第三章 二人の街道
「一回目だな」
私が言うと、フィンは地図から顔を上げた。
街道が二股に分かれていた。道標は倒れて、草に埋もれている。フィンは右の道を指差し、自信満々で歩き出した。半刻ほど歩いたところで、道は牧場の柵に突き当たって終わった。
柵の向こうで、牛が一頭、こちらを見ていた。
「……一回目、って」
「村を出る前に言っただろう。一人で行かせたら、三回は迷うと」
「カリンさん、数えてたんですか」
「数えている」
真顔で答えると、フィンはがっくりと肩を落とした。
牛が、もう一度鳴いた。
村を出て、十日が経っていた。
レーンベルから王都までは、ひと月ほどの道のりだという。南の森を抜け、麦畑の広がる平野を渡り、いくつかの町を経て、世界樹の麓へ。村の者も誰も行ったことがないので、確かなことは分からない。フィンが隣の村で譲ってもらった地図が、唯一の頼りだった。
その地図は、ひどく大雑把だった。
町と町を線で結んだだけで、川も山もほとんど描かれていない。二股の道など、もちろん載っていない。
それでも、世界樹だけは迷いようがなかった。
北の空にそびえる緑の影は、日ごとに少しずつ大きくなっていく。道に迷っても、あれを目指して歩けばいい。フィンは地図を睨み、私は世界樹を見上げる。二人で歩いていると、だいたいそういう分担になった。
牧場の柵から引き返し、二股の分かれ道まで戻った。
分かれ道の脇に、膝ほどの高さの祠があった。来るときは倒れた道標にばかり目がいって、気づかなかった。
苔むした石の屋根の下に、男の石像が立っている。両手に一本ずつ長い槍を握り、穂先を上にして杖のように地面へ突き、背筋を伸ばして真っ直ぐに立っていた。顔は雨風に削られて、目鼻の見分けもつかない。
祠の前には、小石が小さな山になっていた。
「主神さまです」
フィンが足もとの小石を一つ拾い、山の上に載せた。
「いちばん偉い神さまです。道の神さまってわけじゃないんですけど、分かれ道にはだいたいこういう祠があって、通る人は石を一つ置いていくんです。迷わないように、って」
「さっきは置かなかったな」
フィンが黙った。
私も小石を一つ拾って、山に載せた。それから祠に向かって二度頭を下げ、二度手を打ち、もう一度頭を下げた。祖母に仕込まれた作法だ。
ぱん、ぱん、と乾いた音が麦畑の上を渡っていった。
顔を上げると、フィンが目を丸くしていた。
「……今の、何ですか」
「私の国の、神さまへの挨拶だ」
「神さまって、叩くんですか」
「叩いてはいない。手を打っている」
フィンはしばらく考えてから、おずおずと自分も手を二つ打った。音は、私のより少し湿っていた。
石の男は何も言わず、二本の槍を突いて立っていた。
左の道を選んだ。
今度は、フィンは何も言わずに私の後ろをついてきた。
耳だけが、少し赤かった。
◇
夏の終わりの街道は、暑かった。
日差しが麦畑に照りつけ、刈り入れの済んだ畑からは乾いた藁の匂いが立ち上る。遠くで、農夫たちが束ねた麦を荷車に積んでいた。道端の木陰で休むたびに、フィンは水筒の水を半分ずつ分けてくれた。
昼の休みには、稽古をした。
村にいた頃とは、中身を変えた。
「撃ってくれ」
私が言うと、フィンは困った顔をした。
「本当に、いいんですか」
「いい。小さいのでいい」
フィンは渋々、片手を持ち上げた。
指先に光の粒が集まっていく。渦を巻き、縮む。
その瞬間に、私は半歩ずれた。
フィンの指先から放たれた火の玉は、拳ほどの大きさだった。私の脇を抜け、背後に立てた枯れ枝に当たって弾けた。
「もう一度」
フィンがまた手を上げる。
集まる。渦を巻く。縮む。
ずれる。
火の玉は、また枯れ枝に当たった。
三度、四度と繰り返すうちに、少しずつ分かってきた。
