↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
越境者の足跡  作者: 野良野良猫
一.木漏れ日の国
PR
7/34

第六章 西都の影

 西の都の宮殿は、海に向かって建っていた。

 白い石の回廊が、港を見下ろす高台をぐるりと囲んでいる。柱の一本一本に蔦の彫刻が施され、床には青と白の石で波の模様が描かれていた。回廊の窓からは、どこからでも海が見えた。

 回廊の途中に、壁を浅く穿った龕があった。

 腰の高さの四角い礎石が据えられ、その上に太い組紐が環に結んで置いてある。深い緑の紐に金の糸が撚り込まれていた。何百という手に撫でられてきたのだろう。環の上のほうだけ毛羽が寝て、金の糸が鈍く光っていた。

 灰色の長衣の男女が数人、龕の前で順に環へ片手を置いては離れていった。誰も口を開かない。手を置き、目を伏せ、離す。それだけだった。

「宮廷結晶術師団の人たちです」

 フィンが小声で言った。

「契礎の女神さまの環です。誓いと、人の縁の女神さまで。結晶術を使う人は、みんなこの女神さまに誓うんだそうです。大きな術の前には、ああやって手を置いて誓いを立てるんだって」

 最後の一人が離れたあと、龕の前の床石がそこだけ浅く窪んでいるのが見えた。

 その回廊の奥で、一行を出迎えた老人がいた。

 背の高いエルフだった。痩せてはいるが、肩には年に似合わない厚みがあった。

 髪は真っ白だった。その毛先が、窓から差す陽を受けて、きらきらと光っていた。髪ではない。細かな結晶だ。老人が首を傾けるたびに、無数の小さな光が髪の先で瞬いた。

 手には、一本の杖を携えていた。

 杖の先に、金糸を織り込んだ布が巻きつけられている。旗のようにも見えた。畳まれた布の隙間から、金色の糸がちらちらと覗いていた。

 神殿騎士たちが、膝をついた。

 司祭たちも、頭を垂れた。

 今度は、私も膝をついた。

 二度は忘れない。

「遠路、ご苦労であった」

 老人は、低い声で言った。

 年老いた声だった。けれど、長い年月を背負った、重みのある声だった。

「わしがこの地を預かる、オズヴァルド・シルフェリオ・ルンシアだ。御方がこの西の地に足を運ばれたこと、心より歓迎申し上げる」

 老人は、リエルの前で深く頭を下げた。

 リエルは、人形の顔のまま、小さく会釈を返した。

「お世話になりますわ、侯爵様」

「フェリシアへの慰霊には、我が領の者を案内につけよう。向こうの外務大臣とも話はついておる。数日、この地で旅の疲れを癒やされるがよい」

 老人は、顔を上げた。

 その緑の目が、膝をついた一行をゆっくりと見渡した。

 私のところで、少しだけ止まった。

 何も言わなかった。すぐに、次の者へ移っていった。

 けれど、その一瞬に、私は背筋が冷えるのを感じた。

 見られた、と思った。

 身体の奥の、自分でも知らない場所まで。

 あとで、フィンが教えてくれた。

 あれが、西の侯爵だという。王弟の血筋で、ルンシアで唯一、大結晶使いの称号を許された人族最高の結晶術使い。齢は三百を超えるらしい。

「連奏結晶術っていう、たくさんの術使いの力を束ねる術を作った人なんです。講義で、何度も名前が出てきました」

 フィンは、少し興奮した声で言った。

 私は、回廊の向こうに消えていった老人の背中を思い出していた。

 杖に巻かれた、金糸の布。

 髪の先で瞬いていた、無数の結晶。

 祖父より、もっと底が見えない。

 そう思った相手は、あの日の階段の下の老人以来、二人目だった。

 その夕方、離れへ戻る途中で、もう一度あの龕の前を通った。

 侯爵が一人で立っていた。従者はいない。杖を壁に立てかけ、右の手のひらを組紐の環に置いていた。

 術師たちは手を置いてすぐに離した。侯爵は離さなかった。

 窓の外で日が傾き、海の照り返しが回廊の天井でゆらゆらと揺れていた。その光の中で見る老人の背中は、昼より一回り小さかった。厚い肩が環のほうへ前のめりになっている。手を置いているというより、手で何かを支えているように見えた。あるいは、何かに支えてもらっているのか。

