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越境者の足跡  作者: 野良野良猫
三.私の旅路
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第四章 精算

 その村は森の中にあった。

 鉱山村を発って東へ七日。火山の煙を右手に見ながら、ドワーフの領地の北の縁に沿って歩いた。黒い岩と硫黄の匂いの土地が右に遠ざかり、境の石標を過ぎると、街道は人族の森に呑み込まれた。王国の東の辺境の、そのまた外れだった。

 背の高い木々が空を覆っていた。

 世界樹の枝ではない。この辺りにはもう、あの枝は届かない。見上げると普通の木の普通の枝が、春の若葉を透かして細かな光を地面に落としていた。

 その光の中に村があった。

 丸太を組んだ家が十数軒。軒先には干した獣の皮と、束ねた薬草が吊るされている。村の真ん中に石を積んだ井戸があり、その脇で子供たちが木の枝を振り回して遊んでいた。

 私は森の縁で足を止めた。

 靴の裏が、湿った落ち葉に貼りついたように動かなかった。

「……お嬢さん」

 隣でチトセが言った。

 私は答えなかった。

 丘の縁から初めて見下ろした村のことを思い出していた。

 丸太の家。干した皮。井戸。子供たちの声。

 レーンベル、とあの子は村の名を言った。

 私がこの世界で初めて見た村で、初めて失った村だった。

 風が若葉を鳴らした。薬草の青い匂いの奥に、どこかの家で燻している肉の煙が混じっていた。あの村の夕方と、同じ匂いがした。

          ◇

 村の入口で、腰の曲がった老人に迎えられた。

 白い髭を胸まで伸ばして杖をついている。村の長だという。

 老人は私たちの剣を見て、それから私の黒い髪とチトセの白い髪を交互に見た。

「旅の方か」

「東へ向かっている」

 私は言った。

「一晩、軒を借りられないだろうか。代わりに手伝えることがあれば」

 老人はしばらく私の顔を見ていた。それから杖の先で、村の奥の空いた小屋を指した。

「狩りの季節の小屋だ。今は誰も使っておらん。……手伝いはいらん。旅の人に、そんなことはさせられん」

 そう言って背を向けた。

 その背中がひどく小さく見えた。

 バルトの背中に似ていた。

 その夜、村の広場で焚き火が焚かれた。

 春の狩りの最初の獲物を祝う夜なのだという。大きな鹿が一頭、焚き火の上で丸ごと炙られていた。

 私とチトセも、焚き火の輪の端に招かれた。

 切り分けられた肉が回ってくる。

 焼き過ぎていた。表は焦げているのに中まで火が通っておらず、塩も足りない。歯を立てると、筋が輪ゴムのように押し返してきた。

 私は黙って食べた。

 チトセも黙って食べた。ひと口食べて動かなくなり、もうひと口食べてまた動かなくなった。それから私のほうを見た。

 白い瞳が何を言いたいのかは、訊かなくても分かった。

 私は少しだけ笑った。

 焚き火の反対側で、少年が一人鹿を捌いていた。

 十四、五に見えた。痩せた身体に使い込んだ革の胴着を着て、腰に狩り用の小刀と短い弓を下げている。

 手際はよかった。皮と肉の間へ刃を滑り込ませる角度に迷いがない。

 けれど部位の切り分け方を知らないようだった。腿も背も肩も、同じように同じ大きさに切っている。

「……あれでは硬い」

 気づくと呟いていた。

 チトセが私を見た。

「背の肉は筋に沿って切る。腿は筋を断つように切る。同じ鹿でも、部位で切り方が違う」

 言い終える前に立ち上がっていた。

 焚き火を回り込んで少年の傍らに膝をつくと、少年は驚いた顔で私を見上げた。

「小刀を貸してくれないか」

 少年は戸惑い、それから黙って小刀を差し出した。

 背の肉に刃を当てる。筋の走る向きを指先で確かめてから、それに沿って刃を滑らせた。

 その夜、広場の焚き火は三つに増えた。

 一つ目では背の肉を薄く切って串に刺して炙った。二つ目では、村の女たちが持ってきた根の野菜と一緒に、腿の肉を大鍋で煮込んだ。三つ目では骨をひと晩かけて煮出すための湯を沸かした。