光の粒の集まり方には、癖がある。フィンの場合、集まり始めは速いが、縮む直前にほんの少し間ができる。その間の長さが、火の玉の大きさで変わる。大きな火を撃つときほど、間が長い。
身体の癖と、同じだった。
人が剣を振るう前に肩が下がるように、術にも術者の癖が出る。あの籠手の男にも、きっと癖があったのだ。私が見る場所を知らなかっただけで。
「フィン」
「はい」
「君は大きい火を撃つ前に、左の眉が上がる」
「えっ」
フィンは慌てて、自分の眉に手をやった。
「術の癖だけじゃない。顔にも出ている。気をつけたほうがいい」
「……カリンさんと稽古してると、自分の癖が全部なくなる気がします」
「全部なくなったら、私が困る。読めなくなるからな」
真顔で言うと、フィンはしばらく考えてから、ようやく笑った。
左の肩の火傷が、少しだけ疼いた。
痕は、もう塞がっている。けれど火の匂いを嗅ぐと、ときどき思い出したように痛む。
痛むうちは、忘れないでいられる。
それでいいと思った。
◇
村を出て半月が過ぎた頃、川に出た。
幅の広い、流れの緩やかな川だった。水は澄んでいて、川底の石がきれいに見える。夏の終わりの日差しを受けて、水面がきらきらと光っていた。
川沿いの木陰で、野営の支度をすることにした。
「私は水を浴びてくる」
荷を下ろしながら言うと、フィンは頷いた。
「僕は、薪を集めてきます。上流のほうで」
「分かった」
フィンは弓を担いで、森の中へ入っていった。
私は川べりへ下りた。
半月分の汗と埃が、身体中にこびりついていた。村を出てから、まともに身体を洗えていない。宿に泊まれたのは二度だけで、そのどちらも盥一杯の湯しか出なかった。
上着を脱ぎ、袴の紐を解いた。
下駄を揃えて、岩の上に置く。
川に足を浸すと、思っていたより冷たかった。けれど、その冷たさが心地よかった。膝まで、腰まで、胸まで。流れに身を任せると、半月分の疲れが水に溶けていくような気がした。
髪を解いた。
肩より長い黒髪が、水の上にふわりと広がる。
私は目を閉じて、しばらく流れの音を聞いていた。
がさり、と、岸辺の茂みが鳴った。
目を開けた。
薪を両腕いっぱいに抱えたフィンが、茂みから出てきたところだった。
上流で集めると言っていたのに、なぜか下流側から現れた。道を間違えたのだろう。
二回目だな、と私は思った。
フィンは、私を見た。
私も、フィンを見た。
フィンが、固まった。
両腕に抱えた薪が、一本、また一本と、腕の間からこぼれ落ちていく。からん、からん。乾いた音を立てて、河原の石の上を転がる。フィンは、それに気づいてもいないようだった。
口が開いている。
息を吸ったきり、吐くのを忘れている。
いつか森で会ったときと、同じ顔だった。ただし今回は、耳だけでなく、首まで赤い。額まで赤い。顔中が、熟れた柿のような色に染まっていく。
「フィン」
声をかけた。
フィンの肩が、びくりと跳ねた。
「ちょうどいい。背中を流してくれないか。自分では手が届かない」
最後の薪が、フィンの腕から落ちた。
フィンは、何か言おうとした。言葉にならなかった。口を開け、閉じ、また開けた。それから、くるりと背を向けて、茂みの中へ走り去っていった。
がさがさがさ、と、茂みを掻き分ける音が遠ざかっていく。
途中で一度、何かに躓いて転ぶ音がした。
私は、河原に散らばった薪を眺めた。
それから、首を傾げた。
背中を流してもらうくらい、何でもないことだろう。道場では、稽古のあとに門下生同士でよくやっていた。
そう考えて、ふと、気づいた。
道場の門下生は、みんな男だった。
私の背中を流していたのは、祖父だけだった。
しばらくして、フィンが戻ってきた。
私はとうに水から上がり、服を着て、髪を拭いていた。
