第九章 塔の国
国境は、谷の出口に門の形をして立っていた。
根の背と根の背が左右から迫り、最後に一つに合わさろうとするところだった。その狭い隙間を石の壁が塞ぎ、壁の真ん中に、荷車が二台並んで通れるほどの門が開いている。門の上で、旗が一枚翻っていた。
白地に、六本の塔。
「セラディスだよ」
先頭の荷車の上から、グンヒルドが言った。
「連合首長国。……ここから先は、人族の王様の国じゃない」
門の前に兵が並んでいた。
王国の兵とは身なりが違った。重い鎧は着ておらず、革の胴着の上に薄い鎖帷子を重ねただけの軽装だった。腰に細身の剣。背に短い槍。馬の鞍も軽く、小さい。動きに無駄がなかった。
門の脇で、兵の一人が隊商の荷車を一台ずつ検めていた。若い女の兵だった。
その隣に、もう一人。
獣人のような耳をしていた。けれど唇の端から白い牙が覗き、瞳には色がなかった。
下級魔族だった。
ヴァンパイアが奴隷にした者たちとのあいだに作った子の、末裔。帝国ではヴァンパイアに鎖で繋がれ、売り買いされる種族。ハルデンの谷で銀貨三枚の首と呼ばれていた者たち。つい先日の谷で、鉄の輪を嵌められていた者たち。
その下級魔族が、王国のものではない兵の胴着を着て、腰に剣を下げていた。人族の女の兵と並んで荷を検め、帳面を受け渡し、何か言葉を交わして笑っていた。
ごく当たり前のように。
私はそれを、しばらく見ていた。
王国の騎士団の座学では、魔族は人族の敵だと教わった。王都の包囲で、何百というヴァンパイアの兵と刃を交えた。
この門の向こうでは、それが当たり前ではないのだ。
荷の検めは手際よく進み、グンヒルドの荷車の番になった。
グンヒルドは荷車の奥から、黒い天鵞絨の外套を引っ張り出した。襟の銀糸の鷲は、翼の片方が欠けていた。それを人族の女の兵に、無造作に差し出した。
「谷で拾ったもんだ。持ち主は、もう要らないだろうけどね」
外套を受け取った女の兵が、襟の鷲を見て顔色を変えた。隣の下級魔族の兵が覗き込み、牙の覗く唇をきつく結んだ。
女の兵は外套の襟を指先でなぞり、それから目を上げた。グンヒルドを見て、その後ろに立つ私を見て、私の隣のチトセを見た。
その目が、チトセの上で止まった。
「……検めは、以上です」
女の兵の声は、少しだけ硬くなっていた。
「外套は、こちらで預かります。上に、報告を」
それからチトセのほうへ半歩だけ近づいた。何か言いたそうな顔をしていた。
チトセは懐から小さな木の札を取り出し、女の兵にだけ見えるように手のひらの上で傾けた。私の位置からは、札に何が刻まれているのか見えなかった。
女の兵の目がわずかに見開かれた。兵は何も言わずに一歩下がり、深く頭を下げた。
チトセは札を懐にしまい、何事もなかったように荷車の最後尾へ戻っていった。
「……チトセ」
「……ん」
「今のは、何だ」
「……通行証」
チトセは振り返らずに言った。
「……ふつうの」
普通の通行証を見せられて、国境の兵があんなふうに頭を下げるものだろうか。
私はそれ以上訊かなかった。訊けば、何かが崩れてしまう気がした。チトセと峠で出会った夜と、同じだった。
◇
門を抜けると、景色が変わった。
根の背が左右に大きく開け、そのあいだに、なだらかな緑の平地が東へどこまでも広がっていた。畑があった。果樹の林があった。水車の回る小川があった。
北西の空に、世界樹がそびえていた。
見慣れた姿ではなかった。王都から見上げていた世界樹は、いつも北の空を塞ぐ緑の壁だった。ここから見る世界樹は、北西の空にその東の肩を斜めに傾け、巨大な幹の東の側面に朝の光を正面から受けて、白く輝いていた。
その幹の麓に、街があった。
まだ遠い。一日か、二日はかかるだろう。それでも見えた。光っていたからだ。
