第10話 近くて遠い距離
豪奢な本邸から離れた庭の最果て。
かつて使用人宿舎だった古びた離れで、レオンハルトは机に向かいペンを走らせていた。
「……まだか」
ペン先をインク壺に浸しながら、彼は小さく吐き捨てた。伯爵領に着いてから、すでに三日が過ぎている。
その間、本家からの呼び出しはなく、レオンハルトはこの鳥籠のような建物に軟禁状態となっていた。机の上には、領地に残したヴォルフガングから届いた早馬の報告書が広げられている。
――現場付近の封鎖と捜索を継続中。
――騎士団の再編も進んでいる。
――例の結果を受け、火属性対策の装備を製作中。
――火属性を偽装した囮である可能性も踏まえ、火以外の属性対策も検討している。
老騎士らしい、要点を押さえた簡潔な文だ。
あれ以来、新たな侵入者が現れたという報告はない。
(兆候なし、か。だが、相手が潜伏を続けている可能性もある。ヴォルフの目は確かだが、それとて完璧ではない)
レオンハルトはペンを置く。
顔を上げて、北の窓の向こう、男爵領の方角を見据えた。
『なあ、レオン。そんなにカリカリすんなって。ヴォルフ爺さんもロイさんも優秀だろ? 少しは信じて任せても……』
「……黙っていろ。信じる信じないの話ではない。指揮官が不在という事実が、どれほどの隙を生むかという話だ」
脳内で気楽に話しかけてくるユウを一蹴し、レオンハルトは返信の指示書を書き上げた。封蝋を垂らし、家紋のスタンプを押そうとした、その時だった。
コン、コン。
扉が叩かれた。
使用人が食事を運んできたのか。あるいは、ようやく父からの呼び出しか。だが、そのノックの音は、遠慮がちで、どこか躊躇うような響きだった。
「……入れ。鍵はかかっていない」
レオンハルトが声をかけると、扉がゆっくりと開かれる。そこに立っていたのは、一人の少年だった。
「……お久しぶりです、兄上」
柔らかな声だった。だが、その口調にはどこか怯えが滲んでいる。
扉の前に立っていたのは、テオドール・ヴェンデル・ヴァルシュタイン。十四歳ながら、ヴァルシュタイン伯爵家の次期当主と目される少年だ。
青みがかった緑髪に、澄んだ水色の瞳。その穏やかな面差しは、レオンハルトとは似ても似つかなかった。
『……っ!?』
ユウが息を呑む。刹那、テオドールの姿が揺らいだ。
少年の輪郭を、青白い光が静かに奔る。細い稲妻にも似た光は全身を巡り、一瞬だけ眩く瞬いた。
――だが次の瞬間には、何事もなかったように消えていた。
『……今の、何だ』
幻覚とは思えなかった。
デモンボアの時と同じだ。必要な時だけ何かが見え、すぐに消える。何を見ているのか、自分でも分からない。その曖昧さが、ひどくもどかしかった。
「……テオドール、様」
レオンハルトは静かに立ち上がり、実の弟に対して上位の貴族へ向けるような一礼を取る。
「恐れながら……なぜ、このような場所へお越しに?」
淡々とした声音には、兄弟としての情は欠片もない。テオドールは唇を結び、小さく首を振った。
「兄上……その呼び方はやめてください」
非難するような声だった。だが、レオンハルトは頭を下げたまま、何も答えない。
「兄上が魔物の群れを撃退したと聞きました。僕なんかより、ずっとすごい功績です。だから、その……」
テオドールは言葉に詰まりながらも、背中に隠していたバスケットを少しだけ持ち上げて見せた。
「もしよろしければ……今夜、ご一緒に夕食をどうでしょうか」
恐る恐る差し出された籠から、温かな料理の匂いが漂う。
「兄上がお好きだったローストビーフも用意してもらいました。久しぶりに、お話しできたらって……」
「テオドール様」
レオンハルトはようやく顔を上げた。
「お気遣いに感謝いたします。しかし、ご厚意はお受けできません」
首を少しだけ左右に振る。差し出されていたバスケットが、宙で止まった。
「私は今、伯爵閣下の命でここにおります。私の一存で勝手な振る舞いはできません」