フィンは茂みの陰に立ったまま、こちらを見ようとしなかった。顔は背けている。けれど耳は、まだ赤い。
「……すみませんでした」
「なぜ謝る」
「なぜって」
フィンは背を向けたまま、しばらく黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「肩の、傷」
私は手を止めた。
「見えちゃいました。……あれ、村で」
「ああ」
左肩の火傷の痕のことだ。
塞がってはいるが、薄く赤みが残っている。水に濡れると、周りの肌より白く浮き上がって見えるのだろう。
「僕が、もっと早く射ってたら」
「フィン」
私は、フィンの背中に向かって言った。
「君の矢がなければ、この傷は肩では済まなかった」
フィンの背中が、わずかに揺れた。
「それに、この傷は私が自分でつけたようなものだ。あの男の術が読めなかった。私が弱かった。それだけだ」
「でも」
「でも、はいらない」
私は髪を拭き終え、手拭いを畳んだ。
「こっちを向け。話しにくい」
フィンは、ゆっくりと振り返った。
顔が、また赤くなった。
けれど、今度は逃げなかった。
◇
その夜の夕食は、川魚にした。
フィンが、薪を拾い直すついでに仕掛けておいた罠に、手のひらほどの魚が四匹かかっていた。鱗が銀色に光り、腹の側だけがほんのりと赤い。鮎に似ている。
腹を開いてわたを抜き、串を打った。
塩を振る前に、道端で摘んでおいた香草を刻んで、腹の中に詰めた。村で紫蘇に似ていると思った、あの草だ。旅の途中でも、ときどき見かける。
皮に、細かく塩を振る。尾びれと背びれには、化粧塩を多めに。こうすれば、焼いても鰭が焦げ落ちない。
フィンが、焚き火に手をかざした。
光の粒が集まり、火が灯る。
春の頃に比べると、ずいぶん速くなった。それに、火が安定している。揺らぎのない、澄んだ火だ。この火は、魚を焼くのにちょうどいい。
「上手くなったな」
「……カリンさん、それ、前にも言いました」
「前より上手くなった」
真顔で言うと、フィンは少しだけ嬉しそうな顔をした。
焚き火の周りに、串を斜めに立てた。
遠火で、じっくりと焼く。皮の脂が滲み出て、ぱちぱちと小さな音を立てる。香草の匂いが、魚の焼ける匂いと混ざり合って、川べりに漂った。
フィンの腹が、ぐう、と鳴った。
フィンは慌てて腹を押さえた。
私は魚の向きを変えながら、言った。
「焼けるまで、もう少しかかる」
「……はい」
「その間に、覚えておけ。魚は遠火の強火で焼く。火に近づけると、皮だけ焦げて中が生のまま残る」
「遠火の、強火」
「それから、何度もひっくり返さない。一度返したら、あとは待つ」
「待つ」
フィンは真剣な顔で、私の言葉を繰り返した。
旅に出てから、フィンは料理を覚えたがるようになった。野営のたびに、私の手元を覗き込んでは、何をしているのか訊いてくる。この十数日で、火の加減と、塩の振り方と、野草の見分け方を少しだけ覚えた。
なぜ覚えたいのかと訊いたことがある。
フィンは、少し考えてから答えた。
カリンさんが疲れてるときに、代わりに作れるように。
その答えを聞いて、私は、少しだけ困った。
誰かに料理を作ってもらう、という状況を、あまり想像したことがなかった。家では料理人が作っていたが、それは仕事だ。彼に料理を作ってもらったことは、一度もない。いつも私が作っていた。作りたかったから。
私のために、誰かが料理を覚えたがる。
その感覚が、どうにも座りが悪かった。
魚が、焼けた。
皮はぱりっと焼き上がり、ところどころに焦げ目がついている。化粧塩をした鰭は、白く塩を纏ったまま、ぴんと立っていた。
一本を、フィンに渡した。
フィンは串を受け取ると、しばらく魚を眺めていた。それから、背中から齧りついた。
ぱり、と皮が鳴った。
フィンの目が、丸くなった。
