第十一章 浜辺の町
トゥーレシアを発つ朝、モモが学生街の外れまで見送りに来た。
造りかけの石の壁が途切れたところだった。朝の早い時間なのに、足場の上ではもう石を積む人々が働いていて、綱の軋む音と親方の号令が、まだ冷たい空気の中に響いていた。
モモは背負っていた包みを、私の腕に押しつけた。
「干し魚と、米と、海藻っす。それから岩塩」
包みはずしりと重かった。
「こんなに」
「姐さんは、どこでも飯を作るっすから」
モモはへにゃりと笑った。
それからチトセの前に立って、小さな瓶を一本差し出した。琥珀色の酒が、朝の光を受けて揺れた。
「白い姐さんには、これっす」
チトセは瓶を見下ろした。
「……すっぱい、やつ」
「すっぱいやつっす」
チトセは瓶を受け取り、少しだけ考えてから言った。
「……ありがと」
モモの耳がぴんと立った。
私も少し驚いていた。チトセが誰かに礼を言うのを、初めて聞いた気がした。
「姐さん」
モモが私に向き直った。
「約束、覚えてるっすよね」
「ああ」
「自分にも、また」
「いくらでも作る」
モモはしばらく私の顔を見ていた。それから四年前と同じように、私の腕にぎゅっとしがみついた。
今度は泣かなかった。
腕を離すと、モモはくるりと背を向けて、学生街の通りを光の壁のほうへ駆けていった。赤い髪が朝の光の中で跳ねた。
一度だけ振り返って、大きく手を振った。
今度は、振り返ったのだ。
私も手を振り返した。腕の中の包みから、干し魚と潮の匂いがした。
◇
道は東へまっすぐに続いていた。
根の背はもう背後の地平に沈み、なだらかな丘と麦の畑と、風に揺れる背の低い林が、交互に現れては後ろへ流れていった。世界樹は、振り返らなければ見えなくなった。
その晩は、丘の陰の小さな林の中で野営した。
モモの包みから米を出して、鍋で炊いた。干し魚を炙ってほぐし、塩を振った米に混ぜた。焦げた皮の香ばしい匂いが、焚き火の煙と一緒に梢へ昇っていった。
チトセはそれを、黙って三杯食べた。
夜明け前、私はチトセを起こした。
「稽古を、つけてくれないか」
チトセは寝袋の中から、白い目で私を見上げた。それから何も言わずに起き上がって、刀を手に取った。
林の中の少し開けたところで、向かい合った。
空はまだ暗く、東の端だけがわずかに白んでいた。足もとの草が夜露を含んで、踏むたびに冷たく鳴った。
チトセは刀を鞘に納めたまま、だらりと下げた。構えとも呼べない構えだった。私も綺綺羅羅を鞘ごと持ち、切っ先を相手の喉の高さに置いた。
間合いは、互いに一歩踏めば届くか届かないか。
チトセは動かなかった。私も動かなかった。
梢から露が一滴落ちて、私の首筋を冷やした。
次の瞬間、見えた。
白い鞘の先が、私の右の肩へ来る。
見えたものを避けようとして、私は自分の身体を止めた。
谷の夕暮れを思い出していた。見えるものの、その次を見ろ、と。
チトセの肩を見た。腰を見た。草を踏む足の裏を見た。
右の肩へ来る鞘は、まだ来ていなかった。来ていないのに、チトセの重心はもう左の足へ移りはじめていた。右の肩は、戸を開けて私を招き入れるための見せ札だった。右を避けた私の、その先に、二打目が置いてある。
来島の道場で、祖父が何度も私にやってみせた誘いだった。そして私が、誰より上手く使えるようになった誘いだった。
この誘いに、一度も勝てなかった男がいた。
目がよすぎて、動くものを見ると身体が先に跳んでしまう男。だからお前には剣は向かん、槍を持て、と祖父に言われた男。塔の上で私の開けた戸に吸い寄せられ、その仮面を割られた男。
その男が、この白い師に、この剣を教えたのだ。
私は右を避けなかった。
左へ、半歩だけ踏み込んだ。チトセの二打目が来るはずの場所に、先に綺綺羅羅の鞘を置いた。
