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越境者の足跡  作者: 野良野良猫
一.木漏れ日の国
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第一章 木陰の越境者

 瞼の裏が、まだらに明るい。

 光と影が、ゆっくりと揺れている。明るくなったり、暗くなったり。波打ち際に寝転んでいるような心地だった。けれど聞こえるのは波の音ではない。葉擦れだ。それも一枚や二枚ではない。頭上いっぱいに広がった無数の葉が、風に撫でられて一斉に囁いている。

 目を開けた。

 木漏れ日が、顔の上に落ちていた。

 見上げた先には、見たこともない太さの幹があった。大人が五人で手をつないでも回りきらないだろう。樹皮は灰色がかった緑で、ところどころに苔がむしている。枝は私の遥か頭上で四方へ伸び、そこから下がる葉の一枚一枚が、陽の光を透かして淡い黄緑に光っていた。

 私はその根元に、仰向けに寝転んでいた。

 背中には柔らかい苔。藍の紬の袖が、腕の下で皺になっている。帯は緩んでいない。下駄は、両方とも足に引っかかったままだった。

 ゆっくりと身を起こす。

 痛いところはない。頭も打っていない。落ちた、という感覚は確かにあった。それなのに、どこにも落ちた跡がない。

 袂を探ると、畳んだ包み紙がかさりと鳴った。

 メンチカツの包み紙だ。

 それだけが、あの商店街から地続きでここにいることの証拠だった。

 森だった。

 見渡すかぎり、背の高い木々が並んでいる。どれも私の知っている木ではない。杉でも檜でも楢でもない。下草は膝の高さまで茂り、名前の分からない白い小花がところどころに咲いている。空気が濃い。吸い込むと、胸の奥までひやりと青い匂いが届く。

 夕暮れではなかった。

 木漏れ日の角度からすると、昼を少し過ぎたくらいだろうか。

 ついさっきまで日が沈みかけていたのだから、少なくとも半日は経っていることになる。考えて答えが出る種類の問題ではなかった。

 私は立ち上がり、紬の裾を払った。

 それから、気づいた。

 見られている。

 右手の茂みの向こう。二十歩ほど先。

 気配は隠れていなかった。隠れようとはしていたのだろう。低く身を屈め、茂みに半身を沈めている。けれど呼吸が乱れていた。浅く、速い。緊張している者の息だ。

 私はそちらへ顔を向けた。

 茂みの陰で、緑色の目が大きく見開かれた。

 少年だった。

 いや、少年と呼ぶには少し大きい。私と同じくらいの歳だろう。白に近い金色の髪を、首の後ろで無造作に束ねている。肌は白く、頬のあたりだけが日に焼けて赤い。身体は細いが、袖から覗く腕にはきちんと筋肉がついていた。

 手には弓。背には矢筒。

 私と目が合ったまま、彼は動かなかった。

 弓を構えるでもなく、逃げるでもなく、声をかけるでもない。口がわずかに開いている。息を吸ったきり、吐くのを忘れているようだった。

 固まっている。

 近づくと固まる手合いか、と私は思った。

 男子にもいたのか。

 新しい発見だった。どうやらあの分類は、女子に特有の現象ではなかったらしい。

「すまない」

 声をかけると、少年の肩がびくりと跳ねた。

「驚かせたか。道に迷ったらしい。ここがどこか、教えてもらえるとありがたい」

 少年は何度か瞬きをした。

 それから茂みを掻き分けて、おそるおそる立ち上がった。背は私より頭半分ほど高い。弓を持った手が、所在なさげに腰の横で揺れている。

「あ、あの」

 声は思っていたより低く、よく通った。

「ここは、レーンベルの森です。村の南の」

 口の動きと、耳に届く言葉が、ほんの少しずれている気がした。唇はもっと別の形に動いているのに、意味だけがまっすぐ頭に入ってくる。吹き替えの映画を観ているような感じだ。

