第六章 西都の影
西の都の宮殿は、海に向かって建っていた。
白い石の回廊が、港を見下ろす高台をぐるりと囲んでいる。柱の一本一本に蔦の彫刻が施され、床には青と白の石で波の模様が描かれていた。回廊の窓からは、どこからでも海が見えた。
回廊の途中に、壁を浅く穿った龕があった。
腰の高さの四角い礎石が据えられ、その上に太い組紐が環に結んで置いてある。深い緑の紐に金の糸が撚り込まれていた。何百という手に撫でられてきたのだろう。環の上のほうだけ毛羽が寝て、金の糸が鈍く光っていた。
灰色の長衣の男女が数人、龕の前で順に環へ片手を置いては離れていった。誰も口を開かない。手を置き、目を伏せ、離す。それだけだった。
「宮廷結晶術師団の人たちです」
フィンが小声で言った。
「契礎の女神さまの環です。誓いと、人の縁の女神さまで。結晶術を使う人は、みんなこの女神さまに誓うんだそうです。大きな術の前には、ああやって手を置いて誓いを立てるんだって」
最後の一人が離れたあと、龕の前の床石がそこだけ浅く窪んでいるのが見えた。
その回廊の奥で、一行を出迎えた老人がいた。
背の高いエルフだった。痩せてはいるが、肩には年に似合わない厚みがあった。
髪は真っ白だった。その毛先が、窓から差す陽を受けて、きらきらと光っていた。髪ではない。細かな結晶だ。老人が首を傾けるたびに、無数の小さな光が髪の先で瞬いた。
手には、一本の杖を携えていた。
杖の先に、金糸を織り込んだ布が巻きつけられている。旗のようにも見えた。畳まれた布の隙間から、金色の糸がちらちらと覗いていた。
神殿騎士たちが、膝をついた。
司祭たちも、頭を垂れた。
今度は、私も膝をついた。
二度は忘れない。
「遠路、ご苦労であった」
老人は、低い声で言った。
年老いた声だった。けれど、長い年月を背負った、重みのある声だった。
「わしがこの地を預かる、オズヴァルド・シルフェリオ・ルンシアだ。御方がこの西の地に足を運ばれたこと、心より歓迎申し上げる」
老人は、リエルの前で深く頭を下げた。
リエルは、人形の顔のまま、小さく会釈を返した。
「お世話になりますわ、侯爵様」
「フェリシアへの慰霊には、我が領の者を案内につけよう。向こうの外務大臣とも話はついておる。数日、この地で旅の疲れを癒やされるがよい」
老人は、顔を上げた。
その緑の目が、膝をついた一行をゆっくりと見渡した。
私のところで、少しだけ止まった。
何も言わなかった。すぐに、次の者へ移っていった。
けれど、その一瞬に、私は背筋が冷えるのを感じた。
見られた、と思った。
身体の奥の、自分でも知らない場所まで。
あとで、フィンが教えてくれた。
あれが、西の侯爵だという。王弟の血筋で、ルンシアで唯一、大結晶使いの称号を許された人族最高の結晶術使い。齢は三百を超えるらしい。
「連奏結晶術っていう、たくさんの術使いの力を束ねる術を作った人なんです。講義で、何度も名前が出てきました」
フィンは、少し興奮した声で言った。
私は、回廊の向こうに消えていった老人の背中を思い出していた。
杖に巻かれた、金糸の布。
髪の先で瞬いていた、無数の結晶。
祖父より、もっと底が見えない。
そう思った相手は、あの日の階段の下の老人以来、二人目だった。
その夕方、離れへ戻る途中で、もう一度あの龕の前を通った。
侯爵が一人で立っていた。従者はいない。杖を壁に立てかけ、右の手のひらを組紐の環に置いていた。
術師たちは手を置いてすぐに離した。侯爵は離さなかった。
窓の外で日が傾き、海の照り返しが回廊の天井でゆらゆらと揺れていた。その光の中で見る老人の背中は、昼より一回り小さかった。厚い肩が環のほうへ前のめりになっている。手を置いているというより、手で何かを支えているように見えた。あるいは、何かに支えてもらっているのか。
