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越境者の足跡  作者: 野良野良猫
一.木漏れ日の国
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第五章 初任務

 教会の門前に、白い馬車が停まっていた。

 春の朝だった。世界樹の枝葉から降る光が、まだ淡い。石畳の上に、まだらな影が揺れている。

 馬車の周りを、白銀の鎧を着た騎士たちが固めていた。十人はいる。胸当てに、教会の紋章が刻まれていた。神殿騎士だ。騎士団の者とは、鎧の磨き方からして違う。

 その後ろに、黒い衣の司祭が二人。付き人が四人。荷馬車が三台。

 教会の要人を西へ送る、と殿下は言った。

 要人、という言葉の重さを、私は少し甘く見ていたらしい。

「……多いですね」

 隣で、フィンが小声で言った。

 私とフィンは、騎士団の正装で並んでいた。濃紺の外套に、腰の剣。騎士団から支給された、両刃の長剣だ。刀とは重さも反りも違う。この一年で振り慣れはしたが、手に馴染んだとは言いがたかった。

 足もとは、硬い革の長靴に押し込められていた。正装の外套は、肩も胸も隙間なく締めつけてくる。風が、どこからも入ってこない。

 袖や裾から季節の風が抜けていく、あの藍の紬の着心地が、ふと恋しくなった。

 教会の扉が開いた。

 神殿騎士たちが、一斉に膝をついた。

 司祭も、付き人も、頭を垂れた。

 扉の奥から、小さな人影が現れた。

 その白い衣はいつか見たそれによく似ていた。しかしいつも市場で目にする簡素なものではない。裾が床に届くほど長く、襟と袖に金の刺繍が施されている。白に近い金色の髪は丁寧に編み込まれ、額に細い銀の環が嵌められていた。

