第七章 慰霊の地
「……ない」
付き人の女が、包帯を解いた手を止めて呟いた。
シルフェリオを発つ朝だった。宮殿の離れの一室で、私は上着の前を開けて椅子に座っていた。アーロンの光の槍が掠めた胸の傷を、出立の前にもう一度改めておくと言われたのだ。
付き人は、私の胸元を見つめたまま動かなかった。
「傷が、ありません」
「塞がったのだろう」
「三日です。三日前、わたくしがこの手で洗って、薬を塗って、包帯を巻いたのです。皮が裂けて、焼けて、血が滲んでおりました。それが」
付き人は、指先で私の胸をそっとなぞった。
そこには、何もなかった。
赤みも、引きつれも、薄い線一本さえも。
付き人の顔が、わずかに青ざめていた。
部屋の隅で、フィンが荷をまとめながら言った。
「カリンさん、昔から治りが早いんですよ。村で火傷したときも、十日もしないうちに塞がっちゃって」
そう言ってから、フィンは手を止めた。
荷をまとめる手を宙に浮かせたまま、首を傾げている。
「……でも、三日は、さすがに早すぎませんか」
「そういう体質だ」
私は、上着の前を閉じた。
付き人は、まだ何か言いたそうに私を見ていた。
けれど、それ以上は何も言わず、解いた包帯を丁寧に巻き取った。
私も、それ以上は考えなかった。
治りが早いのは、悪いことではない。
◇
シルフェリオから北へは、船で渡った。
陸路もあるにはあるが、国境の峠は険しく、馬車では十日かかるという。船なら、海岸沿いを三日で着く。侯爵が、自分の持ち船を一隻用意してくれた。
白い帆の、美しい船だった。
港を出るとき、私は甲板から岸壁を振り返った。
いちばん奥の倉庫の扉が、固く閉ざされていた。衛兵が二人、その前に立っている。
アーロンがどうなったのかは、聞かされていなかった。
二日目の夕方、リエルが甲板に出たいと言った。
私はリエルの手を引いて、船縁まで連れていった。付き人たちは船室で船酔いに苦しんでいた。神殿騎士の何人かも、青い顔で手すりにしがみついている。
リエルだけは、平気な顔をしていた。
いや、平気どころではなかった。
船縁に両手をかけて、身を乗り出すようにして、波の音を聞いていた。潮風が、編み込んだ髪を揺らしている。
「すごいですわ、カリン」
リエルは、見えない目を細めた。
「足の下が、ずっと揺れておりますの。波の音が、右からも、左からも、下からも聞こえますわ。わたくし、今、海の上におりますのね」
「そうだ」
「丘の上から聞いたのとは、全然違いますわ。あのときは、遠くで誰かが囁いているようでしたのに。今は、海がすぐそばで歌っておりますわ」
それから、私のほうへ顔を向けた。
「カリンは、海に入ったことがございますの?」
「ある。一度だけ」
答えてから、余計なことまで口から出ていた。
「斂が泳げないのを隠していて、膝までの浅瀬で溺れかけた。引き上げてやったら背中が真っ赤に焼けていて、夜中に痛いと言って寝なかった。一晩じゅう、濡らした手拭いを替えてやった」
そこまで言って、口を閉じた。
訊かれたのは、海に入ったことがあるかどうかだけだった。
リエルは見えない目を丸くしていた。
それから両手で口もとを押さえて、肩を震わせた。
「……まあ。まあ、まあ」
「笑うな」
「笑っておりませんわ」
笑っていた。
潮風が唇に塩を残していった。私は手すりを握り直した。指の腹に、絞った手拭いの冷たさがまだ残っているような気がした。三年以上も前の夏なのに。
リエルは、しばらく黙って波の音を聞いていた。
それから、ぽつりと言った。
「フェリシアには、たくさんの方が眠っておりますの」
声の調子が、少しだけ変わっていた。
「ずっと昔、大きな戦がありましたでしょう。人族と魔族の。そのとき、たくさんの方があの地で亡くなりましたわ。それから、九十年ほど前にも、もう一度」
「九十年前」
私は、その数字に引っかかった。
例の勇者がいた時代だ。
「ルンシアが、フェリシアに攻め込んだ戦ですわ。奴隷を解放するという名目で」
リエルの声は、平らだった。
