第九章 叙勲
帰りの船は、行きよりも静かだった。
神殿騎士たちは、甲板で交代に見張りを続けていた。誰も、あの館の話をしなかった。司祭たちは船室に籠もって、ほとんど顔を見せなかった。
モモは、船縁に座って、ずっと海を見ていた。
左の手首に、赤い髪紐が巻かれていた。
ナナの髪から解いたものだ。結び目が不格好なのは、片手で結んだからだろう。
私は、モモの隣に腰を下ろした。
何も言わなかった。
モモも、何も言わなかった。
波の音だけが、ずっと聞こえていた。
しばらくして、モモが、ぽつりと言った。
「姐さん」
「なんだ」
「お腹、空いたっす」
私は、モモの顔を見た。
泣き腫らした目のまま、モモは少しだけ笑っていた。
無理に笑っているのは、分かった。
それでも、笑おうとしていた。
「何が食べたい」
「姐さんの、いちばん簡単なやつがいいっす」
その日の昼、私は船の厨房を借りて、握り飯を作った。
竈の縁に、掌ほどの素焼きの像が据えてあった。煤で黒ずんだ顔に、掌の上の火種だけが朱く塗り残されている。火種の女神だと船の料理番が言った。どの家の炉にもいる女神で、船の竈も家の炉のうちなのだという。
料理番は火を入れる前に、像の足もとへ塩をひとつまみ置いた。
レーンベルで、バルトが毎朝そうしていた。腰の曲がった背中が炉の前で一度だけ丸くなり、乾いた指が塩をこぼす。あの村の朝は、いつもその小さな音から始まっていた。
塩壺を借りたついでに、私も像の足もとに一つまみ置いた。祈ったのではない。人の台所を借りるときの挨拶のつもりだった。
麦を炊いて、塩を振って、両手で握った。米ではないから、少し崩れやすい。それでも、丁寧に、固すぎないように握った。
モモは、それを三つ食べた。
一つ食べるごとに、少しずつ泣いた。
三つ目を食べ終えたとき、モモはもう泣いていなかった。
その夜、船室で、リエルが私の手を取った。
左の腕を、指先でなぞった。
エドガーの結晶の槍が貫いたところだった。もう、痕はどこにもなかった。
「痛みは、ございませんの?」
「ない。君の歌のおかげだ」
リエルは、少しだけ首を振った。
「わたくしは、女神様のお力を、ほんの少しお借りしただけですわ。本当は、あんなふうに使ってはいけないことになっておりますの。許しなく歌ってはいけないと、ずっと教わってまいりましたから」
「では、なぜ歌った」
リエルは、私の腕をなぞる指を止めた。
「カリンが、傷ついていましたもの」
当たり前のことのように、リエルは言った。
「わたくし、生まれて初めて、誰にも命じられずに歌いましたわ」
見えない目が、少しだけ細くなった。
「とても、怖かったですわ。でも、少しだけ、嬉しかったですの」
首元の黒いチョーカーに、リエルの指がそっと触れた。
引っ張りはしなかった。
ただ、触れて、すぐに離れた。
◇
シルフェリオの港に着くと、侯爵の使いが待っていた。
宮殿に招かれ、あの回廊で、もう一度侯爵に会った。
真っ白な髪の毛先が、窓からの光を受けて瞬いていた。
「此度のこと、フェリシアの側から知らせが届いておる」
侯爵は、低い声で言った。
「…よもや一介の騎士がヴァンパイアに勝るとはな」
侯爵は、私とフィンを交互に見た。
頭を下げたフィンの襟元から、鎖が一筋こぼれていた。その先で、くすんだ銀の円盤が揺れている。止まり木の梟。バルトの形見のペンダントだ。
侯爵の目が、そこで止まった。
ほんの一息ほどの間だった。
緑の目に、何かがよぎった。私には読めない何かが。遠いものを懐かしむような、あるいは、何かを確かめようとするような。
それから、侯爵は目を逸らした。
ふと付け足すように言った。
