序章 日暮れ
夕方の商店街は、一日のうちでいちばん騒がしい。
八百屋の軒先では売れ残りの菜の花が束ごと値を下げられ、惣菜屋のガラスケースではコロッケが最後のひと山になっている。揚げ油と線香と春の土の匂いが、アーケードの下でひとつに混ざっていた。
その中を、下駄で歩く。
からん、ころん。歯がタイルを打つ音が、雑踏の底で小さく跳ねる。自分では気に入っている音だが、すれ違う人の何人かは振り返る。藍の紬に生成りの帯。帰ってから着替えただけの格好なのに、よほど珍しいらしい。
洋服が嫌いなわけではない。ただ、袖や裾から季節の風が通っていく和装のほうが、ずっと気持ちがいい。
振り返った女子高生の二人連れが、何か囁き合って小さく笑った。見覚えのある制服だから、同じ学校の下級生かもしれない。軽く会釈を返すと、二人はそろって固まった。
近づくと固まる手合いか、と私は思う。
人間にはおおむね二種類ある。近づくと固まる者と、近づくとやたらに腕を組んでくる者だ。私の周りの女子は、なぜかたいていそのどちらかに分かれる。理由はまだ解明できていない。男子にはそういう分類がないので、たぶん女子に特有の現象なのだろう。
肉屋の前で、揚げ場の親父さんが顔を上げた。
「お、今日もかい」
「今日もです」
「メンチ、一個持ってくかい。揚げすぎちまったんだ」
「今日もですか。店を表通りに移したほうがいいですよ」
「……相変わらず遠慮がねえなあ」
親父さんは苦笑いして、紙に包んだメンチカツを一つ差し出した。礼を言って受け取り、代金を払おうとすると、手をひらひらさせて追い払われる。三年も同じ時刻に同じ道を通れば、こういう顔見知りも増える。
包みの端をめくって一口かじる。揚げ置きのせいで衣が少ししなびている。玉ねぎを炒めずに生で混ぜているから、甘みの出方も雑だ。これがもし家で出てくるなら、私は迷わず台所に駆け込むだろう。
それでも春の風に包まれて、夕方に歩きながら食べる揚げ物は、たいていのものよりずっと美味い。
肉屋の角を曲がると、アーケードが途切れる。
屋根がなくなると視界が開けた。空の端が熟れた柿のような色に焼け、電線が何本も黒い五線譜のように横切っている。春の日暮れは足が遅い。三月の終わりともなれば、学校から帰って着替えて家を出ても、まだこうして夕焼けが残っている。
表通りから一本外れると、町は急に静かになる。
古い木造の家と新しい建売の家が、歯抜けのように並ぶ路地。どこかの家で夕飯の支度をする包丁の音がする。とん、とん、とん。規則正しいが、少し急いでいる。小学生くらいの子供が自転車で脇をすり抜けていき、ベルを一度だけ鳴らした。
メンチカツの最後のひと口を飲み込み、包み紙を小さく畳んで袂に入れる。
路地の突き当たりに、そのアパートはある。
二階建てで、部屋は上下に三つずつ。壁のモルタルは雨の筋で灰色にまだらになり、外付けの鉄階段は塗装がほとんど剥げている。建物の名前を記したプレートは、錆で三文字目から先が読めない。
ここへ来るのは、今日で何度目だろう。
数えていたのは最初の半年くらいまでだった。百を超えたあたりで、数えることに意味を見出せなくなってやめた。
今どき珍しいトタンの階段の一段目に足をかける。
ぎい、と鉄が鳴った。
下駄で上るには向かない階段だ。下駄の歯が踏み板の縞模様に噛んで、上るたびに身体が半歩ずつ置いていかれるような感じがする。手すりは錆で指先がざらつくので触らない。触らなくても上れるくらいには、この階段の癖を覚えてしまった。
十三段。二階の廊下。
奥から二つ目の扉の前で立ち止まる。
表札には、角張った手書きの文字で「實条」とある。
マジックで書いた字だ。三年前はもっと黒々としていたはずだが、今は西日に焼けて茶色く褪せている。引っ越しの日に私が書いたものだった。自分で書けと言ったのに「お前の方が字が上手い」と押しつけられたのだ。実際、名前の主の字は崩れていて、表札にできるような代物ではなかった。
