう」
ゲルハルトの眉がピクリと動く。
精霊が魔力を失うこと自体は珍しくない。だが、完全な消滅となれば話は別だった。
「この蒼い濁りが、その痕跡だと?」
「そう考えられます。精霊が消滅した後に残されたもの。いわば残骸のようなものです」
ゲルハルトはあらためて、変質した精霊石を見据えた。
石は蒼く濁ったような色に染まり、火の精霊石が持つ鮮やかな燈色は、見る影もなかった。
鑑定士は続けて言葉を紡ぐ。
「自我の薄い精霊たちがなぜ、この石を恐れるのか。それは生命の消滅に対して、本能的な恐怖を示し、脅威から逃れようとしているのです」
鑑定士の説明は、理屈としては確かに筋が通っていた。
精霊がこの石を恐れることも、精霊石としての機能が失われていることも、ゲルハルト自身が確かめている。ならば、それを『消滅した精霊の残骸』と説明されても、否定するだけの根拠はなかった。
「……異質な魔力、というのは?」
その問いに対し、鑑定士は首を横に振る。
「それについては、私では断定できません。宮廷術師たちに委ねるのが妥当でしょう」
鑑定士は穏やかに返答した。
ゲルハルトは黙って石へと視線を戻す。石の奥に、蒼く濁った何かが澱んでいる。
――果たして、本当にただ『消滅』しただけなのか。
武人として培ってきた直感が、説明のどこかに引っかかっていた。
鑑定士の言葉は間違ってはいない。だが、なぜか――すべてを語っているようにも思えなかった。
「……そうか。では、その黒い石の方は?」
ゲルハルトの問いに対し、鑑定士は視線を落とす。
「こちらについては、私にも判断できません。王宮の専門術師たちにも分析させ、慎重に調査する必要があります」
「……承知した」
調査が終わるまで、ゲルハルトはしばらく王都に留まるほかなかった。
その日の夕刻。ゲルハルトのもとへ、一通の書簡が届けられた。差出人の名を確認し、封を切る。
「……レオンハルトか」
何かを掴んだなら、すぐに知らせろと命じていた。ゲルハルトは胸騒ぎを覚えつつ、羊皮紙へ目を落とす。
「…………」
読み進めるにつれ、ゲルハルトの表情が険しくなっていく。最後まで読み終えると、しばらく沈黙した。やがて、静かに書簡を折りたたむ。
「……レオンハルトを、王都へ呼ぶ必要があるな」
その言葉を口にするまで、ゲルハルトには珍しく、わずかな間があった。
ゲルハルトは机に向かい、三枚の羊皮紙を並べた。レオンハルトへの返信。オルトリンデ公爵家への取次ぎの依頼。そして、留守を預かる伯爵領の家中への指示。三枚の羊皮紙に、淀みなく筆を走らせた。
*
早朝。アルヴェイン男爵領の南西に位置する丘陵地帯は、重苦しい静寂に包まれていた。かつて伯爵家から派遣された精鋭部隊が展開していたはずのその場所には、風が草を揺らす音だけが微かに響いている。
レオンハルトは馬を止め、地面を見下ろした。そこには、人間の輪郭を描いた黒い焦げ跡が、影のようにいくつも刻まれている。
「これは……ひどいですね」
同行していたエドガーが、馬を降りてその一つに近づき、しゃがみ込んだ。
「既存の火属性魔法とは一致しません。人間を灰にするほどの高熱なら、土壌まで溶けているはずです」
手袋をはめた指先で焦げ跡の泥を僅かに払い、眼を細める。
「ですが、そうなった形跡がない。……少なくとも、自然の炎によるものとは考えにくいでしょう」
エドガーは険しい表情で立ち上がる。
その隣では、普段なら未知の事象に知的好奇心を爆発させるはずのリゼットが、静かに現場を見渡していた。彼女は丸眼鏡の位置を直し、焦げ跡をただ見つめている。
「肉体どころか、身に付けていた鎧の破片すら、残っていないなんて……」
リゼットの声には、いつもの軽快さは欠片もない。その瞳には明らかな戦慄が浮かんでいた。
『エドガーさんたちは何もないって言っているけど、違う』
レオンハルトの脳裏に、ユウの切迫した声が響いた。
かつての谷底の調査では「嫌な予感がする」としか形容できなかったユウの目が、今は物理的な痕跡の奥にあるものを正確に捉えている。
『いるんだ。消えてなんかいない。ただ、火の精霊……みたいなものが蒼くドロドロに染まって、周りを漂っている』
レオンハルトの目には、ただの焦げた土にしか見えない。だが、ユウの言葉を聞くだけで、肌が粟立つような悪寒が走る。
(精霊の性質そのものが、内側から書き換えられている……)
リゼットがかつて口にした仮説が、確信へと変わる。
自然界の調和を保つ精霊たちが、別の何かに変質している。その悍ましい事実に、レオンハルトは手綱を握り直した。
「現場の調査はここまでとする。一度、館へ戻るぞ」
「御意」
