第八章 煌めき
ヴァルムハイムを発ったのは、夏の初めだった。
公爵が隊商を一つ手配してくれた。ドワーフの工芸品を塔の国へ運ぶ隊商で、荷車が八台。一台ごとに背の低い足の太い馬が二頭ずつ繋がれ、荷台には藁に包まれた鍋や鎧や細工物の箱が、ぎっしりと積まれていた。
隊商を率いるのはドワーフの女だった。
名をグンヒルドといった。公爵よりさらに一回り樽のような身体をしていて、赤茶色の髪を太い二本の三つ編みにして胸の前に垂らしている。顎から伸びた髭もまた細く三つに編まれ、先に小さな鉄の鈴が結んであった。歩くたびに、髪の鈴と髭の鈴がちりちりと鳴った。
「公爵様から聞いてるよ」
出立の朝、グンヒルドは私の顔を下から見上げて言った。
「銀貨三十枚の、黒髪の娘だろう」
私は剣の柄に手をかけなかった。グンヒルドがにやりと笑った。
「あたしらドワーフはね、人族の王様の触れ書きなんぞ、竈の焚きつけくらいにしか思っちゃいないよ。……それより、あんた、料理ができるんだってね」
「多少は」
「多少じゃないって、公爵様は言ってたよ。」
グンヒルドの後ろで、隊商の男たちがそわそわとこちらを見ていた。
「塔の国までは、ひと月だ。荷車の通れる道は根の谷を大きく回り込むからね。……道中の飯を、頼めるかい」
私は少しだけ笑った。
「喜んで」
公爵は城門の前まで見送りに来た。
チトセの頭を背伸びしてぽんと叩き、チトセは表情を変えずに叩かれるままになっていた。それから公爵は私の前に立ち、丸めた布の塊を胸に押しつけてきた。
厚手の羊毛を織った、灰色の外套だった。
「山越えの夜は、夏でも冷える。……下の町の織り手からだ。飯の礼だとよ」
広げると、裾に小さく、編んだ髭を垂らしたドワーフの横顔が縫い取られていた。
「約束、覚えとるな」
「はい」
公爵は私の腰の綺綺羅羅を、黒い漆の鞘を見た。何か言いたそうな顔をして髭をしごき、結局何も言わなかった。ただ、私の肩を一度だけ強く叩いた。
「行け」
隊商が動き出した。
振り返ると、公爵はまだ城門の前に立っていた。火山の煙の下で、樽のような身体が、坂道の途中で見えなくなるまで。
◇
道は世界樹の根のあいだを、東へ続いていた。
岩盤を押し上げて盛り上がった根の背が、左右にどこまでも連なっている。その谷間を、隊商の荷車が一列になってごとごとと進んでいった。
旅は穏やかだった。
私は朝と晩に飯を作った。荷台に積んだ小麦と干し肉と、道々で摘んだ山菜と、グンヒルドが隠し持っていたヴァルムハイムの岩塩。谷に湧く湯を見つけると卵を茹でた。
隊商の男たちは、最初の晩から私の鍋の前に列を作った。三日目の晩には、グンヒルドが自分の荷車の奥から小さな樽を一つ転がしてきた。
「秘蔵の酒だよ。……あんたの飯に、あたしの酒じゃ釣り合わないけどね」
チトセは荷車の一番後ろに腰かけて、足をぶらぶらさせていた。
ときどき、荷台の脇を歩く見習いの少年に話しかけられていた。十二、三歳のドワーフの男の子で、顎にはまだ産毛のような髭しかない、丸い顔の子だった。
「ねえ、白い人。その剣、何でも斬れるって本当?」
「……ん」
「岩も?」
「……ん」
「鉄も?」
「……ん」
「じゃあ、山は?」
チトセは少し考えた。
「……たぶん」
少年が目を輝かせた。
焚き火の前で、私は少しだけ肩を震わせた。冗談を言ったのだと思った。チトセの顔は、少しも笑っていなかったけれど。
旅の合間に、私は綺綺羅羅を振った。