「たくさんの騎士が、あの地で死にましたわ。フェリシアの人々も。……わたくしは、その方々のために祈りに参りますの」
「それが、慰霊か」
「ええ」
リエルは、首元の黒いチョーカーに、そっと指を触れた。
今度は、引っ張らなかった。
ただ、触れただけだった。
「わたくしの前の方も、同じように祈りに参られたそうですわ。その前の方も。ずっと、ずっと昔から」
前の方、とリエルは言った。
何の前なのかは、言わなかった。
私も、訊かなかった。
夕陽が、海の向こうに沈みかけていた。
また、熟れた柿の色だった。
「カリン」
「なんだ」
「フェリシアでは、わたくしの傍を離れないでくださいまし」
リエルは、私の腕に、そっと頬を寄せた。
「あそこは、ルンシアよりも、ずっと影が濃いところですから」
◇
三日目の昼、船はフェリシアの首都ベネディアの港に入った。
港は、シルフェリオよりもさらに賑わっていた。
大小の船がひしめき、荷揚げの人夫たちが声を張り上げている。岸壁には市場が並び、魚や果物や布が山のように積まれていた。行き交う人々の数も、シルフェリオより多い。
ほとんどが、人族だった。
ヒューマン。獣人。ときどき、エルフやドワーフも見かけた。
けれど、何かが違った。
港に降り立ってしばらくして、私はそれに気づいた。
顔色だ。
行き交う人々の顔が、皆、どこか青白かった。頬がこけ、目の下にうっすらと隈が浮いている。病人というほどではない。ただ、誰もが少しずつ、血が足りないような顔をしていた。
そして、首筋だ。
荷を担いだ男の襟元から、小さな傷跡が覗いていた。二つ並んだ、針で突いたような痕。
果物を売る女の首筋にも、同じ痕があった。
その女の足もとで遊んでいる子供の首筋にも。
フィンが、私の隣で息を呑んだ。
モモは、耳をぺたりと伏せていた。
岸壁の端に、一台の馬車が停まっていた。
黒塗りの、品のいい馬車だった。その前に、一人の男が立っていた。
痩せた男だった。
病的なほどに痩せていた。青白い肌が、骨に貼りついているように見える。目の下には、港の人々よりもさらに濃い隈が浮いていた。黒い上等な上着を着ているが、その下の身体は、枯れ枝のように細かった。
耳は、尖っていなかった。
けれど、ヒューマンでもなかった。
瞳に、色がなかった。白目と黒目の境がぼやけて、灰色の靄がかかったような目をしていた。口の端から、小さな牙が覗いている。
魔族だ。
講義で聞いた、下級魔族だろう。ヴァンパイアと、ヴァンパイアに飼われた者たちとの間に生まれた者。姿は人に近いが、血を好むという。
男は、一行を見ると、穏やかに微笑んだ。
くまのできた顔に浮かぶその笑みは、ひどく優しげだった。
「ようこそ、フェリシアへ」
柔らかい声だった。
男は、胸に手を当てて、深く頭を下げた。
「わたくし、フェリシア共和国にて外務を預かっております、ヴォルグと申します。ルンシアの御方を、この地にお迎えできましたこと、心より光栄に存じます」
ヴォルグは、リエルの前に進み出た。
リエルは、人形の顔のまま、小さく会釈した。
「お世話になりますわ」
「慰霊の地へは、明日ご案内いたしましょう。今宵は、わたくしどもが用意いたしました館でお休みくださいませ。長旅でお疲れでしょう」
ヴォルグは、神殿騎士の隊長にも、司祭たちにも、丁寧に挨拶をした。
それから、私とフィンの前に来た。
私たちを見て、少しだけ目を細めた。
「こちらが、噂の騎士様方ですね。シルフェリオでのご活躍、侯爵様より早船で伺っております」
私は、黙って会釈を返した。
ヴォルグの右手が、胸の前で組まれていた。
その中指に、指輪が嵌まっていた。
印章の指輪だろう。けれど、印の面が手のひらの側に回されていて、見えなかった。
挨拶の間中、ヴォルグの手は一度もほどかれなかった。
そういう癖の男なのだろう、と私は思った。
それだけのことだった。
そのときは。
◇
馬車でベネディアの街を抜けた。
窓の外を流れていく街並みは、美しかった。石造りの建物が整然と並び、通りには花壇が設けられ、広場には噴水があった。シルフェリオにも劣らない、豊かな街に見えた。
