第六章 湯けむりの都
森を抜けると、山が燃えていた。
そう見えたのは、ほんの一瞬だった。
目の前に黒い岩肌の山がそびえ、頂のあたりから灰色の煙が一本、空へ伸びていた。その裾野一面から白い湯けむりがいくつも立ち上り、夕陽がそれを下から赤く染めていた。
山の中腹に街があった。
黒い石を積んだ家々が、斜面に張りつくように幾段にも重なっている。屋根の間からは湯けむりが、煙突からは黒い煙が立ち、白と黒が絡み合いながら夕陽の中をゆっくり山の上へ流れていく。
風に乗って音が聞こえてきた。
かん、かん、と鉄を打つ音だった。
一つではない。街のあちこちから十も二十も、ばらばらの拍子で重なり合って、山の斜面に響いていた。
ヴァルムハイム。ドワーフの公爵の都だった。
「……におう」
隣でチトセが言った。鼻の頭にわずかに皺を寄せている。
風に、卵の腐ったような匂いが混じっていた。鉱山村の湯と同じ匂いを、何十倍にも濃くしたような。
「湯の匂いだ」
「……知ってる」
チトセは鼻の皺を戻さなかった。
「……でも、におう」
私は少しだけ笑って、街へ続く坂道を下り始めた。
街の中は暖かかった。
石畳の脇に細い溝が掘られ、その中を湯気を立てた湯が流れている。ところどころにかけられた石の蓋の上で、猫が丸くなっていた。
道を行き交うのはほとんどがドワーフだった。背は私の胸ほどで、肩幅は私の倍。男たちは赤茶や黒の髭を三つ編みにして金属の輪を通し、女たちも細い髭を編んで、高く結い上げた髪の下に煤で汚れた前掛けをしていた。
みんな声が大きかった。露店の親父が通りの向こうの鍛冶屋と大声で言い合っていて、喧嘩かと思ったら、二人とも腹を抱えて笑っていた。
ドワーフの街で、ドワーフより頭一つ以上高い女が二人。一人は黒い髪で、一人は白い髪。私たちはすぐに目立った。
けれど誰も咎めなかった。露店の女が、湯気の立つ饅頭を私たちの鼻先に突き出してきた。
「旅の人かい。山越えは寒かったろう。一つ銅貨二枚だよ」
チトセが饅頭を見ていた。
私は銅貨を四枚、女の手に載せた。
饅頭を齧りながら坂を上った。
皮はもちもちとしていて、中に甘く煮た豆が入っていた。チトセは三口で食べ終えて、私の手の中の饅頭を見ていた。私は半分に割って渡した。
坂の途中に、湯の湧く石の囲いがあった。
街の者が誰でも使える湯溜まりらしい。縁に腰かけた年寄りのドワーフたちが、湯の中に網の袋を沈めて、煙管をふかしていた。袋の中には殻つきの卵がいくつも入っていた。
私は足を止めて、その網を見ていた。
祖父の道場の夏の合宿で、山あいの古い湯宿に泊まったことがある。朝の膳に、殻を割ると白身がとろりと崩れる卵が出た。斂は、それを箸で突いて、半分生じゃないかと顔をしかめた。そういう料理だと私が言うと、ひと口食べて、黙って二つ目を頼んでいた。
網の中の卵は、湯の中で静かに揺れていた。
年寄りの一人が、私の視線に気づいて煙管を上げた。
「欲しけりゃ、明日の朝に来な。ひと晩、ぬる湯に寝かせとる」
礼を言って、また坂を上った。
坂の上に黒い石の城が見えた。山の岩肌を削り出してそのまま城にしたような造りで、城門の上に槌と金床を象った紋章が刻まれていた。
門番のドワーフに公爵への取り次ぎを頼むと、門番はひどく面倒そうな顔をした。
「公爵様は、おられん」
「どちらに」
「知らん。……あの方は城の中におられたためしがない」
門番は坂の下を顎でしゃくった。
「下の町のどこかの鍛冶場だろう。煙のいちばん濃いところを探せ。たいてい、そこで槌を振っとる」