朝は飯の支度の前に、夜は飯の片付けのあとに。手に馴染ませるためだった。鞘から抜いて、構えて、振る。重心が手の中で静かに移っていく。祖父の道場で振っていた刀と同じ重さ、同じ反り。
違うのは、刃が空気を斬る音だった。もっと細く、高い。
グンヒルドが隊商の若い者に言って、火熾しの籠手で何度か火の筋を飛ばしてくれた。
斬るたびに、火が刀身に纏いついた。三つ数えるほどのあいだ。それから切っ先から剥がれて散る。纏いついているうちに刀を振ると、火は刀の軌跡を追って赤い弧を描き、振り抜いた先で切っ先を離れて前へ飛んでいった。
返すことができる。
斬った術を纏って、相手に返すことが。
結晶術を、私は集められない。けれど、この刀があれば。
その晩の粥は、塩が多すぎた。
隊商の男たちは何も言わずに平らげたが、グンヒルドだけが一口啜って片眉を上げた。私は鍋の底をかき回しながら、刀身の上で揺れていた赤い火のことばかり考えていた。
チトセが荷車の上から、それを見ていた。何も言わなかった。
◇
それが来たのは、旅に出て十八日目の夕暮れだった。
谷が狭くなっていた。左右の根の背が迫って、空は細い帯のようにしか見えない。夕陽はとうに根の背の向こうに沈み、谷の底は青い影に浸かっていた。
先頭の荷車が止まった。
道の真ん中に、人が立っていた。
背の高い男だった。黄金色の髪を背中まで伸ばし、銀の留め金で一つに束ねている。青白い肌。黒い天鵞絨の外套の襟に、銀糸で翼を広げた鷲が縫い取られていた。青い瞳が、夕闇の中で薄く光っていた。
ヴァンパイアだった。
立ち姿で、ただのヴァンパイアでないことが分かった。
男は谷のいちばん狭いところを選んで立っていた。左右の根の背が、男の両肩のすぐ外まで迫っている。回り込む余地も、荷車を逃がす余地もない場所だ。それなのに男自身は、そこに追い込まれた者の立ち方をしていなかった。肩に力が入っておらず、重心がどこにも偏っていない。足もとの砂利が、男の体重の下で一つも鳴っていなかった。
王都の包囲で何百と見たヴァンパイアの兵たちとは違う。あの戦で一度だけ同じ立ち方を見た。城壁の前で黄金の髪をなびかせて名乗りを上げた、水の都の主。
男の背後の岩陰から、影がいくつも這い出してきた。
獣のような耳。長い牙。色のない瞳。下級魔族だった。八人。首に黒い鉄の輪を嵌められ、輪から垂れた鎖を、一番前の一人がまとめて握らされていた。
男は荷車の列を退屈そうに眺め、それから荷車の脇に立つ黒い髪の女を見つけた。
唇が、ゆっくりと笑みの形に吊り上がった。
「……見つけた」
よく通る、柔らかい声だった。
「黒い髪。剣を使う。術は使わない。……名は、カリン」
触れ書きの文句だった。
「人族の辺境の触れ書きというのは、存外遠くまで流れてくるものだ。銀貨三十枚。……ずいぶんと安く見積もられたものだな、陽炎の騎士」
王都で兵たちが私をそう呼んでいたのを、この男は知っていた。
「……誰だ」
男は外套の裾を払い、優雅に一礼した。
「北の城塞都市グラウフェルスの主、ルドヴィク・グラウフェルス。お見知りおきを、とは言わんよ。長いつきあいには、ならんだろうから」
隣でグンヒルドが戦槌を握り直した。編んだ髭の先の鈴が、ちり、と一度だけ鳴って、それきり鳴らなくなった。
名を持つヴァンパイア。都を一つ預かる大貴族。ドワーフの隊商が束になっても敵う相手ではない。
「何の用だ」
「用というほどのことでもない」
