表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アンダーグラウンドの聖域  作者: 水前寺鯉太郎


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/16

第8話:記録の残像、忘却の侵入者

第8話:記録の残像、忘却の侵入者


佐藤健一の脳は、彼自身の意思とは無関係に、外界のすべてを0.1ミリの狂いもなくスキャンし続ける。


高田邸の重厚なマホガニーの玄関扉に刻まれた微細な傷、雷斗が愛用するモンブランの万年筆のクリップに付着した指紋の残滓、るかが隠した模試の結果のシワ――。


それらは健一の脳内で鮮明な画像イメージとして保存され、決して色褪せることはない。

しかし、健一にとって、それらの膨大なデータは「脳内にあるだけ」では不完全だった。


彼は毎日、深夜にひだまり荘のボロアパートへ戻ると、まるで聖典を書き写す中世の修道士のように、その日の映像を文字へと変換する。


サヴァン症候群特有の、対象に没入しすぎる危うい集中力。ペンが紙を削るカリカリという音だけが響く四畳半で、彼は高田家のすべてを「ノート」という物理的な実体に定着させていく。


「これで、僕がこの家を支配できる」

机の上に積み上がった数十冊のノートは、一冊ごとに高田家の「攻略本」となっていた。


姉の美咲はそのノートを読み込み、家の構造を「佐藤家のための迷宮」へと作り替え、父・誠は雷斗の弱点を、母・よし江はかよ夫人の孤独を、そのノートから学び取って利用した。


佐藤家にとって、このノートは「寄生の聖書」であり、彼らのアイデンティティそのものだった。

ある夜、決定的な異変が起きた。


健一は、半年前の記録を再確認しようと、押し入れの段ボール箱からノートの束を取り出した。

一冊、二冊……。指先で背表紙を数えていく健一の動きが、唐突に止まる。


「……ない」


14冊目。

半年前、高梨彰人たかなしあきとが留学に立つ直前の、最も重要な一ヶ月間を記録したノートが、忽然と消えていた。


健一の脳内には、そのノートの表紙の小さな凹み、使ったペンのインクが裏抜けした箇所、すべてが映像として残っている。だからこそ、今目の前にある空間の「欠落」が、彼には耐え難い空白として襲いかかった。


「姉ちゃん、14冊目を知らないか? 茶色の表紙で、角が少し潰れたやつだ」


リビングで模型を弄っていた美咲が、怪訝そうに振り返った。


「知らないわよ。あんたのノートなんて、誰も触りたがらないわ。……でも、そういえば、お母さんが言ってたわね。最近、アパートの廊下に見慣れない男が立っていた気がするって。それも、山岡さんに似ていたって」


健一の背筋に、冷たい氷の柱が差し込まれたような感覚が走った。

このボロアパートに、誰かが入った。

鍵を壊した形跡はない。だが、侵入者は健一が最も大切にしていた「記録アイデンティティ」を、一冊だけ正確に抜き取っていったのだ。


その時、健一のスマートフォンが震えた。

表示された名前は**「高梨彰人」**。

留学先のアメリカにいるはずの、かつての親友。そして、自分をこの高田邸という「迷宮」へ誘い込んだ張本人。


『健一、久しぶり。ノート、興味深く読ませてもらったよ』


受話器の向こうから聞こえる高梨の声は、不自然なノイズが混じり、ひどく遠くに感じられた。


「……高梨、お前なのか。僕の部屋に入ったのは。なぜノートを盗んだ」


『入ったのは僕じゃない。でも、中身は知っている。君の記憶力は相変わらず素晴らしいね。……でもね、健一。サヴァンの脳は完璧に見えて、実はとても脆いんだ。君のノートの145ページ。あの日、地下室の扉を開けたのは、本当に僕だったかな?』


健一の脳内で、記憶の映像が激しくフラッシュバックした。

半年前。高梨が留学の挨拶に来た日。地下室の扉がわずかに開き、高梨がその取っ手に手をかけていた……はずだった。


しかし、高梨にそう指摘された瞬間、健一の脳内の映像が「砂嵐」のように乱れ始めた。


(違う。高梨はあの時、庭でるかさんと話していたはずだ。……いや、待て。じゃあ、あの時、地下室の扉の前に立っていたのは、誰だ?)