呼び鈴に指を置く。
押す。
ピンポン、と間延びした音が扉の向こうで鳴り、それきり何も起こらない。
足音もない。返事もない。テレビの音も、湯を沸かす音も、寝ぼけた声で「開いてるぞ」と言う声もない。音が部屋の空気にぶつかり、行き場をなくして消えていくのが扉越しにでも分かる。
私はその無音を、しばらく聞いている。
これが三年間の習慣だ。
呼び鈴を鳴らし、無音を聞き、帰る。
それ以上のことはしない。合鍵は持っているが、使ったことは一度もない。中に入ってしまえば、何かを確かめてしまう気がした。何を確かめるのかは、自分でもよく分からない。
◇
彼は、私が初めて男の子として意識した相手だった。
道場には男ならいくらでもいた。祖父がいて、師範代がいて、門下生がいて、みんな私より背が高く、私より力が強かった。けれど私にとって彼らは、打ち込む相手であり、打ち込まれる相手であり、それ以上のものではなかった。汗臭い稽古着の塊が、たまたま人の形をして歩いているようなものだった。
学校でも似たようなものだった。
私は教室で浮いていた。理由は自分でも分かっている。笑うべきところで笑わないし、泣くべきところで泣かない。ひとの動きを見ていると、次にどう動くかがなんとなく分かってしまう。だから会話の先回りをして、相手の言葉を奪ってしまう。
いつだったか、可愛げがないとはっきり言われたことがある。言われて当然だと思ったので「その通りだ」と返したら、ますます気味悪がられた。
中学一年の冬だった。
上級生の何人かに、校舎裏へ呼び出された。何が気に入らなかったのかは、今となっては覚えていない。私のほうは覚えていなくても、あちらには気に入らない理由がたくさんあったのだろう。
私は困っていた。
怖かったのではない。困っていたのだ。道場の外で人を打ってはならないと、祖父にきつく言われていたから。かといって黙って殴られるのも癪だった。相手は四人。どう転ばせれば誰も怪我をしないか、頭の中で順番を組み立てていた。
そこへ、あいつが割って入った。
道場で二年ほど前から見かけるようになった少年だった。年中日に焼けたような浅黒い肌をして、ひょろりと細い。剣の才能はまるでないと祖父に言われ、槍ばかり振らされていた。
彼は私と上級生の間に立つと、へらへら笑いながら何か適当なことを言った。何を言ったのかは、これも覚えていない。四人のうちの一人が彼の胸ぐらを掴んだ。彼はそれを振りほどきもせず、「先生来てるぞ」と嘘をついた。
上級生たちは舌打ちして去っていった。
あとには胸元のボタンを一つ飛ばされた彼と、私が残った。
「余計なことをしたな。あのくらい、私ひとりでどうにでもなった」
「知ってるよ」
彼はあっさり頷いた。
「お前が本気出したら、あいつら骨の一本や二本じゃ済まないだろ。だから止めたんだ。先生に怒られるのはお前だからな」
そう言って、地面に落ちたボタンを拾い、ポケットにしまった。
「縫っといて。俺、裁縫できないから」
嘘だった。
あとで知ったが、彼は家事全般を何でもこなした。早くに両親を亡くし、遠縁にあたる私の祖父の道場に引き取られるまでのあいだに、ひと通り身につけざるを得なかったのだという。ボタン付けくらい、私よりずっと上手かったはずだ。
私はその夜、慣れない針で彼のボタンを付けた。三度指を刺した。
翌日それを渡すと、彼は「下手くそだな」と言って笑った。
笑みを返されるとは何故か想像していなかった。
そのとき私は、生まれて初めて、目の前の相手が次に何をするのか分からなかった。
分からないということが、あんなに心地よいものだとは知らなかった。
◇
それから先のことは、あまり思い出さないようにしている。
思い出すと、長くなるからだ。
その日から、気づけば彼を目で追っていたこと。彼と並んで道場へ帰る日が、少しずつ増えていったこと。色恋にまるで疎い彼が、最初は困ったような顔ばかりしていたこと。そのくせいつの間にか、道場の誰が見ても分かるほど私を甘やかすようになっていたこと。彼に食べさせたくて、家の料理人に頭を下げて包丁の握り方から教わったこと。彼が私の出汁巻きを一口食べてしばらく黙り込み、「負けた」と呟いたこと。
