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越境者の足跡  作者: 野良野良猫
一.木漏れ日の国
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第九章 叙勲

 帰りの船は、行きよりも静かだった。

 神殿騎士たちは、甲板で交代に見張りを続けていた。誰も、あの館の話をしなかった。司祭たちは船室に籠もって、ほとんど顔を見せなかった。

 モモは、船縁に座って、ずっと海を見ていた。

 左の手首に、赤い髪紐が巻かれていた。

 ナナの髪から解いたものだ。結び目が不格好なのは、片手で結んだからだろう。

 私は、モモの隣に腰を下ろした。

 何も言わなかった。

 モモも、何も言わなかった。

 波の音だけが、ずっと聞こえていた。

 しばらくして、モモが、ぽつりと言った。

「姐さん」

「なんだ」

「お腹、空いたっす」

 私は、モモの顔を見た。

 泣き腫らした目のまま、モモは少しだけ笑っていた。

 無理に笑っているのは、分かった。

 それでも、笑おうとしていた。

「何が食べたい」

「姐さんの、いちばん簡単なやつがいいっす」

 その日の昼、私は船の厨房を借りて、握り飯を作った。

 竈の縁に、掌ほどの素焼きの像が据えてあった。煤で黒ずんだ顔に、掌の上の火種だけが朱く塗り残されている。火種の女神だと船の料理番が言った。どの家の炉にもいる女神で、船の竈も家の炉のうちなのだという。

 料理番は火を入れる前に、像の足もとへ塩をひとつまみ置いた。

 レーンベルで、バルトが毎朝そうしていた。腰の曲がった背中が炉の前で一度だけ丸くなり、乾いた指が塩をこぼす。あの村の朝は、いつもその小さな音から始まっていた。

 塩壺を借りたついでに、私も像の足もとに一つまみ置いた。祈ったのではない。人の台所を借りるときの挨拶のつもりだった。

 麦を炊いて、塩を振って、両手で握った。米ではないから、少し崩れやすい。それでも、丁寧に、固すぎないように握った。

 モモは、それを三つ食べた。

 一つ食べるごとに、少しずつ泣いた。

 三つ目を食べ終えたとき、モモはもう泣いていなかった。

 その夜、船室で、リエルが私の手を取った。

 左の腕を、指先でなぞった。

 エドガーの結晶の槍が貫いたところだった。もう、痕はどこにもなかった。

「痛みは、ございませんの?」

「ない。君の歌のおかげだ」

 リエルは、少しだけ首を振った。

「わたくしは、女神様のお力を、ほんの少しお借りしただけですわ。本当は、あんなふうに使ってはいけないことになっておりますの。許しなく歌ってはいけないと、ずっと教わってまいりましたから」

