↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
越境者の足跡  作者: 野良野良猫
四.彼の足跡
PR
35/36

第一章 彼の踊り子

 その夜は、とうとう一度も目を閉じなかった。

 窓の外が灰色から白へ変わり、港が動きはじめた。漁船が一艘ずつ入り江を出ていき、網を肩にかけた男たちが桟橋で声を掛け合う。斜面の家々から魚を焼く煙が細く昇って、潮の匂いに混ざった。どこにでもある海辺の町の朝だった。

 チトセは名前を告げたあと、それきり何も話さなかった。刀を抱いて壁にもたれ、明け方に少しだけ眠った。白い睫毛が、寝息に合わせてかすかに揺れていた。

 私は膝の上に綺綺羅羅を寝かせて、その寝顔を見ていた。

 鯉口を親指で切り、また納める。ちん、と小さな音がする。それを何度か繰り返して、やめた。音が、ひどく軽かった。

 昼過ぎ、チトセに連れられて岬の坂道を上った。

 坂は石を敷いただけの細い道で、両側の家の軒先に干した魚が並んでいた。開いた鰺が、腹を陽に向けて乾いている。子供が二人、その下をくぐって駆け下りていき、すれ違いざまにチトセへ手を振った。チトセは手を振り返さなかったが、子供たちは気にした様子もなかった。

 坂の上の城は、近くで見るとますます小さかった。灰色の石を海風に削られるまま、飾り気もなく積み上げてある。門に衛兵はおらず、扉は開け放しだった。

 中に入ると、帳面を抱えた若い男が廊下を走ってきて、私たちの前で足を止めた。

「あ、チトセさん。……ということは、そちらが」

 若い男は私の顔を見て、それから背筋を伸ばして頭を下げた。

「議長から伝言です。日が傾いたら、下へ、と」

「下?」

 若い男は少し困った顔でチトセを見た。チトセが小さく頷いた。

「議長は今、港の集まりで司会をしています。灯台の油代で揉めているので、たぶん長くなります。それまでこちらで」

 通された小部屋で、茶を一杯もらった。

 窓の下の広場に人が集まっていた。段の上で誰かが手を挙げると、何十本もの手がそれに続いて上がった。あの中に斂がいるのかもしれなかった。遠すぎて、どれが誰の手なのか見分けられなかった。

 茶は口をつけないまま冷めていった。湯気が細くなり、やがて消えて、器の縁に薄い膜が張った。

 日が傾いたら、と斂は言ったのだ。昼過ぎでも、今すぐでもなく。わざわざその刻限を選んだ理由を、私は知らなかった。

 窓の外の海が橙に染まりはじめた頃、チトセが立ち上がった。

「……行こう」

 狭い廊下を抜け、石の階段を下りた。さらに下りた。窓のない廊下が続き、壁の晶具の灯りがぽつりぽつりと足もとを照らしている。波の音が、石の向こうからくぐもって聞こえた。足音が自分のものだけ妙に大きく響いて、チトセの足音はほとんどしなかった。

 一番奥の、一番低いところに、古い木の扉が一枚だけあった。

 チトセが扉の前で振り返った。

「……お嬢さん」

「なんだ」

「……会えば、分かる」

 昨夜と同じ言葉だった。チトセはそれ以上何も言わずに、扉を押した。

            ◇

 窓のない部屋だった。

 それなのに暗くはなかった。天井に硝子が一枚だけはめてあり、そこから夕陽の色をした光が斜めに降りてきていた。どこかで鏡が西日を拾っているのだろう。光は床の上に四角い枠を落とし、その枠の中に石の台座があった。

 台座の上に、娘がいた。

 片膝をつき、右腕を天井へ向けてまっすぐ突き上げている。開いた指の先は、何かを描きかけたまま止まっていた。左手は、台座に敷かれた白い砂を、指が埋まるほど強く掴んでいる。身体は半ば捻れ、銀の髪が横ざまに流れたまま宙で固まっていた。海風にあおられた形のままで。

 頬は琥珀を磨いたような透き通った茶色で、黒い革鎧は光を吸う深い黒だった。肌も髪も鎧も、全部が結晶だった。

 歯を食いしばった、苦しそうな横顔だった。それなのに口の端だけが、ほんの少し上がっていた。

 誰なのかは知らなかった。チトセが話さないと言った九十年の、どこかにいる人なのだろうということだけは分かった。

 台座の足もとに小さな膳が置いてあった。握り飯が二つと、蓋をした椀が一つ。蓋の隙間から細い湯気が昇っていた。

 匂いが届いた。

 煮干しの出汁だった。この街に来てから何度も嗅いだ匂いで、それでも、こんな狭い部屋で嗅ぐと違って聞こえた。頭を取らずに煮出したときの、少し苦い匂い。腹わたを取るのを面倒がって、あいつはいつもそうしていた。