ヴォルグが、向かいの席で穏やかに語った。
「フェリシアは、ご覧のとおり、豊かな国でございます。北のエテルナと南のルンシア、その間に位置しておりますゆえ、交易で大いに栄えております」
馬車が、広場に差しかかった。
広場の一角に、長い列ができていた。
老若男女、数十人の人族が、石造りの建物の前に並んでいる。建物の扉の上には、何かの紋章が掲げられていた。
列の人々は、皆、黙っていた。
誰も、話をしていなかった。
建物の扉が開いて、一人の男が出てきた。右腕に、白い布を当てていた。顔が、列に並んでいたときよりも、さらに青白かった。男はよろよろと、広場の隅のベンチに座り込んだ。
入れ替わりに、列の先頭の女が、扉の中へ入っていった。
「あれは」
私が訊くと、ヴォルグは、窓の外に目をやった。
それから、また穏やかに微笑んだ。
「献血所でございます」
「献血」
「フェリシアの民は、月に一度、決められた量の血を納めることになっております。それが、この国の税でございますね。代わりに、民は我々魔族の庇護のもと、飢えることなく、戦に怯えることなく、健やかに暮らしております。それに血を納めるだけで食うに困らない程度の日銭も支給されるのですよ。」
健やかに、とヴォルグは言った。
列の人々の顔を見ながら。
「首筋の痕は」
「ああ」
ヴォルグは、少しだけ首を傾げた。
「あれは、直接お納めする方の印でございます。献血所を通さず、魔族の方々のお屋敷で直接。そのほうが、多少なりとも暮らし向きがよくなりますので、希望される方も多いのですよ」
希望される、とヴォルグは言った。
港で見た、子供の首筋の痕を思い出した。
あの子供も、希望したのだろうか。
私は、何も言わなかった。
言えば、剣を抜いてしまいそうだった。
隣で、モモが膝の上の拳を握りしめていた。
リエルは、窓のほうへ顔を向けたまま、動かなかった。
広場を抜けるとき、噴水の縁に、少女が一人、腰かけているのが見えた。
十二か十三くらいに見えた。腰まである金の髪を、背に流している。日傘も差さずに、陽の下に座っていた。この国で金の髪の者は、たいてい魔族の貴族だと聞いていた。けれど少女は、列に並ぶ人族にも、私たちの馬車にも、興味がなさそうだった。
馬車がすぐ脇を通ったとき、少女が、こちらを見た。
私と、目が合った。
青い目だった。左だけが。
右の目は、瞳の中に、細い銀の線が一筋、罅のように走っていた。その目だけが、どこにも焦点を結んでいなかった。
少女は、ほんの一瞬、何かを数えるような顔をした。
それから、興味をなくしたように、噴水の水面へ目を戻した。
馬車が角を曲がった。振り返ったときには、噴水の縁には、もう誰もいなかった。
噴水の水の音だけが、しばらく耳に残っていた。
館に着いたのは、日が暮れてからだった。
ヴォルグの用意した館は、驚くほど豪奢だった。磨き上げられた床。天井から下がる硝子の灯り。卓の上には、見たこともないほど大量の料理が並んでいた。
私は、ほとんど手をつけなかった。
味は、悪くなかった。むしろ、よかった。
それが、かえって喉を通らなかった。
気がつくと、焼いた肉のいちばん端の、脂の焦げたところを切り分けて、右隣の小皿へ移していた。
右隣には誰もいなかった。引かれたままの椅子があるだけだった。
焦げた端が好きな男がいた。私が切り分けるのを、箸を持ったまま待っていた。
私はその小皿を、向かいのモモの前へ押しやった。
「いいんすか、姐さん」
「腹が減っていない」
モモは一口で平らげて、うまいっす、と言った。その声だけが、広い卓の上でやけに明るく響いた。
夜更けに、中庭に出た。
先客がいた。フィンだった。噴水の縁に腰かけて、水面を睨んでいた。
「眠れないのか」
「……カリンさんこそ」
フィンは、顔を上げなかった。
「献血所の列、見ましたか」
「見た」
「誰も、何も言ってなかった。痛いとも、嫌だとも。ただ並んで、血を取られて、よろよろ出てきて」