 首元には、いつもの黒いチョーカー。

 リエルだった。

 付き人に手を引かれ、ゆっくりと石段を降りてくる。背筋を伸ばし、顔をまっすぐ前に向けて。表情はなかった。付き人の前にいるときの、あの人形のような顔だった。

 膝をついた神殿騎士たちの間を、リエルは静かに歩いた。

 誰も顔を上げなかった。

 私は、立ったままだった。

 膝をつくのを、忘れていた。

 リエルが、私の前で足を止めた。

 見えない目が、まっすぐに私の顔を捉えていた。

 付き人の一人が、青ざめた顔で私を睨んだ。膝をつけ、と目が言っていた。

 リエルが、ほんの少しだけ首を傾げた。

「おはようございます、カリン」

 抑揚のない声だった。

 けれど、その口の端が、ほんのわずかに持ち上がっていた。付き人からは見えない角度で。

「……おはよう」

 私は、それだけ言った。

 リエルは何も言わず、また歩き出した。付き人に手を引かれて、白い馬車に乗り込んでいく。

 扉が閉まる直前、馬車の中から、小さな声がした。

「驚きましたでしょう?」

 くすくすと、笑い声が混じっていた。

 出発の支度の合間に、神殿騎士の隊長に尋ねた。

 灰色の髭を短く刈り込んだ、厳つい顔の男だった。

「あの方は、何者だ」

 隊長は、私をじろりと見た。

「教会にとって、かけがえのない御方だ」

「それだけか」

「それ以上を知る必要はない。貴殿らの務めは、あの御方のお傍を離れぬことだ。あの御方のたってのご希望でな」

 隊長は、荷馬車のほうを顎で示した。

「それと、あの荷には近づくな」

 三台目の荷馬車に、細長い箱が積まれていた。

 白い布で何重にも包まれ、封蝋が押されている。長さは、私の背丈ほど。幅は、肩幅くらい。神殿の所有物にはあまりに武骨。武器を収めた箱のように見えた。

「中身は」

「訊くな」

 隊長は、それきり背を向けた。

            ◇

 王都から西の都シルフェリオまでは、馬車で二十日ほどの道のりだった。

 私は、リエルの馬車に同乗することになった。

 それも、リエルのたっての希望だという。司祭たちは渋い顔をしたが、リエルが何かを望むと、誰も逆らえないらしかった。

 フィンは、馬で馬車の脇を固めた。

 馬車が王都の門を出て、街道に入った。

 付き人が御者台に移り、馬車の中は、私とリエルの二人だけになった。

 途端に、リエルが私の腕にしがみついてきた。

「驚きましたでしょう?」

 さっきと同じことを、今度は弾むような声で言った。

「驚いた」

「本当に? カリンは、驚いても顔に出ませんもの。わたくしには見えませんけれど」

「本当だ。膝をつくのを忘れた」

「まあ」

 リエルは、声を上げて笑った。

「それは、とても驚いてくださったのですわね」

 銀の環が、額で小さく揺れた。

 私は、リエルの顔を見た。

 市場で会うときと、何も変わらない顔だった。見えない目を細めて、楽しそうに笑っている。さっき石段を降りてきた人形のような顔が、嘘のようだった。

「君は、何者だ」

 訊いてみた。

 リエルは、笑うのをやめた。

 少しだけ首を傾げて、考えるような顔をした。

「わたくしは、わたくしですわ」

「答えになっていない」

「なっておりますわ。カリンが知っているわたくしが、わたくしのすべてですもの」

 リエルは、私の腕に頬を寄せた。

「それ以外のわたくしのことは、知らなくてよろしいの。……知らないでいてくださると、嬉しいですわ」

 その声が、ほんの少しだけ、細くなった。

 私は、それ以上訊かなかった。

 訊かないでいてほしいと言われたことを、無理に訊くのは好きではなかった。

 街道の旅は、ゆっくりと進んだ。

 馬車の中で、リエルはよく喋った。

 王都を出たのは、生まれて二度目だという。一度目は、幼い頃に近くの町の教会へ行ったきりで、ほとんど覚えていない。

 だから、何もかもが新しいのだと言った。

 窓から入ってくる風の匂い。畑の土の匂い。馬の蹄の音。遠くで鳴く鳥の声。リエルはそれらを一つ一つ拾い上げては、私に訊いた。

「今の鳥は、何という鳥ですの?」

「分からない。私の国にはいない鳥だ」

「では、どんな姿をしておりますの?」

 私は窓の外を見た。

 電線のない空を、茶色い小さな鳥が横切っていく。

「茶色くて、小さい。尾が長い。雀に似ている」

「スズメ」

「私の国の鳥だ。どこにでもいて、うるさい」

「まあ。うるさい鳥ですのね」

 リエルは嬉しそうに笑った。

「では、あの鳥のことは、スズメと呼ぶことにいたしますわ」

 そういうやり取りを、何度も繰り返した。

 私が目になり、リエルが耳になる。二人で一つの景色を組み立てていく。窓の外を流れていく麦畑も、遠くの丘も、世界樹の影も、リエルの中では私の言葉でできていた。

 それが、少しだけ面映ゆかった。

 朝、馬車が動き出す前に、リエルは必ず両手を胸の前で重ねた。掌のあいだに小さな空洞を残す、雛鳥を包むような形だった。唇が動くけれど、声は出ない。それが終わるまで、私は話しかけないことにしていた。

 三日目の昼、街道が二股に分かれるところで、馬車が少しだけ速度を落とした。

 分かれ道の真ん中に、膝ほどの高さの石の柱が立っていた。柱の頭に、色とりどりの紐が何十本も結びつけてある。新しいものは鮮やかで、古いものは雨に晒されて灰色に褪せ、ほどけかけていた。