「アーロンは、死んだ」
私は、顔を上げた。
「詮議の最中に、獄中で倒れた。持病があったらしい。惜しいことをした。まだ聞き出すことは、いくらもあったのだが」
侯爵の声は、少しも揺れていなかった。
私は、侯爵の目を見た。
緑の目だった。深く、静かで、底が見えなかった。
港で縄を引かれていくとき、アーロンは侯爵の顔を見上げていた。侯爵は、アーロンを見なかった。
そして、あの笑み。
また、と動いた唇。
約束いただいた主への献上品。
向こうの外務大臣とも、話はついておる。
いくつかの言葉が、頭の中で浮かんでは沈んだ。
この人が、魔族に踊り子を差し出す理由はない。魔族を誰より憎んでいると、王都の誰もが知っている。
けれど、話をつけた相手は、あの蛇の封蝋の男だ。蛇は、誰とでも話をつける。片方の手で握手をして、もう片方の手で、別の誰かと。
それらを一本の糸に繋ぐものは、まだ、何もなかった。
私は、黙って頭を下げた。
侯爵も、それ以上は何も言わなかった。
回廊を出るとき、背中に視線を感じた。
振り返らなかった。
◇
王都に戻ったのは、夏の終わりだった。
世界樹の枝葉が、盛夏の濃い緑から、わずかに色を落とし始めていた。木漏れ日の色が、少しだけ柔らかくなっている。
城門をくぐったところで、モモが足を止めた。
「自分、ここでお別れするっす」
私とフィンは、振り返った。
モモは、背中に小さな荷を背負っていた。帰りの船の中で、少しずつまとめていたのを、私は知っていた。
「どこへ行く」
「東っす。王都の東の市場から、ドワーフの領地へ向かう隊商が出るって聞いたっす。荷運びの手伝いで、乗せてもらえることになったっす」
モモは、左の手首の赤い髪紐を、右手でそっと握った。
「自分、商人になるっす」
まっすぐな目だった。
あの館の地下で泣き崩れていた目と、同じ目だった。
けれど、その奥にあるものが、違っていた。
「ナナは、売られたっす。品物みたいに。自分も、あの宿場町で、売られるところだったっす」
モモの声は、震えていなかった。
「だから、自分は、売り買いされない側に立ちたいっす。人を売ったりしない商人になって、いっぱい稼いで、いつか、ナナみたいな子を、買い戻せるくらいになりたいっす」
モモは、へにゃりと笑った。
初めて会った日と、同じ笑顔だった。
「自分、頭はよくないっすけど、鼻は利くっす。いい商売の匂いも、悪い商売の匂いも、嗅ぎ分けられるっす」
「そうだな」
私は、頷いた。
「君の鼻なら、きっとできる」
モモの耳が、ぴんと立った。
それから、勢いよく頭を下げた。
城門の石畳に、額がごんと当たった。
「……痛いっす」
額を押さえて顔を上げたモモは、泣きながら笑っていた。
フィンが、モモに小さな袋を渡した。
騎士団の給金を貯めたものだと、あとで聞いた。
「兄貴、これ」
「旅の足しに。返さなくていいから」
モモは、袋を握りしめて、フィンの胸に頭突きをした。
それが、モモなりの礼らしかった。
フィンは、よろけながら、耳を赤くしていた。
頭突きの姿勢のまま、モモが顔だけ上げて、にやりと笑った。
「兄貴。こういうこと、なんで姐さんにはできないんすかねえ」
フィンの耳が、赤から紅に変わった。
「モ、モモ!」
「だって、見てりゃ分かるっすよ。ずーっと姐さんのこと」
「わーっ!」
フィンが、慌ててモモの口を塞いだ。
私は、二人を見比べて、首を傾げた。
「頭突きなら、私にしても構わないぞ」
真顔で言うと、フィンはその場にしゃがみ込んで、両手で顔を覆った。
モモは、腹を抱えて笑っていた。
最後に、モモは私の前に立った。
何か言おうとして、言葉を探して、見つからずに口を閉じた。
