第14話 暗躍する者たち
夜も更けたヤーガー子爵領の館には、まだいくつもの明かりが灯っていた。
領地を見下ろす高台に建つ子爵家の館は、平地に建つアルヴェイン家の館とは比べものにならないほど大きい。
その一角にある領主の私室には、上等な酒の香りが立ち込めていた。
だが、杯を傾ける手には、いつもの上機嫌さがない。
「……おのれ、加護なし風情めがァッ!」
ドンッ、と卓上へ拳で叩きつけた。
その衝撃で、積み上げられていた書類が音を立てて崩れ落ちる。
アルヴェイン男爵領からの帰路、終始笑みを浮かべ続けた顔の裏で、彼は屈辱に歯を軋ませていた。
(このまま黙って引き下がれるものか……!)
だが、頭に血が上ったままの報復は許されない。男爵領には現在、伯爵家の人間も滞在している。下手に証拠を残せば、こちらの首が飛びかねない。
――ならば、証拠さえ残さなければいい。この手で直接動く必要はないのだ。
やがて静かなノックが響く。
「お呼びでしょうか」
入ってきたのは、これといって特徴のない、初老の男だった。商人にも、旅人にも見える身なりで、顔立ちにも目立ったところはない。
名をゾルグという。表向きは古物商だが、裏では貴族の「不都合な頼み事」を金で請け負う顔役として、この地方では知られた男だった。
「仕事の話だ」
指示書などを用意していない。全てを口頭でのみ告げる。
「北の『魔狼の谷』で、腕利きの傭兵を何人か、動かしてもらいたい」
「……承知いたしました。手前は、いつも通り、依頼人を仕立てて話を通すだけでよろしいので?」
ヤーガーは椅子から立ち上がると、ゾルグに背を向けて、窓の外へ目を向ける。
「言っておくが、誰にも私の名を出すなよ。……分かっているだろうがな」
「もちろんです。依頼役も事情がある者のみを選別します」
夜の窓ガラスに、頭を垂れるゾルグの姿が映っていた。
「谷の奥へ踏み込み、そこの魔獣どもを軽く『刺激』させろ。それと」
窓ガラスに映ったその口元だけが、ゆっくりと吊り上がる。
「逃げる方角にも一言添えておけ。北東――そちらは集落も少ない。最小限の被害で抑えられるだろう、とな」
「承知いたしました」
ゾルグは表情ひとつ変えず、静かに一礼して部屋を辞した。
男が去った後、ヤーガーはようやく口元の笑みを緩める。
(この手はもう四度目だ。これまで一度たりとも、私の名など出たことはない)
素材の探索として雇われた者が、命惜しさに逃げただけのこと。それだけの話だ。
依頼人も、仲介役も、その先で実際に傭兵を雇う者も、ヤーガーとは何の関係もない。
(証拠など、どこにも残らん)
ゾルグがどこから依頼を持ち込んだのかなど、誰にも分からない。まして、その先にいる傭兵たちが真の依頼主を知ることなどあり得ない。
(これで少しは思い知るがいい。加護なしの小僧が……!)
