第四章 木漏れ日の都
王都の騎士団は、身分を問わず門を開いている。
身分を問わない代わりに、腕だけは容赦なく問われる。
「板切れを履いて試験を受けに来た者は、初めてだ」
試験官の騎士は、私の足もとを見下ろして言った。
練兵場の土の上に、私とフィンを含めて三十人ほどが並んでいた。大半は革鎧か、それらしい古着を着ている。腰には剣。背には槍。村で見た盗賊たちより、ずっと手入れの行き届いた得物だった。
私は、麻の上着に袴、背中に木刀、足には下駄だった。
「履き慣れている」
「そういう問題ではない」
試験官は溜息をついた。
列の後ろで、誰かがくすくすと笑った。
試験は二つ。結晶術と、手合わせ。
結晶術は、的に向かって術を放つだけだった。的までの距離と、当たった術の強さを見る。
フィンの番が来ると、練兵場が少し静かになった。
光の粒が、フィンの指先に吸い寄せられていく。村で初めて見たときより、ずっと速く、ずっと多い。旅の間の稽古で、左の眉の癖も直っていた。
放たれた火は、的の真ん中を撃ち抜いた。
的の後ろの土塁まで、黒く焦げていた。
試験官の眉が、わずかに上がった。
私の番が来た。
片手をかざした。
待った。
何も起こらなかった。
列の後ろの笑い声が、さっきより大きくなった。
試験官は帳面に何かを書きつけ、次、と言った。表情は変わらなかった。変わらないことが、かえって分かりやすかった。
手合わせは、試験官の一人と木剣で打ち合う。
相手は、髭を生やした大柄な騎士だった。
構えを見て、分かった。強い。村の盗賊とは比べものにならない。重心が低く、足の運びに無駄がない。何年も、ひょっとしたら何十年も、剣を振ってきた者の構えだ。
けれど、読めないほどではなかった。
騎士が踏み込んできた。
上段からの振り下ろし。速い。重い。まともに受ければ、木刀ごと腕が折れる。
だから、受けない。
半歩ずれる。木剣が私の肩の横を通り過ぎる。騎士の身体が、わずかに前へ流れる。その流れに逆らわず、木刀の先を騎士の手首に添えた。
押さない。ただ、添えるだけ。
騎士の木剣が、自分の勢いで地面を打った。
次の瞬間、私の木刀の先は、騎士の喉元で止まっていた。
練兵場が、静まり返った。
騎士は、喉元の木刀を見下ろしていた。それから、私の顔を見た。何が起きたのか分からない、という顔だった。
「……もう一本」
もう一本やった。
結果は、同じだった。
三本目で、騎士は木剣を下ろした。
「合格だ」
髭の奥で、騎士は低く言った。
「結晶術はからきしだが、それを補って余りある。……いや」
騎士は、私の下駄を見た。
「その板切れで、よくやる」
列の後ろから、もう笑い声は聞こえなかった。
落葉歴九百八十三年、秋の終わり。
私とフィンは、ルンシア王都騎士団の見習いになった。
騎士の誓いは主神の前で立てるものだという。合格した者は、その日の夕方のうちに大聖堂へ連れていかれた。
王城の隣にそびえる白い建物は、中に入ると思ったより暗かった。高い窓から斜めに落ちる光の柱の中を、香の煙がゆっくりと昇っていく。甘くて少し苦い匂いだった。床の石は冷たく、下駄の歯が鳴りそうになるのを、私は爪先に重心を寄せて殺した。
祭壇の奥に、像が立っていた。
背丈の倍はある石の男だった。両足を揃えて直立し、二本の長い槍を左右に一本ずつ、杖のように床へ突き立てている。顔の彫りは浅く、表情らしいものがない。剣も盾も持っていない。神というより、門の前で夜通し動かない番兵のようだった。
石の肩には、外套だけが布で着せかけてあった。
その色に、目が止まった。
緑ではない。茶でもない。黄土に灰を混ぜて、長いあいだ陽と雨に晒したような色だった。胸のあたりに小さな四角い跡がいくつか並んでいる。何かを縫いつけて、あとから外したような跡だった。
「主神、レガトス・クストディア」
白髪の司祭が、節をつけて語り始めた。
「はじめに世界樹があった。樹はいまだ若く、その揺れは収まらなかった。枝は大地をえぐり、落ちる果実は地を割った。そのとき異界より一人の御方が降り立ち、二本の槍をもって樹の揺れを鎮められた。以来、御方はこの世の果てに立ち、黙して樹を見守っておられる」
何百回も繰り返されてきた言葉なのだろう。司祭の息継ぎには少しの迷いもなかった。