 部屋の隅に、長柄の武器が一本立てかけてあった。穂先の斧刃が天窓の光を受けて、紫にも金にも見えた。

 その隣の壁に背を預けて、男が一人座っていた。

 黒に近い茶色の髪。少し日に焼けた浅黒い肌。細い身体。片膝を立てて、その膝に腕を載せている。道場の縁側で、稽古のあとにいつもそうしていた座り方だった。

 男は扉の音に顔を上げていた。

 目が合った。

 塔の上で、割れた仮面の下から覗いた顔だった。その前は、縁側で西瓜の種を庭に飛ばしていた顔だった。どちらとも、何ひとつ変わっていなかった。

 斂だった。

 左手が、勝手に動いていた。

 綺綺羅羅の鞘を握り、親指が鍔の縁にかかる。鯉口が、指の腹で一分ほど押し出されたのが分かった。

 斂はそれを見ていた。私の手ではなく、私の顔を見ていた。

 誰も動かなかった。天窓の光だけが、ゆっくりと台座を這い上がっていった。結晶の娘の膝を越え、胸を越え、突き上げた腕の指先を越えて、宙で止まった髪の毛先に届いた。

 毛先が、きらりと光った。

「……佳凛」

 掠れた声だった。長いこと閉めきっていた戸を、無理に開けたような声。

 斂は壁から背を離し、立ち上がろうとした。片手を床について膝を浮かせ、そこで止まった。しばらくその格好のままでいて、それからまた、ゆっくりと腰を下ろした。

 へらりと笑おうとしたのだと思う。口の片側だけがそういう形になって、もう片側はついてこなかった。

「……来ちまったんだな」

 私は何も言わなかった。言うことは一晩かけて全部考えてあった。殴るのか、斬るのか、泣くのか。その全部が、出汁の匂いのする狭い部屋の中で、どこかへ行ってしまっていた。

 斂は膝の上の腕を下ろし、両手を床に置いた。逃げる者の手の置き方ではなかった。

「全部、話す」

 斂は言った。

「どこから来て、何をして、何を斬ったか。……お前の知らねえとこも、知ってるとこも、全部。聞いてから、殴るなり斬るなり、好きにしろ」

 指の下で、鯉口がもう少しだけ押し出されかけた。

 押し戻した。

 ちん、と鳴った。昨夜の宿で鳴らしたのと同じ音なのに、石の壁に返って、ずっと重く聞こえた。

 私は斂の正面、三間ほど離れた床に膝をつき、そのまま座った。背筋を伸ばし、鞘ごと抜いた綺綺羅羅を身体の左に置いた。右に置けば、抜く気がないという作法になる。左は、抜ける側だった。

 斂はそれを見て、何も言わなかった。分かっていて言わないのだと、私にも分かった。祖父の道場で、同じ作法を同じ畳の上で習ったのだから。

 チトセが膳の脇に腰を下ろした。刀を膝に抱え、台座の娘の足もとに寄り添うように。

「……そいつは」

 斂が台座へ目を向けかけて、途中で私に戻した。

「リダ。……順番に話す。こいつは、途中で出てくる」

 天窓の光が、少しだけ赤くなった。

 斂は一度だけ息を吐いた。何かを言う前に、首の後ろを掻く癖があった。今も、掻いた。

「どこから話すかな。……まあ、落ちてきたとこからでいいか」

           ◇

 流しで茶碗を洗ってたんだよ。

 学校から帰って、学ランも脱がねえで。飯を食った茶碗に水を張って、洗剤のスポンジを握ったとこまでは覚えてる。窓の外が妙に白く光って、まぶしいなと思って顔を上げた。そこで終わりだ。

 気づいたら、仰向けに転がってた。

 背中の下が柔らかくて、芝だと分かるまでに少しかかった。頭の上に、見たこともねえ太さの枝が何本も、空を覆うみたいに伸びてた。枝のあいだから春の陽が斜めに射して、顔の上でまだらに揺れてた。

 噴水の音がしてた。どこかで鋏が枝を払う、しゃきん、しゃきんって音も。

 右手を見たら、スポンジはなかった。足は靴下のまんまで、左の親指のとこに穴があいてた。

 自分の頬をつねった。痛かった。

「……マジか」

 それが、この世界で俺が最初に言った言葉だ。誰にも通じなかった。

 落葉歴で言えば、八百九十三年の春。

 お前の側じゃ、俺が消えた春だ。

 落ちた先が悪かった。

 いや、良かったのか。今でも分からねえ。

 そこはルンシアの王城の中庭で、噴水の向こうの四阿に、黄金の髪のエルフが一人座って書類を読んでた。脇に近衛の騎士が二人。俺が落ちてきた光に、騎士は剣の柄に手をかけて前に出たけど、そのエルフは書類から目も上げなかった。

「騒ぐな。庭師が何か落としたのであろう」

「殿下、しかし」

「我は忙しい」

 それが、エルデリックだ。

 その頃のあいつは、見た目は二十五かそこらで、実際は四十を少し越えてた。エルフの王族としちゃ若造もいいとこで、その若造が王城の実務を半分がた握ってた。敵が多いのは当然だった。