街の真ん中を、光の壁がぐるりと取り巻いていた。淡い、青白い光が、朝の空気の中で薄い硝子の膜のように揺らめいている。高さは、世界樹の一番下の枝の半ばほどまであった。
小さな輪だった。王都アルセリアの城壁が囲む広さの、五分の一もないだろう。
その小さな輪の中に、建物がひしめいていた。五階、六階、それ以上。王都の大聖堂の鐘楼ほどの高さの建物が、光の壁の内側に肩を寄せ合うように立ち並び、その上に、さらに高く塔が立っていた。
六本。
形も高さも色も、それぞれ違った。白い石の尖塔。黒い鉄骨を組み上げた塔。蔦に覆われた丸い石の塔。天辺に巨大な硝子の球を載せた塔。
六本の塔に囲まれた真ん中に、もう一つ建物があった。塔ではない。低く丸い、古い石の広間だった。周りの高い建物に囲まれて、その屋根だけがずっと低いところにうずくまっていた。
光の壁の外にも街は広がっていた。こちらは低い。二階建てか三階建ての素朴な屋根が、光の輪を取り巻いてどこまでも続き、その外れに四角い兵舎らしい建物と、土を均した広い訓練場が見えた。
さらにその外側を、石の壁が囲もうとしていた。
まだ途中だった。大人の背丈の倍ほどしかない、真新しい色の低い壁だ。ところどころに足場が組まれ、途切れた壁の端で、石を積む人々の姿が豆粒のように動いていた。
「……壁の街」
呟いていた。
「トゥーレシア、だよ」
グンヒルドが荷車の上から言った。
「塔の国の首都さ。あの光の壁は、八十年ちょっと前に張られた術で、百年もつって話だ。どんな軍勢も、あれは越えられない。……王国も、帝国もね」
グンヒルドは、塔の真ん中の低い丸屋根を顎で示した。編んだ髭の鈴が、ちりと鳴った。
「壁の元は、あの真ん中の広間だってさ。昔はただの寄合所だったらしい。今は一階にその術の陣が据えてあって、二階で塔の偉いさんたちが会議をしてる」
「では、あの外側の街は」
「光の壁が守ってるのは、あの輪の中だけさ」
グンヒルドは肩をすくめた。
「中にあるのは塔と学院とお役所と交易所。それから、目の玉が飛び出るほど高い宿屋と家。安全な壁の中に住みたい奴はいくらでもいるから、土地が足りなくて、上へ上へ積むしかない。あたしらドワーフがあの中で宿を取ろうと思ったら、外の宿の十日分は取られるよ」
グンヒルドは、光の壁の外の低い屋根の連なりを指した。
「外は学生街さ。塔に通う学生の寮と下宿と、安い飯屋。それから普通の連中の家。兵舎も訓練場も外だ。……外の町や村は、自分の身は、自分で守るのさ。今までは、それで済んでた」
グンヒルドの指が、一番外側の造りかけの石の壁に移った。
「あれは去年から造り始めたんだよ。王国が負けて、帝国の図体がでかくなって、塔の偉いさんたちも、さすがに尻に火がついたんだろうね」
百年の壁。
騎士団の座学で、その名を聞いたことがあった。独立戦争のとき、王国の軍勢を押し返した壁。この前の敗戦までは、王国の歴史の中でほとんど唯一、はっきりと負けたと記されていた戦。
殿下は、その戦に若い頃出ていたと聞いた。あの壁の前で、殿下は何を見たのだろう。
もう、訊くことはできなかった。
荷車の最後尾で、チトセが光の壁を見ていた。ほんの少しだけ目を細めていた。懐かしいものを見るような目だった。
私の気のせいかもしれなかった。
◇
造りかけの石の壁には、まだ門がなかった。壁が途切れたところを、荷車はそのまま通り抜けた。
足場の上で、石を積む人々が隊商に手を振った。ドワーフがいた。獣人がいた。ヒューマンがいた。牙を覗かせた下級魔族の男たちが、ヒューマンの親方の号令に合わせて、大きな石を綱で引き上げていた。
その内側が、学生街だった。