「あの外套の色、名前がないんです」
隣でフィンが囁いた。
「村の教会の絵も、あの色で塗ってあって。村長は、主神様の色だって言ってました。ほかに呼びようがないから」
私は、もう一度外套を見上げた。
どこかで見た色だった。
もっと低い天井の下で。畳の匂いと、線香の細い煙と。長押の上に並んだ額縁の、いちばん端の黄ばんだ写真の中の――
「クルシマ・カリン」
名を呼ばれて、膝をついた。
冷たい石が袴越しに膝へ沁みた。右手を胸に当て、司祭の文句をなぞって誓いを口にした。主神の名のもとに、王国と民を守る。言葉の意味は分かった。けれど言葉の向こうに誰かが立っているという手応えは、最後までなかった。
立ち上がったとき、さっき何を思い出しかけていたのかは、もう思い出せなかった。
香の煙だけが、光の柱の中を昇り続けていた。
◇
見習いの暮らしは、厳しかった。
夜明け前に起きて、練兵場を十周走る。朝飯のあとは剣の稽古。昼からは結晶術の講義と、座学。夕方からは武具の手入れと、兵舎の掃除。夜は、泥のように眠る。
結晶術の講義は、地獄だった。
晶素の性質。集める力と結ぶ力と放つ力の関係。詠唱の構造。結晶陣の描き方。結晶化の仕組みと、その危険性。
講師の老騎士が黒板に書く図と数式を、私は一日目で理解することを諦めた。
私は理系科目が苦手だ。
隣の席で、フィンが熱心に帳面を取っていた。講義のあと、フィンは私のためにそれを噛み砕いて説明してくれた。
「集めた晶素は、放たないと身体に溜まるんです。溜まりすぎると、そこから結晶になっていく。髪とか、爪とか、心臓から遠いところから」
「だから、放つ力が大事だと」
「そうです。いっぱい集められる人ほど、いっぱい放てないと危ない」
「私は集められないから、関係ないな」
「……そうなんですけど、そういうことじゃなくて」
フィンは困った顔をした。
私は、腰のランタンを見た。
講義で聞いた話が本当なら、このランタンは自分で晶素を集め、自分で光に変えている。私はただ、持っているだけだ。
それなのに、私が持つと強く光る。
そのことを講師に訊いてみようかと思ったことが、一度だけある。けれど、やめた。講師の説明を理解できる自信がなかった。
◇
年が明けて、冬が深まった頃だった。
兵舎の近くに、見習いたちがよく通う食堂があった。安くて量が多い。それだけが取り柄の店だ。味については、私は何度か口を閉ざした。
厨房の炉の縁には、どの家とも同じように、親指ほどの素焼きの女神が座っていた。火種の女神イグナル。太った親父は朝いちばんに、その膝へ塩をひとつまみ載せてから火を入れる。レーンベルの村長と同じ手つきだった。塩の扱いだけは、この店のどの料理よりも丁寧だった。
その日、壁の品書きに、見慣れない名前が加わっていた。
カツ。
その二文字を見て、私は、しばらく動けなかった。
「カリンさん?」
フィンが、怪訝そうに私の顔を覗き込んだ。
私は、黙って品書きを指差した。
「あれを、頼む」
運ばれてきた皿を見て、息が止まった。
狐色の衣。
厚切りの豚肉。
端から滲み出る脂。
添えられた、刻んだ葉野菜。
衣の粒は、私の知っているものより粗かった。肉は少し厚すぎる。脇に添えられたのは、ソースではなく、果物を煮詰めたような甘酸っぱいたれだった。葉野菜はキャベツではなく、もっと苦みの強い何かだった。
それでも。
これは、トンカツだった。
箸はない。肉用の小刀で一切れを切り、口に運んだ。
衣が、さくりと鳴った。
豚の脂が、舌の上に溶けた。
揚げ油の匂いが、鼻の奥に抜けた。
夕方の商店街の、肉屋の店先の匂いだった。
気がつくと、小刀を握った手が止まっていた。
フィンが、何か言っていた。聞こえなかった。
「親父さん」
厨房の前まで行って、声をかけた。
太った料理人が、面倒くさそうに顔を上げた。
「なんだ。口に合わなかったか」
「これは、どこで覚えた」
「どこでって」
料理人は、首を傾げた。
「王都じゃ、昔からある料理だよ。うちの店は、最近になって出し始めたけどな。貴族様の屋敷じゃ、ずっと前から食われてたらしい」
「昔から。いつから」
「さあな。俺の爺さんの頃にはもうあったって聞くぜ。なんでも、昔お城にいた勇者様が広めたんだとさ」
