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越境者の足跡  作者: 野良野良猫
一.木漏れ日の国
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第四章 木漏れ日の都

 王都の騎士団は、身分を問わず門を開いている。

 身分を問わない代わりに、腕だけは容赦なく問われる。

「板切れを履いて試験を受けに来た者は、初めてだ」

 試験官の騎士は、私の足もとを見下ろして言った。

 練兵場の土の上に、私とフィンを含めて三十人ほどが並んでいた。大半は革鎧か、それらしい古着を着ている。腰には剣。背には槍。村で見た盗賊たちより、ずっと手入れの行き届いた得物だった。

 私は、麻の上着に袴、背中に木刀、足には下駄だった。

「履き慣れている」

「そういう問題ではない」

 試験官は溜息をついた。

 列の後ろで、誰かがくすくすと笑った。

 試験は二つ。結晶術と、手合わせ。

 結晶術は、的に向かって術を放つだけだった。的までの距離と、当たった術の強さを見る。

 フィンの番が来ると、練兵場が少し静かになった。

 光の粒が、フィンの指先に吸い寄せられていく。村で初めて見たときより、ずっと速く、ずっと多い。旅の間の稽古で、左の眉の癖も直っていた。

 放たれた火は、的の真ん中を撃ち抜いた。

 的の後ろの土塁まで、黒く焦げていた。

 試験官の眉が、わずかに上がった。

 私の番が来た。

 片手をかざした。

 待った。

 何も起こらなかった。

 列の後ろの笑い声が、さっきより大きくなった。

 試験官は帳面に何かを書きつけ、次、と言った。表情は変わらなかった。変わらないことが、かえって分かりやすかった。

 手合わせは、試験官の一人と木剣で打ち合う。

 相手は、髭を生やした大柄な騎士だった。

 構えを見て、分かった。強い。村の盗賊とは比べものにならない。重心が低く、足の運びに無駄がない。何年も、ひょっとしたら何十年も、剣を振ってきた者の構えだ。

 けれど、読めないほどではなかった。

 騎士が踏み込んできた。

 上段からの振り下ろし。速い。重い。まともに受ければ、木刀ごと腕が折れる。

 だから、受けない。

 半歩ずれる。木剣が私の肩の横を通り過ぎる。騎士の身体が、わずかに前へ流れる。その流れに逆らわず、木刀の先を騎士の手首に添えた。

 押さない。ただ、添えるだけ。

 騎士の木剣が、自分の勢いで地面を打った。

 次の瞬間、私の木刀の先は、騎士の喉元で止まっていた。

 練兵場が、静まり返った。

 騎士は、喉元の木刀を見下ろしていた。それから、私の顔を見た。何が起きたのか分からない、という顔だった。

「……もう一本」

 もう一本やった。

 結果は、同じだった。

 三本目で、騎士は木剣を下ろした。

「合格だ」

 髭の奥で、騎士は低く言った。

「結晶術はからきしだが、それを補って余りある。……いや」

 騎士は、私の下駄を見た。

「その板切れで、よくやる」

 列の後ろから、もう笑い声は聞こえなかった。

 落葉歴九百八十三年、秋の終わり。

 私とフィンは、ルンシア王都騎士団の見習いになった。

 騎士の誓いは主神の前で立てるものだという。合格した者は、その日の夕方のうちに大聖堂へ連れていかれた。

 王城の隣にそびえる白い建物は、中に入ると思ったより暗かった。高い窓から斜めに落ちる光の柱の中を、香の煙がゆっくりと昇っていく。甘くて少し苦い匂いだった。床の石は冷たく、下駄の歯が鳴りそうになるのを、私は爪先に重心を寄せて殺した。

 祭壇の奥に、像が立っていた。

 背丈の倍はある石の男だった。両足を揃えて直立し、二本の長い槍を左右に一本ずつ、杖のように床へ突き立てている。顔の彫りは浅く、表情らしいものがない。剣も盾も持っていない。神というより、門の前で夜通し動かない番兵のようだった。

 石の肩には、外套だけが布で着せかけてあった。

 その色に、目が止まった。

 緑ではない。茶でもない。黄土に灰を混ぜて、長いあいだ陽と雨に晒したような色だった。胸のあたりに小さな四角い跡がいくつか並んでいる。何かを縫いつけて、あとから外したような跡だった。

「主神、レガトス・クストディア」

 白髪の司祭が、節をつけて語り始めた。

「はじめに世界樹があった。樹はいまだ若く、その揺れは収まらなかった。枝は大地をえぐり、落ちる果実は地を割った。そのとき異界より一人の御方が降り立ち、二本の槍をもって樹の揺れを鎮められた。以来、御方はこの世の果てに立ち、黙して樹を見守っておられる」

