予兆
かくかくしかじかと結衣が説明する声を半ば聞き流しながら、ぼんやりと壁の染みを数える。残念ながら、そこまで多くなかった。
「……なるほどね。柊君」
「……あ、はい」
「あなたは、まゆちゃんのこと、どう思ってる?」
自分の内側に目を向けてみる。出てきたのは、整理できない混沌だった。
真弓は喪いたくない。守るべきで、守らなきゃならなくて、できれば傍にいて欲しい。離れれば心細いし、いれば心強い。安心して背中も任せられる。まあ、好意はあるのだろう。
けど、世の中に数多存在するカップルのように、人目もはばからず、手を繋ぐとかそういうことをしてみたいかと聞かれれば……答えは否だ。
傍にいて、今まで通り話をして、任務をして、一緒に戦ってくれればそれでいい。
きっと、俺はそれ以上望んではいけないから。
この四年間で、数え切れないほど任務を行った。その中で、球体保有者と直接戦ったのは三十回ほどか。そのうち二十五回は、無力化に成功して無事逮捕している。けれど、残りの五回は、犯人の抵抗が終わらず、殺害してしまっている。
うち、副隊長が二回、真弓が一回。俺が二回。
前までと違って、殺すたびに手が震えたし、その日の夜は眠れなくなった。殺そうと思って殺したことは無い。この四年間の二回は、全て過失であり半ば事故だ。
けれど、だからと言って俺の罪が軽くなる事は決して無いし、真っ当な人間として生きることが認められるわけでもない。そんなこと、周りが赦しても俺自身が赦せない。
人の命を数多く奪ってきた俺が、人並みに幸せを願うなどと、馬鹿らしい話だ。そんなもの、与えられるわけも無いのに。
この世界は大概理不尽でも、そういう部分はしっかりしているはずだ。
「……好きですよ。けど、そういう対象としては見てないです」
瞬間、俺に注がれていた二つの視線が同時に鋭くなった。剣呑な光を纏って、俺の体を射抜く。
「……うそつき」
「え?」
「お兄ちゃんのうそつき。お姉ちゃんの事好きなくせに、なんでうそつくの?」
十も年下の少女から向けられた疑惑の視線が、俺の精神をガリガリと削っていく。それに追い討ちを掛けるように、隊長も口を開く。
「別に、私はあなたの気持ちがどうあろうと構わないのよ。けど、誰かが誰かを好きになって、幸せになる事に、資格や赦しは必要ない、とだけ言っておくから」
図星を指されて、隊長の顔を直視できなくなる。目が合えば、心の底まで見透かされてしまいそうで。
「……失礼します」
ようやくそれだけ搾り出して、俺は隊長室を出た。
鳴り出した電話の音で、本から顔を上げた。
五十鈴はキョロキョロとあたりを見回してから、受話器を持ち上げる。残念ながら、夏樹はこの間の男の件について本庁に出かけ、春子はその付き添い。杏は永汰と買い出し、協次郎は大学だ。
とどのつまり、五十鈴は留守番なのだ。留守番を任されて、電話を取らないわけにも行くまい。
大きく息を吐いて、五十鈴は受話器を耳に当てた。
「もしもし、警察庁異能犯罪対策特務課です」
『こんにちは、お嬢さん、課長さんはいらっしゃいますかな?』
声からして、年配の男性だろうか。柔和な雰囲気のそれに警戒心を緩め、応対する。
「申し訳ありません、現在課長は席を外しておりまして……何か御用がおありでしたら、伝えておきますが」
それだけの口上を一息で言い切り、内心胸を撫で下ろす。こんな芸当、二年前までは不可能だった。
『さようですか……それでは、また、夕方頃にでも連絡するとしましょうか。突然失礼いたしましたな』
「いえ、えっと……」
『それでは』
通話が終了する。結局、名前を初めとした情報は何一つ話していない。解ったのは、男性であること、おそらくは年を取っているということの二つだけ。しかも、一つは根拠の無い予想でしかない。
冷静に考えてみると、得体の知れない相手だった。
その結論に至ったとき、初夏のオフィスが少し寒く感じた。
午後十一時三十分。
隊長室以来、会話どころか顔を合わせることも無く、任務の準備を終えた俺たちは、本部の食堂で必死の交渉を行っていた。
相手は、俺たちの正面で頬を膨らませる少女だ。
「だからな? 今回は相手の正体がわからない上に、色々怪しいこと言ってるから、結衣は連れて行けない。もしかしたら戦闘になるかもしれないんだぞ? それに、この時間に結衣を連れまわすと、色々面倒だし。学校行ってる時間だろ?」
「今日は土曜日だもん! それに、うちだって戦えるよ!」
「ダメだ」
「なんで!」
「お前は十歳だ。そういう訓練も受けてない。今戦っても、死ぬ可能性が高い。それにな、相手は機密である俺たちを知ってた。電話番号すらも。つまり、相手は高度な情報収集技能を持ってる。何らかの組織である可能性も否めない。そんな相手の下に、お前を連れて行けるか」
「行きたい行きたい行きたい行きたいー!」
「ダメよ。今聞いたでしょ。それに、怜がいない間、怜の代わりにちゃんとお仕事しててもらえないかしら? 夕飯の用意とか、掃除とか、手伝いとか、やらなきゃならない事はいっぱいあるのよ?」
なおも俺たちを睨みつけていた結衣も、諦めたように頷く。
「……わかった。ちゃんと留守番してる」
「ありがとな」
踵を返して食堂を出る。すぐに斜め後ろから聞こえ出した足音に頬を緩めながら、玄関を出た。




