第15話 不穏な足音
アルヴェイン男爵領、南西の境界地帯。
緩やかに起伏する丘陵に沿って、伯爵家から派遣された精鋭部隊が展開していた。総勢三十名。隊長であるカイルがその指揮を執っている。
半数の十五名を前線に、残る十五名を後方の野営地に置き、数刻ごとに入れ替える。昼夜を問わず警戒態勢を敷くためのものだった。
カイルは前線に立ち、丘陵の向こうへ目を凝らす。
(……静かなものだな)
男爵家直属の北の部隊とは対照的に、こちら側ではこれといった異変は報告されていない。
着任からの数日、あるのは単調な巡回と、慣れない土地の地形を頭に叩き込む作業の繰り返しのみ。
その静寂を破ったのは、部下の一人が上げた声だった。
「隊長! 前方に人影、複数――いえ、何かに追われています!」
カイルは弾かれたように視線を向けた。
丘の向こうから、土煙を上げながら駆けてくる人影がある。
武装した旅装の男が三人、互いを庇い合いながら、明らかな満身創痍の様子でこちらへ向かってきていた。
そして、その背後に迫るのは、漆黒の毛並みを持つ獣の群れだ。
「あれは……デモンウルフ!?」
瞳だけが爛々と赤く光る、大柄な狼が五体。統率の取れた動きで、逃げる人間たちの退路を塞ぐように展開している。
(なぜ、奴らがここに? この辺りに魔狼の巣になるような場所など……)
違和感が拭えない。だが、今はそれを考えている場合ではなかった。
「全員、迎撃準備! 弓兵は牽制、盾持ちは前へ!」
カイルは剣を抜き放ちながら、鋭く声を張った。
「奴らは素早い、決して深追いはするな!」
十五名の前線部隊が、即座に隊列を組む。
だが、それだけでは逃げてくる三人が呑み込まれる方が早い。
(間に合わせる……!)
「風の精霊よ! その疾さをわが身に――!」
カイルの体を緑がかった風が纏い、次の瞬間、その姿が景色から掻き消えた。
風の加護。カイルの脚力と反応速度が、常人のそれを遥かに凌ぐ域まで引き上げられる。魔狼たちと同等、あるいはそれ以上の速さで、彼は狼の群れの横腹へと躍り出た。
「そこだ!」
一体の側面を、居合の要領で斬り払う。
魔狼たちの注意が向くと同時に、既にカイルの姿は次の狼の背後にあった。
風のように斬り抜けながら、五体の陣形を内側からかき乱していく。統率されていたはずの狼たちの動きに、明らかな乱れが生じた。
「今だ、押し込め!」
カイルの一声で、前線の兵士たちが一斉に動く。旅装の三人が、辛うじて味方の輪の内側へ転がり込んだ。
迎え撃つ側とはいえ、油断はできない相手だった。だが、この部隊の装備は伊達ではない。伯爵家直属の精鋭に与えられたそれは、いずれも精霊石を組み込んだ特別仕様だ。
「行くぞ!」
兵士の一人が振るった剣身が、赤い輝きを帯びる。火の精霊石によるエンチャント。刃が触れた狼の体毛が、焦げる臭いと共に裂けた。
盾を構える兵士たちも同様だ。彼らの纏う鎧には、地の精霊石が編み込まれている。狼の爪が幾度叩きつけられようと、鎧は強靭さを発揮して易々とは貫かれない。
だが、そんな鎧をものともしない一体がいた。
「な――!?」
他の四体より一回り大きなその狼が、盾を構えた兵士へ真正面から体当たりを仕掛けた。
ガンッ、と鈍い衝撃音が響く。鎧がひしゃげ、次の瞬間、屈強な男の体が大きく吹き飛ばされた。
「くっ……こいつだけ、明らかに格が違う……!」
他の四体が幾度かの斬撃で怯み、体勢を崩す中、その一体だけは違った。
刃を浴びても、まるで怯む素振りを見せない。傷口から血を滲ませながらも、その足取りに衰えは一切なかった。
「後方部隊へ合図を! それまでは各個で凌げ!」
カイルがそう指示すると、部下の一人が角笛を構えた。角笛の音が、丘陵に鋭く響き渡る。
カイルは風を纏ったまま、その異質な一体の周囲を旋回する。決してこちらから仕掛けず、攻撃を捌くことのみに集中する。
(数はこちらが上だ。持ちこたえさえすれば……!)