ルドヴィクは肩をすくめた。
「リッチの姫君が、ずいぶんと君にご執心でね。帝都に戻られてからというもの、黒髪はどうした、次はいつ遊べる、と。……宮殿の柱が何本折れたことか。あの方は昔から黒い髪に目がない。九十年前にも、黒髪の勇者にさんざん煽られて、ずいぶん長いあいだ荒れておられたそうだ」
瑠璃色の髪の、あの女。
黒髪の勇者。
騎士団の座学で習った防衛戦の頁が、頭の中でめくれた。九十年前、王国の勇者は神殿の踊り子と並んでリッチの姉の前に立ち、国境の外まで押し返した。
斂が、あの女の前に立ったのだ。
煽った、とこの男は言った。目に浮かぶようだった。勝てないと分かっている相手ほど、斂はよく笑って余計な一言を足した。道場で祖父に絞られたあとも、懲りずに口の端を上げていた。
その男の置き土産を、九十年経って私が払わされている。
腹の底が冷えて、それから少しだけ、笑いたくなった。
「姫とは長い付き合いでね。粗野だが気持ちの良い御仁よ。功績には十全に報いてくださるよ、あの方なら」
青い目が細くなった。
「それに、いつまでも西のヴァイスに好き勝手に大きな顔をされるわけにもいかんのでね」
男の目が、私の顔から足の先まで、品定めをするようにゆっくりと下りていった。
「生け捕りが望ましいのだが。……手足の一本くらいなら、姫君も気にはなさるまい」
私はグンヒルドの前に出た。
「荷車を、下げてください。あの男の狙いは、私です」
グンヒルドは一瞬だけ私の顔を見て、振り返って叫んだ。
「下がれ! 荷車を下げろ! 急げ!」
隊商の男たちが慌ただしく馬を引き始めた。けれど狭い谷だった。八台の荷車が向きを変えるには時間がかかる。私の後ろには、まだ最後尾の荷車が残っていた。その脇で見習いの少年が立ち竦み、チトセが荷台の上から音もなく降りるのが見えた。
間合いは、十二歩ほどあった。
私は綺綺羅羅を抜かなかった。鯉口に左手を添えたまま、右手は柄から離して腿の脇に垂らした。剣士の間合いではない。術の間合いだった。こちらから詰めれば、詰めるあいだに撃たれる。
だから、戸を開けた。
右足をわずかに引き、身体を半身にひらく。左の肩口だけが、ほんの少し男の側へ残る。来島流で言う、戸を開ける構えだ。ここなら当たる、と相手の目に思わせる隙を、こちらから一枚だけ見せてやる。
ルドヴィクの青い目が、私の左肩で一瞬だけ止まった。
止まったのを、私は見た。
男が右の手を軽く持ち上げた。詠唱はなかった。光の粒が男の指先に集まって、縮んだ。
赤い塊が、三つ。
一つ目は胸へ。二つ目は右の膝へ。三つ目は、一つ目を避けた先の左の肩へ。
半身のまま、一つ目を外した。
右足をさらに引いて、二つ目を外した。
三つ目は、こちらが開けておいた戸へ、まっすぐに入ってきた。
そこには鯉口があり、その上に右手があった。
抜きながら、斬っていた。
赤い塊が刃に触れて割れた。私の背後の岩壁で、外した二つがようやく弾けた。どん、どん、と腹に響く音が、刀を振り抜いたあとから遅れて届いた。
割れた赤が、刀身に纏いついた。金と銀の刃文の上を、血のような赤が薄い膜になって覆った。
三つ数えるほどしか、ない。
一つ。地を蹴って、間合いを半分詰めた。
二つ。綺綺羅羅を振り抜いた。刀身から赤が剥がれて、男へ飛んだ。男が放ったのと同じ塊が。
ルドヴィクの眉が、ほんのわずかに上がった。
それだけだった。男は首を傾けた。赤い塊は男の頬を掠めて背後の岩壁を抉り、砕けた岩の粉が、男の金の髪にさらさらと降りかかった。