毛先の結晶が、ひとつ、またひとつと瞬いた。
私は足音を殺して、別の回廊へ回った。
見てはいけないものを見た気がした。何を見たのかは分からなかった。
◇
一行は、宮殿の離れに逗留することになった。
リエルは、侯爵の招きで晩餐に出ていた。私とフィンは、その間だけ護衛の任を解かれた。神殿騎士たちが、宮殿の中を固めている。
モモは、妹を探すため昼の間ずっと港をうろついていた。
夕方、離れに戻ってきたモモは、息を切らしていた。
「姐さん! 兄貴! 見つけたっす!」
耳が、ぴんと立っていた。
「港の、いちばん奥の倉庫っす! 夜になったら、荷馬車が入るって、魚売りのおばちゃんが言ってたっす! 幌のかかった、窓のない荷馬車っす!」
「その倉庫は、誰のものだ」
「アーロンって人の商会っす。西の海岸でいちばん大きい商家の、若い当主っす。この街じゃ、侯爵様の次に偉いって言われてるっす」
モモは、拳を握りしめた。
「自分、今夜、行ってみるっす」
「一人でか」
「……一人でも、行くっす」
モモの目は、真剣だった。
私は、フィンを見た。
見上げた。
いつの間にか、そうしないとフィンの顔が見えなくなっていた。村の森で初めて会ったとき、背は私より頭半分ほど高いだけだった。今は、頭一つ分ほど高い。肩の幅も、首の太さも、あの頃とはまるで違う。声も、少し低くなった。
三年は、フィンにとっては長い時間だったらしい。
フィンも、私を見下ろしていた。
何も言わなくても、答えは同じだった。
晩餐から戻ったリエルに、そのことを話した。
本来なら、許しを得るべきことではない。私たちは、リエルの護衛だ。護衛が夜中に勝手に出歩くなど、あってはならない。
けれど、黙って出ていくことは、したくなかった。
リエルは、寝台の端に腰かけて、私の話を静かに聞いていた。
聞き終えると、しばらく黙っていた。
見えない目を、窓のほうへ向けていた。窓の外から、夜の波の音が聞こえていた。
「行ってくださいまし」
やがて、リエルは言った。
宿場町の路地で、隊長に向かって言ったのと、同じ言葉だった。
「今夜、わたくしはとても早く眠りますの。朝まで、一度も目を覚ましませんわ。ですから、わたくしの騎士がどこで何をしていても、わたくしは何も知りませんの」
「リエル」
「ただし」
リエルは、私のほうへ顔を向けた。
「必ず、帰ってきてくださいまし。わたくしが目を覚ましたとき、カリンがいなかったら、わたくしはとても怒りますわ」
その声は、少しだけ震えていた。
私は、リエルの小さな手を取った。
「朝飯の支度までには、帰る」
リエルは、一瞬きょとんとした。
それから、ふわりと笑った。
「では、明日の朝は、カキというものが食べたいですわ」
「この国にはない」
「では、カキに似たものを」
「探しておく」
リエルは、満足そうに頷いた。
それから、本当に寝台に横になって、目を閉じた。
◇
港は、夜になると別の顔を見せた。
昼間は船乗りと商人で賑わっていた波止場が、しんと静まり返っている。灯りの消えた倉庫が、黒い壁のように海沿いに並んでいた。波が岸壁を打つ音だけが、規則正しく響いている。
私とフィンとモモは、倉庫の陰に身を潜めていた。
騎士団の外套は脱いできた。宿で借りた、黒っぽい麻の上着を着ている。腰の剣だけは、外さなかった。
出がけに、髪を首の後ろで結い直した。毛先がちょうど肩甲骨のあたりに触れる。
あの日、商店街を歩いていたときと、同じ長さだった。
そういえば、この三年、一度も髪を切った覚えがない。切る必要がなかったからだ。伸びなかった。
ふと、そのことが引っかかった。
