偽りの聖水と、冷酷なる薬売りの終焉
帝都ルテティアの北西部に位置する下町地区。ここは、先のバルタザール伯爵の事件で救われた南地区とは異なり、薄暗い湿気と、どこか重苦しい沈黙が支配する場所だった。
石畳の隙間からは、泥の混じった不衛生な水が染み出し、行き交う人々は皆、一様に顔を青白くさせて俯いている。
「エラお姉ちゃん! こっち、こっちだよ!」
そんな沈んだ空気の中で、私を呼ぶ鈴を転がしたような明るい声が響いた。
声をかけてくれたのは、テオ。この近くのボロアパートに住む、十歳ほどの利発な少年だ。彼は、私の「エラ」としてのもう一つの大切な友人だった。
「お待たせ、テオ。ニーナちゃんの具合はどうかしら?」
私は、動きやすい麻のワンピースのポケットに両手を忍ばせ、テオへと歩み寄った。
テオには、六歳になる妹のニーナがいる。だが、ニーナは今、帝都の平民の間で流行している「帝都熱」という流行り病に冒され、寝たきりの状態が続いていた。
テオは、小さな顔をキュッと曇らせて、私の袖を引いた。
「ううん……あんまり良くないんだ。昨日、なけなしの貯金をはたいて、薬事ギルドの『聖水』を買って飲ませたんだけど、全然熱が下がらなくて……。むしろ、ニーナ、うなされてばっかりで……」
テオの瞳に、今にもこぼれ落ちそうな涙が溜まっていく。
私は胸が締め付けられるような痛みを覚え、彼の小さな肩をそっと抱き寄せた。
「……薬事ギルドの『聖水』ね」
その言葉を口にしただけで、私の奥歯がギリ、と微かに鳴った。
現在、帝都の薬草や医療品の流通は、すべて『ルブラン薬事ギルド』という組織に一元化されている。これは、お父様が遠征へ赴いた後に、貴族院臨時総会で強引に可決された「帝都衛生管理令」によるものだ。
この法律が施行されて以来、それまで下町の個人薬師たちが安価で処方していた一般的な熱さましの薬はすべて販売を禁止され、代わりにルブラン薬事ギルドが独占販売する「聖水」だけが、平民が手に入れられる唯一の治療薬となった。
そしてその価格は、かつての薬の十倍以上。
貧しい平民たちは、愛する家族の命を救うために、家財を売り払い、借金を重ねてその「聖水」を買い求めている。しかし――その薬の効き目は、極めて疑わしいものだった。
「だから僕、森に行って『青葉草』を採ってきたんだ! 昔、お医者さんが『青葉草の根を煎じて飲ませれば、どんな熱も一晩で引く』って教えてくれたから」
テオは、誇らしげに、しかし周囲を警戒するようにして、抱えていたボロ布を少しだけめくって見せた。
そこには、青々とした新鮮な野草が、その細い根とともに大事そうに包まれていた。
「えらいわね、テオ。一生懸命、妹のために……」
私がテオの頭を優しく撫でた、その時だった。
「おい、そこの餓鬼。そこで何を見せ合っている」
泥靴で石畳を乱暴に踏み鳴らす音が響き、路地の奥から三人の男たちが現れた。
男たちは、胸元に「天秤と蛇」をあしらった豪華な紋章を身につけていた。ルブラン薬事ギルドの息がかかった、私設の衛生警備兵――実質的な借金取りであり、ごろつきだ。
「ひっ……!」
テオが、反射的に私の背後に隠れ、薬草の包みを抱え込んだ。
「おい、隠すな。今、緑色の草が見えたぞ。……それは『青葉草』だな?」
警備兵のリーダー格である、ひげ面の男が、下卑た笑みを浮かべてにじり寄ってきた。
「ギルドの許可なく、帝都市外から薬草を採取、および所持することは『帝都衛生管理令』により固く禁じられている。これは密売、および違法調剤の重大な犯罪だ」
「ち、違う! これは妹の熱を下げるためのもので、売るためじゃない! 密売なんかしてない!」
テオが必死に叫ぶが、男は鼻で笑い、その大きな手でテオの胸元を掴み上げようとした。
「うるさい、ガキが。言い訳はギルドの地下牢で聞く。その薬草は没収、さらに罰金一万ルテだ。払えなければ、お前もその妹も、ギルドの生薬加工場で奴隷並みに働いてもらうからな」
「放して! 放してよ!」
もがくテオ。
その小さな体が地面に放り出され、抱えていた青葉草が、泥の浮いた石畳の上に散らばった。
男の一人が、それを嘲笑うように、泥靴の底でぐにゃりと踏みにじる。
「あっ……! ニーナの、薬が……!」
テオが絶望に目を見開き、泥にまみれた薬草に手を伸ばして泣き叫んだ。
私の頭の中で、何かが、静かに弾ける音がした。
「……子供相手に、ずいぶんと立派なお仕事ですことね」
私はテオの前に立ち、男たちを正面から見据えた。
その瞳には、すでに「エラ」としての温もりは消え失せ、底冷えするような漆黒の怒りが宿っていた。
「あ? なんだこの女は。ギルドの法執行を邪魔する気か?」
「法? 誰が定めた法かしら。国会を欺き、不当に医療を独占して、病人を食い物にする。それを法と呼ぶなら、この国の天秤はとっくに腐り落ちているわね」
私の放つ、あまりにも堂々とした、そして冷徹な覇気に、男たちは一瞬、息を呑んで後退りした。ただの下町の娘が放つはずのない、圧倒的な高貴さと威圧感。