フィンの拳が、膝の上で握られていた。
「……気がつきましたか」
フィンが、ぽつりと言った。
「この国、笑い声が聞こえないんです。港でも、市場でも、広場でも。人はたくさんいるのに、誰も笑ってない」
言われて、初めて気づいた。
ベネディアに着いてから、一度も笑い声を聞いていなかった。
「あれを、健やかって言うんですか。あの人たちは、ああやって生かされてるだけじゃないですか」
声が、低く震えていた。
村が焼けた夜の声と、少し似ていた。
「僕、許せないです。こんな国」
私は、何も言わなかった。
言えることが、なかった。
フィンの言うことは、正しかった。正しいと、私も思った。
ただ、その正しさの行き着く先が、どこなのか。
そのときの私には、まだ分からなかった。
噴水の水が、夜の中で静かに落ち続けていた。
◇
翌朝、出立の支度を待つ間、私は館の前の通りに出ていた。
朝の市が立っていた。野菜を並べる女。パンを焼く男。その間を、子供たちが駆け回っている。どの顔も、やはり少しだけ青白かった。
通りの向こうから、荷車が一台、坂を下ってきた。
積み荷は、石材だった。重い。坂の勾配に引かれて、速さが増していく。御者が手綱を引いているが、馬が踏ん張りきれていない。
通りの端で、小さな男の子が転がった毬を追いかけていた。
毬は、道の真ん中へ転がっていく。
男の子も、それを追って。
そのとき、また、見えた。
まだ坂の上にいる荷車の、少し先に。うっすらと透けた、荷車の影が。
影は、坂を下り、道の真ん中へ差しかかり、毬を拾い上げたばかりの男の子の上を、通り過ぎていった。
陽炎のように揺らいで、消えた。
私は、もう駆け出していた。
男の子が毬を拾い上げる。顔を上げる。荷車が、目の前に迫っている。
男の子の襟首を掴んで、道の脇へ転がった。
荷車が、さっきまで男の子がいた場所を、轟音を立てて通り過ぎていった。
通りに、悲鳴が上がった。
母親らしい女が、青ざめた顔で駆け寄ってきた。男の子を抱きしめ、何度も私に頭を下げた。
男の子は、きょとんとした顔で、私を見上げていた。
首筋に、二つ並んだ小さな痕があった。
「お姉ちゃん、ありがとう」
男の子は、にっこり笑った。
この国に来て、初めて見る笑顔だった。
「ぼくね、来月から、お屋敷に行くんだよ。そしたら、お母さんに、お肉が買えるんだ」
母親の腕が、びくりと強張った。
母親は、男の子の頭を胸に押しつけて、もう一度、深く頭を下げた。
それから、逃げるように人混みの中へ消えていった。
私は、道の脇に膝をついたまま、しばらく動けなかった。
荷車の影を見たことよりも、男の子の笑顔のほうが、ずっと重く胸に残っていた。
◇
一行は、慰霊の地へ向かった。
ベネディアの街から、馬車で半日。内陸へ入っていくと、景色が変わった。
畑が消えた。
家が消えた。
代わりに、なだらかな丘がどこまでも続いていた。草は生えている。けれど、木は一本もなかった。灰色がかった草が、風に吹かれて波打っている。
丘のところどころに、石が立っていた。
墓標だった。
一つや二つではない。丘の斜面を埋め尽くすように、何百、何千という石が並んでいた。苔むして傾いたもの。半ば土に埋もれたもの。名前の刻まれたもの。何も刻まれていないもの。
「ここが、かつての大戦の主戦場でございます」
ヴォルグが、静かに言った。
「人族と魔族が、この丘で幾度も刃を交えました。エルフの祖と、ヴァンパイアの祖が相討ちになったのも、この地だと伝えられております。九十年ほど前のルンシアの侵攻でも、多くの方がここで」
ヴォルグは、丘の一角を指した。
そこだけ、墓標が新しかった。
新しいといっても、九十年の風雨を受けて、とうに苔むしている。けれど、周りの墓標に比べれば、まだ形がはっきりしていた。
ルンシアの騎士たちの墓だった。
丘の頂に、小さな聖堂が建っていた。
白い石で造られた、簡素な建物だった。扉は開いていた。中には祭壇が一つと、長椅子がいくつか並んでいるだけだった。
リエルは、付き人に手を引かれて、聖堂の中へ入っていった。