無言で、二口目を齧る。三口目。骨の周りの身を、丁寧に歯でこそげ取る。
あっという間に、一匹が骨だけになった。
私も、一匹を手に取った。
皮の塩気と、脂の甘み。腹に詰めた香草の、清涼な香り。悪くない。鮎よりも少し脂が強い。塩をもう少し控えてもよかったかもしれない。
「……カリンさん」
二匹目を手にしたフィンが、ぽつりと言った。
「僕、こんなに美味しい魚、初めて食べました」
「村でも、川魚は獲っていただろう」
「獲ってました。でも、こんなふうに焼いたことはなかった。いつも、鍋で煮るだけで」
フィンは、手の中の魚をじっと見つめた。
「……じっちゃんにも、食べさせてあげたかったな」
焚き火が、ぱちりと爆ぜた。
私は、何も言わなかった。
何も言わずに、自分の魚を齧った。
皮の塩気が、やはり少しだけ強すぎる気がした。
◇
村を出て二十日目に、少し大きな町に着いた。
街道が交わるところにできた宿場町で、石造りの家が百軒ほど並んでいる。旅人や行商人が行き交い、道端には露店がひしめいていた。焼いた肉の匂い、香辛料の匂い、馬の匂い。村を出てから、初めて見る賑わいだった。
人混みの中で、足が止まった。
露店の前に、男が一人立っていた。細い肩を少し落とし、首を傾げて品物を覗き込んでいる。日に焼けた首筋に、黒っぽい髪がかかっていた。
喉の奥で、息が詰まった。
男が振り返った。髭面の、四十がらみの行商人だった。髪は黒ではなく、濃い栗色だった。
「カリンさん?」
フィンの声がした。気がつくと、私は人の流れの中で棒立ちになっていた。背中に荷車が当たりかけ、御者に舌打ちされた。
「何でもない」
何でもなかった。肩の線が少し似ていただけだ。それだけのことで、足が言うことを聞かなくなった。
歩き出すと、下駄の歯が石畳でかたりと鳴った。自分の足音なのに、他人のもののように聞こえた。
露店の並びの端に、奇妙な店があった。
軒先に、ランタンがいくつも吊るされている。昼間なのに、どれも淡く光っていた。私の腰にあるものとよく似た形だ。骨組みに細かな模様が彫り込まれ、硝子の中で光が揺れている。
今度は、別の理由で足が止まった。
「晶具屋ですね」
フィンが言った。
「結晶術を込めた道具を売ってる店です。村には、行商人がたまに来るくらいでしたけど」
店先に座っていた痩せた老人が、私の腰のランタンに目を留めた。
「ほう。嬢ちゃん、そいつは自給式かね」
「そうらしい」
「珍しいもんを持っとるな。今どき、自給式なんぞ骨董屋でも滅多に見かけん。晶素を自分で集めさせる仕掛けは、手間がかかる割に光が弱くてな。廃れちまった」
老人は、吊るしたランタンの一つを指で弾いた。
「今はみんな、こっちだ」
そのランタンの底には、小指の爪ほどの石が嵌め込まれていた。薄く色づいて、透き通っている。石の中で、細かな光の粒が瞬いていた。
「結晶を動力に使う方式だ。石に溜まった晶素で灯る。溜まった分を使い切ったら、石を替えりゃあいい」
「その石は、どこから」
「結晶術使いの髪や爪が、結晶になったもんさ。術を使ってりゃ、誰でも少しずつ毛先から固まっていく。そいつを切って、売り買いするんだ」
老人は、事もなげに言った。
「こんくらいの欠片でも、けっこうな値がつく。もっとでかいのは、まず出回らねえな」
私は、袂の上から、そっと手を当てた。
布越しに、あの石の固さが指に触れた。
親指ほどの大きさ。小指の爪の、何倍もある。
なぜか、それ以上訊く気にはなれなかった。
老人に礼を言って、店を離れた。袂の中の石が、さっきまでより少しだけ重く感じた。
懐は、心もとなかった。
村を出るとき、生き残った者たちが少しずつ出し合って、路銀を持たせてくれた。けれど、それも半分ほどに減っている。王都までは、まだ十日近くかかる。宿に泊まれば、あっという間に底をつく。
