第七章 理想の一振り
「鉄で作るもんじゃあないな」
三日目の朝、公爵が言った。
城の奥の鍛冶場の作業台には、十枚を越えた注文書が広げられていた。その横に、あの冷えた鉄の塊が置かれている。公爵は塊を拳でこつこつと叩いた。
「嬢ちゃんの言う打ち方なら、鉄でもいい剣にはなる。この国の剣より、ずっといい剣にな。……だが、あの女の剣とやり合えば折れる」
あの女。
瑠璃色の髪の、あの女だ。
「嬢ちゃんの剣を持っていった女だ。次に会うとき、あの女は嬢ちゃんの剣を振ってくる。……俺の職人が打った剣をな」
公爵は鉱石の並んだ棚へ歩いていき、二つの塊を取って作業台に並べた。
一つは銀色の塊だった。磨かれてもいないのに、朝の光を受けて冷たく光っている。もう一つは暗い金色で、銀よりもどこか柔らかい光り方をしていた。
「ミスリルと、オリハルコンだ」
公爵は言った。
「ミスリルはこの世で一番硬い。結晶術を一番嫌う金属で、術を撃ち込めば表面で歪んで逸れる。俺たちドワーフは術の才がない代わりに、こいつを好んで鎧に使う」
太い指が銀の塊を弾いた。澄んだ高い音が、岩の天井まで昇っていった。
「オリハルコンは逆だ。柔らかくて、粘る。叩いても割れん。結晶術と一番相性がよくて、晶具の導体や術師の杖に使う」
金の塊を弾くと、低く長く尾を引く音がした。
二つの音が鍛冶場の中で重なり、ほどけていくのを、私は黙って聞いていた。
硬い皮。柔らかい芯。
「……皮に、ミスリル。芯に、オリハルコン」
気づいたら口に出していた。公爵が髭の中でにやりと笑った。
「嬢ちゃんの国の打ち方なら、そうなる」
「できますか」
「できん」
あっさりした返事だった。私は瞬いた。
「ミスリルはな、半端な炉じゃ柔らかくならん。どれだけ火を強くしても赤くすらならん。そのくせオリハルコンは、ミスリルが柔らかくなるよりずっと前に溶けちまう。この二つを一つの炉で一緒に叩くことはできん。……普通の炉ではな」
普通の炉では。
私は公爵の顔を見た。公爵は目を逸らした。
「……普通でない炉が、あるのですね」
「ない」
「あるのですね」
「ないと言っとる」
公爵は背を向け、作業台の注文書をばさばさと片付け始めた。
「鉄で打つ。鉄でも十分いい剣になる。嬢ちゃんの腕なら、あの女の剣に真正面から打ち合わなけりゃ折れはせん」
私は何も言わずに、その背中を見ていた。
樽のような背中が、少しだけ居心地悪そうに揺れていた。
◇
それから三日、私は公爵の後をついて回った。
朝、公爵が下の町の鍛冶場へ出かけるときも。昼、城の広間で鉱山の親方たちの陳情を聞いているときも。夜、湯殿の男湯に浸かっているときには岩壁越しに。
「公爵」
「駄目だ」
「まだ何も言っていません」
「言わんでも分かる」
「芯のオリハルコンは、鍔元から切っ先まで途切れずに通してください。切っ先だけは皮で包み込む形で」
「言っとるじゃねえか!」
公爵の叫びが湯殿の岩壁に跳ね返った。湯の面に細かな波が立った。私は湯の中で、少しだけ満足していた。
チトセは、それを黙って見ていた。
私が公爵の後を追うたびに、少し離れて私の後をついてきた。
二日目の夜、城の廊下でチトセが言った。
「……お嬢さん」
「なんだ」
「……しつこい」
私は少し考えた。
「そうだろうか」
「……ん」
チトセは頷き、それから少しだけ首を傾げた。
「……でも」
「でも?」
チトセはしばらく言葉を探していた。
「……楽しそう」
私は足を止めた。
廊下の壁に掛けられた松明が、ぱちりと爆ぜた。
そうかもしれない、と思った。刀のことを考えているあいだは、ほかのことを考えずに済む。仮面の下の顔も。石碑に刻まれた自分の名も。あの子の背中も。