こつん、と。
鞘と鞘が触れ合った。
チトセの動きが止まった。私の鞘の先が、二打目のちょうど出鼻を押さえていた。
林の中が静かになった。梢で鳥が一羽、短く鳴いた。
チトセは自分の鞘の先と私の鞘の先を、しばらく見下ろしていた。それから私の顔を見た。
「……読めた?」
「一度だけだ」
息が上がっていた。一度読むのに、身体じゅうの神経を使い果たした気がした。
「今のを、いつでもできるようには、まだなれない」
チトセは首を傾げ、鞘を下ろした。
「……一度、できたら」
チトセは言った。
「……二度目は、できる」
それだけ言って、寝袋のほうへ戻っていった。途中で一度だけ振り返った。
「……おなか、すいた」
私は少しだけ笑った。
東の空が白く明るくなりはじめていた。掌に、鞘と鞘が触れた瞬間の小さな震えがまだ残っていた。
二日目の昼過ぎ、風の匂いが変わった。
塩の匂いだった。湿った重い、生き物の匂いが混じった風。
私は足を止めた。
丘の向こうから、寄せては返す、途切れることのない低い音が聞こえていた。
チトセが隣で目を細めた。
「……海」
丘を越えると、それが見えた。
青かった。空の青とほとんど見分けがつかず、水平線が白く霞んで空に溶けていた。
西の港からリエルたちと船に乗ったときに見た海とは、色が違った。あちらの海はもっと緑がかっていた。こちらの海は、深く澄んだ青だった。
出雲の海に、似ていた。
祖父の家から自転車で三十分ほど走ったところに、浜があった。夏の夕暮れには海の向こうに陽が沈んで、浜も波も、何もかもが赤く染まった。
斂の自転車の荷台に乗って、その浜へ行ったことがある。
私は横座りして、斂の背中のシャツを片手で掴んでいた。下り坂で斂がわざとブレーキを離すたびに、私は掴む手に力を込めて、怒った。斂は笑うばかりで、ちっとも速さを緩めなかった。
浜に着くと、二人で防波堤の端に並んで座った。コンクリートが昼の熱をまだ溜めていて、浴衣越しに腿が熱かった。
何を話したのかは覚えていない。
ただ、陽が沈みきるまで、黙って並んで座っていた。斂が、帰ろうか、と言うまで。
帰り道は上り坂ばかりで、斂は途中から自転車を押して歩いた。私は降りて隣を歩いた。下駄の音と、車輪の回る音だけが、暗くなった田んぼの道に続いていた。
あのときの背中のシャツの、日向の匂いを、私はまだ覚えている。
覚えているのが、悔しかった。
その背中は、塔の上で私に向けられて、そのまま朝の光の中へ跳んでいった。一度も振り返らなかった。
私は目の前の海を見ていた。
こちらの海は、東にあった。陽はこの海の向こうから昇るのだ。
あの浜とは、逆だった。
三日目の朝、海沿いの道の先に、街が見えた。
入り江を抱くように、白い壁の家々が斜面に並んでいた。入り江の中には小さな漁船が何十艘も舫われていた。入り江の口の、海に突き出した岬の上に、灰色の石の城が一つ建っていた。
大きな城ではなかった。王都の城の、翼の一つほどもない。けれど岬の突端に、海を背にしてまっすぐに立っていた。
街には、壁がなかった。
光の壁も、石の壁も。入り江の家々は、海と丘のあいだに、ただ無防備に並んでいた。
グンヒルドの声が耳の奥で聞こえた。
光の壁が守ってるのは、あの輪の中だけさ。
今までは、それで済んでた。
トゥーレシアの光の壁は、ここまでは届かない。百年の壁の外にある街。何かが海から来れば、この家々の前に立つのは、ここに住む人々だけだ。
それでもこの街は、帝国に面した海辺に、壁も持たずに建っていた。
「……アストルテ」
チトセが言った。
チトセは岬の上の城を見ていた。白い瞳が、朝の海の光を映していた。
「……わたしの、帰るところ」
◇
街に入ると、チトセはあっという間に人に囲まれた。
