第11話:欠落した設計図
第11話:欠落した設計図
「まずは、お前からだ」
山岡が地を這うような野太い声を上げた。その直後、重厚な鉄のバールが空を切り裂く。狙われたのは、家族の「脳」である健一だ。
健一の脳内には、サヴァン特有の**「予測映像」**が、一瞬の火花のように走る。バールの描く放物線、山岡の左足の踏み込みによる床の軋み、空気が切り裂かれる高周波の音。それら全てのデータが健一の意識を追い越し、反射行動へと直結した。彼は最小限の動きで体を捻る。
ガァン! という鼓膜を劈く衝撃音。バールは健一の肩をわずか数ミリの差で掠め、エルメスの灰皿が置かれていた大理石のテーブルを、無残な粉々に粉砕した。
「健一!」
美咲が悲鳴を上げる。一年前まで、彼らにとっての「暴力」とは、借金取りの罵声や大家の催促といった、精神的な圧迫だった。しかし今、目の前にあるのは、肉体を物理的に破壊しようとする生々しい鉄の質量だ。
山岡は、佐藤家の策略によって「理想の職場」を追われ、路上に放り出された恨みを全てその腕に乗せていた。かつて雷斗のために優雅にハンドルを握り、高級車を滑らせていた男の面影は微塵もない。その瞳に宿っているのは、自分を嵌めた「後任一家」への、剥き出しの殺意だった。
「逃げろ! 地下だ! 通路へ入れ!」
父・誠が、棚に並んでいた雷斗の秘蔵のヴィンテージ・ワインを山岡に向かって投げつけた。最高級のシャトー・ムートンが床に飛び散り、血のような赤色が一面に広がる。その混乱に乗じて、佐藤家はリビングの壁に仕掛けられた「美咲の隙間」へと雪崩れ込んだ。
しかし、逃げ込んだ隙間の先は、もはや彼らの知る「聖域」ではなかった。
るかが地上でセキュリティシステムを完全ロックした影響で、非常用電源までもがカットされ、邸内は一切の光を失った漆黒の闇に沈んでいる。
「美咲、予備のペンライトは!?」
「ダメ、バックパックの中よ。リビングに置いてきちゃった……。電気系統を葛城たちに完全に乗っ取られてる。暗視モニターも起動しないわ!」
家族を襲う、五感を遮断される恐怖。壁の向こうからは、山岡がバールで壁を破壊しながら近づいてくる「ゴン、ゴン」という鈍い音が響いている。しかし、健一だけは呼吸を整え、ゆっくりと目を閉じた。
彼にとって、光の有無は絶対的な障害ではない。
健一の脳内には、この一年の間に蓄積された数百万枚の「スナップショット」が、**「高田邸の完全な3Dデータ」**として焼き付いている。
「僕の指示に従って。……父さん、そのまま左に三歩。そこに補強用の鉄骨がある、頭を下げて。母さん、次の一歩は段差が15センチあるわ。美咲姉ちゃん、僕の右肩を掴んで。……僕の記憶が、今の僕たちの唯一の『目』だ」
健一の記憶という名の灯台が、暗闇の中に仮想の通路を描き出す。
佐藤家は、健一の指示という細い糸を頼りに、葛城たちが知らない「自分たちで改造した隠し通路」を通り、リビングの真下、家の中枢神経とも言える配管ハブへと回り込んだ。
しかし、闇の奥から聞こえてきたのは、葛城の冷酷な嘲笑だった。
「佐藤健一。お前の記憶力が、この家のすべての動きを支配していることは分かっているよ。……だが、その記憶は、果たして今この瞬間の『真実』を写しているのかな?」
通路の角を曲がった瞬間、先頭を走っていた健一の足が、何もないはずの空間で宙を舞った。
「うわああああ!」
健一の記憶では、そこは平坦なコンクリートの床だったはずだ。しかし、一歩踏み出した先には、奈落のような深い空洞が口を開けていた。