けれど、戸口でモモに急かされて、私はそれきり考えるのをやめた。
モモが、鼻をひくつかせた。
「……来るっす」
しばらくして、車輪の音が聞こえてきた。
幌をかけた荷馬車が三台、灯りもつけずに波止場を進んでくる。窓のない荷台。御者台には、黒い外套の男たち。
荷馬車は、いちばん奥の倉庫の前で止まった。
倉庫の扉が、内側から開いた。
中から漏れた灯りに、荷台から降ろされる人々の姿が浮かび上がった。
皆、縄で繋がれていた。数珠のように、一列に。子供がいた。女がいた。獣人がいた。誰も声を上げなかった。黒い外套の男たちに背中を押されて、よろめきながら、倉庫の中へ吸い込まれていく。
モモの喉が、小さく鳴った。
私は、モモの肩に手を置いた。
まだだ、と目で伝えた。
モモは、唇を噛んで頷いた。
倉庫の扉が閉まった。
荷馬車は、空になって引き返していった。
私たちは、倉庫の裏手に回った。
裏手には、小さな通用口があった。鍵がかかっている。けれど、扉の蝶番が錆びていた。フィンが短剣の先で蝶番の釘を抜き、扉を外した。村で育った者の手際だった。
中に入った。
倉庫の中は、がらんとしていた。
木箱がいくつか積まれているだけで、さっき入っていったはずの人々の姿はどこにもなかった。
モモが、床に鼻を近づけた。
這うように、倉庫の奥へ進んでいく。
奥の壁際で、止まった。
「……ここっす。ここで、匂いが消えてるっす」
壁際の床板に、細い隙間があった。
よく見なければ分からない。けれど、周りの床板より、ほんの少しだけ擦り減っていた。何度も、何度も、開け閉めされた跡だ。
フィンが、床板の端に指をかけた。
持ち上がった。
下には、石の階段が続いていた。
湿った、冷たい空気が、階段の底から吹き上がってきた。
その空気に、匂いが混じっていた。
汗と、糞尿と、血と。
それから、嗅いだことのない、甘ったるい何かの匂い。
◇
階段は、長かった。
倉庫の床下から、さらに地下へ。途中で横穴に分かれ、また階段を下りる。石の壁は古く、苔がむしていた。昔からある地下道を、誰かが後から繋げたのだろう。
モモの鼻を頼りに、進んだ。
やがて、灯りが見えた。
石の通路の両側に、鉄格子が並んでいた。
檻だった。
一つの檻に、五人も六人も押し込められていた。床に藁が敷かれているだけで、他には何もない。誰もが痩せていた。誰もが汚れていた。首に、鉄の輪を嵌められていた。輪には、数字が刻まれた札がぶら下がっていた。
私たちが通路を進んでも、誰も声を上げなかった。
見上げる目にも、何も浮かんでいなかった。怯えも、期待も、何も。ただ、灯りが揺れるのを、ぼんやりと追っているだけだった。
一つの檻の中で、小さな子供が咳き込んでいた。
隣の女が、その背中をさすっていた。
女の腕に、焼き印が押されていた。
数字だった。
フィンが、私の後ろで息を詰まらせた。
振り返ると、フィンは口元を押さえていた。顔が、真っ青だった。
モモは、檻の一つ一つを覗き込んでいた。
誰かを探している目だった。
一つ、また一つ。
覗き込むたびに、耳が少しずつ垂れていった。
通路の突き当たりに、重い木の扉があった。
さっきの、甘ったるい匂いが、その扉の向こうから漂ってきていた。
私は、扉を押した。
鍵は、かかっていなかった。
中は、広い部屋だった。
壁一面に、棚が並んでいた。
棚の上に、石が並んでいた。
色とりどりの、透き通った石だった。
薄紅。淡い青。琥珀。紫。灯りを受けて、どれもきらきらと光っている。一つ一つに、札がつけられていた。数字と、何かの文字。
大きさは、まちまちだった。
小指の爪ほどのものもあった。拳ほどのものもあった。
そして、奥の棚に。
