旅立ち
1. 父からの宣言
出航の前日、父は珍しく、
あたしとロイドを船の食堂に呼び出した。
「二人とも、座れ」
改まった様子に、何事かと身構える。
父は、コップに注いだ水を一口飲むと、
ロイドの方に向き直った。
「ロイド。単刀直入に聞く。
シノは、もう一人前だと思うか」
ロイドは、少し間を置いてから、静かに答えた。
「養鶏場の一件、嵐の一件、両方とも、
あっしの手を借りずにやり遂げてます。
技術も、判断力も、度胸も、
もう、あっしが逐一口を出す段階じゃないと思います」
「ヴォルテックス航路については、か」
「はい」
「アンティカについては、どうだ」
その問いに、ロイドは少し考え込んだ。
「まだ、実地で試したことはありません。ですが」
ロイドは、あたしの方を一瞥した。
「積み重ねてきたものを見る限り、
任せられないとは思いません」
父は、それを聞いて、満足そうに頷いた。
「よし」
そう言うと、あたしの方へ向き直り、
改まった声で切り出した。
「シノ。今度の誕生日を機に、
アンティカ航路を一つ任せる」
「……本当に?」
「ああ。ロイドの太鼓判もある。
ヴォルテックスだけじゃなく、
アンティカまで含めて、お前に委ねる頃合いだと思ってる」
胸の奥が、じんと熱くなった。ずっと待っていた言葉だった。
「それと」
父は、続けてロイドの方に目をやった。
ロイドが、静かに頷く。
「ロイドも、その日に合わせて、船団を離れる。
もう船の手付けも済ませてるそうだ」
「え、離れちゃうんですか?」
「ええ」
ロイドはいつもの几帳面な声でしかし少し柔らかく答えた。
「シノお嬢がここまで育ったんです。
あっしがいつまでも横についてる必要はありません」
「区切りをつけるには、ちょうどいい日だろ」
父が、そう言って笑った。
驚きと寂しさと、そして誇らしさが、
あたしの中でぐるぐると渦を巻いていた。
2. ヴォルテックスへの別れの挨拶
いつも通りの定期便として、ヴォルテックスへ向かった。
だが、今回はロイドにとって、最後の訪問になる。
コッホの元では、機材の点検を一通り終えたところで、
ロイドが静かに切り出した。
「今日で、最後になります。お世話になりました」
コッホは、しばらく無言で作業の手を止めていたが、
やがて、ぶっきらぼうに言った。
「世話になったな、マーシュさん」
それから、シノの方をちらりと見て、続けた。
「もう、この嬢ちゃんに任せて大丈夫なのか」
「ええ。あっしがいなくても、もう十分です」
「そうかい」
コッホは、小さく鼻を鳴らした。
「あんたも、長年の子守がやっと終わって、
せいせいしてるんじゃないのか」
「子守は、否定しませんよ」
ロイドが、珍しく軽口で返すと、
コッホは初めて、声を上げて笑った。
そんなやり取りを交わしながら、
ロイドは最後の点検作業を丁寧に終えた。
アダムスの元では、もっとあけすけだった。
「あんたがいなくなるのは寂しいけど、
まあ、船長がここまで育ったんだ。潮時だろうさ」
アダムスは、あたしの方を見て、にやりと笑った。
「あとは、あんたがちゃんとやりな」
「上等だ」
「マーシュさんも、これでようやく、
肩の荷が下りたんじゃないのかい。
ずっと嬢ちゃんの尻拭いばっかりしてたようなもんだろう」
「尻拭い、とまでは言いませんが」
ロイドが苦笑すると、アダムスはさらに笑いを深めた。
そう返しながらも、胸の奥に、
じわりと寂しさが広がっていくのをあたしは感じていた。
3. 船内での思い出話
アヴァロンへ向かう帰宅便の中、
二人はこれまでのことを、ぽつぽつと語り合っていた。
「あたしが物心つく前から、ロイドさんは、
もううちの船にいましたよね」
「ええ。シノお嬢がまだ、
操縦席の後ろの寝床でしか眠れなかった頃からです」
「覚えてないな、そんな頃のこと」
「覚えてなくて結構です。
よくハッチにぶつかって泣いてましたから」
「え、そんなことあった?」
「ありましたとも。旦那が目を離した隙に、
あちこち這い回っては、頭をぶつけて大泣きです。
あたしが何度、抱き上げに走ったか」
シノは、思わず笑ってしまった。
「そんな昔の話、初めて聞いた」
「言う機会が、なかったですから」