「では、なぜ歌った」

 リエルは、私の腕をなぞる指を止めた。

「カリンが、傷ついていましたもの」

 当たり前のことのように、リエルは言った。

「わたくし、生まれて初めて、誰にも命じられずに歌いましたわ」

 見えない目が、少しだけ細くなった。

「とても、怖かったですわ。でも、少しだけ、嬉しかったですの」

 首元の黒いチョーカーに、リエルの指がそっと触れた。

 引っ張りはしなかった。

 ただ、触れて、すぐに離れた。

            ◇

 シルフェリオの港に着くと、侯爵の使いが待っていた。

 宮殿に招かれ、あの回廊で、もう一度侯爵に会った。

 真っ白な髪の毛先が、窓からの光を受けて瞬いていた。

「此度のこと、フェリシアの側から知らせが届いておる」

 侯爵は、低い声で言った。

「…よもや一介の騎士がヴァンパイアに勝るとはな」

 侯爵は、私とフィンを交互に見た。

 頭を下げたフィンの襟元から、鎖が一筋こぼれていた。その先で、くすんだ銀の円盤が揺れている。止まり木の梟。バルトの形見のペンダントだ。

 侯爵の目が、そこで止まった。

 ほんの一息ほどの間だった。

 緑の目に、何かがよぎった。私には読めない何かが。遠いものを懐かしむような、あるいは、何かを確かめようとするような。

 それから、侯爵は目を逸らした。

 ふと付け足すように言った。

「アーロンは、死んだ」

 私は、顔を上げた。

「詮議の最中に、獄中で倒れた。持病があったらしい。惜しいことをした。まだ聞き出すことは、いくらもあったのだが」

 侯爵の声は、少しも揺れていなかった。

 私は、侯爵の目を見た。

 緑の目だった。深く、静かで、底が見えなかった。

 港で縄を引かれていくとき、アーロンは侯爵の顔を見上げていた。侯爵は、アーロンを見なかった。

 そして、あの笑み。

 また、と動いた唇。

 約束いただいた主への献上品。

 向こうの外務大臣とも、話はついておる。

 いくつかの言葉が、頭の中で浮かんでは沈んだ。

 この人が、魔族に踊り子を差し出す理由はない。魔族を誰より憎んでいると、王都の誰もが知っている。

 けれど、話をつけた相手は、あの蛇の封蝋の男だ。蛇は、誰とでも話をつける。片方の手で握手をして、もう片方の手で、別の誰かと。

 それらを一本の糸に繋ぐものは、まだ、何もなかった。

 私は、黙って頭を下げた。

 侯爵も、それ以上は何も言わなかった。

 回廊を出るとき、背中に視線を感じた。

 振り返らなかった。

            ◇

 王都に戻ったのは、夏の終わりだった。

 世界樹の枝葉が、盛夏の濃い緑から、わずかに色を落とし始めていた。木漏れ日の色が、少しだけ柔らかくなっている。

 城門をくぐったところで、モモが足を止めた。

「自分、ここでお別れするっす」

 私とフィンは、振り返った。

 モモは、背中に小さな荷を背負っていた。帰りの船の中で、少しずつまとめていたのを、私は知っていた。

「どこへ行く」

「東っす。王都の東の市場から、ドワーフの領地へ向かう隊商が出るって聞いたっす。荷運びの手伝いで、乗せてもらえることになったっす」

 モモは、左の手首の赤い髪紐を、右手でそっと握った。

「自分、商人になるっす」

 まっすぐな目だった。

 あの館の地下で泣き崩れていた目と、同じ目だった。

 けれど、その奥にあるものが、違っていた。

「ナナは、売られたっす。品物みたいに。自分も、あの宿場町で、売られるところだったっす」

 モモの声は、震えていなかった。

「だから、自分は、売り買いされない側に立ちたいっす。人を売ったりしない商人になって、いっぱい稼いで、いつか、ナナみたいな子を、買い戻せるくらいになりたいっす」

 モモは、へにゃりと笑った。

 初めて会った日と、同じ笑顔だった。

「自分、頭はよくないっすけど、鼻は利くっす。いい商売の匂いも、悪い商売の匂いも、嗅ぎ分けられるっす」

「そうだな」

 私は、頷いた。

「君の鼻なら、きっとできる」

 モモの耳が、ぴんと立った。

 それから、勢いよく頭を下げた。

 城門の石畳に、額がごんと当たった。

「……痛いっす」

 額を押さえて顔を上げたモモは、泣きながら笑っていた。

 フィンが、モモに小さな袋を渡した。

 騎士団の給金を貯めたものだと、あとで聞いた。

「兄貴、これ」

「旅の足しに。返さなくていいから」

 モモは、袋を握りしめて、フィンの胸に頭突きをした。

 それが、モモなりの礼らしかった。

 フィンは、よろけながら、耳を赤くしていた。

 頭突きの姿勢のまま、モモが顔だけ上げて、にやりと笑った。

「兄貴。こういうこと、なんで姐さんにはできないんすかねえ」

 フィンの耳が、赤から紅に変わった。

「モ、モモ!」

「だって、見てりゃ分かるっすよ。ずーっと姐さんのこと」

「わーっ!」

 フィンが、慌ててモモの口を塞いだ。

 私は、二人を見比べて、首を傾げた。

「頭突きなら、私にしても構わないぞ」

 真顔で言うと、フィンはその場にしゃがみ込んで、両手で顔を覆った。

 モモは、腹を抱えて笑っていた。

 最後に、モモは私の前に立った。

 何か言おうとして、言葉を探して、見つからずに口を閉じた。

 それから、私の腕に、ぎゅっとしがみついた。

「姐さん」

 私の腕に顔を押しつけたまま、くぐもった声で言った。

「自分、いつか、姐さんが腰抜かすくらいの大商人になるっす。そしたら、また姐さんの飯、食わせてほしいっす」

「いくらでも作る」

「約束っすよ」

「約束だ」

 モモは、私の腕を離した。

 それから、くるりと背を向けて、東の市場のほうへ駆けていった。

 赤い髪が、木漏れ日の中で揺れていた。

 一度も振り返らなかった。

 振り返ったら、泣いてしまうからだろう。

 私も、フィンも、その背中が人混みに消えるまで、見送っていた。

            ◇

 叙勲の日取りが決まったのは、それから十日後だった。

 近衛騎士に叙する、という。

 王都騎士団の正騎士から、近衛へ。本来なら、何年もかかる道のりだ。家柄のない者が、二十歳そこそこで近衛に上がった例は、ほとんどないという。

 殿下の、強い推挙があったらしい。

 あとで、騎士団の古参から聞いた。

 ヴァンパイアは、人族にとって最も恐ろしい相手の一つなのだという。戦場で一人を討つのに、数百の兵が倒れることも珍しくない。先の大戦を知る老騎士たちは、その名を聞くだけで顔を曇らせるらしい。