ヴォルフガングが頷き、一行は丘陵を後にした。
*
それから数日後の朝、アルヴェイン男爵領の領主館の執務室。
レオンハルトは机に向かい、セバスからの報告を受けた。
「ヤーガー子爵領に放っていた者からの報告がまとまりました」
セバスは一礼し、整理された書類を差し出した。
「魔狼を我が領へ牽引した者たち。その依頼系統の流れを辿ったところ、表向きは巧妙に隠蔽されておりましたが、裏で指示を出していたのは、古物商の『ゾルグ』であることが判明いたしました」
「……ゾルグか」
レオンハルトは目を細める。
その名を聞くのはこれで二度目だった。前回の調査で初めて、その名がヤーガー子爵の裏工作に関わっていることが判明したのだ。
報告を聞いたロイが「やっぱりあのヤーガーの差し金か!」と声を荒げたが、レオンハルトは首を横に振った。
「ゾルグは裏の仕事に長けている。ヤーガーとゾルグを直接繋ぐ決定的な証拠がない以上、今動けば言い逃れされるのが関の山だ」
「ですが……!」
「今回の件は、ヤーガーが黒幕だとは考えていない。利用されたか、あるいは何も知らされずに駒として使われた可能性が高い」
逸るロイを目で制し、レオンハルトはセバスへ視線を向けた。
「引き続き、水面下でゾルグとヤーガーの繋がりを追え。完璧に尻尾を掴むまでは動くな」
「承知いたしました」
「それから、セバス。もう一点、調査を命じる」
レオンハルトの脳裏に、戦いの最後に空へと飛び去った、あの黒装束の者が浮かび上がる。
「この大陸、あるいは古代の文献において、有翼の種族に関する記述がないか徹底的に調べろ」
「翼を持つ種族、にございますか? 人間は勿論のこと、伝承にあるエルフとて、翼など持たぬはずですが……」
「だからこそだ。歴史の表舞台から消えた種族、あるいは魔物の変異に近い『何か』なのか。どんな些細な伝承でも構わん、拾い上げろ」
「はっ」
セバスが一礼するのを見やりつつ、レオンハルトはロイへと視線を移す。
「ロイ、カイルたちはどうだ」
「はい……」
ロイの表情がわずかに曇った。
「命に別状はないですが……身体の損傷がかなり酷い。あの石に無理やり力を引き出されたせいだと思います」
「意識は?」
「あります。でも、まだまともに話せる状態ではありません。エドガー殿が治療にあたってますが……あれだけの損傷です。すぐには動けないでしょう」
「そうか」
カイルたちはあの黒装束の者と直接対峙した可能性が高いだろう。ゆえに、何か手掛かりでも得られればと考えたが、今の状態では話を聞くこともできない。
エドガーの水魔法には自然治癒力を高める術がある。だが、損傷を即座に癒せるわけではないのだ。
「ならば、今は休ませておけ」
「はい」
ロイが頷く。
セバス、そしてロイが退室すると、執務室には再び静けさが戻った。
『なあ、レオン。あの黒装束の羽根つき。あいつの目的って、何だと思う?』
脳裏でユウが問いかけてくる。
レオンハルトは腕を組み、セバスたちが去った扉を見つめながら口を開く。
「……目的は見えない。だがその過程として、実験をしている」
『実験?』
「そうだ」
レオンハルトは目を閉じ、これまでに得られた情報を頭の中で並べていく。
(デモンボアの時は、砦を襲撃するまでは確かな統率を感じた。だがその後は、ただ本能のままに暴れ回るだけの獣だった)
だが、今回は違う。
カイルたちの肉体に『黒い石』を埋め込み、カイル自身の精霊の加護を維持したまま、一つの明確な意志で操っていた。
「段階的な実験、と見るべきだな。最初は魔物、次は人間。過程を経るごとに、洗練されている」
『実験……魔物ならいいって話じゃない。ましてや、人間まで物みたいに使うなんて』
「……そうだな」
ユウの言葉を聞き、レオンハルトは静かに目を開いた。ゾッとするような仮説が、彼の脳裏を過る。
(次の段階があるとすれば……『理性を保ったまま人間を洗脳する』あたりか。もしも、そんな術が完成したらどうなる。それが、この国の支配層に埋め込まれたならば――)
大軍を動かすまでもない。国は、内側から簡単に崩壊する。
あくまでこれは仮説に過ぎない。単に戦力を揃えるための試験だった可能性もあるが、最悪の事態を想定しておく必要があった。
その時、執務室の扉が、ノックもなしに勢いよく押し開けられた。
「レ~オ~ン! お姉ちゃんが来てあげたわよッ!」
「……っ!? 姉上、なぜここに……!」
レオンハルトが珍しく素でたじろぎ、立ち上がる。
現れたのは、ヴァルシュタイン伯爵家長女、フレデリカだった。豪奢な旅装を身に纏い、相変わらず騒々しい気配を漂わせている。扉の外には、申し訳なさそうな顔でセバスが佇んでいた。