 毛先の結晶が、ひとつ、またひとつと瞬いた。

 私は足音を殺して、別の回廊へ回った。

 見てはいけないものを見た気がした。何を見たのかは分からなかった。

 ◇

 一行は、宮殿の離れに逗留することになった。

 リエルは、侯爵の招きで晩餐に出ていた。私とフィンは、その間だけ護衛の任を解かれた。神殿騎士たちが、宮殿の中を固めている。

 モモは、妹を探すため昼の間ずっと港をうろついていた。

 夕方、離れに戻ってきたモモは、息を切らしていた。

「姐さん! 兄貴! 見つけたっす!」

 耳が、ぴんと立っていた。

「港の、いちばん奥の倉庫っす! 夜になったら、荷馬車が入るって、魚売りのおばちゃんが言ってたっす! 幌のかかった、窓のない荷馬車っす!」

「その倉庫は、誰のものだ」

「アーロンって人の商会っす。西の海岸でいちばん大きい商家の、若い当主っす。この街じゃ、侯爵様の次に偉いって言われてるっす」

 モモは、拳を握りしめた。

「自分、今夜、行ってみるっす」

「一人でか」

「……一人でも、行くっす」

 モモの目は、真剣だった。

 私は、フィンを見た。

 見上げた。

 いつの間にか、そうしないとフィンの顔が見えなくなっていた。村の森で初めて会ったとき、背は私より頭半分ほど高いだけだった。今は、頭一つ分ほど高い。肩の幅も、首の太さも、あの頃とはまるで違う。声も、少し低くなった。

 三年は、フィンにとっては長い時間だったらしい。

 フィンも、私を見下ろしていた。

 何も言わなくても、答えは同じだった。

 晩餐から戻ったリエルに、そのことを話した。

 本来なら、許しを得るべきことではない。私たちは、リエルの護衛だ。護衛が夜中に勝手に出歩くなど、あってはならない。

 けれど、黙って出ていくことは、したくなかった。

 リエルは、寝台の端に腰かけて、私の話を静かに聞いていた。

 聞き終えると、しばらく黙っていた。

 見えない目を、窓のほうへ向けていた。窓の外から、夜の波の音が聞こえていた。

「行ってくださいまし」

 やがて、リエルは言った。

 宿場町の路地で、隊長に向かって言ったのと、同じ言葉だった。

「今夜、わたくしはとても早く眠りますの。朝まで、一度も目を覚ましませんわ。ですから、わたくしの騎士がどこで何をしていても、わたくしは何も知りませんの」

「リエル」

「ただし」

 リエルは、私のほうへ顔を向けた。

「必ず、帰ってきてくださいまし。わたくしが目を覚ましたとき、カリンがいなかったら、わたくしはとても怒りますわ」

 その声は、少しだけ震えていた。

 私は、リエルの小さな手を取った。

「朝飯の支度までには、帰る」

 リエルは、一瞬きょとんとした。

 それから、ふわりと笑った。

「では、明日の朝は、カキというものが食べたいですわ」

「この国にはない」

「では、カキに似たものを」

「探しておく」

 リエルは、満足そうに頷いた。

 それから、本当に寝台に横になって、目を閉じた。

            ◇

 港は、夜になると別の顔を見せた。

 昼間は船乗りと商人で賑わっていた波止場が、しんと静まり返っている。灯りの消えた倉庫が、黒い壁のように海沿いに並んでいた。波が岸壁を打つ音だけが、規則正しく響いている。