騒がしかった。王都ともヴァルムハイムとも違う騒がしさだった。石畳の通りの両側に、安い飯屋と古本屋と文房具屋と下宿屋の看板がごちゃごちゃと並び、腕に本を抱え、肩に鞄を下げた若い人々が、歩きながら何かを言い合っていた。
分厚い本を何冊も抱えた下級魔族の若者が、ヒューマンの学生と熱心に言い合いながら歩いていた。黄金の髪に青白い肌のヴァンパイアの婦人が、日除けの大きな帽子を被って露店の果物を選び、店番の獣人の娘と値段のことで揉めていた。牙を覗かせた下級魔族の子供たちが、エルフの子供たちと一緒に、井戸の縁で水を掛け合っていた。
私は通りの真ん中で立ち止まっていた。
誰も、互いを殺そうとしていなかった。誰も、互いを売り買いしていなかった。
隊商の荷車が、私の横をごとごとと抜けていった。チトセが隣に来て、立ち止まった。
「……お嬢さん」
「……ああ」
「……だいじょうぶ?」
少し考えてから、私は首を振った。
「分からない」
正直な答えだった。
レーンベルが焼けた日から、ずっと、魔族は敵だった。シルフェリオの地下で、エドガーの館で、王都の城壁の上で、私は何十という魔族を斬ってきた。その私の目の前で、ヴァンパイアの婦人が獣人の娘に値切り負けて、しぶしぶ銀貨を払っていた。
「……何が正しいのか、分からなくなる」
チトセは何も言わず、私の袖を指先でほんの少しだけ引いた。
歩こう、というように。
私は歩き出した。
◇
グンヒルドの隊商の荷の卸し先は、学生街の、光の壁の門にほど近い一角にあった。
間口の狭い、二階建ての石造りの店だった。軒先の真新しい看板に、赤い紐を結んだ鈴の絵が描かれていた。
荷車が止まると、グンヒルドが飛び降りて、店の中に向かって怒鳴った。
「おおい、赤鈴の! ヴァルムハイムの荷だよ! 鍋が三十、鎧が十二、細工物が四箱!」
店の奥から、ぱたぱたと軽い足音が聞こえた。
「はいはーい! 今行くっす!」
私の足が止まった。
その声を、私は知っていた。
店の戸口から、少女が飛び出してきた。
いや、もう少女とは呼べなかった。背が伸び、顔の輪郭から子供の丸みが抜けていた。仕立てのいい、けれど動きやすそうな商人の上着を着て、腕に分厚い帳面を抱えている。褐色の頬。赤い髪を首の後ろで一つに束ね、その髪のあいだから、狸のような丸い耳がぴんと立っていた。
左の手首に、赤い髪紐が巻かれていた。片手で結んだ、不格好な結び目で。
「グンヒルドさん、お疲れっす! 今回は早かったっすね! 途中で何か」
少女が言葉を切った。
グンヒルドの後ろに立っている私を見た。丸い耳が、ぴんと立ったまま固まった。腕の中の帳面が滑り落ちて、石畳の上でばさりと鳴った。
少女はそれを拾わなかった。口を半分開けていた。
それから、その口が震えた。
「……ね」
声にならなかった。
「……ねえ、さん」
私は少しだけ笑った。笑おうとした。
「……久しぶりだ、モモ」
モモが走ってきた。
帳面を踏みつけて、グンヒルドを突き飛ばしそうになって、勢いを殺さずに、私の胸に頭から突っ込んできた。
ごん、と音がした。
私は後ろへよろめいた。胸の骨が軋んだ。
「……い、痛いっす」
私の胸に額を押しつけたまま、モモが言った。それから声を上げて泣き出した。子供のように。四年前、王都の城門の石畳に額を打ちつけたときと、同じように。
「死んだって……! 姐さん、死んだって、聞いたっす……!」
くぐもった声が、私の胸に直接響いた。
「王国の、戦死者の名簿が、回ってきて……! 一番下に、姐さんの名前があって……! 自分、嘘だって……! 姐さんが、死ぬわけないって……!」
モモの両手が、私の上着の背中を握りしめていた。
「でも、何か月待っても、何の噂もなくて……! 自分、自分……!」
私はモモの頭に手を置いた。赤い髪のあいだから生えた、丸い耳の付け根のあたりに。耳が、私の手のひらの下で小さく震えていた。日向に置いた毛布のような匂いがした。