 女たちが身を乗り出して私の手元を覗き込んだ。香草の見分け方を訊かれ、塩を振る頃合いを訊かれ、火の強さを訊かれた。

 一つずつ答えた。

 レーンベルで村の女たちに教えたのと同じことを。

 串を一本、少年に差し出した。

 少年はそれを齧って目を丸くした。

「……柔らかい。同じ鹿なのに」

「同じ鹿だ。切り方と焼き方が違うだけだ」

 少年は串を握ったまま、焚き火越しに私の顔を見ていた。火を映した目がきらきらと光っている。

 茂みの陰から私を見ていた、あの子の目に似ていた。

 チトセは三本目の串を黙って食べていた。

          ◇

 少年はルカといった。

 翌朝、村を発とうとする私たちのところへ、ルカが息を切らして駆けてきた。

「あの、もう少しだけいてくれませんか。昨日の肉の切り方と、煮込み方も。……母さんたちが、もっと教えてほしいって」

 私はチトセを見た。

 チトセは何も言わず、ただ私を見返していた。決めるのはお嬢さん、と言っている顔だった。

 村を見渡した。丸太の家、干した皮、井戸、子供たちの声。それからルカの顔を見た。

「……少しだけだ」

 ルカの顔がぱっと明るくなった。

 大型犬が散歩の気配を察したときの顔だった。

 少しは、五日になった。

 私は女たちに料理を教えた。保存の利く燻製の作り方。骨から出汁を取る方法。香草を乾かして冬に回す方法。

 女たちは、この森の茸の見分け方と、蜂の巣から蜜を採る方法を教えてくれた。

 チトセは村の子供たちにまとわりつかれていた。

 白い髪が珍しいのだろう。子供たちは髪を触りたがり、チトセは少しも嫌がらなかった。背筋を伸ばして立ったまま、黙って髪を引っ張られていた。

 子供の一人が転んで膝を擦りむいたとき、チトセはその子をそっと抱き上げた。

 抱き上げたまま、どうしていいか分からないように立ち尽くしていた。

 私が駆け寄って井戸の水で膝を洗ってやると、チトセはようやく子供を下ろした。それから自分の両腕を不思議そうに見下ろした。

「……泣いた」

「痛かったのだろう」

「……泣いて、た。……抱いたら、止まった」

 チトセは首を傾げたまま、しばらく腕を見ていた。何かの手触りを確かめるように。

 その日の夕方、村の裏手の空き地でルカが弓を引いていた。

 古い切り株に、木の皮を剥いで作った的が置かれている。三十歩ほど離れたところから一本ずつ放つ矢は、的の真ん中に集まっていた。

 私は空き地の縁の倒木に腰を下ろして、それを見ていた。子供たちから逃げてきたのだろう、少しだけ髪の乱れたチトセも隣に座った。

 ルカは私たちに気づくと耳まで赤くなった。それでも弓は下ろさなかった。

 次の矢は的の端に刺さった。

「……見られてると、駄目です。獣は見てこないので」

「獣も見ている」

 私は言った。

「見られていると気づかせないのが、狩人の腕だろう」

 ルカはきょとんとして、少し考えてから、もう一度弓を引いた。

 息を吐く。こちらをもう見ない。

 矢が的の真ん中に刺さった。

「……いい、目」

 チトセがぽつりと言った。ルカには聞こえなかったようだった。

 私はルカの引き手を見ていた。弦を引く肘の角度。放つ前に、ほんのわずかに止める息。誰かに教わった弓だった。

「弓は誰に習った」

「父さんです」

 ルカは矢を拾いに歩きながら言った。

「二年前の秋に王国の兵に取られて、西へ行きました。……戦が終わっても、帰ってきません」

 背中をこちらに向けたまま、的から矢を抜いた。

 私は何も言えなかった。

 二年前の秋、西。私もそこにいた。同じ戦場の、どこかに。

 ルカは矢を束ねて戻ってくると、少し照れたように肘を上げて見せた。

「でも、この肘は父さんじゃないんです。去年の秋の終わりに、森で会った旅の人が直してくれて」

 倒木の湿り気が、急に尻から冷たく染みてきた。

「槍を布でぐるぐるに巻いて担いでる人でした。狩りの小屋に一晩泊まって、朝、僕が引くのを見て笑ったんです。お前、引く前に肘が上がる、それじゃ獣に気配を教えてるようなもんだ、って」

