第五章 王都の守護者
石碑の前の土が柔らかくなっていた。
冬のあいだ、踏むたびに霜柱が崩れていた土だ。それが今朝は、靴の底に少しだけ沈んだ。
春が来たのだと、足の裏で知った。
僕は石碑の前に膝をついて、刻まれた名のいちばん下を指でなぞった。
この国の言葉にない響きの名。石工が綴りに苦労したという名。
半年のあいだ毎朝なぞってきたから、刻みの深さも、少しだけ浅くなった二画目の払いも、指が覚えてしまった。
僕は布で包んだ小さな土鍋を、石碑の足もとに置いた。
「今朝のは、少しましだと思うんです」
蓋を取ると、白い湯気が朝靄に混じった。
麦の粥だった。
包囲のあいだ、カリンさんが大聖堂の前庭で炊いていた粥。同じ麦と同じ水で炊いているのに、半年かけても同じにならない。麦を前の晩から水に浸けるようにした。鍋底が焦げないように、かき混ぜる手を止めないようにした。塩は最後にほんの少し。カリンさんが鍋をかき回しながら、塩の壺に指を入れる頃合いを、思い出し思い出し。
「火を止めてから、少し置くんですよね、たぶん。……どれくらい置くのか、聞いておけばよかった」
石碑は何も答えなかった。
答えないことにも、もう慣れた。
慣れてしまったことが、少しだけ嫌だった。
背後で小さな足音がした。
振り返らなくても分かった。赤い頭巾の女の子が、僕の隣に来てしゃがみ込んだ。
手に黄色い花を一輪握っていた。春になって、墓所の外れの土手に咲き始めた花だ。女の子はそれを石碑の足もとに置いて、それから土鍋の中をじっと見た。
「……食べる?」
女の子は少し迷ってから頷いた。
僕は持ってきた木の椀に半分よそって渡した。残りの半分は、石碑の前に置いたままにした。
女の子は両手で椀を包んで、ふうふうと吹いてから、端から小さく啜った。
「おいしい」
「本当に?」
「うん」
女の子はもうひと口啜って、それから椀の中を覗き込んだまま言った。
「でも、かげろうの騎士さまのおかゆのほうが、おいしかった。……もっと、底のほうがとろっとしてた」
僕は笑った。
久しぶりに、ちゃんと笑えた気がした。
鍋の底の、いちばん濃いところ。カリンさんはそこを掬って、痩せた子の椀に足していた。
非番の日に、僕も一度だけ手伝ったことがある。井戸から水を運んで、薪を割って、鍋をかき回す役を代わろうとしたら断られた。
粥は急かすと拗ねる、とカリンさんは真顔で言った。火を強くすると、底だけ焦げて上は水のままになる。人と同じだ。
冗談なのかどうか分からなくて、僕は笑えなかった。カリンさんは笑わない僕を見て、なぜか満足そうな顔をしていた。
戦が終わったら、カリンさんの国の料理を作ってくれる。城壁の上でそう約束した。いちばん得意なやつを、と僕がねだった。
それが何なのか、聞きそびれたままだ。
だから僕は、知っている味のほうを炊いている。
「そうだね。……僕もそう思う」
女の子は粥を最後まで啜ると、椀を返して立ち上がった。
「ネル」
「え?」
「わたしの名前。ネル。……勇者さまは、ずっと訊かないから」
半年のあいだ、毎朝のように隣にいたのに。名前を訊いていなかった。
「ごめん。……ネル」
「うん」
ネルは赤い頭巾を揺らして、朝靄の中を走っていった。途中で一度だけ振り返って手を振った。
僕は手を振り返した。
石碑の前の土鍋から、湯気がまだ細く上がっていた。
◇
勇者の一日は、思っていたより忙しい。
朝は騎士団の練兵場で、新しく入った若い騎士たちに稽古をつける。
戦でたくさんの騎士が死んだ。近衛も半分になった。空いた席を埋めるために、剣の握り方もおぼつかない貴族の三男坊や四男坊が、次々に送り込まれてくる。