「チトセちゃん!」
「チトセさまだ! 帰ってきた!」
「今度はどこまで行ってたんだい!」
魚を並べた露店の女が、前掛けで手を拭きながら飛んできた。網を繕っていた漁師の老人が顔を上げ、皺だらけの顔をくしゃくしゃにした。子供たちがどこからともなく湧いて出て、チトセの足にまとわりついた。
ヒューマンがいた。獣人がいた。エルフもドワーフもいた。牙を覗かせた下級魔族の漁師が、太い腕でチトセの頭をぐしゃぐしゃに撫でた。
チトセは表情を変えなかった。撫でられるまま、まとわりつかれるまま、背筋を伸ばして立っていた。
けれど、逃げなかった。
「……ただいま」
露店の女が、ぱっと顔を輝かせた。
「おかえり! ほら、今朝揚がったばかりの鯵だよ! 持っていきな!」
チトセの腕に、藁で縛った魚がどさりと押しつけられた。それを皮切りに、魚、貝、干した海藻、焼いたばかりのパンと、次から次へと物が積み上げられていった。
私はそれを、少し離れたところから見ていた。
森の村で、子供に髪を引っ張られていたチトセ。ヴァルムハイムで、孤児の女の子を抱き上げたチトセ。
この人は、ここでこんなふうに愛されていたのだ。
露店の女が私に気づいた。
「おや。チトセちゃんの連れかい」
「……ん」
チトセが頷いた。
「……お嬢さん」
「お嬢さん?」
露店の女は私を上から下まで眺め、腰の綺綺羅羅を見た。それから何かに気づいたように、目を瞬かせた。
「……へえ。黒い髪」
女はそれだけ言って、すぐに人のいい笑顔に戻った。
「ようこそ、アストルテへ。魚しかない街だけど、魚だけは世界一だよ」
◇
アストルテは、不思議な街だった。
港の広場に、石の段が半円を描いて積まれていた。劇場の客席のような形だった。昼過ぎに通りかかると、その段に街の人々が百人ほども座っていた。
段の下の平らなところに、日に焼けた獣人の漁師が一人立っていた。
「それで、西の防波堤の修繕は、秋の漁が終わってからにするか、今すぐやるかだ」
男が声を張り上げた。
「今すぐに賛成の者」
段の上で、何十本もの手が上がった。
「秋に賛成の者」
また、何十本もの手が上がった。
段の端に座った帳面持ちの若い女が、指を動かして手の数を数えていた。
「……秋に賛成、七票多い」
「よし、秋だ。次、港の灯台の油代の件」
私は広場の端で足を止めていた。
「あれは、何をしている」
チトセは少し考えた。
「……決めてる」
「何を」
「……全部。……この街のこと。……みんなで」
私は段の上の人々を見た。漁師がいた。露店の女がいた。杖をついた老人がいた。赤ん坊を抱いた若い母親がいた。
王も貴族もいなかった。みんなで手を挙げて、決めていた。
その光景に、見覚えがあった。
この世界ではない。あちらの世界の、蛍光灯の白い教室で。黒板の前に日直が立ち、賛成の人、と言うと、ぱらぱらと手が上がる。学級会、と呼ばれていた。
この世界に、学級会を知っている者がいるはずがなかった。
私はその記憶を、そっと胸の奥に戻そうとした。
戻らなかった。
その日の午後、私は一人で街を歩いた。
チトセは岬の城へ行く、と言った。
「……すぐ、戻る」
それだけ言って、腕いっぱいの魚と貝を抱えたまま、岬への坂道を上っていった。
私は港の周りを歩き、人に訊いて回った。
黒い髪の男を知らないか。槍を使う男だ。穂先の片側に斧のような刃がついた、紫がかった金色の槍。仮面をつけていたかもしれない。
最初に訊いた漁師は、網を繕う手を止めなかった。
「黒い髪の男なんて、この街にゃいくらでもいるよ」
二人目の宿屋の主人は、少しだけ目を逸らした。
「さあねえ。槍を使う奴も、いくらでもいるしねえ」
三人目の、港の荷揚げ場の親方は、しばらく私の顔を見ていた。それから腕を組んで言った。
