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アンダーグラウンドの聖域  作者: 水前寺鯉太郎


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第12話:水没する聖域、記憶の瓦解

第12話:水没する聖域、記憶の瓦解


「逃げ回るんじゃねえ、この小僧!」

山岡の咆哮が、漆黒の闇に包まれた高田邸のリビングに轟いた。かつての慇懃無礼な専属ドライバーの面影はどこにもない。佐藤健一は、脳内の「3Dモデル」を必死に更新しながら、食卓の裏から廊下へと身を躍らせた。その刹那、背後で大理石の床を叩き割る重苦しい金属音が響く。山岡が振り回すバールは、もはや単なる道具ではなく、不当な解雇への恨みと、佐藤家への憎悪を燃料にした「破壊の槌」と化していた。

健一は、姉・美咲が改造した「壁の隙間」へと逃げ込もうとした。しかし、視覚を奪われた暗闇の中で距離感を見誤った山岡の一撃が、健一の頭上、ちょうど壁の裏側を通る主配管へと直撃した。

――ガキィィィィィィィン!!

金属同士が超高速で衝突する、鼓膜を裂くような高音が響き渡った。一瞬の静寂の後、不気味な低い呻き声のような震動が壁に走り、次の瞬間、猛烈な勢いで「水」が噴出した。

高田邸の空調と全自動衛生システムを司る高圧給水管が、その心臓部で破裂したのだ。

凄まじい水圧が、美咲が薄く作り替えたデザイン壁を内側から食い破り、噴水のようにリビングへと溢れ出す。冷たい水が健一の全身を叩き、瞬く間に足元を濡らした。

「……っ、マズい! 姉ちゃん、父さん、離れて! 管が死んだ!」

健一の警告は、激しさを増す激流の音にかき消された。


破裂した管から溢れ出す水は、止まることを知らなかった。

高田雷斗が建築家として設計したこの邸宅は、外部からの侵入を拒む「堅牢な要塞」であった。しかし、その頑丈すぎる気密構造が、今は最悪の仇となっていた。窓は強化ガラスで密閉され、各部屋の扉は遮音と防犯のために極めて精度高く閉じられている。排水能力を遥かに超える給水が続き、家全体が巨大な「水槽」へと変貌し始めていたのだ。

「健一、どこ!? 何も見えない、息が……っ!」

美咲の悲鳴が聞こえる。さらに追い打ちをかけるように、るかの遠隔操作によって作動したスプリンクラーが、天井からも冷たい雨を降らせ続けていた。

健一の最強の武器である「映像記憶」が、音を立てて崩れていく。

(水が……記憶を上書きしていく。床の高さが変わる。家具が浮いて位置がずれる。僕のノートにある『正解の配置』が、全部流されていく……!)

サヴァン特有の視覚的思考は、対象が静止していることでその真価を発揮する。しかし、水という流動体は、家の中のあらゆる変数を無作為に、そして残酷に書き換えていった。浮き上がったソファ、流れるペルシャ絨毯、そして何より、水面に反射する微かな非常灯の光が、健一の視覚情報をノイズだらけの虚像に変えてしまう。

「佐藤……! 逃げても無駄だ。この家は、お前たちの沈没船になるんだよ!」

暗闇の向こうで、山岡がバールを杖のように突き、膝まで浸かった水を押しのけながら一歩一歩近づいてくる。彼にとっては、この物理的な崩壊さえも、高田雷斗が愛した家が汚されていく最高の復讐劇スパイスに過ぎなかった。


一方で、地下の配管スペースから地上階の隙間へと陣取っていた葛城は、この浸水を「効率的な屠殺」に利用しようと画策していた。

「山岡、無駄に動くな。体力を消耗するだけだ。……今から電気系統をショートさせる。佐藤家の連中を水面ごと感電させて仕留めるぞ」

葛城の声は、壁の中で反響し、どこから聞こえるのか判別できない。彼は壁の裏のメイン配電盤をこじ開け、剥き出しになった高圧電線を、わざとせり上がる水面に触れさせようとしていた。

佐藤家にとって、これは物理的な衝突以上の絶体絶命の危機だった。

「父さん、母さん! 絶縁体になるものを持って! 濡れた床に足をつけないで、ソファの上や棚に登って!」

健一は、脳内の設計図から「絶縁素材」の場所を高速で検索する。

(キッチンの勝手口付近に、ゴム製の泥落としマットがある。リビングの書棚の最上段には、厚手のビニールコーティングされた法務資料集が……!)