 窓の外をそのまま言葉にすると、リエルはすぐに分かった顔をした。

「契礎の女神様の礎石ですわ。旅に出る方は、あそこに紐を結んでいきますの。帰りに同じ道を通ったら、自分の紐をほどいて持ち帰る。必ず戻るという誓いの印ですわ」

 私は、褪せた紐を見た。

 ほどかれないまま灰色になった紐が、たくさんあった。

「ほどかれていない紐は」

「……戻らなかった方のものですわ」

 リエルは、それを悲しい話としては言わなかった。明日の天気の話をするような声だった。

「カリンも、結んでいかれます? 付き人に言えば、紐をくれますわ」

「いい」

 答えが、思ったより早く出た。

「紐ひとつ結ばずに出ていく奴もいる」

 言ってから、窓枠を握っていた指が冷えていることに気づいた。

 彼は、何ひとつ結ばずにいなくなった。行ってくるとも、帰るとも言わなかった。だから、ほどきに戻ってくる道もない。

「……どなたのことですの?」

「知り合いだ」

 馬車が速度を戻した。石の柱と色褪せた紐は、窓の後ろへ流れていった。

            ◇

 旅に出て五日目の夕方、馬車の中で、リエルが首元を押さえた。

 黒いチョーカーに、指をかけていた。

 引っ張るように。あるいは、緩めようとするように。

 その指が、細かく震えていた。

「リエル」

 声をかけると、リエルははっとしたように手を離した。

「……なんでもありませんわ」

「苦しいのか」

「少しだけ、きついだけですの」

 リエルは、いつもの笑顔を作った。

 作った、と分かった。口の端が、ほんのわずかに強張っていた。

「外せばいい」

「外してはいけませんの」

 即答だった。

 声から、弾むような響きが消えていた。

「これは、聖遺物ですの。わたくしたちの女神様とわたくしを繋ぐ証。わたくしが身につけていなければならないもの。外してはいけないと、ずっとそう教わってまいりましたの」

