―繋― 03:理想の街の話
「夫が帰ってこないんです」
涙を流してぼそりと洩らしたのを聞いて、手帳に走らせていた筆記具を止めた。なぜ突然、そんな話を切り出されたのかわからず怪訝そうにカノは見遣る。
「あ、ごめんなさい……。ずっと、考えていて……なんだか、急に」
ぼろっと涙が溢れた。ぎょっとしてカノは慌てて筆記具と手帳をしまい、手拭いを取り出して渡すか渡さないかで逡巡していると、彼女が鼻をすすりながら続けた。
「販路を増やすって……それで今より少しは生活が楽になるって言ってて……でも、べつに私たちの作ってる果実酒は貴族が気に入るような高級なものではないし」
その果実酒のことを訊いていた矢先だったこともあり、カノはそのまま黙って耳を傾けていた。
取材相手の女性はとめどなく流れ落ちる涙を拭うように袖で目元を擦るが、それでも止まらなくて滲んだ声を出しながら空気を求めるようにあえいだ。
「私は別に今より裕福でなくてもいいって、言ったんです……貧しいけど、それでも一緒に支え合えれば、それでっ」
せりあがったものに咳き込むので痛々しく見える。
「それでっ、私は良かったのに……! あの人がいれば、それで……っ!」
「……戻ってこないということは、いつもより長くかかっているわけではなく?」
「どんどん、おかしくなっていったんです」
突然女性の声が冷えたものに変化した。急に声が低くなり、瞳に浮かぶ感情が揺れてカノもよく知るものになった。憎悪だ。
「あの街へ行ってから……あんな街……あそこに、あそこにさえ……」
「あそこ?」
「そうよ! あんな街なんかに行くから!」
勢いよく身を乗り出す女性は、カノを見ているわけではない。ここにはいない夫を詰っているのだ。
「あの街に引っ越そうとか、わけのわからないことを言い出してからおかしいと思ってたのよ! だってずっとこの小さな町が好きだって言っていたのに! だってここには、ここにはなにもかもが足らないけど、それでも私たちの作る果実酒を作るためのものが、そろって……るのに」
どうして。
「理想の街だって……あそこなら、誰でも幸せになれるって……」
そう言うの。
憎しみで歪んだ表情のまま、笑う。その笑みがあまりにも、辛そうだ。
「残ってる果実酒も少ない……二人でやってきたのに。みんな同情はしてくれるけど、それだけ。そりゃそうよね。だれだって、自分のことで手一杯だもの」
「…………」
「ふ、ふふ……若い女に浮気したって言う人もいたけど、そうだったらどれだけいいか。聖女様に入れあげてるなんて、どうしろっていうのよ……」
聖女。
(ドミニコス・アレルヤの象徴とされている、聖女サラ=ラポィリトステ。見目麗しい少女だということだけど、ハンドラーのカペラ嬢と大差ないんじゃないの? どうして美しいものに目がないのか……愛が薄っぺらくなる)
目の前の女も、愛があるからこそ夫の裏切りを許せないのだ。みんな、自分の持つ感情ですべてを量ってしまう。同じ熱量を返してくれないことに我慢できない人間も当然いる。
まだましかもしれない。
カノが考える『女性』という生物は、執念深いがある瞬間ですべての熱が冷めてしまう。本人の中にあるなにかを超えた時に無関心になってしまうのだ。
(この人もそのうちそうなるかも)
物語ではないのだ。永遠なんてものはない。
カノは余計なお世話だと思いながらも口を開く。
「聖女のことを悪く言うのだけは……」
「あなたもなの!?」
声に鋭さが含まれる。攻撃的な視線を向けられたが、殴りかかってこないだけこの人は正気なのだ。それとも臆病なのか。
感情に任せてすぐ手をあげる者はわりと多い。周囲が自分にやさしくないと我慢ならないのか、やさしくされるべきと思い込んでいるのか。自分も同等の暴力を振るわれなければ痛みが想像できない愚か者なのか……カノにはわからない。
「どうして!? 聖女なんて名前だけでしょ!? 前の聖女には悪い噂だってあったわ!」
今の聖女にも良い噂はない。人を人とも思わない残虐な女だと言われているがどこまで真実が混じったものなのかの判別はつかない。
正しさというものは、人間の数だけ存在する。だからこそ、できるだけ客観的な真実を自分が見た時にどう思うのかが大事だ。
(ドミニコス・アレルヤ……機会をみて潜り込んでみよう)
目の前でやかましく聖女を悪しざまに言っている女に対し、自分でも冷めていると思ってしまう。可哀想だとは思うが、それだけだ。
深入りし過ぎると判断を誤ってしまうし、優先すべきは自分の感情だ。他人を優先すると結局は自分を蔑ろにしてしまうことになる。
ただ、カノには抗いがたい欲求がある。探求心という、抑えられないものが。
知りたいという欲が絡むとどうにも我を忘れてしまうことがある。だからこそ普段は冷静でいるように努めているわけだが、もしも聖女に対してその欲求が向けられたら恐ろしいことになる。
一応、止めた。
人としての義理は果たした。
ドミニコス・アレルヤの信徒たちの中に過激な連中がいるということは、少し調べればわかることだ。彼らにとっては聖女は至上の存在で、神の代弁者らしい。
目の前の女性の安否など気にするまでもない。カノは一応制止をしたのだ。
そしてこの出来事を忘れた頃に戦争が始まった。




