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越境者の足跡  作者: 野良野良猫
四.彼の足跡
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第二章 銀色の魔族

 天窓の群青が、いつの間にか濃くなっていた。

 鏡を何枚も伝って降りてくる光は、もう何も運んでこない。ランプの小さな輪の外で、部屋の石が冷えていく。服を通して、床の冷たさが腿まで上がってくる。

 斂が立ち上がった。

 床のランプを取り、台座の足もとの膳の隣へ置き直す。火が揺れて油の焦げる匂いが動き、芯がちりちりと鳴った。斂は元の壁際へ戻って、また片膝を立てて座った。

 灯りが低い。下から照らされた結晶は、昼に見たときより赤みを帯びていた。歯を食いしばった横顔の、口の端だけが笑っている。

 チトセは膳の脇で膝を抱えていた。白い髪に灯りが映っている。目は開いているが、どこも見ていない。あれは話を聞いているときの顔だと、私はもう知っている。

「フェリシアで、お前は何を見た」

 私は訊いた。

 斂はすぐには答えなかった。膝の布を指の腹でつまみ、離した。

「いろいろ」

「いろいろ、か」

「ほんとにいろいろなんだよ。売られてく人間と、売ってる人間と、買ってる人間と。……それと」

 斂の目が、台座のほうへ動いた。

 動いて、そこで止まった。

「ひとりに、見つかった」

「見つけた、ではなく」

「向こうが先だった。俺が気づいたときには、とっくに見られてた」

 斂は小さく笑った。笑いながら、目は台座から離れなかった。

 私は刀の下げ緒の房を指に巻きつけた。巻いて、ほどいた。絹が少しだけ湿っていた。

「……リダ」

 チトセが言った。誰に向けたのでもない声だった。

「ああ」

 斂がようやくこちらを向いた。

「順番に話す。……先に言っとくけど、あの頃のフェリシアは、お前が見たフェリシアとはまるで別の国だったからな」

           ◇

 フェリシアって国は、小さかった。

 北に帝国、南にルンシア。でかい国ふたつのあいだに挟まった、細長い土地だ。大昔の大戦ではそこが主戦場で、そのあと長いこと誰のものでもない緩衝地帯で、気づいたら王様がいて国になってた。そういう国だった。

 小さいけど、貧乏じゃなかった。むしろ金はあった。

 理由は簡単で、挟まってたからだ。ルンシアと帝国は、表じゃ口もきかねえ。けど欲しいものはお互いにある。帝国は南の小麦と鉄が欲しい。ルンシアは北の毛皮と薬草と、それから結晶体が欲しい。直には売り買いできねえから、真ん中のフェリシアを通す。フェリシアの王家はその通り道に関所を立てて、上前をはねる。

 首都のベネディアの港には、北の船も南の船も入ってた。帝国の商館がいくつも建ってて、商館の門には帝国が雇った傭兵が立ってた。市場じゃ人族と魔族が同じ通りで普通に値切り合ってる。

 俺は最初、それを見てちょっと感心したんだよ。なんだ、仲良くやれてんじゃねえか、って。

 感心したのは、最初だけだった。

 ルンシアが兵を出した名目は、奴隷の解放だった。

 嘘じゃなかった。フェリシアの川沿いの町には、人を売る市が立ってたからだ。

 売られてくのは、たいていフェリシアの貧しい村の人族だった。凶作の年に借金のかたにされた娘とか、口減らしの次男坊とか。売るのは親で、買うのは帝国の商館の仲買人だ。買われた連中は川船で北へ運ばれて、帝国の貴族の屋敷で下働きをする。下働きをして、それから血を差し出す。

 フェリシアの王家は、それを黙って見てた。一人売れるごとに関税が入るからだ。

 ルンシアは、それを許さないと言った。

 正しい戦のはずだった。

 けど王城の奥の間でその戦が決まったとき、誰の頭にもまず俺の顔が浮かんでたことも、たぶん本当だ。術をほどく槍があれば、帝国の術者が何人いようが怖くない。ルンシアが何百年もできなかったことが、できる。

