第9話:二重の寄生、剥がれる仮面
第9話:二重の寄生、剥がれる仮面
佐藤家が高田邸という巨大な獲物を完全に仕留めたと確信していた、ある春の午後。
松濤の街を包む穏やかな空気とは裏腹に、高田邸の勝手口付近には刺すような緊張感が漂っていた。
住み込みの家政婦として、かよ夫人の信頼という名の「依存」を勝ち取った母・よし江の前に、予期せぬ人物が現れたからである。
「……山岡さん? どうしてここに。あなたはもう、この家とは縁が切れたはずでしょう」
よし江の声には、隠しきれない警戒と拒絶が混じっていた。
目の前に立つ男は、かつての精悍な専属ドライバーの面影を失っていた。無精髭を蓄え、安物のウィンドブレーカーを羽織った山岡は、どこか卑屈で、それでいて粘りつくような笑みを浮かべている。
「いやあ、佐藤さん。実はね、以前使っていた私物のファイルを、ガレージの物置の奥に忘れてしまってね。大事な顧客リストの写しなんだ。……雷斗さんに見つかったら、また何を言われるか分からない。少しだけ、入れてもらえないかな。君も、身内の『不始末』で私が不当にクビになったことは分かっているだろう?」
山岡の言葉には、刃のような棘があった。暗に「お前たちの娘(美咲)が落とした下着のせいで、私は人生を狂わされたのだ」という恫喝が含まれている。
よし江は、ここで騒ぎ立てられ、かよ夫人の耳に入るのを何よりも恐れた。今の佐藤家にとって、唯一の弱点は「過去の因縁」の再燃だ。
「……手短にお願いしますね。奥様は今、お昼寝中ですから」
よし江は、迷った末に勝手口のロックを解除した。自らが管理する「城」への侵入を許した瞬間、彼女は山岡が抱えていた大きな紙袋から、微かに漂う温かい料理の匂いに気づくことはなかった。
山岡はガレージに向かうふりをして、よし江の視線がキッチンへと戻った一瞬の隙を突き、音もなく廊下の奥へと滑り込んだ。
その足取りには迷いがない。彼はこの家の「血管」を知り尽くしている。
彼の向かう先は、物置ではない。
かつて自分が主人のために、そして自分自身の「居場所」を守るために磨き上げ、そして佐藤家に強奪された、あの地下室へと続く隠し扉だった。
山岡は、使い古されたキーホルダーから、一見すると何の変哲もない「自作の鍵」を取り出した。それは彼が解雇されるまでの数年間、深夜の静寂の中で、邸内の構造をミリ単位で調べ上げ、密かに複製し続けてきた執念の結晶だった。
カチリ、という乾いた金属音が響く。
山岡は、健一たちが「自分たちだけの聖域」と信じ切っている地下室へと、泥のように静かに足を踏み入れた。
地下室の最深部。美咲が空間を改造し、健一が記録ノートを要塞のように積み上げていたその場所の、さらに「裏側」。
そこには、健一の驚異的な映像記憶にも、美咲が学校で学んだ最新のデザイン図面にも存在しない、わずか三畳ほどの狭小な配管スペースがあった。そこは、家全体の空調システムが集約され、常に機械の低い唸り音が鳴り響く、邸宅の「盲点」である。
山岡は、持ち込んだ紙袋から使い捨てのプラスチック容器に入った食事を取り出した。
「……持ってきたぞ。今日は、お前が好きなハンバーグだ。近くの店で一番高いやつをな」
暗闇の奥、配管の隙間から、カサリと衣擦れの音がした。
そこから姿を現したのは、ボロボロの高級シャツを着た、しかし目だけが飢えた獣のように異様に鋭い一人の男だった。
「遅かったな。上の『新しい家族』どもが、最近掃除だの料理だのでうろついて、かなわない」
その男の顔を、もし健一が見ていたならば、その精密な記憶回路がショートするほどの衝撃を受けただろう。
その男は、数年前に「巨額の横領疑惑の末、失踪した」と大々的に報じられていた、高田雷斗の元・共同経営者、**葛城**だった。