 妙だとは思った。

 けれど言葉が通じないよりはずっといい。私はそれ以上考えないことにした。

「レーンベル」

「はい。……あの、あなたは」

 少年の視線が、私の頭から足もとまでを一往復した。

 紬を見て、帯を見て、下駄を見て、もう一度顔に戻ってくる。戻ってきたところで、また固まった。耳の先がじわじわと赤くなっていく。

「……どこから、来たんですか」

「出雲だ」

「イズモ……?」

「知らないか。では、日本は」

「……すみません。どっちも、聞いたことがないです」

 そうだろうな、と思った。

 この森の木の一本も、私は知らない。彼の髪と目の色も、日本ではまず見ない。

 ここは、たぶん日本ではない。

 もしかすると、地球ですらない。

 思っていたより、驚きは小さかった。驚くべきことが多すぎると、人はかえって落ち着くものらしい。

「遠いところから来た。帰り方は分からない」

 事実だけを並べると、少年は困ったように眉を寄せた。

 それから、何かを決心したように顔を上げた。

「村まで、案内します。村長なら、何か分かるかもしれないので」

「助かる」

「その格好で、森を歩けますか」

 少年の視線が、また下駄に落ちた。

 確かに森を歩くには向かない。けれど商店街のタイルもトタンの階段も、これで歩いてきたのだ。苔の上なら、むしろタイルより歩きやすい。

「問題ない。慣れている」

「……そうですか」

 少年は半信半疑の顔で頷き、先に立って歩き出した。

            ◇

 少年の歩き方は、悪くなかった。

 踵から下ろさず、足の外側で地面を探るように踏む。枯れ枝を避け、落ち葉の厚いところを選び、音を立てない。森で生きてきた者の歩き方だ。

 ただ、数歩ごとに振り返る。

 振り返るたびに歩調が乱れ、枯れ枝を一本踏み折る。ぱきん。慌てて前を向く。また数歩進んで、振り返る。ぱきん。

「前を見て歩いたほうがいい」

「えっ」

「さっきから三本折っている。獲物が逃げるぞ」

 少年の耳が、また赤くなった。

「……ちゃんと、ついてきてるか、確かめてたので」

「ついていっている。足音で分かるだろう」

「足音、しないんです。あなたの」

 言われて気づいた。

 下駄の歯が、苔と落ち葉を踏んでいる。からん、とも、ころん、とも鳴らない。祖父に仕込まれた足運びは、道場の板の間でも音を立てない。柔らかい森の地面なら、なおさらだ。

「そうか。それは悪かった」

「いえ、悪くは、ないんですけど」

 少年は何か言いたそうにしてから、結局黙って前を向いた。

 今度は、振り返らなかった。

 そのかわり、ほんのり赤い耳だけが、ずっとこちらを向いていた。

 森を少し進むと、木々の間が開けた。

 小高い丘の縁に出たのだ。眼下には緩やかな斜面が広がり、その先に畑らしい区画と、いくつかの屋根が見えた。煙突から細い煙が上がっている。あれが村だろう。

 けれど、私の目はそちらを見ていなかった。

 村の向こう。遠く、北の空。

 そこに、壁があった。

 最初はそう見えた。空の半分を塞ぐように、途方もなく巨大な緑の壁がそびえている。山ではない。山にしては輪郭が柔らかすぎる。雲がその中腹に引っかかり、ちぎれ、また流れていく。雲より上にも、まだ緑が続いている。どこまで続いているのか、見上げても見上げても頂きが分からない。

 目を凝らして、ようやく分かった。

 木だ。

 一本の、木だ。

 雲を幹に巻きつけ、空を枝で覆い、それでもまだ上へと伸びている。

「……あれは」

 声が、少しだけ掠れた。

 少年が隣に並び、同じ方向を見上げた。

「世界樹です」

 当たり前のことのように言った。

「村からだと、晴れた日はよく見えるんです。王都は、あの麓にあるって聞きます。僕は行ったことないですけど」

 世界樹。

 その言葉を、口の中で転がしてみる。

 不思議と、怖くはなかった。

 ただ、丘を吹き上げてくる風が、袖の中で急に冷たくなった。

 三年前、彼も、どこかへ消えた。

 何も残さず、形だけを抜き取られたように。

 もしかすると、彼も。

 そこまで考えて、首を振った。

 根拠のない期待は、剣先を鈍らせる。祖父の口癖だ。期待するなら、確かめてからにしろ、と。

「きれいだな」

 とだけ言った。

 少年は世界樹から私のほうへ顔を向け、しばらく黙っていた。

「……はい」

 なぜか、少し遅れて返事をした。

 ◇

 丘を下り始めて間もなく、少年の足が止まった。

 片手を上げて、私を制する。さっきまでの挙動不審が嘘のように、背中がすっと締まった。弓を持つ手に力がこもる。

「猪です」

 小声だった。

 斜面の下、藪が揺れている。黒い背中が見え隠れしていた。大きい。私の知っている猪より、ひと回りは大きい。牙が口の端から上向きに反り返り、土を掘り返しては鼻を鳴らしている。

