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越境者の足跡  作者: 野良野良猫
三.私の旅路
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33/36

第十一章 浜辺の町

 トゥーレシアを発つ朝、モモが学生街の外れまで見送りに来た。

 造りかけの石の壁が途切れたところだった。朝の早い時間なのに、足場の上ではもう石を積む人々が働いていて、綱の軋む音と親方の号令が、まだ冷たい空気の中に響いていた。

 モモは背負っていた包みを、私の腕に押しつけた。

「干し魚と、米と、海藻っす。それから岩塩」

 包みはずしりと重かった。

「こんなに」

「姐さんは、どこでも飯を作るっすから」

 モモはへにゃりと笑った。

 それからチトセの前に立って、小さな瓶を一本差し出した。琥珀色の酒が、朝の光を受けて揺れた。

「白い姐さんには、これっす」

 チトセは瓶を見下ろした。

「……すっぱい、やつ」

「すっぱいやつっす」

 チトセは瓶を受け取り、少しだけ考えてから言った。

「……ありがと」

 モモの耳がぴんと立った。

 私も少し驚いていた。チトセが誰かに礼を言うのを、初めて聞いた気がした。

「姐さん」

 モモが私に向き直った。

「約束、覚えてるっすよね」

「ああ」

「自分にも、また」

「いくらでも作る」

 モモはしばらく私の顔を見ていた。それから四年前と同じように、私の腕にぎゅっとしがみついた。

 今度は泣かなかった。

 腕を離すと、モモはくるりと背を向けて、学生街の通りを光の壁のほうへ駆けていった。赤い髪が朝の光の中で跳ねた。

 一度だけ振り返って、大きく手を振った。

 今度は、振り返ったのだ。

 私も手を振り返した。腕の中の包みから、干し魚と潮の匂いがした。

           ◇

 道は東へまっすぐに続いていた。

 根の背はもう背後の地平に沈み、なだらかな丘と麦の畑と、風に揺れる背の低い林が、交互に現れては後ろへ流れていった。世界樹は、振り返らなければ見えなくなった。

 その晩は、丘の陰の小さな林の中で野営した。

 モモの包みから米を出して、鍋で炊いた。干し魚を炙ってほぐし、塩を振った米に混ぜた。焦げた皮の香ばしい匂いが、焚き火の煙と一緒に梢へ昇っていった。

 チトセはそれを、黙って三杯食べた。

 夜明け前、私はチトセを起こした。

「稽古を、つけてくれないか」

 チトセは寝袋の中から、白い目で私を見上げた。それから何も言わずに起き上がって、刀を手に取った。

 林の中の少し開けたところで、向かい合った。

 空はまだ暗く、東の端だけがわずかに白んでいた。足もとの草が夜露を含んで、踏むたびに冷たく鳴った。

 チトセは刀を鞘に納めたまま、だらりと下げた。構えとも呼べない構えだった。私も綺綺羅羅を鞘ごと持ち、切っ先を相手の喉の高さに置いた。

 間合いは、互いに一歩踏めば届くか届かないか。

 チトセは動かなかった。私も動かなかった。

 梢から露が一滴落ちて、私の首筋を冷やした。

 次の瞬間、見えた。

 白い鞘の先が、私の右の肩へ来る。

 見えたものを避けようとして、私は自分の身体を止めた。

 谷の夕暮れを思い出していた。見えるものの、その次を見ろ、と。

 チトセの肩を見た。腰を見た。草を踏む足の裏を見た。

 右の肩へ来る鞘は、まだ来ていなかった。来ていないのに、チトセの重心はもう左の足へ移りはじめていた。右の肩は、戸を開けて私を招き入れるための見せ札だった。右を避けた私の、その先に、二打目が置いてある。

 来島の道場で、祖父が何度も私にやってみせた誘いだった。そして私が、誰より上手く使えるようになった誘いだった。

 この誘いに、一度も勝てなかった男がいた。

 目がよすぎて、動くものを見ると身体が先に跳んでしまう男。だからお前には剣は向かん、槍を持て、と祖父に言われた男。塔の上で私の開けた戸に吸い寄せられ、その仮面を割られた男。