 何百回も繰り返されてきた言葉なのだろう。司祭の息継ぎには少しの迷いもなかった。

「あの外套の色、名前がないんです」

 隣でフィンが囁いた。

「村の教会の絵も、あの色で塗ってあって。村長は、主神様の色だって言ってました。ほかに呼びようがないから」

 私は、もう一度外套を見上げた。

 どこかで見た色だった。

 もっと低い天井の下で。畳の匂いと、線香の細い煙と。長押の上に並んだ額縁の、いちばん端の黄ばんだ写真の中の――

「クルシマ・カリン」

 名を呼ばれて、膝をついた。

 冷たい石が袴越しに膝へ沁みた。右手を胸に当て、司祭の文句をなぞって誓いを口にした。主神の名のもとに、王国と民を守る。言葉の意味は分かった。けれど言葉の向こうに誰かが立っているという手応えは、最後までなかった。

 立ち上がったとき、さっき何を思い出しかけていたのかは、もう思い出せなかった。

 香の煙だけが、光の柱の中を昇り続けていた。

            ◇

 見習いの暮らしは、厳しかった。

 夜明け前に起きて、練兵場を十周走る。朝飯のあとは剣の稽古。昼からは結晶術の講義と、座学。夕方からは武具の手入れと、兵舎の掃除。夜は、泥のように眠る。

 結晶術の講義は、地獄だった。

 晶素の性質。集める力と結ぶ力と放つ力の関係。詠唱の構造。結晶陣の描き方。結晶化の仕組みと、その危険性。

 講師の老騎士が黒板に書く図と数式を、私は一日目で理解することを諦めた。

 私は理系科目が苦手だ。

 隣の席で、フィンが熱心に帳面を取っていた。講義のあと、フィンは私のためにそれを噛み砕いて説明してくれた。

「集めた晶素は、放たないと身体に溜まるんです。溜まりすぎると、そこから結晶になっていく。髪とか、爪とか、心臓から遠いところから」

「だから、放つ力が大事だと」

「そうです。いっぱい集められる人ほど、いっぱい放てないと危ない」

「私は集められないから、関係ないな」

「……そうなんですけど、そういうことじゃなくて」

 フィンは困った顔をした。

 私は、腰のランタンを見た。

 講義で聞いた話が本当なら、このランタンは自分で晶素を集め、自分で光に変えている。私はただ、持っているだけだ。

 それなのに、私が持つと強く光る。

 そのことを講師に訊いてみようかと思ったことが、一度だけある。けれど、やめた。講師の説明を理解できる自信がなかった。

            ◇

 年が明けて、冬が深まった頃だった。

 兵舎の近くに、見習いたちがよく通う食堂があった。安くて量が多い。それだけが取り柄の店だ。味については、私は何度か口を閉ざした。

 厨房の炉の縁には、どの家とも同じように、親指ほどの素焼きの女神が座っていた。火種の女神イグナル。太った親父は朝いちばんに、その膝へ塩をひとつまみ載せてから火を入れる。レーンベルの村長と同じ手つきだった。塩の扱いだけは、この店のどの料理よりも丁寧だった。

 その日、壁の品書きに、見慣れない名前が加わっていた。

 カツ。

 その二文字を見て、私は、しばらく動けなかった。

「カリンさん?」

 フィンが、怪訝そうに私の顔を覗き込んだ。

 私は、黙って品書きを指差した。

「あれを、頼む」

 運ばれてきた皿を見て、息が止まった。

 狐色の衣。

 厚切りの豚肉。

 端から滲み出る脂。

 添えられた、刻んだ葉野菜。

 衣の粒は、私の知っているものより粗かった。肉は少し厚すぎる。脇に添えられたのは、ソースではなく、果物を煮詰めたような甘酸っぱいたれだった。葉野菜はキャベツではなく、もっと苦みの強い何かだった。