それから、私の腕に、ぎゅっとしがみついた。
「姐さん」
私の腕に顔を押しつけたまま、くぐもった声で言った。
「自分、いつか、姐さんが腰抜かすくらいの大商人になるっす。そしたら、また姐さんの飯、食わせてほしいっす」
「いくらでも作る」
「約束っすよ」
「約束だ」
モモは、私の腕を離した。
それから、くるりと背を向けて、東の市場のほうへ駆けていった。
赤い髪が、木漏れ日の中で揺れていた。
一度も振り返らなかった。
振り返ったら、泣いてしまうからだろう。
私も、フィンも、その背中が人混みに消えるまで、見送っていた。
◇
叙勲の日取りが決まったのは、それから十日後だった。
近衛騎士に叙する、という。
王都騎士団の正騎士から、近衛へ。本来なら、何年もかかる道のりだ。家柄のない者が、二十歳そこそこで近衛に上がった例は、ほとんどないという。
殿下の、強い推挙があったらしい。
あとで、騎士団の古参から聞いた。
ヴァンパイアは、人族にとって最も恐ろしい相手の一つなのだという。戦場で一人を討つのに、数百の兵が倒れることも珍しくない。先の大戦を知る老騎士たちは、その名を聞くだけで顔を曇らせるらしい。
それを、ほとんど犠牲も出さずに二人で討った。
殿下の推挙が通ったのは、そういうことらしかった。
私には、実感がなかった。
ただ、首を断った瞬間の手応えだけが、まだ掌に残っていた。
叙勲の前に、近衛の礼装を誂えることになった。
城下の仕立て屋に、フィンと二人で呼ばれた。
仕立て屋の主人は、痩せた初老の男だった。巻尺を首にかけ、手際よく私の身体を測っていく。肩幅。胸回り。腕の長さ。脚の長さ。
測り終えたところで、主人は首を傾げた。
帳面をめくり、何かを見比べている。
それから、もう一度、私の肩幅を測り直した。
「……おかしいですな」
「何がだ」
「三年前、騎士団に入られたときにも、うちで採寸をさせていただいておりましてね。その記録が、ここに」
主人は、帳面を指で叩いた。
「寸分、違わないのですよ。肩も、胸も、腕も。三年も経てば、普通はいくらか変わるものです。鍛えれば肩が張る。食べれば胴が太る。お若い方なら、背が伸びることもある」
主人は、私の顔を見上げた。
「騎士殿は、何ひとつ、変わっておられない」
隣で、フィンが採寸されていた。
別の職人が、フィンの帳面を見て、驚いたように声を上げていた。三年前より、肩幅が二寸も広くなっている、と。背も、ずいぶん伸びた、と。
私は、仕立て屋の主人の帳面を見下ろした。
三年前の数字と、今日の数字。
同じ数字が、二つ並んでいた。
「……よく鍛えているからだろう」
そう言った。
主人は、納得したような、していないような顔で、帳面を閉じた。
私も、それ以上は考えなかった。
考えないことにした。
伸びない髪のことも。
三日で消えた傷のことも。
並んだ二つの数字のことも。
ひとつずつなら、何でもないことだった。
◇
叙勲の前の晩、フィンと二人で、兵舎の近くの食堂へ行った。
見習いの頃から通っている、安くて量の多い店だ。
壁の品書きには、今も「カツ」の二文字があった。
私は、それを頼まなかった。
豆と羊の煮込みを頼んだ。フィンが、一度だけ品書きと私の顔を見比べて、同じものを頼んだ。
二年前の冬、あの皿の前で、小刀を握ったまま動けなくなった。
揚げ油の匂いが、いまも厨房のほうから流れてきていた。鼻の奥の、商店街の夕方に通じている場所を、その匂いが指で押すように触れていく。
あの皿をもう一度前にしたら、また動けなくなる気がした。明日は叙勲の朝で、私は殿下の前で背筋を伸ばしていなければならない。