僕は彼らに、カリンさんに教わったとおりのことを教える。相手の肩を見ること。足を見ること。重心の移る先を見ること。
半分も伝わっていないと思う。僕だって、言われたことの半分もできていないのだから。
その朝も、練兵場の隅で、一人の若い騎士が木剣を握ったまま肩で息をしていた。
十六か十七。どこかの伯爵家の四男だと聞いた。僕が三度打ち込むあいだに、三度とも木剣を落とした子だった。
「……勇者様は、誰に剣を習ったんですか。やっぱり騎士団長か、どこかの剣聖に」
「村で、狩りの合間に」
「村で?」
「うん。森の中で、猪を素手で転がした人がいて。その人に頼み込んで」
若い騎士は冗談だと思ったらしく、困ったように笑った。僕も笑った。冗談だと思われても構わなかった。
「その人はよく言ってた。剣を見るな、人を見ろって。剣は人が動かしているんだから」
僕は木剣の先で、若い騎士の足もとを示した。
「君は、打ち込む前に右の踵が浮く。だから次に来るのが分かる」
若い騎士は自分の踵を見下ろした。顔を上げたときには、さっきまでとは違う目をしていた。
言ってから、口の中に苦いものが残った。
打ち込む前に踵が浮く。突く前に肩が下がる。
癖を指さして、それだけで相手の顔つきを変えてしまう言い方を、僕はカリンさんからだけ習ったわけではなかった。夜の空き地で、へらへら笑いながら僕の癖を一つずつ言い当てた男がいた。あの声の調子まで、いつの間にか自分の口が真似ている。
殿下とリエルさんを斬った男の言い方で、僕は今、王国の騎士を育てている。
「……その人は、今どこに」
若い騎士が訊いた。
カリンさんのことだ。分かっているのに、すぐには答えられなかった。
「遠くに」
それだけ言った。
若い騎士はそれ以上訊かなかった。訊いてはいけないことだと分かったのだろう。
その日の稽古の終わりに、彼は一度だけ木剣を落とさなかった。
昼は王城に呼ばれる。
陛下の前で、軍の立て直しの話を聞く。貴族たちの話を聞く。
貴族たちは、僕のことをあまり好きではないらしい。それは別に構わない。僕も貴族の振る舞いは苦手だ。
ただ彼らは、好きではないのに、僕の名前をよく使う。勇者殿もそうお考えでしょう、とか。勇者殿がおられれば民も安心いたします、とか。
そう言われるたびに、何と答えていいか分からなくなる。
陛下はそういうとき、何も言わずに僕を見ている。疲れた目で。それでも、ときどきあの鋭い光が戻ってくる目で。
その日の昼も、玉座の間の脇の小広間で、書記官が東西南北の領地からの届け出を読み上げていた。
焼けた村の数。逃げ散った兵の数。盗賊に襲われた街道の数。どれも多かった。
戦のあいだ兵を取られた村は、守る者を失った。戦が終わっても兵は戻らない。戻らない兵の何割かは、剣を持ったままどこかで盗賊になっている。
「……東の辺境、ハルデン近郊より」
書記官が次の紙をめくった。
「魔族の賞金首を狩っていた傭兵団が襲われ、捕らえていた魔族を逃がされたとの届け出。下手人は一人。土地の者が、生け捕りの触れを出しております」
「魔族を逃がした? この時勢に。どこの愚か者だ」
貴族の一人が眉を寄せた。
「届け出には、それ以上のことは。……辺境の代官の届けは、いつもこうでございます。数と場所と、出した触れの値だけで。下手人の人相も名も、触れ書きのほうにしか書いておりません」
「東の辺境の、傭兵同士の揉め事であろう」
別の貴族が面倒そうに手を振った。
「捨て置け。そのようなことにまで、王都が構っておる暇はない」
書記官は頷いて、紙を束の下に回した。次の紙は、南の街道の橋が落ちたという届け出だった。
