第三章 温もり
その冬は、ドワーフの鉱山村で越した。
峠を下りきった谷の奥に、村はあった。岩山の斜面に横穴がいくつも掘られていて、その一つ一つが家だった。入口には分厚い木の扉がはめ込まれ、扉の上の岩肌に空けた細い穴が、煙突の代わりに白い湯気を吐き出している。
谷の底には湯が湧いていた。
岩の割れ目から熱い湯がこんこんと湧き出し、湯気を立てながら川へ流れ込んでいる。雪の中でも、そのあたりだけは地面が黒く濡れていた。硫黄の匂いが、風向きによって谷じゅうに漂った。
私たちは村外れの、使われなくなった横穴を借りた。
貸してくれたのは村の鍛冶場の主だった。赤茶色の髭を三つ編みにした、樽のようなドワーフの老人だった。
「嬢ちゃんらが、どこの誰かは訊かん」
老人は横穴の鍵を私の手に押しつけながら言った。
「ここはヴァルムハイムの端っこの、そのまた端っこだ。王都の触れ書きなんぞ三月遅れで届く。届いたところで、読める奴が三人しかおらん」
老人はチトセの腰の刀に目をやり、ほんの少しだけ目を細めた。
何か言いかけたように見えた。けれど何も言わずに、鍛冶場へ戻っていった。
◇
稽古は翌朝から始まった。
横穴の前の、雪を踏み固めた小さな平地で、チトセと向き合った。
チトセは刀を抜かなかった。柄に手をかけてさえいなかった。背筋をまっすぐに伸ばし、両手を身体の脇に下ろして、ただ立っていた。
「……来て」
私は剣を抜いて、少し迷った。
「刀を、抜かないのか」
「……いい」
私は剣を構えた。目を閉じて、開けた。
世界が二重になった。
チトセがそこに立っている。その少し前に、透けたチトセがいる。それも、同じようにただ立っていた。
影が動かなかった。
間合いは二間。雪の上で、私の踵がじりじりと沈んでいく。チトセの白い睫毛には、朝の霜が一粒ついていた。それが溶けて落ちるまで、どちらも動かなかった。
私は踏み込んで、肩口へ剣を振り下ろした。
影が動いた。私の剣が振り下ろされる、その瞬間に。透けたチトセが半歩横へずれ、本物のチトセも半歩横へずれた。
影と本物が、ほとんど重なっていた。影が見えてから本物が来るまでの間が、なかった。
私の剣は、チトセのいた場所の空気を斬った。
その手首に、チトセの指先がそっと触れていた。
刀の柄ではなかった。指だった。
「……一」
チトセが言った。
何度やっても同じだった。
踏み込めば半歩ずれる。誘えば乗ってこない。わざと隙を見せても、チトセはその隙を見もしなかった。見ていないのに、私の手首に指先が触れていた。
十を数えたところで、私は剣を下ろした。肩で息をしていた。吐く息が白く千切れて、顔の前で次々に消えた。
チトセは息一つ乱していなかった。」
「…何を見てる?」
私は顔を上げた。
「……分かるのか」
「目。……少し先、見てる」
チトセは自分の目の下を、指先で軽く叩いた。
「見えたら、動く。……だから、遅い」
見えたら動く。だから遅い。
あの女の前で、私が思い知ったことだった。影が見えた瞬間に、もう本物がそこにある。見てから動くのでは間に合わない相手がいる。
「では、どうすればいい」
チトセは少し考えるような間を置いた。
「……見る前に、動く」
「見る前に」
「…お嬢さんの剣はもともとそういうものでしょう?」
チトセの踵に力が抜けたのを見て、腰を下ろそうとしていると察して、私も腰を下ろす。
「…ほら。先回りして動いた。…相手の後の先まで先回りする」
後の先まで先回りしろ。
思えばそう言われて叩き込まれたのが私の剣だった。
いつしか見えることにあぐらをかいて、基本をおろそかにしていたのかもしれない。見える前に、先回りしなければ意味がないのだ。
「祖父のような事を言う」