 ルカは自分の肘を叩いた。

「へらへらした人でした。でも、言われたとおりにしたら当たるようになって。……お礼を言ったら、もう東の道を歩いてて、手だけ振ってくれました」

「……顔は」

 声が、思ったより低く出た。

「フードを被ってたので、よくは。髪は黒っぽかったと思います。僕よりちょっと上くらいの」

 ルカはまた弓を引いた。肘は上がらなかった。矢は真ん中に刺さった。

 私はその矢を見ていた。

 王都の決戦は秋だった。殿下とリエルを斬り、フィンに細剣を押しつけ、黒い群れの中へ消えた男が、半月ほどあとにこの森を通った。追っ手を背負ったまま狩りの小屋に一晩泊まり、見知らぬ子供の肘を直し、手を振って東へ歩いていった。

 その肘の上げ方なら、私も知っている。

 道場の縁側で、私が祖父の真似をして素振りを始めると、いつも横から口を挟んできた。お前、打つ前に顎が引ける。言われて腹が立って、直して、直ったら直ったで礼も言わなかった。言わなくても、あいつは勝手に満足そうな顔をしていた。

 憎い男の癖を、いちばんよく知っているのが私だった。

 ルカの放った矢の羽根が、夕方の光の中でまだ小さく震えていた。

 隣でチトセが、膝の上の刀の柄巻きを一度だけ指でなぞった。黒い紐の菱目を、確かめるように。

 チトセは何も言わなかった。私も訊かなかった。

          ◇

 五日目の夕方、村の長が小屋を訪ねてきた。

 杖をついて戸口に立ったまま、中に入ろうとしなかった。

「……旅の方。明日の朝には、発ったほうがいい」

 老人の顔は青ざめていた。

「何かあったのか」

「ルカが森の奥で見たそうだ。男たちが二十人ほど、北の古い炭焼き小屋に住み着いておる。……王国の兵の鎧を着た者もおったと」

「脱走兵か」

「分からん」

 老人は杖を握る手に力を込めた。

「ひと月ほど前、南の村が焼かれた。家畜も蓄えも根こそぎ持っていかれた。同じ連中かもしれん。……この村には戦える者がおらん。狩人が何人かおるだけだ。旅の方を巻き込むわけにはいかん」