男の頬に、細い赤い線が一本走っていた。
ルドヴィクは指先でその線に触れ、ついた自分の血をしげしげと眺めた。
「……なるほど」
楽しそうだった。
「術を斬って、纏って、返す。噂にはなかったな。新しい玩具か」
男の目が、刀の刃文に落ちた。
「あの戦の報告書は、全部読んだ。陽炎の騎士。……当たらない騎士。どれほど撃っても揺らめいて当たらない。まるで術がどこへ飛ぶのか、先に知っているかのように。姫君の暴力でさえ、何度も外したと」
血のついた指先を、男は舌で舐めた。
「それに今、私は君の左肩を狙わされた。……面白い。当たらぬのなら、避ける場所をなくせばいい」
男の唇が動いた。
詠唱だった。知らない言葉だったが、響きで分かった。長く、深い。
光の粒が男の周りに渦を巻き始めた。さっきとは比べものにならない量だった。谷の空気そのものが男のほうへ吸い寄せられていく。夕闇の中で、谷じゅうの光の粒が、男の両手のあいだへ流れ込んでいた。私の頬にかかっていた後れ毛までが、男のほうへ揺れた。
ヴァンパイアは、集める力が強い。ノスフェラトゥを除けば、どの種族よりも。騎士団の座学でそう教わった。名を持つヴァンパイアは、その中でも選り抜きだ。
男の毛先が、きらきらと細かく瞬き始めていた。結晶化が進んでいる。男は気にも留めていなかった。
赤い光が男の周りで形を取り始めた。
槍だった。一本ではない。十本、二十本。数え切れない赤い槍が、扇のように宙に並び、穂先がすべてこちらを向いていた。
私の左右を。頭上を。足もとを。
私の背後の、荷車を。
見えた。
槍が谷を埋め尽くす未来が。右へ避ければ右の槍が、左へ避ければ左の槍が。退けば、背後の荷車に。
どこにも避ける場所がなかった。
斬るしかない。
斬れる、と思った。旅の途中で火の筋を斬り続けてきた、この刀なら。一番太い中央の槍を斬る。纏って、返す。返した槍で、両脇の槍を薙ぐ。
塩を入れすぎた粥の味が、舌の奥にまだ残っていた。
槍が放たれた。
正面からは受けない。それだけは、身体が覚えていた。
中央の槍の穂先へ、刃を斜めに滑り込ませた。鎬で穂先の筋を外へ逸らしながら、刃先だけで槍の腹を割る。祖父に何万回も仕込まれた、受けずに流す太刀筋だった。
刃が槍に触れた。
重かった。
さっきの塊とはまるで違う重さだった。逸らすはずの穂先が逸れず、刃が槍に食い込んだまま押し返されてくる。手首が、肘が、肩が軋んだ。足の裏で、谷の砂利がじりじりと後ろへ滑った。
それでも、刃が槍を割った。
割った槍が刀身に纏いついた。さっきよりずっと濃い赤だった。刀身だけではない。鍔元から柄を握る私の手の甲まで、赤い光が這い上がってきていた。熱くはない。けれど重かった。刀が手の中で暴れていた。
一つ数える間もない。
返さなければ。
私は綺綺羅羅を振りかぶった。振り下ろすより先に、纏った赤が切っ先からずるりと剥がれた。私の意思とは関係なく。刀身を離れた赤はあらぬ方向へ飛んで、谷の岩壁を砕いた。
強すぎたのだ。この刀が抱えていられる時間を、あの槍ははるかに超えていた。
左右の槍が迫っていた。
私は刀を返し、右から来る槍に刃を合わせた。
刃は槍を斬らなかった。
刀身の上にまだ赤い残り火が薄くこびりついていて、それが次の術を弾いていた。
前の術が残っているあいだは、次の術は斬れない。
理由は分からなかった。けれど刀がそう言っていた。