僕はその話を、半分聞き流していた。
魔族を逃がす人間がいる、ということだけが少しのあいだ耳に残った。戦のあとの王都では、誰もが魔族を憎んでいる。僕も、帝国の旗を見れば腹の底が冷たくなる。それでも憎まずにいられる誰かが東の端にいるのだと思うと、なぜか、ほんの少しだけ息がしやすかった。
それ以上は、考えなかった。
窓の外で、世界樹の若葉が陽を透かして揺れていた。
陛下がほんの一瞬だけ、書記官の手の中の紙の束に目をやった。それから、また疲れた目に戻った。
夕方になると、僕は城の外に出る。
焼けた西の街並みは、半年でずいぶん元に戻った。焼け落ちた家の跡に新しい木の骨組みが立ち始め、大聖堂の前の粥の列はもうない。代わりに露店が並ぶようになった。
露店の間を歩くと人が集まってくる。勇者様、と呼ばれる。
子供が腰の細剣に触りたがり、年寄りが手を合わせて拝む。若い娘たちが遠巻きに何か囁き合って、目が合うときゃあと言って逃げていく。
最初の頃は、そのたびにどうしていいか分からなかった。今も分からない。分からないまま、笑って手を振ることだけ上手くなった。
その日、広場の噴水の縁で吟遊詩人が歌っていた。
若い、ひょろりとした男だった。膝の上のリュートを爪弾きながら、よく通る声で人だかりに向かって歌っていた。
救済の勇者の歌だった。最近、王都のあちこちで聞く歌だ。
僕は人だかりの後ろで足を止めた。止めるつもりはなかったのだけれど。
世界樹の下 燃ゆる都
仮面の魔人 王子を討てり
嘆きの夜に 女神は降りぬ
若き狩人の 手のひらへ
女神は降りていない。
城壁の上で、フードを被った男が、へらへら笑いながら押しつけてきただけだ。
その血は古き 勇者の血
建国の王の 末の裔
辺境の森に 隠れ住み
国の危機にぞ 目覚めたり
人だかりの何人かが僕に気づいて振り返った。僕は苦笑いを返した。
建国の勇者の血なんて、引いているはずがない。僕はレーンベルの狩人の子だ。じっちゃんに育てられた、ただの村の子供だ。
じっちゃんは、僕の父さんのことを何も話さなかった。たどれば貴族の血筋らしい、政略に負けて逃げてきたらしい。村の大人たちがそう噂していたのを、聞いたことがあるだけだ。それだって本当かどうか分からない。
無意識に襟元に手をやっていた。服の下の、梟のペンダントに。
吟遊詩人は次の節に移った。
陽炎の騎士 黒き髪
魔人を追いて 敵地へ入り
刃交えて 相討ちに
その名は石に 刻まれぬ
気づいたら人だかりを掻き分けて、噴水の縁の吟遊詩人の前に立っていた。
リュートが止まった。吟遊詩人は僕の顔を見て、それから腰の細剣を見て青くなった。
「ゆ、勇者様。これは、その」
「相討ちじゃない」
自分でも驚くほど静かな声だった。
「あの人は、誰とも相討ちになっていない。……帰ってこなかっただけだ」
広場がしんとしていた。
僕は、自分が何をしているのかようやく分かった。
吟遊詩人は何も悪くない。歌は歌だ。黒髪の騎士が仮面の魔人と刺し違えた、という話のほうが、行方知れずになった、という話より、ずっと分かりやすい。
懐から銀貨を一枚出して、リュートのケースに入れた。
「……ごめん。続けて」
それだけ言って広場を離れた。
背中で、しばらくリュートは鳴らなかった。路地を二つ曲がった頃に、ようやく遠くで弦の音がした。さっきとは違う、静かな曲だった。
◇
夜は西の塔に行く。
塔の最上階の、屋根のない回廊だ。石の床に古い陣の跡がいくつも刻まれている。宮廷結晶術師団が、代々術の稽古に使ってきた場所だという。