 鋏の音が、止んだ。

 俺はそっちを見てた。見ちまうんだよ、昔から。動くもんがあると目が勝手に追う。じいさんにはそれで、剣は向いてねえって言われた。相手が肩を一寸揺らしただけで、俺の剣はそっちへ飛んでく。全部のフェイントに律儀に引っかかる。

 薔薇の垣根の奥から、庭師の格好をした男が出てきた。手に鋏はなかった。かわりに右の手のひらの上で、光の粒が渦を巻いて縮んでいくとこだった。

 何なのかは分からなかった。分からねえけど、まずいってことだけは分かった。周りの空気が、その手のひらに吸い込まれてく感じがしたんだ。耳がつんとした。

 騎士の一人が叫んで斬りかかった。

 男は左手を軽く振っただけだった。それで騎士が宙に浮いて、垣根に叩きつけられて動かなくなった。そいつの持ってた長柄の槍が石畳を転がって、からからと鳴って、噴水の縁に当たって止まった。俺の、目の前で。

 槍だったんだよ。

 剣だったら、たぶん拾ってなかった。

 気づいたら拾って走ってた。もう一人の騎士の脇をすり抜けて、四阿の前に転がり込んだ。男の手のひらの光は、もう縮みきる寸前だった。

 そのとき、俺の目には、光が光に見えてなかった。

 糸だった。光の粒と粒をつなぐ、細い糸が何十本も。それが絡んで、結ばれて、ひとつの形に編み上がっていくとこだった。ちょうど、セーターの編み目を裏から透かして見てるみたいな。

 で、その編み目に一か所だけ、結び目の甘いとこがあった。

 急いで編んだんだろうな。そこだけ糸が浮いてた。

 突いた。

 じいさんに叩き込まれたとおりの、まっすぐな一突きだった。穂先がその結び目に触れた、と思ったときにはもう、手応えも何もなかった。

 男の手のひらの上で、光がほどけた。

 縮みきってた粒が、ふわっと春の空気に散ってった。綿毛みてえに。

 男は自分の手を見下ろしてた。何が起きたか分からねえって顔で。俺もたぶん、同じ顔をしてたと思う。

 その顎を、槍の石突きで下から打ち上げた。これは考えてやったんじゃねえ。身体が勝手に返した。男は白目をむいて、芝の上に崩れた。

 噴水の音だけが、変わらずに鳴ってた。

 俺は肩で息をしながら、手の中の槍と、倒れた男と、四阿のエルフを順番に見た。

「……えっと。今の、正当防衛ってことで、いいっすよね」

 エルデリックは、しばらく黙って俺を上から下まで眺めてた。黒い髪。学ラン。穴のあいた靴下。それから、俺の手の中の槍を。

 あいつの口元に笑いが浮かんだ。いつもの、人を見下ろす笑いじゃなかった。それはあとで知ったんだけどな。珍しい玩具を見つけたガキみたいな笑い方だった。

「……名は」

「實条。……實条、斂」

「サネジョウ」

 慣れねえ響きを、口の中で転がしてた。

「レンでいいっすよ。そっちのが呼びやすいでしょ」

 エルデリックが声を上げて笑った。残ってた騎士がぎょっとした顔で振り返ってた。あの王子が声を出して笑うのを、そいつはそれまで聞いたことがなかったんだそうだ。

「我はエルデリック・アルセリア・ルンシア。この国の王の孫にあたる。……そなたは、我の命を救った」

 エルデリックは俺の手から槍を取り上げて、騎士に放った。それから自分の手を差し出した。

「礼をしよう。何が望みだ」

 俺はその手を、しばらく見てた。

「……とりあえず、ここがどこなのか、教えてもらえます?」

           ◇

 自分の置かれた立場を呑み込むのに、ひと月かかった。

 ここはルンシアって国で、世界の真ん中に世界樹ってでかい木が立ってる。この世界の連中は晶素ってのを集めて、結んで、放って、結晶術を使う。俺の周りには、その晶素がひと粒も寄ってこない。

 それから、帰る方法は誰にも分からない。

 最後のを聞かされた夜、俺は与えられた部屋の窓辺に座って、朝まで外を見てた。

 何を考えてたかは、覚えてねえ。いや、覚えてる。流しの茶碗のことだ。水を張ったまんまだった。あれ、誰が洗うんだろうって。そればっかり考えてた。

 ……なんだよ、その顔。

 いや、いい。続ける。

 朝、エルデリックが部屋に来た。俺は窓辺に座ったまま寝ちまってて、目が覚めたら肩に毛布がかかってた。侍従に持ってこさせて、あいつが自分の手でかけたんだと、ずっとあとで聞いた。

