第二章 暁の村
木刀が、空を切った。
フィンの木刀だ。私の喉元を狙った突きは、半歩ずらした私の首の横を通り過ぎていく。狙いは悪くない。速さもある。ただ、突く前に右肩がほんの少し下がる。その癖が、三月前から治っていない。
私は伸びきった彼の腕に、自分の木刀をそっと載せた。
それだけで、フィンの身体は前へつんのめった。自分の突きの勢いに引っ張られて、たたらを踏む。踏みとどまろうとした足の甲を、木刀の先で軽く叩いた。
フィンは、見事に尻もちをついた。
「肩だ」
「……また肩ですか」
「突く前に下がる。私でなくても、見れば分かる」
「見れば分かるのは、カリンさんだけだと思います」
フィンは地面に座り込んだまま、恨めしそうに私を見上げた。額から汗が顎へ伝っている。朝の稽古を始めて、もう一刻は経っていた。
私は木刀を下ろし、手を差し出した。
フィンはその手をしばらく見つめ、それから、おそるおそる掴んだ。引き起こしてやると、耳がまた赤くなっていた。三月経っても、これだけは変わらない。
手を握られるくらいで赤くなっていては、稽古にならない。そう言ったこともある。フィンは「稽古のときは大丈夫です」と答えた。稽古のときも、たいてい赤い。
村に来て、三月が過ぎていた。
春の終わりに植えた豆が、畑で蔓を伸ばしている。麦は刈り取られ、束ねられて軒下に吊るされた。日差しは強くなり、森の緑は濃さを増した。北の空の世界樹も、心なしか色が深くなった気がする。
私は、村の暮らしに馴染んでいた。
と、自分では思っている。
朝はフィンと稽古をする。猪を転がしたあの日、あとで教えると約束したからだ。フィンは筋がよかった。私の動きを覚えるのは遅いが、一度覚えたことは決して忘れない。昨日できなかったことが、翌日には必ずできるようになっている。地道な男だ、と思う。祖父なら、こういう弟子をいちばん可愛がっただろう。
稽古のあとは、朝飯を作る。
土間へ降りると、バルトが先に竈の前にいる。それは三月前から変わらない。竈の縁の素焼きの像に塩をひとつまみ置き、それから薪に手をかざす。変わったのは、寝床から竈までの短い土間を、壁に手をつきながら来るようになったことだ。代わろうかと言ったことがある。バルトは首を振った。わしの家の火じゃ、と言った。
塩の粒が熱を浴びて跳ねる音を聞いてから、私は鍋をかける。
バルトの家の分だけでは済まなくなっていた。気がつけば、近所の家から椀を持った子供が並ぶようになった。代わりに、野菜や卵や、ときには鶏が一羽届く。村の女たちには、香草の見分け方と出汁の取り方を少しずつ教えた。女たちは私に、この土地の保存食の作り方と、麦の粥の炊き方を教えてくれた。
昼は畑を手伝うか、フィンと森に入る。
森の木漏れ日の下で、ふと足が止まることがある。
ある日の昼、倒木に腰を下ろして水を飲んでいて、気がついた。ここ何日か、あの錆びた階段のことを一度も思い出していなかった。
夕暮れに階段を上り、呼び鈴を鳴らし、何も返ってこない音を聞いて帰る。三年続けたことだ。続けているあいだは、それが私にできる唯一の待ち方だった。ここではそれもできない。だから、せめて思い出すことで待っているつもりでいた。
その思い出すことまで、忘れかけている。
頭の上で枝葉が揺れて、まだらな光が手の甲を滑っていった。昼の光は暖かいのに、水筒を持つ指だけが冷えていた。沢の水の冷たさが、まだ残っていたのだと思う。
フィンに呼ばれるまで、私はそこに座っていた。
夜は、あのランタンの下で繕い物をする。
袂に入れっぱなしだったメンチカツの包み紙は、いつの間にか竈の焚きつけになっていた。惜しいとは思わなかった。
藍の紬は、畳んで行李の底にしまった。森や畑で着るには、やはり向かない。今は村の女たちが仕立て直してくれた、麻の上着と裾の細い袴のようなものを着ている。下駄だけは、まだ履いている。村の者はもう、誰も振り返らなくなった。