侯爵様はいつも先に来て、杖をついて回廊の縁の石に腰を下ろしている。
胸の傷は塞がった。けれど、もう昔のようには動けないらしい。真っ白な髪の毛先の結晶は、戦の前よりずっと増えた。夜の灯りを受けて、頭の半分がきらきらと瞬いている。
「遅いぞ、騎士」
「すみません。広場で、少し」
「聞いた。吟遊詩人を脅したそうだな」
「脅してません」
「勇者が腰に剣を下げて目の前に立てば、それは脅しと言うのだ。……まあ、よい。構えよ」
僕は回廊の真ん中に立ち、右手に細剣を抜いて、左の手のひらを夜空に向けた。
「今夜は雷だ」
侯爵様が言った。
「火は集めて固める。風も集めて固める。岩は集めて、さらに固める。……そなたは固めることが得意だ。誰に仕込まれたのかは、訊かんでおこう」
侯爵様は、それだけ言って目を逸らした。
僕は何も言わなかった。
簡単な術でも、固く結べば、やわな大規模術式より強い。空き地で、あの男はそう言った。言われたとおりに結んで、結んで、その結び目で僕は緩衝地帯を生き延びた。
「雷は、固めてはならん。固めた雷は、そなたの手の中で弾ける。……雷は通すのだ。そなたの手から、相手の身体へ。道を作って、そこを走らせる」
目を閉じて、光の粒を集めた。
集めて固めようとする手を、止めた。
通す。どこへ。
目を開けると、回廊の端に侯爵様が立てた鉄の杭が一本あった。左手を伸ばす。手のひらの光がぱちぱちと爆ぜて、散った。杭には何も届かなかった。
「固めたな」
「……はい」
「もう一度」
二度目も散った。
三度目は手のひらの中で弾けて、左の腕が肘まで痺れた。指先が焦げて、肉の焼ける嫌な匂いがした。
その焦げが、すぐに元に戻っていった。細剣の柄から温かいものが腕を伝って流れ込み、痺れが引いていく。焦げた皮膚が薄く張り替わっていく。
侯爵様がそれを見ていた。
「……便利なものよな」
その声は少しだけ苦かった。
「建国の王も、そうであったと伝わっておる。どれほど撃っても倒れなかった。焼かれても斬られても立ち上がった。……それゆえに、誰よりも多く戦場に立たされた」
手のひらを見下ろした。焦げの跡は、もうどこにもなかった。
「騎士よ。その剣は身体を戻す。だが、それだけだ」
侯爵様は杖の先で、石の床をこつりと叩いた。
「見たものは戻らん。失ったものも戻らん。撃ったことも、撃たれたことも戻らん。剣に甘えて撃ち続けるうちに、そなたの中の何かが先に擦り切れる。それを忘れるな」
「……はい」
「分かっておらん顔だ」
「分かろうとしている顔です」
侯爵様はしばらく僕の顔を見ていて、それから低く笑った。乾いた、けれど少しだけ柔らかい笑いだった。
「減らず口を覚えたか。あの黒髪の娘に似てきたな」
僕は答えなかった。答えられなかった。
四度目を撃った。
光が手のひらから細い糸のように伸びて、途中でふっと消えた。杭の半歩手前だった。
「……ほう。今のは固めなかったな」
「はい。……たぶん」
「たぶん、で撃つな。もう一度」
夜が更けるまで撃ち続けた。
杭に届いたのは、最後の一度だけだった。鉄の杭が青白く光って鳴いた。
侯爵様は何も言わずに杖にすがって立ち上がり、僕の肩を一度だけ叩いた。公爵様が王城の門の前でそうしたのと、同じように。
帰り際、侯爵様は回廊の縁から西の空を見ていた。
西の平原のずっと向こう。今は水の都の主が治めている、侯爵様の都の方角だった。
「騎士よ。いつか、わしはあの都を取り戻す。その時は、そなたの剣を借りることになろう」
僕は少し考えてから言った。
「僕の剣は、この都を守るためのものです」
「分かっておる」
「……でも、侯爵様が困っているなら、手を貸します」