 私とフィンとモモは、倉庫の陰に身を潜めていた。

 騎士団の外套は脱いできた。宿で借りた、黒っぽい麻の上着を着ている。腰の剣だけは、外さなかった。

 出がけに、髪を首の後ろで結い直した。毛先がちょうど肩甲骨のあたりに触れる。

 あの日、商店街を歩いていたときと、同じ長さだった。

 そういえば、この三年、一度も髪を切った覚えがない。切る必要がなかったからだ。伸びなかった。

 ふと、そのことが引っかかった。

 けれど、戸口でモモに急かされて、私はそれきり考えるのをやめた。

 モモが、鼻をひくつかせた。

「……来るっす」

 しばらくして、車輪の音が聞こえてきた。

 幌をかけた荷馬車が三台、灯りもつけずに波止場を進んでくる。窓のない荷台。御者台には、黒い外套の男たち。

 荷馬車は、いちばん奥の倉庫の前で止まった。

 倉庫の扉が、内側から開いた。

 中から漏れた灯りに、荷台から降ろされる人々の姿が浮かび上がった。

 皆、縄で繋がれていた。数珠のように、一列に。子供がいた。女がいた。獣人がいた。誰も声を上げなかった。黒い外套の男たちに背中を押されて、よろめきながら、倉庫の中へ吸い込まれていく。

 モモの喉が、小さく鳴った。

 私は、モモの肩に手を置いた。

 まだだ、と目で伝えた。

 モモは、唇を噛んで頷いた。

 倉庫の扉が閉まった。

 荷馬車は、空になって引き返していった。

 私たちは、倉庫の裏手に回った。

 裏手には、小さな通用口があった。鍵がかかっている。けれど、扉の蝶番が錆びていた。フィンが短剣の先で蝶番の釘を抜き、扉を外した。村で育った者の手際だった。

 中に入った。

 倉庫の中は、がらんとしていた。

 木箱がいくつか積まれているだけで、さっき入っていったはずの人々の姿はどこにもなかった。

 モモが、床に鼻を近づけた。

 這うように、倉庫の奥へ進んでいく。

 奥の壁際で、止まった。

「……ここっす。ここで、匂いが消えてるっす」

 壁際の床板に、細い隙間があった。

 よく見なければ分からない。けれど、周りの床板より、ほんの少しだけ擦り減っていた。何度も、何度も、開け閉めされた跡だ。

 フィンが、床板の端に指をかけた。

 持ち上がった。

 下には、石の階段が続いていた。

 湿った、冷たい空気が、階段の底から吹き上がってきた。

 その空気に、匂いが混じっていた。

 汗と、糞尿と、血と。

 それから、嗅いだことのない、甘ったるい何かの匂い。

            ◇

 階段は、長かった。

 倉庫の床下から、さらに地下へ。途中で横穴に分かれ、また階段を下りる。石の壁は古く、苔がむしていた。昔からある地下道を、誰かが後から繋げたのだろう。

 モモの鼻を頼りに、進んだ。

 やがて、灯りが見えた。

 石の通路の両側に、鉄格子が並んでいた。

 檻だった。

 一つの檻に、五人も六人も押し込められていた。床に藁が敷かれているだけで、他には何もない。誰もが痩せていた。誰もが汚れていた。首に、鉄の輪を嵌められていた。輪には、数字が刻まれた札がぶら下がっていた。