気がかりが、一つだけあった。
バルトの食が、細くなっていた。
私の作ったものは、いつも美味いと言って食べる。けれど椀に残る量が、少しずつ増えている。杖をつく足取りも、春より重い。縁側で日向ぼっこをしている時間が長くなり、そのまま眠ってしまうことが増えた。
フィンも気づいていた。
口には出さない。ただ、狩りに出る前には必ずバルトの寝床を覗き、帰ってくるとまず真っ先に顔を見に行く。
老いだ、と村の女たちは言った。もう長くはないかもしれない、とも。
私はそれを聞いて、何も言えなかった。
老いに効く料理は、私の知っている献立にはない。
◇
その日、私とフィンは東の尾根へ出かけた。
鹿を追うためだった。夏の鹿は脂が乗る。燻して干せば、冬まで保つ。尾根までは半日かかるので、向こうで一晩野営して、翌朝に仕留めて戻る算段だった。
「行ってこい。わしは寝とる」
出がけに声をかけると、バルトは寝床から片手だけを上げた。
その手が、少し震えていた。
「本当に大丈夫か」
「大丈夫じゃ。隣のかみさんが、昼と夕に様子を見に来てくれる。お前さんの作り置きもある」
バルトは寝床の中で、皺だらけの顔をくしゃりと崩した。
「たまには二人で、ゆっくりしてこい」
フィンの耳が、たちまち赤くなった。
「じっちゃん!」
「なんじゃ。わしは狩りの話をしとるんじゃぞ」
私は二人のやり取りを聞きながら、行李からランタンを取り出した。
あの日から、一度も消えていない。油も要らず、芯も要らない。夜の森で、これほど頼りになる灯りはない。
腰に括りつけ、木刀を背負った。
振り返ると、バルトがまだ片手を上げていた。
私は、軽く頭を下げた。
その手が震えていたことを、私はあとで何度も思い出すことになる。
尾根への道は、長かった。
森を抜け、沢を渡り、岩の多い斜面を登る。フィンは慣れた足取りで先を行き、私はその足跡を踏んでついていく。下駄の歯が岩を噛む。音は立てない。三月のあいだに、フィンもそれにはすっかり慣れた。
夕方、尾根の手前の窪地で野営の支度をした。
フィンが薪を集め、手をかざす。光の粒が指先に集まり、短い詠唱とともに火が灯る。澄んだ、揺らぎのない火だ。春の頃より、ずっと速くなった。
「上手くなったな」
「……カリンさんに言われると、なんか、変な感じです」
「なぜだ」
「カリンさん、結晶術、使えないから」
真っ直ぐな返事だった。私は少しだけ黙った。
フィンが青くなった。
「あ、いや、違うんです、そういう意味じゃなくて」
「分かっている。事実だ」
事実だった。
三月のあいだ、何度か試した。夜中にこっそり、ランタンを行李の奥に押し込み、光の漏れない暗がりで試したこともある。一度も、光の粒は寄ってこなかった。フィンの指先には、あんなに素直に集まるのに。
ランタンだけが、私の手の中で灯る。
理由は、まだ分からない。
私は鍋に水を張り、干し肉と野草を放り込んだ。昼に摘んだ茸を裂いて加え、塩をひとつまみ。野営の汁物にしては、悪くない出来になるはずだ。
「料理は、カリンさんに敵う人いないですけどね」
フィンが慌てて付け足した。
私は鍋をかき回しながら、真顔で言った。
「知っている」
フィンは、なぜか安心したように笑った。
汁を椀によそい、フィンには匙を添えて渡した。自分の分には箸を出す。村に来てすぐ、手頃な枝を削って作ったものだ。
包みを解くと、箸は二膳あった。
一膳は私の手に合わせた長さだ。もう一膳は、指一本分ほど長い。いつ削ったのか、すぐには思い出せなかった。たしか、どこかの夜だ。ランタンの下で、繕い物に飽きて小刀を握っていた夜。
