第12話 子爵の訪問
翌日、領主館の応接室には、静かな緊張が漂っていた。
卓上には、厳重に封印された鉄箱と数枚の書類が並んでいる。魔物襲撃による状況報告、侵入者が残した痕跡に関する報告書、そして回収された証拠品についてまとめたものだ。
「――以上が、現時点で確認できている内容です」
レオンハルトが書類を差し出すと、向かいに座るエドガーは受け取り、内容を丁寧に確認していく。だが、ページをめくっていた手が、ある一枚の上でふと止まった。
デモンボアの肉体が限界を超えて強化され、崩壊寸前になってなお動き続けた。その記述を、指先でなぞるように読み返している。
「……この『死力』という表現ですが」
文面から目を離さぬまま、独り言に近い声で切り出した。
「精神を意図的に死の淵まで追い詰めることで、本来なら引き出せぬはずの力を強引に絞り出す。呪術の分野には、そうした術理も存在します」
「……その程度の知識なら、私も聞いたことがあります。ですが、その呪術はむしろ暗示に近い。肉体そのものが変異するほどのものは、聞いたことがありません」
「ええ、それは――」
――コンコン。
二人が話を進めていたその時、控えめなノックが響く。
「失礼いたします、レオンハルト様。……ヤーガー子爵がお見えです」
入室したセバスは、わずかに主人の様子を確認してから報告した。その名を聞き、エドガーは静かに立ち上がる。
「では、私は席を外します」
「ええ……お願いします」
レオンハルトも椅子から立ち上がり、上着の裾を軽く伸ばした。
「ただ、完全に離れる必要はありません。別室で待機していただけますか。あの石に関わる話が出た場合、術師としての意見を求めることになるかもしれません」
「……承知しました」
呼び止められたエドガーは顎に手をやり、少しばかり思案する。
「調査対象に関わる内容であれば、私も確認しておく必要があります。お呼びいただければ、すぐに参りましよう」
そう告げると、エドガーは一礼して退室した。
しばらくして、廊下から強い香水の匂いが漂ってくる。
「……通せ」
レオンハルトは表情を消し、セバスに命じた。
*
「いやはや、アルヴェイン男爵! この度は災難でしたなぁ!」
大袈裟に両手を広げながら入ってきたのは、小太りの中年男だった。
バルグウォン・ルフト・ヤーガー子爵。
金糸をあしらった派手な上着に、いくつもの宝石を嵌めた指輪。その手には、巨大な精霊石を埋め込んだ杖が握られている。身なりも持ち物も、本人の財力を誇示するためのものばかりだった。
ヤーガー子爵は室内を一通り見回す。
卓上の調度品から壁際へ、そして室内全体へとゆっくり移っていく。いずれも必要最低限に整えられた内装に質素な調度品があるのみだ。
やがて子爵は、つまらなそうに鼻を鳴らした。挨拶もそこそこにソファへどっかと腰を下ろす。
「我が領でも、今回の件を案じる声が上がっておりますぞ。隣領でこれほどの被害が出たとなれば、決して他人事ではありませんからな」
『……こいつ、絶対に心配なんてしてないだろ』
ユウの呆れた声を聞き流しながら、レオンハルトは丁寧に頭を下げた。
「ご心配をおかけしました、子爵閣下。幸い、領民への被害は最小限に抑えることができております」
『……あれ? なんだよレオン、随分としおらしいじゃん。てっきり「お気遣いなく」くらい言うかと思ったのに』
いつもの毒舌を期待していたユウが、拍子抜けしたように呟く。
「して、騎士団の損耗は……? あれほどの規模となれば、無事では済まなかったでしょう」
「ええ。残念ながら死傷者は出ました。現在は戦力の再編中です。当面は、本家から派遣された精鋭部隊に頼らざるを得ません」
本家から派遣という言葉を聞いた途端、ヤーガー子爵の目に値踏みするような色が浮かんだ。レオンハルトの頭から足元まで視線を走らせると、口元がわずかに吊り上がる。
「ところで、子爵閣下」
レオンハルトは卓上に用意された紅茶を一口含み、何気ない調子で話題を変えた。
「先日、閣下より頂戴した精霊石ですが――」
「おお、あれですか!」
待っていたと言わんばかりに、ヤーガー子爵は身を乗り出した。
「辺境の守りに、少しでも役立てていただければと思いましてな! あれは我が領で採れた中でも、選りすぐりの逸品ですぞ!」
「ええ。本当に助かりました」
カチャ、と紅茶を卓に戻した後、レオンハルトは穏やかな笑みを浮かべた。
「あの精霊石がなければ、今回の襲撃で得られなかった情報も多かったでしょう」