「……そうかもしれない」
チトセはそれ以上何も言わず、また私の半歩後ろを歩き始めた。
三日目の夜、公爵が折れた。
夕食の席で、私が猪の骨付き肉を切り分けながら、反りの深さをもう一度だけ確かめようとしたときだった。公爵が杯を卓に叩きつけた。
「分かった!」
広間じゅうの給仕たちがびくりとした。チトセだけが骨付き肉から顔を上げなかった。
「分かった、分かった。出してやる。出してやるから、飯の時くらい反りの話をやめろ」
公爵は髭を両手でわしわしと掻き回した。
「……宝物蔵の爺が、泣くぞ」
◇
宝物蔵は城の一番深いところにあった。
岩盤を掘り抜いた螺旋の階段を、松明を掲げて下りていく。下りるにつれて空気が暖かくなった。山の奥の熱がここまで届いているのだという。壁の岩肌がしっとりと汗をかき、鉄と煤と古い油の匂いが、段を重ねるごとに濃くなっていった。
階段の底に、分厚い鉄の扉があった。
扉の前の小さな椅子に、年老いたドワーフが座っていた。真っ白な髭は床に届くほど長く、先を三つに分けて編んである。膝の上には分厚い帳面が広げられていた。
老人は公爵を見て眉を上げ、公爵の後ろの私とチトセを見て、もっと眉を上げた。
「……公爵様。人族を、蔵に」
「開けろ」
「何を、お出しに」
「小槌だ」
老人の手から帳面が落ちて、床の上でばさりと鳴った。老人はそれを拾わなかった。
「……公爵様。残り火の小槌は、この領の最高の宝でございます。先々代の公爵様が火種の女神様より賜った。軽々しくお出しになるものでは」
「軽々しくはない。俺が三日考えて、決めた」
老人はしばらく公爵の顔を見ていた。それから長い溜息をつき、床の帳面を拾い上げてぱらぱらとめくった。
「……前にお出しになったのは、九十年と少し前。あの黒髪の」
「爺」
公爵の声が低くなった。
老人は口を閉じ、腰の鍵束から一番大きな鍵を選んだ。
私は公爵の背中を見ていた。公爵は振り返らなかった。
黒髪の。
九十年と少し前。
その二つが、階段で吸ってきた煤の匂いと一緒に、喉の奥へ落ちていった。
斂だ。
王都の塔の上で、仮面の割れた顔を見た。九十年かけて三年分しか歳を取らなかった顔を。あの男が、九十年前にこの階段を下りたのだ。この熱い空気を吸い、この老人の白い髭を見下ろして、たぶん今の私と同じように、公爵の背中に何かをねだって。
昨日、公爵は言った。九十年ぶりだ、こんな面倒な注文は、と。
私は鉄の扉の冷たい縁に、指先で触れた。
その扉の向こうで、斂が何を頼んだのか、私は知らない。知りたいと思った。知りたくない、とも思った。殿下とリエルを斬った手が、ここでどんな顔をして鍛冶屋に頭を下げたのか。それを知れば、あの男を憎みきれなくなる気がした。
鉄の扉が重い音を立てて開いた。
蔵の奥の石の台の上に、それは置かれていた。
小さな槌だった。
私の手のひらに収まるほどの短い柄に、拳ほどの黒い鉄の頭がついている。その頭の先だけが、炉から出したばかりの鉄のように赤く光っていた。蔵の暗がりの中で、熾火が呼吸をするように、ほのかに脈打っていた。
「触るなよ」
公爵が言った。
「持つのは柄だけだ。頭に触れたら、嬢ちゃんの指なんぞ一瞬で炭になる」
公爵は石の台の前に膝をつき、両手を合わせてしばらく目を閉じていた。それから柄を握って小槌を持ち上げた。
赤い光が、公爵の髭を下から照らした。
「……久しぶりだな」
公爵は小槌に向かって呟いた。
誰に言ったのか、私には分からなかった。
◇
小槌の力は、見ているだけで背筋が冷えるものだった。