 それを、ほとんど犠牲も出さずに二人で討った。

 殿下の推挙が通ったのは、そういうことらしかった。

 私には、実感がなかった。

 ただ、首を断った瞬間の手応えだけが、まだ掌に残っていた。

 叙勲の前に、近衛の礼装を誂えることになった。

 城下の仕立て屋に、フィンと二人で呼ばれた。

 仕立て屋の主人は、痩せた初老の男だった。巻尺を首にかけ、手際よく私の身体を測っていく。肩幅。胸回り。腕の長さ。脚の長さ。

 測り終えたところで、主人は首を傾げた。

 帳面をめくり、何かを見比べている。

 それから、もう一度、私の肩幅を測り直した。

「……おかしいですな」

「何がだ」

「三年前、騎士団に入られたときにも、うちで採寸をさせていただいておりましてね。その記録が、ここに」

 主人は、帳面を指で叩いた。

「寸分、違わないのですよ。肩も、胸も、腕も。三年も経てば、普通はいくらか変わるものです。鍛えれば肩が張る。食べれば胴が太る。お若い方なら、背が伸びることもある」

 主人は、私の顔を見上げた。

「騎士殿は、何ひとつ、変わっておられない」

 隣で、フィンが採寸されていた。

 別の職人が、フィンの帳面を見て、驚いたように声を上げていた。三年前より、肩幅が二寸も広くなっている、と。背も、ずいぶん伸びた、と。

 私は、仕立て屋の主人の帳面を見下ろした。

 三年前の数字と、今日の数字。

 同じ数字が、二つ並んでいた。

「……よく鍛えているからだろう」

 そう言った。

 主人は、納得したような、していないような顔で、帳面を閉じた。

 私も、それ以上は考えなかった。

 考えないことにした。

 伸びない髪のことも。

 三日で消えた傷のことも。

 並んだ二つの数字のことも。

 ひとつずつなら、何でもないことだった。

            ◇

 叙勲の前の晩、フィンと二人で、兵舎の近くの食堂へ行った。

 見習いの頃から通っている、安くて量の多い店だ。

 壁の品書きには、今も「カツ」の二文字があった。

 私は、それを頼まなかった。

 豆と羊の煮込みを頼んだ。フィンが、一度だけ品書きと私の顔を見比べて、同じものを頼んだ。

 二年前の冬、あの皿の前で、小刀を握ったまま動けなくなった。

 揚げ油の匂いが、いまも厨房のほうから流れてきていた。鼻の奥の、商店街の夕方に通じている場所を、その匂いが指で押すように触れていく。

 あの皿をもう一度前にしたら、また動けなくなる気がした。明日は叙勲の朝で、私は殿下の前で背筋を伸ばしていなければならない。

 煮込みは、塩が強かった。羊の脂が、冷めるそばから匙の縁に白く固まった。

 私は、それを黙って食べた。

 フィンが、匙を止めて、私の顔を見ていた。

「カリンさん」

「なんだ」

「いつか、カリンさんの国の料理、食べてみたいです。村で作ってくれた汁も、すごかったけど。……そうじゃなくて、カリンさんが、故郷で作ってたやつ」

 私は、匙を置いた。

 故郷の台所で作っていたものは、ほとんど全部、誰か一人のためのものだった。

「手間がかかるぞ」

「待ちます」

「材料も、こちらにはないものが多い」

「探します」

 大型犬が、散歩の紐を咥えて待っているときの顔だった。

「……いずれな」

 フィンの顔が、ぱっと明るくなった。

 食べながら、ふと思い出した。

「そういえば、槍の男はどうした」

「ああ」

 フィンは、少しだけ寂しそうな顔をした。

「西へ発つ少し前から、見かけなくなりました。空き地に行っても、もういなくて。旅の人だったから、どこかへ行っちゃったんだと思います」

「そうか」

「最後に会ったとき、変なこと言ってたんです」

 フィンは、首を傾げた。

「剣を振るのに飽きたら、いつでも遊びに来いって。海の見える街にいるからって。どこの街かは、教えてくれなかったんですけど」

 匙が、器の底に当たって、かちりと鳴った。

 海の見える街。

 この世界には、海の見える街がいくらでもある。

 シルフェリオも。ベネディアも。

「……その男は」

 自分の声が、思っていたより低かった。

「髪は、何色だった」

 フィンが、瞬きをした。

「フードを、ずっと被ってて。……でも、一度だけ、風で外れたとき。黒っぽかったと思います。焦げ茶か、黒か。夕方だったから」

 黒っぽかった。

 王都にも、黒っぽい髪の男はいくらでもいる。

 九十年前に城にいた勇者と、三年前に消えた彼と、黒っぽい髪の旅の男。三つの影が、頭の中で、重なりそうで重ならなかった。重ねたいのは、私のほうだった。

 期待するなら、確かめてからにしろ。

 確かめる手立ては、海の見える街のどこかにしかなかった。

 器の底に、冷えた羊の脂が、薄く白く残っていた。

 私は、それ以上は訊かなかった。

 訊けば、明日の朝、殿下の前で、背筋を伸ばしていられなくなる気がした。

 叙勲の日の朝、王城の広間は、白い光に満ちていた。

 高い天井の窓から、世界樹の木漏れ日が降り注いでいる。床に敷かれた深紅の絨毯の上を、光と影がまだらに揺れていた。

 広間の両側に、近衛騎士たちが整列していた。銀の鎧が、木漏れ日を受けて鈍く光っている。

 玉座には、老いた王が座っていた。

 ジークハルト・アルセリア・ルンシア。

 この国の王だという。

 背筋は、まだまっすぐだった。白くなった金の髪を後ろへ流し、深い皺の刻まれた顔に、ふと鋭い光が宿る。その目が広間を見渡すたびに、整列した近衛騎士たちの背筋が、わずかに伸びるのが分かった。