 その男が、この白い師に、この剣を教えたのだ。

 私は右を避けなかった。

 左へ、半歩だけ踏み込んだ。チトセの二打目が来るはずの場所に、先に綺綺羅羅の鞘を置いた。

 こつん、と。

 鞘と鞘が触れ合った。

 チトセの動きが止まった。私の鞘の先が、二打目のちょうど出鼻を押さえていた。

 林の中が静かになった。梢で鳥が一羽、短く鳴いた。

 チトセは自分の鞘の先と私の鞘の先を、しばらく見下ろしていた。それから私の顔を見た。

「……読めた?」

「一度だけだ」

 息が上がっていた。一度読むのに、身体じゅうの神経を使い果たした気がした。

「今のを、いつでもできるようには、まだなれない」

 チトセは首を傾げ、鞘を下ろした。

「……一度、できたら」

 チトセは言った。

「……二度目は、できる」

 それだけ言って、寝袋のほうへ戻っていった。途中で一度だけ振り返った。

「……おなか、すいた」

 私は少しだけ笑った。

 東の空が白く明るくなりはじめていた。掌に、鞘と鞘が触れた瞬間の小さな震えがまだ残っていた。

 二日目の昼過ぎ、風の匂いが変わった。

 塩の匂いだった。湿った重い、生き物の匂いが混じった風。

 私は足を止めた。

 丘の向こうから、寄せては返す、途切れることのない低い音が聞こえていた。

 チトセが隣で目を細めた。

「……海」

 丘を越えると、それが見えた。

 青かった。空の青とほとんど見分けがつかず、水平線が白く霞んで空に溶けていた。

 西の港からリエルたちと船に乗ったときに見た海とは、色が違った。あちらの海はもっと緑がかっていた。こちらの海は、深く澄んだ青だった。

 出雲の海に、似ていた。

 祖父の家から自転車で三十分ほど走ったところに、浜があった。夏の夕暮れには海の向こうに陽が沈んで、浜も波も、何もかもが赤く染まった。

 斂の自転車の荷台に乗って、その浜へ行ったことがある。

 私は横座りして、斂の背中のシャツを片手で掴んでいた。下り坂で斂がわざとブレーキを離すたびに、私は掴む手に力を込めて、怒った。斂は笑うばかりで、ちっとも速さを緩めなかった。

 浜に着くと、二人で防波堤の端に並んで座った。コンクリートが昼の熱をまだ溜めていて、浴衣越しに腿が熱かった。

 何を話したのかは覚えていない。

 ただ、陽が沈みきるまで、黙って並んで座っていた。斂が、帰ろうか、と言うまで。

 帰り道は上り坂ばかりで、斂は途中から自転車を押して歩いた。私は降りて隣を歩いた。下駄の音と、車輪の回る音だけが、暗くなった田んぼの道に続いていた。

 あのときの背中のシャツの、日向の匂いを、私はまだ覚えている。

 覚えているのが、悔しかった。

 その背中は、塔の上で私に向けられて、そのまま朝の光の中へ跳んでいった。一度も振り返らなかった。

 私は目の前の海を見ていた。

 こちらの海は、東にあった。陽はこの海の向こうから昇るのだ。

 あの浜とは、逆だった。

 三日目の朝、海沿いの道の先に、街が見えた。

 入り江を抱くように、白い壁の家々が斜面に並んでいた。入り江の中には小さな漁船が何十艘も舫われていた。入り江の口の、海に突き出した岬の上に、灰色の石の城が一つ建っていた。

 大きな城ではなかった。王都の城の、翼の一つほどもない。けれど岬の突端に、海を背にしてまっすぐに立っていた。

 街には、壁がなかった。

 光の壁も、石の壁も。入り江の家々は、海と丘のあいだに、ただ無防備に並んでいた。

 グンヒルドの声が耳の奥で聞こえた。

 光の壁が守ってるのは、あの輪の中だけさ。

 今までは、それで済んでた。

 トゥーレシアの光の壁は、ここまでは届かない。百年の壁の外にある街。何かが海から来れば、この家々の前に立つのは、ここに住む人々だけだ。

 それでもこの街は、帝国に面した海辺に、壁も持たずに建っていた。

「……アストルテ」

 チトセが言った。

 チトセは岬の上の城を見ていた。白い瞳が、朝の海の光を映していた。

「……わたしの、帰るところ」

            ◇

 街に入ると、チトセはあっという間に人に囲まれた。

「チトセちゃん!」

「チトセさまだ! 帰ってきた!」

「今度はどこまで行ってたんだい!」

 魚を並べた露店の女が、前掛けで手を拭きながら飛んできた。網を繕っていた漁師の老人が顔を上げ、皺だらけの顔をくしゃくしゃにした。子供たちがどこからともなく湧いて出て、チトセの足にまとわりついた。