それから、ある日を境に、彼がいなくなったこと。
三年前の春だった。
学校に来なかった。道場にも来なかった。電話もつながらなかった。この部屋を訪ねると鍵がかかっていて、管理人に頼んで開けてもらった中は、いつもどおり散らかっていた。流しには洗いかけの茶碗が一つ。畳の上には読みかけの文庫本が伏せてあった。財布も携帯電話も、そこに置いたままだった。
警察が来て、祖父が来て、学校の先生が来た。
誰も彼を見つけられなかった。
家出か、事故か、事件か。大人たちはさまざまな言葉で可能性を並べたが、どれもしっくりこなかった。彼は確かに雑な人間だが洗いかけの食器を放置する人間ではなかったし、理由もなく人を置いていくような男でもなかった。事故や事件なら、もう少し何かが残るはずだった。何も残っていなかった。まるで彼の周りから、彼という形だけを抜き取ったように。
それ以来、私はここへ通っている。
祖父は何も言わない。止めもしないし、慰めもしない。ただ一度だけ、稽古のあとで「待つのは、剣より難しいぞ」と言った。
そうでもない、と私は答えた。待つのは、何もしなくていいから楽だ。
祖父はそれきり黙った。
三年のあいだに、いろいろなものが私を通り過ぎた。
道場の免許を皆伝した。十八になった。背が少しだけ伸びた。髪は肩より下まで伸びたが、切る理由がないので伸ばしたままにしている。弁当は、今も毎朝二つ詰めている。やめる理由も、見つからないからだ。
進路の話は何度も来た。そのたびに、家を継ぐとだけ答えた。自分で何かを選んだという覚えはない。
選ぶ必要もなかった。
道場を継ぐのは、そういう家に生まれたからだ。料理を覚えたのは、彼に食べさせるためだ。ここへ通うのは、彼が帰ってくるかもしれないからだ。
私の毎日は、誰かのために、あるいは何かのために、きちんと形を与えられている。
それで不足があるとは思わなかった。
◇
呼び鈴から指を離し、廊下の手すり越しに外を眺めた。
西の空はさっきより赤みを増している。向かいの家の瓦屋根が、濡れたように橙色に光っていた。どこかで烏が鳴いている。一羽、二羽、それから少し離れたところでもう一羽。
そろそろ帰ろうと思ったとき、下から声がした。
「また来たのか」
階段の下に、老人が一人立っていた。
背の高い人だった。背骨に鉄の棒でも通っているように、真っ直ぐ立っている。着ているのは古い外套で、色の名前がうまく出てこない。茶色でもない。緑でもない。枯れ草と泥を混ぜて何十年も日に晒したら、あるいはこんな色になるのかもしれない。胸のあたりには、何かを外したあとのような糸の跡がいくつか並んでいた。
このアパートの管理人だ。
一階の端の部屋に住んでいて、扉に「管理人室」と書いた板が掛かっている。三年前、この部屋の鍵を開けてくれたのもこの人だった。以来、何度か顔を合わせている。交わすのは挨拶くらいのもので、名前も知らない。
「こんばんは。今日も、留守のようです」
老人は答えなかった。私を見上げたまま、瞬きもせずに立っている。
この人のこういうところが、私は少しだけ苦手だった。
私はひとの動きを見れば、次に何をするのかはなんとなく分かる。重心の置き方、肩の力の抜け方、視線の揺れ。どれも嘘をつかない。けれどこの老人には、それがない。どこにも力が入っていないのに、どこにも隙がない。祖父と向き合ったときに少し似ている。しかし祖父よりもっと、底が見えない。
「三年だな」
「ええ。三年です」
「まだしばらくは部屋は、片付けないでおく」
「……ありがとうございます」
礼を言うのが正しいのかどうか、分からなかった。家賃を誰が払っているのか、私は知らない。祖父に聞いても答えなかった。この人に聞いたことはない。聞けば、何かが終わってしまう気がした。