 玉座の右に、殿下が立っていた。

 濃紺の軍装の胸に、今日は金の飾緒を下げている。

 そして、玉座の左、少し離れたところに、白い衣の小さな人影があった。

 リエルだった。

 付き人に手を引かれ、人形の顔で、静かに立っていた。

 玉座の背後の壁には、二枚の大きなタペストリーが掛かっていた。

 リエルの背後には、乳白と淡藤の糸で織られた一枚。細身の剣にすがってよろめく体を支える少女の姿と、その足もとで羽を寄せ合う雛鳥たちが描かれていた。

 殿下の背後には、もう一枚。一振りの細剣を捧げ持ち、世界樹の麓に跪く若者の姿だった。細剣の刀身だけが、金糸で眩しく織り出されていた。

「建国の勇者様と、救済の女神様です」

 隣で、フィンが小声で教えてくれた。

「女神様が細剣になって、勇者様と一緒に魔族を追い払ったんだって。村の子供なら、みんな知ってる話です」

 私は、二枚の布を見上げた。

 細剣にすがる少女の顔は、どこか、リエルに似ている気がした。

 私は、フィンと並んで、絨毯の上を進んだ。

 誂えたばかりの近衛の礼装は、やはり窮屈だった。肩も胸も、隙間なく締めつけてくる。

 けれど、背中は、まっすぐに伸びていた。

 玉座の前で、膝をついた。

 今度は、忘れなかった。

 玉座の脇から、白い法衣の老人が進み出た。王都の大聖堂の司教だと、あとで知った。

 両手に、深緑と金の糸で編んだ組紐の環を捧げ持っていた。大人の掌が二つ並んで載るほどの環で、結び目から、結ばれた二つの手を彫った小さな木の札が下がっていた。

「主神レガトス・クストディアの御名のもとに」

 司教の声は、殿下よりも低く、よく枯れていた。

「契礎の環に手を置き、誓いを立てられよ」

 二枚のタペストリーのあいだ、玉座の真上の壁に、石の浮彫があった。二本の槍を杖のように立てて、まっすぐに立つ男。大聖堂で見た像と同じ姿だった。誓いの言葉を口にするとき、騎士はその浮彫を見上げるものなのだという。

 フィンが先に、環に右手を置いた。

「この身を王家の剣とし、盾とし、主神の御名と結ばれた縁にかけて、偽らぬことを誓います」

 一度もつかえなかった。叙勲が決まってから、何度も口の中で転がしていたのだろう。

 私の番が来た。

 組紐の環に右手を置いた。糸は思っていたより柔らかく、何人もの手の温みを吸い込んできたような手触りだった。

 木の札が、指の先で揺れた。

 指が、組紐を握りかけた。

 握るものではない。置くものだ。分かっているのに、指は勝手に丸まりかけていた。商店街の夕方、骨ばった指のあいだへ自分の指を差し入れたときと、同じ形に。

 司教が小さく咳払いをした。

 私は指を伸ばし、掌を環の上に平らに置き直した。

「この身を王家の剣とし、盾とし」

 フィンと同じ言葉を、同じ順で言った。

 主神の御名、のところで浮彫を見上げた。二本の槍の男は、広間の誰のことも見ていなかった。見るつもりもないような顔に見えた。

「結ばれた縁にかけて、偽らぬことを誓う」

 言い終えて手を離したとき、組紐は、まだ私の掌の温度になっていなかった。

 殿下が、一歩前に出た。

 腰の剣を抜き、その平で、フィンの右肩に触れた。

「フィン・レーンベル」

 よく通る声が、広間に響いた。

「汝は、フェリシアの地において、教会の御方を帝国の刃から守り抜いた。その忠勇を讃え、ここに近衛の列に加える」

 剣の平が、フィンの左肩に移った。

「立て、近衛騎士フィン・レーンベル」

 フィンが、立ち上がった。

 背筋が、震えていた。顔が、真っ赤だった。

 けれど、目は、まっすぐに前を見ていた。

 村の森で、茂みの陰から私を見ていた少年は、もうどこにもいなかった。

 殿下が、私の前に立った。

 剣の平が、私の右肩に触れた。

「クルシマ・カリン」

 殿下は、私の肩のあたりを見ていた。

 やはり、顔は見なかった。

「汝は、フェリシアの地において、帝国の査察官エドガー・メルヴェインを討ち、御方の御身を守った。また、シルフェリオにおいて、人身売買の悪事を暴いた。その武と義を讃え、ここに近衛の列に加える」