 俺は、それを分かってて行った。

 はじめのうちは、よく勝った。

 フェリシアの王様の兵は少なかった。数を埋めてたのは帝国の商館が出した傭兵で、その中には術を使う魔族が混じってた。向こうが術を撃つ。俺が前に出て散らす。散らしたあとに、ルンシアの重い騎士が突っ込む。

 何回も、同じことをやった。

 散らした術の向こうにいた連中がどうなったか、俺は見てた。見てて、次の日もまた先頭に立った。

 陣じゃ毎朝、夜明けの鐘で兵隊がいっせいに東を向いて膝をついた。俺はつかなかった。つかねえ理由を訊かれても困るから、鐘が鳴る前に起きて、鍋の火を見てるふりをしてた。何千人ぶんの膝が土に落ちる音ってのは、雨の降りはじめに似てるんだよ。

 ……お前も、つかなかったろ。そういう顔してる。

 ひと月で、フェリシアの南の半分がルンシアのものになった。

 解放した、って言うべきだったのかもしれねえ。少なくとも陣ではみんなそう言ってた。

 川沿いの、人を売る市が立つ町に入ったのは、夏の始めだった。

 川岸に、木の柵で囲った囲いがいくつも並んでた。家畜の囲いと同じ作りだった。中に人が座ってて、首から木の札を下げてた。札には数字が書いてあった。値段だ。

 その囲いの隣の屋台で、色のついた石を売ってた。赤いのや青いのや紫のが、布の上に並べてあった。そのときは何なのか分からなかった。きれいな石だな、と思っただけだった。

 何だったのかを知るのは、二年あとだ。

 ルンシアの兵が、囲いの錠を叩き壊して回った。

「解放だ。どこへなりと行け」

 誰も、ほとんど動かなかった。

 柵の戸は開いてるのに、中の連中は座ったまま俺たちを見てた。怯えてもいなかったし、喜んでもいなかった。ただ見てた。

 そのうち、札を下げた娘がひとり立ち上がって、兵に訊いた。

「じゃあ、うちの借りは、誰が返すの」

 兵は答えられなかった。

 囲いの隅で、爺さんが膝を抱えたまま言った。

「北の屋敷は、少なくとも飯が出る」

 俺は柵の戸の前に立って、しばらく動けなかった。

「……解放、ね」

 後ろにエルデリックが立ってた。何か言いかけたのが、気配で分かった。

 俺は振り返らなかった。

「この人たちさ。解放されたいって、思ってたのかな。本当に幸せになるのかね」

 エルデリックは答えなかった。

 答えを持ってなかったのか、持ってたけど言わなかったのか。……たぶん、後のほうだ。

 あとで分かったことだけどな。ルンシアが本当に欲しかったのは、ベネディアの港と、北へ抜ける川の道だった。帝国と商いをするのに、フェリシアの王様に上前をはねられたくなかった。それと、あの屋台の石。あれをもっと安く、もっとたくさん、南へ流したかった。

 解放の二文字の裏に何枚の紙が重なってるか、エルデリックは誰よりよく知ってた。

 俺は知らなかった。知ろうとしなかった、が正しい。

            ◇

 その年の夏は、雨が多かった。

 ルンシアの軍勢は、フェリシアの真ん中あたりを流れるでかい川の南岸に陣を張ってた。

 雨は、七日止まなかった。

 川が膨れて、茶色い水が岸の草を呑んで、木を呑んで、陣の柵の足もとまで来た。天幕の中にいても、川の音が腹の底に響いてた。

 八日目の朝、物見が戻ってきた。

 上流に、古い堰がある。二百年ばかり前にフェリシアの王様が帝国の術者を雇って築かせた、石と術の堰だ。川船の行き来のために、水の量を整えてる。その堰に罅が入った、と。