 それでも。

 これは、トンカツだった。

 箸はない。肉用の小刀で一切れを切り、口に運んだ。

 衣が、さくりと鳴った。

 豚の脂が、舌の上に溶けた。

 揚げ油の匂いが、鼻の奥に抜けた。

 夕方の商店街の、肉屋の店先の匂いだった。

 気がつくと、小刀を握った手が止まっていた。

 フィンが、何か言っていた。聞こえなかった。

「親父さん」

 厨房の前まで行って、声をかけた。

 太った料理人が、面倒くさそうに顔を上げた。

「なんだ。口に合わなかったか」

「これは、どこで覚えた」

「どこでって」

 料理人は、首を傾げた。

「王都じゃ、昔からある料理だよ。うちの店は、最近になって出し始めたけどな。貴族様の屋敷じゃ、ずっと前から食われてたらしい」

「昔から。いつから」

「さあな。俺の爺さんの頃にはもうあったって聞くぜ。なんでも、昔お城にいた勇者様が広めたんだとさ」

 勇者。

 その言葉が、耳に引っかかった。

「その勇者は、いつの」

「九十年くらい前じゃねえか。俺も詳しかねえよ。そのあと国を出てって、行方知れずになったって話だ。……おい、嬢ちゃん、大丈夫か。顔色が悪いぞ」

 九十年。

 九十年前。

 私は、その数字を頭の中で何度も繰り返した。

 誰かが、この世界に、トンカツを持ち込んだ。

 衣をつけて、油で揚げて、豚の肉を。

 そんなことを思いつく人間が、この世界に自然に生まれるとは思えなかった。あれは、日本の料理だ。日本から来た誰かが、ここで作ったのだ。

 私より先に、日本人が、ここへ来ている。

 胸の奥で、何かが跳ねた。

 けれど、すぐに冷えた。

 九十年前だ。

 彼が消えたのは、三年前だ。

 九十年前にこの世界に来た誰かが、三年前に消えた彼であるはずがない。仮にそうだとしても、彼は今頃、百歳を超えた老人になっているか、とうに土の下にいる。

 計算が合わない。

 合わないものは、合わない。

 私は、料理人に礼を言って、席に戻った。

 残りのトンカツを、黙って食べた。

 冷めかけた衣は、少し湿っていた。

 それでも、最後の一切れまで、残さなかった。

「……カリンさん」

 フィンが、そっと言った。

「大丈夫、ですか」

「大丈夫だ」

 私は、皿を置いた。

「故郷の料理に、似ていた。それだけだ」

 嘘ではなかった。

 けれど、全部でもなかった。

 期待するなら、確かめてからにしろ。祖父の口癖が、頭の中で繰り返された。

 確かめようがなかった。

 だから、期待しないことにした。

            ◇

 春が来た。

 王都の春は、村の春とは違った。

 世界樹の枝葉が、冬の間に落とした古い葉の代わりに、新しい葉を広げ始める。木漏れ日の色が、白から淡い緑に変わる。街の石畳の上で、光の模様がやわらかく揺れる。

 休みの日、私は市場を歩いていた。

 王都の市場は、村の何百倍も広かった。野菜、果物、肉、魚、香辛料、布、陶器、武具、晶具。見たこともない食材が、山のように積まれている。私は一軒一軒の店を覗き、見たことのないものを見つけるたびに手に取って、匂いを嗅いだ。