町の中ほどに、古びた宿屋があった。
看板には、麦の穂と杯の絵が描かれている。中を覗くと、昼時だというのに客はまばらだった。奥の卓で、宿の主人らしい太った男が、退屈そうに頬杖をついていた。
私は、宿の中に入った。
「一晩、泊めてもらいたい」
主人は顔を上げ、私とフィンを眺めた。値踏みするような目だった。
「二人で、銀貨四枚だ」
「払えない」
「じゃあ、帰んな」
「代わりに、厨房を借りたい」
主人が、眉を上げた。
「今夜の客の料理を、私が作る。気に入らなければ、叩き出してくれて構わない。気に入ったら、一晩泊めてほしい」
主人は、しばらく私の顔を見つめていた。
それから、鼻で笑った。
「面白え。やってみな」
厨房は、狭くて汚かった。
竈の灰は何日も掻き出していないようだった。鍋の底には焦げがこびりつき、包丁は錆びかけていた。食材の棚には、干した豆と、しなびた根菜と、塩漬けの豚肉の塊が一つ。
私は、黙って袖をまくった。
まず、竈の灰を掻き出した。
灰の中から、小さな素焼きの像が出てきた。竈の縁から転げ落ちて、そのまま埋もれていたらしい。槌を振り上げた女の形の、あの像だ。槌を握った片手が欠けていた。
私は像の煤を袖で拭い、竈の縁に据え直した。塩の壺からひとつまみ取り、足もとに置く。バルトが毎朝そうしていたように。
それから鍋を洗い、焦げを削ぎ落とした。包丁を研いだ。フィンに市場まで走ってもらい、残り少ない路銀で、玉ねぎに似た野菜と、卵と、香草をいくつか買ってきてもらった。
塩漬けの豚肉は、一度茹でこぼして塩を抜いた。
それから、薄く切った。
根菜と玉ねぎに似た野菜を刻み、豚の脂でじっくりと炒める。甘い匂いが厨房に立ち込める。そこへ干した豆を戻したものと、塩を抜いた豚肉を加え、水を張って煮込んでいく。
煮汁を小皿に取って、味を見た。
塩を、もうひとつまみ足した。この鍋を食べるのは、汗をかいて街道を来た行商人と職人だ。
途中で、主人が厨房を覗きに来た。
鍋の中を見て、それから竈の縁の像に目をやった。何も言わずに戻っていった。
日が暮れる頃、宿の食堂に客が入り始めた。
行商人が三人。旅の職人が二人。地元の男たちが何人か。
私は、煮込んだ鍋を椀によそった。
豆と豚肉の煮込みに、刻んだ香草を散らす。卵を一つ落とし、半熟のうちに火から下ろす。黄身がとろりと崩れて、煮汁に溶けていく。
フィンが、椀を客の卓へ運んでいった。
最初は、誰も何も言わなかった。
行商人の一人が、匙で煮込みを掬い、口に運んだ。
匙が、止まった。
隣の行商人が、怪訝そうにその顔を覗き込んだ。それから自分も一口食べて、同じように止まった。
食堂が、静かになった。
静かになったまま、匙の音だけが響き始めた。かちゃかちゃと、椀の底を掻く音。誰も喋らない。喋る暇がないとでもいうように、ひたすら匙を動かしている。
やがて、職人の一人が顔を上げた。
「おかわり」
それを皮切りに、次々と声が上がった。
おかわり。こっちも。俺にも。
フィンが、空の椀を抱えて厨房に駆け込んでくる。息を切らしながら、顔は笑っていた。
「カリンさん、みんな、おかわりって」
「聞こえている」
私は、鍋の底を覗き込んだ。
足りなくなりそうだった。
その夜、主人は宿で一番いい部屋を用意してくれた。
それから、翌朝の分の食材代と、少しばかりの銀貨を握らせてくれた。明日の朝も作ってくれれば、という条件付きだった。
部屋に入ると、フィンが言った。
「カリンさんって、すごいですね」
「料理のことか」
「料理も。それに、なんていうか」
フィンは言葉を探すように、少し黙った。
「……どこに行っても、ちゃんと、そこにいる人になれるんだなって」
私は、その言葉の意味を考えた。
よく分からなかった。