長いほうを、指でなぞった。この長さを、私の手は覚えていた。あの部屋の台所の引き出しに入っていた、黒い塗り箸の長さだ。
フィンは箸を使えない。この村の誰も使わない。
私は長いほうを包みに戻して、紐を固く結んだ。
「カリンさん、どうかしました?」
「熱いうちに食え」
汁は、少し塩が足りなかった。
その夜、星の下で、フィンがぽつりと言った。
「じっちゃん、最近、昔の話ばっかりするんです」
焚き火の向こうで、フィンは膝を抱えていた。
「婆ちゃんの話とか。父さんの話とか。僕が小さい頃の話とか。前は、訊いてもあんまり話してくれなかったのに」
「君の父上は」
「僕が五つのときに、病気で。母さんは、僕を産んですぐに」
フィンは焚き火を見つめたまま、淡々と言った。
「だから、じっちゃんが育ててくれたんです。本当の爺ちゃんじゃないんですけど。父さんの、親友だったって」
「そうか」
「じっちゃんがいなくなったら、って、最近よく考えます」
薪が、ぱちりと爆ぜた。
私は何か言うべきだと思った。けれど、何を言えばいいのか分からなかった。慰めの言葉は、昔から苦手だ。祖父も、私に一度もそういう言葉をくれたことがない。
だから、事実だけを言った。
「明日、鹿を仕留めて帰る。脂の乗った鹿だ。村長の好きな味噌、いや、豆の醤で煮る。柔らかく煮れば、食が細くても食べられる」
フィンが、焚き火の向こうで顔を上げた。
「……はい」
少し間があって、笑った。
「楽しみです」
◇
翌朝、鹿は仕留められなかった。
尾根に登って、私たちが最初に見たのは、鹿ではなかった。
煙だった。
西の空に、黒い煙が一本、太く立ち上っている。朝の澄んだ空気の中で、それはひどく目立った。風に煽られて横に流れ、また立ち上がり、ゆっくりと空を汚していく。
私は、その方角に何があるかを知っていた。
フィンも、知っていた。
隣で、フィンの息が止まった。
「……村だ」
言うより先に、フィンは駆け出していた。
来た道を、倍の速さで戻った。
岩の斜面を飛ぶように下り、沢を水飛沫を上げて渡り、森を突っ切る。枝が顔を打つ。下駄の鼻緒が指の股に食い込む。構わなかった。フィンの背中が、少しずつ遠ざかっていく。追いつけない。森の中では、フィンのほうが速い。
息が上がる。胸が焼ける。
頭の中で、同じ考えが何度も巡った。
私たちがいれば。
昨日の朝、出かけなければ。
考えても仕方のないことだと分かっていた。分かっていても、止まらなかった。
昼を過ぎた頃、森が途切れた。
丘の縁。三月前、初めて村を見下ろした場所だ。
村が、燃えていた。
屋根という屋根から、火の手が上がっていた。
漆喰の壁が黒く焦げ、崩れた梁から火の粉が舞い上がっている。麦を束ねて吊るしていた軒下が、そのまま松明になっていた。畑の豆の蔓にまで、火が這い広がっている。
煙の向こうで、人影が動いていた。
村の者ではなかった。
見慣れない男たちが、七人か八人。薄汚れた革鎧を着て、手に手に剣や斧を持っている。燃える家から荷を担ぎ出し、繋いだ馬の背に括りつけている。何人かは、鶏を逆さに吊るして笑っていた。
盗賊だ。
そう理解した瞬間、隣でフィンが弓を引き絞った。
「待て」
私はその腕を掴んだ。
「離してください!」
「数が多い。闇雲に射れば、こちらの場所が知れる」
「でも、じっちゃんが!」
「分かっている」
自分の声が、思ったより冷たく響いた。
分かっている。だからこそ、焦ってはいけない。祖父の道場で、何度も叩き込まれたことだ。怒りは剣を速くするが、目を曇らせる。
私は丘の上から、男たちの配置を見た。
馬の周りに三人。荷を運んでいるのが三人。少し離れた、村の井戸の脇に一人。その一人だけ、何もしていない。腕を組んで、燃える村を眺めている。
あれが頭だろう。