「帰る道は、我が探そう」

 寝ぼけた頭に、その声が落ちてきた。

「王家の書庫にも、塔の学者どもにも声をかける。異界より来た者の記録が、どこかにあるやもしれぬ。約束はできぬ。だが、探しはする」

「……なんで、そこまで」

「命の礼だ」

 エルデリックは背を向けて、扉の前で一度止まった。

「それに。……そなたのあの槍は、面白い」

 その日から、俺は窓辺で朝を待つのをやめた。

          ◇

 あいつが面白いって言った槍の中身は、すぐに知れた。

 王城の術師が、俺を試したんだ。白い石の稽古場に宮廷の術師が五人並んで、一人ずつ得意の術を俺に撃った。火の玉。氷の礫。風の刃。岩の槍。雷の鞭。

 怖かったのは最初の一発だけだった。二発目からは、編み目を見る余裕があった。火の玉は外側の糸がやたら太くて、真ん中の芯が細い。氷は逆に、芯ばっかり固くて外側がすかすか。見えちまえば、どこを突けばいいかは自然と分かった。

 五つ全部、一突きずつでほどいた。

 術師たちは青い顔をしてた。

 稽古場の隅で、それをずっと黙って見てた爺さんがいた。

 背の高い、白い髪のエルフだった。その髪の毛先が、光の加減で、ちらちら瞬いてた。あとで知ったけど、あれは結晶なんだ。術を使い込んだ者は、毛先から少しずつ石になる。

 宮廷の術師を束ねる、西の侯爵家の当主。オズヴァルドだ。

「小僧」

 爺さんは稽古場の真ん中まで出てきて、俺を見下ろした。

「今、わしの弟子どもの術の、どこを見た」

「どこって。結び目っすよ。糸みたいなのが見えるんで。たまに結び方が雑なとこがあって、そこを突くとほどける」

 爺さんの眉が、ぴくりと動いた。

「雑な、と申したか」

「あ、いや、雑っていうか」

「わしの弟子どもの術を、雑と申したか」

 ここで黙っときゃいいのに、黙れねえのが俺だ。お前もよく知ってるだろ。

「雑でしたよ。三番目の人のなんか、ほどく前から勝手にほどけかけてましたもん」

 稽古場が凍った。三番目のやつが、耳まで真っ赤になってた。

 爺さんは長いこと俺の顔を見てて、それから、ふん、と鼻を鳴らした。

「明日から、わしの塔に来い」

「へ?」

「そなたの目が何を見ておるのか、わしが確かめる。その上で、雑でない術とは何かを教えてやる」

「俺、術、使えないっすよ。集めるの、からっきしで」

「知っておる。まるで才能というものを感じない。そなたの周りには晶素がひと粒も寄らん。見れば分かる」

 爺さんは背を向けた。

「使えずとも、分かることはある。分かる者がおれば、使う者はもっと上手くなる」

 俺はその背中に向かって、つい言っちまった。

「……変な爺さん」

 爺さんの足が止まった。振り返らずに、

「聞こえておるぞ」

 とだけ言った。

 次の日から、西の塔に通った。

 爺さんが術を編む。俺が見て、どこが甘いか言う。爺さんが編み直す。それを日が暮れるまでやった。爺さんの結び目は、雑なとこなんかひとつもなかった。弟子とはものが違った。そのかわり、たまに一か所だけ、わざと甘くしてあった。俺がちゃんと見てるかどうか試してたんだ。食えねえ爺さんだった。

 何人かの術を一つに束ねる、ってのを言い出したのは爺さんだった。一人で編める糸の量には限りがある。なら五人で、十人で編めばいい。問題は束ねた継ぎ目で、そこがどうしてもほつれる。そのほつれ方を、俺が見た。爺さんが縫った。

 あとで連奏結晶術って呼ばれるやつの、一番最初の編み目だ。

 あれのせいで、どれだけ人が焼けたか。俺はそれも知ってる。

 爺さんの塔の灯りは、毎晩、城でいちばん遅くまで点いてた。

 一度、夜中に忘れ物を取りに戻ったことがある。爺さんは机の前に座って、何も編まずに自分の手を見てた。指の先が、灯りの下で少し震えてた。

「魔族どもの術はな、雑だ」

 俺に気づいて、爺さんはそう言った。誰に言うともなく。

「雑なくせに、わしの術より重い。……あれを止められる者が、今この国に、わしの他におらん」

 俺は何て返したかな。たぶん、へらへら何か言ったんだと思う。

 あの爺さんが何を背負ってたのか、あの頃の俺にはどうでもよかった。どうでもいいまま、あの塔の上で、俺はあの爺さんにも槍を入れた。

            ◇

 夏の初めに、世話役がついた。

 俺はこっちのことを何ひとつ知らなかった。飯の作法も、服の着方も、金の数え方も。言葉はなぜか最初から通じたけど、字は読めなかった。それに、夜はよくうなされてた。

「身の回りのことを教える者が要る」

 エルデリックはそう言った。半分は本当だった。

 もう半分は、口に出さなかった。術をほどく槍を、王家に繋いでおく鎖が要る。で、あいつは、俺が女に弱いのを見抜いてた。稽古場で若い女官が通るたびに、俺の目がそっちへ泳いで、慌てて戻るのを。

