第五章 初任務
教会の門前に、白い馬車が停まっていた。
春の朝だった。世界樹の枝葉から降る光が、まだ淡い。石畳の上に、まだらな影が揺れている。
馬車の周りを、白銀の鎧を着た騎士たちが固めていた。十人はいる。胸当てに、教会の紋章が刻まれていた。神殿騎士だ。騎士団の者とは、鎧の磨き方からして違う。
その後ろに、黒い衣の司祭が二人。付き人が四人。荷馬車が三台。
教会の要人を西へ送る、と殿下は言った。
要人、という言葉の重さを、私は少し甘く見ていたらしい。
「……多いですね」
隣で、フィンが小声で言った。
私とフィンは、騎士団の正装で並んでいた。濃紺の外套に、腰の剣。騎士団から支給された、両刃の長剣だ。刀とは重さも反りも違う。この一年で振り慣れはしたが、手に馴染んだとは言いがたかった。
足もとは、硬い革の長靴に押し込められていた。正装の外套は、肩も胸も隙間なく締めつけてくる。風が、どこからも入ってこない。
袖や裾から季節の風が抜けていく、あの藍の紬の着心地が、ふと恋しくなった。
教会の扉が開いた。
神殿騎士たちが、一斉に膝をついた。
司祭も、付き人も、頭を垂れた。
扉の奥から、小さな人影が現れた。
その白い衣はいつか見たそれによく似ていた。しかしいつも市場で目にする簡素なものではない。裾が床に届くほど長く、襟と袖に金の刺繍が施されている。白に近い金色の髪は丁寧に編み込まれ、額に細い銀の環が嵌められていた。
首元には、いつもの黒いチョーカー。
リエルだった。
付き人に手を引かれ、ゆっくりと石段を降りてくる。背筋を伸ばし、顔をまっすぐ前に向けて。表情はなかった。付き人の前にいるときの、あの人形のような顔だった。
膝をついた神殿騎士たちの間を、リエルは静かに歩いた。
誰も顔を上げなかった。
私は、立ったままだった。
膝をつくのを、忘れていた。
リエルが、私の前で足を止めた。
見えない目が、まっすぐに私の顔を捉えていた。
付き人の一人が、青ざめた顔で私を睨んだ。膝をつけ、と目が言っていた。
リエルが、ほんの少しだけ首を傾げた。
「おはようございます、カリン」
抑揚のない声だった。
けれど、その口の端が、ほんのわずかに持ち上がっていた。付き人からは見えない角度で。
「……おはよう」
私は、それだけ言った。
リエルは何も言わず、また歩き出した。付き人に手を引かれて、白い馬車に乗り込んでいく。
扉が閉まる直前、馬車の中から、小さな声がした。
「驚きましたでしょう?」
くすくすと、笑い声が混じっていた。
出発の支度の合間に、神殿騎士の隊長に尋ねた。
灰色の髭を短く刈り込んだ、厳つい顔の男だった。
「あの方は、何者だ」
隊長は、私をじろりと見た。
「教会にとって、かけがえのない御方だ」
「それだけか」
「それ以上を知る必要はない。貴殿らの務めは、あの御方のお傍を離れぬことだ。あの御方のたってのご希望でな」
隊長は、荷馬車のほうを顎で示した。
「それと、あの荷には近づくな」
三台目の荷馬車に、細長い箱が積まれていた。
白い布で何重にも包まれ、封蝋が押されている。長さは、私の背丈ほど。幅は、肩幅くらい。神殿の所有物にはあまりに武骨。武器を収めた箱のように見えた。
「中身は」
「訊くな」
隊長は、それきり背を向けた。
◇
王都から西の都シルフェリオまでは、馬車で二十日ほどの道のりだった。
私は、リエルの馬車に同乗することになった。
それも、リエルのたっての希望だという。司祭たちは渋い顔をしたが、リエルが何かを望むと、誰も逆らえないらしかった。
フィンは、馬で馬車の脇を固めた。
馬車が王都の門を出て、街道に入った。
付き人が御者台に移り、馬車の中は、私とリエルの二人だけになった。
途端に、リエルが私の腕にしがみついてきた。
「驚きましたでしょう?」
さっきと同じことを、今度は弾むような声で言った。
「驚いた」