「あ……」
「どうかお戻りください。あまり長居をされれば、お母上も案じられるでしょう」
その一言で、テオドールの肩が小さく震えた。
「……ごめんなさい、兄上」
籠を抱き直し、小さく頭を下げる。
「……お邪魔しました」
テオドールは俯いたまま部屋を後にした。扉が静かに閉まり、離れには再び静寂が戻る。
『……おい、レオン。今の態度はねーだろ』
それまで黙っていたユウが、非難めいた声を上げた。
『あの子、お前のこと慕って来てくれたんじゃないのか? せっかくの誘いを、あんな言い方で追い返すなんて……』
「……何も分かっていないな、貴様は」
レオンハルトは椅子に座り直し、深いため息を吐いた。その横顔には、先ほどまでの冷たさとは違う、微かな苦渋が滲んでいた。
「あいつは次期当主だ。順当にいけば、数年後には伯爵位を継ぐ」
『だからこそ、仲良くしておけばいいじゃんか。兄弟なんだし』
「逆だ。家を追われた長男と、次期当主が親しくしていてみろ。周囲が放っておくはずがない」
レオンハルトは窓の外、本邸の尖塔を見上げながら呟く。
家督を狙う野心。あるいは、次期当主を裏から操ろうとする企み。疎まれた長男が弟に近づくだけで、周囲の連中はありもしない噂を勝手に作り上げるだろう。
「あいつには、あいつの役目がある。家を継ぎ、領地を治め、いずれはヴァルシュタイン家を背負う。そこに、私のような人間が余計な火種を持ち込むわけにはいかない」
『……レオン』
「私はもう、その『役目』を担うことはできない」
ほんの一瞬だけ、レオンハルトの指が止まった。
『そんな……そんなのって』
「貴族社会とはそういうものだ。……それに、あいつは優しすぎる。それでは、ヴァルシュタインの当主は務まらん」
だからこそ、嫌われる必要があった。
徹底的に突き放し、関わりを絶つことこそが、兄としてしてやれる唯一の「守護」なのだと、レオンハルトは自分に言い聞かせるようにペンを握り直した。
*
時を同じくして。
ヴァルシュタイン本邸の地下深く。分厚い石壁と幾重もの結界に閉ざされた、一般の立ち入りが禁じられた魔術研究室。その中央にある台に『黒い石』が鎮座していた。
張り詰めた空気の中、数名の術師たちが、一様に顔を険しくしている。
その中心で、伯爵・ゲルハルトは腕を組んで台を睨み据えていた。
「……どうだ」
当主の問いに、年配の筆頭術師が震える声で答えた。
「は……。信じられませぬ。この石の性質は、我らの知る魔術体系から完全に外れております」
老齢の術師は、脂汗を拭いながら首を振った。
「魔力を通しても反応せず、解析術式をかけようとすると、術式そのものが霧散してしまうのです。まるで、干渉そのものを打ち消してしまうかのように……」
報告によれば、回収当時は微弱な光を放っていたという。だが今は、それも失い、ただの黒い小石のように沈黙していた。
「ただ……より深刻なのは、もう一方。レオンハルト様より持ち込まれた、この『変質した精霊石』です。閣下、あれをご覧ください」
術師が指差したのは、台の四隅に設置された照明用の魔導ランプだった。火の精霊石を組み込み、その硝子の中で燃える炎が、異様な動きを見せている。
台上の蒼い破片から逃れるように、硝子の内側へと逸れて、弱々しく明滅していた。
「……精霊が、怯えているとでもいうのか」
ゲルハルトが眉をひそめる。
精霊は本来自我の希薄な存在だ。ただ術者の呼びかけに応え、その力を具現化するだけの存在。その精霊が、同属性の依代だったはずの石に対し、明確な拒絶と恐怖を示している。
「左様です。黒い石が魔力そのものを拒絶する『無』なら、この破片は精霊を蝕む『毒』にございます」
術師はおもむろに手を部屋の隅に向ける。そこには小さな獣が入った鉄籠が置かれていた。
