指先に宿る魔法、下町の小さな仕立て屋
カシャ、カシャ、と、規則正しいハサミの音が、狭い店内に心地よく響いていた。
そこは下町の片隅にある、古びた仕立て屋『針と糸』。棚には色褪せた布地や、使い古された色とりどりの糸玉がところ狭しと並んでいる。お世辞にも裕福とは言えない店構えだが、窓から差し込む柔らかな午後の光が、浮遊する埃さえも綺麗に煌めかせていた。
「ねえ、エラちゃん。ちょっとこっちを向いてみて?」
鈴を転がすような愛らしい声に、私は手元に置いていた仕立て用のヘラを置き、顔を上げた。
声をかけたのは、この店の若き店主であり、私の仕事仲間でもあるリリィだ。彼女は私と同世代の十六歳。栗色の髪を不器用にお団子にまとめ、鼻の頭にうっすらとチャコペンの粉をつけた彼女は、今、嬉しそうに私の元へ駆け寄ってきた。
「ほら、やっぱりぴったり! この淡い藤色のリボン、エラちゃんの綺麗な金髪に絶対似合うと思ったの!」
リリィは私の背後に回ると、私の少し長めの髪を、驚くほど器用な手つきで三つ編みに編み込んでいく。そして、その結び目に小さな端切れで作ったリボンをあしらった。
「まあ、可愛いわ。ありがとう、リリィ」
私は手鏡を覗き込み、ふふ、と微笑んだ。
鏡の中に映るのは、粗末な麻のブラウスを着た、どこにでもいる下町の娘「エラ」。だが、その結ばれたリボンは、宮廷で最高級のダイヤモンドを髪に飾られるよりも、遥かに私の心を温かく満たしてくれた。
リリィとお互いの髪を編み合ったり、売れ残った安い果物のジャムを分け合って食べたりする時間は、何物にも代えがたい私の宝物だった。
「私ね、もっともっと刺繍の腕を磨いて、いつか自分の作ったドレスを、あの憧れのエレオノーラ様に着てもらうのが夢なの!」
リリィは目を輝かせながら、胸の前で小さな拳を握りしめた。
「エレオノーラ様……?」
私は思わず瞬きをした。自分の本当の名前を、こんな下町の小さな店で聞くことになるとは思わなかったからだ。
「ええ! 皇女様はね、とっても強くて美しくて、皇帝陛下が不在のこの帝国を、悪い貴族たちから守るために戦ってくださっているって噂でしょう? 私たちの希望の星だわ。だから私、皇帝様に相応しい、世界で一番美しい刺繍をほどこしたドレスを贈りたいの。……あ、でもね、これはまだまだ夢の話なんだけどね……」
リリィはいたずらっぽく微笑むと、作業机の引き出しから、そっと白いリネンのハンカチを取り出した。
それを見た瞬間、私は息を呑んだ。
そこには、息を呑むほどに精緻な「青い薔薇」の刺繍が施されていた。
何十色もの青い糸を使い分け、グラデーションをつけられたその薔薇は、まるで朝露を吸って今まさに開きかけたかのような、圧倒的な生命力を放っている。下町の貧しい環境で、独学でこれほどの技術を身につけるとは、彼女の指先には本物の魔法が宿っているに違いなかった。
「これね、エラちゃんの綺麗な紫色の瞳を見ていたら、どうしても刺したくなっちゃって。エラちゃんにプレゼントするために、夜な夜な内緒で進めているの。完成したら、真っ先に渡すからね!」
「リリィ……」
胸の奥が、じんわりと熱くなる。彼女の純粋な夢、そして私への温かい情愛。この健気な少女の未来を、私は何としても守らなければならない。心の底からそう思った、まさにその時だった。
――バァン!!!
