第八章 夜会
夜明けの鐘は、館の中庭で鳴った。
鐘といっても、神殿騎士の従者が王都から提げてきた手鐘だった。掌に収まるほどの青銅の鐘で、旅のあいだ毎朝同じ刻限に同じ数だけ鳴る。寝台に腰かけたまま一睡もできずにいた私は、その音でようやく窓の外が白んでいることに気づいた。
窓から中庭を見下ろした。
神殿騎士たちが鎧を着けないまま並んでいた。号令をかける者はいない。鐘の余韻が石畳に沈みきるのを待って、全員が同じ方へ向き直った。東だった。ベネディアの家並みの向こうで、空がまだ色を決めかねたまま薄く明るんでいた。
騎士たちが片膝をついた。
右の拳を胸に当て、頭を垂れる。三十ほどの膝が石畳に触れる音は、ほとんど一つに揃っていた。
列の端にフィンがいた。レーンベルの家でもそうしていたのだろう。膝のつき方に迷いがなかった。
私は窓枠に手をかけて立っていた。
王都の兵舎でも、朝は鐘で始まる。皆がその音で東を向いて膝をつくのを、三年のあいだ毎朝見てきた。同じ列に並んでいたこともある。けれど膝をついたことは一度もなかった。咎められたこともない。遠い国から来た者はそういうものだと思われているらしかった。
祈る相手を、私は知らなかった。知らない相手に膝をつくのは、道場で心のこもらない礼をするのと同じくらい、据わりが悪かった。
隣の窓が軋んで開いた。
リエルが窓辺に立っていた。見えない目を閉じて、胸の前で両手を重ねている。顔はまっすぐ東を向いていた。光の来る方角を、肌で知っているようだった。
家並みの縁に、細い金の線が一本引かれた。
騎士たちが一斉に顔を上げた。光が中庭の石畳を這ってきて、膝の跡の残る砂の上で止まった。
朝餉の席で、フィンが教えてくれた。あれは黎明の女神への祈りで、進む先を指す手の女神だから、兵はみな今日の行く先を明るくしてくれと頼むのだという。
「カリンさんは、しないんですね」
責める声ではなかった。
「何を頼めばいいのか、分からない」
そう答えると、フィンは少し考えてから、そうですよね、と頷いた。何がそうなのかは訊かなかった。
招待状は、その朝のうちに届いた。
黒い封筒だった。銀の封蝋に、メルヴェイン家の紋章が押されていた。翼を広げた蝙蝠と、一輪の薔薇。
届けに来たのは、ヴォルグだった。
「メルヴェイン卿より、ルンシアの御方を今宵の晩餐にお招きしたいとのことでございます」
ヴォルグは、いつもの穏やかな笑みを浮かべていた。
右手は、やはり胸の前で組まれていた。
「昨日は、御方の騎士様に少々ご無礼があったと、卿も気にしておられましてな。改めて、帝国の査察官として、御方を正式にもてなしたいと」
神殿騎士の隊長は、渋い顔で招待状を受け取った。
断れない、と顔に書いてあった。帝国の査察官からの正式な招待だ。断れば、それだけで外交上の非礼になる。
司祭たちが額を寄せて相談し、やがて頷いた。
リエルは、人形の顔のまま、何も言わなかった。
支度の合間に、モモが私の袖を引いた。
「姐さん。自分も、連れていってほしいっす」
声が、低かった。
いつものモモの声ではなかった。
「あのメルヴェインの館っす。妹が、いるかもしれないっす」
「分かっている」
私は、モモの目を見た。
赤い瞳が、まっすぐに私を見返していた。
「私の従者として、連れていく。ただし、勝手に動くな。何かを見つけても、まず私に知らせろ」
モモは、しばらく黙っていた。
それから、小さく頷いた。
「……分かったっす」
その返事が、ほんの少しだけ遅れたことに、私は気づいていた。
気づいていて、何も言わなかった。
◇
館へ向かう馬車の中で、リエルは珍しく黙っていた。
両手を膝の上で重ねて、窓のほうへ顔を向けたまま、身じろぎもしなかった。
「リエル」
「……なんですの」