 剣の平が、左肩に移った。

 殿下は、ほんの一瞬だけ、私の顔を見た。

 すぐに、また逸らした。

「立て、近衛騎士クルシマ・カリン」

 私は、立ち上がった。

 玉座の上で、老いた王が、私を見ていた。

 鋭い目だった。

 けれど、その目の奥に、何かを確かめるような色があった。

 王の口が、わずかに動いた。

 声は聞こえなかった。

 けれど、その形は、読めた。

 黒い髪か、と。

 そう動いたように、見えた。

            ◇

 叙勲のあと、殿下に呼ばれた。

 近衛騎士団の執務室だった。年の明けに、西への任務を命じられたのと同じ部屋だ。机の上の書類の山は、あのときよりもさらに高くなっていた。

 殿下は、書類から顔を上げた。

 フィンを見た。それから、私の肩のあたりを見た。

「二人とも、今日から我の近衛だ」

 前置きもなく、殿下は言った。

「近衛は、王家の剣であり、盾だ。我の命には従ってもらう。だが、我の目の届かぬところで、己の目で見て、己の頭で考えることも忘れるな。フェリシアで、お前たちがそうしたように」

 フィンが、背筋を伸ばした。

「はい、殿下!」

 殿下は、机の脇に立てかけてあった細長い包みを、私のほうへ押しやった。

「クルシマ。それを、持っていけ」

 布をほどくと、鞘に納まった剣が出てきた。

 細身の、まっすぐな剣だった。抜いてみると、両刃の刀身に、波のような紋が浮いていた。光を当てる角度を変えるたびに、紋が水面のように揺れた。

「ヴァルムハイムのドワーフに、打たせた」

 殿下は、書類から目を上げずに言った。

「騎士団の支給品では、お前の剣筋に剣のほうが追いつかぬと、試合を見た者が言っておった。我の近衛が、なまくらを提げて歩くのは、我の恥だ」

 柄を握った。

 重さが、手のひらにすとんと落ちた。刀とは違う。反りもない。けれど重心が、鍔元から拳一つ半のところに、きちんと置かれていた。誰かが、私の手の大きさと、私の振り方を、どこかで見ていたのだと分かった。