「……ほう?」
意外な言葉に、ヤーガー子爵は一瞬目を丸くする。
「あの精霊石は、襲撃者を特定するための重要な手掛かりとなりました」
「は……?」
「閣下からいただいた石には、特殊な魔力反応が残されていました。その反応を調べたことで、敵が使用した力の一端を把握することができたのです」
「お、おお……そうでしたか!」
ヤーガー子爵は一瞬だけ表情を崩したが、慌てて笑みを作った。
取り繕うように紅茶へ手を伸ばすと、それを口元へ運ぶ。
「いや、それは何よりですな。我が領の精霊石が役立ったのであれば、贈った甲斐があったというものです」
「ええ。私もそう思っております」
レオンハルトは笑みを浮かべたまま、静かに頷いた。
「そのため、現在あの精霊石は重要な証拠品として保管しております」
「証拠品……?」
ヤーガー子爵の笑顔が固まった。紅茶を持つ指先にも、ぐっと力が入る。
「はい、王都の研究機関にも確認を依頼する予定です。今回の案件に関わる重要な手掛かりですから」
「……お、王都、ですか」
ヤーガー子爵の声が明らかに上ずった。レオンハルトは、その反応を見ながら続ける。
「ええ。現物を確認されたヴァルシュタイン伯も、この件を軽視すべきではないと判断されました」
「伯爵閣下が……?」
「はい。通常とは異なる魔力反応を示した精霊石、その原因を明らかにする必要がある、と」
「……」
ヤーガー子爵の喉が、ごくりと鳴った。
自分が送りつけた石は、決して価値ある品などではない。鉱山で採掘される精霊石の中でも、品質基準を満たさず除外されたもの。本来なら商品として扱われることもなく、処分されるはずだったものだ。
それを「支援」という形で押し付けただけだった。だが、それが今回、異常な魔力反応を示したという。
王都で詳しく調べられれば、あの石が明らかな粗悪品、廃棄物相当のものであることが露見する。
「国の専門機関で、記録された魔力反応と石そのものの性質を調べることになります」
子爵から視線を逸らさず、レオンハルトは淡々と言葉を継いだ。
「なぜ、あの石だけが敵の痕跡を捉えられたのか。その理由が分かれば、今後の対策にも繋がります」
「…………」
ヤーガー子爵は言葉を失った。
恐れているのは、石の価値が疑われることではない。なぜ、そのような石を寄越したのか。その理由を問われることだった。
沈黙するヤーガー子爵を案じるように、レオンハルトはわずかに首を傾げた。
「おや……子爵閣下。顔色が優れないようですが、いかがされましたか?」
「い、いやいや。まさか話がそこまで大きくなっているとは思わず、少々驚きましてな」
「伯爵閣下に加え、王都まで動かれるとは……いやはや、想像もしておりませんでした」
苦笑しながら肩をすくめる。その仕草だけ見れば、ただ単に事態の重大さに驚いているようにしか見えない。
「ええ。私も、ここまで大事になるとは思っておりませんでした」
レオンハルトは再び紅茶へ口をつけた。カップを戻すと、口元に穏やかな笑みを浮かべる。
「……ご安心を。私は、閣下の味方です。閣下が善意から支援を申し出てくださったことを証言いたしましょう」
その言葉を聞いた途端、ヤーガー子爵の肩から力が抜けた。張り詰めていた表情も和らぎ、口元に安堵の笑みが浮かぶ。
「そ、そうですとも! 当然です! むしろ、今回の被害に心を痛めておりましてな! さらなる支援も検討しようと考えていたところですぞ! ハハ、ハハハ!」
ヤーガー子爵は大きく頷いた。先ほどまでの動揺を隠すかのように、声だけは勢いを増していく。
「それは心強い。……なにぶん、我が領の復興には、まだ多くの資材が必要でして」
わずかに肩を落とすレオンハルトを見やって、ヤーガー子爵は得意げに胸を叩いた。
「任せてくだされ! 我が領で採れる『最高品質の精霊石』をお送りしましょう! 隣領の苦境を見過ごす私ではありませんからな!」
ヤーガー子爵は機嫌よく笑い、残っていた紅茶を一気に飲み干した。
(フン……口約束ならば問題あるまい。下級のものを少しばかり送っておけば十分だ。どうせ、細かい品質まではこいつらには分からん)
胸の内では別の計算を巡らせながら、表面上は善意ある隣人を演じる。
レオンハルトは、その様子を静かに見つめ、ゆっくりと頷いた。
「ありがとうございます、子爵閣下。そのお言葉、千金の重みがございます。……セバス」
「はっ」