 堰が切れたら、水は下手の谷をまっすぐ下る。

 谷の底には、村がひとつあった。

 川船の荷を積み替える、湊の村だ。帝国の商館の出店があって、さっき話した囲いも、そこにあった。

 軍議の天幕で、将たちはその報せを聞いた。

 誰も、しばらく何も言わなかった。

 やがて貴族の将のひとりが、面倒そうに言った。

「敵国の村だ。我らの陣は高台にある。堰が切れようと障りはない」

「しかし、あの村には」

「帝国の商人の囲いがある。売り物が流れて困るのは、北の連中であろう」

 何人かが笑った。

 俺は天幕の隅で、それを聞いてた。

 黙ってた。

 エルデリックが、ちらっと俺を見た。俺はエルデリックを見なかった。

 軍議が終わってから天幕を出て、雨の中を自分の天幕へ戻った。槍を取って、外套を羽織った。

 入口に、フィーネが立ってた。

 雨に濡れて、淡い金の髪が頬に張りついてた。

「……行くのですか」

「うん」

「軍議では、村は捨て置くと。エルデリック様も勝手な行動は慎むようにと」

「聞いてた」

 横をすり抜けようとしたら、袖を掴まれた。

「……でしたらせめてわたくしも」

「だめ」

 振り返らずに言った。

「フィーネが陣を抜けたら、教会の爺さんたちが大騒ぎする。それに」

 そこでやっと振り返って、フィーネの首の、黒い革のチョーカーを見た。

「フィーネは、あいつらの許しがないと動けないんだろ」

 袖を掴んでた指から、力が抜けた。

 俺は笑ってみせた。

「すぐ戻る。飯、作って待ってて」

「……わたくしは、料理は」

「知ってる。だから、湯だけ沸かしといて」

 それで、雨の中へ走った。

 あのときのフィーネの顔は、ちゃんと見なかった。見たら、たぶん足が鈍ったから。

           ◇

 堰は、谷の入口の、喉みたいに狭くなったところにあった。

 両側の崖にでかい石が積んであって、そのあいだを淡く光る壁が塞いでた。光の壁の向こうに、濁った水が湖みたいに溜まってた。

 壁に、黒い罅が走ってた。稲妻みたいな形のやつだ。そこから水が細く、けど一瞬も途切れずに噴き出してた。

 俺は崖の上から、それを見下ろした。

 雨が顔を打ってた。

 見えたよ、編み目が。

 古い術だった。二百年前の誰かが丁寧に、気の遠くなるほど丁寧に編んだ、途方もなくでかい編み目だ。それがあちこちで擦り切れてた。罅のところで、いちばん太い糸が千切れかけてた。

 ほどくことは、できる。俺の槍なら。

 けど、ほどいたら堰はその場で崩れる。

 結び直さなきゃならなかった。

 どこにどう光を通せば編み目が繋がるのかも、全部見えてた。見えてたのに、俺の周りには晶素がひと粒も寄ってこない。

 見えるのに、触れねえ。

 崖の上で、拳を握ってた。雨で冷えて、握った指の感覚がなかった。

「へえ」

 声がした。頭の上からだった。

 見上げたら、崖から一本だけ突き出した枯れ木の枝に、誰かが腰かけてた。

 若い女だった。

 黒い革の鎧を着てた。雨の中で肩も腕も腿も、惜しげもなく晒してた。目深にかぶったフードの陰から銀の髪がひと筋こぼれてて、その毛先が雨粒を受けて、きらきら瞬いてた。

 フードの奥で、赤い目が俺を見下ろしてた。肌は褐色だった。

「あんた、見えてるんだ」

 楽しそうな声だった。

「あの堰の編み目。どこが千切れかけてるのか、全部」

 俺は自分に喝を入れて槍を握り直した。

 赤い目に、銀の髪に、褐色の肌。フィーネが字と一緒に教えてくれたことがあった。帝国にはヴァンパイアとは別にもうひとつ、貴族の種族がいる。数が少なくて、日の光を怖がらなくて、どの種族よりも強く晶素を集める。権威に興味がなくて、研究ばっかりしてる変わり者の一族。