「本当に? カリンは、驚いても顔に出ませんもの。わたくしには見えませんけれど」
「本当だ。膝をつくのを忘れた」
「まあ」
リエルは、声を上げて笑った。
「それは、とても驚いてくださったのですわね」
銀の環が、額で小さく揺れた。
私は、リエルの顔を見た。
市場で会うときと、何も変わらない顔だった。見えない目を細めて、楽しそうに笑っている。さっき石段を降りてきた人形のような顔が、嘘のようだった。
「君は、何者だ」
訊いてみた。
リエルは、笑うのをやめた。
少しだけ首を傾げて、考えるような顔をした。
「わたくしは、わたくしですわ」
「答えになっていない」
「なっておりますわ。カリンが知っているわたくしが、わたくしのすべてですもの」
リエルは、私の腕に頬を寄せた。
「それ以外のわたくしのことは、知らなくてよろしいの。……知らないでいてくださると、嬉しいですわ」
その声が、ほんの少しだけ、細くなった。
私は、それ以上訊かなかった。
訊かないでいてほしいと言われたことを、無理に訊くのは好きではなかった。
街道の旅は、ゆっくりと進んだ。
馬車の中で、リエルはよく喋った。
王都を出たのは、生まれて二度目だという。一度目は、幼い頃に近くの町の教会へ行ったきりで、ほとんど覚えていない。
だから、何もかもが新しいのだと言った。
窓から入ってくる風の匂い。畑の土の匂い。馬の蹄の音。遠くで鳴く鳥の声。リエルはそれらを一つ一つ拾い上げては、私に訊いた。
「今の鳥は、何という鳥ですの?」
「分からない。私の国にはいない鳥だ」
「では、どんな姿をしておりますの?」
私は窓の外を見た。
電線のない空を、茶色い小さな鳥が横切っていく。
「茶色くて、小さい。尾が長い。雀に似ている」
「スズメ」
「私の国の鳥だ。どこにでもいて、うるさい」
「まあ。うるさい鳥ですのね」
リエルは嬉しそうに笑った。
「では、あの鳥のことは、スズメと呼ぶことにいたしますわ」
そういうやり取りを、何度も繰り返した。
私が目になり、リエルが耳になる。二人で一つの景色を組み立てていく。窓の外を流れていく麦畑も、遠くの丘も、世界樹の影も、リエルの中では私の言葉でできていた。
それが、少しだけ面映ゆかった。
朝、馬車が動き出す前に、リエルは必ず両手を胸の前で重ねた。掌のあいだに小さな空洞を残す、雛鳥を包むような形だった。唇が動くけれど、声は出ない。それが終わるまで、私は話しかけないことにしていた。
三日目の昼、街道が二股に分かれるところで、馬車が少しだけ速度を落とした。
分かれ道の真ん中に、膝ほどの高さの石の柱が立っていた。柱の頭に、色とりどりの紐が何十本も結びつけてある。新しいものは鮮やかで、古いものは雨に晒されて灰色に褪せ、ほどけかけていた。
窓の外をそのまま言葉にすると、リエルはすぐに分かった顔をした。
「契礎の女神様の礎石ですわ。旅に出る方は、あそこに紐を結んでいきますの。帰りに同じ道を通ったら、自分の紐をほどいて持ち帰る。必ず戻るという誓いの印ですわ」
私は、褪せた紐を見た。
ほどかれないまま灰色になった紐が、たくさんあった。
「ほどかれていない紐は」
「……戻らなかった方のものですわ」
リエルは、それを悲しい話としては言わなかった。明日の天気の話をするような声だった。
「カリンも、結んでいかれます? 付き人に言えば、紐をくれますわ」
「いい」
答えが、思ったより早く出た。
「紐ひとつ結ばずに出ていく奴もいる」
言ってから、窓枠を握っていた指が冷えていることに気づいた。
彼は、何ひとつ結ばずにいなくなった。行ってくるとも、帰るとも言わなかった。だから、ほどきに戻ってくる道もない。
「……どなたのことですの?」
「知り合いだ」
馬車が速度を戻した。石の柱と色褪せた紐は、窓の後ろへ流れていった。
◇
旅に出て五日目の夕方、馬車の中で、リエルが首元を押さえた。
黒いチョーカーに、指をかけていた。