◇
煙のいちばん濃い鍛冶場は、坂の中ほどの古い石造りの小屋だった。
開け放たれた戸口から、炉の赤い光と熱気と、鉄を打つ音が溢れ出していた。
戸口の前に、ドワーフの子供たちが群がっていた。痩せていて、服は継ぎはぎだらけだった。みんな戸口から中を覗き込んで、目を輝かせていた。
かん。かん。かん。
一定の拍子だった。重く深く、迷いのない音だった。
子供たちの頭越しに中を覗いた。
炉の前に樽のような背中があった。赤茶色の髭を太い三つ編みにして、肩の後ろへ跳ね上げている。袖をまくり上げた両腕が、炉の光を受けて汗で光っていた。
左腕に、もう布は巻かれていなかった。その左手で赤く焼けた鉄を鉄箸で押さえ、右手の槌が振り下ろされるたびに、火花が子供たちの歓声と一緒に散った。
「ヒゲの公爵さま、もういっかい!」
「うるせえ。見てるだけなら、黙って見てろ」
背中が振り返らずに言った。
けれど槌の拍子が、ほんの少しだけ派手になった。火花がさっきより高く散って、子供たちがきゃあきゃあと喜んだ。
私は戸口に立ったまま、その背中を見ていた。
炉の熱が頬を炙っているのに、足の裏は石の床に貼りついたままだった。
最後にこの背中を見たのは、王都の西の大門の前だった。門が破られても、ここは通さん。そう言って、左腕を吊ったまま銀の盾の列の先頭に立っていた。
私はあの戦の終わりを見届けなかった。仮面を追って王都を出た。誰にも何も言わずに。
槌の音が止まった。
公爵が鉄を水桶に突っ込んだ。じゅう、と音がして、白い湯気が小屋いっぱいに広がった。湯気の中で額の汗を腕で拭い、それから何気なく戸口のほうを見た。
子供たちの頭越しに、目が合った。
公爵の手から槌が落ちた。石の床に当たって、重い音を立てた。
子供たちがびくりとして公爵を見た。
公爵は槌を拾わなかった。髭の奥で、唇が何かの形を作ろうとして、作れずにいた。
「……嬢ちゃん」
やっと、それだけ言った。
私は子供たちの間を抜けて、小屋の中に入った。公爵の前に立つと、見下ろす形になった。煤で汚れた顔の、赤茶色の眉の下で、目が見開かれていた。
「……ご無沙汰しています、公爵」
他に言うことが見つからなかった。
公爵はいきなり煤だらけの両手を伸ばして、私の右手を掴んだ。
指の骨が軋んだ。
掴んだ手に額を押しつけるように、深く頭を垂れた。
「……生きとったか」
垂れた頭の下から、声がくぐもって聞こえた。
「生きとったのか。この、馬鹿娘が」
岩のような肩が震えていた。
私は空いた左手を宙に浮かせたまま立ち尽くしていた。公爵の掌は、炉の熱をまだ溜め込んでいて、焼けた石を握らされているようだった。
戸口の子供たちが、ぽかんとして私たちを見ていた。チトセも戸口で見ていた。表情は変わっていない。ただ、手の中に残っていた饅頭の最後のひと欠片を、食べるのを忘れていた。
しばらくして、公爵はようやく私の手を離した。
何事もなかったように槌を拾い上げ、煤だらけの袖で顔をごしごしと拭った。拭ったせいで、煤がかえって広がった。
「……今のは、見なかったことにしろ」
戸口の子供たちは顔を見合わせて、一斉にけらけらと笑い出した。
「ヒゲの公爵さま、泣いてた!」
「泣いとらん。湯気だ」
「泣いてたよ!」
「うるせえ。饅頭を買ってやらんぞ」
子供たちは笑いながら散っていった。
散っていく途中で、何人かがチトセの周りで足を止めた。白い髪を見上げている。いちばん小さな女の子が、チトセの外套の裾をそっと掴んだ。