勇者。
その言葉が、耳に引っかかった。
「その勇者は、いつの」
「九十年くらい前じゃねえか。俺も詳しかねえよ。そのあと国を出てって、行方知れずになったって話だ。……おい、嬢ちゃん、大丈夫か。顔色が悪いぞ」
九十年。
九十年前。
私は、その数字を頭の中で何度も繰り返した。
誰かが、この世界に、トンカツを持ち込んだ。
衣をつけて、油で揚げて、豚の肉を。
そんなことを思いつく人間が、この世界に自然に生まれるとは思えなかった。あれは、日本の料理だ。日本から来た誰かが、ここで作ったのだ。
私より先に、日本人が、ここへ来ている。
胸の奥で、何かが跳ねた。
けれど、すぐに冷えた。
九十年前だ。
彼が消えたのは、三年前だ。
九十年前にこの世界に来た誰かが、三年前に消えた彼であるはずがない。仮にそうだとしても、彼は今頃、百歳を超えた老人になっているか、とうに土の下にいる。
計算が合わない。
合わないものは、合わない。
私は、料理人に礼を言って、席に戻った。
残りのトンカツを、黙って食べた。
冷めかけた衣は、少し湿っていた。
それでも、最後の一切れまで、残さなかった。
「……カリンさん」
フィンが、そっと言った。
「大丈夫、ですか」
「大丈夫だ」
私は、皿を置いた。
「故郷の料理に、似ていた。それだけだ」
嘘ではなかった。
けれど、全部でもなかった。
期待するなら、確かめてからにしろ。祖父の口癖が、頭の中で繰り返された。
確かめようがなかった。
だから、期待しないことにした。
◇
春が来た。
王都の春は、村の春とは違った。
世界樹の枝葉が、冬の間に落とした古い葉の代わりに、新しい葉を広げ始める。木漏れ日の色が、白から淡い緑に変わる。街の石畳の上で、光の模様がやわらかく揺れる。
休みの日、私は市場を歩いていた。
王都の市場は、村の何百倍も広かった。野菜、果物、肉、魚、香辛料、布、陶器、武具、晶具。見たこともない食材が、山のように積まれている。私は一軒一軒の店を覗き、見たことのないものを見つけるたびに手に取って、匂いを嗅いだ。
香辛料の店の前で、ふと、足が止まった。
人混みの中に、ひとりだけ、動きの違う者がいた。
小さな女の子だった。
十二か十三くらいだろうか。白に近い金色の髪を肩で切り揃え、白い簡素な衣を着ている。耳の先が、少し尖っていた。エルフだ。
その子は、人混みの中で、立ち止まっていた。
両手を、前に少しだけ伸ばしている。
顔は上を向いていた。けれど、何も見ていなかった。白に近い青の瞳が、どこにも焦点を結んでいない。
目が、見えないのだ。
行き交う人々が、その子の肩にぶつかっていく。ぶつかるたびに、小さな身体がよろめく。誰も立ち止まらない。誰も気にしない。
私は、人混みを抜けて、その子の前に立った。
「迷ったのか」
声をかけると、その子はびくりと肩を震わせた。
それから、声のしたほうへ顔を向けた。
「……どなたですの?」
澄んだ声だった。鈴を転がしたような、という言い方があるが、それよりもう少し芯のある声だった。
「通りすがりだ。一人か」
「ええ、一人ですわ。……少し、抜け出してきましたの」
その子は、悪戯を見つかった子供のように、首をすくめた。
「帰り道が、分からなくなってしまって。いつもは、付き人がいるのですけれど」
「どこへ帰る」
「中央の、教会ですわ」
教会。
王都の北、王城の隣にそびえる白い大聖堂のことだろう。遠くからでも見える、尖塔の多い建物だ。
「案内しよう。手を」
私が手を差し出すと、その子は少し迷うように首を傾げた。
それから、私の手を探り当てて、握った。
小さな手だった。冷たくて、骨が細い。
「不思議ですわ」
その子が、呟いた。
「あなた、足音がしませんのね」
「癖だ」
「それなのに、そこにいらっしゃるのが分かりますの。とても、はっきりと」
その子は、私の手を握ったまま、顔を上に向けた。
見えない目が、まっすぐに私の顔のあたりを捉えていた。
「お名前を、伺ってもよろしいかしら」
「佳凛だ」
「カリン。……素敵なお名前ですわ」
その子は、ふわりと笑った。
「わたくしは、リエルと申しますの」
教会までの道を、リエルの手を引いて歩いた。