記録を絶対的な真実としてきた健一にとって、記憶の矛盾は「世界の崩壊」と同義だった。

もし、自分の「記録」が、誰かの手によって書き換えられた偽物だとしたら。


自分たちが進めてきた「寄生」という完璧なシナリオ自体が、最初から何者かの掌の上で踊らされていたものだとしたら。


翌日、健一は動揺を隠して高田邸へ向かった。

映像記憶をフル稼働させ、家の中のわずかな変化を再スキャンする。


雷斗は父・誠が運転する車で早朝からゴルフへ向かい、かよ夫人は母・よし江が淹れた「睡眠の質を高める」ハーブティーを飲みながら、美咲が変えた薄暗い照明の下で虚ろな瞳をしている。


表面上は、佐藤家の支配は完璧に見えた。

しかし、健一は気づいてしまった。

リビングの隅、るかがいつも座るソファの裏。

そこに、自分たちが仕掛けたものとは違う、**「超小型の集音機」**が設置されている。


それは、健一の記憶にある昨日のデータには存在しなかったものだ。

「先生、何か探し物?」

背後から、るかの冷ややかな声がした。


彼女は健一のノートを真似たような、黒い小さな手帳を手にしていた。


「パパの会社の人かな。最近、変な男が家の周りをうろついてるんだよね。……あ、そういえば山岡さん。クビになった後、すごく怒ってたみたいだよ。パパに復讐してやるって、近所の人に言い回ってるらしいし」


自分たちが追い出した者たちが、外側で手を組み、逆襲を始めているのか?

いや、それだけではない。健一の脳は、もっと不吉な可能性を提示していた。


その日の夜、健一は独りで地下室のさらに奥、美咲が改造した壁の隙間――佐藤家だけが知るはずの「回廊」へと潜り込んだ。


そこは高田邸の図面にはない、佐藤家だけのプライベート空間のはずだった。


しかし、その暗闇の中で、健一は「あるもの」を見つける。


それは、盗まれたはずの14冊目のノートだった。

なぜ、ここにあるのか。アパートから盗まれたノートが、なぜ高田邸の隠し通路に置かれているのか。


震える手でノートを開く。

そこには、健一自身の潔癖な筆跡ではない、乱暴な文字で追記がなされていた。


『佐藤健一へ。この家には、君たち家族以外に、もう一家族、住んでいる。』


健一の映像記憶が、高田邸の「余白」を猛烈な勢いで再スキャンし始める。


美咲が広げた通気口、父が掌握した車庫の奥、母が管理するパントリーの裏。


自分たちが広げた「侵入経路」は、同時に、**別の誰かがこの家に入り込み、潜伏するための「回廊」**になっていたのだ。


佐藤家という「寄生虫」は、自分たちが宿主だと思っていた高田家の中に、自分たちよりも古くから潜む、あるいは自分たちを利用して入り込んだ「別の寄生虫」が存在していることに、ようやく気づいた。


「……姉ちゃん。この家、僕たちのものじゃない」


暗闇の中で健一が呟いた時、頭上の通気口から、乾いた誰かの忍び笑いが聞こえた。

それは、るかの声のようでもあり、高梨の声のようでもあり、あるいは、かつてこの家を去ったはずの「誰か」の声のようでもあった。


寄生されていたのは高田家ではなく、自分たち佐藤家の方だったのかもしれない。


「完全寄生」を成し遂げたと思っていた健一たちは、自分たちが、より巨大で邪悪な「迷宮」の餌食に過ぎなかったことを悟り、震え上がった。


健一のノートを奪い、高田邸に別の仕掛けを施している「変数X」。


それは、高梨彰人と繋がっているのか、それとも山岡たちの復讐なのか。


地下室の温度が、一気に数度下がったような気がした。

階上からは、何も知らない雷斗の、高笑いだけが響いていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