突如として、店の立て付けの悪い扉が、乱暴な力によって蹴り開けられた。
「おいおい、ここか? 市場で噂の『天才刺繍娘』の店とかっていうのは」
入ってきたのは、仕立ての良い、しかし悪趣味な毛皮を羽織った男――チェスター侯爵の工房長である、ガストンという男だった。彼の背後には、ギラギラとした下卑た目を剥いた私兵たちが数人、抜身の剣を手に控えている。
「な、何事ですか……!?」
奥の部屋から、目の不自由なリリィの祖母が、杖を突きながら震える声で出てきた。ガストンはそんな老婆を一瞥すると、鼻で笑い、リリィの作業机の上にあった青い薔薇のハンカチを乱暴に引っ掴んだ。
「ほう……なるほど、こいつは上珠だ。我が主、チェスター侯爵閣下がお前のこの『腕』を気に入られた。光栄に思え、小娘。今すぐ閣下の特設工房へ来い。お前を侯爵家専属の『織り子』として雇ってやる」
「え……? でも、私はこの店をおばあ様と守らなければなりませんし、そんな急に……」
リリィが困惑して断ろうとすると、ガストンの顔が歪んだ。
「断るだと? 下町のドブネズミが、侯爵閣下直々の命を拒否する気か!」
「お待ちください! この子はまだ子供です、どうか……!」
祖母が必死にガストンの袖に縋り付く。だが、ガストンは「鬱陶しいババアだ!」と叫び、老婆の細い身体を容赦なく突き飛ばした。
「おばあ様……っ!」
激しい音を立てて床に倒れ込み、苦痛に呻く祖母。それだけではない。私兵たちは店内の棚をひっくり返し、貴重な絹糸や布地をハサミでズタズタに切り裂き、泥靴で踏みにじっていった。
「下町のゴミ溜めに、こんな上等な技術は不要だ。リリィ、来い!」
「嫌! 離して! エラちゃん、おばあ様を……!」
リリィは涙を流しながら、男たちに両腕を掴まれ、引きずられるようにして連れ去られてしまった。
残された店内は、見るも無残に破壊され、リリィの祖母のすすり泣く声だけが響いていた。
私は、倒れた祖母をそっと抱き起こし、その背中を優しく撫でた。
私の視線は、床に落ち、泥に汚れた「青い薔薇」の刺繍へと向けられていた。
(――チェスター侯爵。宮廷の『美の先駆者』と謳われる正体が、これだったとは)
私の胸の奥で、氷のように冷たく、しかし烈火のごとく激しい怒りが、静かに、確実に燃え上がった。
「大丈夫ですよ、おばあ様」
私は祖母の耳元で、極めて落ち着いた、しかし絶対の確信を込めた声で囁いた。
「リリィは必ず、私が連れ戻します。この店を汚し、リリィの夢を奪った者たちには……その代償を、骨の髄まで支払わせてあげますから」
私は、髪に結ばれた藤色のリボンをそっと愛おしそうに撫でた後、完全に『エラ』の仮面を脱ぎ捨て、立ち上がった。
───
深夜。帝宮の最奥にある、査察皇女の私室。
昼間の麻のブラウスは消え失せ、現在の私は、夜の帳をそのまま切り取って仕立てたかのような、妖艶で美しい漆黒のドレスに身を包んでいた。
「今夜はまた、随分と恐ろしい『お顔』をされておいでだ。また新たな不届き者が、自ら羽をむしり取られにでも参りましましたか?」
闇の中から、音もなく蜂蜜色の髪を揺らして現れたのは、ギルバートだ。彼は不敵な笑みを浮かべながら、私の前に跪き、私のドレスの裾に恭しく口づけを落とした。
「ギルバート、軽口はやめろ」
続いて姿を現したのは、大柄な体躯を黒衣に包んだラインハルトだ。彼の鋭い切れ長の目は、すでに微かな殺気を孕んでおり、背負った剣が主の怒りに呼応するように不気味に震えていた。
「二人とも、待たせたわね」
私は豪奢な椅子に深く腰掛け、冷酷な声音で告げた。
「チェスター侯爵の身辺、および彼が管理する『工房』の調査結果を聞かせて」
ギルバートは立ち上がると、いつもの余裕に満ちた笑みを消し、一冊の厚い報告書を差し出してきた。
「チェスター侯爵の『美の先駆者』という名声は、すべて血と屍の上に築かれた偽物でした。彼はここ数カ月、地方の開拓村から、才能ある若い職人や刺繍娘を言葉巧みに、あるいは力ずくで拉致し、邸宅の地下にある秘密工房に監禁していました」
「監禁……」
「ええ。そこはまさに『美の監獄』。職人たちは昼夜を問わず、過酷な労働を強制され、わずかな食事しか与えられません。過酷な仕事のせいで視力を失った者や、結核を患って動けなくなった者は、容赦なく大運河へ生きたまま投げ捨てられていたようです。判明しているだけでも、すでに三十名以上の命が奪われています」
「なんてこと……」
「そして、彼らが命を削って作った最高の作品を、チェスター侯爵は『自分自身のデザインであり、専属の職人が一針一針魂を込めて作った最高傑作だ』と偽り、貴族たちに卸し、高値で売り捌いていたのです。今夜、まさにその侯爵邸で、貴婦人たちを集めた『春の新作衣装発表会』が催されています」
ギルバートが、細身の短剣を指先で弄びながら、冷酷に目を細めた。
「そこには、本日拉致された仕立て屋の少女――リリィ殿の刺繍をあしらったドレスも、彼の『最新作』として展示される予定とのことです」
「……どこまでも浅ましく、身の程知らずね」
「リリィの純粋な夢と、職人たちの血と涙を、己の浅ましい虚飾のために利用するなんて。美を追求する資格すらない、ただの強欲な怪物だわ。……今夜、その偽りのドレスを、彼の最高の死に装束にしてあげましょう」
私は胸元に、皇帝から授かった『査察皇女』の証――金色の双頭の鷲の勲章をピンと留めた。
「ラインハルト、ギルバート。最高に血生臭い『美の祭典』にしましょう。蛆虫どもの虚飾を、すべて剥ぎ取りに行くわよ」
「御意。殿下の御心のままに」
二人の影が、私の背後にぴったりと付き従う。
夜明け前の最も深い闇の中、私たちは断罪の舞台へと出陣した。




