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越境者の足跡  作者: 野良野良猫
三.私の旅路
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第十章 結晶の間

 迎えが来たのは、トゥーレシアに着いて三日目の昼だった。

 モモの店の軒先で、私は干し魚の束を吊るす手伝いをしていた。藁で縛った束を梁の釘に掛けるたび、潮と脂の匂いが指に移る。二日のあいだに、この匂いはすっかり手に馴染んでいた。

 着いた翌日、私は一人で壁の中を歩き回った。晶具の街灯の柱に手を当て、羽根車の回る店先で涼しい風を浴び、広場の噴水の縁に腰を下ろして水の噴き上がるのを眺めた。どれも、あちらの世界に似ていた。似ているのに、どれも少しずつ違っていた。

 斂なら、と思ったのは、噴水の前だった。

 あいつなら、この噴水の台座の下に潜り込んで、どこから水を引いているのか確かめるまで出てこないだろう。道場の裏の手押しポンプが動かなくなったとき、半日がかりでばらして、組み直したら部品が一つ余っていた男だ。それでもポンプは動いた。この街を見たら、目の色を変えて一日じゅう歩き回るに違いなかった。

 そう思った次の瞬間に、塔の上の石の匂いが鼻の奥に戻ってきた。

 三人の血が混じり合って、朝の光の中で黒く乾きはじめていた、あの匂い。

 噴水の水は、相変わらず高く噴き上がっていた。私はしばらく濡れた縁を指でなぞって、それから立ち上がった。

 そういうことが、この二日のあいだに何度もあった。

 通りの向こうから、背の高い男が一人、背中を丸めて歩いてきた。

 金の髪をうなじのあたりで一つに束ね、陽に当たったことがないような白い肌をしていた。仕立てのいい黒い上着を着ているのに、襟もとが少しも偉そうに見えない。

 男は店の前で立ち止まり、私を見た。

 それから慌てたように目を逸らし、地面に向かって深々と頭を下げた。

「し、失礼いたします。……黒髪の剣士殿と、白い剣士殿で、いらっしゃいますか」

 消え入りそうな声だった。

 モモが店の奥から顔を出し、男を見て目を丸くした。

「書庫の番人さんっす」

 モモは私の耳もとに口を寄せた。

「六人の首長の一人っす。……あんな腰の低い首長、ほかにいないっす」

 私は男の口もとを見ていた。喋るたびに、白い牙の先がちらりと覗く。

 ヴァンパイアだった。

 王国の戦場で、私が何人も斬ってきた種族。人の何倍もの膂力を持ち、人の血を好む魔族の貴族。その一人が獣人の店の軒先で、干し魚の束の下に立って、私に頭を下げていた。

「星読みの魔女が。……フランシスカ様が、お二人にお会いしたいと」

 男は頭を下げたまま言った。

「い、今すぐでなくとも構いません。お手すきのときに。……できれば今日のうちに。いえ、ご無理でしたら明日でも」

 チトセが店の奥から出てきた。口の端に、握り飯の米粒が一つついていた。

「……セドリック」

 男が顔を上げた。チトセを見て、ほっとしたように肩の力を抜いた。

「チトセ殿。……お帰りなさいませ」

「……ん」

 チトセはそれだけ言って、私のほうを見た。

「……行く?」

 私は光の壁を見上げた。

 あの低い音が、今日も耳の底で鳴っていた。

           ◇

 壁の中は外よりも少しだけ涼しかった。

 背の高い建物のあいだを、セドリックは背中を丸めたまま歩いていく。行き交う学生たちが彼に気づいて軽く頭を下げると、セドリックはそのたびに学生よりも深く頭を下げ返した。

 六本の塔の真ん中に、低く丸い屋根の、古い石の広間がうずくまっていた。

 近くで見ると、ずいぶん古い建物だった。石の角は雨と風に削られて丸くなり、目地には苔が細く筋を引いている。周りの塔が新しく高く光っているせいで、そこだけ時間が止まっているように見えた。

 扉の脇に、女が一人立っていた。

 陽の光に金の髪が透けている。細い身体に深い緑の衣を纏い、耳の先が尖っていた。エルフだった。見た目は三十をいくつか越えたくらいなのに、立っているだけで、この広間と同じくらいの古さを感じさせた。