引っ張るように。あるいは、緩めようとするように。
その指が、細かく震えていた。
「リエル」
声をかけると、リエルははっとしたように手を離した。
「……なんでもありませんわ」
「苦しいのか」
「少しだけ、きついだけですの」
リエルは、いつもの笑顔を作った。
作った、と分かった。口の端が、ほんのわずかに強張っていた。
「外せばいい」
「外してはいけませんの」
即答だった。
声から、弾むような響きが消えていた。
「これは、聖遺物ですの。わたくしたちの女神様とわたくしを繋ぐ証。わたくしが身につけていなければならないもの。外してはいけないと、ずっとそう教わってまいりましたの」
平らな声だった。
誰かの言葉を、そのまま読み上げているような声だった。
私は、リエルの首元を見た。
黒い革が、細い首にぴたりと巻きついている。留め金らしいものは、見当たらなかった。どうやって着けたのか。どうやって外すのか。
外すことを、最初から考えていない作りに見えた。
「……そうか」
私は、それだけ言った。
リエルは、少しだけ息を吐いた。
それから、窓の外に顔を向けた。
「カリン。今、窓の外には、何が見えますの?」
話を変えたいのだ、と分かった。
私は、窓の外を見た。
夕陽が、麦畑の向こうに沈みかけていた。
「日暮れだ」
「日暮れ」
「空が、橙色に焼けている。熟れた柿のような色だ」
「カキ?」
「私の国の果物だ。秋になると、橙色に熟れる。甘い」
「まあ。食べてみたいですわ」
リエルは、見えない目で窓の外の夕陽を見つめていた。
その横顔を見ながら、私はあの日の商店街の空を思い出していた。
同じ色だった。
◇
旅に出て九日目。
その日の昼は、街道沿いの小さな宿場町で休みを取っていた。
私は馬車を降りて、宿場の井戸で水を汲んでいた。フィンが、馬に水を飲ませている。神殿騎士たちは、馬車を囲んで周囲に目を光らせていた。
井戸の向こうの路地から、悲鳴が聞こえた。
甲高い声だった。
私は、桶を置き、路地を覗き込んだ。
幌をかけた荷馬車が一台、停まっていた。その荷台に、男が二人がかりで、誰かを押し込もうとしている。
小柄な少女だった。
赤い髪。褐色の肌。頭の上に、丸い獣の耳が二つ、ぴょこんと立っている。獣人だ。
少女は手足を振り回して暴れていた。男の一人が、その腕を捻り上げる。少女が、また悲鳴を上げた。
「離すっす! 離せっす、この野郎っす!」
奇妙な言葉遣いだった。
男の一人が、少女の口を手で塞いだ。もう一人が、荷台の幌を捲る。
幌の中に、人影がいくつも見えた。
皆、手足を縄で縛られていた。子供もいた。獣人もいた。ヒューマンもいた。誰も声を上げていない。上げる気力も残っていないような顔だった。
私は、剣の柄に手をかけた。
「待て」
背後から、声がした。
神殿騎士の隊長だった。いつの間にか、私の後ろに立っていた。
「任務外だ。関わるな」
「人が攫われている」
「分かっている。だが、我らの務めはあの御方をお守りすることだ。余計な騒ぎを起こして、あの御方を危険に晒すわけにはいかん」
「すぐに済む」
「そういう問題ではない」
隊長の声は、低く、硬かった。
私は、振り返った。
隊長の目を、まっすぐに見た。
隊長も、私を見返した。
その目に、迷いはなかった。本気で、見過ごすべきだと思っている目だった。
私は、剣の柄から手を離さなかった。
「――カリン」
馬車のほうから、声がした。
リエルだった。
馬車の窓から、白い顔を覗かせていた。
見えない目が、路地のほうを向いていた。聞こえていたのだろう。少女の悲鳴も、隊長の言葉も、全部。
「行ってくださいまし」
静かな声だった。
「わたくしの騎士に、見過ごせと命じる者はおりませんわ」
隊長の顔が、強張った。
「し、しかし」
「隊長。わたくしの言葉が、聞こえませんでしたの?」
リエルの声は、あくまで静かだった。
静かで、そして、ひどく冷たかった。