「ごく普通のホーンラビットです。黒い石には何の反応も示しません。しかし、この蒼い破片を近づけた途端、あのように怯え始めました」
籠の中では、小動物が歯を鳴らしながら隅へ逃げ込み、震え続けている。
ゲルハルトは台へ歩み寄り、蒼く淀んだ破片を見下ろした。言葉に表せない、得体の知れない不快感がこみ上げる。
黒い石が得体の知れぬ『未知』なら、この破片は、その未知がもたらす『災厄』を予感させるものだった。
「我らでは、これ以上の解析は不可能かと。試しに魔導ランプに組み込んでみましたが、反応すらしませぬ」
術師は深く頭を垂れた。
変質した火の精霊石は、魔導具に組み込んでも何の反応も示さなかったのだ。
「……ならば」
ゲルハルトは術師へ視線を向け、その顔をしばし見つめた。
「『視える者』に頼るほかあるまい。精霊が何を恐れ、何を訴えているのか。それを聞き届けられる者にな」
「視える者……まさか」
術師が顔を上げた。その目が大きく見開かれる。
「王家が抱える『精霊鑑定士』だ。……大事になるが、辺境の一領主で抱えきれる問題ではない」
ゲルハルトは背を向け、黒いマントを翻した。
領主として、この異常を見過ごすことはできない。己の手に余るならば、さらに上へと助けを求める。それもまた、責を負う者の務めだった。
「レオンハルトを呼べ。……私自ら王都へ向かう」
*
インクの乾ききらない羊皮紙を置き、レオンハルトは部屋を出た。
冷たい夜気に当たり、乱れた思考を整理するためだった。離れの廊下には人の気配もなく、静寂だけが満ちている。
だが――。
「レ~オ~ン。あんた、またテオを泣かしたわね!」
背後から、聞き慣れた声が響いた。
「……っ!?」
振り向くより早く、両脇に腕が回される。次の瞬間、視界がぐるりと反転した。
「な、姉上……!?」
背中に柔らかな感触。だが、絡みついた腕の力は洒落にならない。
「ぐ……っ、少し、話を……!」
『うわっ!? ちょっと待て、これ本気で締めてないか!?』
ユウが思わず戦慄する。
レオンハルトの耳元で、甘い香りと共に、低く抑えた声が落ちた。
「……弟を泣かせるなんて、随分と立派なお兄様になったものね?」
その顔には微笑みが浮かんでいた。だが、その目は笑っていない。
「テオ、すごく落ち込んで帰ってきたのよ?」
フレデリカの声から、わずかに怒りが滲む。
「何も言わずに部屋に籠もって……泣きながら『兄上は忙しいから』なんて言うのよ。あの子がどんな顔をしていたか、あなた分かってる?」
「じ、事情が……!」
「事情?」
腕に込められた力が、わずかに強まる。足の爪先が床から離れて、力がまったく入らなかった。
「事情があれば、弟を傷つけてもいいの?」
「っ……!」
返す言葉を失うレオンハルト。
フレデリカ・ヴェンデル・ヴァルシュタイン。伯爵家の長女であり、嵐の精霊の加護を授かった才女。
ただし、その人となりは少々――いや、かなり豪快だった。
「あなたは昔からそう。全部一人で背負おうとするんだから……少しは周りを頼りなさい。弟も、家族も」
「……ま、参りました……」
レオンハルトが降参の意を示すと、フレデリカはようやく腕を解いた。
「よろしい」
解放されたレオンハルトは咳き込みながら胸元を押さえる。今度は姉らしく弟の背を軽く叩いた。
「……痛っ」
「はいはい。次はちゃんと話を聞くこと」
からかうように笑った彼女だったが、次の瞬間には表情を引き締める。
「それで……お父様がお呼びよ。あの『石』の件でね」
*
フレデリカに連れられ、レオンハルトは本邸の執務室を訪れた。姉が入室の許可を得て扉を開くと、室内には重苦しい静寂が満ちている。
重厚な机の向こうには、当主ゲルハルトが座っていた。手元の報告書から視線を上げて、入ってきたレオンハルトを一瞥する。
「解析は失敗した」
開口一番、告げられた言葉は簡潔だった。
「特に、あの蒼い破片……あれは、もはや精霊石と呼べるものではない」