 私たちが通路を進んでも、誰も声を上げなかった。

 見上げる目にも、何も浮かんでいなかった。怯えも、期待も、何も。ただ、灯りが揺れるのを、ぼんやりと追っているだけだった。

 一つの檻の中で、小さな子供が咳き込んでいた。

 隣の女が、その背中をさすっていた。

 女の腕に、焼き印が押されていた。

 数字だった。

 フィンが、私の後ろで息を詰まらせた。

 振り返ると、フィンは口元を押さえていた。顔が、真っ青だった。

 モモは、檻の一つ一つを覗き込んでいた。

 誰かを探している目だった。

 一つ、また一つ。

 覗き込むたびに、耳が少しずつ垂れていった。

 通路の突き当たりに、重い木の扉があった。

 さっきの、甘ったるい匂いが、その扉の向こうから漂ってきていた。

 私は、扉を押した。

 鍵は、かかっていなかった。

 中は、広い部屋だった。

 壁一面に、棚が並んでいた。

 棚の上に、石が並んでいた。

 色とりどりの、透き通った石だった。

 薄紅。淡い青。琥珀。紫。灯りを受けて、どれもきらきらと光っている。一つ一つに、札がつけられていた。数字と、何かの文字。

 大きさは、まちまちだった。

 小指の爪ほどのものもあった。拳ほどのものもあった。

 そして、奥の棚に。

 人の背丈ほどの、大きな塊が、いくつも立てかけられていた。

 私は、その一つに近づいた。

 薄い琥珀色の、透き通った塊だった。

 形が、あった。

 肩の線。首の傾き。胸の前で組まれた、両の腕。

 顔が、あった。

 目を閉じていた。眠っているような顔だった。口が、わずかに開いていた。何かを言いかけたまま、止まったような口だった。

 その塊の足もとは、削られていた。

 足首から下が、なかった。鋭い刃物で、断ち割ったような跡が残っていた。

 その断面の近くに、小さな欠片が、いくつも積まれていた。

 指ほどの。

 親指ほどの。

 私は、動けなくなった。

 晶具屋の老人の声が、耳の奥で蘇った。

 結晶術使いの髪や爪が、結晶になったもんさ。

 〝こんくらいの欠片でも、けっこうな値がつく。

 もっとでかいのは、まず出回らねえな。〟

 出回らない、のではなかった。

 出回っているのだ。

 ここで。

 人の形をしたまま。

 切り分けられて。

 背後で、誰かが吐いた。

 フィンだった。石の床に膝をついて、肩を震わせていた。モモが、その背中に手を当てていた。モモの顔も、真っ青だった。

 私は、吐かなかった。

 吐けなかった。

 喉の奥が、鉛を詰めたように塞がっていた。

 外套の懐に、手を当てた。

 布越しに、あの石の固さが指に触れた。

 取り出した。

 手のひらに載せて、灯りにかざした。

 淡い紅に透けている。端々が削られて、元の形が分からない。ところどころに、節のような丸みが残っている。

 棚の上の欠片と、同じ色をしていた。

 同じ透き通り方をしていた。

 同じ、削られ方をしていた。

 私は、手のひらの石を見下ろした。

 三年近く、ずっと持ち歩いていた。

 村が焼けた日に拾った。手がかりになると思った。きれいな石だと思った。晶具屋でその正体に薄々気づきかけて、それ以上考えるのをやめた。

 考えるのをやめて、持ち歩いていた。

 ずっと。

            ◇

「おや」

 声がした。

 背後の扉のほうからだった。

 若い男の声だった。柔らかく、よく通る、耳に心地のいい声だった。

「こんな夜更けに、お客様とは珍しい」

 私は、振り返った。

 扉の前に、男が立っていた。

 若かった。私たちと、そう変わらない歳に見えた。背が高く、細身で、淡い金の髪を後ろで一つに束ねている。耳の先が、尖っていた。エルフだ。

 美しい顔をしていた。

 整いすぎているほどに。

 身につけているのは、夜着の上に羽織った深い青の外套だった。胸に、紋章が刺繍されていた。波の上を進む、一隻の船。

 男の後ろに、黒い外套の男たちが五人、控えていた。

 男は、部屋の中を見回した。

 床に膝をついたフィン。その背をさするモモ。そして、手のひらに石を載せたまま立っている私。

 男の目が、私の手のひらで止まった。

 それから、ゆっくりと、笑った。

「なるほど」

 男は、言った。

「商売敵かと思いましたが、どうやら違うようですね。騎士団の方々ですか。御方の護衛の」

「アーロンか」

 私が言うと、男は優雅に一礼した。

「いかにも。この倉庫と、この地下と、この部屋の品々の持ち主です」

 品々、と男は言った。

 棚の上の石を。

 檻の中の人々を。

「これは、何だ」

 私は、言った。

 自分の声が、ひどく平らに聞こえた。

「見てのとおりです」

 アーロンは、肩をすくめた。

「結晶体ですよ。結晶術使いが、術の使いすぎで結晶になったもの。晶具の触媒として、これ以上の品はありません。大きければ大きいほど、純度が高ければ高いほど、値がつく」

「人だ」

「元は、ね」

 アーロンは、奥の棚に立てかけられた琥珀色の塊に目をやった。

「あれは、フェリシアの下級魔族の成れの果てです。術の加減を知らなかったのでしょう。向こうでは、身内が結晶になると墓には入れずに売るのが習わしでしてね。貧しい彼らにとっては、貴重な稼ぎなんですよ。私はそれを買い取って、こちらで捌いている」