 手に硝子の杯を持っていた。杯の中で琥珀色の酒が揺れている。

 昼間だった。

 風に乗って、甘く酸っぱい匂いが届いた。おとといの晩、モモの台所で嗅いだのと同じ匂いだった。

「ようこそ、トゥーレシアへ」

 女は私を見て、にっこりと笑った。

 緑の目は確かに私を向いていた。それなのに焦点がどこか合っていない。私を見ながら、私のずっと後ろにある何かを見ているような目だった。

「あなた、ずいぶん遠くからいらしたのね」

 私は黙っていた。

 王都から、という意味ではないと思った。

「フランシスカ、と申します。この国で、星読みの真似事をしておりますの」

 女は杯を傾け、それからチトセを見た。

 焦点が、すっと合った。

「おかえりなさい、白い剣士さん」

「……ん」

「その方を連れていくのね。……海へ」

 チトセは答えず、ただ小さく頷いた。

 フランシスカもそれ以上は訊かなかった。少しだけ目を細めただけだった。

 何の話なのか、私には分からなかった。分からないまま、二人のあいだで何かが受け渡されたことだけは分かった。

「さあ、中へどうぞ」

 フランシスカは扉に手をかけた。

「この国を、この国らしくしてくださっている方たちにご挨拶をしていってくださいな」

           ◇

 広間の中は薄暗く、ひんやりとしていた。

 天井の高いところに小さな窓がいくつか開いていて、差し込む光が床の上に細い筋を引いている。

 床一面に、円が描かれていた。

 何十重もの円。円と円のあいだに、文字とも紋様ともつかない線がびっしりと刻まれ、その線が淡い青白い光を帯びて、ゆっくりと明滅していた。

 息をしているようだった。

 そして円の真ん中に、二つの結晶が立っていた。

 人の形をしていた。背の高い男の形と、それより少しだけ背の低い女の形。二人は向かい合うでもなく並んで立ち、同じほうを見ていた。

 それから。

 手を、繋いでいた。

 淡く青く透き通った手と手が、しっかりと。

 私は円の外で立ち止まった。足の裏が石の床に貼りついたようだった。

 結晶の中には、髪の一本一本までが写し取られていた。男の少し癖のある髪。女の長い髪。毛先が微かに揺れたまま止まっている。

 顔も見えた。

 二人とも笑っていた。穏やかに、何かを見送るように。

 耳の奥で、あの音がしていた。門をくぐったときからずっと聞こえていた、低く長い音。ここではそれが少しだけ近く、少しだけ温かかった。弦を弾いたあとの消えかけの響きのようで、遠くで誰かが歌っているようでもあった。

「わたくしの、先生たちですわ」

 フランシスカが私の隣で言った。杯を胸の前で両手に包んでいた。

「塔の一族と呼ばれていた方たち。ノスフェラトゥのご夫婦。……魔族のなかでも一番数の少ない、結晶術の申し子と呼ばれた一族ですわ」

 ノスフェラトゥ。

 名前だけは、騎士団の座学で聞いたことがあった。帝国の奥に住む、伝説のような一族だと。

 その二人がここに立っていた。

 石になって。

「八十年と少し前のことですわ」

 フランシスカは話しはじめた。

 静かな声だった。酒に酔った人の声ではなかった。

「ここは、ルンシアの北の外れの学院でしたの。わたくしが建てましたのよ。まだ王女だった頃に」

 王女。

 私はフランシスカの横顔を見た。金の髪に緑の目、エルフの耳。確かに殿下と同じ面影がある。

 フランシスカは私の視線に気づいて、少しだけ笑った。

「昔の話ですわ。……今は、ただの酒飲みの首長」

 杯が傾き、梅の匂いがまた薄く漂った。

「人族も魔族も、同じ机で学べる場所を。……そう思って建てましたの。先生たちを帝国の塔からお招きして、人族の学生と魔族の学生と一緒に、本を読んで、術を学んで、ご飯を食べて」