机の上には、魔導師たちによる調査報告が積まれていた。
ヴァルシュタイン家が誇る術師たちをもってしても、あの石が何であるのか、既存の魔法体系では説明できなかった。ゲルハルトは小さく息を吐く。
「これ以上、我が家だけで調べても答えは出まい」
立ち並ぶ姉弟を見据えながら、ゲルハルトは続けた。
「寄り親である公爵家を通じ、王家へ報告する」
それは、今回の件をヴァルシュタイン領内の問題ではなく、国全体で対処すべき事態として扱うという判断だった。
「私も近日中に王都へ赴く。お前も来い。第一発見者として、そして現場で指揮を執った者として、証言が必要となる」
当主としての決定。本来であれば、分家の人間ごときが口を挟める余地などない。
だが、レオンハルトは一歩前へ出た。
「……お言葉ですが、閣下」
「なんだ」
「私は、領地へ戻ることを希望いたします」
ゲルハルトの眉がピクリと動く。
隣に立つフレデリカも目を見開き、思わずレオンハルトの横顔を見遣る。
だが、レオンハルトは視線を逸らさなかった。
「理由を聞こう」
「黒い石は、魔物を操るために使われていました。そして、それを仕掛けたと思わしき者も得体がしれません……敵は領内へ痕跡を残している。ならば、次の動きがある可能性は否定できません」
「……続けろ」
「私と閣下が同時に領地を離れれば、北方の守りは薄くなります」
ゲルハルトは腕を組み、レオンハルトを見据えていた。フレデリカも口を挟まず、その言葉の続きを待っている。
「魔獣が現れた場所も、敵が残した痕跡も、私はこの目で確認しました。現場を知らぬ者へ任せるより、私が戻るべきだと考えます」
レオンハルトは深く頭を下げた。
「領地へ戻る許可をいただきたく存じます」
室内に沈黙が落ちる。
柱時計の秒針の音だけが、やけに大きく響く。レオンハルトは頭を下げたまま、ただ答えを待った。
やがて――。
「……よかろう」
ゲルハルトが口を開いた。
「得体の知れぬ敵が動いている以上、現場を知る者が残るべきだという判断は理解できる」
そこで一度言葉を切ると、組んでいた腕を解いて、机上へ手を置く。
「領地へ戻ることを許可する」
レオンハルトはゆっくりと顔を上げた。張り詰めていた息を、静かに吐き出す。
「ただし、勘違いするな。これはお前一人に任せるという意味ではない」
ゲルハルトはそう告げると、机上の羊皮紙を一枚引き寄せ、迷いなくペンを走らせた。
「……はい」
「伯爵家から術師を派遣する。北の森の戦場跡は、我が家でも改めて調査させる」
ペン先が止まることなく命令書を書き上げていく。
「加えて、精鋭騎士団の一部をお前の指揮下へ置く。敵の正体が分からぬ以上、戦力を惜しむ理由はない」
「お父様、それなら私も――」
フレデリカが口を挟みかけた瞬間、ゲルハルトが横目で睨みつけた。
彼女の口がピタリと閉じられる。だが、すぐに何事もなかったように笑った。
「……いえ。何でもありませんわ。ホホホ」
そう言いながらも、視線だけがレオンハルトへ向く。その表情には、隠しきれない落胆が滲んでいた。
最後まで書き終えると、ゲルハルトは命令書に封蝋を施し、傍らの執事へ差し出した。
「至急、手配しろ」
「かしこまりました」
執事は恭しく一礼すると、命令書を抱えて部屋を後にした。
「現地で何かを見つけた場合は、速やかに報告しろ。必要とあれば、更なる支援も惜しまん」
「はっ。……過分なる御配慮、痛み入ります」
レオンハルトは深く頭を下げた。
自身の騎士団は、先の戦いで受けた損害から、なお再編の最中にある。そこへ伯爵家の術師と精鋭騎士が加われば、捜索と警戒を並行して進められる。
頭の中ではすでに、人員の配置と警戒線の引き直しが始まっていた。領地へ戻り次第、やるべきことは山ほどある。
だが、その備えすらも、容易く飲み込もうとする巨大な「影」が蠢き始めていることを、この時の彼は、まだ知らなかった。