人の背丈ほどの、大きな塊が、いくつも立てかけられていた。
私は、その一つに近づいた。
薄い琥珀色の、透き通った塊だった。
形が、あった。
肩の線。首の傾き。胸の前で組まれた、両の腕。
顔が、あった。
目を閉じていた。眠っているような顔だった。口が、わずかに開いていた。何かを言いかけたまま、止まったような口だった。
その塊の足もとは、削られていた。
足首から下が、なかった。鋭い刃物で、断ち割ったような跡が残っていた。
その断面の近くに、小さな欠片が、いくつも積まれていた。
指ほどの。
親指ほどの。
私は、動けなくなった。
晶具屋の老人の声が、耳の奥で蘇った。
結晶術使いの髪や爪が、結晶になったもんさ。
〝こんくらいの欠片でも、けっこうな値がつく。
もっとでかいのは、まず出回らねえな。〟
出回らない、のではなかった。
出回っているのだ。
ここで。
人の形をしたまま。
切り分けられて。
背後で、誰かが吐いた。
フィンだった。石の床に膝をついて、肩を震わせていた。モモが、その背中に手を当てていた。モモの顔も、真っ青だった。
私は、吐かなかった。
吐けなかった。
喉の奥が、鉛を詰めたように塞がっていた。
外套の懐に、手を当てた。
布越しに、あの石の固さが指に触れた。
取り出した。
手のひらに載せて、灯りにかざした。
淡い紅に透けている。端々が削られて、元の形が分からない。ところどころに、節のような丸みが残っている。
棚の上の欠片と、同じ色をしていた。
同じ透き通り方をしていた。
同じ、削られ方をしていた。
私は、手のひらの石を見下ろした。
三年近く、ずっと持ち歩いていた。
村が焼けた日に拾った。手がかりになると思った。きれいな石だと思った。晶具屋でその正体に薄々気づきかけて、それ以上考えるのをやめた。
考えるのをやめて、持ち歩いていた。
ずっと。
◇
「おや」
声がした。
背後の扉のほうからだった。
若い男の声だった。柔らかく、よく通る、耳に心地のいい声だった。
「こんな夜更けに、お客様とは珍しい」
私は、振り返った。
扉の前に、男が立っていた。
若かった。私たちと、そう変わらない歳に見えた。背が高く、細身で、淡い金の髪を後ろで一つに束ねている。耳の先が、尖っていた。エルフだ。
美しい顔をしていた。
整いすぎているほどに。
身につけているのは、夜着の上に羽織った深い青の外套だった。胸に、紋章が刺繍されていた。波の上を進む、一隻の船。
男の後ろに、黒い外套の男たちが五人、控えていた。
男は、部屋の中を見回した。
床に膝をついたフィン。その背をさするモモ。そして、手のひらに石を載せたまま立っている私。
男の目が、私の手のひらで止まった。
それから、ゆっくりと、笑った。
「なるほど」
男は、言った。
「商売敵かと思いましたが、どうやら違うようですね。騎士団の方々ですか。御方の護衛の」
「アーロンか」
私が言うと、男は優雅に一礼した。
「いかにも。この倉庫と、この地下と、この部屋の品々の持ち主です」
品々、と男は言った。
棚の上の石を。
檻の中の人々を。
「これは、何だ」
私は、言った。
自分の声が、ひどく平らに聞こえた。
「見てのとおりです」
アーロンは、肩をすくめた。
「結晶体ですよ。結晶術使いが、術の使いすぎで結晶になったもの。晶具の触媒として、これ以上の品はありません。大きければ大きいほど、純度が高ければ高いほど、値がつく」
「人だ」
「元は、ね」
アーロンは、奥の棚に立てかけられた琥珀色の塊に目をやった。
「あれは、フェリシアの下級魔族の成れの果てです。術の加減を知らなかったのでしょう。向こうでは、身内が結晶になると墓には入れずに売るのが習わしでしてね。貧しい彼らにとっては、貴重な稼ぎなんですよ。私はそれを買い取って、こちらで捌いている」