身なりが、他の男たちと少し違った。革鎧は同じく薄汚れているが、右の前腕にだけ、妙に上等な籠手を嵌めている。磨かれた金属に、細かな模様が彫り込まれていた。日の光を受けて、きらきらと光っている。
あの模様には、見覚えがあった。
ランタンの底に彫られていたものに、少しだけ似ている。
「フィン」
私は掴んでいた腕を離した。
「私が下りる。君はここから、井戸の脇の男を狙え。籠手をつけた男だ。私が近づくまで射つな」
「カリンさん、一人で」
「一人のほうが目立たない」
背中から木刀を抜いた。
本物の刀ではない。三月前、村に来てすぐに、樫に似た堅い木を削って作ったものだ。刃はない。けれど、急所を打てば人は倒れる。
フィンが、何か言いたそうに唇を噛んだ。
それから、深く息を吐いて、弓を構え直した。
「……気をつけて」
「君もだ」
◇
斜面を、煙に紛れて下った。
下駄は脱いで、帯に挟んだ。素足のほうが、焼けた地面の熱は伝わるが、音は立たない。
最初の一人は、燃える家から樽を担ぎ出したところだった。
こちらに背を向けている。煤に汚れた首筋が、無防備に晒されていた。
道場で人を打ったことは数えきれない。けれどそれは防具をつけ、礼をして向き合った相手だ。背を向けた男を、倒すつもりで打ったことは一度もない。
木刀の柄が、掌の汗で滑った。煙が目に沁みる。すぐそばで梁の爆ぜる音が、水の底で聞くように遠かった。
そのとき、煙の切れ目から光が差した。
光の中を、誰かが歩いていた。
私の少し先だった。女の後ろ姿だ。白金の髪が背に流れ、薄紅の衣の裾が、熱風の中でそこだけ静かに揺れている。片手を前へ伸ばしていた。その指先が、樽を担いだ男の背を指していた。
振り返らない。足音もしない。
瞬きを一つするあいだに、消えていた。
煙だ、と思った。熱と煙で、目がおかしくなっている。
それなのに、目はかえって冴えていた。男の身体に、薄い影が重なって見える。樽を担ぎ直そうとして左の膝がわずかに沈む、その形が、男が動くより一瞬早く影になってそこにあった。
影のとおりに、男の膝が沈んだ。
私はもう踏み込んでいた。
背後から近づき、膝の裏を木刀で払う。男の膝が折れる。樽が落ちる。振り向きかけた首筋に、柄頭を打ち込んだ。男は声も上げずに崩れた。
掌の汗は、いつの間にか引いていた。
影も、もう見えなかった。
二人目は、その物音に気づいた。
剣を抜いて振り返る。私の姿を見て、一瞬だけ目を丸くした。女だと思って侮ったのだろう。構えが甘い。無造作に振り下ろされた剣の腹に、木刀を斜めに当てる。受けるのではない。流す。剣は私の肩の横を滑り落ち、男の身体が前に泳ぐ。泳いだ顎を、下から木刀で跳ね上げた。
二人。
「なんだ、てめえ!」
三人目が叫んだ。
その声で、他の男たちが一斉にこちらを向いた。
馬の周りの三人が、剣を抜いて駆けてくる。残りの一人が、荷を放り出して斧を構えた。
井戸の脇の男だけが、動かなかった。
組んでいた腕を、ゆっくりとほどいただけだった。
四人が、私を半円に囲んだ。
構えを見れば、腕のほどは分かる。一人を除いて、素人に毛が生えた程度だ。力任せに振り回すことしか知らない。数に頼んでいる。
一人目が、斬りかかってきた。
二人目が、半拍遅れて横から。
私は一人目の剣を流し、その身体を二人目のほうへ押しやった。二人がもつれる。その隙に、三人目の懐へ飛び込む。斧の柄を握る手首を打つ。斧が落ちる。
足もとで、何かが光った。
視界の端だった。
井戸の脇の男が、籠手を嵌めた右腕を、無造作にこちらへ向けていた。
それだけだった。
構えもない。溜めもない。重心も動いていない。肩も、肘も、指先も、何ひとつ予備動作を見せていない。ただ腕を向けた、それだけの動きだった。
それなのに。
籠手の周りで、光の粒が渦を巻いた。
フィンの指先に集まるのより、ずっと速い。一瞬で籠手の模様に吸い込まれ、ぎゅっと縮む。