「その代金に、人を払っているのか」

 アーロンの眉が、わずかに上がった。

「察しがよろしい」

 アーロンは、また笑った。

「魔族は、人の血を欲しがる。人族は、魔族の結晶を欲しがる。私は、その間に立って、両方の望みを叶えているだけです。誰も損はしていない」

「檻の中の人々は」

「彼らは、商品です。商品に損得はありません」

 通路の向こうで、子供が咳き込む声がした。

 私は、腰の剣に手をかけた。

 アーロンは、それを見ても顔色一つ変えなかった。

 それどころか、ますます愉快そうに目を細めた。

 その目が、また、私の手のひらに向いた。

「ところで、騎士殿」

 アーロンは、言った。

「その手の中のものは、どこで手に入れられました?」

 私は、答えなかった。

 アーロンは、一歩、近づいてきた。

「それほどの大きさの欠片は、まっとうな筋では手に入りません。髪や爪の欠片ではない。それは、人の身体の一部です。指か、耳か、そのあたりでしょう。削り方を見れば分かる。うちの職人の手によるものだ」

 アーロンは、私の目をまっすぐに見た。

 その顔に、嘲りの色が浮かんでいた。

「貴様とて、同類ではないか」

 部屋が、静まり返った。

 フィンが、顔を上げた。

 モモが、私を見た。

 私は、手のひらの石を見下ろしていた。

 指か、耳か。

 誰かの。

 あの日、村を焼いた男の袋から転がり出た。私はそれを拾い、きれいだと思い、手がかりになると思い、ずっと持ち歩いてきた。

 誰かの身体の一部を。

 何も知らずに。

 いや、知ろうとしなかった。

 晶具屋の老人の話を聞いたときに、気づけたはずだった。気づきかけて、目を逸らした。考えるのをやめた。

 それは、この男たちがしていることと、どう違うのか。

 見ないふりをして。

 知らないふりをして。

 手のひらが、少しだけ震えた。

 それから、私は、石を握りしめた。

「違う」

 声が、出た。

 自分でも驚くほど、静かな声だった。

「私は、これを売らない。誰にも渡さない」

 アーロンの笑みが、わずかに固まった。

「これが誰のものだったのか、私は知らない。知らないまま、三年も持ち歩いていた。それは、私の恥だ」

 私は、石を懐に戻した。

 それから、剣を抜いた。

「だから、いつか、この人を正しく弔う。その日まで、私が持っている」

 剣先を、アーロンに向けた。

「貴様と同じにするな」

 アーロンは、しばらく黙っていた。

 それから、ふっと息を吐いた。

 笑みが、消えていた。

 整いすぎた顔から、表情が抜け落ちると、それはひどく冷たい仮面のように見えた。

「残念です」

 アーロンは、片手を上げた。

「では、商品の一部になっていただきましょう」

 背後の男たちが、一斉に動いた。

            ◇

 五人のうち、三人が籠手を嵌めていた。

 磨かれた金属。細かな模様。

 そして、手首の近くに、波の上を進む船の紋章が刻まれていた。

 削られていない、紋章が。

 私は、目を見開いた。

 あの日、村を焼いた男の籠手。

 宿場町で、モモを攫おうとした男の籠手。

 どちらも、手首の近くに、紋章を削り取った跡があった。

 削る前は、この紋章だったのだ。

 胸の奥で、何かが、ぷつりと切れた。

 三つの籠手が、一斉に持ち上がった。

 光の粒が、三つの籠手の模様へ、同時に集まり始める。

 私は、籠手だけを見た。

 三つ。

 集まる速さが、それぞれ違う。右の男がいちばん速い。左の男は、縮む直前の間が長い。真ん中の男は、光の渦が少し歪んでいる。結び方が甘いのだ。

 右が、縮む。

 跳ぶ。

 火の玉が、さっきまで私の立っていた床を焼いた。

 左が、縮む。

 身を沈める。