老人は、階段の一段目に足をかけた。
ぎい、と鉄が鳴った。
私が上ってきたときよりも、ずっと重い音だった。
老人は上ってはこなかった。片足を階段にかけたまま真っ直ぐに私を見て、それから言った。
「君、やりたい事はあるのか」
唐突な問いだった。
世間話の続きには聞こえなかった。声の調子はさっきまでと少しも変わらないのに、言葉の置かれ方がまるで違う。稽古の終わりに、祖父が型を一つだけ見せて「今のは何だ」と訊くときの置き方に似ていた。
「やりたい事、ですか」
「そうだ」
私は少し考えた。
「晩飯の支度です」
真顔で答えた。実際、帰ったら鰆を焼くつもりだった。台所の者には任せず、自分でやると言ってある。昨日のうちに味噌床へ漬けておいたから、ちょうどいい頃合いのはずだ。
老人は笑わなかった。
怒りもしなかった。私の答えなど聞こえなかったかのように、同じ姿勢のまま、同じ目でこちらを見ていた。
私は言った時点で満足していたので、それで構わなかった。
構わなかったはずだった。
けれど老人は目を逸らさなかった。夕陽を背に受けた老人の影が階段を長く這い上がり、私の足もとに届いていた。沈黙が一秒、二秒と積み重なっていく。烏がまた一羽鳴いた。
もう一度考えた。
今度は、少し本気で。
やりたい事。
道場を継ぐ。それは、そういう家に生まれたからだ。
料理をする。それは、彼に食べさせるためだった。
ここに通う。それは、彼が帰ってくるかもしれないからだ。
どれも、私がやっていることではある。
けれど、私がやりたいことなのかと問われると、言葉が喉の手前で止まった。どの答えにも主語が二つある。私と、私以外の誰か。そして問われているのは、たぶん片方だけなのだ。
「……分かりません」
口に出してみると、思っていたよりずっと心細い声だった。
老人はしばらく黙っていた。
それから、ほんのわずかに顎を引いた。頷いたのか、ただ目を伏せたのか、判断がつかなかった。この人の動きは、やはり読めない。
「そうか」
それだけ言うと、老人は階段にかけていた足を下ろした。
背を向けて、一階の端の部屋へ歩いていく。外套の裾が揺れ、枯れ草色の布が夕陽の中で一瞬だけ赤く染まった。扉の前で立ち止まると、振り返らずに一言だけ付け加えた。
「探すといい」
何を、とは言わなかった。
扉が閉まった。
◇
私はしばらく、その場に立っていた。
探すといい。
彼をだろうか。それとも、さっき答えられなかったものをだろうか。
どちらにしても、あの老人に言われる筋合いはない。そう思ったが、腹は立たなかった。腹を立てるには、問いが正しすぎた。
袂の中で、畳んだメンチカツの包み紙がかさりと鳴った。
帰ろう。
鰆が待っている。
廊下を戻り、階段の降り口に立つ。一段目に下駄を下ろす。
ぎい、と鉄が鳴った。
二段目。ぎい。
三段目で、足が止まった。
止めたのではない。止まったのだ。
音が、違った。
軋みがいつもより長い。鉄が鳴っているのではない。何かもっと大きなものが、ゆっくりと身をよじっているような音だった。建物ではない。地面でもない。もっと遠く、もっと深いところで、太い綱が一本ずつ撚りをほどいていくような音。
私は顔を上げた。
西の空で、夕陽が最後の縁を家並みの向こうへ沈めようとしていた。
その縁が、光った。
閃光と呼ぶほかない光だった。沈みかけの太陽は、目を向けても平気なほどに弱っているはずだ。それがその一瞬だけ、真昼の太陽をまともに覗き込んだような白さで私の目を焼いた。橙も赤もなかった。ただ白かった。
白の中で、誰かがこちらを見た気がした。
ほんの一瞥だった。振り返りざまに道端の小石へ目をやるくらいの、ごく短い一瞥。その視線がどこから来たのか、私には分からなかった。前からでも後ろからでもない。強いて言えば、少し先から来た。これから私が立つ場所のほうから。
足もとで、鉄の踏み板の感触が消えた。