次の瞬間、火の玉が飛んできた。
見えていなかった。
いや、見えてはいた。ただ、読めなかった。私はいつも、人の身体を見て次の動きを読む。重心の移動、肩の張り、視線の揺れ。そういうものが、次に何が来るかを教えてくれる。
あの男の身体は、何も教えてくれなかった。
身体を捻る。遅い。
火の玉が、左の肩をかすめた。
麻の上着が焼ける。肌が焼ける。熱というより、痛みが先に来た。皮膚を剥がされたような鋭い痛みが、肩から腕へ走る。
歯を食いしばって、転がった。
地面を転がりながら、上着の焼けた部分を土に擦りつけて火を消す。
「女にしちゃあ、やるじゃねえか」
籠手の男が、初めて口を開いた。
低い、ざらついた声だった。
「だが、剣だけじゃあな。結晶術の一つも使えねえなら、お話にならねえよ」
男は、籠手を嵌めた右腕を、また無造作に持ち上げた。
光の粒が集まる。
私は跳んだ。
今度は、さっきより早く動いた。けれど、やはり遅かった。火の玉は私の足もとの地面を抉り、土と火の粉を撒き散らした。熱風が顔を叩く。目が痛む。
囲んでいた男たちが、にやにやと笑いながら距離を詰めてくる。
私は立ち上がり、木刀を構え直した。
左肩が痛む。腕が上がりにくい。
考えろ。
あの男の身体は、何も教えてくれない。重心も、肩も、視線も。術を放つのは、身体ではない。あの籠手だ。
ならば、身体を見ていても仕方がない。
見るべきものは、別にある。
籠手の男が、三度目に腕を持ち上げた。
私は男の身体を見なかった。
籠手だけを見た。
籠手の周りの空気が、きらめき始める。光の粒が一粒、二粒と寄っていく。渦を巻く。模様に吸い込まれる。縮む。
その、縮む瞬間。
私は横へ跳んだ。
火の玉が、さっきまで私が立っていた場所を焼いた。
今度は、かすりもしなかった。
籠手の男の眉が、わずかに動いた。
光が集まってから、縮むまで。
ほんの一瞬だ。瞬き一つにも満たない。けれど、確かに間はある。人の身体に予備動作があるように、あの術にも予備動作がある。身体ではなく、光の粒の動きに。
見えるなら、避けられる。
避けられるなら、近づける。
私は駆けた。
籠手の男に向かって、真っ直ぐに。
囲んでいた男たちが、慌てて斬りかかってくる。一人の剣を流し、一人の足を払い、三人目の脇をすり抜ける。どれも、身体が教えてくれる。読める。
籠手の男が、四度目に腕を上げた。
光が集まる。渦を巻く。
縮む。
跳ぶ。火の玉が脇腹の横を掠めていく。上着の裾が焦げた。構わない。距離は、あと十歩。
五度目。
縮む瞬間に、身を沈めた。火の玉が頭の上を通り過ぎ、髪の先を焦がす。焦げた匂いがする。あと五歩。
籠手の男が、初めて一歩下がった。
その瞬間だった。
風を切る音がした。
丘の上から放たれた矢が、男の右腕に突き立った。籠手の、ほんのわずかな隙間。肘の内側だ。
男が呻き、腕が下がる。
集まりかけていた光の粒が、ぱっと散った。
私は残りの間合いを、一息に詰めた。
籠手の手首寄りに、何かの紋章を削り取ったような傷が見えた。盗賊の持ち物にしては、上等すぎる。
木刀を、籠手の上から振り下ろす。狙ったのは籠手ではない。籠手を嵌めた手首の、その付け根だ。骨の砕ける手応えがあった。男が叫んだ。籠手の模様から、光がふっと消える。
返す木刀で、男の顎を狙った。
けれど、男は倒れなかった。
腕を砕かれ、矢を受け、それでもなお、男は身を翻した。私の木刀は、男の頬を掠めただけだった。
「退け!」
男が叫んだ。
まだ立っていた盗賊たちが、一斉に馬のほうへ走る。荷を放り出し、倒れた仲間を置き去りにして、我先に馬に飛び乗る。
籠手の男も、左腕一本で馬の手綱を掴み、鞍に這い上がった。
私は追った。
追いつけなかった。