「すまない」
私は言った。
「生きている。……ここに、いる」
モモは答えずに、私の胸に額を押しつけたまま泣き続けていた。商人たちの通りの真ん中で。通りすがりのエルフや獣人や、本を抱えた学生たちが、ちらちらとこちらを見ていった。
グンヒルドが落ちた帳面を拾い上げて、埃を払った。それから呆れたように鼻を鳴らした。
「……赤鈴の嬢ちゃんの知り合いかい。あんた、顔が広いね」
チトセは私の後ろに立って、黙ってモモを見下ろしていた。表情は変わらなかった。ただ、首をほんの少しだけ傾げていた。
◇
夕方、モモに連れられて光の壁の中へ入った。
「壁の中、案内するっす! 姐さん、あれは見なきゃ損っす」
モモは店を若い手代に任せて、前掛けを外しながら言った。
光の壁は、モモの店から通りを三つ抜けた先にあった。
近づくと、音がした。耳を澄まさないと聞こえないほどの、低い、長い音。弦を弾いたあとの、消えかけの響きのような。
壁には門があり、門の脇に兵が立っていた。
兵たちに指示を出しているのは、獣人の青年だった。茶色の髪のあいだから、柴犬のような三角の耳が立っている。細身で、まだ若い。レーンベルの森で出会った頃のフィンと、同じくらいの年頃に見えた。今のフィンよりはずっと若い。真面目そうな顔で壁の表面に手をかざしては、帳面に何かを書き込んでいた。
門をくぐるとき、光の壁の内側に身体が触れた。
何も感じなかった。冷たくも熱くもない。ただ耳の奥の低い音が、一瞬だけ大きくなった。誰かが遠くで歌っているような気がした。
振り返ったときには、音は元の低さに戻っていた。
壁の中は、別の国のようだった。
狭い通りの両側に高い建物が崖のようにそそり立ち、見上げると空が細い帯になっていた。建物と建物のあいだに、細い橋がいくつも渡されている。
日が傾き始めていた。
通りの両側に等間隔に立つ鉄の柱の天辺に、硝子の籠が載っていた。その籠が、ひとりでに灯った。一本、また一本。通りの端から端へ、順に白い光が灯っていく。誰も火を点けて回ってはいなかった。
「晶具の街灯っす」
足を止めた私に、モモが得意そうに言った。
「日が暮れると、勝手に灯るっす。この国の晶具は、王国よりずっと進んでるっす」
店の軒先で羽根車がくるくると回り、回るたびに店の中から涼しい風が吹き出していた。薬屋の店先では、老人が指先ほどの小さな金具を擦って煙草に火を点けていた。広場の噴水は、誰も汲み上げていないのに高く水を噴き上げていた。
街灯。換気扇。ライター。ポンプ。
懐かしい言葉が、頭の中に浮かんでは消えた。
この世界に来て、七年。こんなにあちらの世界に似た景色を見たのは、初めてだった。
交易所へ向かう通りの角に、一本の木が石畳を割って根を張っていた。
背は私の背丈の倍ほど。細い枝に丸い葉が茂り、その葉のあいだに、青い小さな丸い実がなっていた。ところどころ、黄色く色づき始めている。
私は木の前で立ち止まった。
「……梅だ」
祖父の家の庭にもあった。毎年、初夏になると祖母がその実を摘んで、大きな硝子の瓶に漬けていた。氷砂糖と焼酎と。台所の隅の暗いところに、何年分もの瓶が並んでいた。子供の頃の私は、瓶の中で実がゆっくりと沈んでいくのを、飽きもせずに眺めていた。
「姐さん、梅、知ってるっすか」
モモが私の顔を覗き込んだ。
「この街、あちこちに梅の木があるっす。……星読みの魔女様の、好物なんすよ」
「星読みの、魔女」
「塔の偉い人っす。六人の首長の、一人っす」
モモは声を落とした。
「梅の実をお酒に漬けたやつが大好きなんすって。昼間っから飲んでるって、もっぱらの噂っす。自分で漬けてるって話もあるっす。……それで、この街の名物になったっす。梅のお酒」
「……梅酒」