分からなかったが、悪い気はしなかった。
◇
翌朝、宿を出る前に、ひと悶着あった。
食堂で朝食を作っていると、昨夜から居座っていた男が一人、厨房の入り口に立った。酒の匂いがした。大柄な男で、腰に短剣を差している。
「嬢ちゃん、いい腕してるじゃねえか」
男は、厨房の中へ一歩踏み込んできた。
「俺の仲間が、隣の町で飯屋をやってんだ。そこで働かねえか。いい稼ぎになるぜ」
「断る」
「そう言うなよ」
男が、私の腕に手を伸ばした。
私は、包丁を置いた。
相手の重心は右足に乗っている。酔っているせいで、少しふらついている。伸ばしてきた手首を取って、ほんの少し捻れば、男は勝手に転ぶ。
そう思って、手を上げかけた。
その前に、フィンが割って入った。
男と私の間に、立った。
何も持っていない。弓も、木刀も、部屋に置いてきている。背は男より頭一つ低い。細い身体が、大柄な男の前で、ひどく頼りなく見えた。
「やめてください」
フィンは、言った。
声が、少し震えていた。
「この人は、僕と一緒に王都へ行くんです」
男は、フィンを見下ろした。鼻で笑った。
「なんだ、坊主。お前の女か」
フィンの耳が、真っ赤になった。
けれど、フィンは退かなかった。男の目を見上げたまま、動かなかった。
その背中を見ながら、私は、全く別のことを思い出していた。
中学一年の冬の、校舎裏。
四人の上級生と私の間に、へらへら笑いながら割って入った、浅黒い肌の少年の背中。
あいつは、嘘をついた。先生来てるぞ、と。そうやって、誰も怪我をしないように、その場を収めた。いつもそうだった。正面からぶつからず、口先で相手をいなして、へらへら笑っていた。
フィンは、嘘をつかなかった。
ただ、立っていた。
震える声で、真っ赤な耳で、それでも一歩も退かずに。
「おい、坊主、どけよ」
男が、フィンの肩を突き飛ばそうとした。
私は、その手首を掴んだ。
フィンの肩越しに、腕を伸ばして。
軽く捻る。男の身体が、捻った方向へ傾く。そのまま足を払った。
男は、厨房の床に仰向けに転がった。
床の上で、何が起きたのか分からないという顔で、天井を見上げている。
「朝飯の邪魔だ」
私は、男を見下ろして言った。
「食べるなら座れ。食べないなら出ていけ」
男は、しばらく床の上で瞬きをしていた。
それから、のろのろと起き上がり、何も言わずに食堂を出ていった。
厨房が、静かになった。
フィンが、振り返った。
顔が、まだ赤かった。
「……余計なこと、しましたか」
私は、少しだけ黙った。
余計なことをしたな、と、言いかけた。
あの冬の校舎裏で、あいつに言ったのと同じ言葉を。
けれど、口から出たのは、違う言葉だった。
「いや」
私は、包丁を取り上げた。
「助かった」
フィンが、目を見開いた。
それから、顔中を真っ赤にして、俯いた。
耳の先まで赤い。首まで赤い。
私は朝食の支度に戻りながら、もう一度だけ、フィンの背中を思い出していた。
あいつとは、違う背中だった。
違うけれど、悪い背中ではなかった。
◇
村を出て、二十七日目の夜。
街道沿いの林で、野営をしていた。
季節は、いつの間にか秋に変わっていた。夜の風が冷たい。焚き火の周りだけが、ほんのりと暖かかった。
私は、焚き火に背を向けて横になっていた。
眠れなかった。
旅に出てから、ずっとそうだった。村が焼けた夜から、深く眠れたことが一度もない。目を閉じると、燃える屋根と、倒れたバルトと、あの籠手の男の火の玉が浮かんでくる。浅い眠りの中で、何度も目を覚ます。
そのたびに、焚き火の向こうに、フィンの背中が見えた。
フィンは、毎晩、夜の番をしていた。
交代で番をしようと言ったのは私だった。けれどフィンは、私が眠っている間はほとんど眠らない。私が交代しようと起き出すと、慌てて寝たふりをする。そういうことが、何度もあった。