 平らな声だった。

 誰かの言葉を、そのまま読み上げているような声だった。

 私は、リエルの首元を見た。

 黒い革が、細い首にぴたりと巻きついている。留め金らしいものは、見当たらなかった。どうやって着けたのか。どうやって外すのか。

 外すことを、最初から考えていない作りに見えた。

「……そうか」

 私は、それだけ言った。

 リエルは、少しだけ息を吐いた。

 それから、窓の外に顔を向けた。

「カリン。今、窓の外には、何が見えますの?」

 話を変えたいのだ、と分かった。

 私は、窓の外を見た。

 夕陽が、麦畑の向こうに沈みかけていた。

「日暮れだ」

「日暮れ」

「空が、橙色に焼けている。熟れた柿のような色だ」

「カキ?」

「私の国の果物だ。秋になると、橙色に熟れる。甘い」

「まあ。食べてみたいですわ」

 リエルは、見えない目で窓の外の夕陽を見つめていた。

 その横顔を見ながら、私はあの日の商店街の空を思い出していた。

 同じ色だった。

            ◇

 旅に出て九日目。

 その日の昼は、街道沿いの小さな宿場町で休みを取っていた。

 私は馬車を降りて、宿場の井戸で水を汲んでいた。フィンが、馬に水を飲ませている。神殿騎士たちは、馬車を囲んで周囲に目を光らせていた。

 井戸の向こうの路地から、悲鳴が聞こえた。

 甲高い声だった。

 私は、桶を置き、路地を覗き込んだ。

 幌をかけた荷馬車が一台、停まっていた。その荷台に、男が二人がかりで、誰かを押し込もうとしている。

 小柄な少女だった。

 赤い髪。褐色の肌。頭の上に、丸い獣の耳が二つ、ぴょこんと立っている。獣人だ。

 少女は手足を振り回して暴れていた。男の一人が、その腕を捻り上げる。少女が、また悲鳴を上げた。

「離すっす! 離せっす、この野郎っす!」

 奇妙な言葉遣いだった。

 男の一人が、少女の口を手で塞いだ。もう一人が、荷台の幌を捲る。

 幌の中に、人影がいくつも見えた。

 皆、手足を縄で縛られていた。子供もいた。獣人もいた。ヒューマンもいた。誰も声を上げていない。上げる気力も残っていないような顔だった。

 私は、剣の柄に手をかけた。

「待て」

 背後から、声がした。

 神殿騎士の隊長だった。いつの間にか、私の後ろに立っていた。

「任務外だ。関わるな」

「人が攫われている」

「分かっている。だが、我らの務めはあの御方をお守りすることだ。余計な騒ぎを起こして、あの御方を危険に晒すわけにはいかん」

「すぐに済む」

「そういう問題ではない」

 隊長の声は、低く、硬かった。

 私は、振り返った。

 隊長の目を、まっすぐに見た。

 隊長も、私を見返した。

 その目に、迷いはなかった。本気で、見過ごすべきだと思っている目だった。

 私は、剣の柄から手を離さなかった。

「――カリン」

 馬車のほうから、声がした。

 リエルだった。

 馬車の窓から、白い顔を覗かせていた。

 見えない目が、路地のほうを向いていた。聞こえていたのだろう。少女の悲鳴も、隊長の言葉も、全部。

「行ってくださいまし」

 静かな声だった。

「わたくしの騎士に、見過ごせと命じる者はおりませんわ」

 隊長の顔が、強張った。

「し、しかし」

「隊長。わたくしの言葉が、聞こえませんでしたの?」

 リエルの声は、あくまで静かだった。

 静かで、そして、ひどく冷たかった。

 市場で笑っているリエルからは、想像もつかない声だった。

 隊長は、唇を噛んだ。

 それから、深く頭を下げた。

「……御意に」

 私は、もう振り返らなかった。

 路地へ、駆け込んだ。

             ◇

 男たちは、私に気づくのが遅れた。

 足音がしないからだ。

 少女を押さえつけていた男の背後に回り、剣の柄頭で後頭部を打った。男が崩れる。少女の口から、男の手が離れた。

「なっ――」

 もう一人が振り返った。

 腰の剣に手をかける。遅い。抜く前に、その手首を柄頭で打った。剣が地面に落ちる。男の膝の裏を払う。男は、荷馬車の車輪に頭をぶつけて動かなくなった。

「フィン!」

「はい!」

 いつの間にか、フィンが路地の入り口に来ていた。弓を構えている。

 荷馬車の御者台から、三人目の男が飛び降りてきた。

 大柄な男だった。右の前腕に、籠手を嵌めている。

 その籠手を見て、私の目が止まった。

 磨かれた金属。細かな模様。

 そして、手首の近くに、何かの紋章を削り取ったような傷。

 あの日、村を焼いた男の籠手と、同じ傷だった。

 男が、籠手を嵌めた腕を持ち上げた。

 光の粒が、籠手の模様に集まり始める。

 私は、男の身体を見なかった。

 籠手だけを見た。

 光が集まる。渦を巻く。

 縮む――直前。

 私は、踏み込んだ。

 火の玉が放たれるより早く、男の懐に飛び込んだ。籠手を嵌めた腕の、肘の内側を剣の柄で打つ。腕が跳ね上がる。集まりかけていた光の粒が、空へ向かって弾けた。

 小さな火の玉が、幌の上を掠めて空へ消えた。

 男の顔が、驚愕に歪んだ。

 返す剣で、男の顎を打ち上げた。

 男は、仰向けに倒れた。

 起き上がらなかった。

 路地が、静かになった。

 荷台の幌の中から、縛られた人々が、怯えた目でこちらを見ていた。

 私は、剣を鞘に収めた。

 あの日から、三年近く経っている。

 光の粒を読むことは、もう身体に染みついていた。