 ノスフェラトゥ。

「……帝国の人?」

「そうとも言えるし、そうでもないとも言える」

 女は枝の上で、脚を組み替えた。

「あたしは帝国の頼まれ仕事で、あんたを見張ってるだけ。ルンシアに術をほどく変な勇者が出たっていうから、どんな奴か見てこいって」

「見張ってたの。いつから」

「春の平原から」

 あっさり言いやがった。

「あんたが三人がかりの術を槍でほどいた、あの日から。ずーっと。……陣の隅で、夜中にこっそり鍋かき回してたでしょ。あれ、いい匂いだったわね」

 俺は口を開けた。閉じた。頭を掻いた。

「……ストーカーじゃん」

「すとー、何?」

「なんでもない」

 堰の罅から、水がひときわ強く噴き出した。光の壁が軋んだ。

 俺は女から目を離して、堰を見下ろした。

「あんた、術使えるんだよな」

「あたしを誰だと思ってるの。私以上の使い手なんて、世界中何処を探してもいないわよ。」

「知らない」

「……失礼ね」

 女は唇を尖らせた。

「で。それが何」

「あの堰、結び直してくれ」

 赤い目が、少しだけ開いた。

「……は?」

「いちばん太い糸が、罅のとこで千切れかけてる。そこと、その上の三つ目の結び目。それから左の崖際の、擦り切れてるとこ。その三か所を繋げば、雨が止むまではたぶん持つ」

 俺は女を見上げた。

「俺は見えるけど、結べない。あんたは結べるだろ」

 女は長いこと、俺の顔を見てた。

 雨が、ふたりのあいだに降りつづけてた。

「あたし、帝国の人間なんだけど」

「うん」

「あんたの敵なんだけど」

「知ってる」

 俺は言った。

「けど、あんた、さっきから堰の罅ばっか見てるじゃん。俺のことなんか、ほとんど見てねえ」

 女が、黙った。

「下の村に知り合いでもいるのか知らねえけどさ。見張りの仕事より、あっちが気になってんだろ」

 図星だったらしい。

 フードの陰で、女の耳の先がほんの少し色を変えた。それから女は、ふっと息を吐いた。笑ったのかもしれなかった。

「……変な勇者」

 女は、枝から飛び降りた。

 飛び降りたはずだった。

 けど、落ちなかった。

 宙に浮いてた。女の周りで光の粒が渦を巻いてた。

俺がそれまで見たどの術者の渦より濃くて、速くて、静かな渦だった。音がしねえんだよ。侯爵の爺さんの弟子どもが術を集めるときは、耳の奥がぶんぶん鳴る。あいつのは、何も鳴らなかった。