 香辛料の店の前で、ふと、足が止まった。

 人混みの中に、ひとりだけ、動きの違う者がいた。

 小さな女の子だった。

 十二か十三くらいだろうか。白に近い金色の髪を肩で切り揃え、白い簡素な衣を着ている。耳の先が、少し尖っていた。エルフだ。

 その子は、人混みの中で、立ち止まっていた。

 両手を、前に少しだけ伸ばしている。

 顔は上を向いていた。けれど、何も見ていなかった。白に近い青の瞳が、どこにも焦点を結んでいない。

 目が、見えないのだ。

 行き交う人々が、その子の肩にぶつかっていく。ぶつかるたびに、小さな身体がよろめく。誰も立ち止まらない。誰も気にしない。

 私は、人混みを抜けて、その子の前に立った。

「迷ったのか」

 声をかけると、その子はびくりと肩を震わせた。

 それから、声のしたほうへ顔を向けた。

「……どなたですの?」

 澄んだ声だった。鈴を転がしたような、という言い方があるが、それよりもう少し芯のある声だった。

「通りすがりだ。一人か」

「ええ、一人ですわ。……少し、抜け出してきましたの」

 その子は、悪戯を見つかった子供のように、首をすくめた。

「帰り道が、分からなくなってしまって。いつもは、付き人がいるのですけれど」

「どこへ帰る」

「中央の、教会ですわ」

 教会。

 王都の北、王城の隣にそびえる白い大聖堂のことだろう。遠くからでも見える、尖塔の多い建物だ。

「案内しよう。手を」

 私が手を差し出すと、その子は少し迷うように首を傾げた。

 それから、私の手を探り当てて、握った。

 小さな手だった。冷たくて、骨が細い。

「不思議ですわ」

 その子が、呟いた。

「あなた、足音がしませんのね」

「癖だ」

「それなのに、そこにいらっしゃるのが分かりますの。とても、はっきりと」

 その子は、私の手を握ったまま、顔を上に向けた。

 見えない目が、まっすぐに私の顔のあたりを捉えていた。

「お名前を、伺ってもよろしいかしら」

「佳凛だ」

「カリン。……素敵なお名前ですわ」

 その子は、ふわりと笑った。

「わたくしは、リエルと申しますの」

 教会までの道を、リエルの手を引いて歩いた。

 リエルはよく喋った。市場の匂いのこと、鳥の声のこと、今日の風のこと。見えない代わりに、耳と鼻と肌で、世界のあらゆることを拾い上げているようだった。

 途中で、焼き菓子の屋台の前を通った。

 リエルの足が、ぴたりと止まった。

 鼻が、ひくひくと動いている。

「……よい匂いですわ」

「食べたいのか」

「い、いいえ。わたくしは、教会の許しなく、外のものを口にしてはいけないことになっておりますの」

 そう言いながら、リエルの鼻は屋台のほうを向いたままだった。

 私は、屋台で焼き菓子を一つ買った。

 蜂蜜を練り込んだ、素朴な焼き菓子だ。生地の焼き加減が少し甘い。もう少し高い温度で焼けば、表面がかりっとするだろう。

 それを半分に割って、片方をリエルの手に握らせた。

「私が半分食べる。残りの半分は、私が食べ残したものだ。食べ残しを片付けるのは、外のものを口にするうちに入らない」

 リエルは、手の中の焼き菓子を握りしめたまま、しばらく黙っていた。

 それから、小さく吹き出した。

「……屁理屈ですわ」

「屁理屈だ」

 真顔で答えると、リエルは声を上げて笑った。

 そして、焼き菓子を、小さな口でひと齧りした。

 見えない目を、細めた。

「……美味しい」

 その声が、少しだけ震えていた。

 教会の門の前で、黒い衣を着た男たちがリエルを待っていた。

 付き人だろう。三人いた。どの顔も、青ざめていた。

「リエル様!」

 一人が駆け寄ってきた。

 その瞬間、リエルの顔から、表情が消えた。

 さっきまで笑っていた口元が、すっと平らになった。見えない目から、光のようなものが引いていった。背筋がまっすぐに伸び、両手が身体の前で揃えられた。

 人形のようだった。

「申し訳ございません」

 リエルは、抑揚のない声で言った。

「勝手に外へ出ました。罰は、いかようにも」

「……お戻りください。司祭様がお待ちです」

「はい」

 リエルは、それ以上何も言わなかった。

 私の手を離し、付き人に手を引かれて、門の中へ入っていった。

 振り返りもしなかった。

 その首元で、黒い革のチョーカーが、木漏れ日を受けて鈍く光っていた。首にぴたりと巻きつく、幅の広い革の帯。日本の街なら、雑貨屋の棚に並んでいそうな品だ。けれどこの世界に来てから、ほかの誰の首にも、こういうものを見たことがなかった。教会の白い衣には、どこか似つかわしくなかった。