市場で笑っているリエルからは、想像もつかない声だった。
隊長は、唇を噛んだ。
それから、深く頭を下げた。
「……御意に」
私は、もう振り返らなかった。
路地へ、駆け込んだ。
◇
男たちは、私に気づくのが遅れた。
足音がしないからだ。
少女を押さえつけていた男の背後に回り、剣の柄頭で後頭部を打った。男が崩れる。少女の口から、男の手が離れた。
「なっ――」
もう一人が振り返った。
腰の剣に手をかける。遅い。抜く前に、その手首を柄頭で打った。剣が地面に落ちる。男の膝の裏を払う。男は、荷馬車の車輪に頭をぶつけて動かなくなった。
「フィン!」
「はい!」
いつの間にか、フィンが路地の入り口に来ていた。弓を構えている。
荷馬車の御者台から、三人目の男が飛び降りてきた。
大柄な男だった。右の前腕に、籠手を嵌めている。
その籠手を見て、私の目が止まった。
磨かれた金属。細かな模様。
そして、手首の近くに、何かの紋章を削り取ったような傷。
あの日、村を焼いた男の籠手と、同じ傷だった。
男が、籠手を嵌めた腕を持ち上げた。
光の粒が、籠手の模様に集まり始める。
私は、男の身体を見なかった。
籠手だけを見た。
光が集まる。渦を巻く。
縮む――直前。
私は、踏み込んだ。
火の玉が放たれるより早く、男の懐に飛び込んだ。籠手を嵌めた腕の、肘の内側を剣の柄で打つ。腕が跳ね上がる。集まりかけていた光の粒が、空へ向かって弾けた。
小さな火の玉が、幌の上を掠めて空へ消えた。
男の顔が、驚愕に歪んだ。
返す剣で、男の顎を打ち上げた。
男は、仰向けに倒れた。
起き上がらなかった。
路地が、静かになった。
荷台の幌の中から、縛られた人々が、怯えた目でこちらを見ていた。
私は、剣を鞘に収めた。
あの日から、三年近く経っている。
光の粒を読むことは、もう身体に染みついていた。
それでも、あの籠手を見た瞬間、痕などとうに消えた左の肩が、疼いた気がした。
私は、倒れた男の籠手を見下ろした。
紋章を削り取った跡。
同じ職人の手によるものか。同じ誰かから流れてきたものか。
分からなかった。
分からないが、偶然とは思えなかった。
外套の懐に入れたあの石が、少しだけ重くなった気がした。
「あ、あの!」
声がした。
赤い髪の獣人の少女が、地面に座り込んだまま、私を見上げていた。
赤い瞳が、真ん丸に見開かれている。丸い耳が、ぴんと立っていた。
「た、助かったっす! ありがとうございますっす!」
少女は、勢いよく頭を下げた。
下げすぎて、額が地面に当たった。ごん、と鈍い音がした。
「……痛いっす」
少女は額を押さえて、涙目で顔を上げた。
それから、へにゃりと笑った。
助けられたばかりとは思えない、底抜けに明るい笑顔だった。
「自分、モモっていうっす! お姉さん、めちゃくちゃ強いっすね! 何者っすか!」
「騎士だ」
「騎士! かっけえっす!」
モモと名乗った少女は、両手を握りしめて目を輝かせた。
近づくと、たぶん腕を組んでくる手合いだ、と私は思った。
分類が、また一つ明快になった。
◇
攫われていた人々は、宿場町の役人に引き渡した。
男たちも、縄で縛って役人に預けた。役人は、面倒ごとを押しつけられたという顔をしていた。
籠手は、私が預かった。
役人に渡せば、どこかへ消える気がしたからだ。
モモは、荷台の人々とは違った。
攫われたのではなく、自分から荷馬車を追いかけてきたのだという。
「妹を、探してるっす」
宿場町の外れの、野営の焚き火の前だった。
リエルが、どうしてもモモの話を聞きたいと言った。司祭たちは渋い顔をしたが、やはり逆らえなかった。モモは、今夜だけ一行の野営地に泊まることになった。
薪に火を入れる前に、モモが腰の袋から小さな素焼きの人形を出した。親指ほどの、煤で黒ずんだ女神だった。モモはそれを石組みの縁に座らせ、膝に塩をひとつまみ載せた。
「旅の火にも、イグナル様はいるっす」