 ヒューマンがいた。獣人がいた。エルフもドワーフもいた。牙を覗かせた下級魔族の漁師が、太い腕でチトセの頭をぐしゃぐしゃに撫でた。

 チトセは表情を変えなかった。撫でられるまま、まとわりつかれるまま、背筋を伸ばして立っていた。

 けれど、逃げなかった。

「……ただいま」

 露店の女が、ぱっと顔を輝かせた。

「おかえり! ほら、今朝揚がったばかりの鯵だよ! 持っていきな!」

 チトセの腕に、藁で縛った魚がどさりと押しつけられた。それを皮切りに、魚、貝、干した海藻、焼いたばかりのパンと、次から次へと物が積み上げられていった。

 私はそれを、少し離れたところから見ていた。

 森の村で、子供に髪を引っ張られていたチトセ。ヴァルムハイムで、孤児の女の子を抱き上げたチトセ。

 この人は、ここでこんなふうに愛されていたのだ。

 露店の女が私に気づいた。

「おや。チトセちゃんの連れかい」

「……ん」

 チトセが頷いた。

「……お嬢さん」

「お嬢さん?」

 露店の女は私を上から下まで眺め、腰の綺綺羅羅を見た。それから何かに気づいたように、目を瞬かせた。

「……へえ。黒い髪」

 女はそれだけ言って、すぐに人のいい笑顔に戻った。

「ようこそ、アストルテへ。魚しかない街だけど、魚だけは世界一だよ」

            ◇

 アストルテは、不思議な街だった。

 港の広場に、石の段が半円を描いて積まれていた。劇場の客席のような形だった。昼過ぎに通りかかると、その段に街の人々が百人ほども座っていた。

 段の下の平らなところに、日に焼けた獣人の漁師が一人立っていた。

「それで、西の防波堤の修繕は、秋の漁が終わってからにするか、今すぐやるかだ」

 男が声を張り上げた。

「今すぐに賛成の者」

 段の上で、何十本もの手が上がった。

「秋に賛成の者」

 また、何十本もの手が上がった。

 段の端に座った帳面持ちの若い女が、指を動かして手の数を数えていた。

「……秋に賛成、七票多い」

「よし、秋だ。次、港の灯台の油代の件」

 私は広場の端で足を止めていた。

「あれは、何をしている」

 チトセは少し考えた。

「……決めてる」

「何を」

「……全部。……この街のこと。……みんなで」

 私は段の上の人々を見た。漁師がいた。露店の女がいた。杖をついた老人がいた。赤ん坊を抱いた若い母親がいた。

 王も貴族もいなかった。みんなで手を挙げて、決めていた。

 その光景に、見覚えがあった。

 この世界ではない。あちらの世界の、蛍光灯の白い教室で。黒板の前に日直が立ち、賛成の人、と言うと、ぱらぱらと手が上がる。学級会、と呼ばれていた。

 この世界に、学級会を知っている者がいるはずがなかった。

 私はその記憶を、そっと胸の奥に戻そうとした。

 戻らなかった。

 その日の午後、私は一人で街を歩いた。

 チトセは岬の城へ行く、と言った。

「……すぐ、戻る」

 それだけ言って、腕いっぱいの魚と貝を抱えたまま、岬への坂道を上っていった。

 私は港の周りを歩き、人に訊いて回った。

 黒い髪の男を知らないか。槍を使う男だ。穂先の片側に斧のような刃がついた、紫がかった金色の槍。仮面をつけていたかもしれない。

 最初に訊いた漁師は、網を繕う手を止めなかった。

「黒い髪の男なんて、この街にゃいくらでもいるよ」

 二人目の宿屋の主人は、少しだけ目を逸らした。

「さあねえ。槍を使う奴も、いくらでもいるしねえ」

 三人目の、港の荷揚げ場の親方は、しばらく私の顔を見ていた。それから腕を組んで言った。

「嬢ちゃん。そういうことは、議長に訊きな」

「議長?」

「議長は議長さ」

 親方は、港の広場の石の段を顎で示した。

「この街のまとめ役だよ。あの段の一番下に立って、みんなの話を聞いて、まとめる。自分じゃ何も決めない。決めるのはみんなだって言ってな。偉ぶらない、変な男さ」