煮込みは、塩が強かった。羊の脂が、冷めるそばから匙の縁に白く固まった。
私は、それを黙って食べた。
フィンが、匙を止めて、私の顔を見ていた。
「カリンさん」
「なんだ」
「いつか、カリンさんの国の料理、食べてみたいです。村で作ってくれた汁も、すごかったけど。……そうじゃなくて、カリンさんが、故郷で作ってたやつ」
私は、匙を置いた。
故郷の台所で作っていたものは、ほとんど全部、誰か一人のためのものだった。
「手間がかかるぞ」
「待ちます」
「材料も、こちらにはないものが多い」
「探します」
大型犬が、散歩の紐を咥えて待っているときの顔だった。
「……いずれな」
フィンの顔が、ぱっと明るくなった。
食べながら、ふと思い出した。
「そういえば、槍の男はどうした」
「ああ」
フィンは、少しだけ寂しそうな顔をした。
「西へ発つ少し前から、見かけなくなりました。空き地に行っても、もういなくて。旅の人だったから、どこかへ行っちゃったんだと思います」
「そうか」
「最後に会ったとき、変なこと言ってたんです」
フィンは、首を傾げた。
「剣を振るのに飽きたら、いつでも遊びに来いって。海の見える街にいるからって。どこの街かは、教えてくれなかったんですけど」
匙が、器の底に当たって、かちりと鳴った。
海の見える街。
この世界には、海の見える街がいくらでもある。
シルフェリオも。ベネディアも。
「……その男は」
自分の声が、思っていたより低かった。
「髪は、何色だった」
フィンが、瞬きをした。
「フードを、ずっと被ってて。……でも、一度だけ、風で外れたとき。黒っぽかったと思います。焦げ茶か、黒か。夕方だったから」
黒っぽかった。
王都にも、黒っぽい髪の男はいくらでもいる。
九十年前に城にいた勇者と、三年前に消えた彼と、黒っぽい髪の旅の男。三つの影が、頭の中で、重なりそうで重ならなかった。重ねたいのは、私のほうだった。
期待するなら、確かめてからにしろ。
確かめる手立ては、海の見える街のどこかにしかなかった。
器の底に、冷えた羊の脂が、薄く白く残っていた。
私は、それ以上は訊かなかった。
訊けば、明日の朝、殿下の前で、背筋を伸ばしていられなくなる気がした。
叙勲の日の朝、王城の広間は、白い光に満ちていた。
高い天井の窓から、世界樹の木漏れ日が降り注いでいる。床に敷かれた深紅の絨毯の上を、光と影がまだらに揺れていた。
広間の両側に、近衛騎士たちが整列していた。銀の鎧が、木漏れ日を受けて鈍く光っている。
玉座には、老いた王が座っていた。
ジークハルト・アルセリア・ルンシア。
この国の王だという。
背筋は、まだまっすぐだった。白くなった金の髪を後ろへ流し、深い皺の刻まれた顔に、ふと鋭い光が宿る。その目が広間を見渡すたびに、整列した近衛騎士たちの背筋が、わずかに伸びるのが分かった。
玉座の右に、殿下が立っていた。
濃紺の軍装の胸に、今日は金の飾緒を下げている。
そして、玉座の左、少し離れたところに、白い衣の小さな人影があった。
リエルだった。
付き人に手を引かれ、人形の顔で、静かに立っていた。
玉座の背後の壁には、二枚の大きなタペストリーが掛かっていた。
リエルの背後には、乳白と淡藤の糸で織られた一枚。細身の剣にすがってよろめく体を支える少女の姿と、その足もとで羽を寄せ合う雛鳥たちが描かれていた。
殿下の背後には、もう一枚。一振りの細剣を捧げ持ち、世界樹の麓に跪く若者の姿だった。細剣の刀身だけが、金糸で眩しく織り出されていた。
「建国の勇者様と、救済の女神様です」
隣で、フィンが小声で教えてくれた。
「女神様が細剣になって、勇者様と一緒に魔族を追い払ったんだって。村の子供なら、みんな知ってる話です」