馬の蹄が土を蹴り上げ、盗賊たちは村の外へ走り去っていった。丘の上から、二本、三本と矢が追ったが、届かなかった。
蹄の音が、遠ざかっていく。
やがて、聞こえなくなった。
◇
私は、その場に立ち尽くしていた。
足もとに、何かが落ちていた。
籠手の男が馬に這い上がるとき、腰の袋が裂けたのだろう。小さな革袋の口が開いて、中身がいくつか地面に散らばっている。数枚の銀貨と、干し肉の欠片と、それから。
石が、一つ。
私は屈んで、それを拾い上げた。
親指ほどの大きさだった。薄く色づいた、透き通った石だ。光にかざすと、淡い紅の中に、細かな光の粒が閉じ込められているように見えた。形は奇妙だった。端々が削られていて、元がどんな形だったのか分からない。ところどころに、節のような丸みが残っている。
手のひらに載せると、ほんのわずかに温かい気がした。
日の光のせいだろう。
あの男が持っていたものだ。何かの手がかりになるかもしれない。
私はそれを、袂に入れた。
振り返ると、村はまだ燃えていた。
「カリンさん!」
フィンが、丘を駆け下りてくる。
私の左肩を見て、顔色を変えた。
「怪我が」
「かすり傷だ。それより」
それより、と言いかけて、言葉が続かなかった。
フィンは私の顔を見て、それから燃える村を見た。唇が震えた。
何も言わずに、村長の家のほうへ駆け出した。
私も、その後を追った。
村長の家は、半分が焼け落ちていた。
屋根が崩れ、壁が黒く焦げ、軒先に干してあった薬草の束は灰になっていた。まだ煙が燻っている。
その前に、人が倒れていた。
腰の曲がった、小さな身体だった。
杖が、少し離れたところに転がっていた。そしてその手には、杖の代わりに、錆の浮いた古い剣が握られていた。
「じっちゃん!」
フィンが駆け寄り、膝をついた。
バルトの身体を抱き起こす。
胸から腹にかけて、深い傷があった。血が、焼けた地面に黒く染みている。
私は、その傷を見て、分かってしまった。
もう、手遅れだと。
バルトの家の裏手で、物音がした。
振り返ると、地面に据えられた木の蓋が、内側から押し上げられていた。
食料を貯めておく、地下の室だ。
蓋の隙間から、子供の顔が覗いた。一人、二人、三人。煤で黒くなった顔に、涙の筋がいくつも走っている。その後ろから、隣のかみさんが這い出してきた。
子供たちは、倒れたバルトを見て、声を上げて泣き出した。
かみさんが、子供たちを抱き寄せながら、途切れ途切れに話した。
盗賊が来たとき、村長が子供たちを室に押し込んだのだという。自分も入れと言われても、首を振った。蓋の上に座っていないと、見つかってしまうから、と。
そして、あの古い剣を持ち出して、蓋の前に立った。
腰の曲がった、杖なしでは立っていられない老人が。
「……フィン」
バルトが、薄く目を開けた。
白い眉の奥で、目がゆっくりとフィンを探し、見つけた。
「戻った、か」
「喋らないで、じっちゃん。今、手当てを」
「ええ。もう、ええ」
バルトは、血に濡れた手をゆっくりと持ち上げた。
震える指先が、自分の首元を探る。襟の中から、細い鎖を引き出した。
鎖の先に、何かがぶら下がっていた。
ペンダントだった。
くすんだ銀の円盤。その表面に、何かの紋章が浮き彫りにされている。止まり木に、一羽の鳥が止まっていた。丸い頭。大きな目。羽を畳んで、じっとこちらを見ている。
梟だ。
バルトは鎖を首から外し、フィンの手に押しつけた。
「持って、いけ」
「じっちゃん、これ」
「お前の、もんじゃ」
バルトの息が、細くなっていく。
「お前の、親父は……」
そこで、言葉が途切れた。
何かを言いかけて、やめたように見えた。白い眉の奥の目が、フィンの顔をじっと見つめる。遠い何かを確かめるような、あの夜と同じ目だった。
それから、ゆっくりと首を振った。
「……いや。ええ。お前は、お前じゃ」