「首飾りが、きついのか」
リエルは、少しだけ首を振った。
「いいえ。今日は、首飾りではありませんの」
それから、小さな声で言った。
「わたくし、あの方の声が、とても嫌いですわ」
私は、リエルの顔を見た。
人形の顔ではなかった。市場で笑っている顔でもなかった。
ただ、怯えている、二十の娘の顔だった。
「甘くて、柔らかくて、とても丁寧で。でも、その奥が、冷たいんですの。冬の井戸の底みたいに」
リエルの手が、膝の上で、きゅっと握られた。
「カリン。今夜は、わたくしの傍にいてくださいまし」
「いる」
「ずっと、ですわよ」
「ずっとだ」
リエルは、ほっとしたように息を吐いた。
それから、窓の外を向いたまま、ぽつりと付け足した。
「……もしも、いつか、わたくしがカリンの傍にいられなくなっても。カリンは、優しいままでいてくださいまし」
「なぜ、そんなことを言う」
「なんとなく、ですわ」
リエルは、ふわりと笑った。
その笑顔が、なぜか、ひどく遠く見えた。
メルヴェイン卿の館は、ベネディアの街から馬車で一刻ほどの丘の上にあった。
黒い石で造られた、古い館だった。
窓という窓に、分厚い帳が下ろされている。夕暮れの光の中で、館はまるで巨大な墓石のように見えた。門の両脇には、翼を広げた蝙蝠の石像が据えられていた。
館の中は、ひどく暗かった。
灯りはある。燭台が廊下の両側に並び、天井からは硝子の灯りが下がっている。けれど、どの灯りも、わざと弱められていた。影が濃く、隅々まで光が届かない。
そして、甘い匂いがした。
花の匂いではなかった。
シルフェリオの地下で嗅いだ、あの匂いに似ていた。
廊下の突き当たりの壁に、大きな肖像画が掛かっていた。
燭台の弱い灯りの中で、額の金が、黒ずんでくすんでいた。描かれているのは、少女だった。腰まである金の髪。冷たく整った顔。青い目は、左だけが描かれていて、右の目には、細い銀の線が一筋、引かれていた。
足が、止まった。
ベネディアの広場で、噴水の縁にいた少女に、似ていた。
けれど、この額の金は、十年や二十年で、こんなふうにはくすまない。百年でも、足りないかもしれない。
「始祖の姫君ですよ」
案内の下僕が、私の視線に気づいて、誇らしげに言った。
「我らが主の、主の、そのまた主の血筋の。……もっとも、今はどちらにおわすのか、誰も存じませんが」
下僕は、そう言って、肖像画に深々と頭を下げた。
私は、もう一度だけ、銀の線の引かれた右の目を見た。
描かれた目なのに、どこも見ていないように見えた。
晩餐の間は、館の奥にあった。
長い卓の上に、銀の燭台と料理が並んでいた。卓の上座に、エドガーが座っていた。昨日と同じ黒い上着。首の後ろで、金色の髪を黒いリボンで結んでいる。
エドガーは、立ち上がりもせずに、一行を迎えた。
「ようこそ、ルンシアの御方」
甘い声だった。
昨日、私に向けた虫を見るような目は、どこにもなかった。穏やかで、優雅で、礼儀正しい貴族の顔だった。
私のほうは、一度も見なかった。
リエルが、エドガーの右手の席に案内された。司祭たちがその隣に。神殿騎士の隊長と、騎士たちの半数が、卓の下座に。残りの騎士たちは、扉の外で警護についた。
私とフィンは、リエルの背後に立った。
護衛は座らない。それが決まりだった。
モモは、従者として、壁際に控えていた。
ヴォルグは、エドガーの左手の席に座った。
料理が運ばれてきた。
見た目は、美しかった。銀の皿に、色とりどりの料理が花のように盛りつけられている。肉の煮込み。魚の香草焼き。赤い果実を煮詰めたソース。香辛料の香りが、卓の上に立ち込めた。
杯に、葡萄酒が注がれていった。燭台の光を受けて、鮮やかな柘榴石のような赤い雫が揺れた。