私は、二枚の布を見上げた。
細剣にすがる少女の顔は、どこか、リエルに似ている気がした。
私は、フィンと並んで、絨毯の上を進んだ。
誂えたばかりの近衛の礼装は、やはり窮屈だった。肩も胸も、隙間なく締めつけてくる。
けれど、背中は、まっすぐに伸びていた。
玉座の前で、膝をついた。
今度は、忘れなかった。
玉座の脇から、白い法衣の老人が進み出た。王都の大聖堂の司教だと、あとで知った。
両手に、深緑と金の糸で編んだ組紐の環を捧げ持っていた。大人の掌が二つ並んで載るほどの環で、結び目から、結ばれた二つの手を彫った小さな木の札が下がっていた。
「主神レガトス・クストディアの御名のもとに」
司教の声は、殿下よりも低く、よく枯れていた。
「契礎の環に手を置き、誓いを立てられよ」
二枚のタペストリーのあいだ、玉座の真上の壁に、石の浮彫があった。二本の槍を杖のように立てて、まっすぐに立つ男。大聖堂で見た像と同じ姿だった。誓いの言葉を口にするとき、騎士はその浮彫を見上げるものなのだという。
フィンが先に、環に右手を置いた。
「この身を王家の剣とし、盾とし、主神の御名と結ばれた縁にかけて、偽らぬことを誓います」
一度もつかえなかった。叙勲が決まってから、何度も口の中で転がしていたのだろう。
私の番が来た。
組紐の環に右手を置いた。糸は思っていたより柔らかく、何人もの手の温みを吸い込んできたような手触りだった。
木の札が、指の先で揺れた。
指が、組紐を握りかけた。
握るものではない。置くものだ。分かっているのに、指は勝手に丸まりかけていた。商店街の夕方、骨ばった指のあいだへ自分の指を差し入れたときと、同じ形に。
司教が小さく咳払いをした。
私は指を伸ばし、掌を環の上に平らに置き直した。
「この身を王家の剣とし、盾とし」
フィンと同じ言葉を、同じ順で言った。
主神の御名、のところで浮彫を見上げた。二本の槍の男は、広間の誰のことも見ていなかった。見るつもりもないような顔に見えた。
「結ばれた縁にかけて、偽らぬことを誓う」
言い終えて手を離したとき、組紐は、まだ私の掌の温度になっていなかった。
殿下が、一歩前に出た。
腰の剣を抜き、その平で、フィンの右肩に触れた。
「フィン・レーンベル」
よく通る声が、広間に響いた。
「汝は、フェリシアの地において、教会の御方を帝国の刃から守り抜いた。その忠勇を讃え、ここに近衛の列に加える」
剣の平が、フィンの左肩に移った。
「立て、近衛騎士フィン・レーンベル」
フィンが、立ち上がった。
背筋が、震えていた。顔が、真っ赤だった。
けれど、目は、まっすぐに前を見ていた。
村の森で、茂みの陰から私を見ていた少年は、もうどこにもいなかった。
殿下が、私の前に立った。
剣の平が、私の右肩に触れた。
「クルシマ・カリン」
殿下は、私の肩のあたりを見ていた。
やはり、顔は見なかった。
「汝は、フェリシアの地において、帝国の査察官エドガー・メルヴェインを討ち、御方の御身を守った。また、シルフェリオにおいて、人身売買の悪事を暴いた。その武と義を讃え、ここに近衛の列に加える」
剣の平が、左肩に移った。
殿下は、ほんの一瞬だけ、私の顔を見た。
すぐに、また逸らした。
「立て、近衛騎士クルシマ・カリン」
私は、立ち上がった。
玉座の上で、老いた王が、私を見ていた。
鋭い目だった。
けれど、その目の奥に、何かを確かめるような色があった。
王の口が、わずかに動いた。
声は聞こえなかった。
けれど、その形は、読めた。
黒い髪か、と。
そう動いたように、見えた。
◇
叙勲のあと、殿下に呼ばれた。