 それだけ言って背を向けた。

 バルトの背中に似ていた。

 レーンベルのあの朝、寝床から片手を上げて私たちを狩りに送り出した背中に。

 あの日、私は村にいなかった。フィンと二人で尾根の向こうの鹿を追っていた。煙を見て駆け戻ったときには、村はもう燃えていた。

 私は立ち上がった。

「村長。その炭焼き小屋の場所を、教えてほしい」

          ◇

 その夜、小屋の中でチトセと向き合った。

 焚き火の明かりの中で、チトセはいつものように背筋を伸ばして座っていた。

「チトセ。力を貸してほしい」

 チトセは私の顔を見て、それから少しだけ首を傾げた。

「……お嬢さん、が、決める」

「決めた。この村を守る」

 焚き火がぱちりと爆ぜた。

「⋯⋯いいよ。いいけど、一方的な正義感で世界の全て救えない。それは分かってるよね?」

 それは私にとって今一番探られたくない腹だった。

「昔。レーンベルという村にいた事がある。こっちに来てすぐの事だ。」

 ぽつりぽつりの村での思い出を語る。

 思えば自分の力で自分の意志で居場所を作ったのはあれが初めてだった。思い出しながら目尻が熱くなる。

 そしてあの日の赤く染まった村の様子は今でも思い出したくない。

 一通り離すとチトセはこちらを見つめる。

 まるで神様にでも内側をみられている気分になる深い眼差し。

 満足したのか目をそらしたチトセは火に薪を追加した。

「……ここはお嬢さんの、村、ちがう」

「違う」

 私は言った。

「私の村はもうない。焼けた。私がいない間に。……この村は似ている。家の形も井戸も、子供たちの声も、村長の背中も」

 追加した木に乾いた皮が先に燃えて、ぱちぱちと小さな音を立てた。

「あの日、私は間に合わなかった。今度は間に合いたい」

 理由はそれだけだった。

 それだけのはずだった。

 けれど枝が燃え落ちるのを見ているうちに、もう一つの顔が浮かんだ。この村の狩りの小屋で一晩眠って、東へ歩いていった男の顔だった。

 斂は、この村を知っていた。井戸も子供たちも、たぶん村長の背中も見た。見て、何もせずに通り過ぎた。北の炭焼き小屋に何が住み着くかも知らずに。

 あるいは知っていて、背負った追っ手を連れてくるまいと、一晩で発ったのか。

 どちらなのか、私には分からなかった。分からないことが、炭の匂いのように喉にこびりついた。

 お前が通り過ぎた村を、私が守る。

 それが当てつけなのか、尻拭いなのか、自分でも区別がつかなかった。

 チトセは長いこと私の顔を見ていた。それから小さく頷いた。

「……ん」

 膝の上の刀の柄に指を置いた。

「わたしは、子供、守る。……お嬢さんは」

「村を守る」

「……ん」

 それで決まった。

          ◇

 次の晩、私は広場の三つ目の焚き火の番をしていた。

 骨を煮出す鍋は、五日のあいだに村の鍋になっていた。女たちが代わる代わる骨を足し、灰汁をすくい、水を差していく。濁っていた湯は澄んだ琥珀色に落ち着いて、鍋の縁から上がる湯気に、獣と香草の甘い匂いが乗っていた。