エドガーとヴォルグの杯にだけは、別の瓶から注がれた。葡萄酒とは違う、とろりと重い、赤黒い液体だった。
それが何なのか、知りたいとは思わなかった。
司祭たちが、祈りの言葉を唱えてから、匙を取った。
神殿騎士たちも、それに倣った。
リエルだけが、手を膝の上に置いたまま、動かなかった。
教会の許しなく、外のものを口にしない。
市場で初めて会った日、リエルはそう言っていた。
エドガーが、それに気づいて首を傾げた。
「御方は、お召し上がりにならないのですか」
「申し訳ございません。わたくしは、戒律で」
「それは、残念だ」
エドガーは、穏やかに微笑んだ。
その目が、ほんの一瞬だけ、細くなった。
私は、卓の上の匂いを嗅いでいた。
香辛料が、強すぎた。
肉の煮込みにも、魚の香草焼きにも、同じ香辛料がたっぷりと使われている。料理人の腕が悪いのではない。盛りつけを見れば分かる。この料理を作った者は、腕がいい。
腕のいい料理人が、なぜ、こんなに香辛料を使うのか。
何かを、隠すためだ。
私は、フィンの背後に回り、その耳元で囁いた。
「この館で、何も口にするな」
フィンが、わずかに身を固くした。
「水もだ」
フィンは、振り返らずに、小さく頷いた。
卓の下座で、神殿騎士の一人が、杯の葡萄酒を飲み干していた。
最初に倒れたのは、司祭の一人だった。
匙を持ったまま、卓の上に突っ伏した。皿が床に落ちて、甲高い音を立てた。
隣の司祭が、驚いて立ち上がろうとした。
立ち上がれなかった。膝が崩れ、椅子ごと床に倒れた。
卓の下座で、神殿騎士たちが次々と崩れていく。隊長が剣の柄に手をかけ、立ち上がろうとして、そのまま前のめりに倒れた。
扉の外で、何かが倒れる重い音がいくつも続いた。
外の騎士たちにも、何かを飲ませていたのだろう。
晩餐の間が、静かになった。
立っているのは、私とフィンと、壁際のモモ。
座っているのは、リエルと、エドガーと、ヴォルグ。
それだけだった。
「おや」
エドガーが、ゆっくりと杯を置いた。
「護衛の方々は、お召し上がりにならなかったのですね。残念だ」
私は、剣を抜いた。
フィンも、剣を抜いた。刀身に、光の粒が這い上がっていく。
エドガーは、それを見ても顔色一つ変えなかった。
「眠り草の根ですよ。ご心配なく、死にはしません。明日の昼までは目を覚まさないでしょうが」
「何のつもりだ」
「何の、と申されましても」
エドガーは、ようやく私を見た。
昨日と同じ、冬の湖のような目だった。
「私は、約束いただいた主への献上品を受け取りに来ただけです」
約束。
誰が、誰に、何を約束したのか。
ふと、西の都の回廊で聞いた、侯爵の低い声が耳の奥に蘇った。
向こうの外務大臣とも、話はついておる。
エドガーの視線が、リエルに向いた。
「救済の女神の踊り子。その血は、どんな美酒にも勝ると聞く。我が主、ヴァイス様も、さぞお喜びになるでしょう」
踊り子。
その言葉の意味は、分からなかった。
けれど、リエルの肩が、ほんのわずかに強張ったのが分かった。
ヴォルグが、ゆっくりと立ち上がった。
胸の前で組んでいた右手を、ほどいた。
中指の指輪の、印の面を、表に返した。
燭台の光を受けて、銀の印が浮かび上がった。
三日月を咥えた、一匹の蛇。
シルフェリオの、アーロンの書斎で見た手紙の封蝋。
若く質の良い品は、例年どおりメルヴェイン卿を通じて、水の都の御方へ献上いたします。
アーロンから、ヴォルグへ。
ヴォルグから、エドガーへ。
エドガーから、水の都の御方、ヴァイスへ。
一本の糸が、頭の中で、音を立てて繋がった。
「アーロン殿のことは、残念でございました」
ヴォルグは、くまのできた顔で、穏やかに微笑んだ。
「良い取引相手でしたのに。ですが、騎士様方のおかげで、こうして御方を直接お招きする口実ができました。わたくしどもにとっては、かえって好都合でございましたよ」