「嬢ちゃん。そういうことは、議長に訊きな」
「議長?」
「議長は議長さ」
親方は、港の広場の石の段を顎で示した。
「この街のまとめ役だよ。あの段の一番下に立って、みんなの話を聞いて、まとめる。自分じゃ何も決めない。決めるのはみんなだって言ってな。偉ぶらない、変な男さ」
決めるのはみんなだ。
決めるのは、そのときの子供たちだ。
お前が決めろよ。俺が決めたら、お前、俺のせいにできちまうだろ。
三つの声が、潮風の中で一つに重なった。舌の付け根に、塩が溶けたような苦みが広がった。
「その議長は、どこに」
「さあね。今は岬の城だろうよ」
親方はそれ以上何も言わず、荷揚げの仕事に戻っていった。
私は港の真ん中で立ち尽くしていた。
誰も嘘をついているようには見えなかった。けれど、誰も本当のことを言っていないようにも見えた。
この街の人々は、何かを守っていた。
壁のない街で、壁の代わりに口を閉じて。
港の外れの砂浜の近くで、子供たちが遊んでいた。
五、六人。木の棒を振り回して、ごっこ遊びをしていた。
一人の男の子が、ひときわ長い棒を持っていた。棒の先に、板切れが斧の刃のような形に括りつけてある。その板切れと棒が、紫と金の二色の絵の具で塗られていた。
私は足を止めた。
男の子は棒を振りかざして叫んだ。
「こわい帝国の、りっちめ! このアストルテは、おれがまもる!」
別の子が黒い布を頭から被って、両手を広げた。
「ふはははは! にんげんども、ひれふせー!」
「くらえ! くろかみの、ゆうしゃの、やり!」
紫と金の棒が、黒い布の子の脇腹をぽすんと突いた。黒い布の子は大げさに砂の上に倒れ込んだ。
「うわー、やられたー」
子供たちがけらけらと笑った。
私は動けなかった。
紫がかった金色の、斧のような刃のついた槍。
王都の塔の上で、仮面の男が握っていた槍。
「……それは」
気づいたら、子供たちに近づいていた。
「その槍は、誰の槍だ」
棒を持った男の子が私を見上げた。きょとんとしていた。それから胸を張った。
「くろかみのゆうしゃの、やりだよ! むかし、この街を帝国からまもったんだ! ぎんいろのまほうつかいといっしょに、いちばんつよいりっちを、やっつけたんだ!」
「昔」
「うん。すっごく、むかし。じいちゃんの、じいちゃんが、こどものころ」
砂浜の向こうから、若い母親が小走りでやってきた。子供たちの一人の母親らしかった。
母親は私の顔を見て、私の黒い髪を見た。それから子供たちに、少しだけ強い声で言った。
「ほら、もう夕方だよ。帰ってご飯にしな」
子供たちが、えー、と声を上げた。母親はそれを追い立てるようにして、砂浜から連れて帰っていった。
一度だけ振り返って、私に小さく頭を下げた。困ったような、けれど何かを庇うような顔だった。
私は砂の上に残された、子供たちの足跡を見下ろしていた。小さな足跡が入り乱れ、その真ん中に、棒の石突きで突いた丸い穴が一つあいていた。
じいちゃんの、じいちゃんが、子供の頃。
子供の数える昔だ。五十年か、八十年か、本当のところは分からない。
それなのに、私の頭は勝手に、旅のあいだ何度も聞かされてきた数字をそこに当てはめていた。
九十年前に消えた、黒髪の勇者。
その数字が出てくるたびに、私はこれまで、別々の引き出しにしまってきたものがあった。
冬至の祭りの夜、人混みの向こうへ消えたフードの背中。肩の力の抜けすぎた、重心をほんの少し後ろに残した歩き方。
鉱山村の炉端で聞いた、反りのある剣を頼んでおいて使いこなせなかった男。
塔の上で割れた仮面の下の、最後に見た日から三年分しか歳を取っていない顔。
九十年。三年。
計算が合わない、と王都の祭りの夜に私は自分に言い聞かせた。合わないものは合わない、と。