斬れないなら、流すしかない。鎬を立てて、槍の穂先を肩の外へ滑らせた。右の槍が刃の上を擦って抜けていった。肩口で布が鳴り、公爵に貰ったばかりの外套が裂けた。
まだ、何本も来る。
私の胸へ、一本。その後ろの荷車へ、何本も。
見えていた。槍が胸に届く、その瞬間まで。
見えていても、どこにも行き場がなかった。避ければ、槍は少年に届く。
私は動かなかった。
動けなかった。
白いものが、私の前を横切った。
音はしなかった。風もなかった。ただ白い光が、一度だけ閃いた。
それは斬撃の形をしていなかった。線ではなかった。そこにあった何かが、白く塗り潰されて消えたように見えた。
赤い槍が消えていた。私の胸へ向かっていた一本も、その後ろの荷車へ向かっていた何本も。谷を埋め尽くしていた赤が、白い光の通った跡から、跡形もなく。
その先の、男も。
男の右の肩から左の脇腹まで、斜めに、何もなかった。斬られたのではなかった。そこにあったはずのものが、なくなっていた。
ルドヴィクは自分に何が起きたのか分からない顔をしていた。青い目が、私の前の白い背中を見ていた。唇が何かを言いかけて、言葉にはならなかった。
その目から光が消え、男の身体が谷の石の上に崩れ落ちた。
音が戻ってきたのは、それからだった。
男の背後の根の背から、ぱらぱらと小石が落ちてきた。見上げると、谷を閉じていた根の稜線に、斜めの切り欠きが一つ増えていた。磨いたように滑らかな切り口だった。その切り欠きから、もう沈んだはずの夕焼けの残りが細く谷へ差し込んで、倒れた男の外套の上に落ちていた。
銀糸の鷲は、翼の片方だけになっていた。
刀身にこびりついていた赤が、ぱっと散った。
私の前に、白い背中があった。
チトセだった。刀を振り抜いた形のまま立っていた。刀身が夕闇の中で白く光り、光はすぐに消えた。チトセは刀を鞘に納めた。
鍔が、ちんと鳴った。
「……けが、ない?」
「ない。私は何ともない」
「……そう」
チトセは小さく息を吐いて、目を閉じた。
隊商の男の一人が松明に火を灯した。その火が、チトセの手の上に落ちた。
チトセの手が、透けていた。
松明の火の色が、チトセの手の甲の向こうにぼんやりと見えていた。ほんの一瞬だった。瞬きをしたら、チトセの手は元の白い手に戻っていた。
見間違いだと思った。見間違いだと、思いたかった。
松明の脂の焦げる匂いが、いつまでも鼻の奥に残っていた。
その日、チトセはよく眠った。
丸一日、目を覚まさなかった。
ヴァンパイアの骸は、隊商の男たちが谷の脇に埋めた。翼の片方が欠けた鷲の外套だけを、グンヒルドが黙って荷車の奥にしまい込んだ。塔の国に着いたら、然るべきところに届けるのだという。
首に鉄の輪を嵌められていた下級魔族たちは、半分がどこかへ逃げていた。残った半分は、谷の出口の岩陰に身を寄せ合って座り込んでいた。
私はその輪を、一つずつ綺綺羅羅で断ち切った。断ち切るたびに、下級魔族たちはびくりと身を竦めた。何人かは礼のようなことを言い、何人かは何も言わずに谷の外へ走っていった。
グンヒルドはそれを黙って見ていて、止めなかった。
夜、私はチトセの寝ている荷車の脇に座っていた。
焚き火の明かりが、幌の隙間からチトセの顔に落ちていた。私は膝の上の綺綺羅羅を少しだけ鞘から抜いた。金と銀の刃文が火を受けて揺れた。
きれいな刀だった。私が望んだ通りの。
この刀があれば、と思った。火の筋を斬って返せると知った晩に。