チトセは女の子を見下ろして、しばらく動かなかった。それから屈んで、女の子を抱き上げた。
森の村のときのようには固まらなかった。女の子の背中に、片手を当てていた。私が井戸の傍でそうされたときのように。
女の子はチトセの腕の中で、白い髪を両手で握りしめた。
「……ひっぱる」
それでも、チトセは下ろさなかった。
公爵がそれを見て、髭の中で何か呟いた。私には聞き取れなかった。
◇
その夜、公爵は私たちを城に連れていった。
城の中に入るのは久しぶりだと公爵は笑い、門番が信じられないものを見るような顔で私たちを通した。
広間の長卓に料理が並んだ。
山の猪の骨付きの塊を、炉の灰の中で蒸し焼きにしたもの。黒い麦の酸っぱいパン。火山の岩塩をまぶした茸の串焼き。泡の立つ苦い麦の酒。それから、殻つきの卵が鉢に山盛りになっていた。
どれも味が濃かった。塩も脂も容赦がない。それでも美味かった。山で働く者の身体が欲しがる味だった。
卵を一つ取って、卓の角で殻を割った。
白身が、殻の中からとろりと流れ出そうとした。黄身だけが、ねっとりと固まりかけている。
坂の途中の湯溜まりの、あの網の卵だった。
匙ですくって口に入れた。岩塩をひとつまみ振っただけなのに、舌の上で黄身がゆっくりほどけていった。山あいの湯宿の朝の膳と、同じ柔らかさだった。
「……これは」
声に出していた。
「ああ、湯卵か」
公爵が酒の杯を傾けながら言った。
「この街じゃ当たり前の食い方だ。ぐらぐらの湯で茹でると、白身がゴムになる。湯溜まりのいちばんぬるいところに、ひと晩寝かせる。……昔、それを街の連中にしつこく教え込んだ客がいてな。半分生じゃないかと最初は誰も食わなんだが、今じゃ」
公爵はそこで、ふっと口をつぐんだ。
杯を置いて、髭をしごいた。
「……今じゃ、ガキでも食う」
それだけ言って、骨付き肉に手を伸ばした。
私は匙を持ったまま、卵の黄身を見下ろしていた。
半分生じゃないか。
この世界の誰かが、あの宿の朝のあいつと、同じことを言ったのだ。言われて、教え込んだ客がいた。
匙の上で、黄身がゆっくり形を崩していった。
チトセは猪の骨付き肉を両手で持って、黙々と齧っていた。皿の上に骨が三本積み上がった。
公爵はそれを見て腹を抱えて笑った。
「その細っこい身体の、どこに入るんだ」
「……ん」
チトセは四本目に手を伸ばした。
公爵はまた笑って、それからチトセの腰の刀に目をやった。
笑い声が途切れた。
黒い鞘。小さな円い鉄の鍔。長い柄に、菱目を作って巻かれた黒い紐。
公爵の目が細くなった。鍛冶屋の目だった。
何か言おうとした公爵を、チトセが骨付き肉を持ったまま見た。白い瞳で、まっすぐに。それから、ほんの少しだけ首を横に振った。
公爵は口を閉じた。しばらくチトセの顔を見ていて、それから、ふん、と鼻を鳴らして杯を呷った。
「……いい刀だ。大事にされとるな」
「……ん」
チトセは四本目に齧りついた。
私は二人の顔を見比べていた。
冬を越した鉱山村の、年老いた職人の言葉を思い出していた。うちの公爵様が打ったもんだろう。あの波の線は、公爵様しか打てん。
「公爵」
私は言った。
「その刀は、公爵が打ったものだと聞きました。昔、人族の若い男に頼まれて」
公爵は杯を置いて私を見た。さっきまでの笑いが、目から消えていた。
「誰に聞いた」
「領の端の鉱山村の、年老いた職人に」
「……あの爺か。口の軽い」
公爵は髭をしごいて、チトセのほうをちらりと見た。チトセは骨付き肉を齧っていて、こちらを見ていなかった。