窓の外、月のない夜が、静かに深まっていく。
*
アルヴェイン男爵家、レオンハルトの執務室。
机上の決裁書類は、珍しく片付いていた。窓から差し込む昼の陽光が、積み上げられた書類の山を、静かに照らしている。
レオンハルトはペンを置き、深く息を吐く。魔物の大襲撃から始まり、ここまで息をつく暇もないほどの出来事が起きた。
絶え間なく動き続けてきた反動か、今日はどこか、体がやや重く感じている。
だが、それも悪くはない。久方ぶりに訪れた、何も差し迫っていない時間だ。
『……珍しいな。お前が手持ち無沙汰にしてるとこ、初めて見た気がする』
脳裏に響くユウの声に、レオンハルトは片眉を上げた。
「手持ち無沙汰などしていない。……思考の整理をしていただけだ」
『はいはい』
ユウの声には、揶揄うような響きがあった。
だが、その気安さを、今は咎める気にならない。
「……ちょうどいい。貴様に、いくつか聞いておきたいことがある」
『お、何だよ。あらたまって』
「これまで、貴様の言葉を検証する余裕もなかった。だが、状況が落ち着いた今なら、話は別だ」
レオンハルトは腕組みをしつつ、椅子に深く座り直した。
「貴様は、なぜそう平然としていられる」
『……急に何だよ』
「異世界だ、転生だ、命の危機だと、この短期間に非常識な事態が続いている。それにしては、貴様の順応は――異常なほど早い」
『あー……。そりゃ、まあ』
ユウはどう答えたものかと、少しだけ口ごもる。
『俺のいた世界だと、こういう設定の物語が、それこそ星の数ほどあったからな。異世界に転生する話とか、憑依する話とか。もう手垢が付くくらい定番のジャンルだったんだよ。だから、頭のどこかで「ああ、これ知ってるやつだ」って処理できちまう部分があるっていうか』
「……くだらん。現実と虚構の区別もつかんのか」
『いや、ちゃんと区別してるって。ただ、免疫があるってだけの話だよ』
ユウは何かを思いついたように、声を弾ませた。
『そうだ、せっかくだし一つ試させてくれ』
「……何をする気だ」
『いいから、言う通りに口に出してくれ。――「ステータスオープン」』
「は?」
『いいから、いいから!』
訝しみながらも、レオンハルトは言われた通りに囁いた。
「……ステータスオープン」
しかし、何も起きない。同様に「アイテムボックス」という単語も試してみるが、レオンハルトはもちろん、ユウの感覚にも何も変化はなかった。
『……ま、そうだよな』
「一体、何を期待していた」
『いや、俺の世界の物語だと、大抵そういうのが転生特典として使えるようになるパターンが多くてさ。異世界に来たなら、もしかしたらって』
「何の努力もなく、力だけ欲しがるのか……くだらん」
レオンハルトは今度こそ本気で呆れた声を出した。
『分かってるよ、そんなの……でも、ちょっと期待しちまうのが人情だろ』
「貴様と話していると、こちらの気力まで無駄に消耗する」
軽い調子で返すユウに、レオンハルトはこめかみを指先で押さえた。
『あー、そうだ。一つ気になってたんだけど』
ユウの声のトーンが、わずかに真剣なものへと変わる。
『この世界、精霊とか魔法があるくらいだからさ……「魔族」っているのか?』
「魔族……なんだ、それは」
レオンハルトは怪訝そうに眉を寄せた。
『え……知らないのか?』
「聞いたこともない言葉だ。魔物とは違うのか」
『いや、魔物じゃなくて……なんつーか、角とか翼がある、知性を持った魔人、みたいな。俺の世界の物語だと、大抵そういうのが人間の敵だったりするパターンが多いんだよ』
レオンハルトは腕を組んだまま、一瞬だけ目を閉じた。
「そのような種族は知らん。この大陸に、人間と同等の知性を持つ種族が存在するという話自体、聞いたことがない。……いや、竜種を除けば、だが」
『竜?』
「長く生きた竜の中には、人の言葉を解し、知性を持つ個体がいるという伝承はある。だが、あくまで例外だ。あれは人の姿をしていない」
『えっ、じゃあエルフやドワーフとかは?』
「――エルフ、か」
レオンハルトの声に、微かな翳りが差した。
「ドワーフなどというものは知らんが……エルフについては、伝承の中でなら聞いたことがある。遥か昔、この大陸のどこかに生きていたという、長命の種族だ」