 ……否定はしねえよ。そこ、睨むな。

 だから世話役には、女が選ばれた。それも、ただの女じゃなかった。

 雨の夕方だった。

 扉が叩かれて、開けたら、エルフが一人立ってた。淡い金の髪を背中の半ばまで伸ばして、緑の目が、雨の日の森みたいに静かだった。見た目は二十五、六。白い簡素な衣を着てて、肩が少し濡れてた。

 首に、黒い革のチョーカーが巻かれてた。

 飾りにしちゃ飾り気がなさすぎて、首輪にしちゃ細すぎた。

 お前は、あれと同じのを知ってるよな。

「本日より、お世話を仰せつかりました。レン様」

 戸口で、深く頭を下げた。声に抑揚がなかった。顔にも、表情らしいもんがほとんどなかった。

 俺は女の首のチョーカーを見てた。

「……それ、苦しくないの」

 女が顔を上げた。はじめて表情が動いた。ほんの少しだけ、驚いた顔だった。

「これは、教会より賜ったものです。救済の女神の、聖なる印にございます」

「ふうん。俺の国じゃ、そういうのお洒落でつける人もいるけど。……あんたのは、なんか違う感じがするな」

 女は何も答えなかった。答え方を知らなかったんだと思う。

「まあ、いいや。俺、レン。あんたは」

「エルフィーネと、申します」

「長いな」

「……は」

「いや、なんでもない。入んなよ。雨、降ってるし」

 エルフィーネはただの女官じゃなかった。救済の女神の代理人で、教会が抱えてる戦のための刃だった。

 当代の踊り子だ。

 金の弦を張った剣を二振り持って、歌いながら戦場で舞う。その歌が、味方の傷を塞いで、敵の身体を裂く。

 そういう人を、王家は異界から来たガキの世話役に据えた。花嫁の候補って意味も込みで。

 そういうのを全部知ったのは、ずっとあとだ。あの雨の夕方の俺は、肩の濡れた静かな人が入ってきた、としか思ってなかった。

           ◇

 フィーネは、こっちのことを一つずつ教えてくれた。

 字は早く覚えた。作法はさっぱりだった。肉を切る小刀と魚を切る小刀の区別が、いつまで経ってもつかなかった。

「どっちでも切れるじゃん」

「切れる切れないの話では、ございません。レン様」

「じゃあ何の話」

「……作法の、話です」

「作法ってさ、要するに周りの人が気持ちよく飯を食えりゃいいんでしょ。俺がどっちで切ったって、誰も困らないじゃん」

 フィーネは、言葉に詰まってた。

 そういうことを訊かれたことが、それまで一回もなかったんだ。作法は守るもんで、なぜ守るのかは考えるもんじゃなかった。教会で教わることは、全部そうだった。

 その顔を見て、俺はちょっと面白がってた。悪いことをしたとは思ってなかった。

 祈りの作法も、フィーネに習った。

 王城の隣の大聖堂に連れてかれて、祭壇の奥のでかい石の男の前に膝をつかされた。主神さまだ。二本の槍を杖みたいに床へ突き立てて、黙って突っ立ってる。樹の揺れをそれで鎮めたって話は、お前も聞かされたろ。

 俺は膝をついたまま、槍の持ち方ばっかり見てた。あれじゃ突けねえ。穂先を下に向けて両手を塞いで、戦う気のねえ持ち方だ。夜通し門の番をしてる男の立ち方だった。

 それと、外套の色。

 緑でも茶でもねえ、あの色だ。昔の、日本の兵隊の服の色だった。白黒じゃねえ、色のついた古い写真で、どっかで見た。どこで見たのかは、とうとう思い出せなかった。考えてるうちに、フィーネに袖を引かれた。

「レン様。目を、お伏せください」

 周りの連中はみんな目を伏せて、口の中で何か唱えてた。俺は伏せたふりをして、伏せた目の端でその連中を見てた。何を頼んでるのかは知らねえ。けど、頼む相手がいるってのは、少しだけ羨ましかった。

 俺には、どっちの世界にも、頼む相手がいなかったからな。

 夜は、うなされてた。

 隣の控えの間で寝てたフィーネは、毎晩それを聞いてた。言葉にならねえ呻き声で、ときどき言葉になった。こっちの誰も知らねえ言葉で。

 その中に、決まって同じ響きが混じってたらしい。

 カリン、って。

 ……俺は覚えてねえ。フィーネがあとで教えてくれた。

 ある晩、フィーネは控えの間を出て、俺の寝台の脇に膝をついた。俺は汗かいて、寝ながら片手を宙に伸ばしてたそうだ。何かを探すみたいに。フィーネは少し迷って、それから、その手を両手で包んだ。