 火の玉が、頭の上を掠めて、棚の石を粉々に砕いた。きらきらと、色とりどりの欠片が宙に舞った。

 真ん中が――。

「カリンさん!」

 フィンの声がした。

 次の瞬間、真ん中の男の籠手に、光の塊が叩きつけられた。

 フィンの結晶術だった。

 床に膝をついたまま、フィンは片手を真ん中の男に向けていた。顔はまだ青ざめている。けれど、その目は、まっすぐに籠手を捉えていた。

 真ん中の男の籠手から、集まりかけていた光が弾け飛んだ。

 男が、たたらを踏んだ。

 私は、その隙に、右の男の懐へ飛び込んだ。

 右の男の手首を、剣の柄で打つ。

 籠手ごと、腕が跳ね上がる。

 返す剣の腹で、男の側頭部を打つ。

 男が崩れる。

 左の男が、二つ目の火の玉を撃とうとしていた。

 縮む直前。

 間が長い。

 その間に、懐まで詰めた。

 剣の切っ先で、籠手の模様を突いた。

 刃が、模様の溝に食い込んだ。光の粒が、行き場をなくしたように、ばらばらに散った。

 男の顔が、驚愕に歪んだ。

 剣の柄頭を、男の顎に叩き込んだ。

 残りの二人は、籠手を嵌めていなかった。

 一人は、モモが体当たりで倒した。獣人の膂力は、見た目の小ささからは想像もつかなかった。

 もう一人は、フィンが相手をした。

 フィンは、床から跳ね起きざまに剣を抜いた。抜いた刀身に、光の粒が這い上がっていく。刃の根元から切っ先まで、細い炎が走った。

 男の振り下ろした剣を、炎を纏った刃で受ける。受けた瞬間に、炎が弾けた。男の剣が、熱に押されるように跳ね返される。

 がら空きになった胴を、フィンは剣の腹で打ち据えた。

 男は、壁まで吹き飛んで動かなくなった。

 旅の間も、王都でも、フィンは剣と結晶術を別々に稽古していた。それを一つに束ねるようになったのは、ここ一年ほどのことだ。その剣には、まだ私の読める癖がいくつも残っている。それでも、並の騎士では受けきれないだろう。

 五人が、床に転がっていた。

 アーロンは、扉の前に立ったままだった。

 一歩も、動いていなかった。

 私は、剣を構えて、アーロンに向き直った。

 アーロンは、片手を上げた。

 その指先に、光の粒が集まり始めた。

 速かった。

 籠手の男たちとは比べものにならないほど速く、多い。フィンの指先よりも。渦が、美しいほど整っている。結び方に、一片の歪みもない。

 やはりエルフだ、と思った。

 尖った耳の長命な種族で、この国の王家や貴族の多くを占めている。いわゆる普通の人、ヒューマンとは比べものにならない結晶術の才を持つと、講義で教わった。集める力も、結ぶ力も、生まれつき違うのだ。

 光が、縮む。

 私は、跳ばなかった。

 まっすぐに、踏み込んだ。

 アーロンの目が、見開かれた。

 放たれた光は、火の玉ではなかった。細く鋭い、槍のような光だった。私の胸を、まっすぐに狙っていた。

 半身になった。

 光の槍が、私の胸の前を掠めていった。上着が裂けた。肌に、焼けるような痛みが走った。

 構わなかった。

 もう、間合いの内だった。

 剣の腹で、アーロンの手首を打った。

 二発目の光が、集まりかけて散った。

 返す剣を、アーロンの首筋に当てた。

 刃ではなく、峰で。

 アーロンの身体が、ぴたりと止まった。

「……参りました」

 アーロンは、静かに言った。

 両手を、ゆっくりと上げた。

 その顔には、まだ、あの笑みが浮かんでいた。

             ◇

 フィンが宮殿へ走っているあいだ、私は倉庫の外に出ていた。

 地下の匂いが、鼻の奥にこびりついて取れなかった。

 海から霧が上がってきていた。夜の黒が薄い灰色に変わり、その灰色が岸壁も倉庫も呑み込んでいく。向かいの桟橋の杭は、三本目から先が見えなかった。濡れた縄と魚の鱗の匂いがした。地下のあの甘ったるさを、潮が少しずつ洗っていった。