私は、剣を握る手に力を込めた。
あの日、村を焼いた男の籠手。
宿場町の人攫いの籠手。
アーロンの地下の檻。
棚の上の石。
全部、この糸の先にあった。
そのときだった。
館の奥のどこかから、悲鳴が聞こえた。
甲高い、引き裂くような声だった。
私は、壁際を見た。
モモが、いなかった。
◇
「フィン! リエルを!」
叫ぶより先に、私は駆け出していた。
晩餐の間の奥の扉を蹴り開ける。暗い廊下。悲鳴は、下から聞こえていた。廊下の突き当たりに、石の階段が口を開けていた。
階段を、駆け下りた。
甘い匂いが、濃くなった。
一段下りるごとに、濃くなった。
階段の底に、扉が開いていた。
その向こうに、部屋があった。
部屋というより、檻だった。
シルフェリオの地下と、同じだった。鉄格子が並び、その中に、人々がいた。
ただ、ここの人々は、もっと静かだった。
もっと、青白かった。
首筋に、腕に、脚に、いくつもの痕があった。二つ並んだ、小さな痕が。いくつも、いくつも。
誰も、私を見なかった。
見る力も、残っていないようだった。
部屋の奥に、モモがいた。
床に膝をついていた。
背中が、小刻みに震えていた。
その前に、台があった。
石の台だった。
台の上に、少女が横たわっていた。
何も着ていなかった。
両手と両脚が、台の四隅に、革の紐で縛りつけられていた。
肌は、蝋のように白かった。唇も、白かった。首筋に、腕の内側に、手首に、足首に、数えきれないほどの痕があった。
目は、開いていた。
虚ろに、天井を見上げていた。
もう、何も映していなかった。
少女の髪は、麦の穂のような淡い色だった。
その髪を、一本の紐が結んでいた。
赤い、髪紐だった。
私は、何も言えなかった。
足が、動かなかった。
モモの背中が、震えていた。
声は、出ていなかった。悲鳴は、もう終わっていた。ただ、背中だけが、震えていた。
モモの手が、少女の頬に触れていた。
冷たいはずの頬を、何度も、何度も、撫でていた。
「……ナナ」
モモが、呟いた。
初めて聞く名前だった。
妹の名前を、モモはこれまで一度も口にしなかった。口にしたら、崩れてしまうと思っていたのかもしれない。
「ナナ。お姉ちゃん、来たっす。迎えに、来たっす」
返事は、なかった。
「遅くなって、ごめんっす。ごめん。ごめんね」
モモの声が、ひび割れた。
「髪紐、まだ、つけててくれたんすね」
私は、外套を脱いだ。
台の傍へ歩いていった。
少女の身体に、外套をかけた。
足もとから、肩まで。
虚ろな目を、そっと閉じさせた。
瞼は、冷たかった。
それから、剣を抜いて、少女を縛っていた革の紐を、一本ずつ切った。
右手。左手。右足。左足。
紐が切れるたびに、少女の細い手足が、力なく台の上に落ちた。
モモが、少女の身体を、外套ごと抱きしめた。
声を上げて、泣き始めた。
今度は、声が出ていた。
地下の石壁に、モモの泣き声が響いた。
階段の上から、足音が降りてきた。
ゆっくりとした、優雅な足音だった。
「ああ、それか」
エドガーだった。
階段の途中で足を止め、地下の部屋を見下ろしていた。
「それは、少し前に届いた品です。若くて、血の質がよかった。主への献上品にするつもりでしたが、味見のつもりが、つい飲みすぎてしまいましてね」
それから、何かを思い出すように、目を細めた。
「餌の質が悪かったのか、少々雑味はありましたが。若い血らしい、青い果実のような甘みが、なかなか癖になる出来栄えでしたよ」
エドガーは、肩をすくめた。
「まあ、代わりはいくらでも届きます。それに、今夜はもっと上等な品が手に入る」
味見。
飲みすぎた。
代わりはいくらでも。
品。
その言葉が、一つずつ、胸の奥に落ちていった。