 決めるのはみんなだ。

 決めるのは、そのときの子供たちだ。

 お前が決めろよ。俺が決めたら、お前、俺のせいにできちまうだろ。

 三つの声が、潮風の中で一つに重なった。舌の付け根に、塩が溶けたような苦みが広がった。

「その議長は、どこに」

「さあね。今は岬の城だろうよ」

 親方はそれ以上何も言わず、荷揚げの仕事に戻っていった。

 私は港の真ん中で立ち尽くしていた。

 誰も嘘をついているようには見えなかった。けれど、誰も本当のことを言っていないようにも見えた。

 この街の人々は、何かを守っていた。

 壁のない街で、壁の代わりに口を閉じて。

 港の外れの砂浜の近くで、子供たちが遊んでいた。

 五、六人。木の棒を振り回して、ごっこ遊びをしていた。

 一人の男の子が、ひときわ長い棒を持っていた。棒の先に、板切れが斧の刃のような形に括りつけてある。その板切れと棒が、紫と金の二色の絵の具で塗られていた。

 私は足を止めた。

 男の子は棒を振りかざして叫んだ。

「こわい帝国の、りっちめ! このアストルテは、おれがまもる!」

 別の子が黒い布を頭から被って、両手を広げた。

「ふはははは! にんげんども、ひれふせー!」

「くらえ! くろかみの、ゆうしゃの、やり!」

 紫と金の棒が、黒い布の子の脇腹をぽすんと突いた。黒い布の子は大げさに砂の上に倒れ込んだ。

「うわー、やられたー」

 子供たちがけらけらと笑った。

 私は動けなかった。

 紫がかった金色の、斧のような刃のついた槍。

 王都の塔の上で、仮面の男が握っていた槍。

「……それは」

 気づいたら、子供たちに近づいていた。

「その槍は、誰の槍だ」

 棒を持った男の子が私を見上げた。きょとんとしていた。それから胸を張った。

「くろかみのゆうしゃの、やりだよ! むかし、この街を帝国からまもったんだ! ぎんいろのまほうつかいといっしょに、いちばんつよいりっちを、やっつけたんだ!」

「昔」

「うん。すっごく、むかし。じいちゃんの、じいちゃんが、こどものころ」

 砂浜の向こうから、若い母親が小走りでやってきた。子供たちの一人の母親らしかった。

 母親は私の顔を見て、私の黒い髪を見た。それから子供たちに、少しだけ強い声で言った。

「ほら、もう夕方だよ。帰ってご飯にしな」

 子供たちが、えー、と声を上げた。母親はそれを追い立てるようにして、砂浜から連れて帰っていった。

 一度だけ振り返って、私に小さく頭を下げた。困ったような、けれど何かを庇うような顔だった。

 私は砂の上に残された、子供たちの足跡を見下ろしていた。小さな足跡が入り乱れ、その真ん中に、棒の石突きで突いた丸い穴が一つあいていた。

 じいちゃんの、じいちゃんが、子供の頃。

 子供の数える昔だ。五十年か、八十年か、本当のところは分からない。

 それなのに、私の頭は勝手に、旅のあいだ何度も聞かされてきた数字をそこに当てはめていた。

 九十年前に消えた、黒髪の勇者。

 その数字が出てくるたびに、私はこれまで、別々の引き出しにしまってきたものがあった。

 冬至の祭りの夜、人混みの向こうへ消えたフードの背中。肩の力の抜けすぎた、重心をほんの少し後ろに残した歩き方。

 鉱山村の炉端で聞いた、反りのある剣を頼んでおいて使いこなせなかった男。

 塔の上で割れた仮面の下の、最後に見た日から三年分しか歳を取っていない顔。

 九十年。三年。

 計算が合わない、と王都の祭りの夜に私は自分に言い聞かせた。合わないものは合わない、と。

 けれど本当は、合わないのではなかった。合わせたくなかったのだ。

 合わせてしまえば、私がアパートの扉の前でチャイムを鳴らし、無音を聞いて帰っていた三年のあいだに、斂はこの世界で九十年を生きていたことになる。私の知らない戦をして、私の知らない誰かと笑って、私の知らない誰かを失って。

