第11話 二人の術師
馬車の車輪が砂利を踏みしめる音だけが、車内の静寂を満たしていた。
窓の外には、のどかな田園風景が広がる。畑で鍬を振るう領民、荷車を引く農夫。数日前に魔物の群れが押し寄せたとは思えないほど、領内は普段どおりの営みを取り戻していた。
「……報告どおりですね」
向かいに座る青年が、静かに口を開いた。
男の名はエドガー・ハインツ。伯爵家に仕える術師の一人であり、今回の調査を任された人物だ。
青みがかった短髪は整然と撫でつけられ、装飾のない外套。細身の眼鏡を掛け、その奥の瞳は周囲を静かに観察している。華やかな魔術師というより、役人を思わせる雰囲気だった。
「大規模な魔物災害の直後とは思えません。領民にも混乱は見受けられないようです」
感情を交えない、事実だけを積み重ねるような口調だった。
「居住地への侵入は許しませんでした。迎撃はすべて北の森の防衛線で行っています」
「なるほど」
レオンハルトの言葉に、エドガーは短く頷く。その声音からは賞賛も疑念も感じられない。
「到着後は、まず現場を確認させていただきます。魔力の残滓や精霊の痕跡を中心に調査する予定です」
「ええ。そのために来ていただいたのですから」
隠すべきものは何もない。むしろ、第三者の目で徹底的に調べてもらいたかった。
自分たちが見落としたものがあるなら、それを見つけ出せる可能性が最も高いのが、伯爵家の術師たちなのだから。
「では、到着次第ご案内し――」
「あのっ! まだ着かないんですか!? もう森の入り口ですよね!?」
レオンハルトの言葉を遮り、隣に座っていた女性が身を乗り出した。
『うおっ!? 急にどうしたんだ、この人』
ユウの驚いた声を聞き流し、レオンハルトは隣へ目を向ける。
リゼット・クロムウェル。茶色の髪をセミロングに整え、丸眼鏡を掛けた若い術師だ。伯爵家の術師服に身を包んでいるが、腰のポーチや上着のポケットは筆記具や測定器具で膨らみ、とても整った身なりとは言い難い。
「早く現場を見せてください! あの破片は時間が経つほど魔力の状態が変わってしまうんです!」
リゼットは馬車の窓に張り付き、森の方角を凝視している。
「こうしている間にも、現場の『鮮度』が失われていく……。一分でも早く測定しないと……!」
「リゼット殿」
エドガーが静かな声で制した。
「焦る気持ちは理解します。しかし、きちんと段取りを踏まなければ、正確な結果は得られません」
「でもっ……!」
「順を追って進めましょう。男爵様にも都合があるのですから」
終始、落ち着いた口調を崩さないエドガー。なお不満げに頬を膨らませていたリゼットだったが、やがて「……分かりました」と小さく息を吐き、渋々ながら席へ腰を下ろした。
『すごいな……。研究のことになると周りが見えなくなるタイプか』
ユウが呆れ半分、感心半分といった声を漏らす。
レオンハルトは二人を静かに見比べた。片や未知の現象を前に逸る研究者。片や感情に流されず、手順を重んじる術師。
性格は対照的だが、どちらも伯爵家が送り込んできた人材である以上、相応の実力は備えているのだろう。
やがて馬車は速度を緩め、領主館の門をくぐった。
*
馬車が止まると同時に、随行していた三十名の騎士たちが一斉に馬から降り立ち、整然と隊列を組んだ。
ヴァルシュタイン伯爵家から派遣された精鋭部隊。対魔法装備で身を固めたその姿は、辺境の男爵領ではひときわ目立っている。
出迎えたのは、ヴォルフガングだった。
「お戻りになられましたか、閣下」
恭しく一礼する老騎士。
だが、その姿を認めた本家の騎士たちが、小さくざわめいた。
「……まさか」
隊を率いる小隊長、カイルが目を見開く。
「ヴォルフガング副団長……!?」
思わず声を上げると、反射的に背筋を伸ばし、深く敬礼した。