侯爵様はしばらく黙っていた。それから、ふと僕の襟元に目をやった。服の下の、ペンダントのあたりに。
すぐに目を逸らした。
「……そうか」
杖をついて、階段のほうへ歩いていった。その背中が、戦の前よりずっと小さく見えた。
◇
ヴァルムハイムから手紙が届いた。
分厚いざらざらした紙だった。封蝋の代わりに、煤で黒くなった親指の跡が押してある。開くと、一文字一文字を鏨で石に刻んだような、大きな角ばった字が並んでいた。
坊主へ。
腕の骨は、くっついた。医者は、あと半年は槌を握るなと言うが、知ったことではない。もう握っとる。
領の鉱山は、春になって、また掘り始めた。戦のあいだに兵に取られていた若いのが、半分ほど戻ってきた。戻らなかった半分の家には、俺が自分で行った。行って、何も言えなかった。
湯は、相変わらず湧いている。
来いと言ったのを、忘れておらんだろうな。
嬢ちゃんに打ってやるはずだった鉄が、炉の隅で冷えたままになっている。誰にも打たせる気はないが、捨てる気にもならん。坊主が来たら、見せてやる。見せるだけだ。
勇者なんぞと呼ばれて、面倒な連中に担がれておるのだろう。担がれるのに疲れたら、来い。湯に浸かれば、たいていのことは、どうでもよくなる。
バルドール
僕は手紙を二度読んで、机の引き出しにしまった。
行きたい、と思った。湯に浸かって、公爵様の大きな声を聞いて、炉の隅で冷えている鉄を見たい。
けれど王都を離れることはできなかった。
勇者が王都を離れれば、貴族たちはそれを何かの合図だと思うだろう。民は見捨てられたと思うだろう。陛下は何も言わないだろう。何も言わずに、あの疲れた目で窓の外を見るだろう。
ペンを取って返事を書いた。
今は行けません。いつか、必ず。
あまりに短いので、もう一行書き足した。
冷えた鉄は、捨てないでください。
なぜそう書いたのか、自分でもよく分からなかった。
◇
その噂を聞いたのは、春の半ばのある晩だった。
騎士団の詰所の食堂で遅い夕食をとっていると、隣の卓で、東の国境から戻ってきた騎士たちが酒を飲んでいた。
「……で、例の仮面の男だがな。宮廷の書記官から聞いた話だ。塔の上で、仮面が割れるところを見た者がいるらしい」
匙が止まった。皿の上で、冷めかけた脂が白く固まり始めていた。
「誰が。何と」
「九十年前の勇者だと」
食堂が少しだけ静かになった。
「黒髪の勇者だよ。建国の勇者の次にこの国を救ったっていう。……ほら、槍の一突きで、帝国の大術を霧みたいに消したっていう」
槍の一突き。布で巻いた長いもの。空き地の壁に、いつも立てかけてあった。
「馬鹿言え。九十年前だぞ。人族なら、生きていても百を越えた爺さんだ」
「それが、顔は若いままだったそうだ。九十年前と少しも変わらない顔だったと」
誰かが酒を呷った。
「それで、あの勇者は今どこに」
「さあな。東の壁の向こうだとか。セラディスの連中とつるんでいるとか。……そういう噂だ」
僕は匙を置いて、食べかけの皿をそのままに席を立った。
誰も僕のほうを見なかった。
足は西の塔に向いていた。
稽古のない夜だった。それでも侯爵様は、回廊の縁の石に腰を下ろして西の空を見ていた。僕の足音にも振り返らなかった。
「……聞いたか。書記官どもの口は軽い。いずれ、そなたの耳にも入ると思っておった」
「本当なんですか」
侯爵様はしばらく答えなかった。
「わしは、あの男の隣で戦ったことがある」
夜風が、侯爵様の毛先の結晶をかすかに鳴らした。
「九十年と少し前のことだ。あの男は、へらへら笑いながら、わしの術の綻びを全部言い当てた。……腹の立つ男だった」