 私の知らない斂が、九十年ぶんいることになる。

 波が、砂浜の小さな足跡を一つ、静かにさらっていった。

 私は頭を振った。

 引き出しの取っ手に、指がかかっていた。開ければ、中のものは全部一つに繋がるのだろう。

 開けるのが、怖かった。

             ◇

 夕方、岬の坂道の下で、チトセが戻ってくるのを待った。

 チトセは腕の荷物をどこかに置いてきていた。手ぶらで、私の前で立ち止まった。

「……お嬢さん」

「チトセ。この街に、議長という男がいるそうだな」

 チトセの顔が、ほんの一瞬だけ止まった。それから小さく頷いた。

「……いる」

「会えるだろうか」

「……会う?」

「ああ。この街の人は、誰も私の探している男のことを話さない。議長に訊け、と言う」

 チトセは長いこと私の顔を見ていた。

 夕陽が岬の城の向こうに沈みかけていた。城の影が、坂道の上に長く伸びて、私たちの足もとまで届いていた。

「……明日」

 チトセが言った。

「……議長、会える。……わたしが、頼んだ」

 私は瞬いた。

「もう頼んだのか」

「……ん」

 チトセは岬の城を振り返り、それからまた私を見た。

「……明日。……昼過ぎ」

 城から戻ってきたチトセの顔は、いつもと少しだけ違って見えた。何が違うのかは分からなかった。いつものように表情は少しも動いていなかった。

 けれど、白い上着の袖口が、少しだけ濡れていた。潮で濡れたのとは違う、何かを強く握りしめたあとのような皺が寄っていた。

「……ありがとう」

 私は言った。

 チトセは答えなかった。ただ、首をほんの少しだけ横に振った。

            ◇

 その夜、港の宿の二階の部屋で、私は窓辺に座っていた。

 窓の外に、夜の海があった。月が海の上に白い道を作り、その道が波に揺られてちらちらと砕けていた。入り江の漁船の灯りがいくつか、水面に映っていた。

 眠れなかった。

 夕飯に、宿の主人が鯵を焼いてくれた。塩を振っただけの鯵だった。脂がよく乗っていて、皮が香ばしく、身は甘かった。チトセは二尾食べた。私は半分残した。

 あした、議長に会う。

 この街の人々が揃って口を閉ざす何かを、知っている男に。

 私は膝の上の綺綺羅羅の鞘を、指でなぞっていた。

 鯉口を切って、また納めた。ちん、と小さな音が部屋に響いた。もう一度切って、また納めた。

 会ったら、何を言うのか。

 それを考えるたびに、手が勝手に鯉口へ行った。

 リエルのことを訊く。殿下のことを訊く。なぜ、あの朝に、あの塔の上にいたのかを訊く。

 訊いて、答えを聞いて、それから。

 その先が、どうしても考えられなかった。斬るのか、と自分に訊くと、鞘を握る手から力が抜けた。斬らないのか、と訊くと、鯉口に指がかかった。

 海の見える街にいる。

 叙勲の前の晩、フィンが空き地の槍の男から聞いたという言葉。あいつがフィンに言い残した言葉だった。私に向けた言葉ではなかった。

 それでも私は、その言葉だけを頼りに、ここまで来た。

 雪の峠を越えて。鉱山村で冬を越して。森の村を守って。湯けむりの都で刀を打って。谷でチトセに命を削らせて。国境を越えて。壁の街で、手を繋いだ二つの結晶に頭を下げて。

 追っているつもりだった。

 けれど振り返れば、私はずっと、斂の足跡の上を歩いていた。あいつが頼んで使いこなせなかった刀を、あいつが剣を教えた師の腰に見た。あいつが言い残した言葉を、壁の広間で他人の口から聞いた。あいつがいたかもしれない街の学級会を、この目で見た。