「嬢ちゃん。鍛冶屋はな、打った相手のことは喋らんもんだ。昔の客のことなら、なおさらだ」
公爵はまた杯を取った。
「刀が、ちゃんと使える奴の手に渡った。それで十分だ」
私はそれ以上訊かなかった。
公爵の目の奥に、何かひどく古いものが沈んでいるのが見えた。それを掘り起こすのは今夜ではない気がした。
卓の上の鉢の中で、殻つきの卵が灯りを映して並んでいた。
喋らない鍛冶屋の街で、卵だけが喋っていた。
◇
城の裏手に、公爵家の湯殿があった。
岩を削った湯船に、山から引いた湯が滝のように注ぎ込んでいる。縁の向こうは崖になっていて、夜の山裾が遠くまで見渡せた。
チトセは先に上がって部屋に戻った。のぼせたらしい。赤くなった顔で、無言のままふらふらと出ていった。
私は一人で湯に浸かっていた。
仕切りの岩壁の向こうから、湯の音がした。男湯のほうだった。
「嬢ちゃん。そっちにおるか」
「はい」
「……坊主のことだ」
私は湯の中で膝を抱えた。
この話が来ることは、城門をくぐったときから分かっていた。
「坊主は、王都で勇者と呼ばれとる」
「聞きました。途中の村で」
「そうか」
湯の音がした。公爵が肩に湯をかけているのだろう。
「嬢ちゃんの外套がな。王都の西の、焼けた村で見つかった。若い兵の骸に掛けてあったそうだ」
私は目を閉じた。
戦場の外れで冷たくなっていた若い兵。まだ少年のような顔だった。その子に外套を掛けた。それしかできなかったから。
「坊主がそれを抱えて王に届けた。王は、嬢ちゃんを戦死と記した」
公爵の声は低かった。
「王家の墓所の外れに、戦で死んだ近衛の名を刻んだ石がある。そのいちばん下に、嬢ちゃんの名がある」
湯が急に熱くなった気がした。肩まで沈んでいるのに、首から上だけがひどく冷えていた。
「坊主はな、毎朝、その石の前に立っとるそうだ。……粥を炊いて、持っていってな」
粥。
包囲のあいだの、大聖堂の前庭の大鍋。日に日に薄くなっていった麦の粥。あの子は水を運んで、薪を割って、鍋をかき回す役を代わろうとして、私に断られた。
城壁の上で、あの子に約束した。
戦が終わったら、私の国の料理を作る。いちばん得意なやつを、と。
出汁巻きのつもりだった。卵をたくさん割って、出汁を一から引いて、巻きすの代わりに何を使うかまで考えていた。
戦は終わった。私はまだ一つも卵を割っていない。
あの子は、約束の皿が何なのかも知らない。知らないまま、あの包囲の粥を炊いている。
「それから、これだ」
岩壁の上から、何かがひらりと落ちてきた。
湯船の縁の乾いた岩の上に、折り畳まれた紙が載った。
濡れた手を湯殿の布で拭って、紙を開いた。
見覚えのある字だった。少し右上がりで丁寧で、一文字一文字を確かめるように書く字。騎士団の座学で、隣の席から何度も見た字。
今は行けません。いつか、必ず。
冷えた鉄は、捨てないでください。
それだけだった。
私はその二行を何度も読んだ。
「嬢ちゃんに打ってやるはずだった鉄が、炉の隅で冷えとる、と書いてやった」
公爵が言った。
「そうしたら、それが返ってきた。……坊主は、何も知らんで書いたんだろうがな」
紙の端が、湯気を吸って指の中でゆっくり柔らかくなっていった。
湯気が、夜の中へ昇っていった。
「……公爵」
長い沈黙のあとで、私は言った。
「お願いがあります」
「言ってみろ」
「私が生きていることを、あの子には知らせないでください」
岩壁の向こうで、湯の音が止まった。
「……なんだと」
「フィンにも。王都の誰にも」