そこで腕組みを解くと、顎に手を当てながら言葉を継いだ。
「……だが、今もどこかに存在するのか、とうに絶えたのか、それすら不明だ。少なくとも、私のような一貴族が知り得る話ではない」
『そうなのか……』
「精霊石の影響を受け、獣が変異した魔獣や魔物なら、現に存在する。……だが、『魔族』などという存在は、聞いたことがない」
『……そうか』
ユウの声が、少しだけ考え込むように響く。
『いや、ただの思いつきだよ。気にすんな』
コン、コン。
扉を叩く音に、レオンハルトは反射的に背筋を伸ばした。
「入れ」
入ってきたのは老執事のセバスだった。
扉を静かに閉めると、レオンハルトへ一礼する。
「失礼いたします、レオンハルト様。……北の森より、気になるご報告が」
「……続けろ」
「はっ。監視の兵より、これまで見られなかった魔物の目撃情報が上がっております。熊型の、大型の魔物とのことです」
「熊型……。北の森に、そのような個体がいたか」
「いえ。これまでの記録には、一切ございません。付近の猟師や、砦の兵たちも初めて目にする姿だと」
その言葉に、レオンハルトの目が細められた。
北の森に生息する魔物については把握している。だが、その中に熊型の大型種はいなかった。念のための確認だったが、セバスの認識も同じらしい。
「詳細を聞きたい。目撃された数、場所、被害の有無は」
「はっ。目撃されたのは今のところ数体のみ。森の奥、砦よりさらに北方でのことです。人里への接近は、まだ確認されておりません」
「……今のところは、か」
レオンハルトは椅子から立ち上がった。
「詰所へ向かう。ヴォルフに直接聞く」
レオンハルトは外套を羽織り、足早に部屋を出た。
*
昼下がりの詰所には、巡回から戻った兵たちが装備を解く音が響いていた。
レオンハルトの姿を認めると、奥からヴォルフガングが姿を見せる。
「閣下。ちょうど、こちらからも使いを出すところでした」
「セバスから聞いた。北の森の、新手の魔物のことだな」
「はっ。つい先ほど、新たな一報が」
ヴォルフガングは机に広げられた報告書を示した。
「熊型の大型個体。体長は大人二人分ほど。体毛は血のように赤く、爪も異様に発達していたとのことです。目撃者のスケッチがこちらに」
レオンハルトは報告書へ目を落とした。
『なんだこれ……赤い熊?』
「これは――ブラッドベアか」
「恐らく間違いないかと。ワシも若い頃、何度か刃を交えたことがあります」
ヴォルフガングが頷く。
ブラッドベアは、火山帯などに生息する魔物だ。火の精霊の影響を強く受けており、火炎を吐くわけではないものの、火に対して極めて高い耐性を持つ。
「……しかし、妙ですな。奴らは滅多に縄張りを離れませぬ。ワシとて、かつて一度もこの北の森では目にしたことがない」
『それって……また、あの石が関係してたりしないか?』
ユウの懸念をよそに、レオンハルトは報告書に目を走らせた。
「原因はいくつか考えられる。先の戦いで、あの一帯の魔物の勢力図は大きく崩れた。空いた縄張りに、これまで奥地に留まっていた個体が流れ込んできたとしても不思議はない」
報告書を机に置く。
「……あるいは、例の石が絡んだ何かが、新たな脅威として忍び寄ってきているのか。断定はできんがな」
「なるほど……」
ヴォルフガングが顎髭をしごきながら唸る。
『それで……どうするんだ、レオン?』
「目撃は一度きり、しかも人里からは離れている。差し迫った脅威とまでは言えん」
レオンハルトは地図の、北の森の奥を指で叩いた。
「だが、先の一件がある以上、様子見で済ませる気はない。……小隊を編成し、威力偵察に出す」
「威力偵察、ですか」
「個体の正体、規模、そして……先の魔物どもと同じく、何かに操られている痕跡がないか。それを確かめたい」
レオンハルトの声に、わずかな緊張が滲む。
誰を向かわせるべきか、レオンハルトは考えを巡らせた。
戦闘になれば対処できるだけの腕があり、先の戦いで黒い石についても知っている。何より、功を焦らずに任務を確実に果たせる慎重さを備えた者――。