私とフィンは、扉の脇に立った。
扉の上の石に、浮き彫りが一つあった。肩越しに後ろを振り返る女の姿だった。足もとに烏が一羽、頭の上に細い月。風雨に削られて、顔はもう分からない。振り返った首の角度だけが、妙にはっきりと残っていた。
神殿騎士たちは、聖堂を囲むように散開した。
モモは、少し離れた墓標の陰に座り込んで、膝を抱えていた。
聖堂の中で、リエルが祭壇の前に跪いた。
しばらく、何も聞こえなかった。
それから。
歌が、聞こえてきた。
最初は、囁くような声だった。
聖堂の石の壁に反響して、どこから聞こえているのか分からなくなるほどの、小さな声。
それが、少しずつ大きくなっていった。
言葉は、分からなかった。この国の言葉ではない。もっと古い、祈りのための言葉なのだろう。
けれど、意味は分かった気がした。
眠れ、と言っていた。
安らかに、と言っていた。
リエルの声が、聖堂の扉から溢れ出して、丘の上を流れていった。
風が、止んだ。
灰色の草が、波打つのをやめた。
何千という墓標の上に、歌声が降り注いでいた。
私は、息をするのを忘れていた。
隣で、フィンも立ち尽くしていた。散開した神殿騎士たちも、墓標の陰のモモも、誰もが動きを止めて、聖堂のほうを見ていた。
ヴォルグだけが、少し離れたところで、目を閉じていた。
穏やかな顔で、歌に聴き入っているように見えた。
市場で笑っているリエル。
人形の顔のリエル。
焚き火の前で、冷たく遠い声を出したリエル。
そのどれとも違う、リエルがいた。
歌が、終わった。
風が、また吹き始めた。
草が、また波打ち始めた。
それでも、しばらくの間、誰も動かなかった。
◇
日が傾き始めた頃、丘の麓に、もう一台の馬車が現れた。
黒い馬車だった。ヴォルグの馬車よりも、さらに大きく、さらに豪奢だった。窓という窓に、分厚い黒の帳が下ろされていた。
馬車は、聖堂の前で止まった。
御者が降りて、大きな黒い日傘を広げた。
扉が開いた。
中から、男が一人、降りてきた。
日傘の影の中に、すっと身を滑り込ませるように。
金色の髪だった。
陽の光のような、濃く、艶やかな金。それを、首の後ろで黒いリボンで結んでいる。肌は、ヴォルグよりもさらに白かった。白いというより、血の気がなかった。蝋細工のように。
瞳は、青かった。
冷たい、冬の湖のような青。
背が高く、黒い上着を隙なく着こなしている。胸に、銀の飾りをいくつもつけていた。
若く見えた。
けれど、その立ち姿からは、若さというものが少しも感じられなかった。
ヴォルグが、その男の前に進み出て、深く膝を折った。
ヴォルグだけではなかった。男の馬車の御者も、周りにいた従者たちも、皆が一斉に膝をついた。
ヴァンパイアだ。
講義で聞いた。魔族の中でも、貴族にあたる種族。人の血を糧とし、強大な結晶術を操る。陽の光を嫌い、陽の下では力が弱まる。
「エテルナ帝国より、フェリシアの査察官を仰せつかっております」
ヴォルグが、恭しく紹介した。
「エドガー・メルヴェイン卿でございます」
メルヴェイン。
その名前を聞いた瞬間、私の背後で、何かが動いた。
モモだった。
墓標の陰から、立ち上がっていた。赤い瞳が、大きく見開かれていた。丸い耳が、ぴんと逆立っていた。
帳面の文字が、頭の中で蘇った。
〝十日前。ヒューマン、女、十四歳。赤い髪紐。フェリシア行き。メルヴェイン卿の館へ。〟
モモが、一歩、踏み出した。
私は、その腕を掴んだ。
モモが、振り返った。
その目に、涙と、それ以上に激しい何かが燃えていた。
「……姐さん」
「駄目だ」
私は、低く言った。
「今は、駄目だ」
ここで騒ぎを起こせば、リエルが危うくなる。外交の場だ。相手は帝国の査察官だ。いくら私たちが強くても、この場で剣を抜けば、ルンシアとフェリシアと帝国の間に、取り返しのつかない亀裂が入る。
分かっていた。
分かっていたが、私の手も、震えていた。
モモは、唇を噛み切りそうなほど強く噛んでいた。
それから、ゆっくりと、力を抜いた。