程なくして、後方で待機していた十五名が駆けつけた。いかに強かろうが、数の利はこちらにあり、戦況は徐々にこちらへ傾いていく。
四体は、複数人がかりの猛攻の末に、次々と地に伏していった。残るは、あの一体だけのみだ。
「ガレス、右だ! 俺が正面を抑える!」
「承知!」
カイルは風を纏い、狼の視界を掻き乱すように左右へ跳ぶ。
獣の意識が完全にこちらへ引き付けられたのを確かめると、彼は身を翻し、大きく後方へ跳び退いた。
「弓兵――!」
その離脱を待っていたかのように、左右から矢が唸る。風の精霊石を組み込んだ弓から放たれた矢は、通常の倍以上の速度で空を裂き、吸い込まれるように魔狼の巨躯へ突き刺さった。
「今だ、ガレス!」
右の横合いから斬り込んだガレスの一撃が、ようやくその喉元を捉える。その剣が突き刺さると共に、魔狼の巨躯が地響きを立てて崩れ落ちた。
「……全員、無事か!」
カイルの問いに、各所から声が返る。何人かが浅くない傷を負い、後方へ運ばれていく者もいた。それでも、倒れて動かなくなった者はいない。
「……よし。何とかなったか」
カイルは剣を下ろし、額の汗を拭った。
助けた旅装の男たちも、後方でへたり込み、荒く息をついている。手当てを、と誰かに指示を出そうとした、その時だった。
「――随分と、手際が良いな」
声は、どこからともなく響いた。カイルは弾かれたように振り返る。
いつからそこにいたのか。誰も、その気配に気づけなかった。
丘の斜面、狼たちの骸が転がるすぐそばに、黒い外套を纏った人影が佇んでいる。フードを目深く被っていて、その顔は窺えない。
「人間ども、少し遊んでやろう」
フードの奥から響く声には、抑揚がない。それだけに、かえって底知れない冷たさがあった。
カイルの背筋を、これまでとは質の違う怖気が走り抜ける。
(……何だ、こいつは)
勝利の余韻は、瞬時に凍りついた。
*
北の森より、ロイたちの偵察隊が帰還したのは、日が傾き始めた頃だった。
詰所の一室、レオンハルトの前に立ったロイは、簡潔に報告する。
「まずは数から。ブラッドベアは全部で三体。大が一体、小が二体です」
「親子、か」
「恐らくは。どうやら家族連れで引っ越してきたみたいですね。団長の話では、成体の体長は平均三メートル前後ってことでしたが、確認した大の個体は、まさにその通りの大きさでしたよ」
「接触は」
「こちらの気配には、早々に勘付かれてました。ただ……遠巻きに様子を窺っていたところ、警戒はしていましたが、襲ってくる気配はなしです」
そこまで聞いて、レオンハルトは僅かに息を吐く。
「操られている、という反応でもなさそうか」
「そこまでは、正直言い切れません。石が埋め込まれているか確認できていないので。……ですが」
ロイはすぐには続けなかった。後頭部へ手をやり、赤い髪を掻く。
「先日の魔物どもから感じた、あの不気味さ……あれとは、質が違いますね。勘としか言えませんが」
レオンハルトは卓上の地図へ視線を落とし、指先で偵察地点を二度叩いた。
(結論を急ぐべきではない。だが……)
「早計に断定はできんが、直ちに対処が必要な状況ではなさそうだな」
「俺も、そう思います」
そこへ、慌ただしい足音が近づいてきた。
「失礼します! 南西より、急使が到着しております!」
レオンハルトの目つきが、瞬時に鋭くなる。
「通せ」
息を切らせた伝令の兵が、部屋に転がり込むように現れた。
「南西の境界にて、魔狼の群れ――五体が、領内へ侵入! 現在、伯爵家より派遣されたカイル様の部隊が、応戦中とのことです!」
室内の空気が、一瞬にして張り詰めた。
「五体、か……」
レオンハルトの脳裏に、報告された数字が響く。
魔狼、デモンウルフはデモンボアほどの脅威ではない。群れると厄介だが、数だけを見れば、決して手に負えない規模ではないだろう。だが――。
『……南西って、あのヤーガー子爵の領地だよな』
ユウの声が、脳裏に響いた。
『じゃあ、これって……早速なんか仕掛けてきたんじゃないか?』
「……」
レオンハルトは答えず、卓上の地図へ目を落とした。
