陽溜まりの孤児院、踏みにじられた小さな宝物
帝都ルテティアの東区、運河の恩恵も届かない寂れた外れに、古びた石造りの建物がある。『オリフィーラ孤児院』――病や貧困、あるいは先の小競り合いで親を失った子供たちが、身を寄せ合って暮らす場所だ。
建物の屋根はところどころ瓦が剥げ落ち、隙間風が容赦なく吹き込む。しかし、その中庭には、帝都のどの貴族の庭園よりも温かく、純粋な陽だまりがあった。
「それから、勇敢な小鳥さんは、大きな大きな竜に向かって言いました。『僕の森を返して!』って」
「わあ……っ! 小鳥さん、食べられちゃわないの?」
「だ、大丈夫だよ! だって、小鳥さんには魔法の羽があるんだもん!」
粗末な木のベンチに座る私の周りを、十人ほどの幼い子供たちが囲み、目をキラキラと輝かせながら私の言葉に聞き入っていた。
私の膝の上にあるのは、一冊の古びた絵本だ。紙は黄ばみ、表紙は擦り切れている。これは、本を買うお金がない孤児院の子供たちのために、年長の子供たちが古紙を寄せ集め、木炭と僅かな絵の具で手作りした、この孤児院にとって『宝物』だった。
今日の私は、使い古された木綿のワンピースを着た、下町を放浪する身寄りのない娘「エラ」だ。仕事の合間を縫っては、こうして孤児院に顔を出し、シスター・クララの手伝いをしたり、子供たちに文字を教えたりしている。
長らくかかった予算の最終調整が済み、数日以内に孤児院の改修目処が立ち始めていた。改修が済めば、子供たちの新しい本の搬入も始まる。ここは生まれ変わるのだ。
「ふふ、エラお姉ちゃんのお話は、本当に上手だねえ」
皺くちゃの顔に優しい微笑みを浮かべ、シスター・クララが木桶を抱えて歩いてきた。彼女はもう六十を過ぎているが、生涯を子供たちのために捧げてきた、聖女のように慈悲深い女性だ。
「シスター・クララ。無理をなさらないでください。水汲みなら私がやりますから」
「いいんだよ、エラちゃん。あんたにはいつも助けてもらってばかりだ。……この子たちの笑顔を見ていると、腰の痛みなんて飛んでいっちまうからね」
シスターはそう言って、私に抱きついている一番小さな五歳の女の子、アンナの頭を愛おしそうに撫でた。アンナは私の膝の上の絵本を小さな手で大切そうに撫でながら、「えへへ」とはにかんだ。
ここには金貨や宝石はない。私がこうして訪れるのは、子供たちが満足な食事すら、三日に一度しか食べられない状況だったからだ。きっとまた、不正が蔓延っている。
それでも、ここには確かに『愛』があった。私は「エラ」としてこの場所を訪れるたび、温もりを間近に感じることができた。
だが、その神聖な陽だまりは、突如として踏みにじられた。
――ガシャァァン!!
孤児院の古びた鉄門が、蹴破られるような暴力的な音を立てて開け放たれた。
「ひっ……!」
子供たちが悲鳴を上げ、私の背後に隠れる。
中庭に土足で踏み込んできたのは、上等な鎧を着崩し、腰に剣を下げた十数人の荒くれ者たちだった。彼らの胸当てには、帝都の慈善事業を統括する『ヴァレリウス侯爵家』の紋章――白百合の意匠が刻まれている。
「やあやあ、貧乏長屋のネズミども。今日も元気に泥水啜って生きているか?」
下卑た笑いを浮かべて進み出てきたのは、ヴァレリウス侯爵の懐刀であり、裏の汚れ仕事を一手に引き受けている男、ゼコスだった。
「ゼコス様……! 今月も、少し待っていただけないでしょうか。先月、国から支給されるはずの保護金がまだ届いておらず、子供たちの麦粥を買うお金すら事欠いている有様で……」
シスター・クララが震える声で前に出た。だが、ゼコスは鼻で笑い、彼女の腹を容赦なく軍靴で蹴り飛ばした。
「がはっ……!」
「シスター!!」
地面にうずくまるシスターに、ゼコスは冷酷に見下ろした。
「保護金だと? 笑わせるな。皇帝陛下が戦争ばかりしているせいで、国庫は空っぽなんだよ。ヴァレリウス侯爵閣下はな、お前らのような生ゴミを生かしておくために、わざわざご自身の貴重な財から寄付を募ってやっているんだ。だが、それももう限界だ。この土地は、閣下が『貴族用の遊技場』として買い取ることになった」
「そ、そんな……! ここを追い出されたら、この子たちはどこへ行けば……!」
「安心しろ。閣下は慈悲深い。このガキどもは、南の『王立紡績工場』と『西の岩塩鉱山』で引き取ってやると仰っている。一日十六時間も働けば、ガキは半分になるし、そうしたら三食パンの耳くらいは食わせてやるそうだ。労働の喜びを教えてやろうってんだ、感謝しろ!」
工場や鉱山……それは事実上の『奴隷労働』だ。幼い子供たちがそんな環境に送られれば、数日と持たずに過労と病で命を落とす。
「嫌だ! 孤児院を出ていくのは嫌だ!」
アンナが泣き叫び、私にしがみつく。その拍子に、彼女の手からあの『手作りの絵本』が滑り落ち、ゼコスの足元へと転がった。
「あん? なんだこのゴミは。貧乏くせえな」