「今日の獲物、あれを追ってたんです。……ここで仕留めます。動かないでください」

 少年は音もなく矢を番えた。

 構えは悪くない。背筋が通り、肘の高さも正しい。弦を引く指に迷いがない。

 ただ、ほんのわずかに、視線が揺れた。

 私のほうへ。

 動かないでくださいと言った手前、確かめずにはいられなかったのだろう。一瞬だけ、横目で。

 その一瞬で、風向きが変わった。

 背中から吹いた風が、私たちの匂いを斜面の下へ運んでいく。藪の中で、黒い背中がぴたりと止まった。鼻先がこちらを向く。

 まずい、と思うより先に、それが見えた。

 猪が、斜面を駆け上がってくる。

 まだ藪の中にいる猪の、少し前に。うっすらと透けた黒い影が、こちらへ突っ込んでくる軌跡を先に描いていた。陽炎のように揺らいで、すぐに消える。

 次の瞬間、本物の猪が藪を割って飛び出した。

 影と同じ軌跡で。

 少年の放った矢は、半拍遅れた。猪の肩をかすめて地面に突き立つ。猪は止まらない。狙いは、弓を構えたまま体勢を崩した少年の脚だ。

 私は一歩、斜めに出た。

 少年と猪の間に、半身で割り込む。

 猪の鼻先が、私の膝のすぐ横を通り過ぎる。その瞬間、紬の袖を大きく振った。藍の布が猪の目の前で翻る。獣は反射的に首を振った。突進の軌道が、ほんのわずかに逸れる。

 私はその首筋に手を添えた。

 押したのではない。逸れた方向へ、少しだけ背中を押してやっただけだ。自分の勢いを持て余した猪は、斜面の傾きに負けて前脚をもつれさせ、横倒しに転がった。

 土煙が上がる。

「今だ」

 言うより先に、二本目の矢が放たれていた。

 今度は、外さなかった。

 猪はしばらく四肢を震わせていたが、やがて動かなくなった。

 少年は弓を下ろしたまま、猪と私を交互に見ていた。

「……今の」

「猪は、真っ直ぐにしか走れない。少しずらしてやれば、勝手に転ぶ」

 本当は、もう少し複雑な話だ。

 相手の力を受け止めず、流れる先を少しだけ変える。来島流の基本の一つだ。人間相手でも獣相手でも、理屈は変わらない。

 ただ、あの影は何だったのだろう。

 相手の動きを読むのには慣れている。重心や視線や筋肉の張りから、次の動きを予測する。

 けれど、さっきのは違った。

 読んだのではない。見えたのだ。

 猪が実際に動くより前に、その動きが、目の前に。

 目を覚ましたばかりで、まだ頭がはっきりしていないのかもしれない。私はそう結論づけた。結論づけておくほうが、今は都合がよかった。

「怪我はないか」

「ぼ、僕は、大丈夫です」

 少年は我に返ったように頭を振り、猪に駆け寄った。慣れた手つきで矢を抜く。

 それから、私を振り返った。

 緑の目が、きらきらしていた。

 新しい遊びを教わったばかりの子供の目に似ている。

「すごいです。今の、どうやったんですか」

「あとで教える」

「本当ですか」

「本当だ。その前に」

 私は倒れた猪を見下ろした。

 立派な猪だった。脂の乗り方は毛並みの艶で分かる。後脚の肉付きもいい。

「これを、どうやって村まで運ぶかを考えよう」

 真顔で言うと、少年はきょとんとした顔をした。

 それから、なぜか笑った。

            ◇

 村は、思っていたより小さかった。

 丘の麓に、木造の家が二十軒ほど肩を寄せ合っている。どの家も屋根が低く、壁には漆喰が塗られていた。畑では麦らしい緑が風に揺れ、柵の中で鶏が地面をつついていた。

 猪は、少年が太い枝で簡単な橇を組み、その上に括りつけて引いてきた。

 手伝おうとしたら断られた。お客さんにそんなことはさせられない、と言う。お客さんかどうかはまだ決まっていないと思ったが、黙っておいた。橇を引く少年の背中が、妙に張り切って見えたからだ。

 村の入り口で、畑にいた女たちが顔を上げた。

 最初に少年を見て、橇の上の猪を見て、それから私を見た。

 全員が、そろって手を止めた。

 紬に帯に下駄。この村では、商店街よりもさらに珍しい格好だったらしい。

 村長の家は、村のいちばん奥にあった。

 軒先に干した薬草の束が、風に揺れて乾いた匂いを立てている。

 少年が戸を叩くと、しばらくして、中から杖の音が近づいてきた。

 こつ、こつ、こつ。

 戸が開いた。

 出てきたのは、腰の曲がった老人だった。

 背中が大きく丸まり、杖にすがるようにして立っている。白い眉が目の上に垂れかかり、その奥の目がどこを見ているのか分かりにくい。顔中に刻まれた皺は深く、日に焼けて革のような色をしていた。