私の手の中で、モモの腕が、小刻みに震え続けていた。
エドガーは、私たちのことなど見ていなかった。
日傘の影の中を、聖堂の扉へ向かって歩いていく。
扉の前には、祈りを終えたリエルが、付き人に手を引かれて立っていた。
エドガーは、リエルの前で足を止めた。
優雅に、一礼した。
「ルンシアの御方」
低く、甘い声だった。
「先ほどの歌、麓まで届いておりました。噂に違わぬ、美しいお声だ」
リエルは、人形の顔のまま、小さく会釈した。
「恐れ入りますわ」
エドガーは、青い目を細めて、リエルを見下ろしていた。
値踏みするような目だった。
市場の屋台で、脂の乗り具合を確かめるときの目に似ていた。
エドガーの右手が、ゆっくりと持ち上がった。
リエルの顎に、触れようとしているように見えた。
その瞬間だった。
見えた。
エドガーの手が、まだ持ち上がりきっていないうちに。
その手の、少し先に。
うっすらと透けた、もう一つの手が。
リエルの頬を撫で、顎を持ち上げ、細い首筋を、黒いチョーカーの縁を、ゆっくりと指でなぞっていく。
陽炎のように揺らいで、すぐに消えた。
村の森で猪の影を見たときと、今朝、荷車の影を見たときと、同じだった。
猪のときは、寝起きのせいだと思った。あれから三年、一度も見なかった。
それが、今日になって、立て続けに。
考えるより先に、身体が動いていた。
私は、リエルとエドガーの間に、半身で割り込んでいた。
エドガーの手が、私の肩の前で止まった。
あと少しで、私の外套に触れるところだった。
エドガーの青い目が、初めて私を見た。
冬の湖のような目だった。その底に、何の感情も浮かんでいなかった。怒りも、驚きも、興味さえも。
虫を見るような目だった。
「……何だ、貴様は」
「御方の護衛だ」
私は、エドガーの目を見返した。
「御方に触れるのは、ご遠慮いただきたい」
神殿騎士の隊長が、青ざめた顔でこちらを見ていた。ヴォルグが、膝をついたまま、わずかに眉を寄せていた。
エドガーは、しばらく私を見下ろしていた。
それから、ふっと、口の端を上げた。
獰猛な牙が、覗く。
その貌を見た瞬間、首の後ろの産毛が、ひとりでに逆立った。理屈より先に、身体が知っていた。これは、私たちとは根っこから違う生き物だと。
「躾のなっていない犬だ」
エドガーは、手を下ろした。
「まあいい。御方の護衛ならば、いずれまた会うこともあろう」
エドガーは、踵を返した。
日傘の影の中を、黒い馬車へ戻っていく。
馬車に乗り込む直前、一度だけ振り返った。
私ではなく、リエルを見ていた。
それから、私の背後の、墓標の陰を見た。
そこに立ち尽くしている、赤い髪の獣人の少女を。
ほんの一瞬、エドガーの目が細くなった。
何かを思い出すように、エドガーの喉が、こくりと鳴った。
扉が閉まった。
黒い馬車は、丘を下っていった。
馬車が見えなくなる頃、日は丘の向こうへ沈みかけていた。
司祭たちが聖堂から燭台を運び出し、ルンシアの騎士たちの墓標の前に、蝋燭を一本ずつ立てていった。リエルが付き人の手を離れて、その列の端に立った。
「弔いは、黄昏にいたしますの」
私にだけ聞こえる声で、リエルが言った。
「メムリエ様は、振り返る女神様ですから。過ぎていった方々を、最後まで見送ってくださいますの。日が沈みきるまでの、短いあいだだけ」
東の空から群青が降りてきていた。墓標の影が長く伸び、灰色の草が暗い銀色に沈んでいく。どこからか烏が来て、傾いた墓標の頭に一羽ずつ止まった。鳴かなかった。並んだ蝋燭の火を、黒い目でじっと見ていた。
司祭が短い言葉を唱えた。神殿騎士たちが一斉に、肩越しに後ろを振り返った。誰もいない丘の斜面を。
私も、遅れて振り返った。
何千という墓標が、夕陽の最後の縁に照らされていた。名の刻まれたものも、何も刻まれていないものも。
懐の石が、布越しに胸に当たっていた。
ここに埋めていけば、この人も、ここに眠る誰かと一緒に送ってもらえるのだろうか。
懐に手を当てたまま、しばらく動けなかった。