 声が少しだけ柔らかくなった。

「楽しかったのですわ。……とても」

 それから、声が元に戻った。

「王国は、それを許しませんでしたの。魔族を抱えた学院など王国の土地に置いておけない、と。魔族を追い出すか、王国を出ていくか。選べ、と」

 王国。

 私が剣を捧げた国。殿下が背負っていた国。

「わたくしたちは出ていくほうを選びましたの。それで、戦になりましたわ」

 フランシスカは床の円を見下ろした。

「まだ壁はありませんでした。学生たちが剣を持って術を唱えて、塔の周りの石垣の上に立ちましたの。毎日。人族の子も、魔族の子も」

 指が杯の縁をゆっくりとなぞった。

「毎日死にましたわ。十人。七人。九人。……同じ机で同じ本を読んでいた子たちが」

 広間がしんとしていた。床の円の光だけが、ゆっくりと明るくなり、暗くなった。

「その戦に、負けはありませんでしたの。あとひと月耐えれば、王国は兵を退くはずでした。わたくしには、それが視えていましたから」

 フランシスカは少しだけ目を伏せた。

「でも。……そのひと月で死ぬ子たちの数は、視えていませんでした」

 手を繋いだ二つの結晶。

「先生たちは、それを黙って見ていることができなかったのですわ。ご自分たちを結晶にして、その結晶を術の動力にして、この学院を囲む光の壁を張りましたの。……わたくしには、何も言わずに」

 杯の中の酒の表面に、細かな波が立った。すぐに静まった。

「わたくしがここに駆け込んだときには、もう、先生たちは陣の真ん中に立っていましたわ。手を、繋いで」

 私は二人の繋いだ手を見ていた。

 指と指のあいだに、隙間がなかった。八十年と少しのあいだ、一度も離れずに。

「それでも…お二人の結晶でもつのは、百年。……それが限界でしたの」

「……百年」

 私の声は、乾いた紙を擦ったような音になった。

「百年で足りるのか。百年たったら、この国は」

「ええ」

 フランシスカは頷いた。

「先生たちも、それを案じておられたそうですわ。……そのとき先生たちの隣にいた方が、こうおっしゃったそうですの。百年あれば、世界は少しは変わる。変わらなかったら」

 フランシスカは、懐かしいものを思い出すように少しだけ笑った。

「変えるのが、そのときの子供たちの仕事だ、と」

 広間の冷たさが、足もとから這い上がってきた。

 言葉そのものではなかった。言葉の、癖だった。

 自分で抱え込まずに、次の誰かに手渡してしまう。少しだけ無責任で、少しだけ優しい言い回し。

 ある夏の夕方、私は道場の縁側で、髪を切るかどうか迷っていた。稽古のたびに汗で首に貼りつく長い髪を、祖母は短くしろと言い、師範代は面倒だから括っておけと言った。私は隣で西瓜を齧っていた男に、お前ならどうする、と訊いた。

 男は種を庭に吹き飛ばしてから言った。

 お前が決めろよ。俺が決めたら、似合わなかったとき、お前、俺のせいにできちまうだろ。

 ずるい、と私は言った。男は笑って、また西瓜を齧った。縁側の板が西日で温まっていて、ふくらはぎの裏が少し汗ばんでいた。

 結局、私は切らなかった。いつだったか、男が稽古のあとに私の髪を一房すくって、何も言わずに指に巻いていたことがあったからだ。

 男はそれも分かっていて、知らない顔をしていたのだと思う。

 その髪を、私はこの世界に来てから一度も切っていない。

「それは、誰だ」

 声が先に出ていた。

 フランシスカは杯を傾けた。

「旅の方ですわ」

 それから、少しだけ間を置いて付け足した。

「術はひとつも使えない方でしたのよ。それなのに、先生たちと一緒にこの陣を仕上げながら、ここの線が一本足りない、と床を指さしましたの。」

 フランシスカは、円の北の端を杯で示した。そこだけ、線の刻みがほんの少し新しく、浅かった。

 道場の柱時計を思い出した。止まった時計の裏蓋を勝手に外し、歯車を畳の上に一つずつ並べて、ここが噛んでない、と得意げに言った男。結局元に戻せなくて、祖父に拳骨をもらっていた。

 その男の指が、この床を指したのかもしれなかった。

 私はそれ以上を訊かなかった。訊けなかった。答えを口の中に入れたら、舌の上でどんな味がするのか分からなかった。

 チトセは円の縁に立って、結晶を見上げていた。

 何も言わなかった。表情も、少しも動いていなかった。

「壁ができて三日で、王国の軍勢は退きましたわ」

 フランシスカは言った。

「それから、この国はセラディス連合首長国になりましたの。壁は今も先生たちの結晶で張られていますわ。……あと、十六年」

 十六年。

 私は指を折った。落葉歴、千六年。

「十六年たったら、どうなる」

「消えますわ」

 フランシスカはあっさりと言った。

「でもいつまでも先生たちにおんぶにだっこではだめでしょう?これはわたくしたちの問題ですわ。」

 そう言ってにっこりと笑ったけれど、焦点の合わない目の奥は、少しも笑っていなかった。

           ◇

 私は上着の懐に手を入れた。

 指先に、硬いものが二つ触れた。

 一つは、親指ほどの結晶の塊だった。レーンベルが焼けた夜、盗賊の懐から転がり出たものだ。綺麗な石だと思って拾い、七年持ち歩いた。それが何だったのかを、私は西の都で、奴隷商人の男の嘲りから知った。

