第10話:見えない家族の晩餐、あるいは屠殺場
第10話:見えない家族の晩餐、あるいは屠殺場
松濤の静寂に包まれた高田邸。その豪華な大理石の床下、あるいは美咲が完璧な意匠で作り替えた壁のさらに奥——「配管スペース」という、邸宅の設計図にすら記されないわずかな隙間に、その男たちは潜んでいた。
佐藤家が「家族の再生」や「富への渇望」という欲望をガソリンにしてこの家に寄生したのに対し、そこに先住していた男たちの胸を焦がしているのは、漆黒の**「復讐」**であった。
雷斗の元共同経営者であり、数年前に「不透明な資金流用」の罪を着せられ、社会的抹殺(失踪)を余儀なくされた葛城。そして、佐藤家の計略によって職を追われ、路上へと放り出された前ドライバーの山岡。彼らにとって高田雷斗は、自分たちの人生を食い潰し、その上に金色の城を建てた憎悪の象徴に過ぎない。
「佐藤健一。お前のノートは全て読ませてもらったよ。……お前の脳は確かに素晴らしいが、精密であればあるほど、一度ヒビが入れば崩壊も早い」
暗闇から響く葛城の声は、配管を伝って反響し、健一の鼓膜を不快に震わせた。山岡はよし江を地下の食糧庫に追い詰め、背後に立って、ナイフの冷たい刃先を彼女の項に遊ばせている。彼らにとって、佐藤家は雷斗への復讐を完遂するための便利な「身代わり」であり、同時に、自分たちのテリトリーを侵した不快な害虫だった。
「お前たちが作り替えたこの家は、もはやお前たちの聖域じゃない。我々が、雷斗を狂わせ、この世から消し去るための『屠殺場』だ」
葛城の攻撃は、健一の「記憶力」と美咲の「空間デザイン」を逆手に取った、狡猾極まるものだった。彼は、美咲が家のあちこちに仕掛けた隠しスピーカーの回路をハッキングし、それを増幅器として利用した。
深夜。雷斗の寝室にだけ聞こえる微かな音量で、「お前が殺した社員の名前」や「裏帳簿のページ数」を無限に囁き続ける。映像記憶能力を持つ健一は、その音のパターンから出所を突き止めようとするが、美咲が空間の遠近感を歪ませすぎたせいで、音の反響が複雑な迷路となり、正確な位置を特定できない。
「健一、どうにかして! このままじゃ、雷斗さんが先に発狂しちゃう!」
美咲が焦燥に駆られて叫ぶ。雷斗が発狂し、警察や医療機関が介入すれば、身元を偽っている佐藤家の寄生生活は一瞬で終わる。それは破滅を意味した。
健一は、血の気の引いた顔でノートをめくり、即座に対抗措置を練り上げた。
「姉ちゃん、リビングから廊下にかけての『パース(遠近感)』をさらに極端に歪めてくれ。葛城たちが潜んでいる配管スペースへの入り口付近に、強烈な指向性照明を当てて、鏡の反射で入り口そのものを視覚的に消失させるんだ。光で目を潰し、彼らの『出口』を奪う」
美咲は、プロのデザイナーとしての矜持と、家族の居場所を守る執念に突き動かされ、家全体のライティングをミリ単位で調整し始めた。それは、武器を持たない肉弾戦。
「どちらがこの家の支配権(空間認知)を握るか」という、極めて静かで、かつ狂気的な知能戦が、華やかな豪邸の裏側で繰り広げられていた。
しかし、この熾烈な生存競争を、全く別の次元から眺めている者がいた。
長女のるかである。
彼女は自室のベッドに寝転び、健一から奪い取った予備の監視モニター端末を弄んでいた。手元には、よし江が作ったキャラメル味のポップコーン。画面の中では、必死に壁を塗り直して「光の壁」を作ろうとする佐藤家と、床下で配線を切り刻む葛城組が、滑稽なダンスを踊っているように見える。
隣では、小学一年生の弟・豊が無邪気にクレヨンを走らせていた。
「ねえ、お姉ちゃん。先生たち、何してるの? かくれんぼ?」
豊がモニターを覗き込み、不思議そうに尋ねる。彼は、大好きな家庭教師の先生たちが、なぜ夜な夜な壁を叩いたり暗闇を這い回ったりしているのか、その理由を全く理解していなかった。
るかは、豊の柔らかな頭を優しく撫で、毒を含んだ蜜のような微笑みを浮かべた。
「そうよ、豊。みんなでね、『どっちがこの家に残る資格があるか』っていう、とっても大事なゲームをしてるの」
「へぇー、面白そう! 僕も入れてくれるかな?」
「ふふ、豊はもう『あっち側』にいるから大丈夫よ。さあ、パパのところに行って、『明日、キャンプに行きたい』って言っておいで。それが、豊の最後の一手よ」