公爵が作業台の上のミスリルの塊に、小槌の先を軽く当てる。それだけで、炉のどんな火でも赤くならないという銀の塊が、触れたところからみるみる赤く染まっていった。赤は塊の全体に広がった。
公爵が小槌を振り上げ、振り下ろした。
かん。
銀の塊が粘土のように平たく伸びた。
私は息を呑み、隣でチトセがわずかに目を細めた。
「どんな場所でも。どんな素材でも。炉がなくとも」
公爵は小槌を振るいながら言った。
「火種の女神の残り火だ。……こいつを握ると、鉄の声が聞こえる。どこを叩いてほしいか、どこで折り返してほしいか、全部向こうから言ってくる。その代わり、打つ者の身体から力を食う。長くは握れん」
公爵の額に汗が浮いていた。鍛冶場の炉にはまだ火が入っていなかった。
延べて、折り返して、また延べる。
公爵は小槌でミスリルを十数回折り返した。折り返すたびに、銀の地肌に細かな層が重なっていく。それからオリハルコンを細長い芯の形に延べ、暗い金の芯を銀の皮で包み込んだ。
包んだ塊を長く細く延べるには、重さが要る。公爵が小槌で熱と形を与え、もう一人が大槌でその上から叩く。向こう槌、と私の国では呼んでいた。
「嬢ちゃん、大槌を持て」
壁から大槌を取ると、柄がずしりと掌に沈んだ。
公爵の小槌が塊の一点をこんと叩き、そこへ大槌を振り下ろす。最初の数回は合った。公爵の肩を見れば次にどこを叩くかは分かる。拍子を読むことはできた。
けれど腕がついてこなかった。
十回を越えた頃から落ちる位置がずれ始め、二十回を越えると振り上げるたびに身体ごと持っていかれた。
「嬢ちゃん、ずれとる」
「……分かって、います」
「分かっとっても、ずれとる」
三十回目で、大槌の頭が作業台の縁を叩いた。鈍い音が岩に吸われて、公爵の小槌が止まった。
私は大槌を床に下ろした。手のひらの皮が、柄の形に熱く脈打っていた。
祖父に何度も言われたことだった。お前には力がない。女で、子供で、力がない。だから正面から打ち合うな。
刀を振るうことと、刀を打つことは違う。分かっていたはずなのに。
大槌の柄を、誰かが横から取った。
チトセだった。
チトセは大槌を片手で持ち上げ、重さを確かめるように二度軽く振ってから、作業台の前に立った。何も言わずに、ただ塊を見ていた。
公爵はしばらくチトセの顔を見上げていた。それからふんと鼻を鳴らし、小槌を振り上げた。
こん。
かん。
小槌が叩いたまさにその一点に、大槌が落ちた。
こん。かん。こん。かん。
拍子が一度もずれなかった。小槌の音と大槌の音が一つに重なって、岩の天井に響いた。
公爵の目が見開かれていた。私も見ていた。
チトセの肩はほとんど動いていない。腕だけで振っているように見えて、よく見ると足の裏から膝、腰、背中、肩、腕へと、力が一本の線で流れている。振り上げる動きと振り下ろす動きのあいだに止まりがない。最短の軌道で、最小の力で、最も重く。
刀を振るときと同じだった。
祖父の道場で、何度も聞かされた理屈そのものだった。
「……ほう」
公爵が小槌を振りながら呟いた。
「白いの。お前、鍛冶屋の家の出か」
「……ちがう」
チトセは大槌を振りながら言った。
「……でも、分かる」
「何が」
「……どこを、叩いてほしいか」
公爵の小槌が一瞬止まりかけ、すぐにまた動き出した。
公爵はそれきり何も言わなかった。髭に埋もれた口もとが、小槌の拍子とは関係なく、一度だけ固く結ばれたのが見えた。
◇
打ち始めて、五日が過ぎた。
公爵が小槌を握れるのは一日に二刻ほどだった。それ以上握ると公爵の顔から血の気が引き、息が浅くなった。小槌が公爵の身体から何かを吸い取っているようだった。