 桟橋の先で、漁師たちが舟を出そうとしていた。

 誰も喋らない。櫂を揃え、網を積み、最後に年嵩の漁師が舳先に竿を立てた。竿の先に小さな角灯が吊ってある。火打石を打つ乾いた音が二度して、灯が入った。

 漁師は角灯の硝子に額をつけた。何か呟いたようだった。霧に吸われて、ミスタルさま、という響きだけが届いた。

 舟がすべるように岸を離れた。

 岸壁の端で網を繕っていた老婆が、手を止めずに言った。

「霧の朝はね、ミスタルさまに灯をお見せするんだよ。霧と海の女神さまさ。灯を掲げた舟は、女神さまが霧の向こうから道を照らして、ちゃんと連れて帰ってくださる」

 老婆はそれだけ言って、また網の目に杼を通した。

 舟の形が先に霧に溶け、竿が溶け、最後に橙色の点がひとつだけ灰色の中に浮かんでいた。その後ろから二艘目、三艘目が出ていく。どの舳先にも灯があった。点が沖へ一列に連なって、ゆっくりと薄れていった。

 霧の向こうに道があるようだった。誰かが先に立って、そこを照らしているような。

 霧が、喉の奥まで冷たかった。

 夜が明ける前に、街の衛兵たちが駆けつけた。

 フィンが、宮殿まで走って知らせたのだ。

 霧は、陽が昇るとあっけなく引いていった。

 檻の中の人々が、一人ずつ地下から運び出されていった。朝の光の中で見る彼らの姿は、灯りの下で見たときより、もっと痛ましかった。

 モモは、檻の一つ一つを最後まで覗き込んでいた。

 最後の檻が空になったとき、モモは地面にへたり込んだ。

「……いなかったっす」

 耳が、完全に垂れていた。

 私は、モモの隣に屈んだ。

 懐から、一冊の帳面を取り出した。

 アーロンの書斎で見つけたものだった。衛兵が来るまでの間に、地下の奥の部屋を一つずつ検めた。書斎の机の引き出しに、帳面と、手紙の束が入っていた。

 帳面には、日付と、数字と、短い文字が並んでいた。

 性別。種族。年の頃。

 そして、行き先。

 私は、帳面のある頁を開いて、モモに見せた。

 モモは、字が読めなかった。

 だから、私が読んだ。

「十日前。ヒューマン、女、十四歳。赤い髪紐。フェリシア行き。メルヴェイン卿の館へ」

 モモの目が、大きく見開かれた。

「……赤い髪紐」

 モモの声が、震えた。

「自分が、あげたっす。妹の、誕生日に」

 モモは、私の手から帳面をひったくるようにして、その頁を見つめた。

 読めない文字の上を、指でなぞった。

 何度も、何度も。

 それから、顔を上げた。

 赤い瞳に、涙が溜まっていた。

 けれど、耳は、ぴんと立っていた。

「……生きてるっす。まだ」

「十日前には、な」

「生きてるっす」

 モモは、もう一度言った。

 自分に言い聞かせるように。

 手紙の束は、フェリシアから届いたものだった。

 差出人の名は、どこにもなかった。

 どの手紙の末尾にも、名前の代わりに、同じ封蝋の印が押されていた。三日月を咥えた、一匹の蛇。衛兵に見せても、誰も知らない印だった。

 手紙には、品物の受け渡しの日取りと、数と、代金の結晶体の量が、丁寧な字で書かれていた。

 そして、何通かの手紙の末尾に、同じ一文があった。

 若く質の良い品は、例年どおりメルヴェイン卿を通じて、水の都の御方へ献上いたします。

             ◇

 朝日が昇りきった頃、侯爵が港に姿を見せた。

 金糸の布を巻いた杖を携え、衛兵たちを従えて。

 真っ白な髪の毛先が、朝日を受けて、また無数に瞬いていた。

 侯爵は、縄で縛られたアーロンの前に立った。

 しばらく、黙ってアーロンを見下ろしていた。

「……よもや、我が膝元で、このような」

 侯爵は、低い声で言った。

 その声には、怒りが滲んでいた。

 少なくとも、私にはそう聞こえた。

「この者の身柄は、わしが預かる。厳しく詮議し、相応の裁きを下す」

 侯爵は、私たちのほうへ向き直った。

 そして、深く頭を下げた。

「御方の騎士殿。そなたらの働きに、西の地を預かる者として、礼を申す」

 侯爵の毛先の結晶が、きらきらと光っていた。