リエルはよく喋った。市場の匂いのこと、鳥の声のこと、今日の風のこと。見えない代わりに、耳と鼻と肌で、世界のあらゆることを拾い上げているようだった。
途中で、焼き菓子の屋台の前を通った。
リエルの足が、ぴたりと止まった。
鼻が、ひくひくと動いている。
「……よい匂いですわ」
「食べたいのか」
「い、いいえ。わたくしは、教会の許しなく、外のものを口にしてはいけないことになっておりますの」
そう言いながら、リエルの鼻は屋台のほうを向いたままだった。
私は、屋台で焼き菓子を一つ買った。
蜂蜜を練り込んだ、素朴な焼き菓子だ。生地の焼き加減が少し甘い。もう少し高い温度で焼けば、表面がかりっとするだろう。
それを半分に割って、片方をリエルの手に握らせた。
「私が半分食べる。残りの半分は、私が食べ残したものだ。食べ残しを片付けるのは、外のものを口にするうちに入らない」
リエルは、手の中の焼き菓子を握りしめたまま、しばらく黙っていた。
それから、小さく吹き出した。
「……屁理屈ですわ」
「屁理屈だ」
真顔で答えると、リエルは声を上げて笑った。
そして、焼き菓子を、小さな口でひと齧りした。
見えない目を、細めた。
「……美味しい」
その声が、少しだけ震えていた。
教会の門の前で、黒い衣を着た男たちがリエルを待っていた。
付き人だろう。三人いた。どの顔も、青ざめていた。
「リエル様!」
一人が駆け寄ってきた。
その瞬間、リエルの顔から、表情が消えた。
さっきまで笑っていた口元が、すっと平らになった。見えない目から、光のようなものが引いていった。背筋がまっすぐに伸び、両手が身体の前で揃えられた。
人形のようだった。
「申し訳ございません」
リエルは、抑揚のない声で言った。
「勝手に外へ出ました。罰は、いかようにも」
「……お戻りください。司祭様がお待ちです」
「はい」
リエルは、それ以上何も言わなかった。
私の手を離し、付き人に手を引かれて、門の中へ入っていった。
振り返りもしなかった。
その首元で、黒い革のチョーカーが、木漏れ日を受けて鈍く光っていた。首にぴたりと巻きつく、幅の広い革の帯。日本の街なら、雑貨屋の棚に並んでいそうな品だ。けれどこの世界に来てから、ほかの誰の首にも、こういうものを見たことがなかった。教会の白い衣には、どこか似つかわしくなかった。
門が閉まった。
私は、しばらくその場に立っていた。
手の中に、リエルの手の冷たさが、まだ残っていた。
◇
七日後、同じ市場の同じ屋台の前で、リエルが待っていた。
「カリン!」
足音のしない私に、リエルは誰よりも早く気づいた。
白い衣の裾を翻して、私のほうへ駆けてくる。見えないのに、人混みの中を、驚くほど器用にすり抜けて。
そのまま、私の腕にしがみついた。
「また、抜け出してきましたの」
「怒られるぞ」
「怒られますわ。でも、七日に一度くらいなら、女神様もお許しくださいます」
リエルは、私の腕に頬を押しつけて、くすくすと笑った。
近づくとやたらに腕を組んでくる手合いだ、と私は思った。
分類は、明快だった。
それから、リエルとは七日に一度、市場で会うようになった。
私が何か食べ物を用意して、リエルがそれを「食べ残しの片付け」として食べる。その間、リエルはとりとめのないことを喋り、私はそれを聞く。それだけの時間だった。
何度目かに会ったとき、年を訊いた。
「十八ですわ」
私は、リエルの小さな頭を見下ろした。
背は、私の胸までしかない。手首は、私の指で回りきるほど細い。どう見ても、十二か十三の子供だった。
「……同い年か」
「あら、カリンも十八ですの?」
「そうだ」
「まあ。では、わたくしたち、お友達ですわね」
リエルは嬉しそうに、私の腕を揺すった。
お友達、という言葉を、私はしばらく口の中で転がした。
日本では、そういうものを持ったことがなかった。
悪くない響きだった。
何度目かのとき、兵舎の厨房を借りて卵を焼き、包んで持っていった。
砂糖が手に入ったので、薄く焼いた卵を何層にも巻いた。巻きながら、匙に二杯、砂糖を落とした。
リエルは一切れ口に入れて、頬を押さえた。
「甘いですわ。お菓子みたい」
私も一切れ食べた。
甘かった。私の好みより、ずっと。
私の卵焼きは、本当は出汁で巻く。甘い卵焼きを好んだのは、私ではなかった。匙を二杯傾けた手の動きを、私は覚えていなかった。