 門が閉まった。

 私は、しばらくその場に立っていた。

 手の中に、リエルの手の冷たさが、まだ残っていた。

            ◇

 七日後、同じ市場の同じ屋台の前で、リエルが待っていた。

「カリン!」

 足音のしない私に、リエルは誰よりも早く気づいた。

 白い衣の裾を翻して、私のほうへ駆けてくる。見えないのに、人混みの中を、驚くほど器用にすり抜けて。

 そのまま、私の腕にしがみついた。

「また、抜け出してきましたの」

「怒られるぞ」

「怒られますわ。でも、七日に一度くらいなら、女神様もお許しくださいます」

 リエルは、私の腕に頬を押しつけて、くすくすと笑った。

 近づくとやたらに腕を組んでくる手合いだ、と私は思った。

 分類は、明快だった。

 それから、リエルとは七日に一度、市場で会うようになった。

 私が何か食べ物を用意して、リエルがそれを「食べ残しの片付け」として食べる。その間、リエルはとりとめのないことを喋り、私はそれを聞く。それだけの時間だった。

 何度目かに会ったとき、年を訊いた。

「十八ですわ」

 私は、リエルの小さな頭を見下ろした。

 背は、私の胸までしかない。手首は、私の指で回りきるほど細い。どう見ても、十二か十三の子供だった。

「……同い年か」

「あら、カリンも十八ですの?」

「そうだ」

「まあ。では、わたくしたち、お友達ですわね」

 リエルは嬉しそうに、私の腕を揺すった。

 お友達、という言葉を、私はしばらく口の中で転がした。

 日本では、そういうものを持ったことがなかった。

 悪くない響きだった。

 何度目かのとき、兵舎の厨房を借りて卵を焼き、包んで持っていった。

 砂糖が手に入ったので、薄く焼いた卵を何層にも巻いた。巻きながら、匙に二杯、砂糖を落とした。

 リエルは一切れ口に入れて、頬を押さえた。

「甘いですわ。お菓子みたい」

 私も一切れ食べた。

 甘かった。私の好みより、ずっと。

 私の卵焼きは、本当は出汁で巻く。甘い卵焼きを好んだのは、私ではなかった。匙を二杯傾けた手の動きを、私は覚えていなかった。

「カリンは、どなたにお料理を習いましたの?」

「家の料理人だ。食べさせたい相手がいたから、頼み込んで弟子にしてもらった」

「まあ。どなたに?」

「同門の男だ。……ある日姿を消してな。三年、返事のない戸の前に通った」

 言ってから、口の中の甘さが急に重たくなった。

 訊かれたのは、誰に、だけだった。

「……待っていらしたのね」

「待っていた」

 それ以上は言わなかった。リエルも訊かなかった。

 残りの卵焼きは、リエルが全部食べた。次に巻くときは塩をひとつまみ多くしよう、と私は思った。

            ◇

 夏。

 騎士団の中で、年に一度の御前試合が開かれた。

 見習いから正騎士まで、希望する者が勝ち抜きで手合わせをする。勝ち残った者は、王族の目に留まる。王都中の騎士が、この日のために剣を磨く。

 私は、四回勝った。

 フィンは三回勝って、四回目で負けた。負けた試合でも、結晶術で相手の盾を弾き飛ばし、観覧席をどよめかせていた。

 五回目の相手は、若い正騎士だった。

 見事な鎧を着ていた。胸に、どこかの家の紋章が刻まれている。貴族の出だろう。構えも悪くない。王都に来てから見た中では、かなり腕の立つほうだった。

 それでも、三合で終わった。

 突きを流し、踏み込みを外し、喉元に木刀を止める。いつもと同じだった。

 練兵場の観覧席が、ざわめいた。

 正騎士は、しばらく喉元の木刀を見下ろしていた。

 それから、顔を真っ赤にして叫んだ。

「卑怯だ!」

 ざわめきが、止まった。

「こいつは、何かを隠し持っている! アーティファクトだ! 空間を歪める類のものに違いない! でなければ、俺の剣が、あんなふうに逸れるはずがない!」

 正騎士は、私を指差した。

 観覧席の騎士たちが、顔を見合わせた。

 そういえば、と誰かが言った。あの見習いの剣は、確かに妙だ。予備動作がほとんどない。気がついたら、相手の剣が逸れている。結晶術も使えないのに、あんな真似ができるものか。

 ざわめきが、疑いの色を帯びていく。

 私は、木刀を下ろした。

「調べてもらって構わない」

 私は、両手を広げた。

「持っているのは、この木刀と、腰のランタンだけだ。ランタンは、ただの灯りだ」

 審判役の老騎士が、私の身体を検めた。袖を、懐を、袴の裾を。木刀を手に取って、隅々まで調べた。ランタンも、ひっくり返して底を覗いた。

 何も出てこなかった。

 正騎士は、それでも納得しなかった。

「ならば、その履物だ! そんな奇妙なもの、この国の者は誰も履かん!」

 私は下駄を脱いで、老騎士に渡した。

 老騎士は、下駄を裏返し、下駄の歯を叩き、鼻緒を引っ張った。それから、困ったように眉を寄せて、私に返した。

 ただの、木の履物だった。

「もうよい」

 観覧席の最上段から、声が降ってきた。

 よく通る声だった。張り上げてもいないのに、練兵場の隅々まで響いた。

 騎士たちが、一斉に膝をついた。

 私は、声のしたほうを見上げた。

 観覧席の最上段、天幕の下に、一人の青年が立っていた。

 背が高い。細身だが、立ち姿に芯がある。黄金の髪を後ろへ流し、耳の先が尖っていた。エルフだ。緑の瞳が、練兵場を見下ろしている。身につけているのは、飾り気の少ない濃紺の軍装だった。けれど、その生地の質と仕立ての良さは、遠目にも分かった。