 柄杓で少しすくって、舌に載せた。

 悪くない。けれど、足りない。

 舌の奥のいちばん深いところに届くはずのものが、この湯にはない。昆布の、鰹節の、あの静かな底の味。この世界に来てから、どこを探しても見つからなかった。

 あいつは、九十年もそれなしで暮らしたのだろうか。

 アパートの台所で、私が引いた出汁を鍋ごと覗き込んで、いい匂いだなと鼻をひくつかせていた男が。

「姉さん」

 ルカが焚き火の向こうに腰を下ろした。屋根に上がる段取りを、狩人たちと確かめてきたところだという。

「姉さんは、誰かを探して旅をしてるんですか」

 柄杓を持つ手が止まった。

「どうして、そう思う」

「東の道のことばかり、村長に訊いてたから。……あと、時々、森の道の土を見てます。獣の跡を探すときの、父さんの目みたいに」

 よく見ている子だった。

 私は柄杓を鍋に戻した。

「探しているのではない。追っている」

「追いついたら、どうするんですか」

 鍋の底で、骨がことりと鳴った。

 殴るかもしれない、と思った。斬るかもしれない、とも。

 それから、この鍋の湯をひと椀よそって、あいつの前に置く自分の手が浮かんだ。足りない味のまま。それでもあいつは、ひと口目を飲んで、しばらく黙るのだろう。

「……分からない」

 正直に言った。

「分からないから、追っている」

 ルカは難しい顔をして焚き火を見ていた。それから、狩人らしいことを言った。

「足跡は、追ってるうちに、その獣の考えてることが分かってくるって父さんが言ってました。どこで水を飲んで、どこで休んで、どこで振り返ったか」

 私は鍋の湯気の向こうのルカを見た。

 どこで休んで、どこで振り返ったか。

 この村の狩りの小屋で、あいつは一晩休んだ。振り返ったかどうかは、分からない。

「……いい父親だな」

「はい」

 ルカは少しだけ誇らしそうに笑った。

 湯気が二人の間をゆっくりと昇っていった。

            ◇

 男たちが来たのは、二日後の夜明け前だった。

 私は村の北の外れの、森の縁に立っていた。隣にルカがいた。

 ほかの狩人たちは、弓を持って村の家々の屋根に散っている。

 子供と女と年寄りは、村の真ん中のいちばん大きな家に集められた。その戸口の前に、チトセが一人で立っていた。刀を腰に差したまま、背筋をまっすぐに伸ばして。

 森の奥から松明の火が近づいてきた。

 二十の火。いや、もう少し多い。

 足音を隠すつもりもないらしい。戦える者のいない森の奥の小さな村だと、そう思っているのだ。

「……来ました」

 ルカの声がかすれていた。弓を握る指の節が、夜明け前の薄闇の中でも白く見えた。

「ルカ。屋根に上がれ」

 ルカが私を見た。

「君の弓は、屋根の上からのほうがよく届く」

「でも、姉さん一人で」

「一人ではない。君たちが屋根の上にいる」

 私は森の奥を見たまま言った。

「私が合図をしたら撃て。それまでは撃つな」

 ルカは私の横顔を見て、こくりと喉を鳴らしてから頷いた。

 走っていって、いちばん近い家の軒に手をかけ、猿のような身軽さで屋根に上がった。

 茂みの陰から私を見ていたあの子も、ああいう身軽さで木に登っていた。

            ◇

 森の縁から男たちが姿を現した。

 二十数人。擦り切れた王国の兵の鎧を着た者。毛皮を着込んだ者。革の胴着だけの者。手に手に剣や斧や棍棒を握っている。

 その真ん中に、背の高い男が一人いた。

 右の腕に黒い籠手を嵌めていた。甲に複雑な模様が刻まれ、その真ん中に親指ほどの透き通った石が嵌め込まれている。

 晶具だった。

 鼻の奥に、焦げた毛の匂いが蘇った。

 レーンベルの井戸の脇で、同じような籠手の男が同じように腕を上げていた。構えもなく、溜めもなく、重心も動かない。腕を向けただけで火の玉が来た。あのとき私は読めず、左の肩を焼かれた。

 籠手の男が私を見た。村の外れに一人で立っている、黒い髪の女を。

「……なんだ、女か。剣一本で何をしに来た。見張りか? 一人で?」

 私は答えなかった。

 剣も抜かなかった。鞘に左手を添え、右手は柄から指一本ぶん離したまま、男との間に横たわる二十歩ほどの土を見ていた。夜露を吸った落ち葉が、ところどころ黒く光っている。

 男は籠手の右腕を無造作に持ち上げた。

「悪いが、どいてもらう。この村の蓄えは、俺たちが頂く」

 籠手の周りで、光の粒が渦を巻き始めた。

 あの夏、私は光の粒が縮む瞬間を見て跳んだ。見てから動く。それが精一杯だった。

 今は違う。

 光が寄る。渦を巻く。模様に吸い込まれる。

 縮むより先に、私は男の目を見た。

 男は私の胸を見ていた。人は撃つとき、いちばん大きなところを見る。

 だから戸を開けた。

 右の肩を、ほんのわずかに前へ出す。そこだけ守りが空いたように見せる。剣士相手なら誘いにもならない小さな隙だ。けれど籠手の男は剣士ではなかった。目が、開いた戸へ吸い寄せられた。

 光が縮んだ。

 火の玉が、私の右の肩のあった場所を抜けていった。

 そのときにはもう、私は半身ずれて一歩前にいた。背後の森で木の幹が弾け、遅れて熱い風が首筋を舐めた。

 男の顔から笑みが消えた。

「……な」

 二度目。

 今度は左の足もとに重心を落として見せた。膝がわずかに沈んだだけの、それだけの嘘だ。男の目がそこへ落ちた。放たれた火の玉が左の足もとの土を抉ったとき、私は男の右へ二歩回り込んでいた。