「カリンは、どなたにお料理を習いましたの?」
「家の料理人だ。食べさせたい相手がいたから、頼み込んで弟子にしてもらった」
「まあ。どなたに?」
「同門の男だ。……ある日姿を消してな。三年、返事のない戸の前に通った」
言ってから、口の中の甘さが急に重たくなった。
訊かれたのは、誰に、だけだった。
「……待っていらしたのね」
「待っていた」
それ以上は言わなかった。リエルも訊かなかった。
残りの卵焼きは、リエルが全部食べた。次に巻くときは塩をひとつまみ多くしよう、と私は思った。
◇
夏。
騎士団の中で、年に一度の御前試合が開かれた。
見習いから正騎士まで、希望する者が勝ち抜きで手合わせをする。勝ち残った者は、王族の目に留まる。王都中の騎士が、この日のために剣を磨く。
私は、四回勝った。
フィンは三回勝って、四回目で負けた。負けた試合でも、結晶術で相手の盾を弾き飛ばし、観覧席をどよめかせていた。
五回目の相手は、若い正騎士だった。
見事な鎧を着ていた。胸に、どこかの家の紋章が刻まれている。貴族の出だろう。構えも悪くない。王都に来てから見た中では、かなり腕の立つほうだった。
それでも、三合で終わった。
突きを流し、踏み込みを外し、喉元に木刀を止める。いつもと同じだった。
練兵場の観覧席が、ざわめいた。
正騎士は、しばらく喉元の木刀を見下ろしていた。
それから、顔を真っ赤にして叫んだ。
「卑怯だ!」
ざわめきが、止まった。
「こいつは、何かを隠し持っている! アーティファクトだ! 空間を歪める類のものに違いない! でなければ、俺の剣が、あんなふうに逸れるはずがない!」
正騎士は、私を指差した。
観覧席の騎士たちが、顔を見合わせた。
そういえば、と誰かが言った。あの見習いの剣は、確かに妙だ。予備動作がほとんどない。気がついたら、相手の剣が逸れている。結晶術も使えないのに、あんな真似ができるものか。
ざわめきが、疑いの色を帯びていく。
私は、木刀を下ろした。
「調べてもらって構わない」
私は、両手を広げた。
「持っているのは、この木刀と、腰のランタンだけだ。ランタンは、ただの灯りだ」
審判役の老騎士が、私の身体を検めた。袖を、懐を、袴の裾を。木刀を手に取って、隅々まで調べた。ランタンも、ひっくり返して底を覗いた。
何も出てこなかった。
正騎士は、それでも納得しなかった。
「ならば、その履物だ! そんな奇妙なもの、この国の者は誰も履かん!」
私は下駄を脱いで、老騎士に渡した。
老騎士は、下駄を裏返し、下駄の歯を叩き、鼻緒を引っ張った。それから、困ったように眉を寄せて、私に返した。
ただの、木の履物だった。
「もうよい」
観覧席の最上段から、声が降ってきた。
よく通る声だった。張り上げてもいないのに、練兵場の隅々まで響いた。
騎士たちが、一斉に膝をついた。
私は、声のしたほうを見上げた。
観覧席の最上段、天幕の下に、一人の青年が立っていた。
背が高い。細身だが、立ち姿に芯がある。黄金の髪を後ろへ流し、耳の先が尖っていた。エルフだ。緑の瞳が、練兵場を見下ろしている。身につけているのは、飾り気の少ない濃紺の軍装だった。けれど、その生地の質と仕立ての良さは、遠目にも分かった。
「殿下」
誰かが、小さく呟いた。
青年は、観覧席の階段をゆっくりと降りてきた。
練兵場の土の上に立つ。膝をついた騎士たちの間を抜けて、私と正騎士の前まで歩いてくる。
「我は、観覧席からすべて見ていた」
青年は、正騎士を見下ろした。
「その娘は、何も使ってはおらん。ただ、お前の剣を流しただけだ。お前の剣が逸れたのは、お前の踏み込みが深すぎたからだ。我の目には、そう見えた」
正騎士の顔から、血の気が引いた。
「し、しかし殿下」
「異論があるか」
「……いえ」
正騎士は、項垂れた。
観覧席の端から、フィンが駆け下りてきて、私の隣に立った。息を切らしている。心配して飛んできたのだろう。
青年は、それきり正騎士から興味を失ったように、私のほうを向いた。
そして、目を逸らした。
一瞬だけ、私の顔を見て、すぐに視線を横へずらした。私の肩のあたりか、背後の土塁のあたりを見ている。
「……名は」
私の肩のあたりに向かって、青年は言った。