「その代金に、人を払っているのか」
アーロンの眉が、わずかに上がった。
「察しがよろしい」
アーロンは、また笑った。
「魔族は、人の血を欲しがる。人族は、魔族の結晶を欲しがる。私は、その間に立って、両方の望みを叶えているだけです。誰も損はしていない」
「檻の中の人々は」
「彼らは、商品です。商品に損得はありません」
通路の向こうで、子供が咳き込む声がした。
私は、腰の剣に手をかけた。
アーロンは、それを見ても顔色一つ変えなかった。
それどころか、ますます愉快そうに目を細めた。
その目が、また、私の手のひらに向いた。
「ところで、騎士殿」
アーロンは、言った。
「その手の中のものは、どこで手に入れられました?」
私は、答えなかった。
アーロンは、一歩、近づいてきた。
「それほどの大きさの欠片は、まっとうな筋では手に入りません。髪や爪の欠片ではない。それは、人の身体の一部です。指か、耳か、そのあたりでしょう。削り方を見れば分かる。うちの職人の手によるものだ」
アーロンは、私の目をまっすぐに見た。
その顔に、嘲りの色が浮かんでいた。
「貴様とて、同類ではないか」
部屋が、静まり返った。
フィンが、顔を上げた。
モモが、私を見た。
私は、手のひらの石を見下ろしていた。
指か、耳か。
誰かの。
あの日、村を焼いた男の袋から転がり出た。私はそれを拾い、きれいだと思い、手がかりになると思い、ずっと持ち歩いてきた。
誰かの身体の一部を。
何も知らずに。
いや、知ろうとしなかった。
晶具屋の老人の話を聞いたときに、気づけたはずだった。気づきかけて、目を逸らした。考えるのをやめた。
それは、この男たちがしていることと、どう違うのか。
見ないふりをして。
知らないふりをして。
手のひらが、少しだけ震えた。
それから、私は、石を握りしめた。
「違う」
声が、出た。
自分でも驚くほど、静かな声だった。
「私は、これを売らない。誰にも渡さない」
アーロンの笑みが、わずかに固まった。
「これが誰のものだったのか、私は知らない。知らないまま、三年も持ち歩いていた。それは、私の恥だ」
私は、石を懐に戻した。
それから、剣を抜いた。
「だから、いつか、この人を正しく弔う。その日まで、私が持っている」
剣先を、アーロンに向けた。
「貴様と同じにするな」
アーロンは、しばらく黙っていた。
それから、ふっと息を吐いた。
笑みが、消えていた。
整いすぎた顔から、表情が抜け落ちると、それはひどく冷たい仮面のように見えた。
「残念です」
アーロンは、片手を上げた。
「では、商品の一部になっていただきましょう」
背後の男たちが、一斉に動いた。
◇
五人のうち、三人が籠手を嵌めていた。
磨かれた金属。細かな模様。
そして、手首の近くに、波の上を進む船の紋章が刻まれていた。
削られていない、紋章が。
私は、目を見開いた。
あの日、村を焼いた男の籠手。
宿場町で、モモを攫おうとした男の籠手。
どちらも、手首の近くに、紋章を削り取った跡があった。
削る前は、この紋章だったのだ。
胸の奥で、何かが、ぷつりと切れた。
三つの籠手が、一斉に持ち上がった。
光の粒が、三つの籠手の模様へ、同時に集まり始める。
私は、籠手だけを見た。
三つ。
集まる速さが、それぞれ違う。右の男がいちばん速い。左の男は、縮む直前の間が長い。真ん中の男は、光の渦が少し歪んでいる。結び方が甘いのだ。
右が、縮む。
跳ぶ。
火の玉が、さっきまで私の立っていた床を焼いた。
左が、縮む。
身を沈める。
火の玉が、頭の上を掠めて、棚の石を粉々に砕いた。きらきらと、色とりどりの欠片が宙に舞った。