「あ、それっす。うめしゅ」
モモは交易所の方角を指さした。
「交易所でも売ってるっす。買っていくっすか」
青い実が、夕方の光の中で揺れていた。私は少し考えてから、頷いた。
交易所は、六本の塔のうちの二本に挟まれた、硝子の天井の大きな建物だった。
中に入ると涼しかった。外の夏の暑さが嘘のように、天井のどこかから冷えた風が静かに吹き下ろしていた。
何でもあった。ドワーフの岩塩。エルフの香草。北の山から来たという干した茸。東の海から運ばれてきた、干した魚と海藻。
私は海藻を手に取った。平たく、黒く、乾いていて、表面にうっすらと白い粉を吹いている。
昆布に、似ていた。
隣の袋には、丸く短い粒の穀物が詰まっていた。
両手で掬い上げると、指のあいだから白い粒がさらさらと零れ落ちた。乾いた、かすかに甘い匂いがした。麦の匂いではなかった。
「それは、東の海辺の町の米だよ」
店の主が言った。
「小さな自治の町でね。海と丘のあいだに、こう、段々に水を張った畑を作って育ててる。何十年か前に、あそこを拓いた人が始めさせたんだそうだ。手間ばかりかかるのに、あの町の連中は、これでなきゃ飯を食った気がしないって言うんだから」
私は掬った米を見下ろしていた。
水を張った畑。
この世界の人々は麦を焼き、麦を煮る。七年、私はそれ以外の主食を見たことがなかった。短い粒の米を、わざわざ水を張った田で育てようとする者がいるとしたら、それは米の味を知っている者だけだ。
誰かが、この世界で米を作らせた。
東の、海辺の町で。
海の見える街にいる。フィンが叙勲の前の晩に言っていた言葉が、手の中の米と重なった。
指のあいだから、また米が零れた。
九十年前にこの世界へ来て、三年分しか歳を取らなかった男。あの男が、どこかの浜で泥に足を突っ込んで、苗を植えている姿が浮かんだ。似合わなかった。似合わないのに、ひどくはっきりと浮かんだ。道場の台所では私の後ろから味見ばかりしていた少年が、ここでは、飯を食った気がしない人々のために田を拓いたのだ。
殿下とリエルを斬った手で。
私は米を袋に戻そうとして、戻せなかった。
隣でチトセが、袋の中の米を見ていた。何も言わなかった。私が顔を上げると、チトセはすっと目を逸らして、梅酒の棚のほうへ歩いていった。
気づいたら、海藻と干した魚と米の袋を、籠に入れていた。
今夜何を作るのかは、もう決まっていた。
梅酒の棚の前で、チトセが瓶をじっと見ていた。
「……のむ?」
「君が飲みたいのだろう」
「……ん」
私は梅酒の瓶を一本、籠に入れた。
◇
光の壁の外に戻ったときには、日が暮れていた。
モモの店の二階の台所を借りた。モモは私が台所に立つのを止めようとした。
「姐さんは、お客さんっす! 今夜は自分が、この街で一番の店に」
「約束だっただろう」
モモが口を閉じた。
「君が、腰を抜かすくらいの大商人になったら。また、私の飯を食わせると」
モモの丸い耳が、ゆっくりと垂れていった。
「……まだ、大商人じゃないっす」
「店を構えている」
「小さい店っす」
「看板が、新しかった」
モモは答えなかった。
私は袖をまくった。
「座っていてくれ」
モモはしばらく台所の入口に立っていた。それから鼻をすすって、卓の前の椅子に座った。チトセがその隣に座り、二人は並んで私の背中を見ていた。
台所には竈がなかった。
代わりに鉄の天板に、丸い金具が二つ埋め込まれていた。脇のつまみを捻ると、金具の上に青い火が音もなく灯った。もう少し捻ると火が大きくなり、戻すと小さくなった。
私はつまみを何度も捻ってみた。後ろでモモがくすくす笑っていた。
「それも晶具っす。この街じゃ、どこの家にもあるっす」
青い火を見下ろしていた。祖父の家の台所にも、これと同じ色の火があった。