「来島佳凛」
「クルシマ・カリン」
青年は、私の名を繰り返した。やはり、私の顔は見なかった。
「見慣れぬ剣だ。どこで学んだ」
「祖父の道場で」
「そうか」
それだけ言って、青年はくるりと背を向けた。
数歩行ってから、立ち止まった。
振り返らずに、言った。
「……そこの金髪。先ほど、相手の盾を結晶術で弾き飛ばした見習いだな」
フィンの背筋が、跳ねるように伸びた。
「は、はい!」
「娘の連れか」
「そうだ」
私が答えると、殿下はフィンの顔をしばらく眺めた。それから、ようやく歩き出した。
「二人とも、名は覚えておく」
青年は、そのまま観覧席へ戻っていった。
練兵場に、ざわめきが戻ってきた。
私は、下駄を履き直しながら、青年の背中を見送った。
近づくと固まる手合いか、と思った。
いや、少し違う。固まる前に、目を逸らす。新しい分類だった。
あとでフィンに聞いた。
あれは、ルンシアの王子殿下だという。エルデリック・アルセリア・ルンシア。近衛騎士団を束ね、王城の政務のほとんどを取り仕切る傑物で、剣も結晶術も一流。
ただ、女が苦手らしい、とフィンは付け加えた。
なるほど、と私は思った。
分類は、正しかった。
◇
秋が過ぎ、また冬が来て、年が明けた。
落葉歴九百八十五年。
私とフィンは、見習いから正騎士に上がった。
その頃から、フィンは夜になると、ときどき兵舎を抜け出すようになった。
どこへ行くのかと訊くと、稽古だという。
「王都の外れの空き地で、槍の稽古をしてる人がいるんです。たまたま通りがかったら、見てくれるって言ってくれて」
「騎士団の者か」
「違うと思います。旅の人みたいで。フードを被ってて、顔はあんまりよく見えないんですけど」
「名前は」
「教えてくれないんです。名乗るほどの者じゃない、って」
フィンは、少し困ったように笑った。
「変な人なんです。へらへらしてて、口が悪くて、すぐ人をからかう。でも、結晶術の見方がすごくて。僕が術を撃つと、どこが綻んでるか、全部言い当てるんです。晶素の結び方の、どこが甘いかとか」
「結晶術を使うのか、その男は」
「それが、使えないって言うんです。見るだけ。見るだけで、全部分かるって」
私は、少しだけ首を傾げた。
見るだけで、術が分かる。
私が光の粒の動きを見て術を避けるのと、似ているのかもしれない。
「それから」
フィンが、思い出したように言った。
「突く前に、肩が下がる癖があるって言われました」
私は、思わずフィンの顔を見た。
「カリンさんと、同じこと言うんです。その人」
「見る目のある男だな」
「はい。カリンさんみたいに」
フィンは、嬉しそうに笑った。
私は、スープを啜った。
少しだけ、塩気が足りなかった。
◇
同性に好かれるらしい、と気づいたのは、正騎士に上がった頃だった。
いや、気づいたのは私ではない。フィンだ。
「カリンさん、また届いてましたよ」
兵舎の食堂で、フィンが呆れた顔で、小さな包みを差し出した。
刺繍の入った手巾に包まれた、焼き菓子だった。添えられた紙片には、丸みを帯びた字で、何か書いてある。
差出人は、女騎士の一人だった。
騎士団には、女の騎士も少なからずいる。結晶術の才がある者は、男女を問わず取り立てられるからだ。そのうちの何人かが、最近、私に何かと物を寄越すようになった。手巾だったり、焼き菓子だったり、髪紐だったり。
「礼を言っておかないとな」
「……カリンさん、それ、どういう意味か分かってます?」
「好意だろう」
「そうですけど、そういうんじゃなくて」
フィンは何か言いかけて、諦めたように溜息をついた。
私は焼き菓子を一つ齧った。
生地が少し重い。卵をもう一つ足せば、軽くなる。
今度会ったら、そう教えてやろうと思った。
そう言うと、フィンは頭を抱えた。
次の休みの日、市場でリエルにその話をした。
リエルは、焼き菓子の欠片を齧りながら、頬を膨らませた。
「まあ。カリンは、わたくしのお友達ですのに」
「友達は、何人いてもいいだろう」
「よくありませんわ」
リエルは、私の腕に、いつもより強くしがみついた。
「カリンに焼き菓子を渡してよいのは、わたくしだけですわ。わたくしは、渡したことはございませんけれど」
「渡したことがないなら、誰でもいいだろう」