「おう、戻ったか」

 しわがれた声だった。

「猪か。でかしたのう。今夜は……」

 そこまで言って、老人の目が私に止まった。

 白い眉の奥で、目がわずかに細くなる。

 私も老人を見ていた。

 足腰は弱っている。杖がなければ立っているのも難しいだろう。けれど、立ち方に芯がある。若い頃は何か、身体を使う仕事をしていたのかもしれない。

「…どちら様かな」

「森で会ったんです。道に迷ったって。遠くから来たみたいで、帰り方が分からないって」

 少年が早口で説明する。

 老人は黙って聞いていた。聞き終えても、しばらく黙っていた。それから杖の先で、とん、と地面を叩いた。

「名は」

 私に向けた問いだった。

 そういえば、少年にもまだ名乗っていなかった。

「来島佳凛」

「クルシマ……」

「佳凛でいい。そちらのほうが、呼びやすいだろう」

「カリン、か」

 老人は口の中で転がすように繰り返し、それから頷いた。

「わしはバルト。この村の村長をしておる。こっちの小僧は、フィンじゃ」

「小僧はやめてよ、じっちゃん」

 少年、フィンが抗議する。老人は取り合わなかった。

 私はフィンのほうを見た。

 フィン。

 名前を知ると、不思議と輪郭がはっきりする。さっきまで「少年」だったものが、ひとりの人間になる。フィンは私の視線に気づくと、慌てて目を逸らした。耳がまた赤い。

「帰り方が分からんのなら、帰り方が分かるまでここにおればええ」

 バルトは、あっさりと言った。

「部屋ならある。こいつと二人暮らしじゃからな。空いとる」

「いいのか。素性の知れない者を」

「素性の知れん者なら、この村にはいくらでもおる」

 バルトは皺だらけの口元を、ほんの少しだけ緩めた。

「それに、猪一頭引きずって帰ってきた小僧が、そんなに嬉しそうな顔をしとるんじゃ。悪い客ではなかろう」

「じっちゃん!」

 フィンの抗議は、やはり取り合ってもらえなかった。

            ◇

 その夜、私は初めて結晶術というものを見た。

 日が落ちて、家の中が暗くなり始めた頃だった。バルトが炉の前に屈み、積んだ薪に向かって片手をかざした。

 皺だらけの指先が、何かを掴むように軽く曲げられる。

 その指の周りで、空気がきらめいた。

 目を凝らさなければ分からないほどの、細かな光の粒だった。埃が陽の光に照らされて浮かび上がるのに似ている。それが渦を描くように、指先へ吸い寄せられていく。

 バルトが短く何かを呟いた。

 聞き取れなかった。言葉というより、節をつけた息の音に近い。

 指先に集まった光の粒が、ぎゅっと一点に縮む。

 次の瞬間、薪の先に小さな火が灯った。

 ぱちり、と木が爆ぜる音がした。火は薪を舐め、ゆっくりと広がっていく。炉の中が橙色に明るくなった。

 私は、しばらく黙って炉を見ていた。

「……今のは」

「何じゃ、ただの火点けの結晶術じゃよ」

 結晶術、と繰り返して、知らないと答えた。バルトは白い眉の下で目を丸くした。 それから、フィンを呼んだ。

「フィン。教えてやれ」

「えっ、僕が」

「わしは腰が痛い。若いもんが教えろ」

 フィンは渋々という顔で、けれどどこか嬉しそうに、私の隣に腰を下ろした。

 フィンの説明は、正直に言って分かりにくかった。

 空気の中には晶素というものが漂っている。それを集めて、結んで、放つ。それが結晶術だ、と言う。

「集めるのは、こう、指先に寄ってくるのを待つ感じで。結ぶのは、頭の中で形を決めて、詠唱で固める感じで。放つのは、それを、こう、ぱっと」

「ぱっと」

「ぱっと、です」

 私は理系科目が苦手だ。

 フィンが一生懸命言葉を選んでくれればくれるほど、私の頭の中では霧が濃くなった。

 だから、見ることにした。

 理屈が分からないなら、動きを写せばいい。

 それが私のいつものやり方だ。祖父の型も、料理人の包丁さばきも、そうやって身につけてきた。

「一度、やってみせてくれ」

「あ、はい」

 フィンは炉から少し離れた場所に、小さな皿を置いた。皿の上には、油を染ませた灯芯が一本。

 フィンが片手をかざす。

 私は彼の指を見た。

 指の曲げ方。手首の角度。肩の力の抜き方。息の吸い方と吐き方。詠唱の前の、ほんの小さな間。

 光の粒がフィンの指先に集まる。バルトのときより、ずっと速い。

 フィンが短く息を吐いた。

 灯芯に、火が灯った。

 小さく、澄んだ火だった。揺らぎがなく、まっすぐに立っている。

「こんな感じです」

「分かった」

 私は皿の前に座り直した。

 フィンが灯芯の火を吹き消す。

 片手をかざした。

 指の曲げ方。手首の角度。肩の力。息。間。フィンの動きを、寸分違わずなぞる。身体の使い方なら、写し損ねることはまずない。自信があった。

 待った。

 光の粒は、寄ってこなかった。

 一粒も。

 私の指先の周りだけ、空気が妙に澄んでいた。

 もう少し待った。

 何も起こらなかった。

「……」

「……」

 フィンが、そっと私の顔を覗き込んだ。

 何か言おうとして、言葉を探して、見つからずに口を閉じる。それを三回ほど繰り返した。

 炉の前で、バルトが肩を震わせていた。

 笑いを堪えている。堪えきれていない。

「村長」

「すまん、すまん。いや、見事な手つきじゃった。形だけならフィンより綺麗なくらいじゃ」

「形だけ、か」

「集める力が、まるで無いんじゃろう。たまにおる。ヒューマンの中でも、特に薄い者はな」

 バルトは目尻の涙を指で拭った。

「気にするな。この村の者も、ほとんどは火を点けるのがやっとじゃ。結晶術が使えんでも、暮らしには困らん」