名前も知らない。どこの誰だったのかも。知らないまま土に置いていくのは、知らないまま三年持ち歩いたのと、同じことのような気がした。
手を離した。
石は、懐に残った。
日が沈みきった。蝋燭の火だけが、暗い丘に点々と残った。烏が一羽、また一羽と飛び立って、北の空へ消えていった。
日の落ちたあとの西の低いところに、細い月がかかっていた。
モモは、黒い馬車の去った道のほうを振り返ったまま、いつまでも前を向かなかった。
◇
その夜、ヴォルグの用意した館で、私は眠れなかった。
寝台に腰かけて、自分の両手を見つめていた。
あの影は、何だったのか。
猪のときも、荷車のときも、あの男の手も。
相手が動くより先に、その動きが見えた。
読んだのではない。見えたのだ。
重心も、肩も、視線も関係なく。
光の粒を読むのとも違う。あれは、術の予備動作だ。確かにそこにあるものを、見ているだけだ。
あの影は、まだそこにないものだった。
まだ起きていないことが、起きる前に、見えた。
そんなことが、あるのだろうか。
私は、目を閉じた。
ふと瞼の裏に、あの日の光景が浮かんだ。
夕陽の縁が光って、目を焼くほど白くなった、あの瞬間。
白の中で、誰かがこちらを見た気がした。
ほんの一瞥だった。
前からでも後ろからでもない。少し先から来た視線。これから私が立つ場所のほうから。
私は、目を開けた。
あのとき、何かを渡されたのだろうか。
分からなかった。
分からないが、あの影は、確かに見えた。
それだけは、嘘ではなかった。
扉が、小さく叩かれた。
「カリン」
リエルの声だった。
扉を開けると、白い夜着のリエルが立っていた。付き人は連れていない。
「眠れませんの」
「私もだ」
リエルを部屋に入れて、寝台に並んで腰かけた。
リエルは、しばらく黙っていた。
それから、私の手を探り当てて、握った。
「今日、あの方がわたくしに触れようとしたとき」
リエルの声が、少しだけ震えていた。
「カリンが、間に入ってくださいましたわね。わたくし、見えませんでしたけれど、分かりましたの。カリンの気配が、すっとわたくしの前に来たのが」
「ああ」
「あの方の手は、とても冷たい気配がいたしましたわ。触れられる前から、首筋が冷たくなりましたの」
リエルは、首元の黒いチョーカーに、指を触れた。
「……ありがとうございます、カリン」
私は、リエルの手を握り返した。
小さくて、冷たい手だった。
「リエル」
「なんですの?」
「あの男の手が動く前に、動きが見えた」
リエルが、顔を上げた。
「まだ触れていないのに、触れるところが見えた。だから、間に入れた」
私は、自分でも何を言っているのか、よく分からなかった。
けれど、誰かに言っておきたかった。
リエルは、しばらく黙っていた。
見えない目を、私の顔のあたりに向けていた。
それから、ふわりと笑った。
「では、カリンは、少しだけ未来が見えますのね」
「未来」
「わたくしは、何も見えませんけれど。カリンは、少しだけ先が見える。……素敵ですわ。二人合わせたら、ちょうどいいくらいかもしれませんわね」
リエルは、くすくすと笑った。
冗談なのか、本気なのか、分からなかった。
けれど、その言葉は、私の胸の奥にすとんと落ちた。
未来。
少しだけ、先の。
私は、自分の手のひらを見下ろした。
まだ、何も見えなかった。
リエルが帰ったあと、隣の部屋から、押し殺した泣き声が聞こえてきた。
モモの部屋だった。
私は、壁に背を預けて、その声を聞いていた。
メルヴェイン卿の館。
帳面の文字。
あの男の、冬の湖のような目。
モモを見たときの、何かを思い出すような目。
気がつくと、剣を手に取っていた。
冷たい柄を握ると、頭に昇った血が少しずつ引いていく。
剣を向けるべき相手は、はっきりと分かっていた。 ただ、それでは何も解決しないことも。
カチン。
無意識に切っていた鯉口から音が鳴った。
窓の外で、ベネディアの夜が静かに更けていく
首筋に痕のある人々が眠る街の上に、細い三日月が浮かんでいた。
(第七章 了)