それでも公爵は毎日小槌を握り、チトセは毎日大槌を振った。
私はそのあいだ、厨房に立った。
刀を打てないのなら、せめて打つ者たちに食べさせたかった。
公爵の城の厨房は広くて、火が強くて、鍋が大きかった。料理番のドワーフの女たちは、編んだ顎髭の先を前掛けの紐に挟んで、人族の娘が厨房に入ってくるのを嫌そうに見ていた。三日目には髭を揺らしながら、私の手元を身を乗り出して覗き込んでいた。
茶碗に卵を割り入れ、長時間煮込んだ猪の肉と煮汁を加えよく混ぜる。肉厚の茸も刻んで加え蓋をすると茶碗を蒸籠に並べてグラグラと煮立つ湯の上に置いておく。
蒸し上がったら冷めないうちに皆のところに持っていく。皆まだ持てないくらい熱い器をおっかなびっくり受け取った。
公爵はそれをひと口で啜り、しばらく何も言わなかった。
「……美味え」
やっとそう言った。
「嬢ちゃん。これは、なんだ」
「茶碗蒸し、と、私の国では」
「茶碗蒸し」
公爵はその響きを口の中で転がしていた。
「この湯の街に何百年も住んどって、卵をこう茹でた奴は一人もおらん。黒髪の人族はどいつこいつも美味いもんを知っとるな」
思わずその髭面を凝視した。
私はどんな顔をしていたのだろうか、公爵の顔がみるみる引きつっていく。
「な、なんじゃ。剣以外にそんな執着するもんがあったのか」
いわれてはっとする。
「…そんな簡単なものではないです。」
なんとか言葉にすると、それ以上公爵からの追撃はなかった。
◇
その晩、厨房の片付けを終えて鍛冶場を覗くと、公爵が一人で作業台の前に座っていた。
小槌はもう蔵に戻されていた。台の上には、延べかけの銀の板と、私の書いた注文書が並んでいる。公爵は炭で書かれた反りの図を、指の腹でなぞっていた。
「嬢ちゃん」
振り返りもせずに公爵が言った。
「この打ち方、誰に習った」
「祖父の蔵に出入りしていた刀鍛冶に。……見ていただけです。私が打ったことは一度もありません」
「見ていただけで、ここまで覚えるか」
「好きでしたから」
公爵は低く笑った。
「九十年前にも、似たようなことを言った奴がおった。そいつは、見ていただけでも覚えとらんかったがな。……土がどうとか、焼きがどうとか。肝心のところになると、隣で喋っとった奴の話を半分しか聞いとらんかった、と言いやがった」
私は戸口で立ち止まった。
隣で喋っていた奴。
祖父の蔵の、奥の間を思い出していた。桐の箱から一振りずつ刀を出しては、私は刃文の話をした。互の目がどう、丁子がどう、焼き入れの土がどう。戸口の柱にもたれて、蜜柑を剥きながらそれを聞いていた少年がいた。
お前の話は、長い。
そう言って、剥いた蜜柑の半分を寄越した。
あくびをして、それでも最後まで出ていかなかった。
公爵は、昔の客の話をしたわけではない。鍛冶屋は打った相手のことを喋らない、と湯殿で言った男だ。ただの独り言だ、と言うだろう。
けれど私の舌の裏には、あの日の蜜柑の、少し酸っぱすぎる味が戻ってきていた。
半分しか聞いていなかったのなら。
半分は、聞いていたのだ。
九十年前に。私がまだ生まれてもいない時間に。私の長い話の半分を抱えて、斂はこの鍛冶場に立った。
それから、何も言わずに私の前から消えて。この世界で、殿下とリエルを斬った。
二つのことが、同じ一人の男の中に収まっていることが、私にはどうしても飲み込めなかった。
「……おやすみなさい、公爵」
「おう」
公爵は最後まで振り返らなかった。
◇
七日目に、刀身の形ができた。
まだ反りはない。まっすぐな、細長い銀色の板だった。表面は荒く、刃もついていない。けれどその長さと厚みと重心の位置は、十枚の注文書に書いた通りだった。