レーンベルの村長とも王都の食堂の親父とも、同じ手つきだった。
「妹が、市で欲しがったやつっす。自分は安物だって言ったんすけど」
モモはそれだけ言って、人形の煤を親指で拭った。
フィンが火を点けた。塩が、ぱちりと小さく爆ぜた。
焚き火を囲んで、私とフィンとリエルとモモが座っていた。神殿騎士たちは、少し離れた場所で見張りをしている。
「妹、といっても、血は繋がってないっす。自分が拾ったっす。ちっちゃい頃、道端で泣いてたのを」
モモは、焚き火を見つめながら言った。
耳が、少しだけ垂れていた。
「ずっと一緒だったっす。二人で、町から町へ、行商の手伝いとかして暮らしてたっす。それが、ひと月前に」
モモの声が、少しだけ詰まった。
「攫われたっす。自分が仕事で目を離した隙に。人攫いの荷馬車に」
焚き火が、ぱちりと爆ぜた。
「それからずっと、荷馬車を追いかけてたっす。いろんな町で、いろんな荷馬車を見たっす。でも、どれも妹は乗ってなかったっす。今日の荷馬車も、違ったっす」
「どこへ運ばれたか、心当たりはあるのか」
私が訊くと、モモは顔を上げた。
赤い瞳が、焚き火の明かりを映していた。
「西っす」
「西」
「人攫いの荷馬車は、みんな西へ行くっす。西の都、シルフェリオへ」
フィンが、息を呑んだ。
私は、リエルを見た。
リエルは、何も言わなかった。見えない目を、焚き火に向けたままだった。
「シルフェリオは、きれいな街っす」
モモは、膝を抱えた。
「白い壁の家がいっぱいあって、港には大きな船がいっぱい停まってて。エルフの貴族様がいっぱい住んでて、みんな上品で、優しそうで」
そこで、言葉を切った。
「でも、裏じゃ、人が売り買いされてるっす」
焚き火の音だけが、しばらく響いていた。
「港の倉庫に、夜になると荷馬車が入っていくっす。攫われた人たちが、そこから船に乗せられるっす。船は北へ行くっす。フェリシアへ」
「フェリシア」
フィンが、掠れた声で繰り返した。
殿下の執務室でも聞いた名前だった。人族と魔族が入り混じって暮らす国だと、講義では教わった。
「フェリシアは、魔族の国っす」
モモは、言った。
「正確には、魔族に飼われてる人たちの国っす。人族がいっぱい住んでるけど、みんな魔族の餌っす。血を吸われるために、生かされてるっす」
フィンの顔から、血の気が引いた。
私は、何も言えなかった。
講義で聞いた魔族は、限りなく私たち人に近い種だという。ただしエルフたちよりも結晶術に長け、人の血を好む。
なるほど餌か。
その言葉が、焚き火の熱と一緒に、胸の奥に沈んでいった。
「売られた人たちは、フェリシアで、もっと上等な餌として売り直されるっす。獣人は安いけど、ヒューマンの若い女の子は高いって聞いたっす。……妹は、ヒューマンっす」
モモの声が、震えた。
耳が、ぺたりと頭に張りついていた。
「だから、急がないと、いけないっす」
私は、焚き火を見つめていた。
手のひらが、熱かった。
知らず知らずのうちに、拳を握りしめていた。
あの日、村が焼けた。
盗賊が、村の者を殺した。荷を奪い、家を焼いた。それは、許しがたいことだった。けれど、盗賊は盗賊だ。道を外れた者たちが、道を外れたことをした。そういうものだと、どこかで思っていた。
これは、違う。
人を攫い、売り、餌にする。
それが、一つの仕組みとして回っている。きれいな街の裏側で。上品な貴族たちの足もとで。
誰もが知っていて、誰もが見ないふりをしている。
さっきの隊長のように。
私は、拳を開いた。
爪の跡が、手のひらに四つ、赤く残っていた。
「……聞いていたとおりなのですね」
リエルが、ぽつりと言った。
全員が、リエルを見た。
リエルは、焚き火に顔を向けたまま、静かに言った。
「西の都のことも、フェリシアのことも。わたくしは、以前から聞いておりましたわ」
平らな声だった。
市場で笑っているリエルの声ではなかった。石段を降りてきた人形の声とも、少し違った。