「殿下」

 誰かが、小さく呟いた。

 青年は、観覧席の階段をゆっくりと降りてきた。

 練兵場の土の上に立つ。膝をついた騎士たちの間を抜けて、私と正騎士の前まで歩いてくる。

「我は、観覧席からすべて見ていた」

 青年は、正騎士を見下ろした。

「その娘は、何も使ってはおらん。ただ、お前の剣を流しただけだ。お前の剣が逸れたのは、お前の踏み込みが深すぎたからだ。我の目には、そう見えた」

 正騎士の顔から、血の気が引いた。

「し、しかし殿下」

「異論があるか」

「……いえ」

 正騎士は、項垂れた。

 観覧席の端から、フィンが駆け下りてきて、私の隣に立った。息を切らしている。心配して飛んできたのだろう。

 青年は、それきり正騎士から興味を失ったように、私のほうを向いた。

 そして、目を逸らした。

 一瞬だけ、私の顔を見て、すぐに視線を横へずらした。私の肩のあたりか、背後の土塁のあたりを見ている。

「……名は」

 私の肩のあたりに向かって、青年は言った。

「来島佳凛」

「クルシマ・カリン」

 青年は、私の名を繰り返した。やはり、私の顔は見なかった。

「見慣れぬ剣だ。どこで学んだ」

「祖父の道場で」

「そうか」

 それだけ言って、青年はくるりと背を向けた。

 数歩行ってから、立ち止まった。

 振り返らずに、言った。

「……そこの金髪。先ほど、相手の盾を結晶術で弾き飛ばした見習いだな」

 フィンの背筋が、跳ねるように伸びた。

「は、はい!」

「娘の連れか」

「そうだ」

 私が答えると、殿下はフィンの顔をしばらく眺めた。それから、ようやく歩き出した。

「二人とも、名は覚えておく」

 青年は、そのまま観覧席へ戻っていった。

 練兵場に、ざわめきが戻ってきた。

 私は、下駄を履き直しながら、青年の背中を見送った。

 近づくと固まる手合いか、と思った。

 いや、少し違う。固まる前に、目を逸らす。新しい分類だった。

 あとでフィンに聞いた。

 あれは、ルンシアの王子殿下だという。エルデリック・アルセリア・ルンシア。近衛騎士団を束ね、王城の政務のほとんどを取り仕切る傑物で、剣も結晶術も一流。

 ただ、女が苦手らしい、とフィンは付け加えた。

 なるほど、と私は思った。

 分類は、正しかった。

             ◇

 秋が過ぎ、また冬が来て、年が明けた。

 落葉歴九百八十五年。

 私とフィンは、見習いから正騎士に上がった。

 その頃から、フィンは夜になると、ときどき兵舎を抜け出すようになった。

 どこへ行くのかと訊くと、稽古だという。

「王都の外れの空き地で、槍の稽古をしてる人がいるんです。たまたま通りがかったら、見てくれるって言ってくれて」

「騎士団の者か」

「違うと思います。旅の人みたいで。フードを被ってて、顔はあんまりよく見えないんですけど」

「名前は」

「教えてくれないんです。名乗るほどの者じゃない、って」

 フィンは、少し困ったように笑った。

「変な人なんです。へらへらしてて、口が悪くて、すぐ人をからかう。でも、結晶術の見方がすごくて。僕が術を撃つと、どこが綻んでるか、全部言い当てるんです。晶素の結び方の、どこが甘いかとか」

「結晶術を使うのか、その男は」

「それが、使えないって言うんです。見るだけ。見るだけで、全部分かるって」

 私は、少しだけ首を傾げた。

 見るだけで、術が分かる。

 私が光の粒の動きを見て術を避けるのと、似ているのかもしれない。

「それから」

 フィンが、思い出したように言った。

「突く前に、肩が下がる癖があるって言われました」

 私は、思わずフィンの顔を見た。

「カリンさんと、同じこと言うんです。その人」

「見る目のある男だな」

「はい。カリンさんみたいに」

 フィンは、嬉しそうに笑った。

 私は、スープを啜った。

 少しだけ、塩気が足りなかった。

             ◇

 同性に好かれるらしい、と気づいたのは、正騎士に上がった頃だった。

 いや、気づいたのは私ではない。フィンだ。

「カリンさん、また届いてましたよ」

 兵舎の食堂で、フィンが呆れた顔で、小さな包みを差し出した。

 刺繍の入った手巾に包まれた、焼き菓子だった。添えられた紙片には、丸みを帯びた字で、何か書いてある。

 差出人は、女騎士の一人だった。

 騎士団には、女の騎士も少なからずいる。結晶術の才がある者は、男女を問わず取り立てられるからだ。そのうちの何人かが、最近、私に何かと物を寄越すようになった。手巾だったり、焼き菓子だったり、髪紐だったり。