「……ロイに任せる。深入りは厳禁と伝えろ。あくまで確認までだ」
「承知しました。……して、規模は」
「五名で十分だ。あまり人数を動かせば、それだけ目立つ。今は確認だけに留める」
ヴォルフガングは「御意」と頷くと、すぐさま部下へ指示を飛ばした。
ロイが姿を見せたのは、それから間もなくのことだった。
「レオン様、お呼びで」
「ああ。北の森へ偵察に出てもらう。新たに目撃された魔物の正体と、周辺の状況を確認しろ」
「了解です」
「ブラッドベアが相手だ。お前には相性が悪いが――先日の襲撃で、あの魔物どもと直接やり合った経験がある。何か共通するものを感じたら、見逃すな」
「……なるほど。そういう役目ですか」
ロイは報告書に目を通し、苦笑した。
「火の効かない相手は、どうにもやりにくいんですがね」
「倒す必要はない。確認するだけでいい」
「そこは心得てます。見て、確かめて、戻る。それだけですね」
「ああ」
ロイは軽く頷くと、すぐに表情を引き締めた。
小隊が詰所を出て、北の森へと向かっていくのを、レオンハルトは黙って見送った。
*
北の森の西に位置する高台に、一つの人影があった。
いつからそこに立っていたのか、誰にも分からない。深く被ったフードの下、その素性を窺わせるものは何もない。ただ、身じろぎ一つせず佇む姿は、景色そのものに溶け込むような静けさをまとっていた。
ラグナエルは、眼下に広がるアルヴェイン男爵領を、ただ静かに眺めていた。
(ふむ……守りの形が、変わっているな)
視線が、ゆっくりと地上をなぞる。北の森に築かれた砦、そこから伸びる巡回路。そして、南西の境界に沿って、新たに敷き直された見張りの列。
前にこの目で見た配置とは違う。特に南西の部隊は装備の質も良い。応援を呼び、警戒態勢を敷いたのだろう。
(先日と同じ手は使えぬな)
闇雲に魔物の群れを突っ込ませたところで、真価は測れない。ただでさえ、この周辺の魔物は、先の襲撃で大半を消費している。人間側の戦力も増強されている以上、生半可な手ではこの地の底が見えない。
(知性のある生物にも効く、か。さて、どう使う)
彼は懐から、あの新しい紋石を取り出した。以前のものより小ぶりだが、刻まれた紋様は格段に緻密になっている。陽光を吸い込むように、石は鈍く沈んだ光を放っていた。
(いや、何も魔物である必要はないな。竜種でも潜んでいれば話は早いが、この辺りに、そう都合よく――)
思案を巡らせていた、その時だった。
ラグナエルは視界の端、南西の方角に、小さな乱れを捉えた。
丘陵地帯の外れ、ヤーガー子爵領との境界近く。
土煙が幾筋も立ち、怒号にも似た声、獣の咆哮――遠くはあるが、間違いなく戦闘の気配だ。
(……あれは)
目を細め、その光景をつぶさに観察する。
剣を手にした人間の一団と、それを追う数体の獣影。全身を漆黒の毛に覆われ、瞳だけが爛々と赤く光る、大柄な狼の群れ――魔狼・デモンウルフだ。本来、あの獣は縄張りに執着し、群れの外へ出ることは稀だというのに。
人間たちは、統率の取れた動きで応戦しながらも、着実に後退を続けている。その方角は――北東。アルヴェイン男爵領の方角だった。
(……逃げているにしては、些か手際が良すぎるな)
統率を欠いた敗走ではない。むしろ、意図的に誘い込んでいるかのような、あまりにも滑らかな後退だった。
(人間同士の、くだらん諍いか)
誰の仕業かなど興味もない。人間同士が互いを陥れる浅ましさなど、今更驚くようなことでもなかった。
だが――。
ラグナエルの視線が、魔物に追われる人間たちと、丘陵に配置された部隊との間を往復する。
魔狼たちは互いに連携しながら、人間たちを逃がすまいと包囲を狭めていた。獲物の進路に回り込み、挟撃を仕掛けつつ距離を詰めていく。
このまま進めば、男爵領の南西に配置された部隊と衝突するだろう。
(……知性のある生物、か)
先ほど自分に問うた言葉が、脳裏をよぎる。ラグナエルはしばし魔狼たちの動きを眺めていた。
(なるほど、そういうことか)
その口元に、笑みが浮かんだ。手の中の紋石に、微かな魔力を通す。石が赤黒く鈍い光を灯した。
次の瞬間、高台の上に立っていたはずの人影は、かき消えていた。