けれど本当は、合わないのではなかった。合わせたくなかったのだ。
合わせてしまえば、私がアパートの扉の前でチャイムを鳴らし、無音を聞いて帰っていた三年のあいだに、斂はこの世界で九十年を生きていたことになる。私の知らない戦をして、私の知らない誰かと笑って、私の知らない誰かを失って。
私の知らない斂が、九十年ぶんいることになる。
波が、砂浜の小さな足跡を一つ、静かにさらっていった。
私は頭を振った。
引き出しの取っ手に、指がかかっていた。開ければ、中のものは全部一つに繋がるのだろう。
開けるのが、怖かった。
◇
夕方、岬の坂道の下で、チトセが戻ってくるのを待った。
チトセは腕の荷物をどこかに置いてきていた。手ぶらで、私の前で立ち止まった。
「……お嬢さん」
「チトセ。この街に、議長という男がいるそうだな」
チトセの顔が、ほんの一瞬だけ止まった。それから小さく頷いた。
「……いる」
「会えるだろうか」
「……会う?」
「ああ。この街の人は、誰も私の探している男のことを話さない。議長に訊け、と言う」
チトセは長いこと私の顔を見ていた。
夕陽が岬の城の向こうに沈みかけていた。城の影が、坂道の上に長く伸びて、私たちの足もとまで届いていた。
「……明日」
チトセが言った。
「……議長、会える。……わたしが、頼んだ」
私は瞬いた。
「もう頼んだのか」
「……ん」
チトセは岬の城を振り返り、それからまた私を見た。
「……明日。……昼過ぎ」
城から戻ってきたチトセの顔は、いつもと少しだけ違って見えた。何が違うのかは分からなかった。いつものように表情は少しも動いていなかった。
けれど、白い上着の袖口が、少しだけ濡れていた。潮で濡れたのとは違う、何かを強く握りしめたあとのような皺が寄っていた。
「……ありがとう」
私は言った。
チトセは答えなかった。ただ、首をほんの少しだけ横に振った。
◇
その夜、港の宿の二階の部屋で、私は窓辺に座っていた。
窓の外に、夜の海があった。月が海の上に白い道を作り、その道が波に揺られてちらちらと砕けていた。入り江の漁船の灯りがいくつか、水面に映っていた。
眠れなかった。
夕飯に、宿の主人が鯵を焼いてくれた。塩を振っただけの鯵だった。脂がよく乗っていて、皮が香ばしく、身は甘かった。チトセは二尾食べた。私は半分残した。
あした、議長に会う。
この街の人々が揃って口を閉ざす何かを、知っている男に。
私は膝の上の綺綺羅羅の鞘を、指でなぞっていた。
鯉口を切って、また納めた。ちん、と小さな音が部屋に響いた。もう一度切って、また納めた。
会ったら、何を言うのか。
それを考えるたびに、手が勝手に鯉口へ行った。
リエルのことを訊く。殿下のことを訊く。なぜ、あの朝に、あの塔の上にいたのかを訊く。
訊いて、答えを聞いて、それから。
その先が、どうしても考えられなかった。斬るのか、と自分に訊くと、鞘を握る手から力が抜けた。斬らないのか、と訊くと、鯉口に指がかかった。
海の見える街にいる。
叙勲の前の晩、フィンが空き地の槍の男から聞いたという言葉。あいつがフィンに言い残した言葉だった。私に向けた言葉ではなかった。
それでも私は、その言葉だけを頼りに、ここまで来た。
雪の峠を越えて。鉱山村で冬を越して。森の村を守って。湯けむりの都で刀を打って。谷でチトセに命を削らせて。国境を越えて。壁の街で、手を繋いだ二つの結晶に頭を下げて。
追っているつもりだった。
けれど振り返れば、私はずっと、斂の足跡の上を歩いていた。あいつが頼んで使いこなせなかった刀を、あいつが剣を教えた師の腰に見た。あいつが言い残した言葉を、壁の広間で他人の口から聞いた。あいつがいたかもしれない街の学級会を、この目で見た。
足跡を一つ見つけるたびに、私の知らない斂が一人ずつ増えていった。