「ご無沙汰しております!」
その様子を見た周囲の騎士たちも顔色を変え、次々と姿勢を正す。
「本当にヴォルフガング様だ……」
「なぜ、このような僻地に……」
小さなざわめきが隊列の中に広がった。
ヴォルフガングは、かつてヴァルシュタイン伯爵家騎士団で副団長を務めた人物だ。
厳しい訓練で知られ、多くの騎士を鍛え上げた。その名を知らぬ者は、伯爵家の騎士団にはほとんどいない。
そんな人物が、今は辺境の男爵家に仕えている。若い騎士たちが驚くのも無理はなかった。
「……ふん。カイルか。お前が小隊を任されるようになったとはな」
ヴォルフガングは口元をわずかに緩めた。
「し、しかし! 貴方は故郷へ戻られ、静かに余生を過ごされているものと聞いておりましたが……」
「若造が。隠居先をどこにしようが、ワシの勝手であろう」
「はっ! 失礼いたしました」
ヴォルフガングが短く一喝すると、カイルはそれ以上を尋ねず、姿勢を正した。
そのやり取りを少し離れた場所から見ていたエドガーは、黙って騎士たちの様子を観察していた。
先ほどまで、辺境の男爵領に派遣されたことへの戸惑いと、わずかな優越感を滲ませていた騎士たち。それが、ヴォルフガングの姿を認めた途端に消えている。
(……退役の経緯といい、この状況といい。なるほど、閣下の意図か)
引退したはずのヴォルフガングが、なぜこの地にいるのか。
もちろん、本人の意思でこの地を選んだ可能性もある。だが、伯爵家を離れたとはいえ、かつて騎士団の副団長を務めた男だ。その動向をゲルハルトが把握していないとは考えにくい。
エドガーはそこで思考を切り上げた。
己の役目は、北の森に残された魔力の痕跡を調べ、あの異質な石の正体へ近づくことだ。余計な詮索をする必要はない。
『……ヴォルフの爺さんって、俺が思ってた以上に凄い人だったんだな。本家のエリートたちが、完全に教官相手の新兵みたいになってるぞ』
脳裏にユウの呆れ混じりの声が響く。レオンハルトは、わずかに口角を上げ、小声で応じた。
「……フン。老いぼれと侮っていたのは、貴様だけだ」
「……男爵様。何か仰いましたか?」
隣にいたエドガーが、不思議そうに視線を向ける。
「いえ。頼もしい人材が来てくれたことを、改めて思っただけです」
「左様ですか」
エドガーはそれ以上追及せず、小さく頷いた。レオンハルトはヴォルフガングへ視線を向ける。
「ヴォルフ、挨拶は後だ。すぐに現場へ向かう」
「承知」
老騎士は即座に頷き、騎士たちへ指示を飛ばす。
準備を終えると、ヴォルフガングはエドガーたちへ向き直った。
「エドガー殿、リゼット殿。ご案内しましょうぞ」
「よろしくお願いいたします」
一行はそのまま北の森、先の防衛戦が行われた砦へ向かった。
*
北の森手前の砦は、すでに修復作業の大半を終えていた。木材を運ぶ音と木槌の音が響く中、練兵場からは鋭い怒号が飛ぶ。
「足が止まってんぞ! 魔物がお前らの息切れを待ってくれるとでも思ってんのか!」
新兵たちを叱咤しているのは、副団長ロイだった。自らも木剣を振るい、動きを示しながら隊を鍛えている。
その様子を眺めていたエドガーが静かに口を開いた。
「……活気がありますね。戦いの直後とは思えません」
「副団長がよくまとめてくれています」
エドガーは一つ頷き、その様子を手帳へ簡潔に書き留める。
一行は砦での挨拶もそこそこに、さらに北の森の奥へと進んだ。
高い岩壁に囲まれた谷は昼でもなお薄暗く、焦げた木々と乾いた血の匂いが、なお辺りに残っている。
谷の中央には、倒木や瓦礫などの障壁の残骸が、そのまま残されていた。
「……ここが戦場ですか」
馬車を降りたエドガーは周囲を見回した。
「左右の崖を利用した火攻め。そして、この障害物で敵の足を止めたのですね」