落ちる、と身体が先に判断して、膝が勝手に柔らかくなる。受け身を取る準備。祖父に何千回と叩き込まれた動きだ。
けれど、どこにも落ちなかった。
下駄の歯が、何も踏んでいなかった。
風が、袖の中を通っていった。
春の夕方の、湿った土の匂いのする風ではなかった。もっと青く、もっと濃く、たくさんの葉を一度にくぐり抜けてきたような風だった。
遠くで、呼び鈴の音がした気がした。
私が鳴らしたものではなかった。
◇
窓のない部屋にも、日暮れだけは届く。
壁に窓はない。天井に、一枚だけ硝子をはめてある。城のいちばん奥、いちばん低いところにあるこの部屋に、昼の光は差し込まない。ただ日が沈む少し前のわずかな時間だけ、傾いた西日が塔の外壁に仕込んだ鏡を何枚も伝い、硝子を抜けてここまで降りてくる。
そういうふうに作らせたのは、俺だ。
一日のうちで、この部屋がいちばんきれいに見える時間だからだ。
「よう」
返事はない。いつものことだ。
部屋の真ん中に、彼女がいる。
石の台座の上で、片膝をついている。右腕は天井へ向けてまっすぐ突き出され、開いた指の先はまだ何かを描きかけているように見える。身体は半ば捻れ、左手は、台座に敷いた浜の砂を、指が埋まるほど強く掴んでいる。あの浜から運ばせた砂だ。
あの日、浜辺でこいつが最後の術を放った、その瞬間のままの姿だ。
歯を食いしばった横顔は、どう見ても苦しそうだった。それなのに口の端だけが、ほんの少し上がっている。勝った、とでも言いたげに。実際に勝ったのだから、文句のつけようもない。
肌も髪も、もう肌でも髪でもない。
薄く色づいた結晶が、彼女のかたちをそのまま写し取っている。褐色の頬は、琥珀を磨いたような透き通った茶色に。黒い革鎧は、夜の海の底みたいに光を吸う黒に。銀の髪は、一本一本が細い結晶になって、海風にあおられたまま宙で止まっている。
その毛先に、日暮れの光が当たる。
きらり、と光る。
生きていた頃から、こいつの髪は毛先だけが結晶になっていた。房が揺れると煌めく姿は美しかったがそれは病の証しだった。晶素を扱いすぎる体質を本人は「勲章だ」と言い張っていた。夕陽に透かすと、ちょうどこんなふうに光った。
今は、全身がそうなっている。
勲章にしては、ずいぶん大げさだ。
台座の足もとに、小さな膳を置く。
握り飯が二つと、蓋をした椀が一つ。毎日の日課だ。
別に供養のつもりはない。こいつは目を覚ますと、真っ先に「お腹すいた」と騒ぐ奴だった。研究に没頭して三日飲まず食わずで倒れ、資料の山から掘り出してやったときですら、第一声はそれだった。
だから、いつ起きてもいいように置いておく。
起きるはずがないのは、誰よりも俺が分かっている。結晶になったものは戻らない。この世界の理屈をいちばん近くで見てきたのは俺たちだ。それでも、明日の分を作らない理由にはならない。
冷めた昨日の膳を下げて、俺は壁に背を預けた。
部屋の隅には、長柄の武器を一本立てかけてある。穂先の斧刃が、天窓からの光を受けて紫にも金にも見える。ここへ来るときまで持ち歩く必要はないのだが、手放すと落ち着かない。九十年もこの世界にいると、そういう癖ばかりが増える。
九十年。
口に出すと、冗談みたいな数字だ。
俺の身体は、三つしか歳を取っていない。鏡を見るたびに、自分の顔がまだ高校生のそれであることにいちいち驚く。俺の身体が向こうの時計に合わせて歳を取っているのなら、向こうではまだ三年か。
三年。
あいつは十八になっている。
「なあ。お前には話したことあったよな。向こうに、置いてきたやつがいるって」
もちろん話した。何度も話した。焚き火の前で、宿の二階で、崩れかけた塔の階段で。こいつは話を聞くたびに頬を膨らませて、「またその女の話?」とそっぽを向いた。そのくせ、俺が話し終えるまで一度も遮らなかった。
「帰りたかったんだよ、最初は」
声に出すと、案外すんなり出てくる。
「王子のやつも、帰る方法を探してやるって言ってくれた。あの国の偉い学者を片っ端から呼んでさ。……結局、見つからなかったけどな」