 夜明け前に目が覚めたら、手の甲に、冷たい指が二本ぶん重なってた。エルフの手ってのは体温が低いんだ。寝台の脇で膝をついたまま、フィーネがうつらうつらしてた。

 俺は何も言わなかった。手も、振り払わなかった。

 次の晩も、その次の晩も、同じだった。俺がうなされると、冷たい手が来た。俺はそのことに何も言わなかったし、フィーネも何も言わなかった。

 ひと月くらい経った朝、茶を飲みながら、俺のほうから話した。

「……カリンってのはさ」

 フィーネの、茶を注ぐ手が止まった。

「俺の、向こうの、……なんていうか」

 言葉が出てこなかった。俺にしちゃ珍しいことだ。考えるより先に口が動くほうだからな。

「剣のすげえうまい女の子。道場の、師匠の孫娘でさ。俺より年下なのに、俺より全然強くて。無愛想で、可愛げがなくて。真顔で変な冗談言って、言った時点で自分で満足してるような奴で」

 ……悪い。そのまんま言った。

「俺のこと、好きだって言ってくれた奴」

 フィーネは何も言わなかった。俺もそれ以上は言わなかった。茶の杯を両手で包んで、湯気を見てた。湯気の向こうが、少しぼやけてた。

「帰りたい、ですか」

「……帰れるならね」

 フィーネは俺の杯に茶を注ぎ足した。それから器を置いて、背筋を伸ばして、俺に向き直った。

「では、帰れる日まで。……わたくしが、お側におります」

 顔は相変わらず、表情に乏しかった。けど緑の目が、ほんの少しだけ柔らかかった。

「夜に、手が要るのでしたら。いつでも」

 俺はたぶん、だいぶ長いこと黙ってたと思う。それから目を逸らして頭を掻いた。耳が熱かった。

「……エルフィーネってさ」

「はい」

「長いんだよな、名前。フィーネでいい?」

 フィーネは瞬きした。踊り子ってのは、御方って呼ばれる。名前で呼ばれることすら滅多にない。縮めて呼ばれたのなんか、生まれて初めてだったらしい。

「……はい」

「あと、その、様ってのもやめてよ。むず痒いから」

「……では、何と」

「レンでいいって」

 フィーネは少し口ごもってから、小さい声で言った。

「……レン」

 姉貴ってのがいたら、こういう人だったんだろうなと思った。

 親は早くに死んだし、兄弟もいなかった。親戚の道場に拾われて、そこでお前のじいさんに槍を叩き込まれて育った。姉なんてもんは、持ったことがなかった。

 でも口には出さなかった。姉さん、なんて呼んだら、あの人はたぶん困った顔をして、それでも呼ばせてくれただろうから。そういう人だった。

 だから呼ばなかった。フィーネで足りた。

           ◇

 秋になって、王城の厨房の隅を借りた。

 料理番たちに怪訝な顔をされながら、豚の肉を厚く切って、筋を小刀の先で断った。粉をはたいて、溶いた卵にくぐらせて、乾いたパンを砕いたのをまぶして、たっぷりの油で揚げた。

 トンカツだ。ソースなんてないから、塩を添えた。

 皿を出したら、フィーネは迷わず肉の小刀を取った。

「ほら、どっちでもいいでしょ」

「……こういうときは、肉を切る小刀が正しいのです」

 ひと切れ、口に運んだ。衣がさくっと鳴って、噛んだら脂が出た。

 フィーネは動かなくなった。

「……どう」

 返事はなかった。もうひと切れ。さらにもうひと切れ。皿の上が半分になったあたりで、ようやく小刀を置いた。

「……美味しゅう、ございます」

 そう言ったフィーネの口の端が、ほんの少しだけ上がってた。

 こっちに来て、あの人の笑った顔を見たのは、それが最初だった。

「フィーネ、笑えるじゃん」

 フィーネは慌てたみたいに口に手を当てた。笑いはすぐ引っ込んだ。でも俺はもう見ちまってた。

「また作るよ。フィーネが笑うなら、何回でも」

 揚げ油の匂いが、その晩は髪にまで残ってた。

 あれがそのうち厨房から城下に出て、勇者の料理なんて名前で売られるようになった。今でも王都じゃ揚げてるらしいな。最初の一枚が誰のために揚がったのか、知ってるやつはもうほとんどいねえ。

           ◇

 次の年の春。八百九十四年。

 ルンシアは、西の国境の向こう、フェリシアへ兵を出すことになった。

 名目は、奴隷の解放だった。

 その頃のフェリシアは小さな王国で、北の帝国と南のルンシアの間に挟まってる。挟まってるぶん、両方と商売ができて、けっこう羽振りがよかった。その商売の品物の中に、人が混じってた。王家が人買いの市を見て見ぬふりをして、買われた人が北へ流れていく。帝国の商館があって、商館を守る傭兵もいた。