 撃つ場所を選んでいるのは、もう男ではなかった。

「てめえ……!」

 周りの男たちが、慌てて私へ駆け出した。

 私は手を上げた。屋根の上へ向かって。

 矢が降ってきた。

 森で獣を射る狩人たちの矢は正確だった。駆け出した男たちの足もとへ、腕へ、肩へ。何人かが矢を受けて倒れ、残りの足が止まった。

 その隙に籠手の男との距離を詰めた。

 あと十歩。

 三度目に男が腕を上げた。光が集まる。

 私は男の目に、自分の顔をまっすぐ見せた。目が顔に吸い寄せられる。

 火の玉が放たれた瞬間、私は身を沈めていた。

 熱が頭の上を通り過ぎた。髪の先が焦げる匂いがした。あの夏と同じ匂いだった。

 あと五歩。

 男が一歩下がった。

 風を切る音がした。

 いちばん近い屋根から放たれた矢が、男の右腕に突き立った。籠手のほんのわずかな隙間、肘の内側だった。

 男が呻いて腕が下がり、集まりかけていた光の粒がぱっと散った。

 私は残りの間合いを一息に詰めた。

 抜き打ちの峰が、男の籠手を嵌めた手首の付け根を叩いた。返す柄頭が顎を打ち上げる。

 男は膝から崩れて泥の中に沈んだ。剣は一度も、誰の刃とも触れ合わなかった。

 屋根の上を見上げた。

 ルカが弓を下ろして肩で息をしていた。肘は上がっていなかった。

 目が合った。

 私が小さく頷くと、ルカの顔がくしゃりと歪んだ。泣きそうな顔で笑っていた。

            ◇

 主を失った男たちのうち何人かは、それでも村の中へ駆け込もうとした。

 いちばん大きな家へ。蓄えがあるのはあの家だと踏んだのだろう。

 私はそちらへ走った。

 間に合わない、と思った。

 家の戸口の前に白い人影が立っていた。

 チトセは刀を抜いてさえいなかった。

 三人の男が剣を振りかぶった。チトセは動かなかった。

 剣が振り下ろされる。

 その瞬間、チトセの腰から白い光が一度だけ閃いた。

 それだけだった。

 三本の剣が、鍔元からきれいに断ち切られて地面に落ちた。男たちは刀身のない柄を握ったまま、何が起きたのか分からない顔をしていた。

 チトセの刀はもう鞘の中にあった。

 ちん、と鍔が鳴った。

「……帰って」

 男たちは柄を放り出して逃げていった。振り返った者はいなかった。

            ◇

 夜が明けた。

 森の木々の向こうから朝の光が差し込んできた。

 私は広場の井戸の脇に立って村を見渡した。

 丸太の家。干した皮。束ねた薬草。

 一軒も燃えていなかった。煙はどこからも上がっていなかった。

 家々の戸口から、人々がおそるおそる出てきた。女たちも子供たちも年寄りも、誰も怪我をしていなかった。

 屋根から降りてきた狩人たちが、倒れた男たちを縄で縛り上げていった。獣を括るのと同じ手つきだった。

 籠手の男はまだ泥の中で呻いていた。

 私はその腕から籠手を外した。

 重かった。手首寄りの金属に、何かの紋章を削り取った傷がある。

 親指の腹でなぞると、削り残しの縁に細い線の刻みが指に引っかかった。

 見覚えがあった。

 王国軍の陣で、兵に支給される晶具に何度も見た刻みだった。工房が納めるときに打つ、国の紋の縁取り。

 レーンベルを焼いた籠手にも、同じような削り跡があった。

 けれど、あれは西の商家の紋だった。波の上を進む船の紋。金のために村を焼かせた、一つの家の紋。

 これは違う。

 これは、私が近衛の外套を着て仕えた国の紋だった。

 国が若い父親を村から連れ出し、籠手を持たせて西へ送った。戦が終わると、籠手だけが紋を削られて、どこかの村を焼く側に回って戻ってきた。ルカの父親を連れていったのと、同じ国の手で。

 籠手の金属は、朝の光の中でも冷たかった。

 斂は、九十年前、この国の勇者だった。

 王都の決戦のあと、私はずっと、なぜ、とだけ考えてきた。なぜ殿下を斬ったのか。なぜリエルを貫いたのか。なぜ、私の目の前で。

 答えは今も分からない。分かりたくもない。

 それでも、この削り跡をなぞる指は、あいつがどこかで同じものをなぞったのかもしれない、と考えるのをやめなかった。九十年前、この国の紋を背負って歩いた男が、どこかの焼けた村で、こういう冷たい金属を拾い上げたのかもしれない、と。