 貴様とて同類ではないか、と男は笑った。

 この世界では、人も魔族も晶素を扱いすぎると、身体の端から結晶になっていく。合法に売り買いされるのは、老いた者の髪や爪からこぼれ落ちた小さな欠片だけだ。親指ほどの塊が出回るということは、誰かの指の先が、身体の一部が、無理やり結晶にされ、削り取られて売り買いされたということだった。

 もう一つは、割れた仮面の片割れだった。

 白い、何の飾りもない仮面。塔の上で私の剣が額から顎まで割ったものを、石の床から拾って懐に押し込んだ。雪の峠を越えるときも、湯けむりの都の宿でも、結晶の塊と並べてずっとここに入れてきた。割れた縁は鋭く、指の腹に小さく食い込んだ。

 目の前に、自分で選んで結晶になった二人がいる。学生たちを守るために、手を繋いで、笑って。

 懐の中には、名前も知らない誰かがいる。選べなかった誰か。

 どちらも同じ、青く透き通った石だった。

 そしてそのどちらの隣にも、斂がいた。懐の塊の隣には斂の割れた仮面があり、目の前の二人の隣には、かつて斂が立っていた。

 百年あれば世界は少しは変わる、と言って二人を見送った旅の男。

 リエルを斬り、殿下を斬り、血に濡れた細剣を握ったまま、朝の光の中へ跳んだ男。

 同じ口が、決めるのは子供たちだと言い、同じ口が、塔の上でごめんと言った。

 どちらが本当の斂なのか、と私は考えかけて、やめた。たぶん、どちらもだった。私が知っていた斂は、そのどちらでもなかった。縁側で西瓜の種を飛ばしていた男しか、私は知らなかった。

 仮面の縁が、指の腹にさらに深く食い込んだ。痛みは鈍く、冷たかった。

 広間の空気は乾いていて、石と、古い紙と、ほんの少しの梅の匂いがした。その匂いの奥で、鼻の奥がつんと冷えた。

 私は目を閉じなかった。

 この人たちの思いの丈も、この国の人たちの絆も私にはわからない。だけど目をそらしてはいけないと思った。

 私はこの壁を張らせた国の剣だった。あの国の正義を疑いもせずに振るい、懐の塊を七年もただの綺麗な石として持ち歩いていたのだから。

 黄昏の光が二人の結晶に瞬く様は美しかった。

           ◇

 広間の二階は、首長たちの会議の間だった。

 円い卓が一つに、椅子が六つ。窓が東に一つだけ開いていて、梅の枝の影が卓の上で揺れていた。

 セドリックは私たちの後ろから階段を上がってくると、自分の椅子には座らず、部屋の隅の小さな卓で茶を淹れはじめた。湯を注ぐ手つきだけは、迷いがなかった。乾いた香草の、少し青い匂いが部屋に広がった。

 椅子には三人が座っていた。

 一人は、背の低い赤毛のドワーフの女だった。丸い顔に目つきの悪い緋色の目。膝の上に、土のついた園芸用の鋏を載せていた。

「おい、フランシスカ。昼間から客を連れ回すなら先に言え。梅の剪定の途中だったんだぞ」

「ごめんなさいね、姉さま」

「姉さまって呼ぶな。……で、そいつが例の黒髪か」

 ドワーフの女は、私を上から下まで眺めて、ふん、と鼻を鳴らした。

「王国の近衛だった女だってな。……下の壁の由来は聞いたか」

「聞いた」

「で?」

「私に、何か言える資格はない」

 ドワーフの女はしばらく私の顔を見ていた。

 それからまた、ふん、と鼻を鳴らした。今度は少しだけ柔らかい音だった。

「ブリギッタだ。篝火の担い手とか呼ばれてる。梅の木の面倒を見てる」

 それだけ言うと、鋏を手に取って立ち上がった。

「剪定、続きやってくる。……おい黒髪、梅酒は好きか」

「ほとんど飲んだことがない」

「じゃあ、そのうち飲め。ここのは、わたしが植えた梅だ」

 そういうとそそくさと出ていってしまった。

 二人目は、茶色の髪に柴犬のような耳を生やした、獣人の青年だった。

 若いのに、ずいぶん落ち着いた顔をしていた。光の壁の門で、兵たちに指示を出していた青年だと気づいた。背筋を伸ばして、膝の上に分厚い帳面を広げている。紙はずいぶん古く、端が茶色く変色していた。