僕は息を止めた。
「塔の上で仮面が割れた。わしは、血の中であの顔を見た。九十年前と、何ひとつ変わっておらなんだ」
「侯爵様」
「それ以上は訊くな」
侯爵様は杖を取って立ち上がった。
「わしにも分からんことばかりだ。あの男がなぜ戻ったのか。なぜ殿下を斬ったのか。なぜ、そなたにその剣を渡したのか。分からんことを、分かったような顔で語るほど、わしは若くない」
僕の横を通り過ぎて、階段の手前で一度だけ足を止めた。
「騎士よ。あの男を恨むなとは言わん。わしも恨んでおる」
振り返らなかった。
「だが、あの男に仕込まれたものまで、捨てることはない。あれは腹の立つ男だったが、術を見る目だけは確かだった」
杖の音が、階段を下りていった。
僕は回廊に一人残った。
回廊の端の鉄の杭は、夜風に冷えきっていた。頭のところだけが、幾晩も撃ち込んだ雷で青黒く焼けている。手のひらを当てると、冷たい鉄の中に、その焼け跡だけがざらりと指に引っかかった。
仕込まれたもの。
固く結べと言った男と、固めるなと言う侯爵様。正反対のことを言う二人が、同じ目で僕の手のひらを見ている。九十年前、この回廊で、二人は並んで同じ陣を覗き込んでいたのかもしれない。
杭から手を離しても、そのざらつきはしばらく掌に残っていた。
◇
塔を出て、城壁へ向かうつもりだった。
足が勝手に、王都の外れへ曲がった。
空き地は、思っていたより狭かった。
倉庫の裏の、雑草だらけの一角。前に来たときは秋の終わりで、枯れた草が膝まであった。今は春の草が伸び始めて、踏み固められていたはずの地面を、もう半分隠していた。
ここで夜ごと、術の撃ち方を見てもらった。
あの男は、いつも倉庫の壁にもたれて、布で巻いた長いものを肩に立てかけていた。それが槍だと知ったのは何度目かの夜で、穂先の片側に斧のような刃があると知ったのは、城壁の上でだった。
草の中に、古い木の杭が一本残っていた。
僕が的にしていた杭だ。あの男が、そこらの廃材を拾ってきて、槍の石突きで地面に打ち込んだ。表面が焦げて、ところどころ炭になっている。全部、僕の撃った術の跡だ。
杭の頭に、浅い刻みが一本あった。
届いたら一本刻め、と言われて、一本しか刻めなかった。
その一本を刻んだ夜、あの男は笑って、レーンベルみたいな村を焼かせたくないなら、もっと撃てるようになれ、と言った。
刻むまでの夜のほうが、ずっと長かった。
何十回撃っても届かなくて、悔しくて、草の上に座り込んだ夜があった。あの男は隣に腰を下ろして、懐から焼いた芋を出して、半分に割って寄越した。熱くて、皮が焦げていて、甘かった。
撃ってみせてください、と僕は言った。そんなに分かるなら、お手本を。
あの男は芋を齧りながら、あっさり首を振った。
俺は、ひとつも撃てねえよ。
冗談だと思った。あれだけ術の綻びを言い当てる人が。
見えるだけなんだ、とあの男は言った。どこがどう結ばれてて、どこを突けばほどけるか、全部見える。なのに自分じゃ、光の粒ひとつ寄ってこねえ。……だから、お前が撃てるようになるのを見てると、ちょっと楽しい。
へらへらした声だった。芋の湯気の向こうで、あの男は星を見ていた。
あのときは、ただ変な人だと思った。
今は、九十年、という言葉が頭のどこかに引っかかっている。九十年、撃てない手で、撃つ人たちの綻びばかり見てきた人。その人が、狩人の子の撃つ術を、ちょっと楽しいと言った。
それが嘘だったとは、どうしても思えなかった。
嘘であってくれたほうが、ずっと楽だったのに。
同じ口で、殿下を斬った。
同じ手で、リエルさんを貫いた。