 足跡を一つ見つけるたびに、私の知らない斂が一人ずつ増えていった。

 増えるたびに、腹の底で何かが煮えた。煮えながら、それでも、その足跡の形が、縁側で西瓜を齧っていた男の踵とぴったり重なることに、どこかでほっとしていた。

 ほっとしている自分が、いちばん許せなかった。

 扉を叩く音がした。

 小さく、二度。

 立ち上がって扉を開けると、チトセが立っていた。いつもの白い上着のまま、腰に刀を差していた。廊下の窓から差し込む月明かりが、白い髪を淡く光らせていた。

「……いい?」

「ああ」

 チトセは部屋に入ってくると、窓辺の椅子の向かいの床に、膝を揃えて座った。背筋をまっすぐに伸ばし、刀を膝の横に静かに置いた。

 道場で、師の前に座るときと同じ座り方だった。

 私は椅子を下りて、チトセの向かいに同じように膝を揃えて座った。

 二人のあいだに、月明かりが四角く落ちていた。

 チトセはしばらく何も言わなかった。窓の外で、波が寄せては返していた。

「……お嬢さん」

「ああ」

「……明日、議長に会う前に。……言わなきゃいけないこと、ある」

 チトセの声はいつもと同じように短く途切れていた。けれどその一つ一つが、いつもよりずっとゆっくりだった。言葉を一つずつ、手のひらに載せて確かめているようだった。

「……男の人の、話」

 床板の冷たさが、膝から上ってきた。

「……その人は、黒い髪」

 波の音が、遠くなった。

「……槍を、使う。……剣は、下手」

 月明かりの中で、チトセの白い顔が少しも揺れずに私を見ていた。

「……料理を出すと。……美味いな、しか、言わない」

 峠の道で、雪の中を並んで歩きながら、私がチトセに話したことだった。へらへらしている。口が悪い。すぐ人をからかう。料理を出すと、美味いなとしか言わない。それでも、毎回全部食べる。

 チトセはあのとき、ほんのわずかに足を遅くした。そうか、と。それだけ言った。

「……チトセ」

 喉が乾いて、声が紙のように擦れた。

「君は」

 チトセは答えなかった。

 代わりに、言った。

「……砂浜の、子供の。……くろかみの、ゆうしゃ」

 一つ。

「……塔の上の、仮面」

 二つ。

「……峠で、お嬢さんが、話した人」

 チトセは膝の上で、指を三本折った。

「……ぜんぶ、同じ人」

 引き出しが、開いた。

 開けたのは私ではなかった。私の指はまだ取っ手にかかったままで、それなのに中のものは全部、床の上の月明かりの中に転がり出ていた。

「……彼の、名前は」

 チトセは一度、言葉を切った。

 それから、はっきりと言った。

 途切れずに。

「實条、斂」

 部屋の中が静かになった。波の音も聞こえなくなった。

 さねじょう、れん。

 その四文字を、私は知っていた。

 錆びた鉄階段を十三段上がった先の、二階の奥から二つ目の扉。その表札に、私がマジックで書いた字だった。自分で書けと言ったのに、お前の方が字が上手い、と押しつけられて。三年のあいだに、その字は西日に焼けて茶色く褪せていった。私は毎日のようにその表札の前に立って、チャイムを鳴らし、無音を聞いて帰った。