焚き火の音が、ぱちぱちと鳴る。
背中越しに、フィンが薪をくべる気配がした。
「カリンさん」
小さな声だった。
起きているのを、分かっていたらしい。
「……眠れないんですか」
「少しな」
私は、寝返りを打って、焚き火のほうを向いた。
フィンは、焚き火の向こうで膝を抱えていた。炎が、その顔を下から照らしている。白に近い金色の髪が、橙色に染まっていた。
「あの」
フィンが、言いにくそうに口を開いた。
「カリンさんの国の話、聞いてもいいですか」
「私の国か」
「イズモ、でしたっけ。ニホンの」
私は、少し考えた。
何を話せばいいのか、分からなかった。話せることは、たくさんある。けれど、どれもこの世界の言葉に置き換えるのが難しい。電車も、電話も、商店街のアーケードも。
「私の家は、剣の道場をやっている」
結局、いちばん話しやすいことから話した。
「祖父が師範で、私は跡取りだ。物心つく前から、木刀を握っていた」
「それで、あんなに強いんですね」
「強くはない。祖父には、一度も勝てなかった」
「……カリンさんより強い人が、いるんですか」
フィンが、信じられないという顔をした。
私は、少しだけ笑った。
「いくらでもいる」
焚き火が、揺れた。
しばらく、二人とも黙っていた。
それから、フィンが、ためらうように言った。
「……家族の他に、待ってる人は、いるんですか」
私は、答えなかった。
答えられなかった。
待っている人は、いない。
私が、待っていたのだ。
三年間、毎日のように、あのアパートの呼び鈴を鳴らして。
「……いた」
ようやく、それだけ言った。
「私のほうが、待っていた。三年間」
言うつもりのなかった言葉が、そのあとに続いた。
「毎朝、弁当を二つ作っていた。一つは自分の。もう一つは夕方、そいつの部屋の前まで持っていって、呼び鈴を鳴らした。返事がなければ、帰りに自分で食べた」
口を閉じたときには、もう遅かった。
こんなことを、誰かに話したことはなかった。祖父にも、家の料理人にも。焚き火の熱が顔にだけ当たって、背中は秋の夜気に冷えていた。
フィンの肩が、わずかに揺れた。
「その人は」
「いなくなった。ある日、突然」
それ以上は、言わなかった。
フィンも、それ以上は訊かなかった。
焚き火を見つめたまま、フィンはしばらく黙っていた。その横顔が、少しだけ寂しそうに見えた。なぜ寂しそうなのかは、分からなかった。
「……見つかると、いいですね。その人」
フィンが、ぽつりと言った。
声が、少しだけ掠れていた。
「ああ」
私は、焚き火に照らされたフィンの顔を見た。
それから、ふと、言った。
「君は、大型犬みたいだな」
「……はい?」
フィンが、顔を上げた。
ぽかんとした顔だった。
「オオガタケン、って」
「大きな犬のことだ。私の国では、人によく懐く」
「犬……」
「褒めている」
真顔で言った。
フィンは、しばらく口を開けたまま固まっていた。それから、何とも言えない顔をして、膝に顔を埋めた。
「……喜んでいいのか、分からないです」
「喜んでいい」
本心だった。
道場の近所で飼われていた、あの白い大きな犬。
私が落ち込んでいた日に、柵の向こうからずっと鼻を鳴らしていた。何も言わない。何もしない。ただ、そこにいて、こちらを見ていた。それだけで、少しだけ息がしやすくなった。
フィンは、あの犬に似ている。
よく懐き、よく食べ、褒めると喜ぶ。そして、何も言わずに、夜通し火の番をしてくれる。
それは、私にとって、最大級の褒め言葉だった。
ただ、それが男の人に向ける言葉ではないということには、そのときの私はまだ気づいていなかった。
「寝てください、カリンさん」
膝に顔を埋めたまま、フィンがくぐもった声で言った。