「屁理屈ですわ」
「君の真似だ」
リエルは、ぷいとそっぽを向いた。
それから、我慢しきれなくなったように吹き出した。
見えない目を細めて、笑っていた。
その日の帰り際、リエルがふと、足を止めた。
教会の門が、遠くに見えていた。
「カリン」
「なんだ」
「世界は、カリンが思っているほど、優しくありませんわ」
唐突な言葉だった。
リエルの声から、いつもの弾むような響きが消えていた。平らで、静かで、どこか遠いところから聞こえてくるような声だった。
私は、リエルの顔を見た。
リエルは、私のほうを向いていなかった。見えない目を、教会の尖塔のほうへ向けていた。
「……だから、カリンは、優しいままでいてくださいまし」
それだけ言うと、リエルはいつもの笑顔に戻った。
「また、七日後に」
ぱっと私の腕を離し、教会のほうへ駆けていく。
白い衣の裾が、木漏れ日の中で揺れていた。
首元の黒いチョーカーだけが、光を吸い込むように暗かった。
◇
冬至の夜に、王都で祭りがあった。
世界樹の葉が落ちる日を祝う、年に一度の祭りだという。冬至の朝、世界樹の梢から大きな葉が一枚だけ落ちて、空の上で砕け、光の粒になって国じゅうに降る。その光が、一年ぶんの晶素になるのだと、騎士団の講義で聞いた。王都中の通りに屋台が並び、夜になると無数の灯りが吊るされる。人々は、世界樹の葉を模した飾りを身につけて、夜更けまで踊り明かす。
朝に降った光の名残が、まだ石畳の隙間で、雪のように淡く光っていた。吐く息が白かった。
日が沈むと、大聖堂の鐘が鳴った。通りの人々が一度だけ足を止め、北の尖塔のほうへ額を下げた。樹の揺れを鎮めた主神に、今年も葉を落としていただいた礼を言うのだという。屋台の親父も、杯を持った男も、母親に手を引かれた子供も、同じように頭を下げて同じように顔を上げた。祈りは短く、すぐに笑い声が戻ってきた。
その夜、リエルが教会を抜け出してきた。
祭りの夜だけは、付き人も大目に見てくれるのだという。
私はリエルの手を引いて、祭りの通りを歩いた。
屋台の匂い。楽団の音。人々の笑い声。リエルは、それらを一つ一つ拾い上げては、嬉しそうに私に報告した。あちらで羊の肉を焼いていますわ。あちらで笛を吹いている方は、少し音程が外れていますわ。
屋台の列が途切れたところで、腰の曲がった老婆がリエルの前に立ち止まった。
老婆はリエルの白い髪を見上げ、どこにも焦点を結ばない目を覗き込んだ。それから、私が止める間もなく石畳に膝をついた。
「ああ……サルヴィナ様の御髪だ」
皺だらけの手がリエルの衣の裾を取り、そこへ額を押し当てた。
「孫が、西の国境の砦におります。どうか、どうか」
周りの何人かが振り返った。誰も笑わなかった。焼き栗の屋台の女が手を止め、胸の前で両手を重ねた。雛鳥を包むような形だった。
リエルは驚かなかった。
老婆の頭の上に、そっと手を置いた。
「女神様は、ちゃんと聞いておられますわ」
平らな声だった。教会の門の前で聞いた、あの声に近かった。けれど小さな手のひらは、老婆の白髪を一度だけゆっくりと撫でた。
老婆は何度も頭を下げて、人混みに消えていった。
「……今のは」
「白い髪で目の見えない娘は、救済の女神様に似ていると、ありがたがられますの。ときどき、ございますのよ」
リエルは、もういつもの声に戻っていた。
「救済の女神」
「サルヴィナ様。この国を建てた勇者様にお力を貸してくださった女神様ですわ。八百万の小さな神様のおひとりで、お力は主神様よりずっと弱いのですけれど」
リエルは、少しだけ誇らしげに顎を上げた。
「国が危ういときには、皆さま主神様より、サルヴィナ様と王家にお祈りなさるの。世界を作った神様より、国を作った女神様のほうが、近くに感じられるのですって」
西の国境、と老婆は言っていた。
焼き栗の甘い匂いの中で、その言葉だけが少し冷たく残った。
広場に出た。
人でごった返していた。広場の真ん中で、大きな篝火が焚かれている。その周りで、人々が手を取り合って踊っていた。
篝火の向こう側に、見覚えのある背中があった。
フィンだった。
白に近い金色の髪が、篝火の明かりに照らされている。屋台の前で、誰かと話していた。
フィンの隣に、もう一人、男がいた。