交易所で買った海藻を、水に浸した。それから青い火にかけた。煮立たせずに、ゆっくりと。
湯気が立った。
磯の匂いがした。祖父の家の台所の匂いに、よく似ていた。
似ていた、だけだった。
鍋の縁に鼻を近づけて、私はもう一度匂いを吸った。昆布を引いたときの、あの丸い、甘い香りが立ってこない。海藻の匂いはするのに、その奥にあるはずのものが、空っぽだった。
干した魚を削って入れた。塩で固く干した、脂の多い魚だった。煮出すと、湯がうっすらと濁った。
小さな匙で掬って、舐めた。
塩辛かった。魚の脂が舌の上にざらりと残り、その後ろで海藻の磯臭さが遅れて追いかけてきた。旨くないわけではない。旅の道中で作ったどの汁よりも、ずっと旨い。
けれど、出汁ではなかった。
祖父の家の台所で、料理番の老人が引いてみせた一番出汁。澄んだ金色で、舌の奥でふわりとほどけて、飲み込んだあとにも喉に何かが残っている、あの味。それに近いのに、違った。近いだけに、違うところがはっきり分かった。
私は二度、三度、塩加減を変えてみた。干した魚を炙ってから入れ直し、海藻を引き上げる時間をずらした。少しずつ近づいた。近づくたびに、最後の一枚の壁がかえって厚く見えた。
匙を置いた。
九十年前、斂もきっと、この壁の前に立ったのだ。
何かの海藻を拾って、何かの魚を干して、鍋の前で匙を舐めて。違う、と思ったはずだ。腹が立つほど違うと。あの男は、そういうところだけは、私より辛抱強かった。
米を作らせた男なら、この味もどこかで諦めずにいるのだろうか。
それとも、もう諦めたのだろうか。
私は鍋の汁に、刻んだ野菜と溶いた卵を流し入れた。卵の甘さが、魚の塩辛さを少しだけ丸くした。これは、これで旨い。今夜の私には、それで十分なはずだった。
米は土鍋で炊いた。
蓋の隙間から吹きこぼれる泡の匂いを嗅いだとき、指先が勝手に火を弱めていた。七年も触れていなかったのに、手が覚えていた。
蒸らしてから蓋を開けると、白い湯気の下に、粒の立った米が光っていた。塩を振って、両手で握った。
麦ではなかった。
米、だった。
熱い飯が手のひらに張りついて、指の付け根がひりひりした。道場の朝稽古のあと、斂に握り飯を作ってやったことを思い出した。三つ作ると、三つとも黙って食べた。塩が足りないとも、多いとも言わなかった。言わないことが、あの男の褒め方だった。
その米を、あの男はこの世界で育てさせていた。
私はできあがった握り飯の形を、もう一度両手で整えた。
握り飯と汁を、モモの前に置いた。
モモは握り飯を両手で持って、じっと見下ろしていた。
「……これ」
モモが言った。
「あの船で、作ってくれたやつっす」
「あのときは、麦だった。……今日は、米がある」
モモは握り飯を齧って、噛んだ。
それから、また泣き出した。今度は声を上げずに、握り飯を齧りながらぼろぼろと涙をこぼしていた。
「……美味いっす」
モモは言った。
「姐さんの飯、やっぱり、美味いっす……」
モモは握り飯を三つ食べた。一つ食べるごとに少しずつ泣いて、三つ目を食べ終えたときには、もう泣いていなかった。
あの船の上と、同じだった。
チトセはその隣で、握り飯を五つ食べ、汁を三杯おかわりした。それから空の椀を見下ろして、ぽつりと言った。
「……なつかしい」
私はチトセを見た。
「懐かしい?」
チトセは少しだけ首を傾げた。自分でもなぜそう言ったのか分からないような顔だった。
「……なんとなく」
それだけ言って、四杯目の汁を自分でよそいに立った。
その背中を見ながら、私は自分の椀の汁を啜った。
塩辛くて、磯臭くて、出汁には届かない汁だった。
この汁の何が、チトセに懐かしいのだろう。
食事の終わりに、梅酒の瓶を開けた。