「礼を言っておかないとな」

「……カリンさん、それ、どういう意味か分かってます?」

「好意だろう」

「そうですけど、そういうんじゃなくて」

 フィンは何か言いかけて、諦めたように溜息をついた。

 私は焼き菓子を一つ齧った。

 生地が少し重い。卵をもう一つ足せば、軽くなる。

 今度会ったら、そう教えてやろうと思った。

 そう言うと、フィンは頭を抱えた。

 次の休みの日、市場でリエルにその話をした。

 リエルは、焼き菓子の欠片を齧りながら、頬を膨らませた。

「まあ。カリンは、わたくしのお友達ですのに」

「友達は、何人いてもいいだろう」

「よくありませんわ」

 リエルは、私の腕に、いつもより強くしがみついた。

「カリンに焼き菓子を渡してよいのは、わたくしだけですわ。わたくしは、渡したことはございませんけれど」

「渡したことがないなら、誰でもいいだろう」

「屁理屈ですわ」

「君の真似だ」

 リエルは、ぷいとそっぽを向いた。

 それから、我慢しきれなくなったように吹き出した。

 見えない目を細めて、笑っていた。

 その日の帰り際、リエルがふと、足を止めた。

 教会の門が、遠くに見えていた。

「カリン」

「なんだ」

「世界は、カリンが思っているほど、優しくありませんわ」

 唐突な言葉だった。

 リエルの声から、いつもの弾むような響きが消えていた。平らで、静かで、どこか遠いところから聞こえてくるような声だった。

 私は、リエルの顔を見た。

 リエルは、私のほうを向いていなかった。見えない目を、教会の尖塔のほうへ向けていた。

「……だから、カリンは、優しいままでいてくださいまし」

 それだけ言うと、リエルはいつもの笑顔に戻った。

「また、七日後に」

 ぱっと私の腕を離し、教会のほうへ駆けていく。

 白い衣の裾が、木漏れ日の中で揺れていた。

 首元の黒いチョーカーだけが、光を吸い込むように暗かった。

             ◇

 冬至の夜に、王都で祭りがあった。

 世界樹の葉が落ちる日を祝う、年に一度の祭りだという。冬至の朝、世界樹の梢から大きな葉が一枚だけ落ちて、空の上で砕け、光の粒になって国じゅうに降る。その光が、一年ぶんの晶素になるのだと、騎士団の講義で聞いた。王都中の通りに屋台が並び、夜になると無数の灯りが吊るされる。人々は、世界樹の葉を模した飾りを身につけて、夜更けまで踊り明かす。

 朝に降った光の名残が、まだ石畳の隙間で、雪のように淡く光っていた。吐く息が白かった。

 日が沈むと、大聖堂の鐘が鳴った。通りの人々が一度だけ足を止め、北の尖塔のほうへ額を下げた。樹の揺れを鎮めた主神に、今年も葉を落としていただいた礼を言うのだという。屋台の親父も、杯を持った男も、母親に手を引かれた子供も、同じように頭を下げて同じように顔を上げた。祈りは短く、すぐに笑い声が戻ってきた。

 その夜、リエルが教会を抜け出してきた。

 祭りの夜だけは、付き人も大目に見てくれるのだという。

 私はリエルの手を引いて、祭りの通りを歩いた。

 屋台の匂い。楽団の音。人々の笑い声。リエルは、それらを一つ一つ拾い上げては、嬉しそうに私に報告した。あちらで羊の肉を焼いていますわ。あちらで笛を吹いている方は、少し音程が外れていますわ。