 女は宙を滑って、堰の真上まで行った。

 両手を広げた。

 指先から細い光の線が何本も、雨の中に伸びていった。線は宙で形になった。円。その内側にまた円。そのあいだを、文字みたいな紋がびっしり埋めていく。

 陣だった。地面にじゃなく、宙に。

 術者の身体を通さずに、陣そのものが術を編んでる。

 息が止まった。そんな術の使い方は、侯爵の爺さんの塔でも見たことがなかった。

「どこ!」

 宙の上から、女が叫んだ。

「いちばん太い糸! 正確に!」

「罅の真上! 指一本ぶん左!」

 光がひと筋、降りていった。

 罅の真上の、指一本ぶん左に。

 千切れかけてた糸が、繋がった。堰の軋みがひとつ止んだ。

「次!」

「その上、三つ目の結び目! 右巻きに結んである! 逆に通すとほどける!」

「右巻きね!」

 もうひと筋、降りた。

「次!」

「左の崖際! 擦り切れてるとこ、二本!」

「二本?」

「並んでんだよ! 片っぽだけ繋ぐと、もう片っぽが引っ張られて切れる!」

「注文が多いのよ!」

 文句を言いながら、光は二筋同時に降りた。

 罅が少しずつ狭まった。噴き出してた水が細くなって、やがて滲むくらいになった。光の壁が、淡い落ち着いた色に戻った。

 堰は持ちこたえた。

 雨の音だけが、急に大きく聞こえた。

 宙の陣がほどけて消えて、女が崖の上にふわりと降りてきた。

 俺の前に立った。

 雨と風で、フードが後ろに落ちてた。銀の髪が背中の半ばまで流れて、毛先の結晶が雨の雫を受けて細かく光ってた。

 若かった。見た目は、俺とそう変わらなかった。

 切れ長な顔立ちが誰かさんによく似てて思わず見惚れた。 

「あんたの目」

 女が言った。

「本当に全部見えてるのね。あたしたちが何年もかけてやっと分かることを、一目で」

「見えるだけだよ」

 俺は言った。

「見えても、何もできねえ。今だって、あんたがいなかったら見てるだけだった」

 女は黙った。

 それから、笑った。今度ははっきりと。

「あたしも、そう」

「え?」

「あたしは結べる。どんな術でも。……でも、二百年前の他人の術のどこが千切れかけてるかなんて、一目じゃ分からない。調べて、測って、考えて。そのあいだに、堰は切れてた」

 女は俺の手の中の槍を見た。

「見える人と、結べる人。ふたりいれば、今みたいなことができるのね」

 雨が、少しずつ弱くなってた。

「……俺、レン」

 女は、少しだけ迷ったみたいだった。見張ってる相手に名前を明かしていいもんか、ってとこだろう。

 それから、肩をすくめた。

「リダ」

 そう言った。

「塔の一族のリダ・アストルテ」

            ◇

 雨は、その夜のうちに止んだ。

 谷の底の村の連中は、堰が軋む音に怯えて、夜どおし裏手の丘に逃げてたらしい。朝になって戻ってきて、谷を見上げて呆然としてた。

 堰は立ってた。

 村は、一軒も流れてなかった。

 そこへ、崖の上から俺たちが下りてった。黒い髪の人族と、銀の髪のノスフェラトゥ。

 村の連中は、遠巻きにした。ルンシアの兵だってのは分かったんだろう。黒い髪のほうが例の勇者だってのも、噂で聞いてたのかもしれねえ。その隣を帝国の貴族の種族の娘がなんで歩いてるのかは、誰にも分からなかったと思う。

 俺は村の真ん中で足を止めて、言った。

「腹、減ってない?」

 村の連中が、顔を見合わせた。

 竈を借りた。

 火を入れようとしたら、村の婆さんに手をはたかれた。竈の縁に、親指くらいの素焼きの人形が座ってた。婆さんはそこに塩をひとつまみ置いて、それから顎で、いいよ、と言った。