小さな杯に注ぐと、琥珀色の酒が灯りを受けて、杯の底でとろりと揺れた。甘い匂いがして、それから少しだけ酸っぱい匂いがした。
口をつけた。甘かった。酸っぱかった。喉の奥が、少しだけ熱くなった。
祖母の瓶の酒を、私は飲んだことがなかった。子供の私に許されていたのは、同じ梅を氷砂糖だけで漬けた甘い汁のほうだった。夏になるとそれを井戸で冷やした水で割って、縁側で飲んだ。
甘さの奥に、酒の熱さが混じっていた。知らない味だった。
それでも、梅の味だった。
杯を置いて、私はしばらく何も言わなかった。
チトセが自分の杯をひと息に空けて、眉をほんの少しだけ寄せた。
「……すっぱい」
そう言いながら、空の杯を私のほうへ差し出していた。
モモが腹を抱えて笑った。
◇
食事のあとで、モモはこの四年のことを話してくれた。
王都の東の市場から、ドワーフの隊商に乗せてもらったこと。ヴァルムハイムで荷運びをしながら、商いの仕方を覚えたこと。ドワーフの工芸品を塔の国に運ぶ隊商の、手伝いを始めたこと。
塔の国では、獣人でも店を構えることができた。
王国では、獣人は人族の中でも下に見られる。帝国では、魔族の奴隷とほとんど変わらない扱いを受けることもある。けれど、この国では。
「誰も、自分の耳のこと、何も言わないっす」
モモは自分の頭の上の丸い耳に触れた。
「ヴァンパイアのお客さんも、下級魔族のお客さんも、普通に買い物していくっす。値切ってくるっすけど。……自分、最初は怖かったっす。魔族なんて、みんな、ナナを買ったやつらと同じだって」
モモの手が、左の手首の赤い髪紐に触れた。
「でも、違ったっす。……ナナを買ったやつらは、いたっす。でも、そうじゃないやつらも、いたっす。この国には、そうじゃないやつらが、いっぱいいるっす」
私は何も言えなかった。
学生街の通りで立ち止まってしまった私の気持ちを、モモは四年かけて、自分の足で越えてきたのだ。
「それで、去年の春に、この店を出したっす。……壁の中は、高すぎて、とても手が出ないっすけど」
モモはへにゃりと笑った。
「いつか、壁の中に店を持つのが、自分の夢っす。あの交易所の、硝子の天井の下に。……今は、ドワーフの工芸品と、エルフの香草と、塔の学者さんたちの本。人は、売らないっす。人を売り買いしない、商人っす」
「立派だ」
私は言った。
「君の鼻は、正しかった」
モモの耳がぴんと立って、それから照れくさそうにへたりと垂れた。
モモは、少しだけ声を落とした。
「……兄貴のこと、知ってるっすか」
私は頷いた。
「王都で、勇者と呼ばれている」
「知ってたっすか」
「途中の村で聞いた。……それから、ヴァルムハイムの公爵から」
モモはしばらく黙っていた。
「兄貴、姐さんが死んだって、思ってるっす」
「……ああ」
「自分、手紙、書いていいっすか。兄貴に。姐さんが、生きてるって」
私は首を振った。モモの耳が、ぴくりと動いた。
「……なんでっすか」
「今の私は、あの子の足かせにしかならない」
公爵に話したのと同じことを、私はモモに話した。持ち場を離れたこと。魔族を逃がして、首に値がついていること。私の生存が知れれば、あの子の立場が危うくなること。あの子が王都を放り出して、私を探しに来るだろうこと。
それから。まだ、あの子に言えないことがあること。
モモは黙って聞いていた。最後まで聞いてから、長い溜息をついた。
「……姐さんは、ずるいっす」
「そうかもしれない」
「兄貴、かわいそうっす」
「……ああ」
「でも」
モモは左の手首の髪紐を握った。
「姐さんが、そう決めたんなら。……自分、黙ってるっす」
まっすぐな目だった。四年前、城門の前で商人になると言ったときと、同じ目だった。
「その代わり、いつか、兄貴にも、あの握り飯、食わせてやってくださいっす。……自分だけ食べたって知ったら、兄貴、泣くっすよ」