フィンは、ペンダントを握りしめたまま、何も言えずにいた。
バルトの目が、私に向いた。
「カリン」
私は膝をつき、バルトの顔を覗き込んだ。
「すまんのう。せっかく、作り置き、してもろうたのに」
「……いい。また作る」
「そうか」
バルトは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「美味かったのう。お前さんの、飯は」
それが、最後だった。
バルトの目から、ゆっくりと光が消えていった。
フィンの腕の中で、小さな身体が、少しだけ重くなった。
◇
火が消えたのは、夕方だった。
村の二十軒のうち、焼け残ったのは四軒だけだった。
死んだのは、バルトを含めて九人。男が六人と、女が二人と、バルト。盗賊に立ち向かった者から、順に死んでいた。
生き残った者たちで、墓を掘った。
村の外れ、森が始まるところに、九つの穴を並べた。フィンは、バルトの穴を一人で掘った。誰が手伝おうとしても、首を振った。私も、手を出さなかった。
掘り終えても、すぐには埋めなかった。
弔いは黄昏にするものだと、隣のかみさんが言った。日の高いうちに送ると、死んだ者は自分が死んだことに気づかないまま、光のほうへ行ってしまう。日が傾いて影が長くなる頃なら、黄昏の女神さまが振り返って、一緒に来た道を見てくださる。
だから日が傾くまで、九人の亡骸に布をかけて待った。
焼けた梁の上に、烏が何羽も降りてきた。煤けた屋根と同じ色をしていた。子供の一人が石を拾い上げると、かみさんがその手をそっと押さえた。
「烏は追っちゃいけないよ。女神さまのお使いだからね」
西の空が群青に沈みかけた頃、九人を土に還した。
バルトの墓には、杖と、あの古い剣を一緒に埋めた。
土をかけ終えると、村の者たちはそれぞれ墓に背を向けた。何歩か歩いて、一度だけ振り返る。誰も何も言わない。少しのあいだ墓を見て、それからまた歩き出す。
フィンも、そうした。
私は作法を知らなかった。皆にならって背を向け、歩き、振り返った。
盛ったばかりの土の上に、東から昇った月の光が薄く落ちていた。焼け跡の梁で、烏が一声だけ鳴いた。
夜。
焼け残った家の一つに、生き残った者たちが身を寄せ合っていた。子供たちは泣き疲れて眠り、大人たちは黙り込んでいた。明日からどうするのか。隣の村へ身を寄せるのか。誰も口に出さなかった。
私は、家の外に出た。
焼け跡の真ん中に、ランタンを置いた。
光は、まだ静かに灯っていた。私が持ち出していたから、この灯りだけは焼けずに済んだ。
焼け落ちたバルトの家の前に、フィンが座っていた。
膝を抱え、首から下げたペンダントを、両手で握りしめている。
私は、少し離れたところに腰を下ろした。
何を言えばいいのか、分からなかった。
慰めの言葉は、苦手だ。
それに、慰めを言える立場ではなかった。
私たちがいれば。
あの日の朝、出かけなければ。
私が、もっと強ければ。
考えても仕方のないことだと、分かっていた。村に残っていたとしても、あの籠手の男に勝てたかどうかは分からない。今日だって、フィンの矢がなければ、どうなっていたか分からない。
それでも、考えずにはいられなかった。
左肩の火傷が、じくじくと痛む。
あの火の玉を、私は読めなかった。
何ひとつ、読めなかった。祖父の道場で十数年、人の身体を見て、次の動きを読むことだけを磨いてきた。それが私の剣だった。私のすべてだった。
その剣が、この世界では、通じない相手がいる。
最後には光の粒の動きを見て、避けることはできた。けれど、それだけだ。あの男が術に慣れた使い手だったら。あの男が一人ではなく、三人だったら。
私は、手のひらを開いた。
袂から取り出した、あの石が載っていた。