落ちて、沈んで。
それから、燃えた。
◇
私は、振り返った。
剣を、構えた。
エドガーは、階段の途中から、私を見下ろしていた。
冬の湖のような目。
その底に、やはり何も浮かんでいなかった。
「躾のなっていない犬が、また吠えるのか」
エドガーが、片手を持ち上げた。
光の粒が、集まった。
速かった。
アーロンよりも、はるかに速く、はるかに多い。集まったと思った瞬間には、もう縮んでいた。渦も、間も、何もない。ただ、光が一点に吸い込まれて、弾けた。
赤い光だった。
血のような色の結晶の槍が、三本、同時に私へ向かって飛んできた。
見えなかった。
読めなかった。
身体を捻った。一本が、左の肩を裂いた。一本が、脇腹を掠めた。一本が、背後の鉄格子に突き刺さって、甲高い音を立てた。
痛みが、遅れて来た。
熱い。焼けるように。血が、腕を伝って床に落ちた。
「ヴァンパイアの結晶術を、人族の目で追えるとでも」
エドガーは、階段を一段、下りた。
「哀れよな」
エドガーは、憐れむように首を傾げた。
「世界樹が最初に実らせた果実の末裔たる我らは、ただそこにあるだけで術を使える。意識せねば術ひとつ使えぬ劣等種とは、血の濃さが違うのだ」
階段の上から、フィンが飛び降りてきた。
リエルを抱えていた。
片腕でリエルを抱え、もう片方の手に炎を纏った剣を持っていた。
「カリンさん!」
フィンは、リエルを階段の陰に下ろした。
それから、エドガーに向かって斬りかかった。
炎の刃が、エドガーの首筋へ走る。
エドガーは、振り返りもしなかった。
片手を、軽く払っただけだった。
赤い結晶の壁が、フィンの剣の前に現れた。炎の刃が、壁にぶつかって弾けた。フィンの身体が、衝撃で後ろへ吹き飛ばされる。
石の壁に、背中から叩きつけられた。
フィンが、呻いて崩れ落ちた。
「フィン!」
「……大丈夫、です」
フィンは、壁に手をついて立ち上がろうとした。
膝が、崩れた。
口の端から、血が一筋、流れていた。
エドガーが、また片手を持ち上げた。
光が集まる。縮む。弾ける。
今度は、五本。
私は、跳んだ。
二本を避けた。三本目が、右の太腿を掠めた。四本目が、左の二の腕を貫いた。
五本目は、フィンに向かっていた。
間に合わない。
そう思った瞬間、フィンが、炎の剣で五本目を叩き落とした。膝をついたまま。震える腕で。
赤い結晶が、床の上で砕け散った。
フィンの剣を纏う炎が、弱々しく揺らいでいた。
私の左腕から、血が止まらなかった。
右の太腿も、焼けるように痛んだ。
視界の端が、少しずつ暗くなっていく。
地下に、血の匂いが満ちていた。
私の血と、フィンの血と。
階段の途中で、エドガーが小さく鼻を鳴らした。
それから、赤い舌で、ゆっくりと唇を舐めた。
まるで、晩餐の続きを待つかのように。
勝てない。
そう思った。
光の粒は、読めない。速すぎる。集まった瞬間に、もう放たれている。予備動作が、ない。
あの日、村で籠手の男と対峙したときと同じだった。
いや、あのときより、ずっと悪い。
あのときは、光の粒を見る時間があった。
今は、それすらない。
背後で、モモの泣き声が聞こえていた。
外套に包まれた、小さな身体。
赤い髪紐。
虚ろに天井を見上げていた、あの目。
エドガーが、三度目の手を持ち上げた。
「そろそろ、終わりにしましょう。御方をお連れしなければならない。犬の相手は、飽きました」
そのときだった。
歌が、聞こえた。
◇
階段の陰からだった。
リエルが、立っていた。
フィンが下ろした場所から、一歩も動かずに。見えない目を、まっすぐにこちらへ向けて。
首元の黒いチョーカーに、両手を添えていた。
歌っていた。
慰霊の地で聞いた歌とは、違った。
あのときの歌は、眠れと言っていた。安らかに、と。