 それで何かが許せるわけではなかった。

 ただ、なぜ、の形が少しだけ変わった。

 私は籠手を村の長に預けた。代官の兵に、男たちと一緒に引き渡してもらうために。

 ルカが駆けてきた。何か言おうとして、言葉にならないようだった。

 村の長が杖をついて私の前に立った。皺だらけの口元が、何度か開いては閉じた。

「……旅の方」

 それだけ言って、老人は深く深く頭を下げた。

 私は何も返せなかった。朝の空気が冷たいのに、喉の奥にだけ熱い塊が居座っていた。

 村に戻ると、井戸のそばで子供たちが騒いでいた。

誰かが笑っていた。

女たちが集まり、男たちが壊れた柵を運んでいる。矢を拾い集める者もいれば、傷を負った者の手当てをする者もいた。朝の光が、焼け残った家々の壁を照らしていた。

煙は上がっていなかった。

私は足を止めた。

一軒ずつ、目で追った。

屋根がある。扉がある。窓から顔を覗かせている人がいる。昨日までと同じ場所に、昨日までと同じ家が建っていた。

子供が走ってきて、母親に抱きついた。

母親はその子の頭を撫でていた。

私はそれを見ていた。

いつまでも。

「……佳凛?」

チトセの声がした。

返事をしようとしたが、声が出なかった。

別に、怪我をしたわけではない。どこかが痛むわけでもなかった。立っていられないほど疲れているわけでもない。

ただ、何かを確かめなければならない気がした。

誰かが足りないのではないか。

誰かが、まだ帰ってきていないのではないか。

そう考えて、村を見回した。

けれど、目に映るのは人ばかりだった。

生きている人たちばかりだった。

私は井戸に歩み寄り、縁に手をついた。

石は冷たかった。

掌に伝わる感触が、妙にはっきりとしていた。指先に力が入っていることに気づき、ゆっくりと手を開いた。

大丈夫だ。

ここにいる。

皆、ここにいる。

そう思ったとき、水面が揺れた。

風が吹いたのかと思った。

けれど、木々の枝は動いていなかった。

もう一度、水面が揺れた。

小さな輪が広がり、井戸の底へ沈んでいくように消えた。

私は水面を覗き込んだ。

そこに映っていた自分の顔は、ひどく頼りなかった。

顎の先から、一滴の雫が落ちた。

水面に輪が広がった。

それが何なのか、すぐには分からなかった。

もう一滴、落ちた。

水面に輪が広がった。

それが何なのか、すぐには分からなかった。

もう一滴、落ちた。

そこでようやく、自分が泣いているのだと気づいた。

「……あ」

声が漏れた。

慌てて目元に手をやった。濡れていた。

どうして。

そう思った。

どうして、今なのだろう。

私は、ずっと泣かなかった。

泣いている場合ではなかった。立ち止まっている場合でもなかった。何もできなかった自分を責めることなら、いくらでもできた。けれど、泣くことだけはできなかった。

泣いてしまえば、あの日のことを認めてしまう気がした。

間に合わなかったことを。

助けられなかったことを。

もう、どうにもならないことを。

唇を噛んだ。

止まらなかった。

水面に落ちる雫が、いくつもの輪を作っていた。輪と輪が重なり、互いを消しながら、また新しい輪が生まれた。

その向こうに、いくつもの顔が浮かんだ気がした。

レーンベルの人々。

バルト。

フィン。

あの日、灰の中に立ち尽くした自分。

目を閉じても、消えなかった。

忘れたわけではない。

許されたわけでもない。

あの村に、私は間に合わなかった。

それでも。

「……間に合った」

声に出すと、喉が震えた。

誰に聞かせるつもりもなかった。

「今度は……間に合った」

膝から力が抜けた。

井戸の縁に手をついたまま、私は俯いた。

涙が落ちた。

一つ、また一つ。

止めようとするほど、頬を伝うものが増えていった。

何かを成し遂げたからではなかった。強くなれたからでもなかった。

私は、間に合ったのだ。

目の前にいる人たちを、守ることができたのだ。

それだけのことが、どうしてこんなにも。

どうして、こんなにも。