 それを解き放つ。

 王城でそう聞かされて、俺はその四文字を、これっぽっちも疑わなかった。

 本当のとこは、そう単純じゃなかった。王城の奥の間で戦が決まったとき、そこにいた全員が、一本の槍のことを考えてた。術をほどく槍。帝国の魔族は術が強い。ヴァンパイアの貴族ともなれば、一人で一隊ぶんの術を撃つ。ルンシアがずっと北に手を出せなかったのは、そのせいだ。

 けど、術をほどく槍があれば。

 ……俺が、あの国に、勝てるって夢を見せたんだよ。

 出陣の前の晩、フィーネが部屋に来た。踊り子も、神殿騎士と一緒にこの戦に出ることになってた。

「……レン」

「なに、フィーネ」

「怖く、ありませんか」

「怖いよ。めちゃくちゃ怖い。俺、喧嘩もろくにしたことないのに」

 窓の外で、王都の灯りが瞬いてた。

「でもさ。エルデリックが帰る道を探してくれてる。爺さんが術を教えてくれてる。フィーネが飯の作法を教えてくれてる」

 自分の手を見た。豆だらけの、槍を握る手だった。

「……俺にできることって、これくらいしかないし」

 フィーネは何も言わなかった。俺の手を両手で包んだ。夜ごとにそうしてきたみたいに。

 冷たい手だった。その晩は、俺の手のほうがもっと冷たかった。

           ◇

 国境の平原は、春の草が膝まで伸びてた。

 向こうに、フェリシアの王家の兵が並んでた。旗の色は覚えてねえ。覚えてるのは、その真ん中に立ってた三人だけだ。

 金の髪で、肌が紙みたいに白かった。遠目でも青い目が分かった。帝国の商館を預かってるヴァンパイアだって話だった。商売の邪魔をされたくなかったんだろう。

 角笛が鳴った。

 三人が同時に両手を上げた。

 風が止まった。いや、止まったんじゃねえな。平原じゅうの空気が、全部あの三人のほうへ流れはじめたんだ。膝まであった草が、いっせいに向こう側へ寝た。俺の髪も前に引っぱられた。耳の奥がきんと鳴って、唾を飲んでも抜けなかった。

 三つの渦が、ひとつに重なった。重なって、さらに膨れた。ルンシアの陣がどよめいた。宮廷の術師たちが慌てて防ぎの術を編みはじめたのが見えたけど、その編み目は、どう見ても間に合わなかった。

 誰かに行けって言われたわけじゃねえ。

 行けば止められるって、あの場で一番よく分かってたのが俺だった。だから出た。

 陣の先頭から平原の真ん中まで、一人で歩いた。帝国のほうから笑い声が上がった。ガキが一人、棒っきれ持って出てきたようにしか見えなかったんだろう。

 歩きながら、ずっと見てた。

 渦の中の糸を。一人ぶんの編み目がこれ。もう一人ぶんがこれ。三人目が、これ。三人ともとんでもなく太い糸を、とんでもなく雑に編んでた。爺さんの言ったとおりだった。雑で、重い。爺さんの術の何倍も重い。

 その三つを、無理やり一つに束ねてた。

 束ねたら、継ぎ目ができる。

 渦が放たれた。

 赤い塊だった。太陽が地面に落ちてきたみたいなのが、草を焼いて、土を抉って、転がるみたいに俺のほうへ来た。顔の皮膚が先に熱くなって、睫毛の先がちりっと縮れた。

 俺は足を止めて、槍を構えた。

 じいさんの道場で、何千回もやった構えだ。腰を落として、穂先を少しだけ下げる。

 継ぎ目は、塊の真ん中にあった。三つの編み目がくっついてるとこ。そこだけ、糸がよじれてた。

 待った。

 塊が、槍の届くとこまで来るのを。

 そのとき、糸と糸のあいだに、女が立ってた。

 後ろ姿だった。赤い光の真ん中なのに、そこだけ色が違った。深い緑の衣で、背中に金色の組紐を長く垂らしてた。振り返らなかったし、何も言わなかった。瞬きひとつのあいだだけ、そこにいて、消えた。

 消えたら、結び目が全部見えた。

 継ぎ目だけじゃねえ。三人ぶんの編み目の、ひとつ残らずだ。どの糸がどの糸を引っぱってて、どこを突けば全部が順番にほどけてくか。爺さんの塔でひと夏かけても見えなかったとこまで、いっぺんに。