僕は杭の前に立って、左の手のひらを向けた。
光の粒を集める。固めない。通す。
手のひらから細い光が走って、杭の頭を打った。乾いた音がして、焦げた木の匂いが夜の空気に散った。
二本目の刻みを入れる刃物は、持ってこなかった。
入れたら、あの男に見せたくなる。見せたくなる自分が、許せなかった。
しばらく杭の焦げ跡を見ていた。
海の見える街にいる。
空き地に来なくなる少し前に、あの男はそう言った。旅の人の気まぐれだと思って、聞き流した。
王都から海は見えない。西へ行けばエルフの港の海がある。東へ行けば、壁の向こうに海がある。
東の壁の向こう。食堂の騎士たちは、そう言っていた。
◇
西の城壁の上に立った。
半年前、フードの男が夜の中へ跳んでいった場所だ。
顔を見た。若かった。空き地で会っていた頃と少しも変わっていなかった。あの頃から、もう五年も経っているのに。
九十年前の勇者。
そうなのかもしれない、と思った。
そうだとしたら、分かることがいくつかある。僕のうなじの結晶にすぐ気づいたこと。救済の女神のことを、会ったことのない知り合いのように話したこと。この剣を、元々お前みたいな奴のための剣だ、と言ったこと。
それでも一つだけ、分からないことがあった。
昔から、そういう奴だ。
あの人は、カリンさんのことをそう言った。
カリンさんは七年前の春に、レーンベルの森の木陰で眠っていた。どこから来たのか、本人もよく分からないと言っていた。遠いところから、とだけ。
九十年前の勇者が、七年前に森で眠っていた人を、昔から知っている。
どうして。
細剣の柄に手を置いた。温かかった。半年前と同じように。
ふと振り返った。
西の城壁の反対側。東の空を。
王都の東には根の背が幾重にも連なっていて、その向こうはここからは何も見えない。ドワーフの人たちの国があって、火山があって、そのさらに向こうに壁の街があり、海があるという。
あの人は、東にいるのかもしれない。
だとしたら。
仮面を追っていった、カリンさんは。
僕は首を振った。
カリンさんが追っていったのは西だ。帝国の軍勢が引き揚げていった、西の平原だ。外套は西の焼けた村で見つかった。陛下は戦死と記した。僕も、それに頷いた。
頷いたのは、僕だ。
それでも、東の空から目を離せなかった。
根の背の稜線の上に、春の星がいくつか瞬いていた。その下の見えない道のどこかに。
そう思いかけて、やめた。
やめられなかった。
「カリンさん」
声に出して呼んだ。西ではなく、東に向かって。初めてのことだった。
「今朝のお粥、ネルがおいしいって言ってくれました。……でも、カリンさんのお粥のほうがおいしかったって」
夜風が城壁の上を吹き抜けていった。世界樹の枝葉が、頭の上でざわざわと鳴っていた。
「僕も、そう思います」
誰も答えなかった。
恨んでいい、とあの男は城壁の上で言った。
恨めるなら、そのほうがよかった。殿下とリエルさんの名前を思い出すたびに、腹の底は確かに熱くなる。けれど同じ熱の中に、焼いた芋の甘さと、杭の焦げる匂いと、背、伸びたな、と言った声が混じってしまう。混じったまま、ひとつに固まらない。侯爵様の言う雷みたいに。
もし、カリンさんが生きていて、東へ向かったのだとしたら。
カリンさんは、あの男の前に立つのだろうか。剣を抜いて。それとも。
その先を、僕は思い描けなかった。思い描こうとすると、カリンさんの顔がいつも、仮面を追って塔の階段を駆け下りていった背中に変わった。
一度も振り返らなかった背中に。
それでも、しばらく東を見ていた。
春の夜は、冬よりも少しだけ短かった。
(第五章 了)