背中に手が触れた。

振り返らなくても分かった。

チトセだった。

何も言わなかった。

背中に置かれた手は、少しぎこちなかった。どうすればいいのか分からないのだろう。子供を抱き上げたときと同じだった。

それでも、離れなかった。

私は何も言えなかった。

チトセも、何も言わなかった。

ただ、その手の温度だけが、そこにあった。

どれほどそうしていたのかは分からない。

やがて、私は少しだけ顔を上げた。

水面はもう揺れていなかった。

そこには、涙で歪んだ空が映っていた。

私は袖で目元を拭った。

まだ、胸の奥は痛かった。

レーンベルのことを思えば、今でも何も変わらない。救えなかった人たちが戻ってくるわけではない。あの日の自分を許せるわけでもない。

それでも。

私は、今日ここにいた。

間に合った。

その事実だけは、誰にも奪えない。

          ◇

 その日の昼、村を発った。

 村の人々が総出で見送りに来た。女たちは干した肉と蜂蜜の壺と香草の束を私の背嚢に詰め込み、入りきらない分をチトセの腕に押しつけた。

 チトセは両腕いっぱいに荷物を抱えたまま、表情を変えずに立っていた。子供たちが最後にもう一度、白い髪を引っ張っていった。

 ルカは村の入口までついてきた。

 入口で足を止め、意を決したように顔を上げた。

「……僕も、連れていってください。姉さんみたいになりたいんです。剣も、料理も。姉さんと白い姉さんと一緒に、旅をして」

 ルカの目がきらきらと光っていた。茂みの陰から私を見ていたあの子の目と、同じだった。

 私はしばらく黙っていた。それからルカの肩に手を置いた。

「ルカ。君の弓は、屋根の上からがいちばんよく届く」

 ルカが目を瞬かせた。

「この村の屋根の上からだ。この村には、君の弓が要る」

 ルカは何か言い返そうとして、言葉を探していた。

「私の村は、私がいない間に焼けた」

 私は言った。

「私ともう一人の狩人の少年が、尾根の向こうで鹿を追っている間に。帰ったときには村は燃えていて、村長はもう助からなかった」

 ルカが息を呑んだ。

「その少年は今、ずっと遠くで勇者と呼ばれている。けれど、あの子がいちばん守りたかったのは、あの村だった。……あの子は、それをもう守れない」

 ルカは長いこと黙っていた。

 それからゆっくり頷いた。目の縁を赤くして、それでもこぼさなかった。

「……鹿の背の肉は、筋に沿って。腿は、筋を断つように」

「そうだ」

「肘は、上げない」

 一瞬、返す言葉が遅れた。

「……そうだ」

「忘れません」

「忘れるな」

 ルカは深く頭を下げた。

 私は背を向けた。チトセと並んで、森の中の街道を歩き出した。

 振り返らなかった。振り返らなくても、ルカが私たちの背中が見えなくなるまで入口に立っていることは分かっていた。

 森の中をしばらく歩いた。

 若葉を透かした光が、足もとでまだらに揺れていた。

 半年前、この道は落ち葉で埋まっていたはずだ。湿った枯れ葉を踏んで、槍を布で巻いて担いだ男がここを歩いた。今は若葉の影が、私の足の下で揺れている。

 足跡は残っていなかった。残っているはずもなかった。

 それでも私は、時々、道の柔らかいところに目を落とした。

 お前はここで、何を見た。

 焼けていない村を見て、少しは安心したのか。それとも、焼かれる前の村を見るのが、もう嫌だったのか。

 返事の代わりに、頭の上で小鳥が一度鳴いた。

「……お嬢さん」

 チトセが両腕いっぱいの荷物を抱えたまま言った。

「なんだ」

「……重い」

 私は少しだけ笑って、チトセの腕から蜂蜜の壺を一つ受け取った。

 チトセは小さく頷き、少しだけ足を速めた。私もそれに合わせた。

 境の石標の先で、街道は南へ折れていた。ドワーフの領地へ戻る道だった。

 その先の森の向こうに、湯けむりが白く立ち上っていた。


(第四章 了)

 

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