第13話:沈没船のオムライス
第13話:沈没船のオムライス
月曜日の朝。皮肉なほどに澄み渡った冷たい陽光が、高田邸の窓を突き抜けた。
リビングは、もはや見る影もなかった。腰の高さまで満ちた水は、葛城が壁を剥がし、山岡が家具を叩き割ったことで生じた泥と埃を混ぜ込み、不気味に濁っている。数千万円のソファやイタリア製のキャビネットが、膨張した死体のようにぷかぷかと浮き、水面には美咲が撒いた極彩色の油絵の具が、毒々しい虹色の膜を張っていた。
佐藤家の四人と、力尽きて沈黙した葛城・山岡組が、島のように残ったダイニングテーブルの上で肩を寄せ合い、冷え切った体で絶望的な夜明けを迎えたその時だった。
――♪~~~
静寂を切り裂いたのは、よし江のスマートフォンの着信音だった。画面に表示された「高田雷斗」の文字に、全員の心臓が凍り付く。
「……っ、健一、どうしよう! 出るべきなの!?」
よし江の手が激しく震え、端末が水面に落ちそうになる。健一は瞬時に、脳内の「時間軸」を再構築した。キャンプ場からこの松濤の自宅まで、早朝の空いた道ならSUVで約1時間半。
「出て、母さん。落ち着いて……僕たちの声が入らないように、マイクを指で少し押さえて。いつも通りに」
よし江が震える指で通話ボタンを押すと、スピーカー越しに雷斗の快活な、しかしどこか父親らしい疲労の混じった声が響いた。
『佐藤さん? おはよう。キャンプは楽しかったんだが、豊が急に「お家でよし江さんのオムライスが食べたい」ってぐずり始めてね。予定よりずっと早いが、今、代々木を抜けたところだ。あと8分で着くよ。準備をお願いできるかな』
「8分!?」
美咲が声にならない絶叫を漏らす。よりによって、この家が水槽と化した瞬間に、手間のかかる「オムライス」のリクエスト。そして主人は、文字通り鼻の先まで迫っている。
「母さんはキッチンへ! 水が引いてるパントリーの奥なら、カセットコンロが使えるはずだ! 父さんは玄関先で雷斗さんを食い止めて! 姉ちゃんは、視覚的にこの『湖』を隠すんだ!」
健一のサヴァン的脳細胞が、過熱寸前の速度でフル回転を始める。
「視覚的に隠す……? 健一、正気なの!? 床一面に1トン以上の水があるのよ!」
「できる! 姉ちゃんが構造を変えた『パースを歪ませる鏡』と、昨日撒いた『油絵の具』の膜、それに逆光を利用するんだ! 急いで!」
美咲は弟の意図を瞬時に理解した。彼女は水面に浮いているベニヤ板と、廊下に設置していた装飾用の大型姿見を強引に組み合わせた。光の屈折を利用し、玄関からリビングを見た時に、水面を「磨き上げられた光沢のある大理石の床」に見せかける巨大な**「視覚的障壁」**を、即席で構築する。水面に浮く虹色の油膜は、皮肉にも高級な床材の反射のような質感を演出した。
キッチンでは、よし江が死に物狂いでフライパンを振っていた。
浸水していないパントリーの奥に駆け込み、健一が記憶していた「豊が最も好むバターとケチャップの黄金比」でライスを炒める。天井からスプリンクラーの水滴が滴る中、彼女が作るオムライスの香りが、地獄のような邸内に場違いな幸福感を漂わせた。
キキーッ、と砂利を噛むタイヤの音が聞こえた。雷斗のSUVが到着したのだ。
父・誠はびしょ濡れのスーツを脱ぎ捨て、雷斗の予備のバスローブを勝手に羽織り、髪をあえて濡らして玄関へ飛び出した。
「お、おかえりなさいませ、旦那様。……あ、お早いお戻りで」
「佐藤さん? なんだ、その格好は。シャワーでも浴びていたのか? それに……家の中が妙に湿っぽい気がするが」
雷斗が不審そうに眉をひそめ、玄関の空気の重さを嗅ぎ取った。誠は必死でゴルフバッグを運び出し、過剰なほど丁寧な挨拶を繰り返して時間を稼いだ。