ランタンの光を受けて、淡い紅に透けている。中に閉じ込められた光の粒が、微かに瞬いているように見えた。
結晶術。
私には、使えない。
けれど、使えないままでは、次も誰かを守れない。
「カリンさん」
フィンが、顔を上げずに言った。
声が、掠れていた。
「僕、強くなりたいです」
ペンダントを握りしめた手が、白くなっていた。
「今日、じっちゃんの傍にいられなかった。いたって、何もできなかったかもしれない。でも、いなかった。何もしなかった。……それが、嫌なんです」
私は、黙って聞いていた。
「強くなりたい。次は、守れるように」
フィンが、ようやく顔を上げた。
泣き腫らした目だった。けれど、その緑の目の奥には、今まで見たことのない光があった。
「王都に行けば、騎士団があるって、じっちゃんが言ってました。身分を問わずに、試験で入れるって。……僕、行きたいです。王都に」
王都。
世界樹の麓。木漏れ日の国の、中心。
私は、北の空を見上げた。
星のない、黒い影がそびえている。
私も、強くならなければならない。
結晶術を知らなければならない。読めないものを、読めるようにならなければならない。そのためには、この村にいては駄目だ。もっと多くの使い手を見なければならない。
それに、王都には学者がいるだろう。
帰り方を知っている者が、いるかもしれない。
あるいは。
三年前に消えた誰かのことを、知っている者が。
そこまで考えて、私は首を振った。
根拠のない期待は、剣先を鈍らせる。
今は、目の前のことだけでいい。
「行こう」
私は言った。
フィンが、目を見開いた。
「……一緒に、来てくれるんですか」
「一人で行かせたら、道中で三回は迷うだろう」
真顔で言った。
フィンは、泣き腫らした目のまま、少しだけ笑った。
それから、また顔を膝に埋めた。肩が、小さく震えていた。
私は、何も言わずに、その背中に手を置いた。
撫ではしなかった。
ただ、置いた。
フィンの背中は、あの夜よりずっと熱かった。
◇
三日後の朝、私たちは村を出た。
生き残った者たちは、隣の村に身を寄せることになった。隣のかみさんが、子供たちの手を引いて見送りに来てくれた。
「気をつけてね」
かみさんは、私の手を両手で握った。
「あんたの出汁の取り方、ちゃんと覚えたから。向こうの村でも、作るからね」
私は、頷いた。
子供の一人が、私の袖を引いた。
「また、ごはん作ってくれる?」
私は屈んで、その子の煤けた頬を指で拭った。
「作る」
それだけ言った。
約束できるかどうかは、分からなかった。それでも、そう言うべきだと思った。
発つ前に、フィンは焼け落ちた村長の家に入った。
崩れた梁を跨ぎ、土間の竈の前に屈む。縁の素焼きの像は煤で真っ黒になっていたが、割れてはいなかった。
フィンは腰の袋から塩をひとつまみ取って、像の足もとに置いた。
火は入れなかった。くべる薪も、もうない。
しばらく像を見ていた。それから立ち上がって、煤のついた指を袴で拭った。
私は何も訊かなかった。毎朝、壁に手をつきながら竈まで来ていた背中を、私も見ていた。
村の外れで、振り返った。
焼け落ちた家々。黒く焦げた畑。森の縁に並んだ、九つの新しい土の盛り上がり。
その一つの前で、フィンが立ち止まっていた。
首から下げたペンダントを、一度だけ握った。梟が、朝日を受けてくすんだ光を返した。
フィンは、何も言わなかった。
ただ、深く頭を下げた。
それから、顔を上げて、北を向いた。
「行きましょう、カリンさん」
声は、もう掠れていなかった。
私は、腰のランタンを確かめた。背中の木刀を確かめた。袂の中の、石を確かめた。
それから、下駄の鼻緒を締め直した。
からん、と、歯が石を打った。
北の空には、世界樹がそびえていた。
朝日を受けて、どこまでも高く、どこまでも青く。
(第二章 了)