真ん中が――。
「カリンさん!」
フィンの声がした。
次の瞬間、真ん中の男の籠手に、光の塊が叩きつけられた。
フィンの結晶術だった。
床に膝をついたまま、フィンは片手を真ん中の男に向けていた。顔はまだ青ざめている。けれど、その目は、まっすぐに籠手を捉えていた。
真ん中の男の籠手から、集まりかけていた光が弾け飛んだ。
男が、たたらを踏んだ。
私は、その隙に、右の男の懐へ飛び込んだ。
右の男の手首を、剣の柄で打つ。
籠手ごと、腕が跳ね上がる。
返す剣の腹で、男の側頭部を打つ。
男が崩れる。
左の男が、二つ目の火の玉を撃とうとしていた。
縮む直前。
間が長い。
その間に、懐まで詰めた。
剣の切っ先で、籠手の模様を突いた。
刃が、模様の溝に食い込んだ。光の粒が、行き場をなくしたように、ばらばらに散った。
男の顔が、驚愕に歪んだ。
剣の柄頭を、男の顎に叩き込んだ。
残りの二人は、籠手を嵌めていなかった。
一人は、モモが体当たりで倒した。獣人の膂力は、見た目の小ささからは想像もつかなかった。
もう一人は、フィンが相手をした。
フィンは、床から跳ね起きざまに剣を抜いた。抜いた刀身に、光の粒が這い上がっていく。刃の根元から切っ先まで、細い炎が走った。
男の振り下ろした剣を、炎を纏った刃で受ける。受けた瞬間に、炎が弾けた。男の剣が、熱に押されるように跳ね返される。
がら空きになった胴を、フィンは剣の腹で打ち据えた。
男は、壁まで吹き飛んで動かなくなった。
旅の間も、王都でも、フィンは剣と結晶術を別々に稽古していた。それを一つに束ねるようになったのは、ここ一年ほどのことだ。その剣には、まだ私の読める癖がいくつも残っている。それでも、並の騎士では受けきれないだろう。
五人が、床に転がっていた。
アーロンは、扉の前に立ったままだった。
一歩も、動いていなかった。
私は、剣を構えて、アーロンに向き直った。
アーロンは、片手を上げた。
その指先に、光の粒が集まり始めた。
速かった。
籠手の男たちとは比べものにならないほど速く、多い。フィンの指先よりも。渦が、美しいほど整っている。結び方に、一片の歪みもない。
やはりエルフだ、と思った。
尖った耳の長命な種族で、この国の王家や貴族の多くを占めている。いわゆる普通の人、ヒューマンとは比べものにならない結晶術の才を持つと、講義で教わった。集める力も、結ぶ力も、生まれつき違うのだ。
光が、縮む。
私は、跳ばなかった。
まっすぐに、踏み込んだ。
アーロンの目が、見開かれた。
放たれた光は、火の玉ではなかった。細く鋭い、槍のような光だった。私の胸を、まっすぐに狙っていた。
半身になった。
光の槍が、私の胸の前を掠めていった。上着が裂けた。肌に、焼けるような痛みが走った。
構わなかった。
もう、間合いの内だった。
剣の腹で、アーロンの手首を打った。
二発目の光が、集まりかけて散った。
返す剣を、アーロンの首筋に当てた。
刃ではなく、峰で。
アーロンの身体が、ぴたりと止まった。
「……参りました」
アーロンは、静かに言った。
両手を、ゆっくりと上げた。
その顔には、まだ、あの笑みが浮かんでいた。
◇
フィンが宮殿へ走っているあいだ、私は倉庫の外に出ていた。
地下の匂いが、鼻の奥にこびりついて取れなかった。
海から霧が上がってきていた。夜の黒が薄い灰色に変わり、その灰色が岸壁も倉庫も呑み込んでいく。向かいの桟橋の杭は、三本目から先が見えなかった。濡れた縄と魚の鱗の匂いがした。地下のあの甘ったるさを、潮が少しずつ洗っていった。
桟橋の先で、漁師たちが舟を出そうとしていた。