フードを被っている。顔は見えない。背はフィンと同じくらい。細身で、肩の力が抜けている。
あれが、槍の男か。
男が、何か言った。フィンが笑った。男も、肩を揺らして笑った。
それから、男は屋台を離れて、人混みのほうへ歩き出した。
その歩き方を見た瞬間、私の足が止まった。
肩の力が、抜けていた。
抜けすぎていた。
重心が、ほんの少しだけ後ろに残っている。いつでも一歩退けるように。正面からぶつからず、相手の力をいなせるように。そういう歩き方だった。
へらへらした歩き方だ、と思った。
どこかで、見たことがある。
どこで。
胸の奥で、何かが跳ねた。
トンカツを食べたときと、同じ跳ね方だった。
私は、目を凝らした。
人混みが、男の背中を隠した。篝火の明かりが揺れて、影が伸び縮みする。男の背中が、人々の頭の間に見え隠れする。
気がつくと、リエルの手を離していた。
人の肩を押し分けた。誰かの杯が傾いて、温めた葡萄酒が私の袖にかかった。甘い湯気が鼻を刺した。謝る声が背中で聞こえた。振り返らなかった。
篝火の熱が頬を炙った。踊りの輪が目の前を横切り、手をつないだ人の列が私の前で閉じた。その列の切れ目の向こうに、フードの背中が、一度だけ見えた。
路地へ曲がるところだった。
列が開いた。私は走った。
路地の入口まで来て、足が止まった。
誰もいなかった。石畳の上に、祭りの光の名残が淡く光っているだけだった。冷たい風が、葡萄酒で濡れた袖から体温を奪っていった。
そのとき、背中の遠くで、私の名を呼ぶ声がした。
リエルの声だった。
人混みの中に、目の見えない友を、一人で置いてきたのだった。
「カリン? ……カリン?」
私は、路地の暗がりをもう一度だけ見た。
それから、踵を返した。
人混みの真ん中で、リエルは両手を胸の前で握って立っていた。押し寄せる人の肩に揺られながら、見えない目で、私のいるはずの方角を探していた。
「ここだ」
その手を取ると、リエルの指は、驚くほど冷えていた。
「どうかなさいましたの? 急に、手を離されて」
私は、リエルを見下ろした。
それから、もう一度、広場の向こうを見た。
男の背中は、もうどこにもなかった。
フィンだけが、屋台の前に残っていた。私に気づいて、大きく手を振っている。
私は、しばらく人混みを見つめていた。
九十年前。
三年前。
計算が、合わない。
合わないものは、合わない。
王都には、何万もの人が住んでいる。肩の力の抜けた歩き方をする男など、いくらでもいるだろう。一瞬の後ろ姿だけで、何が分かるというのだ。
期待するなら、確かめてからにしろ。
確かめようがなかった。
だから、期待しないことにした。
「……なんでもない」
私は、リエルの手を握り直した。
「知り合いに似た背中が、見えた気がした。気のせいだ」
「まあ」
リエルは、見えない目を細めた。
「カリンにも、そういうことがございますのね」
「たまにはな」
篝火が、ぱちりと爆ぜた。
夜空の上で、世界樹の枝葉が、祭りの灯りを受けて揺れていた。
◇
年が明けてすぐ、私とフィンは、王城に呼ばれた。
謁見の間ではなかった。王城の奥、近衛騎士団の執務室だった。
広い部屋の奥に、大きな机があった。机の上には、書類が山のように積まれている。その向こうに、黄金の髪の青年が座っていた。
エルデリック・アルセリア・ルンシア。
王子殿下は、書類から顔を上げた。
フィンを見た。それから、私の肩のあたりを見た。
「来春、西へ行ってもらう」
前置きもなく、殿下は言った。
「護衛の任務だ。教会の要人を、西の都シルフェリオまで。その後、フェリシアへ入る」
フェリシア。
聞いたことのある名前だった。講義で、何度か出てきた。ルンシアの北西、帝国との間にある国だ。人族と魔族が、入り混じって暮らしているという。
「なぜ、私たちが」
私が訊くと、殿下は少しだけ眉を寄せた。
やはり、私の顔は見なかった。
「護衛対象の、たっての希望だ」
殿下は、書類の一枚を机の上で滑らせた。
「足音のしない騎士を、と」
私は、息を止めた。
殿下は、それ以上何も言わなかった。
私の肩のあたりを見たまま、ほんの少しだけ、口の端を上げた。
それが笑ったのだと気づいたのは、執務室を出てからだった。
(第四章 了)