「……いえ、実は今朝、最新式の加湿器が故障して暴走しまして。家中がスチームサウナのようになってしまい、今、よし江が必死に片付けております。お見苦しいところを……。それより、豊様! オムライス、もうすぐ出来上がりますよ!」
「わーい! よし江さんのオムライスだ!」
豊が真っ先に家の中に駆け込もうとする。健一は、鏡の裏側の暗闇で息を殺し、冷たい水に下半身を浸しながら、葛城と山岡の口をボロ布で塞いでいた。
豊がリビングの扉を開けた瞬間。
美咲の仕掛けた「鏡の魔法」が、奇跡的な功を奏した。
窓から差し込む朝日の逆光と、緻密に計算された鏡の角度により、水没したリビングの奥半分は深い影の中に消え去っていた。手前のダイニングテーブルだけが、鏡に反射した光を浴びてスポットライトの中に浮かび上がり、そこには湯気を立てた黄金色のオムライスが鎮座していた。
「おいしそう!」
豊が椅子に飛び乗り、スプーンを入れる。
背後で雷斗とかよ夫人が入ってくる。よし江は、エプロンの下の濡れたスカートを必死に隠しながら、完璧な微笑みで一礼した。
「どうぞ、お召し上がりください。キャンプのお疲れを癒せるよう、コーヒーもすぐにお淹れしますね」
雷斗は、足元を這う微かな冷気と、どこか遠くで「チョロチョロ」と鳴り続ける水の音に首を傾げたが、豊が満面の笑みでオムライスを頬張る姿を見て、満足げに頷いた。
「……ありがとう、佐藤さん。君たちがいてくれて、本当に助かる。この家が、ようやく完成された家庭になった気がするよ」
その温かい言葉は、テーブルの下で泥水に浸かっている健一たちの耳に、鋭いナイフのように突き刺さった。
豊が一口、ケチャップライスを頬張ったその時だった。
――ピチャリ。
天井のスプリンクラーの残水が一滴、雷斗の肩に落ちた。
雷斗が怪訝そうに眉を寄せ、上を見上げる。さらに、美咲が設置した鏡の障壁が、背後で溜まった水の重みに耐えかねて、ミシミシと悲鳴を上げ始めた。
「……佐藤さん。この音は、何だい? それにこの床の反射……少し不自然じゃないか?」
雷斗の鋭い審美眼が、鏡の端から漏れ出した「油の混じった黒い水」の染みへと向けられる。絶体絶命の瞬間、健一は暗闇の中で、自らの脳から欠落していた「14冊目のノート」の断片を、突如として呼び戻した。
(そうだ……思い出した。高梨が去り際に言ったんだ。『この家は、沈むようにできている』と。14冊目のノートに書いた、雷斗さんすら忘れている秘密……。この家には、設計段階で組み込まれた、床下を一気に排水するための『非常用レバー』がある。それは、リビングの、雷斗さんの座る椅子の真下に――)
雷斗が不審に思って立ち上がろうと足を動かした瞬間、その踵が、絨毯の下に隠されていた真鍮製の小さな突起を強く踏みつけた。
――ゴゴゴゴゴゴゴ……。
家の底から、巨大な怪物が目覚めたような地鳴りが響き始めた。
雷斗が目を見開く。佐藤家が息を呑む。
リビングの床が、旋回するようにしてわずかに傾き、中心部に向かって巨大な渦が発生した。数トンの泥水が、一気に地下の巨大な貯水槽へと吸い込まれていく。
「な、なんだ!? 何が起きている!」
雷斗の叫び声と共に、美咲の鏡が倒れ、隠されていた「地獄」がその全貌を現した。
水が引いた後のリビングには、びしょ濡れで這いつくばる健一、そして猿轡を噛まされた葛城と山岡が、ゴミのように転がっていた。
豊は、スプーンを持ったまま固まっていた。
雷斗は、愛する「家族」と、自分がかつて抹殺した「亡霊」たちが同じ床の上に転がっている光景を前に、絶句した。