この歌は、違うことを言っていた。
立て、と。
まだだ、と。
まだ、終わりではない、と。
リエルの歌声が、地下の石壁に反響した。
私の左腕に、温かいものが触れた。
見下ろすと、傷口が、光っていた。
淡い、乳白色の光だった。
その光の中で、裂けた肉が、ゆっくりと寄り合っていく。血が止まる。焼けるような痛みが、少しずつ引いていく。
右の太腿も。左の肩も。脇腹も。
振り返ると、フィンの身体も、同じ光に包まれていた。
フィンが、目を見開いて、自分の手を見つめていた。
それから、ゆっくりと立ち上がった。
膝は、もう崩れなかった。
剣を纏う炎が、息を吹き返したように燃え上がった。
エドガーの手が、止まっていた。
階段の陰のリエルを、見ていた。
冬の湖のような目に、初めて、何かが浮かんでいた。
欲だった。
「……素晴らしい」
エドガーが、呟いた。
「噂以上だ。救済の女神の歌。傷を癒やし、兵を立たせる。これを主に献上すれば、私の地位は」
そこで、エドガーは言葉を切った。
私を見た。
「だが、その前に、犬を片付けなければ」
エドガーの手に、光が集まる。
今度は、さっきよりも多い。
十本。
いや、もっと。
赤い結晶の槍が、エドガーの周りに浮かび上がっていく。燭台の光を受けて、血のようにぎらぎらと光っている。
リエルの歌が、傷を癒やしても。
あれを全部受けたら、癒やす前に、終わる。
私は、目を閉じた。
光の粒は、読めない。
エドガーの身体も、読めない。
読めるものは、何もない。
ならば。
読むのを、やめよう。
見よう。
村の森で、猪の影を見たときのように。
ベネディアの朝、荷車の影を見たときのように。
聖堂の前で、エドガーの手の影を見たときのように。
まだそこにないものを。
これから、そこに来るものを。
あの日、夕陽の中で受け取った、一瞥のように。
少しだけ、先を。
朝日の先、皆が祈りを捧げた光の先。
白金の髪に薄紅の衣の女がその先を見つめていた。
彼女は先しか見ない。故に後ろ姿しかわからなかった。
私にはそれでいい。少し先を見れれば十分だ。
目を開けた。
世界が、二重になっていた。
エドガーが、そこに立っている。
その少し前に、うっすらと透けた、もう一人のエドガーがいる。
片手を振り下ろしている。
透けたエドガーの周りから、透けた槍が放たれている。十数本の、陽炎のように揺らぐ赤い軌跡が、私へ向かって伸びている。
一本は、私の頭へ。一本は、胸へ。一本は、足もとへ。
その軌跡の、隙間が見えた。
槍と槍の間に、わずかに空いた、細い道が。
本物のエドガーが、手を振り下ろした。
本物の槍が、放たれた。
私は、もう、その道の上にいた。
槍が、私の周りを通り過ぎていった。
右の頬の横を。左の肩の上を。脇の下を。股の間を。
どれも、触れなかった。
影の軌跡と、寸分違わなかった。
私は、踏み込んだ。
エドガーの目が、見開かれた。
驚いていた。
冬の湖の底に、初めて、驚きが浮かんでいた。
エドガーが、もう一度手を上げる。
その前に、影が見えた。
次に放たれる槍の軌跡。
それから、エドガーが身を引く軌跡。右へ。半歩。
私は、エドガーの右へ踏み込んだ。
影が、本物になった。
エドガーは、身を引いた先で、私の剣先の前にいた。
剣を振った。
エドガーの左腕が、宙を舞った。
黒い上着の袖ごと。血が、噴き上がった。
エドガーが、叫んだ。
初めて聞く、獣のような声だった。
残った右手に、光が集まる。
影が見える。
至近距離からの、一本の槍。私の心臓へ。
私は、半身になった。
槍が、胸の前を通り過ぎていった。
アーロンのときと、同じ動き。
ただ、今度は、掠りもしなかった。
「な、ぜ」
エドガーの声が、震えていた。
「なぜ、見える。人族の目で、なぜ」
私は、答えなかった。