 気にしてはいない。

 と言いたかったが、正直に言えば少しだけ気にしていた。

 見て、写して、できなかったことは、今まであまりない。

「フィン」

 バルトが、ふと声の調子を変えた。

「ついでじゃ。あれをやってみい。前に教えた、陣を描くやつじゃ」

「え、あれ、まだちゃんとできたことないけど」

「ええから」

 フィンは首を傾げながら、炉の灰を指ですくい、床の上に小さな円を描いた。円の内側に、線をいくつか引く。幾何学模様とも文字ともつかない、不思議な図形だった。

 描き終えると、円の中心に手をかざした。

 光の粒が集まり始めた。

 さっきよりも、さらに多い。フィンの指先だけでなく、描いた円の線の上にも、きらきらと光が這い上がっていく。まるで円そのものが、光を吸い寄せているようだった。

 フィンの眉が寄った。

 想定外の状態らしい。

 けれど止め方が分からないのか、手を引かない。

 短い詠唱。

 次の瞬間、円の中心から火柱が立った。

 天井に届くほどの高さではない。けれど灯芯の火とは比べ物にならない勢いだった。熱が顔を叩く。火柱は一瞬だけ轟と唸り、すぐに萎んで消えた。

 あとには、焦げた灰の円と、前髪の先がちりちりに縮れたフィンが残った。

「……うわ」

 フィンは自分の前髪をつまみ、情けない声を出した。

 私は、少し笑ってしまった。

 それから、バルトのほうを見た。

 バルトは笑っていなかった。

 白い眉の奥で、目がじっとフィンを見ていた。驚いているのとも、喜んでいるのとも違う。遠い何かを、確かめるような目だった。

 私の視線に気づくと、バルトはすぐにいつもの顔に戻った。

「やりすぎじゃ、馬鹿もん。家を燃やす気か」

「じっちゃんがやれって言ったんじゃないか!」

 あの目が何を見ていたのかは、分からなかった。

 分からないことは、今は分からないままにしておくしかない。

 ◇

 借りた部屋は、物置の隣の小さな一間だった。

 藁を詰めた寝台に、日向で干したらしい毛布が一枚。横になると、乾いた草の匂いが頬の下で潰れた。壁の向こうから、バルトの鼾と炉の薪の爆ぜる音が交互に聞こえてくる。

 眠れなかった。

 帰りたいとは思わなかった。祖父の顔も道場も自分の部屋も、目を閉じて思い浮かべようとすると、どれも輪郭が薄い。

 輪郭が濃いのは、あの十三段の鉄の階段だけだった。

 明日も向こうでは日が暮れる。私はあの階段を上らない。呼び鈴は鳴らない。

 もしも明日、彼が帰ってきたら。

 錆びた階段を上り、褪せた表札の前で鍵を探して、ふと廊下を振り返ったら。

 そこに、私はいない。

 毎朝詰めていた二つ目の弁当も、もうない。

 待つのは何もしなくていいから楽だと、祖父に言った。その何もしないことすら、ここではできない。

 毛布の端を握った指先が冷えていた。炉の火が落ちたのか、壁の隙間から入る夜気に灰の匂いが混じりはじめる。私は毛布を頭まで引き上げた。乾いた草の匂いの奥で、知らない家の煤が匂った。

 夢を見た。

 中身は覚えていない。日向に干した布団と、醤油を焦がした台所の匂いだけが、目を覚ましたあとも鼻の奥に残っていた。

 彼の部屋の匂いだった。

 私は枕を一度殴った。

 藁の枕は、ぼすりと気の抜けた音を立てて拳の形にへこんだ。

            ◇

 翌朝、私は台所に駆け込んだ。

 理由は単純だ。

 昨夜の夕食が、あまりにひどかった。

 猪肉を塩だけで煮込んだ汁と、固く焼き締めたパン。それだけだった。村の人々にとっては、猪が獲れた日の御馳走なのだろう。バルトもフィンも、美味そうに頬張っていた。

 けれど、あの猪は立派だったのだ。

 脂の乗った後脚の肉を、骨ごとぶつ切りにして、灰汁も取らずに塩で煮込むだけ。脂は汁の表面にぎとぎとと浮き、肉は煮すぎて筋張っていた。

 私は黙って食べた。

 黙って、ひと椀を空にした。

 どういう顔をしていたのかは分からない。けれど向かいのフィンが、途中から明らかに私の顔色を窺いながら匙を動かしていた。

 夜のうちに、決めていた。

 土間へ降りると、バルトが先に竈の前にいた。

 杖を壁に立てかけてしゃがんでいる。曲がった腰が、そこでだけ不思議とまっすぐに伸びていた。竈の縁には、拳ほどの素焼きの像が据えてある。煤で黒ずんで顔も分からないが、小さな槌を振り上げた女の形に見えた。

 バルトは脇の壺から塩をひとつまみ取り、像の足もとに置いた。指先を擦り合わせて残りを払い、それから薪に手をかざす。昨夜と同じ光の粒が寄って、火が立った。

 縁の塩が熱を浴びて、ぱちりと一粒跳ねた。

 私が見ているのに気づいて、バルトは顎で像を指した。

「火の女神さまじゃ。イグナルさまというてな、どこの家の竈にもおられる。火をいただく前に、塩をひとつまみお供えする。……死んだ婆さんに習うた」

 祖父も毎朝、道場の神棚の水を替えていた。理由を訊いたことはない。訊かなくても、手つきで分かることはある。私は黙って、火が薪に移るのを待った。

「台所を、借りたい」

 火が落ち着いたところでそう言うと、バルトはまだ眠たげな目を瞬かせた。

「なんじゃ、朝飯なら、昨日の残りを温めれば」

「それをしたくないから、借りたい」

 真顔で言った。

 バルトは少し黙って、それから、好きにせえ、とだけ言った。

 竈のほかには、鍋が大小三つ。包丁が二本。まな板代わりの厚い板。壁の棚には、陶器の壺がいくつか並んでいる。覗いてみると、塩、何かの脂、乾燥させた豆、干した茸、それから名前の分からない香草が何種類か入っていた。