「あ……! だめ、それは、お兄ちゃんたちが作ってくれた、大切な……!」
アンナが手を伸ばそうとした瞬間。
ゼコスは、ニヤリと残酷な笑みを浮かべ、その泥に塗れた軍靴で、絵本を力任せに踏みにじった。
ビリッ、という嫌な音と共に、手作りのページが破れ、子供たちが描いた不格好で愛らしい小鳥の絵が、泥水の中に散らばっていく。
「あ、あああ……っ!!」
アンナが絶望の悲鳴を上げ、子供たちが一斉に泣き出した。
「ハハハハハ! ゴミにはゴミの分際ってもんがあるんだよ。三日後だ。三日後にお前ら全員を荷馬車に詰め込んで連行する。逃げようとする奴は、その場で斬り捨てるからな!」
ゼコスたちは満足げに笑いながら、孤児院を後にした。
破壊された中庭。泣き叫ぶ子供たち。泥にまみれたシスターと、二度と読めなくなった宝物の絵本。
私は、アンナを強く、折れそうなほど強く抱きしめた。
私の視線は、泥に沈んだ小鳥の絵に注がれていた。心臓の奥底で、ドクン、と、どす黒い怒りの血が脈打つ音がした。
(――ヴァレリウス侯爵。やはりそうだったのね。国庫からの支援物資や孤児院の保護金を着服し、あまつさえ子供たちを奴隷として売り飛ばす気ね)
この場所を、そして子供たちの唯一の宝物を。
彼らは、最も踏みにじってはいけないものを踏みにじった。
「泣かないで、アンナ。みんなも」
私は、子供たちに向かって、氷のように冷たく、しかし夜明けの太陽のように絶対的な確信に満ちた声で言った。
「三日後、馬車は絶対に来ないわ。……悪い怪物は、正義の魔法使いが、全部退治してくれるから」
この帝国に巣食う偽善の化け物の首を、私が必ず、地獄の底へ叩き落としてやる。
──
その日の深夜。帝宮の最奥、査察皇女の執務室。
私は日中の木綿のワンピースを脱ぎ捨て、鏡の前に立っていた。
「お待ちしておりました、エレオノーラ殿下は。……今夜はまた、ひどく冷たい瞳をしておいでだ。氷点下の美しさとは、まさに殿下のためにある言葉ですね」
闇の中から滑るように現れたのは、諜報と暗殺を司る影護官、ギルバート。蜂蜜色の髪を揺らす彼は、いつもの不敵な笑みを浮かべながら、私のために極上のダージリンティーを淹れ、テーブルに置いた。
「ギルバート、戯言はよい。殿下は今、言葉を発するのも煩わしいほどにお怒りなのだ」
部屋の隅、影と同化したように立っていた――最強の武を誇るラインハルトが、低い地響きのような声で嗜めた。彼の研ぎ澄まされた切れ長の目は、すでに主の殺気を共有し、静かに獲物を求めていた。
「二人とも。ヴァレリウス侯爵の調査の進捗具合は?」
私は椅子に腰掛けることもせず、冷酷な声で短く問うた。
「はっ。すべて殿下のご推察通りでございました」
ギルバートが茶化すのをやめ、分厚い書類の束を差し出した。
「ヴァレリウス侯爵は『帝国慈善委員会』の委員長という立場を悪用し、国から支給されたはずの孤児院や救貧院への保護金を、過去五年にわたり、巧妙に全額横領していました。その額、およそ五百万金貨。さらに、資金不足で運営できなくなった施設から子供たちを安値で買い上げ、裏社会の闇商人を通じて、隣国の鉱山や違法な魔術実験場へ『消耗品』として売り飛ばしております」
「五百万……。それだけの金があれば、帝都のすべての孤児が毎日腹一杯の食事を食べ、温かく清潔な毛布で眠れたはずよ」
私の声は、怒りのあまり微かに震えていた。
「さらに腹立たしいことに」
ラインハルトが、奥歯をギリリと噛み締めながら続けた。
「奴は今夜、自身の邸宅にて『孤児救済のための特別慈善晩餐会』と銘打った大規模な夜会を開いております。王宮の貴族たちから同情を誘い、さらなる寄付金を募って、それをそっくりそのまま自身の懐に入れる算段でしょう。……まさに、人の皮を被った悪魔にございます」
「偽善者の極みね」
私は冷たく吐き捨てた。
子供たちの血と涙を啜り、泥水に沈んだ絵本の上で、最高級のワインを傾ける男。
それが、父の留守を預かる帝国の貴族の正体だというのなら。私は、この手で彼らの喉笛を掻き切ることを決して躊躇わない。
「ラインハルト、ギルバート。今夜は、少し派手に行くわよ」
私はクローゼットを開き、一着のドレスを引き出した。
それは、夜の闇のような漆黒の生地に、流れるような血の赤――深い真紅の薔薇の意匠が刺繍された、ひどく美しく、そして残酷なドレスだった。胸元には、皇帝直属の処刑権限を示す『金色の双頭の鷲』の勲章が、ギラギラと冷たい光を放っている。
「偽善に酔いしれる豚どもに、本物の『地獄の底』を見せてあげるわ。彼らが売り飛ばした子供たちの絶望がどれほどのものか、その身に刻み込ませてやる」
「御意。この剣、殿下の怒りのままに振るいましょう」
「ふふ、最高の夜会になりそうですね。彼らの悲鳴で、極上のオーケストラを奏でて差し上げますよ」
私は真紅のルージュを唇に引き、二人の影を従えて、闇の中へと出陣した。