ロイドは、懐かしそうに目を細めた。
「船長になった日、コッホさんにもアダムスさんにも、
まるっきり相手にされませんでしたね」
「ああ、あの頃はひどかったですね。
誰も彼も、あっしの方ばっかり見て」
「養鶏場の基盤が壊れた時も、
まさか本当に直せるとは思ってませんでした」
「それを言うなら、嵐の時の無茶は、今でも心臓に悪いです」
ロイドは、苦笑しながら続けた。
「でも、あれのおかげで、
旦那も、腹を括ったんでしょうね」
「あんたの独立も、同じころなんだよな」
「ええ。区切りは、まとめてつけた方が、
格好がつくでしょう」
ロイドは、そう言って、珍しく悪戯っぽく笑った。
「本当に、行っちゃうんだな」
「ええ。船の納入日も、ちょうどその頃に決まりました」
シノ、寂しさを隠しながらも、
「上等だ。あんたの船出、あたしも祝ってやるよ」
と軽口混じりに返した。
和やかな、これまでで一番穏やかな時間だった。
4. 一報
不意に、通信士の声が船内に響いた。
「シノ船長。緊急の連絡が入っています」
「何だ」
「父上の船と、連絡が取れていないとのことです」
一瞬、空気が止まった。
だが、すぐにロイドが、努めて軽い調子で言った。
「まあ、あの人のことです。
また、勝手に航路変えて、
連絡入れ忘れてるだけでしょう」
「……だよな」
そう自分に言い聞かせながらも、
胸の奥に小さな棘のようなものが刺さったままだった。
キャビンの窓の外、いつもと変わらない星々が流れていく。
それが、かえって落ち着かなかった。
「いつも、こうなんですか。
連絡もなしに、航路変えるの」
「たまに、あるにはあります」
ロイドは、そう答えながらも、
視線は手元の端末から動かなかった。
何度も、通信の再送を試みているのが分かった。
「繋がらない、な」
「ええ」
それ以上、二人とも、多くを語らなかった。
ただ、いつもより口数の少ない時間が、
帰路の残りを埋めていった。
5. 消息不明
アヴァロンに到着した港には、新航路開設祝いも兼ねた、
ささやかな誕生日の支度がされていた。
花を活けた小さな卓、いつもより少しだけ豪華な料理。
父らしい、気取らない祝いの準備だった。
だが、父の姿は、どこにもなかった。
「まだ、来てないだけですよね」
「ああ、きっと」
そう言い合いながら、
シノとロイドは、卓の前で、ただ待ち続けた。
日が傾き、夕刻を過ぎ、夜になっても、父は戻らなかった。
用意された料理は、すっかり冷めていた。
「……ロイドさん」
「はい」
「父さん、こんなに遅れたこと、今まであった?」
ロイドは、しばらく答えなかった。
その沈黙が、何より雄弁だった。
翌朝、正式に捜索の要請が出された。
シノは、航路の譲渡もロイドの門出を祝う言葉も、
口にする余裕がないまま、
ただ港の管制室へ日参する日々が始まった。
一日目、手掛かりなし。
二日目、手掛かりなし。
三日目、範囲を広げた捜索でも、
依然として何も見つからないという報告。
「おかしい……。あの人が通るはずの航路、
隅から隅まで探してるのに」
ロイドは、捜索の報告を受けるたびに、眉を寄せた。
父が普段使っていたはずの航路。
そこを、何度洗い直しても、
船影一つ、破片一つ見つからない。
シノにもロイドにも、父がその航路のどこか別の場所――
誰も知らない裏の道に逸れていたことなど、
知る由もなかった。
一週間が過ぎ、二週間が過ぎた。
捜索の規模は、日を追うごとに縮小されていった。
管制室の担当官の口ぶりも、
次第に事務的なものに変わっていった。
そして、ついに届いたのは、「事故」という、
たった一つの結論だけだった。
事故の詳細も、機体の残骸の位置も、
何一つ明らかにならないままの、あまりにも軽い、
そして重い言葉だった。
「事故、って」
シノは、その報告書を、何度も読み返した。
読み返したところで、何一つ、腑に落ちるものはなかった。
誕生日に渡されるはずだった、アンティカ航路の正式な免状。
ロイドの独立という、同じ日に重なるはずだった二つの区切り。
それは、結局、父の口からは語られないまま、宙に浮いたまま終わった。
祝うべきだった一区切りは、ただの空白として、その場に残された。