 私は包丁を手に取った。

 刃が鈍い。研いだ形跡はあるが、角度が合っていない。裏口の外に砥石代わりになりそうな平たい石を見つけて、水を汲み、しばらく研いだ。

 研ぎ終えた刃を、指の腹でそっと確かめる。

 これなら、使える。

 猪は昨日のうちに、フィンが捌いて吊るしてくれていた。

 まず、肩の肉を選んだ。脂と赤身が程よく混じり合っている部分だ。筋を丁寧に取り除き、薄く切る。できるだけ薄く。包丁の重さだけで刃を引き、肉の繊維を断つ。

 次に、香草を一つずつ嗅いでみた。

 一つは、生姜に似た鋭い香りがした。一つは、紫蘇に近い。一つは、どう転んでも使い道が思いつかないほど青臭かった。最後のは棚に戻した。

 干した茸を水に浸けて戻す。戻し汁は捨てない。茸の旨味がそこに溶け出している。そこへ猪の骨を入れ、弱火でじっくりと煮出していく。浮いてきた灰汁は、根気よく掬う。掬って、掬って、また掬う。

 竈の火加減を見ながら、畑の脇に生えていた野草を少しだけ摘んできた。蕨に似たものと、芹に似たもの。念のためにフィンに訊くと、どちらも食べられるという。

 根菜らしきものが一つだけあった。人参に似た色で、形は蕪に近い。これを薄切りにして、飾り包丁を入れていく。

 花の形に。

 五枚の花弁を、一枚ずつ切り出す。刃先を浅く入れ、角度を変えて、もう一度。花弁の縁が、わずかに反り返るように。

 手が勝手に動いていた。

 この技を覚えたのは、彼に食べさせるためだった。

 弁当の蓋を開けたとき、彼がどんな顔をするかが見たかった。一度だけ、「食べるのがもったいない」と言われたことがある。そう言いながら、彼は三口で平らげた。

 刃先が、花弁の最後の一枚で、ほんの少しだけ滑った。

 この世界のどこを探しても、あの弁当箱はない。蓋を開ける手もない。それなのに指は、三年前と同じ角度で、同じ深さに刃を入れている。

 竈の火が、ぱちりと爆ぜた。

 私は滑った一枚を指でつまんで口に放り込み、何事もなかったように次の根菜を手に取った。生のままの根菜は、少しだけ土の味がした。

 気がつくと、台所の入り口に人だかりができていた。

 フィンとバルトと、昨日畑で手を止めた女たちだった。子供も何人かいる。皆、土間の敷居から首を伸ばして、私の手元を覗き込んでいた。

 どうやら、匂いにつられて来たらしい。

 骨と茸の出汁が、ちょうどいい具合に香り立っていた。

「……何を、作っとるんじゃ」

 バルトが、鼻をひくつかせながら言った。

「朝飯だ」

「朝飯に、そんな手間をかけるもんかね」

「かけるものだ」

 言い切ると、女たちの間から小さな笑いが漏れた。

 出来上がったのは、猪の薄切り肉と野草の汁物だった。

 澄んだ出汁の中に、薄く引いた肉がふわりと浮いている。火を入れすぎないよう、肉は最後にさっとくぐらせただけだ。生姜に似た香草を刻んで散らし、紫蘇に似た葉を一枚添える。