近衛騎士団の執務室だった。年の明けに、西への任務を命じられたのと同じ部屋だ。机の上の書類の山は、あのときよりもさらに高くなっていた。
殿下は、書類から顔を上げた。
フィンを見た。それから、私の肩のあたりを見た。
「二人とも、今日から我の近衛だ」
前置きもなく、殿下は言った。
「近衛は、王家の剣であり、盾だ。我の命には従ってもらう。だが、我の目の届かぬところで、己の目で見て、己の頭で考えることも忘れるな。フェリシアで、お前たちがそうしたように」
フィンが、背筋を伸ばした。
「はい、殿下!」
殿下は、机の脇に立てかけてあった細長い包みを、私のほうへ押しやった。
「クルシマ。それを、持っていけ」
布をほどくと、鞘に納まった剣が出てきた。
細身の、まっすぐな剣だった。抜いてみると、両刃の刀身に、波のような紋が浮いていた。光を当てる角度を変えるたびに、紋が水面のように揺れた。
「ヴァルムハイムのドワーフに、打たせた」
殿下は、書類から目を上げずに言った。
「騎士団の支給品では、お前の剣筋に剣のほうが追いつかぬと、試合を見た者が言っておった。我の近衛が、なまくらを提げて歩くのは、我の恥だ」
柄を握った。
重さが、手のひらにすとんと落ちた。刀とは違う。反りもない。けれど重心が、鍔元から拳一つ半のところに、きちんと置かれていた。誰かが、私の手の大きさと、私の振り方を、どこかで見ていたのだと分かった。
冷たい鋼が、握っているうちに、少しずつ手のひらの温度になっていった。
「……ありがたく」
「礼は要らん。働きで返せ」
殿下は、机の端に置かれた手紙の束に、指を置いた。
見覚えのある封蝋が、並んでいた。三日月を咥えた蛇。
神殿騎士の隊長に託した、あの手紙だった。
殿下は、それを開かなかった。開かなくても、中に何が書いてあるかを知っている者の、指の置き方だった。
「これは、我が預かる。西の地のことは、いずれ我が自ら片をつける」
殿下の声は、静かだった。
けれど、その静けさの底に、何か硬いものがあった。
それから、殿下は、ふと視線を落とした。
書類の上に、目を落としたまま、言った。
「……クルシマ・カリン」
「はい」
「リエルのこと、礼を言う」
私は、殿下の顔を見た。
殿下は、やはり私の顔を見なかった。書類の端を、指で揃えていた。何度も、何度も。
「あれは、教会の宝だ。国の宝でもある。だが、あれが教会の外で、ああして笑っていることを、我は知らなかった」
殿下の耳の先が、ほんの少しだけ、赤くなっていた。
「……これからも、頼む」
それだけ言って、殿下は書類に戻った。
退室を促す仕草だった。
私とフィンは、礼をして、執務室を出た。
扉が閉まったあとで、フィンが、小声で言った。
「殿下、今、カリンさんに頭下げてませんでした?」
「下げていない。書類を揃えていただけだ」
「……そうですかね」
フィンは、首を傾げていた。
私は、殿下の分類を、もう一度見直した。
固まる前に、目を逸らす。
それから、書類を揃える。
新しい項目が、一つ増えた。
執務室を出たあと、王城の中庭で、リエルと会った。
付き人たちは、少し離れた回廊で待っていた。今日だけは、殿下が許しを与えてくれたのだという。
中庭には、小さな噴水があった。
その縁に、リエルと並んで腰かけた。
「おめでとうございます、カリン」
リエルは、いつもの弾むような声で言った。
「近衛騎士ですわね。殿下のお傍にお仕えする、とても偉い騎士様」
「偉くはない」
「偉いですわ。これからは、わたくしのことも、殿下のお命令で守っていただけますの。とても心強いですわ」
リエルは、くすくすと笑った。
私は、噴水の水音を聞きながら、しばらく黙っていた。