北の森から南西へ視線を滑らせ、カイルの部隊がいる境界付近で止める。
熊と狼が同時に出現する事態。偶然と考えるには、あまりにも出来すぎていた。
だが、今は推測よりも先に、現場の状況を確認する必要がある。
「ロイ、お前たちはここに残れ」
「ですが――」
「休めとは言っていない。お前たちは、引き続き北の方を警戒しろ。陽動の可能性もある」
「……なるほど」
「異変があれば、すぐに報せろ。それがお前たちの役目だ」
ロイは一瞬だけ黙り、それから小さく頷いた。
「了解です。留守は任せてください」
「頼む」
短く告げると、レオンハルトは外套を翻した。
「ヴォルフ! 護衛を三名、すぐにでるぞ!」
「はっ!」
既に異変を察していたのか、ヴォルフガングの反応は早かった。
手早く選ばれた三名の兵士と共に、レオンハルトは南西の境界へと馬を走らせる。
乾いた蹄の音が、夕暮れ間近の街道に響いていった。
*
丘陵一帯は、もはや戦場ではなく、墓標のない墓地と化していた。
地面のあちこちに、人の形をした黒い焦げ跡が刻まれている。そこにあったはずの体は、影も残っていない。旅装の男も含め、騎士たちの半数以上が、そうやってこの世から消え去っていた。
残る者たちも、無事とは言い難い。折り重なるように倒れ伏し、二度と動かない骸となった者たち。そして数名の騎士は、かろうじて息はあるが、意識だけを刈り取られて地に伏していた。
「……この程度か、他愛ない」
ラグナエルはある男の元へと歩み寄る。
風の加護を纏い、吶喊してきた人間――先ほど「隊長」と呼ばれていた者だ。かろうじて、まだ息はあるようだった。
他の騎士よりは動きが良かったが、それだけだ。かかった手間は、他とさほど変わらない。
「さて……」
人間どもへ差し向けた狼の始末は、あくまで表向きの仕掛けにすぎない。ラグナエルが真に確かめたかったのは、ただ一点だった。
(知性ある生物にも効く、か)
懐から取り出した紋石の欠片が、鈍い光を帯びる。魔物に埋め込み、その本能を塗り潰す技術は、既に完成していた。
だが、これを人間に――知性と自我を持つ者に用いた時、果たしてどこまで通用するのか。
目の前に転がる十の体は、そのための、またとない材料だった。
ラグナエルは膝を折り、隊長――カイルの傍らに屈み込む。
意識を刈り取られた顔は、驚くほど無防備だった。欠片を握る指に、力を込めようとした、その時だった。
――この光景は、かつて我らの父祖が人間に刻まれたそれと、何が違う?
声にならない問いが、不意に胸の奥から湧き上がった。
抗う術もなく、ただ横たえられるだけの体。おぞましい実験体にされる者たち。
それは、遥か太古、人間どもが自分たちの父祖に対して行った所業と、何が違うというのか。
一瞬、胸の奥が疼く。だが、それは長くは続かなかった。
「「迷うな」」
頭の中に、直接声が響いた。
一つではない。老いた声、幼い声、女の声、男の声……幾つもの声が、寸分の狂いもなく重なり合い、一つの言葉として彼の意識を貫いた。
――奪われた
――赦さぬ
――取り返せ
幾重にも折り重なった怨嗟が、ラグナエルの脳裏へと響き渡る。
瞼の裏、暗闇の奥に、赤黒い紋様が滲むように浮かび上がった。それらは螺旋を描くようにして、やがて彼の視界そのものを侵食していく。
(……そうだ。これは、報いだ)
奪われた側が、奪う番に回っただけのこと。それのどこに、躊躇う理由があるのか。
(我らは人間どもとは違う。我らこそ正義だ)
ラグナエルから、迷いが消え失せる。
気を失ったままの男の首元へ、握っていた欠片を押し当てた。
石は、まるで意思を持つ生き物のように、肌の上でぴたりと張り付く。
表面に、赤黒い光の筋が幾重にも走る。それは血管をなぞるように、皮膚の下を這い進み、体の奥へ奥へと根を張っていった。
男の眉が、僅かに歪む。だが、目を覚ますことはない。
ラグナエルは、その光景を最後まで見届けると、静かに立ち上がった。視線を、残る九つの体へと移す。
「さて、一つずつ、確かめるとしよう」
夕暮れの光が、丘陵に横たわる骸と、意識を刈り取られたままの体を、等しく赤く染め上げていた。