もっと冷たくて、もっと遠い声だった。
「この国は、そういう国ですもの」
焚き火が、揺れた。
リエルの白い顔に、橙色の影が落ちた。
「表は、とてもきれい。木漏れ日の国、ですものね。でも、木漏れ日の下には、必ず影がございますわ。光が強ければ強いほど、影も濃くなる」
リエルは、見えない目を細めた。
笑っているようにも、泣いているようにも見えた。
「わたくしは、目が見えませんから。光も影も、同じように見えますの」
誰も、何も言わなかった。
モモが、ぽかんと口を開けてリエルを見ていた。フィンは、唇を噛んで俯いていた。
私は、リエルの横顔を見ていた。
世界は、カリンが思っているほど優しくない。
いつかの帰り際に、リエルがそう言ったのを思い出した。
リエルは、ずっと前から知っていたのだ。
この国の、影のことを。
やがて、リエルがふっと息を吐いた。
それから、ぱっと顔を上げた。
「モモ、でしたわね」
「は、はいっす!」
「あなた、わたくしたちと一緒に、西の都までいらっしゃいな」
モモが、目を丸くした。
「え、いいんすか!?」
「よろしいですわ。わたくしの騎士たちは、とても強いですもの。一人で荷馬車を追いかけるより、ずっと早く妹さんに会えますわ」
リエルは、いつもの笑顔に戻っていた。
見えない目を細めて、楽しそうに。
モモは、しばらく呆然とリエルを見ていた。
それから、また勢いよく頭を下げた。
また、額が地面に当たった。
「……痛いっす」
焚き火を囲んで、小さな笑い声が起きた。
フィンが笑い、リエルが笑った。モモも、額を押さえながら笑った。
私も、少しだけ笑った。
手のひらの爪の跡は、まだ消えていなかった。
◇
それからの道中、モモは一行の賑やかし役になった。
とにかく、よく喋った。静かにしているということを知らなかった。朝起きてから夜寝るまで、何かしら喋っていた。神殿騎士たちは眉をひそめたが、リエルは嬉しそうだった。
モモは、フィンのことを「フィンの兄貴」と呼んだ。
フィンは、兄貴と呼ばれるたびに耳を赤くした。
リエルのことは「リエルの姉御」と呼んだ。司祭が青ざめて止めようとしたが、リエルが面白がって許した。
私のことは、「カリンの姐さん」と呼んだ。
「姐さん、姐さん! 今日のごはん、なんすか!」
野営のたびに、モモは私の周りをうろうろした。
モモは、私の料理を一口食べるなり、尻尾があれば千切れんばかりに振っていただろうという顔をした。実際、尻尾は生えていなかったが、丸い耳がぴこぴこと忙しなく動いていた。
「姐さん、これ、めちゃくちゃうまいっす! 自分、こんなうまいもん初めて食ったっす!」
「そうか」
「姐さん、嫁に来てほしいっす!」
「断る」
「即答っす!」
モモは、けらけらと笑った。
隣で、リエルが頬を膨らませていた。
「カリンに求婚してよいのは、わたくしだけですわ」
「リエルの姉御も、姐さんに求婚したことあるんすか!」
「ございませんわ」
「じゃあ、自分と同じっす!」
「違いますわ」
二人が言い合う横で、フィンが黙って椀を啜っていた。
耳が、赤かった。
なぜ赤いのかは、分からなかった。
◇
ある夜、馬車の中で、リエルが言った。
モモは焚き火の傍で、フィンの肩にもたれて眠っていた。フィンは身動きが取れずに固まっていた。
「カリン。前に、待っていた方がいらしたと、おっしゃいましたわね」
いつだったか、市場で少しだけ話したことがあった。詳しくは言わなかった。
「どんな方でしたの?」
私は、少し考えた。
「へらへらした男だった」
「まあ」
「口が上手くて、嘘が上手くて、裁縫ができないふりをする。料理を作ってやると、黙って食べて、最後に負けたと言う」
「負けた、ですの?」
「私の料理に負けた、と」
リエルは、くすくすと笑った。
「あら、そんな態度でカリンを待たせるなんて罪なお方ですわ。お名前は?」