それから、訊いた。
「リエル。踊り子とは、何だ」
リエルの笑い声が、止んだ。
あの館の晩餐の間で、エドガーが言った言葉だった。救済の女神の踊り子、と。
リエルは、しばらく黙っていた。
見えない目を、噴水のほうへ向けていた。
「わたくしは、わたくしですわ」
やがて、リエルは言った。
西へ向かう馬車の中で、同じことを言っていた。
「カリンが知っているわたくしが、わたくしのすべてですの。……前にも、申しましたでしょう?」
「言った」
「では、それで、よろしいの」
リエルは、私の手を探り当てて、握った。
「いつか、カリンが知ってしまう日が来るかもしれませんわ。でも、そのときまでは、わたくしは、ただのリエルでいたいんですの。市場で、カリンの食べ残しを片付ける、ただのリエルで」
小さな手が、少しだけ震えていた。
私は、それ以上訊かなかった。
訊かないでいてほしいと言われたことを、無理に訊くのは好きではなかった。
前にも、そう思った。
私は、懐から小さな包みを取り出した。
油紙に包んだ、手のひらほどの包みだった。
「リエル。手を」
「なんですの?」
リエルの手のひらに、包みを載せた。
リエルが、不思議そうに油紙を開く。
中から出てきたのは、干した果実だった。
橙色の、丸い果実を、皮を剥いて紐で吊るし、陽に当てて干したもの。表面に、うっすらと白い粉が吹いている。
「シルフェリオの市場で見つけた。この国では、渋くて食べられないと言って、誰も買わない果物だった」
私は、言った。
「渋い果物は、皮を剥いて干せば甘くなる。私の国では、そうやって食べる。帰りの船の中で、ずっと干していた」
リエルの指が、干した果実の表面を、そっとなぞった。
形を確かめるように。
白い粉を、指先で感じるように。
「……これは」
「柿だ」
私は、言った。
「正確には、柿に似たものだ。でも、干せば同じ味になる」
リエルは、しばらく手のひらの果実を見下ろしていた。
見えない目で。
それから、小さな口で、ひと齧りした。
ゆっくりと、噛んだ。
リエルの目から、涙が一筋、零れた。
「……甘い」
リエルは、呟いた。
「とても、甘いですわ。カリン」
「そうか」
「これが、カキですのね。夕陽の色の、果物」
リエルは、干し柿を両手で包み込むように持って、もう一口齧った。
涙が、止まらなかった。
それでも、笑っていた。
「わたくしの、やりたいことが、一つ叶いましたわ」
私は、噴水の水音を聞いていた。
海の音を聞きたい。
カキを食べてみたい。
スズメの声を、もう一度聞きたい。
カリンと、もっとたくさんお喋りしたい。
あの夜、リエルが指を折って数えた、小さな望みたち。
その二つ目が、今、叶った。
中庭の木の枝で、茶色い小さな鳥が鳴いていた。
雀に似た鳥だった。
リエルが、顔を上げた。
「……スズメですわ」
リエルは、干し柿を持ったまま、嬉しそうに笑った。
「三つ目も、叶いましたわ」
「そうだな」
「四つ目は、これからずっと、叶え続けてくださいましね」
リエルは、私の肩に、そっと頭を預けた。
噴水の水音と、雀の声と、世界樹の葉擦れが、中庭に満ちていた。
木漏れ日が、私たちの上で、まだらに揺れていた。
私は、この時間が、ずっと続けばいいと思った。
そう思ったことを、ずっと覚えている。
◇
同じ頃。
世界樹の、北の麓。
エテルナ帝国の帝都エテルノスの、夜の宮殿の最奥に、一つの執務室があった。
窓のない部屋だった。
壁一面に書棚が並び、天井から下がる結晶の灯りが、青白い光を投げかけている。部屋の中央に置かれた大きな執務机には、書類が塔のように積み上がっていた。
その机の向こうに、少年が座っていた。