あの晩、粥の塩を間違えた。あれが驕りの味だった。
結晶術を集められない私が、術を斬り、術を返せる。そのことに浮かれていた。あの男が報告書を読んだと言ったとき、私の戦い方を知っていると言ったときでさえ、斬って纏って返せばいいと思っていた。
未来は見えていた。槍が谷を埋め尽くす瞬間まで。
けれどその手前を。私の戦い方を知る相手が、何を編んでくるのかを。
読んでいなかった。
刀に、見とれていた。
王都の戦場で当たらない騎士と呼ばれて、いつのまにか、見えることに頼りきっていた。
「……お嬢さん」
荷台の中から声がした。
チトセが目を開けていた。顔はまだ白かったけれど、唇に少しだけ色が戻っていた。
「……おなか、すいた」
何か言おうとして、言葉が出てこなかった。代わりに立ち上がって、焚き火にかけていた鍋から椀に粥をよそった。猪の骨を煮出した汁に、刻んだ山菜と崩した温泉卵を溶いた粥だった。今度は塩を、ひとつまみずつ確かめながら入れた。
チトセは荷台の上で身体を起こして椀を受け取り、ゆっくりと啜った。
椀が半分まで空いたところで、私は言った。
「チトセ。……あれは、何だ」
匙が止まった。
「あの白い光だ。君は今まで、あんな斬り方をしたことがなかった」
チトセは椀の中を見ていた。焚き火がぱちりと爆ぜた。
「……ときどき、しか、つかわない」
「なぜ」
チトセは答えなかった。
「なぜだ、チトセ」
チトセは椀を膝の上に置いて、白い瞳でまっすぐに私を見た。
「……すごく、つかれる」
少し考えるように、間を置いた。
「……本当に、疲れるだけなのか?」
「……わからない」
チトセは首を傾げた。
「……わからないけど、使うとぼんやりする」
気づいたら立ち上がっていて、荷台の縁を拳で叩いていた。椀の中の粥が揺れた。
「なぜ、使った」
焚き火の周りの隊商の男たちがこちらを見た。構わなかった。
「なぜ、使った。そんなものを。……私のために」
「……お嬢さん、が、死ぬ、から」
「死ななかったかもしれない」
「……死んでた」
静かな声だった。
「……見えてた。お嬢さん、動かなかった。……後ろの子、守って」
私は口を閉じた。
チトセの言う通りだった。あのまま、槍は私の胸を貫いていた。
「……だからといって」
夜気を吸い込むと、喉の奥が焚き火の煙でざらついた。
「だからといって君が傷つくものを使っていい理由にはならない」
「……いい」
「よくない!」
叫んでいた。
「よくない。何も、よくない。……私の命と君の命を、秤にかけるな」
「……かけてない」
チトセは首を振った。
「……お嬢さんの、ほうが、おもい」
息が止まった。
「そんなことを、言うな!」
谷に私の声が跳ね返った。
チトセは私を見ていた。表情は変わっていなかった。けれど椀を持つ指が、少しだけ強張っていた。
荷台の縁に両手をついて、私は頭を垂れた。
焚き火の煙が、幌の隙間を抜けて夜空へ昇っていった。
目の奥に、いくつもの顔が浮かんでいた。地下の室の蓋の上に古い剣を持って座り込んでいた、腰の曲がった老人。王子の前に立って両手を広げた、黒いチョーカーの少女。
誰かを守るために、自分を差し出した人たち。私はその誰のことも守れなかった。その度に置いていかれた。
それから、一番古い顔が浮かんだ。
錆の浮いた鉄階段の上の、表札の「實条」の二文字。チャイムの向こうの、何百回も聞いた無音。
斂も、何も言わなかった。