答えを、知らなかった。
ただ、見えていた。
エドガーの、次の動きが。
逃げようとしている。背後の階段へ。
影が、階段を駆け上がっていく。
私は、その影の前に回り込んだ。
本物のエドガーが、私の目の前で、足を止めた。
エドガーの顔から、優雅さが消えていた。
牙を剥き出しにして、私を睨んでいた。
怯えていた。
冬の湖の底に、恐怖が浮かんでいた。
それを見ても、何も感じなかった。
背後で、モモが泣いていた。
外套に包まれた、ナナという名の少女。
味見のつもりが、つい。
代わりはいくらでも。
品。
「貴様は」
私は、言った。
自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。
「あの子を、品と呼んだな」
エドガーが、何か言おうとした。
言葉になる前に、私の剣が、エドガーの首を断った。
◇
金色の髪が、黒いリボンごと、床に落ちた。
首のないエドガーの身体が、しばらく立ったまま揺れていた。
それから、ゆっくりと崩れ落ちた。
地下が、静かになった。
リエルの歌も、止んでいた。
私は、剣を下ろした。
刀身から、血が滴っていた。
赤い血だった。
人と同じ、赤い血だった。
手が、震え始めた。
気づいたときには、もう止まらなかった。
剣を握った手が、肩が、膝が、震えていた。
私は、人を斬ったことがなかった。
道場で、何千回と剣を振った。村で、盗賊を打ち倒した。シルフェリオで、アーロンの私兵を打ち据えた。
けれど、殺したことは、一度もなかった。
魔族だ。ヴァンパイアだ。人ではない。
そう思おうとした。
けれど、床に落ちた金色の髪も、滴る赤い血も、人と何も変わらなかった。
膝が、崩れた。
石の床に、膝をついた。
背中に、誰かの手が触れた。
小さな、冷たい手だった。
「カリン」
リエルだった。
いつの間にか、私の背後に来ていた。見えない目で、どうやってここまで来たのか分からなかった。
リエルは、私の背中に額を押しつけた。
「わたくしには、見えませんでしたけれど」
リエルの声が、背中越しに響いた。
「カリンが、わたくしたちを守ってくださったのは、分かりましたわ」
私は、何も言えなかった。
リエルの額が、私の背中に押しつけられたまま、動かなかった。
震えが、少しずつ、収まっていった。
◇
ヴォルグは、いなかった。
晩餐の間に戻ったとき、エドガーの左手の席は、空になっていた。
卓の上に、一枚の紙が残されていた。
丁寧な字で、こう書かれていた。
またいずれ、お目にかかりましょう。
名前は、なかった。
代わりに、銀の封蝋が押されていた。
三日月を咥えた、一匹の蛇。
夜が明ける頃、神殿騎士たちが目を覚まし始めた。
隊長は、晩餐の間の惨状と、地下の檻と、首のないエドガーの亡骸を見て、しばらく言葉を失っていた。
それから、私の前に来た。
私を見下ろして、何か言おうとした。
けれど、結局、何も言わなかった。
ただ、深く、頭を下げた。
私は、懐から、アーロンの書斎で見つけた手紙の束を取り出した。
それから、晩餐の卓に残されていたヴォルグの書き置きを、その上に重ねた。
同じ封蝋が、並んでいた。
「これを、王都へ」
隊長は、手紙の束を受け取った。
封蝋の印を見比べて、顔色を変えた。
「……殿下に、必ず」
隊長は、手紙の束を、胸の鎧の内側にしまった。
地下の檻から、人々が運び出されていった。
誰も、自分の足で歩けなかった。神殿騎士たちが、一人ずつ背負って、階段を上っていった。
モモは、最後まで地下にいた。
外套に包まれたナナを、ずっと抱きしめていた。
朝の光が、階段の上から差し込んできたとき、モモはようやく顔を上げた。
泣き腫らした目で、私を見た。
「……姐さん」
声が、掠れていた。