「ロウガと申します。壁の保全を預かっております」

 青年は礼儀正しく頭を下げた。

「……あの、失礼ですが。広間で、陣の北の三番目の円の近くに立っておられましたか」

「ああ」

「そのとき、円の光が髪の毛一本ぶんだけ揺らぎました」

 ロウガは帳面に何かを書きつけた。

「お客様の晶素の流れでしょうか。……いえ、お客様からは、ほとんど何も流れていないようですが」

 ロウガが首を傾げると、耳も一緒に傾いた。

「不思議な方ですね」

 古い紙の上には、細かい字がびっしりと書き込まれていた。一番古い頁の字は、今の字と筆跡が違っていた。

「祖父の祖父の代から、書き継いでおります」

 ロウガは少しだけ誇らしそうに言った。

「最初の頁を書いたのは、この壁を最初に面倒見た方だそうです。自分たちの一族は、その方から壁の面倒の見かたを教わりました」

 三人目は、赤茶の髪の、小太りのドワーフの男だった。

 私が部屋に入ってからずっと、私の腰を見ていた。正確には、私の腰の綺綺羅羅を。

「……失礼」

 男はずり落ちかけた硝子の眼鏡を指で押し上げた。

「そちらの刀。芯にオリハルコン、皮にミスリル。違いますか」

「分かるのか」

「分かります。分かりますとも」

 男は椅子から身を乗り出していた。

「鞘越しでも分かります。あの二つを一本の刀身に合わせて鍛えるなど、普通の炉ではできません。できるとすれば」

 眼鏡の奥で、目がきらりと光った。

「残り火の小槌。……バルドール公爵の打った刀ですね」

 少しだけ驚いた。

 男はもう、椅子から立ち上がっていた。

「一度、抜いて見せていただけませんか。いえ、触りません、見るだけです。見るだけですから。……いえ、できれば少しだけ、測らせていただけると」

「ドノヴァン」

 フランシスカが笑いながら男の肩に手を置いた。

「お客さまが困っていらっしゃいますわ」

 ドノヴァンは名残惜しそうに椅子に座り直した。それでも目は私の腰から離れなかった。

 セドリックが、私とチトセの前に茶を置いた。

 置いてから、ドノヴァンの前の空の杯にも黙って注ぎ足し、ブリギッタの席の冷めた杯を下げた。誰も礼を言わず、セドリックもそれを待っていなかった。この部屋では、それが毎日のことなのだろう。

「セドリックのことは、もうご存じね」

 フランシスカが、茶の盆を抱えたヴァンパイアに目をやった。

「書庫の番人。……あれでも首長ですのよ。この国で一番本を読んでいる人ですわ」

 セドリックは盆を抱えたまま、耳の先まで赤くして俯いた。

「それから、あと一人、首長がおりますの」

 フランシスカは自分の杯に梅酒を足した。

「おとといの晩、あなたに杯を掲げた酔っぱらいですわ」

 私は瞬いた。

 モモの店の向かいの、酒場の老人。見事すぎる千鳥足。

「無才の管理者と呼ばれておりますの。ジル。この国の耳と目ですわ。あなたが国境を越えた日から、あなたのことは、ずっとジルの耳に入っておりましたの」

 鷲の外套を受け取った国境の兵の顔が浮かんだ。上に、報告を。あの外套は、ここまで届いていたのだ。

「会議には、たいてい遅れてきますのよ。今日も、どこかで飲んでいるのでしょう」

 フランシスカは杯を傾けた。

「それと首長ではありませんけれど、もうお一人。……壁の外の訓練場に、老いた騎士がおりますわ。この国の騎士たちに剣を教えている方。会議には、めったにいらっしゃいませんの」