 冷たい鋼が、握っているうちに、少しずつ手のひらの温度になっていった。

「……ありがたく」

「礼は要らん。働きで返せ」

 殿下は、机の端に置かれた手紙の束に、指を置いた。

 見覚えのある封蝋が、並んでいた。三日月を咥えた蛇。

 神殿騎士の隊長に託した、あの手紙だった。

 殿下は、それを開かなかった。開かなくても、中に何が書いてあるかを知っている者の、指の置き方だった。

「これは、我が預かる。西の地のことは、いずれ我が自ら片をつける」

 殿下の声は、静かだった。

 けれど、その静けさの底に、何か硬いものがあった。

 それから、殿下は、ふと視線を落とした。

 書類の上に、目を落としたまま、言った。

「……クルシマ・カリン」

「はい」

「リエルのこと、礼を言う」

 私は、殿下の顔を見た。

 殿下は、やはり私の顔を見なかった。書類の端を、指で揃えていた。何度も、何度も。

「あれは、教会の宝だ。国の宝でもある。だが、あれが教会の外で、ああして笑っていることを、我は知らなかった」

 殿下の耳の先が、ほんの少しだけ、赤くなっていた。

「……これからも、頼む」

 それだけ言って、殿下は書類に戻った。

 退室を促す仕草だった。

 私とフィンは、礼をして、執務室を出た。

 扉が閉まったあとで、フィンが、小声で言った。

「殿下、今、カリンさんに頭下げてませんでした?」

「下げていない。書類を揃えていただけだ」

「……そうですかね」

 フィンは、首を傾げていた。

 私は、殿下の分類を、もう一度見直した。

 固まる前に、目を逸らす。

 それから、書類を揃える。

 新しい項目が、一つ増えた。

 執務室を出たあと、王城の中庭で、リエルと会った。

 付き人たちは、少し離れた回廊で待っていた。今日だけは、殿下が許しを与えてくれたのだという。

 中庭には、小さな噴水があった。

 その縁に、リエルと並んで腰かけた。

「おめでとうございます、カリン」

 リエルは、いつもの弾むような声で言った。

「近衛騎士ですわね。殿下のお傍にお仕えする、とても偉い騎士様」

「偉くはない」

「偉いですわ。これからは、わたくしのことも、殿下のお命令で守っていただけますの。とても心強いですわ」

 リエルは、くすくすと笑った。

 私は、噴水の水音を聞きながら、しばらく黙っていた。

 それから、訊いた。

「リエル。踊り子とは、何だ」

 リエルの笑い声が、止んだ。

 あの館の晩餐の間で、エドガーが言った言葉だった。救済の女神の踊り子、と。

 リエルは、しばらく黙っていた。

 見えない目を、噴水のほうへ向けていた。

「わたくしは、わたくしですわ」

 やがて、リエルは言った。

 西へ向かう馬車の中で、同じことを言っていた。

「カリンが知っているわたくしが、わたくしのすべてですの。……前にも、申しましたでしょう?」

「言った」

「では、それで、よろしいの」

 リエルは、私の手を探り当てて、握った。

「いつか、カリンが知ってしまう日が来るかもしれませんわ。でも、そのときまでは、わたくしは、ただのリエルでいたいんですの。市場で、カリンの食べ残しを片付ける、ただのリエルで」