何と何を秤にかけたのかは知らない。かけて、決めて、私には何も訊かずにいなくなった。そうやって決めた男が、この世界で九十年を生きて、殿下とリエルを斬った。きっと、あのときも秤にかけたのだ。誰にも訊かずに。
私はまだ、その秤に何が載っていたのかを知らない。
知らないまま憎むのは、きっと楽だった。
「……もう、嫌なんだ」
自分の声が、ひどく掠れて聞こえた。
「誰かが私の前に立って。私の代わりに何かを差し出して。……それで、私だけが残るのは」
チトセは何も言わなかった。
「君まで、そうなるのは。……嫌だ」
焚き火が爆ぜた。隊商の男たちは、いつのまにかこちらから目を逸らしていた。
長い沈黙のあとで、チトセが言った。
「……お嬢さん」
「……なんだ」
「……おこってる?」
顔を上げると、チトセが首を少しだけ傾げて私を見ていた。
「怒っている。ひどく、怒っている。……君にも。私にも」
「……そう」
チトセはしばらく黙っていた。それから、自分の胸に片手を当てた。何かを確かめるように。
「……ここ、へん。……お嬢さんが、おこると。……ここ、ぎゅって、なる」
チトセは自分の胸を見下ろしていた。不思議そうに。ヴァルムハイムで泣きやんだ子供を抱き上げて、見下ろしていたときと同じ顔だった。
燃えていたものが、少しずつ静まっていった。
私は荷台の上に身を乗り出して、チトセの胸に当てた手の上に、自分の手を重ねた。
冷たい手だった。けれど、もう透けてはいなかった。
「チトセ」
「……ん」
「もう、使うな。使わなくていいように、私が強くなる」
私は言った。
「刀に頼らずに。見えるものに頼らずに。……その先を、読めるように」
見えていたのに、間に合わなかった。見るだけでは足りない。見えたもののその次を。相手の手の中で、今まさに編まれているものを。読まなければ。
「だから、もう、使うな」
チトセは長いこと私の顔を見ていた。それから小さく頷いた。
「……ん」
それが約束なのかどうか、私には分からなかった。チトセの「ん」は、いつもどちらとも取れた。
それでも私はチトセの手を離さなかった。チトセも振り払わなかった。
◇
翌朝、隊商はまた東へ動き出した。
チトセは荷車の一番後ろに腰かけていた。まだ顔は少し白かったけれど、足をぶらぶらさせていた。
見習いの少年が、荷車の脇を歩きながらチトセを見上げた。
「白い人。昨日の、あれ。……山も、斬れる?」
チトセは少し考えて、荷車の脇を歩く私をちらりと見た。
「……斬らない。……お嬢さんが、おこるから」
少年はきょとんとして私を見た。
私は何も言わずに、前を向いて歩き続けた。
裂けた外套の肩口から、朝の風が入ってきた。昨夜のうちにグンヒルドが太い麻糸でざっくりと縫ってくれたが、縫い目の隙間から、まだ少しだけ冷たい風が通る。その冷たさが、なぜか悪くなかった。
谷の出口の向こうに、朝の光が差し込んでいた。根の背の稜線が、東へなだらかに下り始めている。その先に塔の国がある。
先頭の荷車の上から、グンヒルドが振り返って叫んだ。
「あと十日だよ! 十日で、国境だ!」
隊商の男たちが声を上げ、髭の鈴がいっせいに鳴った。
私は腰の綺綺羅羅の柄に手を置いた。金と銀の刃文を持つ、私の刀。いい刀だと、今も思う。
けれど刀は、刀でしかない。
振るうのは私だ。読むのも、私だ。
背中で、荷車の車輪がごとごとと鳴っていた。その音に混じって、チトセの足がぶらぶらと揺れる気配がしていた。
(第八章 了)