「ええ。あの場で取り得る最善でした」
エドガーはゆっくり歩き始めた。やがて一か所で足を止め、しゃがみ込んで泥へ手を伸ばす。
「……妙ですね」
指先で泥を確かめながら、静かに呟く。
「湿地なら、もっと水の精霊の気配が濃いはずです。しかし、この辺りは異様に薄い」
泥そのものに異常は見えない。
火計によって水分が失われた影響も考えられるが、それだけなら時間とともに精霊の気配も戻っているはずだった。
エドガーは指先に残った泥を見つめ、ゆっくりと払い落とした。
「まるで、この一帯だけ精霊が近寄るのを避けているようです」
その言葉に、ヴォルフガングがゆっくりと頷いた。
「同感ですな、エドガー殿。閣下が本邸へ向かわれた後、ワシも妙だと思っておりました」
ヴォルフガングは岩肌へ手を添えた。
しばらく黙って指先を動かすが、返ってくるはずの精霊の気配はほとんど感じられない。触れた指先から、小さな砂粒がぽろぽろと崩れ落ちた。
「ワシも地の系統の加護を受けていますが……ここでは声がひどく遠い。まるで、この辺りだけ精霊が離れてしまったかのようです」
水と地。異なる属性の加護を持つ二人が、揃って同じ違和感を口にした。レオンハルトは、そのやり取りを聞きながら静かに歩を進める。
二人の意識が調査へ向いている隙に、かつて黒い石の欠片を埋めた場所まで近づいた。しゃがみ込み、周囲を窺うように視線を落とす。
「……おい。貴様には、何か見えるか」
唇だけをわずかに動かす。風に紛れるほど小さな声だった。
『……いや、何も見えない。でも……嫌な感じだけはする。何もないはずなのに、近づきたくないって思うんだ』
ユウの力は、必要な時だけ断片的に現れる。今も何かを感じ取っているのは確かだが、それ以上は分からないらしい。
(……まだ当てにはできないか)
小さく鼻を鳴らして、そう結論づけた、その時だった。
「ありましたぁぁ!! ここです! ここですよ!」
『うわっ!? び、びっくりした! またこの人か!』
脳裏でユウが情けない悲鳴を上げる。
リゼットは一目散に駆け寄ると、地面に残された大きな窪みへ身を屈めた。
土は周囲へ弾き飛ばされ、窪みの底には泥と小石が散らばっている。彼女はその中へと飛び込み、夢中で観察を始めた。
「ここです! この辺りだけ地の精霊がまったく寄りついていません! こんな土、初めて見るわ……! これなら本家へ持ち帰った試料より、ずっと多くのことが分かります!」
地べたに手をついて、鼻先がつくほどに地面へ顔を近づける。
『……いや、この人、本当に大丈夫か?』
その光景に、ユウもドン引きしたように声が引きつっていた。
「普通の魔力切れじゃありません。地脈の流れが、ここだけおかしくなっているみたい……!」
リゼットは立ち上がると、その勢いのままレオンハルトへ迫る。
「男爵! もっと近くで、一緒に見ましょう! この違和感、感じませんか!」
「……いや、ここで十分だ」
泥だらけの顔が鼻先まで迫り、レオンハルトは思わず半歩身を引く。
魔物の大群を前にしても表情を変えない男が、この術師だけは少し苦手らしかった。
「……っ。おかしいわ」
窪みに戻った途端、リゼットはその場にしゃがみ込んだ。
ずれた眼鏡を上に直し、先ほどまでの興奮が鳴りを潜める。
「単純に精霊の力が失われただけなら、周囲の精霊が補おうとするはずです。でも……これは違う」
彼女は慎重に土を摘み上げ、陽光へ透かす。
遠目には、ただ湿った土にしか見えない。
しかし、目を凝らせば、土の中にわずかな異変があった。内部の一部が不自然にくすみ、どす黒く変色している。
「エドガーさん。こちらを」
呼ばれたエドガーも、隣にしゃがみ込んで土を確認する。
「……何が分かりますか」