 フランシスカの目が、また、どこか遠くを見た。

「いずれ、お会いになるでしょう。……いずれ」

            ◇

 その日の夕方、広間を出たところで、ブリギッタが待っていた。

 土のついた前掛けのまま、腕に瓶を一本抱えていた。

「おい、黒髪」

 ブリギッタは、瓶を私の胸に押しつけた。琥珀色の酒が夕陽を受けて揺れた。

「わたしの梅だ。持ってけ」

「私は、ほとんど飲まない」

「知ってる。だから一本でいい」

 緋色の目が、下から私を見上げた。

「泣けないときに飲め。飲んでも泣けなきゃ、それはそれでいい」

 受け取った瓶は、ずしりと重かった。

「なぜ、そこまで」

「さあな」

 ブリギッタは鼻を鳴らした。

「あの二人に頭を下げてくれた王国の騎士はお前で二人目だ。一人目には世話になった。それだけだ。」

 それだけ言うと、梅の木の並ぶ通りのほうへ歩いていった。背の低い背中が、夕陽の中で小さくなっていった。

 一人目。

 八十年と少し前に、この国の扉の前で頭を下げた、王国の騎士。

 私は瓶を抱えたまま、その場に立っていた。夕陽が石畳を赤く焼き、梅の葉の影が足もとで細かく揺れていた。

 誰のことか、と訊けば、ブリギッタは答えただろう。口は悪いが、嘘をつく人には見えなかった。

 だから訊かなかった。

 その名前を、こんな夕暮れの通りで、斂を知らない誰かの口から聞きたくはなかった。

           ◇

 その夜、モモの店の二階の部屋で、私は窓辺に座っていた。

 膝の上にブリギッタの瓶を置いていた。

 開けなかった。

 窓の外で、光の壁が淡く光っていた。あの低い音が、夜の底でまだ鳴っている。

 懐から、二つのものを出して窓枠に並べた。

 結晶の塊と、割れた仮面の片割れ。

 壁の光を受けて、結晶は青く、仮面は白く浮かび上がった。仮面の目の穴から、向こう側の壁の光が覗いていた。

 捨てようとは思わなかった。どちらも。

 結晶の塊は、私があの国の剣だったことを忘れないために持っていく。それは今日、あの二人の前で決めた。

 仮面のほうは、まだ分からなかった。

 これを割った朝から、私は斂を許していない。許していないのに、あの朝から一晩も手放さずに眠った。殿下の命令が耳の奥で鳴っていたからだと、自分には言い聞かせてきた。追え、と。

 けれど今日、あの広間で、私は自分が何を追っていたのかを少しだけ見失った。

 リエルを斬った男を追っていたはずだった。

 それなのに、行く先々で見つかるのは、別の男の足跡ばかりだった。鉱山村の炉端で老人が笑った、反りのある剣を頼んでおいて使いこなせなかった男。湯けむりの都で公爵の爺やが言いかけ、公爵が低い声で遮った、九十年と少し前の黒髪の客。今日の広間で二人を見送った、旅の男。そのどれもが、私の知らない顔をしていた。

 知らない顔なのに、どの足跡にも、縁側で西瓜を齧っていた男の踵の癖が残っていた。

 私は仮面を指でなぞった。割れた縁が、ざらりと指の腹を引っかいた。

 憎んでいるのか、と自分に訊いた。

 答えは出なかった。

 代わりに、明日の朝は何を作ろうか、と考えている自分がいた。あいつが食べるわけでもないのに。

「……お嬢さん」

 チトセが寝床の上から私を見ていた。

「……眠れない?」

「ああ」

 チトセは首を少しだけ傾げた。それから寝床から起き上がって窓辺に来ると、私の隣に膝を抱えて座った。

 窓枠の上の仮面に、目を落とした。

 何も言わなかった。ただ、隣にいた。

 しばらくして、私は訊いた。

「チトセ。海の見える街には、いつ発つ」

「……明日」

 チトセは光の壁を見たまま言った。

「……あの街に。……お嬢さんの探してる人のこと、知ってる人が、いる」

 窓の外の音が、一瞬だけ遠のいた。

 ずっと探していた。どの村でも、誰に訊いても見つからなかった。その手がかりが、東へ三日のところにある。覚悟はしていた。チトセからその言葉が出るのを待っていたのかも知れない。

「やはり知っていたんだな。なぜ今になって?」

「……峠の、お嬢さんなら」

 チトセは言った。

「……聞いた日に、走ってた。……ひとりで」

 私は何も言えなかった。否定できなかった。

 膝の上の瓶の重みを、黙って感じていた。

「……明日」

 私は言った。

「ああ。明日だ」

「……ん」

 チトセは窓の外を見たまま頷いた。窓硝子に映った口の端が、ほんの少しだけ動いたように見えた。

 私は仮面と結晶の塊を懐に戻した。二つが布越しに触れ合って、かちりと小さく鳴った。

 光の壁の低い音が、夜の中で長く長く響いていた。

 遠くで、誰かが歌っているような音だった。


(第十章 了)

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