増えるたびに、腹の底で何かが煮えた。煮えながら、それでも、その足跡の形が、縁側で西瓜を齧っていた男の踵とぴったり重なることに、どこかでほっとしていた。
ほっとしている自分が、いちばん許せなかった。
扉を叩く音がした。
小さく、二度。
立ち上がって扉を開けると、チトセが立っていた。いつもの白い上着のまま、腰に刀を差していた。廊下の窓から差し込む月明かりが、白い髪を淡く光らせていた。
「……いい?」
「ああ」
チトセは部屋に入ってくると、窓辺の椅子の向かいの床に、膝を揃えて座った。背筋をまっすぐに伸ばし、刀を膝の横に静かに置いた。
道場で、師の前に座るときと同じ座り方だった。
私は椅子を下りて、チトセの向かいに同じように膝を揃えて座った。
二人のあいだに、月明かりが四角く落ちていた。
チトセはしばらく何も言わなかった。窓の外で、波が寄せては返していた。
「……お嬢さん」
「ああ」
「……明日、議長に会う前に。……言わなきゃいけないこと、ある」
チトセの声はいつもと同じように短く途切れていた。けれどその一つ一つが、いつもよりずっとゆっくりだった。言葉を一つずつ、手のひらに載せて確かめているようだった。
「……男の人の、話」
床板の冷たさが、膝から上ってきた。
「……その人は、黒い髪」
波の音が、遠くなった。
「……槍を、使う。……剣は、下手」
月明かりの中で、チトセの白い顔が少しも揺れずに私を見ていた。
「……料理を出すと。……美味いな、しか、言わない」
峠の道で、雪の中を並んで歩きながら、私がチトセに話したことだった。へらへらしている。口が悪い。すぐ人をからかう。料理を出すと、美味いなとしか言わない。それでも、毎回全部食べる。
チトセはあのとき、ほんのわずかに足を遅くした。そうか、と。それだけ言った。
「……チトセ」
喉が乾いて、声が紙のように擦れた。
「君は」
チトセは答えなかった。
代わりに、言った。
「……砂浜の、子供の。……くろかみの、ゆうしゃ」
一つ。
「……塔の上の、仮面」
二つ。
「……峠で、お嬢さんが、話した人」
チトセは膝の上で、指を三本折った。
「……ぜんぶ、同じ人」
引き出しが、開いた。
開けたのは私ではなかった。私の指はまだ取っ手にかかったままで、それなのに中のものは全部、床の上の月明かりの中に転がり出ていた。
「……彼の、名前は」
チトセは一度、言葉を切った。
それから、はっきりと言った。
途切れずに。
「實条、斂」
部屋の中が静かになった。波の音も聞こえなくなった。
さねじょう、れん。
その四文字を、私は知っていた。
錆びた鉄階段を十三段上がった先の、二階の奥から二つ目の扉。その表札に、私がマジックで書いた字だった。自分で書けと言ったのに、お前の方が字が上手い、と押しつけられて。三年のあいだに、その字は西日に焼けて茶色く褪せていった。私は毎日のようにその表札の前に立って、チャイムを鳴らし、無音を聞いて帰った。
祖父の道場の名札掛けにも、同じ名前が掛かっていた。私の名札の隣に。斂が消えてからも、祖父はその名札を外さなかった。
その名前を、この世界の誰かの口から聞くことは、ないと思っていた。
この世界で、斂の名字を知っている者がいるはずがなかった。
私は何も言えなかった。口を開いても、乾いた息しか出てこなかった。
「……わたしの、名前も」
チトセが自分の胸に、そっと手を当てた。
「……實条、チトセ」
窓の外で、波が一度だけ大きく砕けた。
「……彼が、くれた」
私はチトセを見ていた。
雪の峠で、私を光の檻から救った白い剣士。私に剣を教えた無口な師。私の前に立って、命を削った白い背中。
チトセ、としか名乗らなかった人。