間一髪、父・誠が健一の襟元を掴んで引き上げた。足元に石を落とすと、数秒後に遠くで硬い音が響く。本来、そこにあるはずのない「点検用の竪穴」が、健一の歩幅を狙ったかのように配置されていた。
「健一、しっかりしろ! お前の記憶と違うのか?」
「……そんなはずは、ない。ここは昨日まで、僕がノートに書いた通り、平坦な通路だったんだ……!」
健一は激しい混乱に陥った。サヴァンとしての絶対的な自信が、足元から崩れ去る。
しかし、そこで彼は、葛城の「狂気」の正体に気づき、戦慄した。
葛城はこの数日間、潜伏しながら、ただ隠れていたわけではなかった。彼は山岡と共に、家の構造そのものを物理的に「書き換えて」いたのだ。
葛城は、かつて自分が共同経営者としてこの家の初期設計に関わった知識を利用し、美咲が改造した隙間の壁を剥ぎ取り、階段の角度を変え、床板の支柱を抜き、健一の持つ「完璧な地図」を逆手に取った。
「やつは、僕の記憶という名の罠に、僕自身を嵌めようとしている……」
葛城は、健一が「ここには何もない」と確信して足を踏み出す場所を狙って、死の落とし穴を掘っていたのだ。過去の記録をなぞることは、死へと直結する自傷行為に変わっていた。
「姉ちゃん、脳内の設計図を捨てて!」
健一は暗闇の中で、自分自身に言い聞かせるように叫んだ。
「僕の記録にある『過去の高田邸』はもう罠だ。今の、生身の感覚で『未知の迷宮』としてスキャンしなきゃならない!」
健一は自らのサヴァン能力を、過去の映像を引き出す「検索エンジン」から、**リアルタイムの感知**へと強制的にシフトさせた。
閉じた瞼の裏に、別の情報が流れ込む。
壁を伝う微かな冷気の流れ(空気の逃げ道)。
葛城たちが歩く際に生じる、コンクリートを伝わる微振動。
山岡の荒い息に含まれる金属の匂い。
目に見える映像ではなく、全神経を研ぎ澄ませた「音と震え」と「熱」で、一秒後の家を再構築していく。
「……父さん、止まって。あと三センチ前へ行くと、細工された床板が抜ける。……右だ。壁の中の配管が、不自然に共鳴している。葛城はそこにいる」
健一の脳内で、情報の書き換え(アップデート)が始まった。
その頃、標高数百メートルのキャンプ場。
静寂に包まれたテントの中で、るかはタブレットの青白い光に照らされていた。
画面には、邸内の各所に設置されたサーモグラフィが捉えた「六つの熱源」が、まるで実験皿の上の微生物のように、もがきながら動き回っているのが映し出されている。
「ねえ、パパ。どっちのネズミが賢いと思う?」
「るか、またゲームの話か。……もう寝なさい。明日は朝から焚き火だ」
隣で眠る雷斗は、自分の家が今、二組の寄生虫による殺し合いの舞台になっていることなど、夢にも思わない。
るかは、画面上の健一を示す熱源を、慈しむように指先で撫でた。
「先生、あなたの記憶はいつ『現在』に追いつくのかな? ……それとも、追いつく前に、葛城さんに捕まって食べられちゃう?」
るかが指先で、画面上の「消火システム」のアイコンをフリックした。
その瞬間、高田邸の全フロアで、スプリンクラーが一斉に作動した。
天井から冷たい水の濁流が降り注ぐ。その轟音は、健一が頼りにしていた「微かな音」と「空気の震え」を無慈悲に掻き消した。
「水……!? 音が聞こえない!」
健一の耳に届くのは、もはやただの激しい落水音のみ。
そしてその騒音の中、背後から。
バールが濡れた床を叩く、死の足音が確実に近づいてきた。
葛城と山岡。彼らは暗闇と騒音の中でも、復讐という名の「本能」で、佐藤家を確実に追い詰めていく。
逃げ場のない「水の牢獄」で、健一の筆跡なき新しいページが、恐怖で白く染まっていく。