「大丈夫!? 怪我とかしてない? ああもうッ。私がその場にいたなら、全部吹き飛ばしてあげたのに!」
「姉上、今は執務中です……ぐ……っ!?」
フレデリカはレオンハルトの抗議など耳に入らぬとばかりに、その豊かな胸で弟の身体を強引に抱きしめた。
みしり、と骨が鳴るような圧迫感に、レオンハルトは息を詰まらせる。
『……この人、普段から身体強化しているのか』
ユウの視界には、フレデリカの身体を巡る淡い光が映っていた。
嵐の精霊の加護。その力のほぼ全てを身体能力の強化へと回しているため、平時である今も、彼女の全身には一定量の精霊の力が流れ続けている。
『だから、こんなに力が強いのか……。いや、待て。これで普段の状態なのかよ……』
レオンハルトを抱きしめる腕に視線を向ける。
『戦ったら、もっと凄いってこと……?』
ユウの声が、わずかに引きつった。フレデリカはようやく腕を解くと、腰に手を当てて胸を張った。
「お父様からの急ぎの書簡よ。早馬よりも私が持ってきた方が早いでしょ?」
彼女が差し出したのは、重厚なヴァルシュタイン家の封蝋が押された一通の書簡だった。
レオンハルトは居住まいを正し、封を切って目を通す。
まず、王都への召喚を命ず、という一文が目に入る。
だが、レオンハルトはそれだけでその裏に隠された真意を察していた。
(やはり、父上は気づかれたか。カイルらの死傷という結果だけで、この辺境に本家すら脅かす巨大な影が潜んでいることに)
本家が誇る精鋭が辺境で壊滅しかけた。その事実だけで、事態の尋常ならざる深刻さを察したゲルハルトは、一切の詮索を記さず、レオンハルト自身を王都へと招致すると決めたのだろう。
「……寄り親であるオルトリンデ公爵家への取次依頼。そして、物証があれば持参せよ、とあるな」
レオンハルトの視線が、机の引き出しに向けられる。そこには、カイルの首から叩き割り、回収した『黒い石の破片』が厳重に封印されている。
(……オルトリンデ公爵家への取次依頼、か)
ゲルハルトの指示はもっともだ。
男爵という身分が王宮に入るには、傘下領主を統括する公爵家の正式な紹介状が必須となる。伯爵の独断というだけで通るようなものではない。
問題は、どこまで公爵に事実を話すべきかという点にある。ゲルハルトは王都に入る前に、公爵家に直接報告をしているはずだ。ならば、黒い石や変質した精霊石のことも、すでに耳に入っている。
取次依頼をせよということは、公爵家にもすでに手をまわしていることだろう。
最後に、例の精霊石の鑑定結果については、精霊の「消滅」ということのみが記されていた。それを確認したレオンハルトの眼が僅かに見開かれる。
書簡を読み終わった後、小さく息を吐いた。
「私自身が王都へ向かうこと自体に異論はない。だが、今この状況で私が領地を空ければ、防衛が手薄になる」
正体不明の敵の意図はまだ見えない。それに、隣領のヤーガー子爵がいつ牙を剥くかも分からない状況だ。
(領地を空ける以上、誰かに守りを任せる必要がある。秘密を守れ、なおかつ有事に対応できる者――)
「……なるほど、だから姉上がここに」
「さっすがレオン! 察しが良いわね」
フレデリカが、自信に満ちた笑みを浮かべて胸を張った。
「私もお父様から指示を受けたわ。王都にレオンが行くから、その間にアルヴェイン男爵領を守れ、とね」
フレデリカが言うには、ゲルハルトから彼女宛に届いた書簡には、カイルらが重傷を負ったこと。レオンを召喚するから、代わりに男爵領を守るようにとの内容だけが記されていたようだ。
「レオンがいない間、この領地は私が守る。何が来たって、この私がまとめて吹き飛ばしてあげる」
豪快極まりない姉の宣言に、レオンハルトは沈黙した。
細かな理屈をすっ飛ばした物言いではあるが、彼女が身内を裏切ることは絶対にあり得ず、その実力もヴァルシュタイン家では指折りだ。今のアルヴェイン領の留守を預かる上で、これ以上条件に合致する適任者はいない。
「そういうことで、安心して王都へ行ってきなさい、レオン!」
フレデリカはガハハと豪快に笑い、レオンハルトの肩を叩いた。
「……感謝します、姉上。留守を頼みます」
「ええ、任せなさい」
次いで、扉の側に控えていた執事へ視線を向ける。
「セバス。ヴォルフとロイを呼べ。私は旅支度を整える。無駄にしている時間はない、すぐに出立する」
セバスが「はっ」と頭を下げ、足早に退室していく。
レオンハルトは窓の外へ視線を向けた。見慣れた領地の風景の先に続く、王都の道を思い浮かべる。
次なる舞台は辺境の地から、国の中心たる王都へと移ろうとしていた。