「ち、ちっ……小生意気な女め。おい、今日はこれくらいにしてやる。小僧、明日の朝までに罰金を持ってこい。さもなければ、妹ごと引きずり出してやるからな!」
男たちは、私の視線に耐えかねたように吐き捨てると、逃げるように路地を去っていった。
静寂が戻った路地裏。
テオは地面に膝をつき、踏みにじられた薬草をかき集めながら、声を殺して泣いていた。
「……ごめんね、エラお姉ちゃん。僕が弱いから、ニーナの薬が……」
私は彼と同じ高さに屈み、テオの小さな手を両手で包み込んだ。
泥だらけの、けれど一生懸命に妹を救おうとした、温かい手。
「謝らないで、テオ。貴方は何一つ悪くないわ。悪いのは、人の命を、お金を絞り出す道具としか思っていない、汚い大人たちよ」
私はそっと、彼の涙を指先で拭った。
「信じて、テオ。明日の朝には、きっとニーナちゃんのための、本物の、一番効くお薬が届くから」
「え……?」
不思議そうに見上げるテオに、私は極上の笑みを返した。
そして、彼が「エラお姉ちゃん、これ……踏まれなかった、お礼だよ」と、震える手で差し出してくれた、泥のついていない三粒の野いちごを受け取った。
それを口に含むと、甘酸っぱい、けれど、確かに彼らの生きる実直な温もりの味がした。
待っていなさい、ルブラン子爵。
貴方たちが平民から絞り取った血税と涙、そのすべてを、今夜、一滴残らず吐き出させてあげるわ。
帝宮の、一般の貴族は立ち入ることすら許されない最深部。
そこに、私の執務室はある。
私は、昼間の麻のワンピースを脱ぎ捨て、漆黒のシルクで作られた、夜を纏うような美しいドレスに身を包んでいた。胸元には、皇帝から託された、光り輝く双頭の鷲の勲章。
「おかえりなさいませ、エレオノーラ殿下」
私の帰還と同時に、部屋の影が揺れ、二人の男が音もなく姿を現した。
一人は、彫刻のように整った顔立ちに、一切の感情を排した鋼の瞳を持つ、大柄な影護官筆頭、ラインハルト。彼はただそこに立つだけで、周囲の空気を凍りつかせるほどの絶対的な武のオーラを放っている。
もう一人は、蜂蜜色の髪を指先で弄びながら、妖艶な、けれど極めて危険な笑みを浮かべる美男子、ギルバート。
「首尾はどう、ギルバート?」
私は豪奢な椅子に深く腰掛け、足を組んで尋ねた。
「完璧でございますよ、我が君」
ギルバートは優雅に一礼し、手に持っていた革のファイルを差し出した。
「ルブラン子爵、および薬事ギルド長ゴズの身辺、すべて洗い出しました。知れば知るほど、ヘドが出るような御仁たちですね。殿下が昼間お会いになった警備兵どもの上元です」
「聞かせて」
「はい。彼らが販売している、一本五千ルテもする『聖水』ですが……その正体は、帝都の地下水を薄い着色料で染めた、ただの泥水です。ですが、それだけでは平民が効果がないことに気づく。そこで彼らは、少量の『夢幻草』の成分を混ぜていました」
「夢幻草……! 帝国内で栽培が厳しく禁じられている、あの麻薬草ね?」
私の声が、怒りで一段と低くなる。
「その通りです。服用すると、一時的に肉体の痛みが和らぎ、体が軽くなったように錯覚する。ですが、数日経てば薬効が切れ、以前よりもひどい倦怠感と苦痛に襲われる。平民たちは『病気が悪化した』と思い込み、再びあの聖水を買いに走る……。実質的な、薬物依存による永久搾取システムです」
「なんと……人の命をおもちゃにし、さらには薬物で汚染するとは」
ラインハルトが、腰の剣の柄を固く握り締めた。彼の放つ闘気が、室内のガラス戸をビリビリと震わせる。
「それだけではありません。皇帝陛下が、下町の流行病対策として宮廷から拠出させた『医療支援金』五千万ルテ。これも、医療機関に届く前に、すべてルブラン子爵とゴズの個人口座へと流れております。彼らはその金で、今夜、ギルドの本部で、利権を分かち合う貴族たちを集めた『収穫記念の祝宴』を開くとのことです」
ギルバートが、蛇のような冷たい目で微笑んだ。
「素晴らしいわ。悪党どもが、自分たちの犯した罪の重さも知らずに、一箇所に集まってお祝いをしてくれているのね」
私は、ゆっくりと立ち上がった。
ドレスの裾が、夜風に揺れるように静かに広がる。
「ラインハルト、ギルバート。今夜、その『収穫祭』に、不速の客としてお邪魔しましょう。彼らが平民から奪った五千万ルテと、偽りの聖水のレシピ、それからすべての帳簿を押さえるわよ」
「御意。我が剣は、常に殿下の敵を屠るために」
ラインハルトが深く首を垂れ、その誓いを刻む。
「お任せください、殿下。彼らがどんなに甘いワインを飲んでいようとも、最後にはそれを血の味に変えて差し上げましょう」
ギルバートが、その細身の短剣を優雅に回し、不敵に笑った。
「さあ、査察の始まりよ。死神が、極上の罰を届けに参りましたと、教えてあげなくてはね」
私は、月の光が差し込む窓の外を見つめながら、氷よりも冷たい微笑を浮かべた。