誰も喋らない。櫂を揃え、網を積み、最後に年嵩の漁師が舳先に竿を立てた。竿の先に小さな角灯が吊ってある。火打石を打つ乾いた音が二度して、灯が入った。
漁師は角灯の硝子に額をつけた。何か呟いたようだった。霧に吸われて、ミスタルさま、という響きだけが届いた。
舟がすべるように岸を離れた。
岸壁の端で網を繕っていた老婆が、手を止めずに言った。
「霧の朝はね、ミスタルさまに灯をお見せするんだよ。霧と海の女神さまさ。灯を掲げた舟は、女神さまが霧の向こうから道を照らして、ちゃんと連れて帰ってくださる」
老婆はそれだけ言って、また網の目に杼を通した。
舟の形が先に霧に溶け、竿が溶け、最後に橙色の点がひとつだけ灰色の中に浮かんでいた。その後ろから二艘目、三艘目が出ていく。どの舳先にも灯があった。点が沖へ一列に連なって、ゆっくりと薄れていった。
霧の向こうに道があるようだった。誰かが先に立って、そこを照らしているような。
霧が、喉の奥まで冷たかった。
夜が明ける前に、街の衛兵たちが駆けつけた。
フィンが、宮殿まで走って知らせたのだ。
霧は、陽が昇るとあっけなく引いていった。
檻の中の人々が、一人ずつ地下から運び出されていった。朝の光の中で見る彼らの姿は、灯りの下で見たときより、もっと痛ましかった。
モモは、檻の一つ一つを最後まで覗き込んでいた。
最後の檻が空になったとき、モモは地面にへたり込んだ。
「……いなかったっす」
耳が、完全に垂れていた。
私は、モモの隣に屈んだ。
懐から、一冊の帳面を取り出した。
アーロンの書斎で見つけたものだった。衛兵が来るまでの間に、地下の奥の部屋を一つずつ検めた。書斎の机の引き出しに、帳面と、手紙の束が入っていた。
帳面には、日付と、数字と、短い文字が並んでいた。
性別。種族。年の頃。
そして、行き先。
私は、帳面のある頁を開いて、モモに見せた。
モモは、字が読めなかった。
だから、私が読んだ。
「十日前。ヒューマン、女、十四歳。赤い髪紐。フェリシア行き。メルヴェイン卿の館へ」
モモの目が、大きく見開かれた。
「……赤い髪紐」
モモの声が、震えた。
「自分が、あげたっす。妹の、誕生日に」
モモは、私の手から帳面をひったくるようにして、その頁を見つめた。
読めない文字の上を、指でなぞった。
何度も、何度も。
それから、顔を上げた。
赤い瞳に、涙が溜まっていた。
けれど、耳は、ぴんと立っていた。
「……生きてるっす。まだ」
「十日前には、な」
「生きてるっす」
モモは、もう一度言った。
自分に言い聞かせるように。
手紙の束は、フェリシアから届いたものだった。
差出人の名は、どこにもなかった。
どの手紙の末尾にも、名前の代わりに、同じ封蝋の印が押されていた。三日月を咥えた、一匹の蛇。衛兵に見せても、誰も知らない印だった。
手紙には、品物の受け渡しの日取りと、数と、代金の結晶体の量が、丁寧な字で書かれていた。
そして、何通かの手紙の末尾に、同じ一文があった。
若く質の良い品は、例年どおりメルヴェイン卿を通じて、水の都の御方へ献上いたします。
◇
朝日が昇りきった頃、侯爵が港に姿を見せた。
金糸の布を巻いた杖を携え、衛兵たちを従えて。
真っ白な髪の毛先が、朝日を受けて、また無数に瞬いていた。
侯爵は、縄で縛られたアーロンの前に立った。
しばらく、黙ってアーロンを見下ろしていた。
「……よもや、我が膝元で、このような」
侯爵は、低い声で言った。
その声には、怒りが滲んでいた。
少なくとも、私にはそう聞こえた。
「この者の身柄は、わしが預かる。厳しく詮議し、相応の裁きを下す」
侯爵は、私たちのほうへ向き直った。
そして、深く頭を下げた。
「御方の騎士殿。そなたらの働きに、西の地を預かる者として、礼を申す」