 祖父の道場の名札掛けにも、同じ名前が掛かっていた。私の名札の隣に。斂が消えてからも、祖父はその名札を外さなかった。

 その名前を、この世界の誰かの口から聞くことは、ないと思っていた。

 この世界で、斂の名字を知っている者がいるはずがなかった。

 私は何も言えなかった。口を開いても、乾いた息しか出てこなかった。

「……わたしの、名前も」

 チトセが自分の胸に、そっと手を当てた。

「……實条、チトセ」

 窓の外で、波が一度だけ大きく砕けた。

「……彼が、くれた」

 私はチトセを見ていた。

 雪の峠で、私を光の檻から救った白い剣士。私に剣を教えた無口な師。私の前に立って、命を削った白い背中。

 チトセ、としか名乗らなかった人。

 この人はずっと、あいつの名字を懐に隠したまま、私の隣を歩いていたのだ。私の作った飯を食べ、私の話を聞き、そうか、とだけ言って。

「……なぜ」

 やっと、それだけ言えた。

「なぜ、今まで」

「……ごめん」

 チトセは言った。それから首を、ほんの少しだけ傾げた。

「……でも。……今、なら。……お嬢さんは、もう、強い。……聞いても、倒れない」

 私は自分の手を見下ろした。膝の上で、指先が冷たくなっていた。それでも、握りしめることはできた。

 雪の峠で出会った頃の私なら、この名を聞いた瞬間に立ち上がって、部屋を飛び出していただろう。岬の城へ。斂のところへ。何も考えずに。

 今は、座っていられた。

 座ったまま、私は訊いた。

「……話してくれ」

 声が、自分のものではないように低かった。

「あいつが、どこから来て、何を見たのか。あの塔の上で、なぜ、あんなことをしたのか。……君の知っていることを、全部」

 チトセは長いこと私の顔を見ていた。

 それから、首を横に振った。

 ゆっくりと、一度だけ。

「……わたしは、話さない」

「チトセ」

「……わたしが、話したら」

 チトセは膝の横の刀に、そっと指を置いた。鞘の上を、白い指先がなぞった。斂が使いこなせずに手放したという、その鞘を。

「……お嬢さんは、わたしの声で、レンを、知る。……わたしが見たレンと。……わたしが聞いただけの、レン」

 チトセの声は、いつもより少しだけ低かった。

「……それは、レンの話じゃ、ない」

 月が雲に入ったのか、床の上の四角い光が、すっと薄くなった。

「……レンの、九十年は。……レンのもの。……レンが、自分で、話す」

 九十年。

 チトセはその数字を、何でもないことのように口にした。それが、引き出しの最後の一つだった。

 私は膝の上で、指を握りしめた。爪が掌に食い込んだ。痛みは、潮の冷たさに似ていた。

「……あいつは、話すのか」

 私は言った。

「話さないかもしれない。へらへら笑って、ごまかすかもしれない。あいつは昔から、肝心なことは何も言わない男だった」

「……話す」

 チトセは言った。迷いのない声だった。

「……お嬢さんにだけは。……ずっと、話したかった、から」

 私は何も言えなかった。

 九十年のあいだ。

 私がチャイムを鳴らし続けた三年のあいだに、斂が生きた九十年のあいだ。斂は誰かに、私の話をしたのだろうか。この白い娘に。手を繋いだ二つの結晶の前で。この壁のない街の、どこかの台所で。

 訊きたいことが、喉の奥で塩の塊のように固まっていた。

 チトセはまっすぐに私を見ていた。

「……明日、会う人に。……訊いて」

 明日、会う人。

 議長。この街の、まとめ役。段の一番下に立って、自分では何も決めない、偉ぶらない変な男。

 岬の城。チトセがさっきまでいた場所。濡れたような皺の寄った、白い袖口。

 私は窓の外を見た。

 岬の突端に、城の影が黒く沈んでいた。その窓の一つに、小さな灯りがともっていた。

 あの灯りの下に、いるのだ。

 縁側で西瓜の種を飛ばしていた男が。自転車の荷台に私を乗せて、下り坂でわざとブレーキを離した男が。手を繋いだ二人に、決めるのは子供たちだと言った男が。リエルと殿下の血の中で、ごめん、と言って背を向けた男が。

 全部、あの灯りの下に。

「……会えば、分かる」

 チトセが言った。

 灯りが、波の向こうで、ひとつ瞬いた。

 私は窓から目を離して、チトセに向き直った。背筋を伸ばし、膝の上の両手を揃えた。道場で、祖父の前に座るときのように。

 言いたいことは、いくらでもあった。斂に向けたものも、チトセに向けたものも。殴りたいのか、斬りたいのか、それとも別の何かなのか、自分でもまだ分からなかった。

 その全部を、私は喉の奥に呑み込んだ。

 塩の味がした。

「分かった……会わせてくれ」


(第十一章 了)


(越境者の足跡 三.私の旅路 了)


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