私はその板の上に土を置いた。
鍛冶場の裏の湯の溝の底から掬った、きめの細かい粘土に、灰と砥石の粉を混ぜて練ったものだ。刃になるところには薄く、棟になるところには厚く。刃と棟の境目には、へらの先で波を描いた。
互の目。
祖父の蔵で一番好きだった一振りの刃文を、思い出しながら描いた。
公爵とチトセが、両側から私の手元を見ていた。誰も何も言わなかった。
土が乾くまで半日待った。
焼き入れは夜にやった。炎の色が見えるように。
公爵が小槌で刀身を熱した。赤くなり、橙になった。
もう少し。
祖父の蔵に出入りしていた刀鍛冶の老人が言っていた。焼き入れの色は、夏の夜明け前の月の色だと。この世界の月は、私の国の月と少しだけ色が違う。それでも。
「今です」
公爵が刀身を水槽に沈めた。湯の溝から引いた、ぬるい湯を張った水槽だった。
じゅう、と音がした。白い湯気が鍛冶場いっぱいに噴き上がった。
湯気の中で、刀身が動いた。
公爵の鉄箸の先で、まっすぐだった銀の板がゆっくりと反り始めた。棟のほうへ、弓のように。
公爵が息を呑む音が聞こえた。
「……曲がった」
公爵が呟いた。
「叩いとらんのに。勝手に、曲がりやがった」
「刃のほうが硬くなって、伸びるからです」
言いながら、私は自分の喉がからからに乾いているのに気づいた。湯気を吸っているのに、舌が上顎に張りついていた。
「土を薄く置いたところだけが硬く伸びる。棟は柔らかいまま残る。……だから、反るんです」
公爵は水槽から刀身を引き上げた。湯気の向こうで、刀身が腰のあたりからほのかに反っていた。注文書に書いた腰反りだった。
公爵はそれを長いこと見つめていた。それから、ぼそりと言った。
「……九十年前に、これを知っとればな」
私は公爵を見た。公爵は刀身を見たまま首を振った。
「独り言だ」
私は何も訊かなかった。
チトセの腰の刀を思い出していた。山道の焚き火の明かりで、一度だけ間近に見たあの刀身。ゆるやかな反りがあり、刃のあたりに刃文に似た鍛え肌の波が走っていた。あの反りは、焼きで出たものではなかったのだ。波も、叩いて、叩いて、刃文に似せようとした線だった。
半分しか伝わらなかった話を、この人は九十年前、槌だけで埋めようとしたのだ。
そう思うと、湯気の中の公爵の髭が、急にひどく白く見えた。
◇
研ぎは私がやった。
公爵が領内の石切り場から、砥石になりそうな石を何十種類も集めてきてくれた。粗いもの。細かいもの。硬いもの。柔らかいもの。その一つ一つで刀身の端を少しずつ研いでみて、どの石がどの順番でミスリルの地肌を整えるのか、見当をつけるのに三日かかった。
それから研ぎ始めた。
湯の溝の脇の小さな小屋を借りて、一日じゅう砥石の前に座った。
しゃっ。しゃっ。
刀身が砥石の上を滑る音だけが、小屋の中に響いていた。
道場の台所でも、同じ音がしていた。
祖父の家の包丁を研ぐのは、いつのまにか斂の役目になっていた。刀は向いていないと祖父に言われた少年が、夕飯の前になると勝手口の踏み石にしゃがみ込んで、出刃や柳刃を黙々と研いでいた。刃を親指の腹に当てて確かめる癖があった。危ないからやめろと何度言っても、やめなかった。
研ぎ上がった包丁で私が大根を桂剥きにすると、斂は感心したような顔をして、それから必ず「俺が研いだからな」と言った。
私は砥石の上で手を止め、刃に親指を当てかけて、やめた。
同じ癖をなぞろうとした自分の指が、ひどく腹立たしかった。
チトセは小屋の戸口に座ってそれを見ていた。ときどき私の手元に湯卵を一つ置いていった。殻は相変わらず、ぼろぼろに剥けていた。