公爵はしばらく何も言わなかった。それから低い声で言った。
「理由を言え」
私は湯の中の自分の膝を見つめて、言葉を一つずつ選んだ。
「私は持ち場を離れました。殿下の護衛を任されていながら、殿下を守れなかった。その上、戦の最中に、誰にも告げずに王都を出ました。騎士として、許されることではありません」
「そんなことは、誰も」
「それだけではありません」
公爵の言葉を遮った。
「東の辺境で、私は魔族の賞金首を狩る傭兵たちから魔族を逃がしました。傭兵を斬りました。今、私の首には銀貨三十枚の値がついています」
岩壁の向こうが静かになった。
「王国の勇者の昔の相棒が、魔族を逃がした賞金首として生きている。……それが知れれば、あの子の立場はどうなりますか」
公爵は答えなかった。
「あの子は今、王都であの国を支えています。王子も踊り子もいない王都で。私が生きていると知れば、きっと王都を放り出して私を探しに来る。あの子は、そういう子です」
レーンベルの森で私を見つけたときから、分かっていた。あの子は、一度決めたらどこまでもついてくる。
「今の私は、あの子の足かせにしかなりません」
私は言った。
「それに」
そこで、湯の熱が喉に詰まった。
仮面の下の顔。殿下を斬った刃。リエルの最期の顔。
あの子は、仮面の男の正体をもう聞いているかもしれない。九十年前の勇者。空き地で術を見てくれた槍の男。
けれど、その男が私にとって誰なのかは、知らない。
私がこの世界に来る前から待っていた男だ。あの男が殿下とリエルを斬ったあとも、私はまだ、あの男の背中を追って東へ歩いている。森の村では、あいつが半年前に眠った小屋の前を通った。今夜は、あいつが教え込んだかもしれない卵を食べた。
殴りたいのか、問い詰めたいのか、それとも。
自分でも答えの出ないものを、あの子の前に広げることはできなかった。
「……私には、まだあの子に言えないことがあります。それが言えるようになるまでは、会えません」
長い沈黙があった。湯が滝のように注ぎ込む音だけが続いていた。
やがて岩壁の向こうで、公爵が深い溜息をついた。
「……嬢ちゃんは馬鹿だ。坊主も馬鹿だ。二人揃って、馬鹿だ」
湯の音がした。公爵が湯船から立ち上がったらしかった。
「分かった。言わん」
「……ありがとうございます」
「礼を言うな。言いたくて言わんわけじゃない」
公爵の声が、少しだけ掠れていた。
「その代わり、一つ約束しろ。いつか、嬢ちゃんが自分の口で言え。生きとるとな。……坊主に約束した飯を、坊主の前でちゃんと作ってやれ」
私は手の中の紙を見た。右上がりの、丁寧な字を。
「……はい」
「約束だぞ」
「はい」
「今度は、考えるだけで済ますなよ」
公爵が笑った。あの戦の陣中で、天幕の入口から聞いたのと同じ言葉だった。
足音が、湯殿の外へ遠ざかっていった。
私は紙を折り畳んで、湯殿の布の上に置いた。
それから湯の中に、顔の半分まで沈んだ。
鼻の下で湯が揺れて、硫黄の匂いがした。目の奥にまで湯が染みてくるようで、私はしばらくそのまま、滝の音を聞いていた。
◇
夜明け前に目が覚めた。
チトセはまだ寝台の上で、刀を抱いて丸くなっていた。起こさないように部屋を出て、坂を下りた。
湯溜まりの縁に、昨日の年寄りが一人だけ座っていた。煙管の火が、薄青い朝の中で赤く点っていた。
「来たか」
年寄りは湯の中から網を引き上げて、卵を一つ私の掌に載せた。ひと晩ぬる湯に寝ていた卵は、掌の中で人肌より少しだけ温かかった。
縁に腰を下ろして、石で殻を割った。白身がとろりと指に垂れた。