チトセがわずかに首を傾げた。
「⋯⋯まだ私そんな歳じゃないよ」
拗ねたようにそっぽを向く顔がひどく可愛らしかった。
◇
夕方、横穴の中で鍋を火にかけた。
鍛冶場の老人が分けてくれた食べ物があった。干した茸と、根の野菜と、山羊の乳から作った固い塊。それから、何の肉だか分からない赤黒い塩漬けの肉。
肉を湯で戻して薄く削いだ。茸を刻んで、根の野菜と一緒に炒めた。そこに山羊の乳の塊を削り入れて溶かした。
横穴の中に濃い匂いが満ちていった。
チトセは火の前に座って、背筋を伸ばしたままずっと鍋を見ていた。
椀に盛って差し出すと、チトセは両手で受け取った。
ひと口食べて、動かなかった。もうひと口食べて、また動かなかった。それから残りを一息にかき込んだ。峠の岩陰で粥を食べたときと、同じ食べ方だった。
椀を下ろして私を見た。
「……おいしい」
表情は変わらなかった。私はもう一杯よそった。チトセはそれも同じ食べ方で食べた。
三杯目を差し出したとき、チトセは椀を受け取る前に、少しだけ動きを止めた。
「……お嬢さん、は」
「私は、いい」
「……だめ」
チトセは椀を私のほうへ押し返した。
「お嬢さんも、食べる」
私は少しだけ驚いて、椀を受け取った。
チトセは、私が食べ始めるのをじっと見ていた。私がひと口食べると小さく頷き、それから自分は何も持たずに火を見つめ直した。
表情は少しも変わっていない。けれどその横顔が、ほんの少しだけ満足そうに見えた。
気のせいかもしれなかった。
お前も食えよ、と言う男がいた。私が自分の皿をよそわずに片付けを始めると、箸を置いて台所まで追いかけてきた。作った奴が食わない飯は信用ならねえ、と。
チトセの押し返した椀は、あのときの茶碗と同じくらい温かかった。
夜中に目が覚めた。
横穴の奥の寝床に、チトセの姿がなかった。
チトセは夜になっても、ほとんど横にならなかった。火の前で背筋を伸ばして座ったまま目を閉じている。眠っているのかどうか、いつも分からなかった。
そのチトセがいなかった。
横穴を出ると、谷の底の湯気の中に白い人影が見えた。
湯の湧く岩の縁にチトセが腰かけていた。着物のような衣を脱いで、湯に浸かっている。白い肩が湯気の中で、雪と同じ色をしていた。
私も服を脱いで湯に入った。
熱かった。冷え切った手足の先から、痺れるような温かさが身体の芯へ上ってきた。
チトセは私を見て、それからまた湯気の向こうの夜空を見上げた。
私はチトセの白い背中を見た。傷が一つもなかった。あれほどの剣を振るう人の身体に、古傷の一つも。
私の身体にも傷は残っていない。エドガーの槍も、あの女の大剣も、痕一つ残さずに消えた。それでも私は傷を負った。
この人は、傷を負ったことがあるのだろうか。
「……お嬢さん」
チトセが夜空を見上げたまま言った。
「なんで、強く、なりたい」
私は湯の中で、自分の手を見下ろした。
「約束が、ある」
「……約束」
「友達と。桜の木の下で、弁当を食べると」
湯気が夜空へ昇っていった。
「その友達は、もういない。……守れなかった。目の前で」
チトセは何も言わなかった。
「守れなかった約束は、もう守れない。……だから、せめて、次は」
私は言葉を切った。
次は、何だろう。次に、誰と、何を約束するのだろう。
もうひとつの答えは、口にしなかった。
追いついて、あいつの前に立つ。塔の上では抜けなかった剣を、今度は抜く。抜いて、それから。
湯の中で拳を握ると、指の間から熱い湯が逃げていった。握っても握っても、掌には何も残らなかった。
チトセが湯の中で、ほんの少しだけ私のほうへ身体を寄せた。肩と肩が触れるか触れないかのところで止まった。
それ以上、何もしなかった。何も言わなかった。ただ、そこにいた。