 ……気のせいだったんだろうけどな。熱で目がやられてたんだ、たぶん。

 突いた。

 穂先が、赤い真ん中に吸い込まれた。

 一瞬、何も起きなかった。熱いのも、まぶしいのも、そのまんまだった。外したかと思った。

 それから、ほどけた。

 平原を焼くはずだった光が、何千、何万って粒になって、春の空にふわっと舞い上がった。風が戻ってきて、それをルンシアの陣のほうへ運んでいった。

 兵隊の頭の上に、光の粒が雪みたいに降った。

 音は、少し遅れて来た。

 寝てた草が、ざあっと一斉に起き上がる音。それから俺の後ろで、誰かが息を呑む音。何千人ぶんの、息を呑む音だ。

 帝国のほうの三人は、自分の手を見下ろしてた。中庭のあの庭師と、同じ顔で。

 勇者だ、って声が上がった。

 誰が言い出したのかは知らねえ。陣のどこかで一人が叫んで、それに誰かが続いた。勇者だ。新しい勇者だ。救済の女神が遣わした、黒髪の勇者だ。

 声が平原を埋めた。

 振り返ったら、何千って兵隊が、俺の名前じゃなくて、勇者って叫んでた。

 へらっと笑おうとした。うまく笑えなかった。

 けどな、佳凛。

 正直に言う。悪い気はしなかった。

 ガキの頃から何の取り柄もなくて、剣も向いてねえって言われて、この世界に来てからは術も使えねえって言われて。その俺に、何千人が声を上げてた。光の雪の中で、膝が笑ってるのを隠しながら、俺は、悪くねえなって思ってた。

 それが、一番たちが悪かった。

 あの一突きで、あの国は、自分が帝国に勝てると思った。勝てると思った国は、次の戦をする。次の戦にも、俺は呼ばれた。

 これは、あとでフィーネから聞いた話だ。

 陣の後ろのほうで、フィーネはそれを見てた。神殿騎士に囲まれて、二振りの剣を腰に下げて。首のチョーカーが、春の陽を受けて鈍く光ってたはずだ。

 隣にいた教会の年寄りの司祭が、満足そうに頷いて言ったそうだ。

「女神の御心だ。あの少年は、女神が我らに遣わされた剣である。……よく繋ぎ止めておくのだぞ、御方」

 フィーネは、何も答えなかった。

 答えることを、許されてなかった。

 ただ、平原の真ん中に一人で立ってる俺の背中を見てた、って。

 細い背中でしたよ、って。あの人は、それしか言わなかった。

            ◇

 斂の声が途切れたとき、天窓はもう橙ではなかった。

 群青が硝子の向こうに溜まり、床の上の四角い枠は、どこにあったのか分からないほど薄くなっていた。結晶の娘の毛先も、もう光っていなかった。

 斂は立ち上がり、壁の窪みから小さなランプを取って火を入れた。芯が、じ、と鳴った。橙の小さな輪が、斂の手もとと、台座の脚と、膳の上に広がった。椀の蓋の隙間からは、もう湯気が昇っていなかった。

 斂はランプを床に置いて、元の場所に座り直した。片膝を立て、その上に腕を載せて。

 私は綺綺羅羅を左に置いたまま、膝の上で両手を揃えていた。

 指先が冷えていた。日が落ちた石の部屋だからだ、と思うことにした。

 カリン、と斂は言った。この世界の言葉ではなく、私の名前の音で。毎晩だったと。

 向こうの一日は、こちらのひと月にあたるという。私が学校と道場とあのアパートのあいだを行き来していた最初の幾日かのうちに、この男は知らない城の寝台で、知らない女の冷たい手に握られながら、何十晩もその音を呼んでいたことになる。

 流しの茶碗は、あの日、管理人に開けてもらった部屋で見た。水を張ったまま濁って、縁に飯粒が一つ張りついていた。私は洗わなかった。洗えば何かが終わってしまう気がして、合鍵を持っていても、二度とあの部屋には入らなかった。

 そのことを、今ここで言う気にはならなかった。

 可愛げがない、と言われたのは久しぶりだった。真顔で変な冗談を言う、とも。言った時点で満足している、とも。全部その通りなので、何も言い返すことがなかった。

「……斂」

 声は、思ったより平らに出た。

「お前は、帰りたかったのか」

 斂はすぐには答えなかった。

 答えるかわりに、目が動いた。私からわずかに逸れて、ランプの輪の外の、台座の上の暗がりへ。突き上げた結晶の腕のほうへ。

 ほんの一瞬だった。斂はすぐに目を戻した。

「……ああ。帰りたかったよ。最初はな」

 最初は、と斂は言った。

 ランプの芯が、またひとつ、じ、と鳴った。その音が、なぜか耳に残った。私はそれ以上を訊かなかった。訊けば斂は答えるのだろう。答えを聞く順番は、まだ来ていなかった。

 チトセが、膳の脇で、刀を抱え直した。

「……レン。……続き」

「ああ」

 斂は首の後ろを掻いた。

 二度目だった。部屋に入ってから数えていたのだと、数え終えてから気づいた。

「次は、フェリシアの話だ。……あそこで俺は、見なくていいもんを、いっぺんに見た」

 天窓の群青が、少しずつ黒に近づいていた。

 波の音が、石の向こうで、ひとつ大きく砕けた。


(第一章 了)

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。