 その上に、花の形に切った根菜を浮かべた。

 橙色の花が、澄んだ汁の上でゆっくりと回る。

 固いパンは薄く切って、猪の脂で両面をかりかりに焼いた。こうすれば、汁に浸さなくても食べられる。

 椀を、バルトとフィンの前に置いた。

 二人は、しばらく椀を見下ろしていた。

 フィンが、そっと匙を入れる。汁を一口すする。

 動きが止まった。

 それから、ものすごい勢いで二口目をすすった。三口目。肉を口に運ぶ。噛む。目を見開く。四口目。

 何も言わなかった。

 何も言わずに、椀が空になるまで一度も顔を上げなかった。

 空の椀を抱えたまま、フィンがようやく顔を上げた。

「カリンさんの国では、毎朝こんなのを作るんですか」

「毎朝ではない」

 私は鍋に目を移した。

 バルトは、フィンより少しだけゆっくり食べた。

 一口すすって、目を閉じた。しばらくそのまま、何かを味わうように黙っていた。それから目を開けて、ぽつりと言った。

「……死んだ婆さんに、食わせてやりたかったのう」

 それだけ言って、また黙って匙を動かした。

 敷居の向こうで、子供の一人が指をくわえていた。

 その隣の女が、子供の頭を小突く。けれど女自身の目も、椀から離れていなかった。

 鍋には、まだたっぷり残っている。

 そういうふうに、作ったのだ。

「椀を持ってきてくれれば、分ける」

 そう言うと、一瞬の沈黙があった。

 次の瞬間、人だかりが一斉に散った。それぞれの家へ、椀を取りに走っていったのだ。子供が転び、女が笑い、どこかの家で戸が乱暴に開け閉めされる音がした。

 私は鍋の前に立ち、お玉を手に取った。

 ふと、思った。

 彼以外の誰かのために、料理を作ったのは、これが初めてかもしれない。

 それが良いことなのか悪いことなのか、私には分からなかった。

 ただ、戻ってきた女たちが差し出す椀に汁をよそいながら、悪い気はしなかった。

 椀を受け取った女たちは、礼を言うより先に、その場で啜った。熱い、と言って舌を出し、それでも啜った。子供は椀に顔を突っ込むようにして、鼻の頭を汁で濡らした。

 鍋の底が見えるまで、それほどかからなかった。

 その日の昼前、戸口に籠が一つ置かれていた。誰が置いたのかは分からない。中には、土のついた芋と、葉物と、卵が三つ入っていた。

 夕方には、もう一つ。干した川魚が五尾。

 翌朝には、三つになっていた。

 籠の底に、炭で何か書いた木切れが一枚、入っていた。読めなかった。フィンに見せると、少し照れくさそうに読み上げてくれた。

「……今度、うちの子の誕生日に、あの花のやつを、って」

 バルトが縁側で、喉の奥で笑っていた。

「村じゅうの胃袋を握ってしもうたら、もう逃がしてはもらえんぞ。カリン」

            ◇

 その日の午後、バルトの家の物置を片付けた。泊めてもらう以上、料理だけでは足りないと思ったのだ。

 壊れた農具や穴の空いた籠を、一つずつ外へ運び出していく。判断に迷うものは、縁側で日向ぼっこをしているバルトに訊いた。バルトはそのたびに、白い眉の下で目を細め、ああそれはのう、と長い思い出話を始めようとした。私はそのたびに、要るか要らないかだけ教えてくれ、と遮った。

 物置の半分ほどを片付けた頃だった。

 奥の棚の、いちばん下の段。

 埃と蜘蛛の巣にまみれて、それはあった。

 ランタンだった。

 手のひらに載るほどの大きさで、骨組みは黒ずんだ金属。四方を囲む硝子は曇り、一枚にはひびが入っていた。底の部分に、見たことのない模様が彫り込まれている。昨夜フィンが灰で描いた円に、少しだけ似ていた。

 手に取った。

 その瞬間、指先が、わずかに痺れた。

 冷たい、と思った。いや、違う。金属の冷たさではない。もっと奥のほうから、何かが私の指に触れてきた。刀を初めて握ったときの感覚に、少し似ている。重さと、長さと、重心の位置が、握った瞬間に手のひらに吸いつくように馴染む、あの感覚。

 曇った硝子の奥で、何かが、ふっと灯った。

 小さな光だった。

 蛍よりも弱い。けれど、確かに灯っている。

 見ているうちに、光はゆっくりと強くなっていった。蛍から蝋燭へ。蝋燭から、もっと白く澄んだ光へ。薄暗い物置の奥を、真昼のように明るくしていく。

 揺らぎのない光だった。

 昨夜、フィンが灯芯に点けた火に似ていた。けれどそれより、ずっと静かで、ずっと強かった。

「おい、カリン、何を……」

 縁側から物置を覗いたバルトが、言葉を切った。

 杖をつき、よろよろと近づいてくる。私の手の中のランタンを見て、白い眉の奥の目が大きく見開かれた。

「……そいつが、点いとるのか」

「勝手に点いた」

「勝手に、のう」

 バルトは物置の入り口に寄りかかり、ランタンの光をしばらく眺めていた。

「そいつは、わしの爺さんのそのまた爺さんの頃から、この家にあるガラクタでな。自分で晶素を集めて灯るとかいう、ありがたい代物らしいんじゃが」

「らしい」

「何分骨董品じゃからのう、集める力が弱すぎてな。誰が持っても、蛍ほどにしか光らん。だから物置に放り込んだまま、忘れとった」

 バルトは、私の顔とランタンを交互に見た。

「それが、そんなに光っとるのは、初めて見た」

「私は、集める力がまるで無いんじゃなかったのか」

「そのはずじゃ」

「では、なぜ」

「わしに訊かれても分からん」

 バルトは肩をすくめ、それから皺だらけの顔で、少しだけ笑った。

「分からんが、ええじゃないか。夜道が明るくなる」

 私は手の中のランタンを見下ろした。

 光は、まだ静かに灯り続けていた。

 昨夜、どれだけ待っても一粒の光も寄ってこなかった指先で、今は、このランタンだけが明るく灯っている。

 理屈は分からなかった。

 私は理系科目が苦手だ。

 けれど、手のひらに吸いつくようなこの感覚だけは、嘘ではないと分かった。

            ◇

 夜。

 夕食は、朝のうちに取り分けておいた出汁で雑炊にした。村の女たちがお礼にと持ってきてくれた卵を、最後に落とした。

 フィンは三杯おかわりした。

 バルトは二杯目の途中で、椀を持ったまま舟を漕ぎ始めた。フィンがその手から椀を取り上げ、老人を寝床まで運んでいった。慣れた手つきだった。何年も、そうしてきたのだろう。

 私は縁側に出て、夜空を見上げた。

 星が、多い。

 日本の夜空とは比べものにならないほど、空一面に星が散らばっている。けれど北の空の半分だけは、星がない。そこには、昼に見た世界樹の黒い影が、夜空よりもさらに暗く、どこまでも高くそびえていた。