 小さな手が、少しだけ震えていた。

 私は、それ以上訊かなかった。

 訊かないでいてほしいと言われたことを、無理に訊くのは好きではなかった。

 前にも、そう思った。

 私は、懐から小さな包みを取り出した。

 油紙に包んだ、手のひらほどの包みだった。

「リエル。手を」

「なんですの?」

 リエルの手のひらに、包みを載せた。

 リエルが、不思議そうに油紙を開く。

 中から出てきたのは、干した果実だった。

 橙色の、丸い果実を、皮を剥いて紐で吊るし、陽に当てて干したもの。表面に、うっすらと白い粉が吹いている。

「シルフェリオの市場で見つけた。この国では、渋くて食べられないと言って、誰も買わない果物だった」

 私は、言った。

「渋い果物は、皮を剥いて干せば甘くなる。私の国では、そうやって食べる。帰りの船の中で、ずっと干していた」

 リエルの指が、干した果実の表面を、そっとなぞった。

 形を確かめるように。

 白い粉を、指先で感じるように。

「……これは」

「柿だ」

 私は、言った。

「正確には、柿に似たものだ。でも、干せば同じ味になる」

 リエルは、しばらく手のひらの果実を見下ろしていた。

 見えない目で。

 それから、小さな口で、ひと齧りした。

 ゆっくりと、噛んだ。

 リエルの目から、涙が一筋、零れた。

「……甘い」

 リエルは、呟いた。

「とても、甘いですわ。カリン」

「そうか」

「これが、カキですのね。夕陽の色の、果物」

 リエルは、干し柿を両手で包み込むように持って、もう一口齧った。

 涙が、止まらなかった。

 それでも、笑っていた。

「わたくしの、やりたいことが、一つ叶いましたわ」

 私は、噴水の水音を聞いていた。

 海の音を聞きたい。

 カキを食べてみたい。

 スズメの声を、もう一度聞きたい。

 カリンと、もっとたくさんお喋りしたい。

 あの夜、リエルが指を折って数えた、小さな望みたち。

 その二つ目が、今、叶った。

 中庭の木の枝で、茶色い小さな鳥が鳴いていた。

 雀に似た鳥だった。

 リエルが、顔を上げた。

「……スズメですわ」

 リエルは、干し柿を持ったまま、嬉しそうに笑った。

「三つ目も、叶いましたわ」

「そうだな」

「四つ目は、これからずっと、叶え続けてくださいましね」

 リエルは、私の肩に、そっと頭を預けた。

 噴水の水音と、雀の声と、世界樹の葉擦れが、中庭に満ちていた。

 木漏れ日が、私たちの上で、まだらに揺れていた。

 私は、この時間が、ずっと続けばいいと思った。

 そう思ったことを、ずっと覚えている。

           ◇

 同じ頃。

 世界樹の、北の麓。

 エテルナ帝国の帝都エテルノスの、夜の宮殿の最奥に、一つの執務室があった。

 窓のない部屋だった。

 壁一面に書棚が並び、天井から下がる結晶の灯りが、青白い光を投げかけている。部屋の中央に置かれた大きな執務机には、書類が塔のように積み上がっていた。

 その机の向こうに、少年が座っていた。

 少年に見えた。十四、五の、華奢な身体つき。夜空を思わせる暗い瑠璃色の髪。死人のように蒼白な肌。そして、金色に光る瞳。

 この帝国の、主だった。

 少年は、机の上に広げられた紙の束を、黙って読んでいた。

 手紙だった。帳面の写しだった。いくつもの封蝋が押されていた。

 その一つに、金糸を織り込んだ旗の紋章があった。

「……よくまあ、これだけ集めたものだ」