少年に見えた。十四、五の、華奢な身体つき。夜空を思わせる暗い瑠璃色の髪。死人のように蒼白な肌。そして、金色に光る瞳。
この帝国の、主だった。
少年は、机の上に広げられた紙の束を、黙って読んでいた。
手紙だった。帳面の写しだった。いくつもの封蝋が押されていた。
その一つに、金糸を織り込んだ旗の紋章があった。
「……よくまあ、これだけ集めたものだ」
少年が、呟いた。
声は、見た目よりもずっと低かった。
「フェリシアの外務大臣が、手土産に持参いたしました」
机の前に立っていた男が、答えた。
背の高い、黄金の髪のヴァンパイアだった。見た目は三十代の半ば。整った顔立ちに、疲れの色が滲んでいる。着ている礼装は上等だが、襟元がわずかに緩んでいた。
「メルヴェインの館を検めさせたところ、査察官の私室から、これらが。ルンシアの西の侯爵が、十年以上にわたって、我が国の民の結晶体を買い集めていた記録です。人族の奴隷と引き換えに」
男は、溜息をついた。
「外務大臣殿は、査察官が討たれたのをいいことに、すべてを査察官一人の罪にして、己は被害者の顔をしておいでです。まったく、あの蛇は」
「バルタザール」
「はい、陛下」
「そなたは、あの蛇を知っているのか」
「フェリシアは、私の生まれ育った土地の隣ですから。ええ、よく存じております。できれば、一生関わり合いになりたくない類の男です」
バルタザールと呼ばれた男は、もう一度、溜息をついた。
少年は、手紙の束から顔を上げた。
金色の瞳が、灯りを受けて光った。
「人族が、我らの同胞の亡骸を切り刻み、道具の燃料にしている」
少年は、静かに言った。
「先の大戦の火種も、それだった。祖が生きておられた頃から、何も変わっておらぬ」
「陛下」
「エドガーを討ったのは、誰だ」
「ルンシアの騎士だと。まだ名も聞こえぬような、若い女の騎士だそうです。黒髪の」
少年の眉が、わずかに動いた。
「黒髪」
「はい。それが何か」
「……いや」
少年は、首を振った。
それから、手紙の束を、机の上で揃えた。
ゆっくりと。一枚一枚、角を合わせるように。
「バルタザール」
「はい」
「余は、実績が欲しい」
バルタザールの顔が、わずかに強張った。
「地方の者どもは、余を侮っている。幼くして帝位を継いだ、祖の影に隠れた子供だと。ヴァイスなど、余の勅を平気で握り潰す。このままでは、帝国はいずれ内から崩れる」
少年は、揃えた手紙の束の上に、手のひらを置いた。
「だが、これがあれば、大義が立つ。同胞の亡骸を辱めた人族を討つ、という大義が。地方の者どもも、これには逆らえぬ」
「……陛下」
バルタザールは、額に手を当てた。
「まさかとは思いますが」
「そのまさかだ」
少年は、微笑んだ。
十四の少年の顔に浮かぶには、あまりにも静かな微笑みだった。
「姉上には、まだ言うな。あの方に知られたら、明日にも一人で国境を越えかねん」
「言いませんよ。言えるものですか」
バルタザールは、深く、深く溜息をついた。
「……娘の誕生日が、来月なのですがね」
「祝ってやれ。それまでは、まだ余裕がある」
「それまでは、ですか」
「それまでは、だ」
少年は、机の上の灯りを、指先でそっと弾いた。
青白い光が、揺れた。
部屋の外、どこか遠くの回廊で、女の豪快な笑い声が響いていた。
少年は、その声が聞こえてきた方角を、ほんの少しだけ、困ったように見やった。
それから、また、手紙の束に目を落とした。
金糸の旗の封蝋が、青白い灯りの下で、鈍く光っていた。
落葉歴九百八十六年、晩夏。
木漏れ日の国の、最後の夏だった。
(第九章 了)
(越境者の足跡 一.木漏れ日の国 了)