この人はずっと、あいつの名字を懐に隠したまま、私の隣を歩いていたのだ。私の作った飯を食べ、私の話を聞き、そうか、とだけ言って。
「……なぜ」
やっと、それだけ言えた。
「なぜ、今まで」
「……ごめん」
チトセは言った。それから首を、ほんの少しだけ傾げた。
「……でも。……今、なら。……お嬢さんは、もう、強い。……聞いても、倒れない」
私は自分の手を見下ろした。膝の上で、指先が冷たくなっていた。それでも、握りしめることはできた。
雪の峠で出会った頃の私なら、この名を聞いた瞬間に立ち上がって、部屋を飛び出していただろう。岬の城へ。斂のところへ。何も考えずに。
今は、座っていられた。
座ったまま、私は訊いた。
「……話してくれ」
声が、自分のものではないように低かった。
「あいつが、どこから来て、何を見たのか。あの塔の上で、なぜ、あんなことをしたのか。……君の知っていることを、全部」
チトセは長いこと私の顔を見ていた。
それから、首を横に振った。
ゆっくりと、一度だけ。
「……わたしは、話さない」
「チトセ」
「……わたしが、話したら」
チトセは膝の横の刀に、そっと指を置いた。鞘の上を、白い指先がなぞった。斂が使いこなせずに手放したという、その鞘を。
「……お嬢さんは、わたしの声で、レンを、知る。……わたしが見たレンと。……わたしが聞いただけの、レン」
チトセの声は、いつもより少しだけ低かった。
「……それは、レンの話じゃ、ない」
月が雲に入ったのか、床の上の四角い光が、すっと薄くなった。
「……レンの、九十年は。……レンのもの。……レンが、自分で、話す」
九十年。
チトセはその数字を、何でもないことのように口にした。それが、引き出しの最後の一つだった。
私は膝の上で、指を握りしめた。爪が掌に食い込んだ。痛みは、潮の冷たさに似ていた。
「……あいつは、話すのか」
私は言った。
「話さないかもしれない。へらへら笑って、ごまかすかもしれない。あいつは昔から、肝心なことは何も言わない男だった」
「……話す」
チトセは言った。迷いのない声だった。
「……お嬢さんにだけは。……ずっと、話したかった、から」
私は何も言えなかった。
九十年のあいだ。
私がチャイムを鳴らし続けた三年のあいだに、斂が生きた九十年のあいだ。斂は誰かに、私の話をしたのだろうか。この白い娘に。手を繋いだ二つの結晶の前で。この壁のない街の、どこかの台所で。
訊きたいことが、喉の奥で塩の塊のように固まっていた。
チトセはまっすぐに私を見ていた。
「……明日、会う人に。……訊いて」
明日、会う人。
議長。この街の、まとめ役。段の一番下に立って、自分では何も決めない、偉ぶらない変な男。
岬の城。チトセがさっきまでいた場所。濡れたような皺の寄った、白い袖口。
私は窓の外を見た。
岬の突端に、城の影が黒く沈んでいた。その窓の一つに、小さな灯りがともっていた。
あの灯りの下に、いるのだ。
縁側で西瓜の種を飛ばしていた男が。自転車の荷台に私を乗せて、下り坂でわざとブレーキを離した男が。手を繋いだ二人に、決めるのは子供たちだと言った男が。リエルと殿下の血の中で、ごめん、と言って背を向けた男が。
全部、あの灯りの下に。
「……会えば、分かる」
チトセが言った。
灯りが、波の向こうで、ひとつ瞬いた。
私は窓から目を離して、チトセに向き直った。背筋を伸ばし、膝の上の両手を揃えた。道場で、祖父の前に座るときのように。
言いたいことは、いくらでもあった。斂に向けたものも、チトセに向けたものも。殴りたいのか、斬りたいのか、それとも別の何かなのか、自分でもまだ分からなかった。
その全部を、私は喉の奥に呑み込んだ。
塩の味がした。
「分かった……会わせてくれ」
(第十一章 了)
(越境者の足跡 三.私の旅路 了)