 私は、何か言うべきだと思った。

 けれど、言葉が出てこなかった。

 衛兵たちが、アーロンの縄を引いた。

 アーロンは、抗わなかった。

 大人しく、衛兵たちに引かれていく。

 侯爵の横を通り過ぎるとき、アーロンは、ほんの一瞬だけ、侯爵の顔を見上げた。

 侯爵は、アーロンを見なかった。

 まっすぐに、前を向いていた。

 それから、アーロンは、私のほうへ顔を向けた。

 笑っていた。

 縄で縛られ、衛兵に引かれ、これから裁かれに行く男が。

 怯えも、悔しさも、何もない顔で。

 まるで、これから楽しい芝居の幕が開くのを待っているかのような顔で。

 声は、出さなかった。

 けれど、唇が動いた。

 また、と。

 そう動いたように、見えた。

 衛兵たちに囲まれて、アーロンの姿は、港の向こうへ消えていった。

 私は、その笑みを、しばらく忘れることができなかった。

            ◇

 宮殿の離れに戻ると、リエルが扉の前で待っていた。

 付き人も連れずに、一人で。白い夜着の上に、薄い外套を羽織っただけの格好で。

 見えない目が、廊下の向こうの私を捉えた。

 足音はしないはずなのに、リエルは、私が角を曲がった瞬間に顔を上げた。

「……遅いですわ」

 リエルの声は、少しだけ掠れていた。

 朝まで一度も目を覚まさない、と言っていたのに。

「すまない」

「朝飯の支度までには、帰るとおっしゃいましたわ」

「まだ、朝飯の時間だ」

「屁理屈ですわ」

 リエルは、私の腕にしがみついた。

 いつもより、ずっと強い力だった。

 小さな身体が、少しだけ震えていた。

 部屋に入って、リエルに全部を話した。

 地下の檻のこと。棚の石のこと。アーロンの言葉のこと。

 そして、私の懐の石のこと。

 リエルは、寝台の端に座って、黙って聞いていた。

 聞き終えると、片手を差し出した。

「触れても、よろしいかしら」

 私は、懐から石を取り出した。

 リエルの手のひらに、そっと載せた。

 リエルは、指先で石を包み込んだ。

 形を確かめるように、ゆっくりとなぞった。削られた端を。節のような丸みを。

「冷たいですわ」

 リエルは、呟いた。

「冷たいのに、少しだけ、温かい」

 見えない目を、閉じた。

「この方も、どこかで誰かの大切な方だったのでしょうね」

 私は、何も言えなかった。

 リエルは、しばらく石を包んだまま、黙っていた。

 それから、目を開けて、石を私の手に戻した。

「カリン」

「なんだ」

「その方を、いつか、ちゃんと弔っておあげなさいまし」

 リエルは、私の手を、石ごと両手で包んだ。

「カリンなら、きっとできますわ」

 私は、手の中の石を見下ろした。

 淡い紅に透けていた。

 窓から差し込む朝の光を受けて、その中の小さな光の粒が、微かに瞬いていた。

「……ああ」

 私は、石を懐に戻した。

 布越しに、その固さが胸に触れた。

 三年近く持ち歩いてきたのと、同じ重さのはずだった。

 けれど、今朝からは、少しだけ違う重さに感じた。

「フェリシアへは、予定どおり三日後に発ちますわ」

 リエルが、言った。

 いつもの、弾むような声に戻っていた。

「モモも、ご一緒に。妹さんを、迎えに参りましょう」

 扉の外で、誰かが鼻をすする音がした。

 モモだった。いつの間にか、扉の前で聞き耳を立てていたらしい。

「……聞こえてたっす」

 扉の隙間から、赤い耳が覗いていた。

「リエルの姉御、ありがとうございますっす」

「お礼は、妹さんに会えてからですわ」

 リエルは、くすくすと笑った。

 私は、窓の外を見た。

 朝の海が、どこまでも青く光っていた。

 その海の北に、フェリシアがある。

 メルヴェイン卿の館がある。

 私は、朝飯の支度をするために、立ち上がった。

 柿に似たものを、探しに行かなければならなかった。


(第六章 了)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。