健一は、押し寄せる水に逆らいながら、家族を安全な「高所」へと導こうとする。しかし、その時、健一の右足に、冷たく硬い何かが絡みついた。

「逃がさねえと言っただろ」

水中に潜んでいた山岡が、健一の足首を太い腕で掴んでいた。

冷たい水の中で、山岡の濁った瞳が執念の光を放つ。彼はバールを振り上げ、至近距離から健一を仕留めようとした。


「健一から手を離せ!」

叫んだのは美咲だった。

彼女はデザイナー学校で学んだ化学知識と、この一年間で自分が行った「空間の私物化」の全てを、防衛のために動員した。彼女が手にしていたのは、豊に絵を教えるために愛用していた、油性の非常に強い特注の「特濃アクリル絵の具」だった。

美咲は、その絵の具のチューブを何本も、山岡の周辺の水面にぶちまけた。

粘り気のある極彩色の油状の膜が、一気に水面に広がり、山岡の顔面を覆い尽くす。

「ぐ、あああ! 何だ、これは! 目が……開かねえ!」

油性の被膜が視界を完全に遮り、激しい刺激が山岡を襲う。その隙に、父・誠が水の中を突き進んで山岡の背後に回り込み、プロのタクシードライバーとして日々鍛え抜いた腕力で、彼の右腕を捻り上げた。

「お前、客を乗せている時の俺の集中力を舐めるなよ。……健一、今のうちに葛城を止めろ! 水が配電盤の高さまで届けば、全員終わりだ!」

健一は、意識を極限まで研ぎ澄ませた。

視覚はもはや役に立たない。それどころか、乱反射する光はノイズでしかない。彼は強く目を閉じた。

(水滴が跳ねる音。葛城が壁の裏で電線を弄る、カチカチという僅かな金属音。配管から漏れる水の振動が壁を伝う周期。……見えた。葛城は、リビングの西側、高さ1.2メートルの耐力壁の裏にいる)

健一は、過去の「静止画の映像」ではなく、今この瞬間に響き、震える「生の音」を脳内で立体化させた。サヴァン能力が、過去のアーカイブから「リアルタイム・ソナー」へと進化した瞬間だった。

健一は、腰まで水に浸かったリビングを一直線に突き進んだ。障害物の配置は、水の抵抗の変化と振動の跳ね返りから割り出している。彼は、葛城が潜んでいる壁の直前で、浮かんでいた重厚なオーク材のアンティーク椅子を掴み、渾身の力で壁の「薄い部分」へと叩きつけた。

――ドォォォォォン!!

美咲が改造して薄くなっていた壁が砕け散り、驚愕の表情を浮かべた葛城が姿を露わにした。その剥き出しの指には、火花を散らす電線が握られていた。

「終わりだ、葛城さん。……この家の現在の弱点は、僕の頭の中にしかない」

健一は、葛城の手から電線を奪い取り、それを水面ではなく、壁の高い位置にあるセラミック製の絶縁用パイプへと叩きつけた。過電流によってブレーカーが落ち、家全体の電源が完全に喪失した。

完全な、静寂。

ただ、どこかで水が滴り続ける音だけが、不気味に広いリビングに響いていた。


同じ時刻。数百キロ離れた、春の嵐が近づくキャンプ場。

るかは、焚き火の激しい炎に照らされながら、スマホの画面を見つめていた。画面は、高田邸の電力が落ちた影響で、砂嵐の後にブラックアウトしている。

「……あら。消えちゃった。面白かったのに、これからだったのに」

るかは、少しだけ残念そうに呟き、隣のテントで酒を食らっていびきをかいて眠る父・雷斗を見た。彼女の足元には、健一のアパートから盗み出した「14冊目のノート」が置かれていた。

「先生、頑張ったね。……でも、まだ足りないよ。あなたはもっと、壊れなきゃいけない」

るかはノートの最後の一ページ、そこには健一が記した「家族の結束」についての記述があったが、それを無慈悲に破り取り、焚き火の中に投げ入れた。炎が青白く燃え上がり、健一の潔癖な筆跡が黒い灰になって消えていく。

その時、るかの背後の暗闇から、静かな足音が近づいてきた。

レインコートを纏い、留学先のアメリカにいるはずの、あの男。

「……るかちゃん。やりすぎだよ。僕の『代理』がこれ以上壊れちゃ、次の実験に使えなくなるじゃないか」

高梨彰人が、不敵で、しかしどこか虚ろな笑みを浮かべてそこに立っていた。

高田邸。

腰まで水に浸かり、冷え切ったリビングで、佐藤家の四人は肩を寄せ合っていた。

葛城と山岡は、力尽きて水面に浮いた家具にしがみついている。

「……勝ったの? 健一」

母・よし江が震える声で尋ねる。

健一は答えなかった。

彼の脳内にあるはずの「完璧な記憶」の中に、どうしても思い出せない、底の抜けたような空白が生まれていた。

(14冊目のノート……あそこに何を書いた? 高梨はあの日、僕に何を言った? 僕は、何を忘れるように、脳に命令されている……?)

水没した聖域の中で、健一は生まれて初めて「忘却」という、正体不明の恐怖に震えていた。

窓の外では、月曜日の朝を告げる冷たい陽光が、泥水に満ちた豪邸の窓を、静かに照らし始めようとしていた。

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