「昨夜、公爵に聞きました。この食べ方を教えた客がいたと」
「公爵様が喋ったのか。珍しい」
年寄りは煙を吐いた。
「わしがまだ髭の短い頃だ。人族の若いのが、何日もこの湯溜まりに通ってきてな。湯に指を突っ込んじゃあ、熱い、ぬるい、とぶつぶつ言って、卵を沈めては引き上げて割って、また沈めた。何をしとるのかと訊いたら、故郷の朝飯を思い出しとる、と言いおった」
指の上で、白身が冷えていった。
「十日ほどで、ちょうどいい場所を見つけた。そこよ」
年寄りは煙管の先で、湯溜まりの隅の、湯気の薄いあたりを指した。
「見つけた朝、そいつは割った卵をしばらく眺めて、一人で笑っとった。……なんで笑うのかと訊いたら、これを食わせてやりたい奴がいるんだが、ここにはおらん、とな」
煙管の灰が、湯の上に落ちて溶けた。
「連れの娘っこが、横で呆れた顔をしとったよ。それで、わしらが代わりに食ってやることにした。それから九十年、この街の朝はこれだ」
連れの娘。
その言葉が、白身よりも先に喉を通っていった。熱くもないのに、喉の奥がひりついた。
食わせてやりたい奴がいる、と言った同じ口の横に、誰かがいた。
私は卵の残りを、ゆっくり口に入れた。
岩塩も振っていないのに、ほんの少しだけしょっぱかった。
「……美味いです」
「だろう」
年寄りは満足そうに煙を吐いた。
東の空が、山の稜線の上で白み始めていた。湯気の薄い隅のあたりで、網の中の卵が、九十年前と同じぬるさの湯に揺れていた。
◇
朝の膳のあと、公爵に連れられて、城の奥の鍛冶場に入った。
公爵が自分のためだけに使う鍛冶場だという。下の町の鍛冶場とは比べものにならなかった。
岩盤を掘り抜いた広い部屋の奥に、大きな炉が三つ並んでいる。山の奥の熱が床下を通って、炉の底まで届いているのだという。壁一面に鉄箸や鏨や大小の槌が整然と掛けられ、棚には鉱石の塊が種類ごとに並べられていた。赤いもの。黒いもの。鈍く青いもの。
部屋の入口で、私は立ち止まっていた。
鉄と炭と、焼けた砂の匂いがした。
祖父の蔵の匂いとは違う。けれど、同じ場所を指している匂いだった。
「これだ」
公爵が、いちばん奥の炉の隅から布に包んだものを持ってきて、作業台に置いた。
布を解くと、鉄の塊だった。まだ剣の形にはなっていない。長い平たい延べ棒のような塊で、表面が黒くざらざらしていた。
「王都から戻って、すぐに叩き始めた」
公爵は鉄を見下ろして言った。
「嬢ちゃんの手の大きさも、振りの速さも覚えとった。あの女の剣を折れるくらいのを打ってやる、とな。……三日叩いて、嬢ちゃんが死んだと聞いた。それで、やめた」
太い指が、冷えた鉄の表面をなぞった。
「捨てる気にも、ならなかった」
私はその鉄を見ていた。
それから壁の道具を見た。棚の鉱石を見た。炉を見た。
胸の底に押し込めていたものが、少しずつ浮かび上がってきた。
祖父の蔵の、奥の間。桐の箱に一振りずつ納められた、何十振りもの刀。刀身を打ち粉で叩く、ぽん、ぽん、という音。油を引いた刃の上を灯りが流れていくときの、あの光。
子供の頃、私はあの蔵に入り浸っていた。祖父に叱られても、父に呆れられても。刀の重さを、反りを、刃文を、地肌を、一振りずつ目に焼きつけていた。
蔵の戸口には、たいてい斂が座っていた。刀には興味がないくせに、私が出てくるまで待っていた。よく飽きないな、と言いながら、自分も飽きずに待っていた。
「……公爵」
自分の声が、炉の奥の熱に吸われて、妙に遠く聞こえた。