 少年が、呟いた。

 声は、見た目よりもずっと低かった。

「フェリシアの外務大臣が、手土産に持参いたしました」

 机の前に立っていた男が、答えた。

 背の高い、黄金の髪のヴァンパイアだった。見た目は三十代の半ば。整った顔立ちに、疲れの色が滲んでいる。着ている礼装は上等だが、襟元がわずかに緩んでいた。

「メルヴェインの館を検めさせたところ、査察官の私室から、これらが。ルンシアの西の侯爵が、十年以上にわたって、我が国の民の結晶体を買い集めていた記録です。人族の奴隷と引き換えに」

 男は、溜息をついた。

「外務大臣殿は、査察官が討たれたのをいいことに、すべてを査察官一人の罪にして、己は被害者の顔をしておいでです。まったく、あの蛇は」

「バルタザール」

「はい、陛下」

「そなたは、あの蛇を知っているのか」

「フェリシアは、私の生まれ育った土地の隣ですから。ええ、よく存じております。できれば、一生関わり合いになりたくない類の男です」

 バルタザールと呼ばれた男は、もう一度、溜息をついた。

 少年は、手紙の束から顔を上げた。

 金色の瞳が、灯りを受けて光った。

「人族が、我らの同胞の亡骸を切り刻み、道具の燃料にしている」

 少年は、静かに言った。

「先の大戦の火種も、それだった。祖が生きておられた頃から、何も変わっておらぬ」

「陛下」

「エドガーを討ったのは、誰だ」

「ルンシアの騎士だと。まだ名も聞こえぬような、若い女の騎士だそうです。黒髪の」

 少年の眉が、わずかに動いた。

「黒髪」

「はい。それが何か」

「……いや」

 少年は、首を振った。

 それから、手紙の束を、机の上で揃えた。

 ゆっくりと。一枚一枚、角を合わせるように。

「バルタザール」

「はい」

「余は、実績が欲しい」

 バルタザールの顔が、わずかに強張った。

「地方の者どもは、余を侮っている。幼くして帝位を継いだ、祖の影に隠れた子供だと。ヴァイスなど、余の勅を平気で握り潰す。このままでは、帝国はいずれ内から崩れる」

 少年は、揃えた手紙の束の上に、手のひらを置いた。

「だが、これがあれば、大義が立つ。同胞の亡骸を辱めた人族を討つ、という大義が。地方の者どもも、これには逆らえぬ」

「……陛下」

 バルタザールは、額に手を当てた。

「まさかとは思いますが」

「そのまさかだ」

 少年は、微笑んだ。

 十四の少年の顔に浮かぶには、あまりにも静かな微笑みだった。

「姉上には、まだ言うな。あの方に知られたら、明日にも一人で国境を越えかねん」

「言いませんよ。言えるものですか」

 バルタザールは、深く、深く溜息をついた。

「……娘の誕生日が、来月なのですがね」

「祝ってやれ。それまでは、まだ余裕がある」

「それまでは、ですか」

「それまでは、だ」

 少年は、机の上の灯りを、指先でそっと弾いた。

 青白い光が、揺れた。

 部屋の外、どこか遠くの回廊で、女の豪快な笑い声が響いていた。

 少年は、その声が聞こえてきた方角を、ほんの少しだけ、困ったように見やった。

 それから、また、手紙の束に目を落とした。

 金糸の旗の封蝋が、青白い灯りの下で、鈍く光っていた。

 落葉歴九百八十六年、晩夏。

 木漏れ日の国の、最後の夏だった。


(第九章 了)


(越境者の足跡 一.木漏れ日の国 了)


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