 後ろでリダが、律儀ねえ、って笑ってた。あいつの家じゃ、炉に塩なんか置いたことがねえらしい。魔族ってのはだいたいそうだ。拝む相手を、あんまり持たねえ。

 泥まみれの畑から芋と青菜と豆を掘って、鶏小屋から卵を拾った。でかい鍋で煮て、塩で味を決めて、最後に刻んだ香草を散らした。

 何のことはない、ただの汁だ。

 お前んちの台所で見よう見まねで覚えたやつの、だいぶ出来損ないだよ。出汁がねえんだから、しょうがねえ。

 それでも、ひと晩雨の丘で震えてた連中には、温かけりゃよかったんだろう。みんな黙って椀を受け取って、黙って啜った。子供らがおかわりを欲しがって、俺の前に並んだ。

 その列の、いちばん後ろに。

 銀の髪が、並んでた。

 椀を両手で持って。

 俺がそっちを見ると、あいつはちょっとだけ目を逸らした。

「……あたし、昨日の朝から何も食べてないの」

「なんで」

「料理、できないのよ。旅のあいだは干し肉と、固いパンだけ」

 黙って、椀に汁をよそった。鍋の底の、いちばん具の多いところを。

 リダはひと口啜って、止まった。

 もうひと口啜った。

 それから、赤い目をまん丸にして俺を見た。

「……なに、これ」

「汁」

「汁なのは分かってるわよ。なんで、こんなに」

 言葉を探してた。見つからなかったらしい。かわりに、椀の中身をいっぺんに啜り上げた。それから空の椀を、黙って俺の前に突き出した。

 笑ったよ。声を上げて。

 こっちに来てから、フィーネの前以外でああいうふうに笑ったのは、あれがはじめてだったと思う。

 湊の外れに、渡し舟をやってる一家がいた。

 下級魔族だった。牙がのぞいてて、色の薄い目をしてた。帝国の商館に雇われて、川の荷を運んでた一家だ。

 あとで村の連中に聞いた。

 堰が軋みはじめたとき、商館の仲買人は真っ先に馬で逃げた。金髪の、青白いヴァンパイアだ。帳簿と金箱だけ抱えて、囲いの鍵は置いてった。

 渡し舟の一家は逃げなかった。村の年寄りを背負って、丘を何往復もした。

 最後に、その家のおかみさんが、置いてかれた鍵で囲いを開けた。中にいた連中を、丘まで連れて上がった。帝国の商館の売り物を、だ。

 そのおかみさんが、小さい娘の手を引いて、汁の列に並んでた。

 村の連中は、何も言わなかった。順番を譲りもしなかったけど、押しのけもしなかった。当たり前みたいに、一緒に並んでた。その後ろには、首の札を外した囲いの連中も並んでた。