 屋台の列が途切れたところで、腰の曲がった老婆がリエルの前に立ち止まった。

 老婆はリエルの白い髪を見上げ、どこにも焦点を結ばない目を覗き込んだ。それから、私が止める間もなく石畳に膝をついた。

「ああ……サルヴィナ様の御髪だ」

 皺だらけの手がリエルの衣の裾を取り、そこへ額を押し当てた。

「孫が、西の国境の砦におります。どうか、どうか」

 周りの何人かが振り返った。誰も笑わなかった。焼き栗の屋台の女が手を止め、胸の前で両手を重ねた。雛鳥を包むような形だった。

 リエルは驚かなかった。

 老婆の頭の上に、そっと手を置いた。

「女神様は、ちゃんと聞いておられますわ」

 平らな声だった。教会の門の前で聞いた、あの声に近かった。けれど小さな手のひらは、老婆の白髪を一度だけゆっくりと撫でた。

 老婆は何度も頭を下げて、人混みに消えていった。

「……今のは」

「白い髪で目の見えない娘は、救済の女神様に似ていると、ありがたがられますの。ときどき、ございますのよ」

 リエルは、もういつもの声に戻っていた。

「救済の女神」

「サルヴィナ様。この国を建てた勇者様にお力を貸してくださった女神様ですわ。八百万の小さな神様のおひとりで、お力は主神様よりずっと弱いのですけれど」

 リエルは、少しだけ誇らしげに顎を上げた。

「国が危ういときには、皆さま主神様より、サルヴィナ様と王家にお祈りなさるの。世界を作った神様より、国を作った女神様のほうが、近くに感じられるのですって」

 西の国境、と老婆は言っていた。

 焼き栗の甘い匂いの中で、その言葉だけが少し冷たく残った。

 広場に出た。

 人でごった返していた。広場の真ん中で、大きな篝火が焚かれている。その周りで、人々が手を取り合って踊っていた。

 篝火の向こう側に、見覚えのある背中があった。

 フィンだった。

 白に近い金色の髪が、篝火の明かりに照らされている。屋台の前で、誰かと話していた。

 フィンの隣に、もう一人、男がいた。

 フードを被っている。顔は見えない。背はフィンと同じくらい。細身で、肩の力が抜けている。

 あれが、槍の男か。

 男が、何か言った。フィンが笑った。男も、肩を揺らして笑った。

 それから、男は屋台を離れて、人混みのほうへ歩き出した。

 その歩き方を見た瞬間、私の足が止まった。

 肩の力が、抜けていた。

 抜けすぎていた。

 重心が、ほんの少しだけ後ろに残っている。いつでも一歩退けるように。正面からぶつからず、相手の力をいなせるように。そういう歩き方だった。

 へらへらした歩き方だ、と思った。

 どこかで、見たことがある。

 どこで。

 胸の奥で、何かが跳ねた。

 トンカツを食べたときと、同じ跳ね方だった。

 私は、目を凝らした。

 人混みが、男の背中を隠した。篝火の明かりが揺れて、影が伸び縮みする。男の背中が、人々の頭の間に見え隠れする。

 気がつくと、リエルの手を離していた。

 人の肩を押し分けた。誰かの杯が傾いて、温めた葡萄酒が私の袖にかかった。甘い湯気が鼻を刺した。謝る声が背中で聞こえた。振り返らなかった。

 篝火の熱が頬を炙った。踊りの輪が目の前を横切り、手をつないだ人の列が私の前で閉じた。その列の切れ目の向こうに、フードの背中が、一度だけ見えた。

 路地へ曲がるところだった。

 列が開いた。私は走った。

 路地の入口まで来て、足が止まった。

 誰もいなかった。石畳の上に、祭りの光の名残が淡く光っているだけだった。冷たい風が、葡萄酒で濡れた袖から体温を奪っていった。

 そのとき、背中の遠くで、私の名を呼ぶ声がした。

 リエルの声だった。

 人混みの中に、目の見えない友を、一人で置いてきたのだった。

「カリン? ……カリン?」

 私は、路地の暗がりをもう一度だけ見た。

 それから、踵を返した。

 人混みの真ん中で、リエルは両手を胸の前で握って立っていた。押し寄せる人の肩に揺られながら、見えない目で、私のいるはずの方角を探していた。

「ここだ」

 その手を取ると、リエルの指は、驚くほど冷えていた。

「どうかなさいましたの? 急に、手を離されて」

 私は、リエルを見下ろした。

 それから、もう一度、広場の向こうを見た。

 男の背中は、もうどこにもなかった。

 フィンだけが、屋台の前に残っていた。私に気づいて、大きく手を振っている。

 私は、しばらく人混みを見つめていた。

 九十年前。

 三年前。

 計算が、合わない。

 合わないものは、合わない。

 王都には、何万もの人が住んでいる。肩の力の抜けた歩き方をする男など、いくらでもいるだろう。一瞬の後ろ姿だけで、何が分かるというのだ。

 期待するなら、確かめてからにしろ。

 確かめようがなかった。

 だから、期待しないことにした。

「……なんでもない」

 私は、リエルの手を握り直した。

「知り合いに似た背中が、見えた気がした。気のせいだ」

「まあ」

 リエルは、見えない目を細めた。

「カリンにも、そういうことがございますのね」

「たまにはな」

 篝火が、ぱちりと爆ぜた。

 夜空の上で、世界樹の枝葉が、祭りの灯りを受けて揺れていた。

            ◇

 年が明けてすぐ、私とフィンは、王城に呼ばれた。

 謁見の間ではなかった。王城の奥、近衛騎士団の執務室だった。

 広い部屋の奥に、大きな机があった。机の上には、書類が山のように積まれている。その向こうに、黄金の髪の青年が座っていた。

 エルデリック・アルセリア・ルンシア。

 王子殿下は、書類から顔を上げた。

 フィンを見た。それから、私の肩のあたりを見た。

「来春、西へ行ってもらう」

 前置きもなく、殿下は言った。

「護衛の任務だ。教会の要人を、西の都シルフェリオまで。その後、フェリシアへ入る」

 フェリシア。

 聞いたことのある名前だった。講義で、何度か出てきた。ルンシアの北西、帝国との間にある国だ。人族と魔族が、入り混じって暮らしているという。

「なぜ、私たちが」

 私が訊くと、殿下は少しだけ眉を寄せた。

 やはり、私の顔は見なかった。

「護衛対象の、たっての希望だ」

 殿下は、書類の一枚を机の上で滑らせた。

「足音のしない騎士を、と」

 私は、息を止めた。

 殿下は、それ以上何も言わなかった。

 私の肩のあたりを見たまま、ほんの少しだけ、口の端を上げた。

 それが笑ったのだと気づいたのは、執務室を出てからだった。


(第四章 了)

 

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