「別室のエドガー殿を呼んでくれ。我々だけで聞き置くには惜しいご厚意だ」
「え、エドガー? ……どなたですかな」
ヤーガー子爵が怪訝そうに眉をひそめる。
セバスは一礼すると部屋を出ていく。ほどなくして、一人の男を伴って戻ってきた。
「失礼いたします」
静かな足取りで入室したエドガーは、二人へ一礼する。
「伯爵家所属の術師、エドガー・ハインツです。本件の調査ならびに記録を担当しております」
「……伯爵家の、術師」
ヤーガー子爵の笑みがわずかに硬くなる。レオンハルトは静かな口調で告げた。
「ヤーガー子爵より、ご厚志として特級精霊石をご支援くださるそうです」
エドガーは胸元へ手を添え、ヤーガー子爵へ静かに頭を下げた。
「それはありがたいお申し出です。特級であれば、今回の調査にも大いに役立つでしょう」
「…………」
ヤーガー子爵の口元が引きつる。視線を泳がせつつ、苦し紛れに言葉を選んだ。
「いや、その……もちろん特級をご用意したいのは山々ですが、鉱山の状況というものもありましてな……」
「ええ、精霊石の価値が高騰する中、それでも質の良い精霊石をご支援いただいております。これまでの閣下のご厚意を疑う理由など、私にはありません」
「そ、それは……」
「だからこそ、私も責任を持って上にそう証言できるよう、エドガー殿には正確に記録していただくつもりです」
レオンハルトは残っていた紅茶を一気に飲み干した。空になったカップを静かに卓へ戻し、穏やかな笑みを浮かべる。
「閣下のご厚意が、後になって誤解されるようなことがあってはなりませんから」
(若造め……最初から、このつもりだったか……!)
口約束だけなら何とでもなった。
だが、伯爵家へ提出される正式な記録に残れば話は別だ。次に送る品が特級精霊石に値しなければ、自らの言葉と食い違う。それは伯爵家への虚偽と受け取られても弁解できない。
「加護なし」と見下していた若造に、まんまと一杯食わされたのだ。
(……ただで済むと思うなよ、小僧。この借りは必ず返す。加護なしの分際で、いつまでも貴族づらできると思うな!)
ヤーガー子爵は笑みを崩さぬまま、膝の上で拳を強く握り締めた。今は怒りを押し殺し、形式だけの挨拶を済ませて応接室を後にするしかなかった。
*
ヤーガーが去った後、応接室には再び静寂が戻った。
「見事な手際……と言いたいところですが」
エドガーは記録を終えた手帳をパタリと閉じる。
「今回は事実を記録しましたが、勘違いなさらぬよう。私はあくまで役目を全うしただけであり、貴殿の味方をしたわけではありません」
「ええ、分かっております。貴方は公正な方ですから」
レオンハルトはそう答えると、卓上の書類を一枚ずつ整え始める。
その落ち着き払った様子に、エドガーはその目を僅かに細めた。
「男爵様。老婆心ながら一つ忠告を」
エドガーは眼鏡の位置を指先で直し、レオンハルトを静かに見据える。
「貴殿は、常に最善と思われる手を選ぶ。状況を分析し、その中で最も有効な手段を迷いなく選択する」
そこで一度言葉を切り、視線を少しだけ下げた。
「ですが……最善の手を積み重ねることが、必ずしも最善の結果に繋がるとは限りません」
「……どういう意味ですか」
「相手もまた、意思を持つ存在だからです」
エドガーはゆっくりと顔を上げ、その目をレオンハルトへ向ける。
「人は、追い詰められた時、必ずしも合理的な選択をするとは限りません。貴殿が正しい手を選び続けるほど、相手に残された選択肢は減り……最後には、理屈では測れない行動を取る者も現れるでしょう」
「……」
「先ほどの子爵が、そうならないとは言い切れません」
レオンハルトは一瞬だけ言葉を詰まらせ、静かに頷く。
「……肝に銘じます。ですが、私には選べる手が多くないのです」
エドガーはしばらく、眼鏡の奥からレオンハルトを静かに見つめた。
「……そうですか」
それ以上、彼は何も言わなかった。エドガーは一度だけレオンハルトへ頭を下げ、わずかな間を置いて踵を返す。
「調査結果がまとまり次第、報告します」
そう告げ、エドガーは部屋を後にした。
『レオン。エドガーさんの言う通りだと思う。……俺のいた世界でも、そういう人間はいたよ』
これまで様子を伺っていたユウの声が、静かに響く。
『失うものなんて何もないって思い込んだ人間は……本当に何をするか分からないんだ』
レオンハルトは返事をしなかった。窓の外、北の空には厚い雲が広がり、森の方角はすでに闇に沈んでいた。