研ぎ始めて六日目だった。
一番細かい砥石で刃のあたりを軽く撫でていたとき、刀身の上に線が浮かび上がってきた。
刃と棟の境目に、私がへらの先で描いた波の形に。
銀の地肌の中を、金の線が走っていた。
芯のオリハルコンの色だった。土を薄く置いた刃のあたりだけ、焼き入れで皮のミスリルが薄く締まって、その下の芯の金が透けて見えているのだ。金の波を縁取るように、ミスリルの銀が細かく煌めいていた。互の目の刃文が、金と銀の二色で刀身の上に波打っていた。
私は砥石を置き、刀身を戸口から差し込む光にかざした。
光が刃文の上を流れていった。金が揺れ、銀が瞬いた。波が、動いているように見えた。
祖父の蔵のどの一振りとも違った。
どの一振りよりも。
「……お嬢さん」
いつの間にか、チトセが私のすぐ後ろに立っていた。白い瞳に、金と銀の光が映っていた。
「……きれい」
振り返ると、チトセの顔はいつものように少しも動いていなかった。けれどその目は、刀身から離れていなかった。
「……ああ」
私は言った。
「きれいだ」
◇
柄と鍔と鞘は、下の町の職人たちが競うように作ってくれた。
鍔は黒い鉄の丸鍔に、世界樹の枝葉の透かし彫りを入れた。柄には山の湖に棲む大きな魚のざらついた皮を巻き、その上から黒い絹の組紐を菱形に巻き締めた。鞘は黒い漆で塗り込め、鯉口に銀の縁金をはめた。
二十日目の夕方、一振りの刀が鍛冶場の作業台の上に置かれた。
公爵とチトセと私と。それからどこで聞きつけたのか、下の町の鍛冶屋たちが入口に鈴なりになっていた。
公爵が刀を鞘から抜いた。刃文が夕陽の中で金と銀に揺れ、入口の鍛冶屋たちがどよめいた。
公爵はしばらく刀身を見つめていた。それから柄を私のほうに向けて、刀を差し出した。
両手で受け取った。
重さが、手のひらにすとんと落ちてきた。
重くも軽くもなかった。鍔元から拳一つ半先のところに重心があった。祖父の道場で十数年振り続けてきた重さだった。手が、先に覚えていた。
「……公爵」
声を出すと、喉に引っかかった。鍛冶場に籠もった鉄の匂いを、私は一度深く吸い込んだ。
「ありがとう、ございます」
「礼は白いのにも言え」
公爵はそっぽを向いた。
「大槌は、あいつが振った」
私がチトセを見ると、チトセは首を横に振り、それからほんの少しだけ首を傾げた。
「嬢ちゃん」
公爵が鏨と小さな槌を手に取った。
「銘を切る。……名を、つけろ」
名。
私は刀身を見た。金と銀の波。光が流れるたびに、揺れて、瞬いて、煌めく。
名前はすぐに浮かんだ。最初から、それしかないと思った。
「綺綺羅羅」
鍛冶場が静かになった。
公爵の手の中で鏨が止まっていた。入口の鍛冶屋たちが顔を見合わせていた。チトセは刀身を見たまま、まばたきをしていなかった。
「……きき、らら」
公爵がゆっくりと繰り返した。
「はい。綺麗の綺を二つ重ねて。それから、羅を二つ」
私は作業台の上の紙に、炭の欠片で字を書いてみせた。
綺綺羅羅。
我ながら、いい字面だと思った。光がきらきらと何重にも揺れている様子が、字の形からも伝わってくる。
公爵は紙の上の字を長いこと見下ろしていた。
口を開いた。閉じた。もう一度開いた。
それから入口の鍛冶屋たちのほうを見た。鍛冶屋たちは一斉に目を逸らした。
公爵はチトセを見た。チトセは刀身を見ていて、公爵のほうを見なかった。
公爵は髭を両手でゆっくりと撫で下ろし、深く息を吐いた。
「……分かった」
公爵は刀の茎を作業台の上に据え、鏨を当てて小さな槌で叩き始めた。
こん。こん。こん。