 それでも、あの籠手を見た瞬間、痕などとうに消えた左の肩が、疼いた気がした。

 私は、倒れた男の籠手を見下ろした。

 紋章を削り取った跡。

 同じ職人の手によるものか。同じ誰かから流れてきたものか。

 分からなかった。

 分からないが、偶然とは思えなかった。

 外套の懐に入れたあの石が、少しだけ重くなった気がした。

「あ、あの!」

 声がした。

 赤い髪の獣人の少女が、地面に座り込んだまま、私を見上げていた。

 赤い瞳が、真ん丸に見開かれている。丸い耳が、ぴんと立っていた。

「た、助かったっす! ありがとうございますっす!」

 少女は、勢いよく頭を下げた。

 下げすぎて、額が地面に当たった。ごん、と鈍い音がした。

「……痛いっす」

 少女は額を押さえて、涙目で顔を上げた。

 それから、へにゃりと笑った。

 助けられたばかりとは思えない、底抜けに明るい笑顔だった。

「自分、モモっていうっす! お姉さん、めちゃくちゃ強いっすね! 何者っすか!」

「騎士だ」

「騎士! かっけえっす!」

 モモと名乗った少女は、両手を握りしめて目を輝かせた。

 近づくと、たぶん腕を組んでくる手合いだ、と私は思った。

 分類が、また一つ明快になった。

            ◇

 攫われていた人々は、宿場町の役人に引き渡した。

 男たちも、縄で縛って役人に預けた。役人は、面倒ごとを押しつけられたという顔をしていた。

 籠手は、私が預かった。

 役人に渡せば、どこかへ消える気がしたからだ。

 モモは、荷台の人々とは違った。

 攫われたのではなく、自分から荷馬車を追いかけてきたのだという。

「妹を、探してるっす」

 宿場町の外れの、野営の焚き火の前だった。

 リエルが、どうしてもモモの話を聞きたいと言った。司祭たちは渋い顔をしたが、やはり逆らえなかった。モモは、今夜だけ一行の野営地に泊まることになった。

 薪に火を入れる前に、モモが腰の袋から小さな素焼きの人形を出した。親指ほどの、煤で黒ずんだ女神だった。モモはそれを石組みの縁に座らせ、膝に塩をひとつまみ載せた。

「旅の火にも、イグナル様はいるっす」

 レーンベルの村長とも王都の食堂の親父とも、同じ手つきだった。

「妹が、市で欲しがったやつっす。自分は安物だって言ったんすけど」

 モモはそれだけ言って、人形の煤を親指で拭った。

 フィンが火を点けた。塩が、ぱちりと小さく爆ぜた。

 焚き火を囲んで、私とフィンとリエルとモモが座っていた。神殿騎士たちは、少し離れた場所で見張りをしている。

「妹、といっても、血は繋がってないっす。自分が拾ったっす。ちっちゃい頃、道端で泣いてたのを」

 モモは、焚き火を見つめながら言った。

 耳が、少しだけ垂れていた。

「ずっと一緒だったっす。二人で、町から町へ、行商の手伝いとかして暮らしてたっす。それが、ひと月前に」

 モモの声が、少しだけ詰まった。

「攫われたっす。自分が仕事で目を離した隙に。人攫いの荷馬車に」

 焚き火が、ぱちりと爆ぜた。

「それからずっと、荷馬車を追いかけてたっす。いろんな町で、いろんな荷馬車を見たっす。でも、どれも妹は乗ってなかったっす。今日の荷馬車も、違ったっす」

「どこへ運ばれたか、心当たりはあるのか」

 私が訊くと、モモは顔を上げた。

 赤い瞳が、焚き火の明かりを映していた。

「西っす」

「西」

「人攫いの荷馬車は、みんな西へ行くっす。西の都、シルフェリオへ」

 フィンが、息を呑んだ。

 私は、リエルを見た。

 リエルは、何も言わなかった。見えない目を、焚き火に向けたままだった。

「シルフェリオは、きれいな街っす」

 モモは、膝を抱えた。

「白い壁の家がいっぱいあって、港には大きな船がいっぱい停まってて。エルフの貴族様がいっぱい住んでて、みんな上品で、優しそうで」

 そこで、言葉を切った。

「でも、裏じゃ、人が売り買いされてるっす」

 焚き火の音だけが、しばらく響いていた。

「港の倉庫に、夜になると荷馬車が入っていくっす。攫われた人たちが、そこから船に乗せられるっす。船は北へ行くっす。フェリシアへ」

「フェリシア」

 フィンが、掠れた声で繰り返した。

 殿下の執務室でも聞いた名前だった。人族と魔族が入り混じって暮らす国だと、講義では教わった。

「フェリシアは、魔族の国っす」

 モモは、言った。

「正確には、魔族に飼われてる人たちの国っす。人族がいっぱい住んでるけど、みんな魔族の餌っす。血を吸われるために、生かされてるっす」

 フィンの顔から、血の気が引いた。

 私は、何も言えなかった。

 講義で聞いた魔族は、限りなく私たち人に近い種だという。ただしエルフたちよりも結晶術に長け、人の血を好む。

 なるほど餌か。

 その言葉が、焚き火の熱と一緒に、胸の奥に沈んでいった。

「売られた人たちは、フェリシアで、もっと上等な餌として売り直されるっす。獣人は安いけど、ヒューマンの若い女の子は高いって聞いたっす。……妹は、ヒューマンっす」

 モモの声が、震えた。

 耳が、ぺたりと頭に張りついていた。

「だから、急がないと、いけないっす」

 私は、焚き火を見つめていた。

 手のひらが、熱かった。

 知らず知らずのうちに、拳を握りしめていた。

 あの日、村が焼けた。

 盗賊が、村の者を殺した。荷を奪い、家を焼いた。それは、許しがたいことだった。けれど、盗賊は盗賊だ。道を外れた者たちが、道を外れたことをした。そういうものだと、どこかで思っていた。