 おかみさんの椀に、汁をよそった。

 おかみさんは俺の顔を見て、小さく頭を下げた。

「……ありがとう、ございます」

 その背中を見送ってたら、隣でリダが言った。

「驚いた?」

「……うん」

「帝国にも、いろいろいるのよ。人を買って血を啜って、肥え太ってる貴族もいる。商館の売り物を背負って、丘を上る渡し守もいる」

 リダは空の椀を、指先でくるくる回してた。

「あんたの国だって、そうでしょ。村を捨て置けって言う将もいれば、槍一本で雨の中を飛び出してくる勇者もいる」

 俺は、何も言えなかった。

 言えなかったけど、あの日からだよ。魔族、って言葉の中に、顔が見えはじめたのは。

 人族、って言葉の中にも。

             ◇

 その夜、川原でリダとふたりになった。

 水はまだ茶色く濁ってて、雲の切れ目から月がのぞいてた。リダは平たい石の上に膝を抱えて座って、俺はその隣に立ってた。

「あたし、報告は書くわよ」

 リダが言った。

「今日のこと。あんたの目のこと。見たまま、全部。帝国に送る。それが仕事だから」

「いいよ」

 俺は言った。

「ついでに、飯が美味かったって書いといて」

「書かないわよ、そんなこと」

「なんで。大事なことだろ」

 リダは、俺を見上げて呆れた顔をした。

 それから、川を見た。

「あんたとあたしは、敵同士。それは変わらない」

「うん」

「あんたは、次の戦でもまた前に出る。あたしの国の術を散らす。あたしは、それを見て書く」

「……うん」

 そこは、へらっと笑えなかった。

 リダは膝の上で、指を組んだりほどいたりしてた。

 魔族と人族。世界に一本の線を引いて物事をみていたが話してみると何ら変わらないのだとよくわかる。

 それにこの世界に来てから心を許してもいいと思えた相手は貴重だった。端的に言えばこいつとそれっきりになるのはもったいないと思ったんだ。

「でも。……また、今日みたいなことがあったら呼ぶよ」

 俺は言った。

「どうやって呼べばいいのか、知らねえけど」

 リダは少し考えて、言った。

「鍋を煮てれば、来るわよ」

 吹き出した。

 リダは怒ったみたいな顔をして、それから自分も笑った。

 濁った川が、ずっと鳴ってた。

 どっちも、自分の国をやめたわけじゃなかった。敵国に味方が出来ただけだった。

            ◇

 それからも、リダは俺を見張りつづけた。

 仕事だからな。やめるわけにはいかねえ。

 けど、見張り方は変わってった。

 夜になると、陣の外れの、俺の天幕の脇の木の上に、銀の髪が現れるようになった。焚き火で鍋を煮てると、上から声が降ってくる。

「今日の晩ご飯、なに?」

「見張りが、飯の心配すんなよ」

「いいじゃない。……余るでしょ?」

 余るように作るようになった。椀をひとつ、多めに出しとくようになった。

 フィーネは、それを天幕の陰から見てた。

 教会の魔族嫌いは筋金入りだ。曰く魔族は自らの力を過信して神を敬わぬ不信心者だと。

 でもフィーネは何も言わなかった。教会の司祭たちに知らせることもしなかった。踊り子にそんなことが許されてたのかどうか、俺は知らない。

 知らないまま、ずっと甘えてた。

 焚き火の前で、木の上の見えない誰かとへらへら言い合ってる俺の背中を、フィーネがどんな顔で見てたのか。

 俺は一度も、振り返って確かめなかった。

            ◇

 秋が来る前に、フェリシアの戦は終わった。

 終わらされた、って言うべきだな。

 帝国の都から、女がひとり来た。

 帝国の言い分は、交易の相手を守る、だった。フェリシアが丸ごとルンシアのものになったら、北の商館はみんな干上がる。だから来た。表向きは。

 本人は、喧嘩がしたかっただけだと思う。

 瑠璃色の長い髪だった。金色の目で、肌は病気みたいに白かった。

 リッチだ。帝国のてっぺんの、始祖の娘。

 そいつは、ルンシアの陣の真正面に、たったひとりで出てきた。護衛も、軍勢も連れてなかった。左の腕に、星空を映したみたいな小さな丸い盾をつけてた。

 ルンシアの術師たちが、術を撃った。

 女は避けもしなかった。手を振りかぶると同じ数だけの陣が空中に浮かび上がり、ルンシアの術をすべて受け止めた。何十と撃って、一発も届かなかった。陣の空気が、少しずつ薄くなってくのが分かった。誰も、口に出しては言わなかったけど。

 俺が前に出た。

 女が術を撃った。リッチってのは何から何まで規格外だ。引金を引くような手軽さで、ルンシアの爺さんでも使うのも躊躇うような術を使ってくる。

 焔が圧縮され白線のなった術が地面を溶かしながら近づいてくる。

 槍を構える。風の導きにしたがって俺はそれを散らした。

 女の眉が上がった。楽しそうに。

 二つ目も散らした。三つ目も。

 女が声を上げて笑った。

「面白え。てめえ、面白えな!」

 編み目は、全部見えてた。あいつの術は、それまで見た誰の術よりでかくて、速くて、ぶっきらぼうに雑だった。力があり余ってるから、結び目なんか気にしねえで、ぶん投げてくる。だからほどくのは楽だった。