「斂」
口に出すのは、久しぶりだった。
この世界に来てから、一度も声に出していなかったかもしれない。
「レン」
リエルは、大事なものを確かめるように繰り返した。
「覚えておきますわ。カリンの、大切な方のお名前」
馬車の外で、焚き火が小さく爆ぜた。
気がつくと、指の背が唇に触れていた。さっき口にした名前の形を、なぞるように。
私は、その手を膝の上に戻した。
話を変えたくなった。
「君は」
「わたくし?」
「君は、やりたい事はあるのか」
口に出してから、気づいた。
あの日、階段の下で老人に訊かれたのと、同じ問いだった。
リエルは、少しも迷わなかった。
「海の音を、聞きたいですわ。それから、カキというものを食べてみたいですわ。それから、スズメの声を、もう一度聞きたいですわ」
指を折りながら、楽しそうに並べていく。
「それから、カリンと、もっとたくさんお喋りしたいですわ」
小さなことばかりだった。
けれど、どれも迷いがなかった。
「カリンは?」
リエルが、首を傾げた。
「カリンは、やりたい事がございますの?」
私は、答えなかった。
答えられなかった。
あの日と、同じだった。
「……明日の朝飯の支度だ」
真顔で言った。
リエルは、一瞬黙った。
それから、ふわりと笑った。
「ずるい答えですわ」
「ずるいか」
「ずるいですわ。でも、今日はそれで許してさしあげます」
リエルは、私の肩に頭を預けた。
すぐに、小さな寝息が聞こえ始めた。
私は、馬車の天井を見上げていた。
やりたい事。
リエルは、あんなに簡単に答えた。見えない目で、聞いたこともない海の音を、食べたこともない柿を、望んでいた。
私には、まだ何もなかった。
◇
王都を出て、二十日目。
丘の上から、海が見えた。
見渡すかぎりの、青だった。
空の青とは違う、もっと深い、もっと重い青。陽の光を受けて、水面が無数の鱗のようにきらめいている。水平線が、空と海を一本の線で分けていた。
その海に向かって、白い街が広がっていた。
白い壁の家々が、丘の斜面を埋め尽くしている。屋根は青や緑に塗られ、ところどころに尖塔が立っている。街の中心には、白い石の宮殿がそびえていた。港には、大小の船が何十隻も停泊している。帆柱が、林のように並んでいた。
シルフェリオ。
西の都。
モモの言ったとおりの、きれいな街だった。
きれいすぎるほどに。
丘を下りる前に、馬車が一度停まった。
リエルが、降りたいと言ったのだ。
私はリエルの手を引いて、丘の縁まで歩いた。
風が、強かった。
潮の匂いがした。村にも王都にもなかった匂いだ。塩と、藻と、濡れた岩の匂い。遠くから、波の音が微かに届いてくる。
リエルが、足を止めた。
見えない目を、海のほうへ向けた。
「……これが、海の匂いですの?」
「そうだ」
「この音が、波の音」
「そうだ」
リエルは、しばらく黙っていた。
風が、リエルの編み込んだ髪をほどきかけていた。白い衣の裾が、はためいている。
「カリン」
「なんだ」
「海は、どんな色をしておりますの?」
私は、海を見た。
それから、少し考えた。
青だ、と言うのは簡単だった。けれど、リエルは青を知らない。空の色も、海の色も、見たことがない。
「冷たい水を、両手ですくったときの感じに似ている」
私は、言った。
「指の間から零れていくのに、手のひらにはずっと冷たさが残っている。そういう色だ」
リエルは、両手を持ち上げた。
何かをすくうように、手のひらを上に向けた。
風が、その指の間を通り抜けていった。
「……分かりますわ」
リエルは、呟いた。
見えない目から、一筋、涙が零れていた。
「とても、きれいな色ですのね」
私は、何も言わなかった。
ただ、リエルの隣に立って、海を見ていた。
きれいな海だった。
その海の上を、港から出ていく船が一隻、北へ向かって進んでいた。
帆の白さが、ひどく目に焼きついた。
(第五章 了)




