焔を宿した瞳
柔らかいものが頬に当たっている。すっかり俺の椅子兼布団となっていた家のフローリングには、こんなもの置いてなかったはずだ。五十鈴の洗濯物も、ここまでの弾力は持ち合わせていなかったはずだ。
そんな疑問に後押しされて、相変わらず睡眠不足な体を起こす。どうやら、今日はベッドで寝たらしかった。そんな気力、どこにあったのだろう。……ん、ベッド?家にそんなものは無かったはずだが。
起こした体を固定して、周囲を見回す。見たことが無い内装の部屋は、家ではなかった。ついでに、見下ろした俺の体も、女物のパジャマに包まれている。いつの間にこんなものに着替えたのだろうか。
「あ、起きた?」
唐突に前方から届いたのは、五十鈴のものではない声音。が、聞き覚えは十分にあった。
「……あ、杏さん」
「その様子だと、良く眠れたとは言えないみたいだね。けど、数時間は眠ってたみたいだし、とりあえずは一安心かな?」
その話を聞いて、俺はようやくここまでの経緯を思い出した。
昨日、杏さんの家で夕飯を食べさせてもらった俺は、俺の体調を心配する杏さんに進められて風呂に入り、制服の手入れをしている間このパジャマを着ていろと言われ、なんだかんだ流されているうちに結局泊まったんだった。
「悪い、迷惑かけた」
「いーのいーの、それくらいおねーさんを頼ってくれて良いんだからね。気分はどう?」
「まあ、良いとは言えないけど、昨日よりはマシだな」
「そっか、それならボクが世話を焼いた甲斐もあったってことだね」
ぼんやりと自分の膝を見つめる。そこで、俺がベッドで寝ていたことの意味に気づいた。
「ベッド、占領しちゃったな。悪い」
「ん?いやー別に。ボクも入れてもらったから」
は?入れてもらった?道理で、寝返りが打ち辛かったわけだ。何で気がつかなかったんだか。俺も大概だな。
「……何してんだよ」
「だって、人肌で温めてあげようかなって」
「気遣いには感謝するけど、軽々しくそういうことするなって」
「家に呼び込んだ時点で一緒だって。ほら、朝ごはんにしよ?」
そういうと、さっさと居間と思しき方面へ出て行く。俺も、杏さんの危機感の薄さに嘆息しながら、後に続いた。
「また食べなかったのかい?まったく、強情なお姫様だ」
ゾディアックの呆れたような口調も、五十鈴の意地を崩壊させるには至らない。黙って、目の前に置かれた簡素な食事を睨みつけるだけだ。
五十鈴が目覚めた後、四肢のガムテープは手錠に付け替えられ、猛獣用だと説明された檻の中に放り込まれた。その中で、なおかつ四肢を拘束する鎖の範囲内であれば、自由に動けるというわけだ。気休めにしかならないが。
「これで二日連続だよ?水があれば人間は一週間生き延びられるとはいえ、健康的ではないのだから。ジャック君が助けに来た時君が痩せこけていたら、こちらの面目も立たないのだけどね」
「……そっちの面目なんて、私が知ったことじゃない。それに、怜は明日にでも来る」
「おや、随分と自信満々だね。誰かの異能かい?」
おどけたような表情の中に、探るような光を見て、五十鈴は咄嗟に顔を逸らした。今も意識の中で呼びかけている杏は、ゾディアックに気づかれてはならない。
五十鈴にこれ以上の反応は望めないと悟ったのだろう。ゾディアックは階下に消えた。
(大丈夫?五十鈴ちゃん)
(大丈夫だよ)
もちろん方便だ。怜の体温も感じられず、声も聞けず、精神は綱渡りを続けている。食事だって、ゾディアックの施しなんて受けないという崇高な精神ではなく、ただ単に食欲はおろか凭れ掛かった檻の壁から指一本動かす気力すら湧かないだけだ。
(明日、遅くても明後日までには助けに行けるから。それまで、もう少しだけ堪えて)
(分かった)
明後日。最早正常な判断力を失った頭脳では、それまで自分の精神が持つかどうかすら分からない。あの時以来、ここまで長い間怜と離れるのは久し振りなのだから。五十鈴の脳内では、今様々な欲求が飛び交い、ぶつかり合い、消えていく。わけもわからず叫び出したい気分だった。
問題は、五十鈴がスペードのエースを引き当てるのと、救助が来るの、どちらが早いかだ。運が悪ければ、五十鈴は五十鈴のまま、怜に会うことは望めないだろう。
(怜クンに、何か伝言はある?)
(私は大丈夫だから、怜は自分のやるべきことをやって)
(分かった。五十鈴ちゃん、怜クンが『俺が必ず助けるから、後少しだけ耐えてくれ』って)
直接怜の声が聞けたわけでも、体温を感じられたわけでも、顔を見られたわけでもない。けれど、その言葉は不思議と温かくて、ひび割れた心をじんわりと温めてくれた。
――――大丈夫、私はまだ、がんばれる。だから、怜もがんばって
杏さんが耳栓を外したのは、数分後の事だった。
「五十鈴は、何て?」
「言われなくても分かってるから、そんなに身を乗り出さなくても大丈夫だよ」
食卓を挟んで向かい合い、手元には朝食の食器。食べ終わってすぐ、俺が五十鈴の様子を尋ねたのだ。
「『私は大丈夫だから、怜は自分のやるべきことをやって』って言ってたよ」
その言葉は、横面を張り倒されたような、強制的な意識の覚醒を俺にもたらした。相変わらず、俺は情けないな。
五十鈴は、強がりだろうがなんだろうが、『大丈夫』だと言った。なら、俺がうだうだと悩んでいる場合でも、塞ぎこんでいる場合でもないじゃないか。俺は、俺のやるべきことをやる。今日の五時に上層部を説得して俺の参加を認めさせ、明日にでも、ゾディアックのところに乗り込む。
「……ようやく目に焔がついたね。ゾディアックの居場所は三つに絞り込めてるから、あとは上の説得だけだよ」
「朗報だ」
絶対に助け出すから。欲を言えば俺の手で、それがダメでも誰かの手で。何が何でも五十鈴は助け出す。その犠牲が何だろうと。どれだけの血を流しても。
――――だから、あと少しだけ、少しだけ耐えてくれ。