湯気の向こうで、星がいくつも瞬いていた。
◇
稽古は毎日続いた。
雪が降る日も、降らない日も。チトセは相変わらず刀を抜かず、私は相変わらずチトセに触れることもできなかった。
けれど少しずつ変わっていった。
人の動きを読むというのはある意味決め打ちに近い。
身体の構造を考えると必然、動きの兆候が小さな癖としてあらわれる。
それを見逃さずに狙いを決めて打つ。
最初は決めた先がことごとく外れた。チトセは、私が決めた場所には一度もいなかった。
十日目に一度だけ、剣先がチトセの袖を掠めた。
チトセは自分の袖を見下ろし、それから私を見た。
「……一」
今度はチトセのほうが数えた。私の一本だった。
二十日目、チトセが初めて刀を抜いた。
朝の稽古の終わりに、雪の上に立ったまま、腰の刀をすらりと抜き放った。刀身が雪の光を受けて白く光った。
私の目は、まず刃の縁へ行った。癖だった。祖父の蔵で刀を見せてもらうとき、私はいつも最初に刃文を見た。焼きの入った刃と、柔らかいままの地との境に、霧のように白く浮かぶ線。互の目。丁子。直刃。名前を覚えるのが楽しくて、蔵の埃とかび臭さの中で何時間でも見ていられた。
チトセの刀には、それがなかった。
刃の縁から棟まで、鉄の色が一続きだった。焼きの境が見えない。反りも刀身の真ん中あたりから素直に付いていて、焼き入れでひとりでに反った刀の、腰から立ち上がるような反りとは違う。叩いて曲げたのかもしれなかった。
そのかわり、刀身の地肌に別のものが浮いていた。
波だった。
何枚もの鉄を重ねて叩いた、その層の境目が、細い線になって肌に浮いている。線は一本ではない。幾筋も寄り添い、ゆるやかにうねりながら、鍔元から切っ先へ流れていく。光を当てる角度を変えるたびに、水面のように揺れた。
私はその波を知っていた。
殿下から賜った、あの細身の長剣。ヴァルムハイムのドワーフが打った両刃の剣の、刀身に浮いていた紋だ。同じ癖で寄り添い、同じ癖でほどける。ただチトセの刀の波のほうが、ずっと細かく、ずっと深かった。あの剣の波は、この波を誰かが真似たものだったのかもしれない。
あの剣は、もう私の手にない。瑠璃色の髪の女が持っていった。
右の掌に、擦り切れた握り革の感触がよみがえりかけて、すぐに雪の冷たさに紛れた。
波は、雪の照り返しの中で静かに動いていた。
「……これ、から」
チトセが言った。
「術、使う。……相手、する」
「術は、使えないと言っていた」
「……わたしは、使えない」
チトセは横穴の入口のほうを見た。
鍛冶場の老人がそこに立っていた。腕を組んで、髭の中でにやにや笑っている。
「嬢ちゃんらの稽古を、毎朝眺めとったらな。白い嬢ちゃんに頼まれた」
老人は太い指で自分の胸を叩いた。
「わしゃ、術はからきしだ。ドワーフだからな。……だが、晶具ならいくらでもある」
老人の足もとに木箱が一つ置かれていた。中に金属の筒のようなものがいくつも並んでいて、筒の先に小さな透き通った石が嵌め込まれている。
「引き金を引きゃ、誰でも術が撃てる。狩り用の、しょぼい晶具だがな。……当たりゃ、それなりに痛えぞ」
老人は筒を一本持ち上げて、にやりと笑った。
それから村の若いドワーフたちが、ぞろぞろと横穴の前に集まってきた。皆、手に一本ずつ筒を持っている。
楽しそうだった。ひどく楽しそうだった。
◇
その日から、稽古が変わった。
チトセと向き合う私の背後から、横から、若いドワーフたちが晶具の術を撃ってくる。小さな光の礫だった。当たれば肌が赤く腫れる程度の。
それでも、礫の飛んでくる方向が読めなかった。
