日常の再起
「あ、ジャック君!」
最初の戦闘から数日が経って、「日常」が戻りかけてきた。あれ以来招集がかかる事もなく、脳内に杏さんの声が響く事もない。紛れも無く、今まで通り。
「ああ、瀬上か。どうかしたのか?」
「あ、ううん。たいしたことじゃないんだけど、一緒に帰らない?」
珍しい事を言い出したものだ。瀬上と俺の家は、直線的には近いとはいえそこまで近所というわけでもない。ましてや、道路の話をするならば歩いても五、六分はかかるはずだ。それゆえに、あまり一緒に帰ることは無い。いや、今まで一度も無かったか。
「ああ、いいぞ。けど、どうかしたのか?」
「え?」
「いや、そういうこと言ってくるのって、初めてだろ。何かあったのか?」
そこで瀬上は少し考え込むような仕草を見せた後、軽く笑った。
「ううん。何となく。それじゃ、ダメ?」
「いや、別に。聞いてみたかっただけだ」
特に会話が盛り上がるわけでもなく、かといって気まずい沈黙が続くわけでもなく。クラスメイト相応の、二言三言の会話を続けながら、通学路を辿る。
その中で、俺は瀬上がただ一緒に帰りたかっただけではないことを悟った。会話の端々や、ちらちらとこちらに向けられる視線がそれを物語っている。
そして、おそらく聞きたいことはこの間のことだろう。『催眠術師』に襲われた時、ロクに説明もしないで家に帰してしまったのだから。課長たちにも、瀬上が巻き込まれた事は伝えていない。最初からあの場にいなかったことになっているはずだ。
一向に話を切り出す様子が見られないため、俺の方から水を向けてみる事にした。
「……なあ。聞きたいことがあるんだろ?」
「……あ、えっと、そ、そうなの。凄いね、分かっちゃうんだ。うん。一つ聞きたくて、ジャック君を待ってたの」
浮かんだ狼狽を押し込めて、俺の問いに肯定する。その目は怯えを隠そうとせず、俺を見ていた。普通そんなものを見れば何らかの感情を抱くはずなのに、俺の心は不気味なほど穏やかだ。笑えてくるほどに。
「……ねぇ、この間、何があったの?私、まったく覚えてないんだ」
予想通りの質問。しかし、予想していたからといってすらすらと答えが出るかと言えばそうじゃない。そんな俺の刹那の逡巡を、瀬上は目ざとく見止めた様だった。
「俺も、よくは知らないんだけど、何か、催眠術みたいなのにかかってたらしい。警察で検証して、確認されたから間違いないと思う」
予防線を張り巡らした上に事実を所々伏せた形での返答。それに、瀬上は何も言わなかった。本当に信じたのか、俺の態度から信じる事にしたのか、それを知ることは出来ないが、結果的に信じてくれたのならそれでいい。
「そっ……か。分かった。ありがとう。催眠術なんて、本当に出来るんだね」
「立証するのも難しいから、警察も手を焼いてるってさ。まあ、捕まったのは捕まったから、安心していいんじゃないかな」
そこで、唐突な悪寒に口を噤む。背後から誰かに凝視されているような気配が背筋を貫き、全身の体温を体の中心に収縮させる。それほどまでに、粘りつくような視線だった。
「ッ!?」
今までに二度、攻撃意思のある人間と相対した記憶が、本能が、その危険性を告げる。咄嗟に振り返った先にいたのは、路地の角から右目だけで覗く、白い髪を持つ少女。
我知らず、ため息が漏れる。警戒した自分が馬鹿だった。何が記憶だ。的外れもいいところだ。
とはいえ、五十鈴も並々ならぬ気配を漂わせている。今にも真っ黒いオーラが立ち昇りそうだ。俺はアイツの機嫌を損ねるような事、しただろうか。思い当たる節が無い。
「五十鈴、どうした?そんなところで」
少し距離があるため、軽く声を張り上げる。呼びかけが聞こえたのだろう、見るからに不機嫌そうな表情の五十鈴が、ゆっくりと歩いてきた。
「おかえり」
「……ただいま」
抱きついてくる事も、隣で手を繋ぐことも無い。「私怒っています」とばかりに軽く頬を膨らませ、視線を合わせようともしない。
「あ、東雲さん、だったよね。こんにちは」
「……こんにちは、瀬上さん」
五十鈴は元来贔屓目に見ても愛想のいい奴ではないが、それにしたってこんなにつっけんどんな態度は初めてだ。怯えているわけでも、嫌なわけでもない。ましてや俺に対してのように拗ねているわけでもない。強いて言うのなら対抗心だろうか。敵愾心といってもいいかもしれない。何に対してのものなのかまでは分からないが。
「ごめんね、ちょっと聞きたいことがあったから無理言って一緒に帰らせてもらったの」
言外に何かを伝えているような言葉。ただ、その何かを俺が知ることは出来ない。五十鈴の機嫌を回復させるための手立てを、原因すら分からない俺が理解できるはずも無い。そういうことにしておこう。
その言葉を聞いた五十鈴はと言えば、視線の鋭さを疑問に替えて俺に確認してくる。方法が何であれ弁明のチャンスを与えられたのだ、乗らないわけにはいかない。
「あ、ああ、そうだよ。瀬上は何が起こったのかわからないままだったから、説明してたんだ。さすがに何も知らないのは可愛そうだろ」
ようやくこの場の状態を把握したらしく、五十鈴が頬の膨らみを引っ込める。その様子に苦笑しながら、落ち着かせるために頭を撫でてやる。
頬の膨らみが元に戻った。紅潮した頬がさっきよりも大きく膨らみ、俺を上目遣いで睨みつける。……機嫌を損ねるような事だっただろうか。他人の前でやるのを嫌がるどころか率先してねだる方が多いと思うのだが。
「……仲がいいんだね」
「ん?ああ、物心ついたときから一緒だからな。妹みたいなものだよ」
「物心ついたときから?」
瀬上が首を傾げる。そういえば、五十鈴との関係は、ほとんど話していなかったな。もっとも、俺とこいつの関係性を知っている奴なんて、書類上の保護者である伯母くらいなものだが。あまり気持ちのいいものじゃない。
「正確には、五十鈴が生まれたときからだな。家が隣だったし」
「へぇー」
納得してもらえたらしい。ここではないどこかをみて小さく頷いている。
「じゃあ、私こっちだから。また明日ね」
軽く手を振った瀬上が曲がり角の向こうに消え、二人きりになる。
「ああ、じゃあな」
その声が聞こえたのか、去っていく瀬上が、もう一度振り返って手を振った。