 楽だ、と思ったのが間違いだった。

 女が術を撃つのをやめた。

 見えなかった。

 瑠璃色が視界の端で翻った、と思ったときには、もう胸に拳がめり込んでた。音は、あとから来た。地面を蹴った音と、拳が骨に当たった音が、ほとんど一緒に。

 術じゃなかった。ただの拳だった。

 術をほどく槍は、拳をほどけねえ。

 身体が宙を飛んで、陣の柵を二つ突き破って、地面に叩きつけられた。肋が何本か、折れる音が自分の中で聞こえた。息が吸えなかった。空が白かった。

 瑠璃色の髪の女が、俺の上に影を落としてた。

「なんだよ。術がなきゃ、こんなもんか」

 つまらなそうな声だった。

 女が、拳をもう一度振り上げた。

 そのとき、歌が聞こえた。

 陣の後ろから。澄んだ高い声。金の弦が鳴った。

 見えない何かが空気を裂いて、女の横っ面に叩きつけられた。

 女がよろめいた。ほんの半歩。

 その半歩のあいだに、歌が俺の上に降ってきた。折れた肋が軋みながら繋がってくのが分かった。胸の中で、骨と骨が噛み合う音がした。息が戻ってきた。

 顔を上げた。

 陣の柵の上に、白い衣のフィーネが立ってた。両手に、金の弦を張った二振りの剣を握って、歌ってた。表情のない顔で。緑の目だけが、女をまっすぐに睨んでた。

 女は柵の上のフィーネを見上げて、足もとの俺を見下ろして、にやっと笑った。

「今日は、ここまでにしといてやる」

 背中を向けた。

「おい、黒髪。次は、もっと楽しませろよ」

 来たときと同じに、ひとりで帰っていった。

 その日のうちに、ルンシアの軍勢はフェリシアから兵を退いた。

 リッチがひとり、前に出てきただけで。

 それが、フェリシア解放戦争の終わりだった。人を売る市は、半年もしないうちに元どおり立ったって聞いた。

           ◇

 退く夜、俺は荷車の上に仰向けになってた。

 肋は繋がってたけど、身体の芯に鈍い痛みが残ってた。荷車が石を踏むたびに、そこが疼いた。

 荷車の脇を、フィーネが歩いてた。

 夜空を見たまま、言った。

「……フィーネ」

「はい」

「来てくれて、ありがと」

 フィーネは答えなかった。しばらく黙って歩いてた。

 それから、小さな声で言った。

「……許しは、出ていませんでした」

 首を横に向けた。

 月明かりの中に、フィーネの横顔があった。首のチョーカーが、いつもより深く食い込んでるように見えた。額に汗が浮いてた。夜風は冷たかったのに。

「フィーネ。それ」

「なんでも、ございません」

 前を向いたまま、フィーネは言った。

「少し、苦しいだけです」

 俺は、何も言えなかった。

 荷車がごとごと南へ進んでた。

 道の脇の黒い森の梢の上を、銀の髪がひと筋、音もなく同じ方角へ流れていった。

 気づいてた。気づいてたけど、何も言わなかった。

 フィーネの首のことも。

 木の上の銀の髪のことも。

 あの頃の俺は、言わなきゃいけねえことほど、言わないで済ませてた。

             ◇

 斂の声が、そこで切れた。

 ランプの芯が、じじ、と鳴った。油の匂いが少し濃くなった。

 斂の目は、また台座の上にあった。結晶の銀の髪は灯りの届かない高さで、暗い色に沈んでいる。それでも斂は、そこを見ていた。

 私は膝の上で手を組み直した。指先が冷えていた。

「……汁を、二杯」

 私は言った。

「ん?」

「その娘は、最初の日に、二杯食べたんだな」

「三杯だよ。あとで、もう一回並び直しやがった」

 斂の口の端が上がった。

 チトセが、膝を抱えたまま言った。

「……いつも、一番、食べてた。……わたしより」

「チトセより、か」

「……ん。……わたしより」

「それは、よほどだな」

 自分の声が、思ったより平らに出た。舌の付け根に、出汁のない汁の味がした気がした。食べたこともない汁の味だった。

 私は台座から目を外した。外して、斂を見た。

「フィーネという人の、首の」

「ああ」

「リエルも、同じものを着けていた」

 斂の膝の上で、指が止まった。

「……知ってる」

 それだけ言って、斂は黙った。

 ランプの火が、ゆっくりと細くなっていく。天窓の硝子の向こうは、もう夜の色だった。

「続ける」

 斂が言った。私に訊いたのではなかった。

「……ああ」

 私は答えた。


(第二章 了)

 

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