見つからなかったのか、見つけさせてもらえなかったのか。今となっては、どちらでもいい。
そのうちに、帰る理由より、帰れない理由のほうが増えていった。
最初の戦で、槍の一突きで大きな術を散らしてみせた。それだけで勇者と呼ばれるようになった。勇者と呼ばれたら、次の戦にも呼ばれた。次の戦で勝ったら、その次にも呼ばれた。呼ばれるたびに、背負うものが増えた。
やがて、こいつと二人で、世界を見て回った。
旅の途中で、娘を一人拾った。三人で旅をした。
国がひとつ建つのを手伝った。
そして、こいつを、失った。
かわりにやっと家を得た。
一つひとつが、戻れない理由になった。
どれか一つだけなら、まだ言い訳のしようもあった。全部並べてしまうと、もう手遅れだと認めるしかない。
「戻れない」
口に出してみた。
声は石の壁に吸われて、思ったほど響かなかった。
「手遅れだ」
言ってしまうと、少しだけ楽になる。これも九十年のあいだに覚えた癖だ。
記憶の中のあいつは、強い娘だった。
だからもうとっくに、俺のことなど忘れているだろう。そうであってほしいと思う。
いや、それは嘘だ。忘れられているかもしれないと想像すると、下げたばかりの冷めた椀に触れた指先から、すうっと温度が抜けていく。まったく、九十年経っても治らないものは治らない。
それでも、忘れていてくれたほうがいい。
あいつは、ひとの未来ばかり見ているくせに、自分の未来をあまり考えない奴だった。家を継ぐとか道場を守るとか、そういうことを当たり前みたいな顔で口にする。俺が消えたせいで、あいつの当たり前のなかに「待つ」なんて項目が増えていたら、たまったもんじゃない。
待たなくていい。
探さなくていい。
どうか、自分のために生きていてくれ。
それを直接言ってやれないことを、手遅れと呼ぶのだろう。
天窓の光が、少しずつ細くなっていく。
床に落ちた四角い光の枠が台座を這い上がり、彼女の膝を越え、胸を越え、髪の先を照らす。
毛先が、また、きらりと光った。
その瞬間だった。
耳の奥で、音が鳴った。
ピンポン、と間延びした音。
俺は顔を上げた。
この部屋に呼び鈴などない。この城のどこにもない。この世界のどこを探しても、あんな間の抜けた音で来客を知らせる仕掛けは存在しない。俺が作らない限り。
そして俺は、作っていない。
音は一度きりで止んだ。
そのあとに、声がした気がした。
何と言ったのかは分からない。言葉になる前の、息の音のようなものだった。けれど、その息の吸い方を俺は知っていた。何かを言う前に、ほんの少しだけ間を置く癖。相手の出方を読んでから、ようやく口を開く癖。
九十年、一度も聞いていない。
それなのに、聞き間違えようがなかった。
立ち上がりかけて、やめた。
立ち上がって、どこへ行くというのだ。扉の外には、見慣れた城の廊下があるだけだ。その先には俺が作った街があり、その先には海がある。どこにも、あいつはいない。
いるはずがない。
「……参ったな」
結晶の彼女は答えない。けれど見上げた横顔が、なんだか呆れているように見えた。
またその女の話? と。
「悪いな。年のせいか、幻聴まで聞こえるようになった」
言ってから、少し笑った。
「……ああ。そうだよ。その女の話だ」
天窓の光が消えた。
部屋が夜の色に沈んでいく。台座の足もとで、置いたばかりの椀から立つ湯気だけが、まだ白く揺れていた。
暗がりの中で、名前を呼んだ。
九十年ぶりに、声に出して。
「……佳凛」
返事は、どこからもなかった。
それでいい、と思った。
返事がないのは、あいつが向こうで、あいつの日暮れを生きているからだ。
そう信じていられるうちは、俺はまだ、ここでいつもの顔をしていられる。
俺は膳の蓋を直し、灯りのない廊下へ出た。
◇
落葉歴九百八十三年、春。
同じ日暮れ。遠く南西、世界樹を仰ぐ深い森の底で、誰にも聞かれないまま、下駄の音がひとつ鳴った。
からん。
(序章 了)