侯爵の毛先の結晶が、きらきらと光っていた。
私は、何か言うべきだと思った。
けれど、言葉が出てこなかった。
衛兵たちが、アーロンの縄を引いた。
アーロンは、抗わなかった。
大人しく、衛兵たちに引かれていく。
侯爵の横を通り過ぎるとき、アーロンは、ほんの一瞬だけ、侯爵の顔を見上げた。
侯爵は、アーロンを見なかった。
まっすぐに、前を向いていた。
それから、アーロンは、私のほうへ顔を向けた。
笑っていた。
縄で縛られ、衛兵に引かれ、これから裁かれに行く男が。
怯えも、悔しさも、何もない顔で。
まるで、これから楽しい芝居の幕が開くのを待っているかのような顔で。
声は、出さなかった。
けれど、唇が動いた。
また、と。
そう動いたように、見えた。
衛兵たちに囲まれて、アーロンの姿は、港の向こうへ消えていった。
私は、その笑みを、しばらく忘れることができなかった。
◇
宮殿の離れに戻ると、リエルが扉の前で待っていた。
付き人も連れずに、一人で。白い夜着の上に、薄い外套を羽織っただけの格好で。
見えない目が、廊下の向こうの私を捉えた。
足音はしないはずなのに、リエルは、私が角を曲がった瞬間に顔を上げた。
「……遅いですわ」
リエルの声は、少しだけ掠れていた。
朝まで一度も目を覚まさない、と言っていたのに。
「すまない」
「朝飯の支度までには、帰るとおっしゃいましたわ」
「まだ、朝飯の時間だ」
「屁理屈ですわ」
リエルは、私の腕にしがみついた。
いつもより、ずっと強い力だった。
小さな身体が、少しだけ震えていた。
部屋に入って、リエルに全部を話した。
地下の檻のこと。棚の石のこと。アーロンの言葉のこと。
そして、私の懐の石のこと。
リエルは、寝台の端に座って、黙って聞いていた。
聞き終えると、片手を差し出した。
「触れても、よろしいかしら」
私は、懐から石を取り出した。
リエルの手のひらに、そっと載せた。
リエルは、指先で石を包み込んだ。
形を確かめるように、ゆっくりとなぞった。削られた端を。節のような丸みを。
「冷たいですわ」
リエルは、呟いた。
「冷たいのに、少しだけ、温かい」
見えない目を、閉じた。
「この方も、どこかで誰かの大切な方だったのでしょうね」
私は、何も言えなかった。
リエルは、しばらく石を包んだまま、黙っていた。
それから、目を開けて、石を私の手に戻した。
「カリン」
「なんだ」
「その方を、いつか、ちゃんと弔っておあげなさいまし」
リエルは、私の手を、石ごと両手で包んだ。
「カリンなら、きっとできますわ」
私は、手の中の石を見下ろした。
淡い紅に透けていた。
窓から差し込む朝の光を受けて、その中の小さな光の粒が、微かに瞬いていた。
「……ああ」
私は、石を懐に戻した。
布越しに、その固さが胸に触れた。
三年近く持ち歩いてきたのと、同じ重さのはずだった。
けれど、今朝からは、少しだけ違う重さに感じた。
「フェリシアへは、予定どおり三日後に発ちますわ」
リエルが、言った。
いつもの、弾むような声に戻っていた。
「モモも、ご一緒に。妹さんを、迎えに参りましょう」
扉の外で、誰かが鼻をすする音がした。
モモだった。いつの間にか、扉の前で聞き耳を立てていたらしい。
「……聞こえてたっす」
扉の隙間から、赤い耳が覗いていた。
「リエルの姉御、ありがとうございますっす」
「お礼は、妹さんに会えてからですわ」
リエルは、くすくすと笑った。
私は、窓の外を見た。
朝の海が、どこまでも青く光っていた。
その海の北に、フェリシアがある。
メルヴェイン卿の館がある。
私は、朝飯の支度をするために、立ち上がった。
柿に似たものを、探しに行かなければならなかった。
(第六章 了)