 足もとには、あのランタンを置いていた。

 まだ灯っている。私が物置から持ち出してから、一度も消えていない。

「隣、いいですか」

 背後から声がした。

 フィンだった。

 私が頷くと、フィンは少し間を空けて腰を下ろした。拳ひとつ分より、もう少し遠い。

「じっちゃん、寝ました」

「そうか」

「あんなにたくさん食べたの、久しぶりだと思います。最近はずっと、食が細くて」

 フィンは膝を抱え、世界樹の影を見上げた。

「……ありがとうございました。朝の、あれも。夜のも」

「礼を言うのは私のほうだ。泊めてもらっている」

「でも」

 フィンは何か言いかけて、やめた。

 しばらく、二人とも黙っていた。

 虫の声がする。遠くで、何かの鳥が一声だけ鳴いた。ランタンの光が、縁側の板の上に四角い影を落としている。

「あの」

 フィンが、世界樹を見上げたまま言った。

「カリンさんは、これから、どうしたいですか」

 その問いに、私は少しだけ息を止めた。

 階段の下に立っていた老人の、あの目を思い出した。

 君、やりたい事はあるのか。

 あのとき私は、答えられなかった。

 今も、答えは見つかっていない。分かっているのは、世界樹という途方もない木があって、結晶術という不思議な術があって、この村の人たちが私の料理を美味そうに食べてくれた、ということくらいだ。

 喉の手前まで、別の答えがせり上がってきた。

 彼を、探したい。

 世界樹の向こうに、同じように落ちてきた誰かがいないか。この星の多すぎる空の下の、どこかに。

 口の中に、さっきの雑炊の、出汁と卵の甘さがまだ残っていた。彼が「負けた」と呟いた、出汁巻きの味に少しだけ似ていた。

 根拠のない期待は、剣先を鈍らせる。

 私はその答えを、雑炊の後味ごと飲み込んだ。

 私は、少し考えた。

「明日の朝飯の支度だ」

 真顔で答えた。

 フィンは一瞬ぽかんとした。

 それから、吹き出した。

 膝を抱えたまま、肩を震わせて笑った。声を殺そうとして失敗し、しまいには縁側に仰向けに転がって笑った。

 私は少し驚いた。

 あの老人は、笑わなかった。

 この少年は、笑った。

 どちらが正しい反応なのかは分からない。けれど、笑ってもらえると、言った甲斐があったような気がした。いつもなら、言った時点で満足しているのに。

「そういう意味じゃ、ないです」

 フィンは涙を拭いながら、身を起こした。

「でも、分かりました。明日の朝飯、楽しみにしてます」

「期待していい」

「はい」

 フィンは笑ったまま、また世界樹を見上げた。

 ランタンの光が、その横顔を照らしていた。前髪の先だけが、昨夜の火柱でちりちりに縮れたままだった。

「この国のこと、じっちゃんに聞きましたか」

 しばらくして、フィンが言った。

「いや」

「ルンシアっていうんです。世界樹の麓にある国で、王都もあそこにあって」

 フィンは世界樹の影を指差した。

「王都のあたりは世界樹の枝が空を覆っていて、昼でも木漏れ日の中にいるみたいなんだそうです。だから、木漏れ日の国って呼ばれてるんです。でも、この村の森にも、木漏れ日はたくさんあるから」

 そこで、フィンは言葉を切った。

 横顔が、少しだけ赤くなった気がした。

 ランタンの光のせいかもしれない。

「……カリンさんを見つけたときも、木漏れ日の下でした」

 そう言って、フィンは膝に顔を埋めた。

 私は、世界樹の影を見上げた。

 木漏れ日の国。

 目を覚ましたとき、瞼の裏でまだらに揺れていた光を思い出す。あれがこの国の、最初の挨拶だったのかもしれない。

 悪くない名前だ、と思った。

「いい国だな」

「……はい」

 フィンは膝に顔を埋めたまま、くぐもった声で答えた。

 耳の先が、ランタンの光よりも赤かった。

 やはりこの少年は近づくと固まる手合いなのだな、と思った。

 それから、少し考えを改めた。

 固まるだけではない。

 よく懐く。よく食べる。笑うときは、全身で笑う。

 道場の近所で飼われていた、白い毛並みの大きな犬を思い出す。私が前を通るたびに柵から身を乗り出して尻尾を振り、撫でてやると腹を見せて転がった。

 あの犬に、少し似ている。

 そう思ったら、ほんの少しだけ、口元が緩んだ。

 気がつくと、手が伸びていた。

 あの犬にしていたのと同じように、フィンの頭に手を置く。火柱で縮れた前髪ごと、わしわしと撫でた。

 フィンが、固まった。

 撫でる手の下で、頭がぴくりとも動かない。息も止まっている。首筋から耳の先まで、見る見るうちに赤く染まっていく。

 そのまま、横倒しに縁側へ転がった。

 ごとん、と板が鳴った。

「……フィン?」

 返事はない。膝を抱えた格好のまま、腕で顔を覆って丸まっている。

 犬なら、ここで腹を見せるところだ。

 やはり少し違うらしい。この分類は、もう少し見直しが必要かもしれない。

 足もとで、ランタンの光が静かに揺れていた。


(第一章 了)

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