「佐藤家の連中、自分たちがこの家の王様になったつもりでいやがる。笑わせるな」
葛城は、震える手でハンバーグを口に運びながら、歪んだ笑みを浮かべた。
「だが、この邸宅の本当の『余白』を、雷斗にすら教えずに設計したのは、私だ。山岡、外の様子はどうだ?」
「ええ、先生。あいつらは私が仕掛けた『下着』の罠に見事にハマり、私を追い出すことで勝利したと確信しています。だが、追い出されたことで私は晴れて『外の調達係』になれた。あいつらが勝手に家のセキュリティを書き換えてくれるおかげで、かえって私たちは見つかりにくくなった」
山岡と葛城。佐藤家という寄生虫が入り込む以前から、この家には「先住の寄生虫」が存在していた。彼らは雷斗への復讐と、この「城」の奪還を、壁の隙間からじっと狙い続けていたのだ。
一方、二階の自室で、いつものように今日の出来事をノートへ出力していた健一は、唐突に激しい眩暈と頭痛に襲われていた。
彼の脳内にある「高田邸の完璧な3Dモデル」が、音を立てて崩落していく感覚。
(……山岡が入ってきた。母さんが入れた。山岡の重心の移動、床材との摩擦音……)
健一のサヴァン特有の超感覚が、家全体の「重量バランス」の僅かな異変を捉えていた。
雷斗、かよ、るか、豊。そして自分たち家族四人。計八人。
しかし、今の邸内を流れる空気の振動、給排水のタイミング、そして微かな炭酸ガスの濃度。
「……九人。いや、十人いる」
健一のノートの14冊目に書き込まれていた、あの不気味な追記が脳裏をよぎる。
『この家には、君たち家族以外に、もう一家族、住んでいる。』
山岡は「忘れ物」を回収しに来たのではない。
彼は、自分たち佐藤家という後発の寄生虫よりも先に、この贅沢な肉体に巣食っていた「先住者」へ、エサを運んできたのだ。自分たちが「聖域」だと思っていた地下室のさらに奥に、もう一つの胃袋が存在している。
地下の隠し部屋で、山岡と葛城は、健一が積み上げていたノートの束を一冊、無造作に手に取っていた。
「佐藤健一。……こいつの記憶力は異常だ。だが、完璧主義者というのは脆い。一度『バグ』を植え付ければ、自分の記憶と現実の乖離に勝手に自滅する」
山岡は冷酷な笑みを浮かべると、手に持っていたペンで、健一が数時間前に書いたばかりのページに、そっと、しかし確かな筆跡で「偽の記録」を書き加えた。
その頃、リビングでは美咲が、自分が作り替えた完璧な壁を見つめていた。その壁は、彼女の卒業制作のテーマである「精神的支配」を体現した、光さえも支配するはずの仕切りだった。
しかし、その壁の裏側から、**トントン……トントン……**と、佐藤家の誰も知らない奇妙なリズムで、壁を叩く音が聞こえてきた。
モールス信号のような、あるいは何かのカウントダウンのような、静かな打音。
「……ねえ、健一。この家、変な音がする」
美咲の震える声が、佐藤家専用の家庭内インカムを通じて健一に届く。
健一はノートを握りしめた。手が小刻みに震え、万年筆の先が紙を引き裂いた。
自分たちは、寄生の支配者ではなかった。
より深く、より暗い闇を知る者たちの、**「隠れ蓑」として、あるいは「エサ」**として、都合よく飼われていただけなのかもしれない。
佐藤家という「新参者」の侵略を、山岡たちは壁の裏で、嘲笑いながら歓迎していたのだ。
「……姉ちゃん。逃げなきゃ。僕たちは、最初から『罠』の中にいたんだ」
暗闇の中で健一がそう呟いた瞬間、頭上の通気口から、乾いた、しかし確かな「忍び笑い」が階下まで響き渡った。
高田邸を巡る寄生劇は、今、血で血を洗う「寄生者同士の縄張り争い」へと、その醜悪な姿を変えようとしていた。