 これは、違う。

 人を攫い、売り、餌にする。

 それが、一つの仕組みとして回っている。きれいな街の裏側で。上品な貴族たちの足もとで。

 誰もが知っていて、誰もが見ないふりをしている。

 さっきの隊長のように。

 私は、拳を開いた。

 爪の跡が、手のひらに四つ、赤く残っていた。

「……聞いていたとおりなのですね」

 リエルが、ぽつりと言った。

 全員が、リエルを見た。

 リエルは、焚き火に顔を向けたまま、静かに言った。

「西の都のことも、フェリシアのことも。わたくしは、以前から聞いておりましたわ」

 平らな声だった。

 市場で笑っているリエルの声ではなかった。石段を降りてきた人形の声とも、少し違った。

 もっと冷たくて、もっと遠い声だった。

「この国は、そういう国ですもの」

 焚き火が、揺れた。

 リエルの白い顔に、橙色の影が落ちた。

「表は、とてもきれい。木漏れ日の国、ですものね。でも、木漏れ日の下には、必ず影がございますわ。光が強ければ強いほど、影も濃くなる」

 リエルは、見えない目を細めた。

 笑っているようにも、泣いているようにも見えた。

「わたくしは、目が見えませんから。光も影も、同じように見えますの」

 誰も、何も言わなかった。

 モモが、ぽかんと口を開けてリエルを見ていた。フィンは、唇を噛んで俯いていた。

 私は、リエルの横顔を見ていた。

 世界は、カリンが思っているほど優しくない。

 いつかの帰り際に、リエルがそう言ったのを思い出した。

 リエルは、ずっと前から知っていたのだ。

 この国の、影のことを。

 やがて、リエルがふっと息を吐いた。

 それから、ぱっと顔を上げた。

「モモ、でしたわね」

「は、はいっす!」

「あなた、わたくしたちと一緒に、西の都までいらっしゃいな」

 モモが、目を丸くした。

「え、いいんすか!?」

「よろしいですわ。わたくしの騎士たちは、とても強いですもの。一人で荷馬車を追いかけるより、ずっと早く妹さんに会えますわ」

 リエルは、いつもの笑顔に戻っていた。

 見えない目を細めて、楽しそうに。

 モモは、しばらく呆然とリエルを見ていた。

 それから、また勢いよく頭を下げた。

 また、額が地面に当たった。

「……痛いっす」

 焚き火を囲んで、小さな笑い声が起きた。

 フィンが笑い、リエルが笑った。モモも、額を押さえながら笑った。

 私も、少しだけ笑った。

 手のひらの爪の跡は、まだ消えていなかった。

             ◇

 それからの道中、モモは一行の賑やかし役になった。

 とにかく、よく喋った。静かにしているということを知らなかった。朝起きてから夜寝るまで、何かしら喋っていた。神殿騎士たちは眉をひそめたが、リエルは嬉しそうだった。

 モモは、フィンのことを「フィンの兄貴」と呼んだ。

 フィンは、兄貴と呼ばれるたびに耳を赤くした。

 リエルのことは「リエルの姉御」と呼んだ。司祭が青ざめて止めようとしたが、リエルが面白がって許した。

 私のことは、「カリンの姐さん」と呼んだ。

「姐さん、姐さん! 今日のごはん、なんすか!」

 野営のたびに、モモは私の周りをうろうろした。

 モモは、私の料理を一口食べるなり、尻尾があれば千切れんばかりに振っていただろうという顔をした。実際、尻尾は生えていなかったが、丸い耳がぴこぴこと忙しなく動いていた。