「その鉄は、もう剣の形に叩き始めていますか」
「いや。まだ、ただの塊だ」
「では」
私は作業台の前に出た。
「私の国の剣を、打っていただけませんか」
公爵が眉を上げた。
「嬢ちゃんの国の、剣?」
「片刃で、反りがあって、細い剣です」
公爵の眉が、ぴくりと動いた。
私は構わずに続けた。
「刀身の長さは二尺三寸五分。こちらの言い方なら、私の肘から指先までの一本半ほど。反りは腰反りで、深さは五分ほど。重心は、鍔元から拳一つ半先のところに」
公爵の口が、少しずつ開いていった。
「刀身は一枚の鋼ではありません。芯に柔らかい鉄を入れて、その周りを硬い鋼で包みます。柔らかい芯が衝撃を受け止めて折れにくくし、硬い皮が刃を立たせる。……鋼は何度も折り返して鍛えて、層を重ねます。十数回。層が重なるほど、地肌に木目のような模様が浮かびます」
「……嬢ちゃん」
「刃文は、焼き入れのときに刀身に土を塗って決めます。刃のところだけ土を薄く、棟のほうは厚く。そうすると刃だけが硬くなって、棟はしなやかなまま残る。その境目が刃文になります。……できれば互の目か丁子の、華やかな刃文がいい」
「嬢ちゃん、待て」
「鍔は丸い鉄の鍔で、透かし彫りを入れて。柄は鮫の皮を巻いた上から、組紐を」
「待てと言っとる!」
公爵の大声が、岩の天井に響いた。
私は口を閉じた。
気がつくと、作業台に両手をついて身を乗り出していた。公爵の顔がすぐ目の前にあった。
煤で汚れた顔の、赤茶色の眉の下の目が、驚いていた。それから呆れていた。それから。
髭の中で、口の端がゆっくりと吊り上がっていった。
「……嬢ちゃん。今の話、全部、もう一回頭から言え」
公爵は壁の棚から分厚い紙の束と炭の欠片を取って、作業台に紙を広げた。
「ゆっくりだ。一つずつ。……俺が、全部書き留める」
炭の欠片を握って、私を見上げていた。
鍛冶屋の目だった。昨夜、チトセの刀を見ていたときと同じ目だった。
私は深く息を吸って、もう一度頭から話し始めた。
気がつくと、昼を過ぎていた。
作業台の上の紙は十枚を越えて、公爵の角ばった字と、私の描いた刀の絵とでびっしり埋まっていた。
チトセがいつの間にか鍛冶場の入口に立っていた。壁に背を預けて腕を組み、私たちを見ていた。いつからそこにいたのか分からなかった。
公爵が炭の欠片を置いて、紙の束を見下ろし、長い長い溜息をついた。
「……芯を柔らかく。皮を硬く。折り返して、層を重ねる。刃だけを焼いて、棟を残す」
呟いて、入口のチトセの腰の刀を、ちらりと見た。すぐに目を戻した。
「まったく」
公爵は髭をしごいた。その目が、どこか遠くを見ていた。
「九十年ぶりだ。こんな面倒な注文は」
炉の奥で、炭が小さく崩れる音がした。
九十年前。人族の若い男。片刃で反りのある細い剣。剣がからきし向いていない男。
私の口から出た言葉を、九十年前にこの作業台の前で、同じように並べた男がいた。
あいつは刀の打ち方なんて知らなかったはずだ。蔵の戸口に座って、私が祖父に刀の話をするのを、退屈そうに聞いていただけだった。芯がどうの、皮がどうの、土置きがどうの。聞いていないふりをして、全部覚えていたのか。
振れもしない刀を、何のために打たせたのか。
誰の話を思い出しながら、この作業台に注文を並べたのか。
入口のチトセの腰で、黒い柄巻きの刀が静かに鞘に収まっていた。
私は紙の束の端を、指が白くなるまで押さえていた。九十年分の煤が染みた作業台は、昼を過ぎても、ほのかに温かかった。
(第六章 了)