「僕、ちゃんと起きてますから」
「交代で、と言っただろう」
「今夜は、僕の番です」
昨夜も、そう言っていた。
私は、少しだけ迷った。
それから、目を閉じた。
焚き火の音がする。夜の虫の声がする。遠くで、梟が一声だけ鳴いた。
焚き火の向こうに、誰かがいる。
起きていて、火を見ていてくれる。
それだけのことが、ひどく心強かった。
その夜、私は、村が焼けてから初めて、朝まで一度も目を覚まさなかった。
◇
村を出て、三十日目の朝。
街道脇の野営地で、行商の一行と一緒になった。
夜明け前、彼らは荷車の陰から出てきて、東を向いて並んだ。空の端が白み始める。誰からともなく片手を胸の前に上げ、指先を道の先へ向けた。
黎明の女神さまに行く先を示していただくのだと、年かさの女が教えてくれた。旅に出る朝は、こうするのだという。
フィンも見よう見まねで手を上げた。村ではやらなかったそうだ。森の中では、東がよく見えないから。
私は手を上げなかった。
ただ、白んでいく東の空を見ていた。薄紅が、少しずつ白金に変わっていく。どこかで見た色のような気がした。思い出そうとしたときには、日はもう昇りきっていた。
その日の昼。
丘を一つ越えた先で、フィンが足を止めた。
地図と、目の前の景色を、何度も見比べている。
私は、その隣に並んだ。
そして、息を呑んだ。
空が、緑だった。
見上げるかぎり、どこまでも、世界樹の枝が広がっていた。雲よりも高いところで、途方もなく太い枝が四方へ伸び、その一本一本から、無数の葉が垂れ下がっている。葉の一枚一枚が、家ほども大きい。
その枝葉の隙間から、陽の光が降り注いでいた。
光の柱が、何十本も、何百本も。
地上に、まだらな光の模様を描いていた。
そして、その光の中に、街があった。
白い石の城壁が、丘の麓からぐるりと円を描いている。その内側に、屋根、屋根、屋根。赤い屋根、青い屋根、灰色の屋根。尖塔がいくつも空へ伸び、その中心に、ひときわ高い白い城がそびえていた。
城の背後には、世界樹の幹があった。
幹、と呼んでいいのか分からなかった。それは壁だった。山だった。空の半分を塞ぐ、灰緑色の断崖だった。城はその麓に、寄り添うように建っていた。
木漏れ日が、街の上で揺れていた。
風が吹くたびに、枝葉が揺れ、光の模様がゆっくりと形を変える。屋根の上を、城壁の上を、街路の上を、光と影が、波のように行き来していた。
まるで、街全体が、巨大な木の下で眠っているようだった。
「……あれが」
フィンの声が、震えていた。
「あれが、王都」
私は、何も言えなかった。
目を覚ましたあの日、瞼の裏で揺れていたまだらな光を思い出した。
あの光の、源に来たのだ。
木漏れ日の国。
その名前が、ようやく腑に落ちた。
「きれいだな」
やっと、それだけ言えた。
「……はい」
フィンの返事は、あの日と同じように、少し遅れた。
振り返ると、フィンは王都ではなく、私を見ていた。
目が合うと、慌てて逸らした。耳が赤かった。
丘を下り始めて、しばらくしてから、フィンが立ち止まった。
地図を広げ、首を傾げている。
「カリンさん。あの、城門って、どっちでしたっけ」
私は、王都の城壁を見た。
城門は、はっきりと見えている。私たちの真正面に、大きく口を開けて。
フィンは、地図を逆さまに持っていた。
「三回目だな」
真顔で言うと、フィンは地図を持ったまま、しばらく固まった。
それから、情けない声を上げた。
「……ぴったり三回って、カリンさん、なんで分かったんですか」
「分かっていたわけではない」
私は、城門に向かって歩き出した。
からん、と下駄が鳴った。
「言ってみただけだ」
背後で、フィンが吹き出す声がした。
木漏れ日が、足もとでまだらに揺れていた。
(第三章 了)