「姐さん、これ、めちゃくちゃうまいっす! 自分、こんなうまいもん初めて食ったっす!」

「そうか」

「姐さん、嫁に来てほしいっす!」

「断る」

「即答っす!」

 モモは、けらけらと笑った。

 隣で、リエルが頬を膨らませていた。

「カリンに求婚してよいのは、わたくしだけですわ」

「リエルの姉御も、姐さんに求婚したことあるんすか!」

「ございませんわ」

「じゃあ、自分と同じっす!」

「違いますわ」

 二人が言い合う横で、フィンが黙って椀を啜っていた。

 耳が、赤かった。

 なぜ赤いのかは、分からなかった。

             ◇

 ある夜、馬車の中で、リエルが言った。

 モモは焚き火の傍で、フィンの肩にもたれて眠っていた。フィンは身動きが取れずに固まっていた。

「カリン。前に、待っていた方がいらしたと、おっしゃいましたわね」

 いつだったか、市場で少しだけ話したことがあった。詳しくは言わなかった。

「どんな方でしたの?」

 私は、少し考えた。

「へらへらした男だった」

「まあ」

「口が上手くて、嘘が上手くて、裁縫ができないふりをする。料理を作ってやると、黙って食べて、最後に負けたと言う」

「負けた、ですの?」

「私の料理に負けた、と」

 リエルは、くすくすと笑った。

「あら、そんな態度でカリンを待たせるなんて罪なお方ですわ。お名前は?」

「斂」

 口に出すのは、久しぶりだった。

 この世界に来てから、一度も声に出していなかったかもしれない。

「レン」

 リエルは、大事なものを確かめるように繰り返した。

「覚えておきますわ。カリンの、大切な方のお名前」

 馬車の外で、焚き火が小さく爆ぜた。

 気がつくと、指の背が唇に触れていた。さっき口にした名前の形を、なぞるように。

 私は、その手を膝の上に戻した。

 話を変えたくなった。

「君は」

「わたくし?」

「君は、やりたい事はあるのか」

 口に出してから、気づいた。

 あの日、階段の下で老人に訊かれたのと、同じ問いだった。

 リエルは、少しも迷わなかった。

「海の音を、聞きたいですわ。それから、カキというものを食べてみたいですわ。それから、スズメの声を、もう一度聞きたいですわ」

 指を折りながら、楽しそうに並べていく。

「それから、カリンと、もっとたくさんお喋りしたいですわ」

 小さなことばかりだった。

 けれど、どれも迷いがなかった。

「カリンは?」

 リエルが、首を傾げた。

「カリンは、やりたい事がございますの?」

 私は、答えなかった。

 答えられなかった。

 あの日と、同じだった。

「……明日の朝飯の支度だ」

 真顔で言った。

 リエルは、一瞬黙った。

 それから、ふわりと笑った。

「ずるい答えですわ」

「ずるいか」

「ずるいですわ。でも、今日はそれで許してさしあげます」

 リエルは、私の肩に頭を預けた。

 すぐに、小さな寝息が聞こえ始めた。

 私は、馬車の天井を見上げていた。

 やりたい事。

 リエルは、あんなに簡単に答えた。見えない目で、聞いたこともない海の音を、食べたこともない柿を、望んでいた。

 私には、まだ何もなかった。

             ◇

 王都を出て、二十日目。

 丘の上から、海が見えた。

 見渡すかぎりの、青だった。

 空の青とは違う、もっと深い、もっと重い青。陽の光を受けて、水面が無数の鱗のようにきらめいている。水平線が、空と海を一本の線で分けていた。

 その海に向かって、白い街が広がっていた。

 白い壁の家々が、丘の斜面を埋め尽くしている。屋根は青や緑に塗られ、ところどころに尖塔が立っている。街の中心には、白い石の宮殿がそびえていた。港には、大小の船が何十隻も停泊している。帆柱が、林のように並んでいた。

 シルフェリオ。

 西の都。

 モモの言ったとおりの、きれいな街だった。

 きれいすぎるほどに。

 丘を下りる前に、馬車が一度停まった。

 リエルが、降りたいと言ったのだ。

 私はリエルの手を引いて、丘の縁まで歩いた。

 風が、強かった。

 潮の匂いがした。村にも王都にもなかった匂いだ。塩と、藻と、濡れた岩の匂い。遠くから、波の音が微かに届いてくる。

 リエルが、足を止めた。

 見えない目を、海のほうへ向けた。

「……これが、海の匂いですの?」

「そうだ」

「この音が、波の音」

「そうだ」

 リエルは、しばらく黙っていた。

 風が、リエルの編み込んだ髪をほどきかけていた。白い衣の裾が、はためいている。

「カリン」

「なんだ」

「海は、どんな色をしておりますの?」

 私は、海を見た。

 それから、少し考えた。

 青だ、と言うのは簡単だった。けれど、リエルは青を知らない。空の色も、海の色も、見たことがない。

「冷たい水を、両手ですくったときの感じに似ている」

 私は、言った。

「指の間から零れていくのに、手のひらにはずっと冷たさが残っている。そういう色だ」

 リエルは、両手を持ち上げた。

 何かをすくうように、手のひらを上に向けた。

 風が、その指の間を通り抜けていった。

「……分かりますわ」

 リエルは、呟いた。

 見えない目から、一筋、涙が零れていた。

「とても、きれいな色ですのね」

 私は、何も言わなかった。

 ただ、リエルの隣に立って、海を見ていた。

 きれいな海だった。

 その海の上を、港から出ていく船が一隻、北へ向かって進んでいた。

 帆の白さが、ひどく目に焼きついた。


(第五章 了)

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