「ナナを、お日様の当たるところに、埋めてあげたいっす」
「ああ」
私は、頷いた。
「一緒に掘る」
館の裏手の、日当たりのいい丘の斜面を選んだ。
モモと私とフィンで、昼のうちに穴を掘った。乾いた土は鋤の先で白く崩れ、掘るほどに湿った黒い土が出てきた。檻から運び出された人々のうち二人は、階段を上りきる前にもう息をしていなかった。その二人の穴も、隣に並べて掘った。
そしてその隣に拳ほどの小さな穴を掘ると、懐の結晶石を安置した。
土をかけるのは黄昏を待ってからだと、目を覚ました司祭の一人が言った。
死んだ者を送るのは、黄昏の女神の刻。来た道を振り返りながら日の沈む方へ去っていく女神が、死者の手を引いていく。だから陽の高いうちに土をかけてはいけない。
お日様の当たるところに、とモモが言ったのを聞いて、司祭はしばらく黙った。それから、穴の底に昼の光が溜まっているうちに亡骸を下ろしましょう、土をかけるのは日が落ちてから、と言い直した。
日が西の丘に沈みかけた頃、烏が二羽、近くの楡の枝に降りた。
司祭が黄昏の祈りを唱えた。過ぎた日を忘れるな、と始まる短い祈りだった。騎士たちは西を向いて立ったまま頭を垂れた。朝とは逆の方角だった。死者を見送るときは、膝をつかずに立って見送るのが礼なのだという。
私も立って見送った。それなら、私にもできた。
リエルが、小さな声で、慰霊の地で歌ったのと同じ歌を歌った。
眠れ、と。
安らかに、と。
モモは、墓の前に膝をついて、ナナの髪から解いた赤い髪紐を、両手で握りしめていた。
私は、懐に手を当てた。あの石の重みはもうないけれど、重たいものを背負った気がする。
エドガーの亡骸は、祈りのないまま館の裏で焼かれた。魔族を送る祈りは教会にはないのだと、隊長は言った。脂の焦げる匂いの煙が黄昏の空に細く上り、烏の鳴くほうへ流れていった。
あの男の血も赤かった。
そのことを、私は誰にも言わなかった。
その夜、私は館の屋根の上で、膝を抱えていた。
眠れなかった。
目を閉じると、エドガーの首が落ちる瞬間が見えた。金色の髪。黒いリボン。赤い血。
手が、まだ少し震えていた。
屋根の縁から、誰かが登ってくる気配がした。
フィンだった。
何も言わずに、私の隣に座った。
拳ひとつ分より、もう少し近かった。
しばらく、二人とも黙っていた。
夜空に、細い月が浮かんでいた。
昨日よりも、少しだけ太くなっていた。
「カリンさん」
フィンが、ぽつりと言った。
「ありがとうございました」
「何がだ」
「僕、何もできなかった。あいつの術に吹き飛ばされて、立ち上がることもできなくて。カリンさんが一人で戦って」
「君は、五本目の槍を叩き落とした」
「……それだけです」
「それだけで、十分だ」
フィンは、黙った。
それから、少しだけ、私のほうに身体を傾けた。
肩と肩が、触れるか触れないかの距離になった。
フィンの体温が、夜風の中で、微かに伝わってきた。
汗と煤と、乾いた草の匂いがした。
違う、と思った。
何と比べたのかに気づいたのは、思ったあとだった。日向に干した布団と、台所の湯気。商店街の夕方に、いつもすぐ隣から来ていた匂い。三年経っても、私の鼻はまだあの匂いを物差しにしていた。
私は腰を浮かせて、拳ひとつ分だけ座り直した。
無意識の行動だった。ふと我に返ってフィンの顔を盗み見たが彼は、何も言わなかった。
「僕、もっと強くなります」
フィンが、夜空を見上げたまま言った。
「次は、カリンさんの隣で戦えるように。後ろで膝をついてるんじゃなくて」
その横顔を、私は見上げた。
いつの間にか、見上げなければ見えなくなった横顔だった。
「期待している」
真顔で言うと、フィンは、少しだけ笑った。
震えは、いつの間にか、止まっていた。
(第八章 了)