私は少しだけ笑った。
「約束する」
公爵とも、同じ約束をした。あの子の前で、揚げ物を揚げてやれ、と。
約束が、少しずつ増えていく。果たせるかどうか、分からない約束が。
そうして私もまた、誰にも訊かずに決めているのだと気づいた。フィンに何を知らせ、何を知らせないかを、ひとりで秤にかけて。
斂を責める資格が自分にあるのかどうか、梅酒の甘さの残る舌では、うまく判じられなかった。
◇
夜更けに、私はモモの店の軒先に出た。
通りは静かになっていた。見上げると、光の壁が夜空の中に淡く光っていた。耳を澄ますと、あの低い音がまだ聞こえていた。
通りの向かいに、小さな酒場があった。
戸口の脇の、外に出された卓に、老人が一人座っていた。痩せた老人だった。枯れ枝のような手足。白い髪。浅黒い肌。安物の葡萄酒の瓶を卓の上に置いて、杯を傾けていた。
ただの飲んだくれに見えた。
けれど私は、老人の肩を見ていた。力が入っていないのに、崩れてもいない。酔っているなら重心はどこかに流れる。椅子の背か、卓の縁か、どちらかに寄りかかる。この老人の重心は、どこにも流れずに、椅子の真ん中にまっすぐ据わっていた。
老人の薄い青の目が、杯の縁越しに私を見た。
一瞬だけ。酔いの欠片もない目だった。
それから老人は、杯を私のほうへ軽く掲げてみせた。乾杯の、真似事のように。
私は何も返さなかった。
老人はにやりと笑い、杯の中身をひと息に飲み干した。卓の上に銅貨を二枚置いて立ち上がり、ふらふらと千鳥足で通りの奥の暗がりへ歩いていった。
見事な千鳥足だった。見事すぎた。
私は老人の背中が暗がりに溶けて見えなくなるまで見ていた。
「……お嬢さん」
背後でチトセの声がした。店の戸口に立って、チトセも老人の消えた暗がりを見ていた。
「今の老人を、知っているのか」
チトセは少し考えた。
「……しってる」
「誰だ」
「……よっぱらい」
それから、少しだけ首を傾げた。
「……えらい、よっぱらい」
それ以上、何も言わなかった。
私はもう一度暗がりを見た。何も見えなかった。
国境の門で、鷲の外套を受け取った女の兵の顔を思い出していた。上に、報告を。あの外套はどこへ運ばれたのだろう。どこまで、届いたのだろう。
チトセが私の隣に来て、光の壁を見上げた。しばらく二人で、黙って見上げていた。
「……お嬢さん」
「なんだ」
「……海」
チトセが言った。
「……ここから、東。あと、三日」
私はチトセを見た。
海の見える街。私が探している街。
交易所の米の袋が、まだ指先に残っている気がした。乾いた、かすかに甘い匂いと一緒に。
「……なぜ、それを」
「……わたしの、帰るところ」
チトセは光の壁を見上げたまま言った。
「……一緒に、行く?」
私はしばらく答えなかった。
懐に手を入れると、指先が小袋の中の硬いものに触れた。王都の塔の上で割れた、仮面の欠片だった。縁が鋭く欠けていて、何度触れても、いつも同じところで指の腹に引っかかる。
峠で出会った夜、どこへ行くのかとチトセは訊いた。東だ、と私は答えた。海の見える街を探している、と。
わたしも、東。帰るところ。
チトセはそう言った。あの夜からずっと、チトセは私と同じ方角へ歩いていたのだ。
その街に、斂がいるのかどうかは分からない。いたとして、私はあの男の前で、まず何をするのだろう。刀を抜くのか。握り飯の塩加減を訊くのか。
仮面の欠けた縁が、指の腹にちくりと刺さった。
三日。
「……ああ」
私は言った。
「一緒に行く」
「……ん」
チトセは頷いた。それから、ほんの少しだけ口の端を動かしたように見えた。
笑ったのかどうかは、分からなかった。
光の壁の低い音が、夜の中で、長く、長く響いていた。
(第九章 了)