るかは立ち上がり、父・雷斗の書斎にある隠し金庫に向かった。そこには、建築家としての雷斗が、強盗や災害に備えて設計した**「地下室及び全隠し通路の緊急完全封鎖システム(パニック・モード)」**のマスターキーが保管されていた。
「どっちも、パパをいじめる悪い子たちだもんね。先生たちは、パパの車を奪ったし、山岡さんたちはパパの心を壊そうとしてる。……だったら、まとめて閉じ込めちゃうのが一番きれいかな」
るかの指先が、冷たい金属のキーに触れ、それを一気に回した。
その瞬間、健一は世界の終わりを告げるような異変を察知した。
葛城の潜伏先をノートに記し、最後の一撃を加えようとした刹那、家全体から「ガチャン!」という、巨大な鉄筋が軋むような重低音が響き渡った。
「え……?」
健一の脳内の3Dモデルが、猛烈なノイズと共に真っ白に塗りつぶされていく。
美咲が精魂込めて作った隠し通路も、葛城が住処にしていた配管スペースも、そして佐藤家が「聖域」として君臨していた地下室も。るかが発動させたセキュリティシステムによって、すべての「物理的な余白」が分厚い鋼鉄の防火シャッターと強化コンクリートの隔壁によって、完全に分断されたのだ。
サヴァンとしての映像記憶があるからこそ、健一の絶望は深かった。
一秒前まで存在した「逃げ道」が、脳内の地図から抹消される。出口がなくなった瞬間の閉塞感は、常人の何倍もの質量を持って彼を押し潰した。
「……記録にない。出口が、どこにも、記録にないんだ……!」
暗闇の向こうから、葛城の不気味な笑い声と、山岡がナイフを研ぐ音が、物理的に遮断された密室の中で反響する。
本当の地獄は、主人が平穏を取り戻した「地上」の真下で、光の一筋も届かない死角の中で、今、幕を開けた。
翌朝。るかの手によって密閉された六人は、狭い暗闇の中で互いに殺意をぶつけ合っていた。しかし、その均衡を破ったのは、階上から聞こえてくるるかの明るい、あまりにも明るい声だった。
「ねえ、パパ、ママ。明日の週末、家族でキャンプに行かない? 豊も最近、ずっと『お外で遊びたい』って言ってたじゃない」
雷斗は、愛息の無邪気な願いに顔をほころばせた。最近の家の中の不自然な静寂に奇妙な安堵を感じていたこともあり、その提案を「救い」のように受け入れた。
「そうだな……。佐藤さん(誠)にも休みをあげて、たまには私の運転で出かけるのも悪くない。よし、準備しよう」
その言葉を、壁の裏の盗聴器で聞いていた健一の全身に、戦慄が走った。
「るか……あの子、僕たちをここに閉じ込めたまま、数日間、無人の家を『実験場』にする気か?」
数時間後。雷斗の運転する大型SUVが、高級住宅街の静寂を切り裂いて出発した。
車内では、豊がお気に入りのキャンプ道具を抱えてはしゃいでいた。
「お姉ちゃん、楽しみだね! マシュマロ焼こうね!」
「ええ、そうね、豊。思いっきり楽しみましょう。……お留守番の虫たちが、どうなっちゃうか楽しみね」
高田邸に、完全な「無」が訪れる。
防犯システムはるかの手によって「在宅モード」に偽装され、外からは家の中で凄惨な争いが起きていようとも、誰も気づくることはできない。
佐藤家の四人は、るかが封鎖しきれなかった唯一の排気口(美咲が予備で作っていたもの)から、一年ぶりに「地上」のリビングへと這い出してきた。しかし、そこに平穏はなかった。
リビングの壁——美咲が完璧にデザインしたはずの壁が、内側からバールによって物理的に**「破壊」**され始めた。
「佐藤君、いい食べっぷりだね。……一口、分けてくれないか?」
バリバリという乾いた音と共に壁が崩れ、そこから復讐に燃える山岡と葛城が姿を現した。
「高田雷斗は、月曜まで帰ってこない。……佐藤家、そして我々。どっちがこの『空っぽの城』にふさわしい住人か、この週末で決めようじゃないか」
窓の外では、春の穏やかな陽光が降り注いでいた。
数百キロ離れたキャンプ場で、豊は楽しそうに枯れ枝を集め、るかはスマホに映る「リビングの惨劇」を無表情で見つめていた。豊が覗き込もうとすると、彼女は素早く画面を隠し、優しく微笑んだ。
「豊、これはお姉ちゃんだけの『秘密のゲーム』。パパには内緒よ」
高田邸は今、外部からの介入を拒絶し、内部の殺意を閉じ込める、世界で最も贅沢な**「屠殺場」**へと変貌していた。豊の無邪気な笑い声がキャンプ場に響く裏で、二組の寄生虫たちの、命を賭けた週末の幕が上がる。




