救済
杏さんから連絡が来たのは、その日の夕方、五時頃だった。
相も変わらず床に仰向けになっていた俺は、唐突に意識へ届いたその声に反応するのが、かなり遅れた。
(怜クン、今大丈夫?)
「……あ。あー、大丈夫だ」
(何か、ぼんやりしてる?)
「……まあ、な。一日ほとんど何もしないで寝てたし」
(え?ちょっと、学校は?)
「……サボった。一日くらい平気だろ」
脳内で、息を呑むような気配がする。どうやら、このテレパシーは電話並みの意思疎通が可能らしい。
脳内で喋るなんて複雑な技ができる状態にないため、ぼそぼそと喋る。今誰かが覗いたら、刑務所行きは免れないな。
(もー、何やってるのさ)
「……別に、そんな気になれなかっただけだ。……それで、どうかしたのか」
(あ、そうだね。会合の日時と場所が決まったよ。日時は明日の午後五時。場所は警視庁でやるから。警視庁の前まで来てくれれば、課長か春子さんがいるはずだから)
「……分かった」
(うーん、元気ないなぁ。ちゃんと食べてる?)
「……ああ、まあな」
(今日は、いつ何を食べた?)
何でそんな質問に答えなきゃならないんだ。俺の勝手だろうに。
(そんなこと言って、心配なんだよ?)
「……今朝五時くらいに、もやしとキャベツ食べたな」
(え?そのまんま?)
「……ああ、道具も調味料もわかんないし、そもそもそこまでして何か食べようとは思わなかったし」
(ダメだよ!ちゃんと食べなきゃ!大事なときに栄養失調とか、やめてよ?)
「……じゃあ、杏さんが何か作ってくれるのか?」
そんなことを言ったのは、ただの思い付きだった。どこかに食べに行けるほどの余力もないし、五十鈴を置いてそんなことができるはずも無い。だからと言って右も左も分からない台所で料理するのは、それこそ気力が持たない。ただ、腹が減っているのは事実で。
そんな事情を抱えて、冗談と本気の境目もなくなった今、口を突いて出て行くのは、訳の分からない質問くらいだった。
(うーん、いいよー。オフィスまで来れる?)
自分の状態を見直してみる。まあ、それくらいならできるだろう。
「……何とか」
(じゃあ、来てねー)
回転数が一桁から上がる兆しの見えない脳みそで、ぼんやりと思考を動かしていく。なんだか、分からないうちにとてつもなく面倒な事を約束してしまったんじゃないだろうか。
「……まあ、いいか」
充電の終わった携帯と、付けっぱなしの時計。それから財布を机からのろのろと持ち上げて、家を出た。
「あら、怜君どうしたの……って、大丈夫なの!?」
「……何が?」
しっかり歩く事すらままならない体を引き摺って、オフィスまで倍の時間をかけてたどり着いた俺を出迎えたのは、春子さんの疑問だった。
俺の顔を見るなり、開口一番上擦った声を上げた春子さんにつられて、藤波さんもこちらを見る。その顔に、困惑が走った。
「お前……すげぇ隈だぞ。しかも顔色も悪い。ちゃんと生活できてんのかよ?」
「……栄養は取ったし、一応一時間くらい眠ったから、だいじょぶだろ」
「そんなの、大丈夫って言わないわよ。ほら、取り合えず横になって」
俺の体を支え、心配そうに寄り添ってくれる春子さんには悪いが、ここで意思が途絶えれば、もう俺は起き上がれない気がする。用件を済ませなければ。
「杏さんは?」
「ああ、あいつならさっき、楽しそうに笑いながらどっか行ったぜ」
脱力する。人を呼びつけておいてどこに行ったんだ。とりあえず、立ちっ放しはマズイか。
ソファに座って、背もたれに体を預ける。革張りのソファは、冷たかった。
「てか、お前その制服着っぱなしか?」
指摘を受けて、自分の体を見下ろす。ブレザーもスラックスもしわが寄っているし、ワイシャツも薄汚れている。考えるまでも無く、昨日から着たきりだ。
弱々しく頷いた俺に、藤波さんは右手で顔を覆って、天を仰いだ。
「まったく、幼馴染一人いなくなったくらいで、メンタル弱すぎだろ。そんなんじゃ、説得も戦闘も無理なんじゃないのか?」
図星を指されて、言葉が出ない。それ以上に、五十鈴がいないことを再び正面から突きつけられて、呼吸すら怪しくなっていた。
「たっだいまー!あ、怜クン来てたんだ」
「……言われた通り、来たぞ」
「じゃ、行こっか」
……どこに?
そんな疑問も虚しく、「はい立って立ってー」とあれよあれよと言う間にオフィスから連れ出され、バスに乗車。
「……どこに行くんだ?」
「どこって、ボクの家だよ。どこで料理するつもりだったのさ」
「……オフィス」
「あ、あそこお湯沸かす以上のことはできないんだ」
……そうなのか。しかし、杏さんの家に招かれるとは予想外だな。腕を引かれて連れて行かれているこの状態で、無事に家まで帰れるだろうか。
「さ、入って」
招き入れられたのは、マンションの一室。整頓された、綺麗な部屋だ。
「ソファにでも座っててね」
そのまま、台所に入って行く。
「じゃあ、ご飯作り終えるまでの三十分くらい、のんびりしててー」
お言葉に甘えて、ソファに深く腰掛ける。酷使され続けた背中が、安堵の声を上げた。
ぼんやりと、家とは違う天井を見つめる。
そこに五十鈴の顔が浮かんだ気がして、慌てて首を振った。