一画ずつ。慣れない異国の字を、紙の上の手本を何度も見返しながら。
誰も何も言わなかった。
茎に四つの字が刻まれていくのを、私は満ち足りた気持ちで見ていた。
もし斂がこの場にいたら、何と言っただろう。
たぶん、笑った。蔵の戸口で蜜柑を剥いていたときと同じ顔で、肩を揺らして笑っただろう。それでも、鏨の音が止むまでは何も言わずに見ていたはずだ。あの男は、そういうところだけは昔から律儀だった。
そこまで考えて、私は刀身に映る自分の顔から目を逸らした。
律儀だった男が、何も言わずに消えたのだ。
◇
試し斬りは翌朝、鍛冶場の裏の空き地でやった。
巻いた藁を斬った。太い竹のような、山の草の茎を束ねたものを斬った。古い鉄の兜を台に据えて斬った。
兜は音もなく二つになった。刃こぼれは一つもなかった。見物に来ていた鍛冶屋たちが声を上げた。
それから、一人の若いドワーフがおずおずと前に出てきた。まだ顎髭が短く、編むには足りない長さだった。腕に古い籠手のような晶具を嵌めている。
炉に火を入れるための晶具だという。術の才に乏しいドワーフたちは、火を熾すにも晶具を使う。籠手の甲の石に晶素を溜めておいて、腕を振れば細い火の筋が出る。
「あの、術も、試してみては」
若いドワーフが言った。
「その刀、芯がオリハルコンなら、術を通すかもしれません。……通したらどうなるのか、見てみたくて」
私が公爵を見ると、公爵は黙って頷いた。
若いドワーフが空き地の端に立ち、籠手を嵌めた腕を私に向けた。光の粒が籠手の石に吸い込まれ、火の筋が飛んできた。炉の火を熾す程度の、細い、弱い火。
それでも火だった。
私は綺綺羅羅を振って、火の筋を斬った。
手応えがあった。鉄を斬るのとも藁を斬るのとも違う、何かを刃で掬い取ったような手応え。火の筋が二つに割れて、消えた。
消えたはずだった。
刀身が燃えていた。金と銀の刃文の上を、赤い火が薄い膜のように覆っていた。
熱くなかった。柄を握る手には何も伝わってこない。火は刀身の上で静かに揺れていた。三つ数えるほどの間。それから切っ先から剥がれるように離れて、朝の空気の中に散った。
空き地が静まり返っていた。若いドワーフが口を開けたまま固まっていた。
私は公爵を見た。
公爵は刀身を見ていた。顔から血の気が引いていた。
「……紫金と、同じだ」
ほとんど聞き取れないほどの声だった。
「公爵?」
公爵ははっとしたように私を見て、それから目を逸らした。
「……芯のオリハルコンに、少しばかり晶素を吸わせた。打っとる最中にな。癖だ。昔、そういう打ち方をしたことがある」
それ以上は何も言わず、公爵は背を向けて鍛冶場の中へ戻っていった。
その背中が、何かをひどく遠くに置いてきたように見えた。
昔。
九十年と少し前。
私は訊かなかった。公爵の背中の向こうに、ここで何かを頼んだ黒髪の男の影が立っている気がして、その影を呼び止める言葉を、私はまだ持っていなかった。
綺綺羅羅を鞘に納めた。鍔が、ちんと鳴った。
チトセの刀と同じ音だった。
隣にチトセが立っていて、私の腰の綺綺羅羅を見下ろしていた。
「……いい、刀」
「ああ」
「……お嬢さんの、手に、合ってる」
「ああ」
チトセはしばらく黙っていた。それからぽつりと言った。
「……名前、は」
そこで言葉が止まった。何かを言いかけて、やめたようだった。
「名前が、どうした」
チトセは私の顔を長いこと見ていた。それから小さく首を横に振った。
「……なんでも、ない」
私は少し首を傾げ、腰の綺綺羅羅の柄に手を置いた。
組紐の菱形が、手のひらにちょうど収まった。
いい名だと思った。
我ながら。
(第七章 了)