「この土に宿っていた地の精霊が、強い影響を受けています」
リゼットは土塊を見つめたまま続けた。
「地の精霊は本来、土や岩に宿って土壌を整え、生命を育む力として存在するはずです。ですが、ここに残っている気配は、それとは少し違う」
リゼットは顔を上げると、エドガーを見据えた。
眼鏡の奥の瞳が、静かな光を帯びている。
「まるで、土の成分を歪ませているような……精霊によってもたらされる事象が変わろうとしているのかもしれません」
エドガーは眉を寄せ、静かに土を見つめた。
「精霊石だけでなく、精霊そのものも変化しようとしている、とでも?」
「断定はできません。もっと……よく調べてみないと」
リゼットは土を容器へ収め、蓋をしっかりと閉じた。
「精霊の変質、ですか。まさか、そのようなことが……」
「……はっ!?」
エドガーの呟きをよそに、リゼットは弾かれたように顔を上げた。
「地の精霊たちが囁いていますっ。こっちからも……もっと、調べてみなくては!」
『……レオン、精霊って喋ることもあるのか?』
ユウは素朴な疑問を抱いた。
精霊らしきものは見えても、声までは聞いたことがない。とはいえ、精霊についてユウが知っていることは、まだ多くなかった。
その横で、リゼットは恍惚とした表情のまま泥へ顔を寄せている。エドガーは額に手を当て、やれやれと首を振った。
「……精霊が言葉を発するわけないでしょう。リゼット殿、間もなく日が沈みます。サンプルを採取したら、いったん撤収しますよ」
「いいえッ! 私、今日からここに泊まり込みますっ。夜になると別の変化があるかもしれませんし!」
エドガーが何か言おうとするより先に、レオンハルトが口を開いた。
「許可できない」
「えっ?」
リゼットが振り返る。
「ここは先日の戦場だ。まだ何が潜んでいるかも不明な場所に、護衛も十分でない人数で留まることは認められない」
「で、ですが……!」
「調査を急ぐ必要があることは理解している。だが、調査する者を失えば意味がない」
レオンハルトの声には、普段以上の有無を言わせぬ響きがあった。
「本日の採取結果を整理し、改めて安全を確保した上で調査を続ける。それが今、貴女が果たすべき役目だ」
「……うぅ」
リゼットはしゅんとなって俯くが、さすがに反論はできなかった。エドガーは小さく息を吐き、静かに頷く。
「賢明な判断です。現状では、未知の影響が残っている可能性を否定できません」
西の空が赤く染まり、谷底の影が伸びていく。
一行は必要な試料を回収すると、北の森を後にし、領主館へ戻った。
*
辺りが完全に闇に包まれる頃、馬車が館の玄関前へ到着した。
扉が開くと、セバスがすぐに歩み寄る。
「お帰りなさいませ、レオンハルト様。伯爵家の術師の皆様も、長旅と調査、お疲れ様でございました」
深々と頭を下げた後、セバスは主人の側へ近づき、声を落とした。
「……お戻りを待っていたかのように、隣領のヤーガー子爵家より使者が参っております」
「子爵からか」
レオンハルトは外套を脱ぎ、セバスへ渡しながら尋ねる。
「用件は?」
「はっ。先日の魔獣被害を案じ、後日、子爵様ご本人が『見舞い』にお越しになるとのことです」
「ふむ。ヤーガー子爵直々となると……何かと気を遣うことになりそうですな」
側にいたヴォルフガングが、わずかに眉を動かした。
『……噂のヤーガー子爵って人が来るのか。大丈夫なのか?』
これまで何度も良くない噂を耳にしてきた名前だけに、ユウもその訪問を素直には受け止められない。
書状を受け取ったレオンハルトは、文面に目を落としたまま、しばらく黙っていた。
「……分かった。丁重にお迎えしろ。粗相のないようにな」
レオンハルトは書状をセバスへ返すと、廊下の先の私室へと消えていった。