撃つのは晶具だ。晶具には身体がない。構えも重心も力みもない。引き金を引く指先を見るしかない。けれど引き金を引く若いドワーフたちは、私の視界の外にいた。
前にはチトセがいた。刀を構えたチトセが。
チトセの影を見ながら、礫を避けなければならなかった。
できなかった。
礫が肩に当たった。背中に当たった。腿に当たった。ぱしん、ぱしんと濡れた布で叩かれるような音がして、そのたびに当たったところが熱を持った。
チトセの刀の峰が、私の手首を軽く叩いた。何度も。何度も。
若いドワーフたちが歓声を上げ、鍛冶場の老人が腹を抱えて笑っていた。
私は雪の上に膝をついた。身体中が熱く腫れて、そのくせ膝から下は雪に冷えきっていた。
チトセが刀を下ろして、私の前にしゃがみ込んだ。私の顔を覗き込んだ。
「……逃げ道」
チトセが言った。
「さがしてる」
私は顔を上げた。
「礫の、隙間。……さがしてる。だから、遅い」
「隙間を探さずに、どうやって避ける」
「……避けない」
チトセは雪の上に、指で小さな点を一つ描いた。その点の周りに、四方から点へ向かって伸びてくる線をいくつも描いた。
光の檻だった。峠で私を囲んだ、あの。
「術は、的、ある」
チトセは点を指さした。
「ここ、狙う。……撃つ人、ここ、見てる」
それから点の横に、もう一つ点を描いた。
「……お嬢さん、ここ、いる。見せる」
チトセは最初の点から指を滑らせて、二つ目の点へ動かした。
「撃つ人、こっち、見る。……撃つ」
チトセは二つ目の点を、指で消した。
「……もう、いない」
私は雪の上の消えた点を見下ろしていた。それから、ゆっくりと息を吐いた。
「……誘い、か」
チトセが頷いた。
「誘い。……剣と、同じ」
◇
誘いを術に使う。
言葉にすれば、それだけのことだった。
相手の身体を隙に吸い寄せるために、わざと隙を見せる。祖父はこれを、戸を開けると言った。開けた戸の向こうに、自分はもういない。来島の誘いだ。
それを、術を撃つ者に使う。
術には的がある。撃つ者は的を見ている。的を狙って光を集め、結び、放つ。
ならば、的を見せればいい。撃つ者の目に、ここにいる、と。
撃つ者がそこへ放つと決めた瞬間に、私はもうそこにいない。放たれた術は、誰もいない場所へ飛んでいく。
影を見て避けるのではなく、影をこちらから作らせる。
道場で、この戸に一番よく飛び込んできたのは斂だった。
あいつは目がよすぎた。私が肩口をほんのわずかに開けると、考えるより先に竹刀がそこへ吸い込まれてくる。打ち込んだ先に私はいない。小手を打たれて竹刀を取り落とし、あいつは毎回、ずるいぞと笑った。床に転がった竹刀の乾いた音と、汗の匂いと、夕方の西日が板の間に作る長い格子の影。祖父があいつに槍を持たせたのは、その目のせいだった。槍なら、見えてから突いても間に合う。
この世界で、あいつはその目を武器に変えた。術の結び目を見つけて、穂先を差し込む目に。
塔の上で、私は戸を開けなかった。開ける前に、あいつのほうが去っていった。
次に会ったら、開けてやろうと思う。
あいつが真っ先に飛び込んでくる戸を、一枚だけ。
若いドワーフたちの礫が、私の見せた場所へ飛んでいくようになった。
最初は一つ。次の日は二つ。十日目には、ほとんどの礫が私のいない場所の雪を穿つようになった。
若いドワーフたちが首を傾げていた。
「……なんで、当たんねえんだ」
「狙ったとこに、ちゃんといたんだぞ。撃つ瞬間までは」
鍛冶場の老人だけが、髭の中で黙って笑っていた。
チトセの刀の峰が私の手首を叩く回数も、少しずつ減っていった。
礫を誘って外しながら、チトセの影を一つ見て、その先を決めておく。決めたとおりに動く。動きながら、次の礫の的を撃つ者の目に見せる。
頭の中で糸が何本も絡み合っているようだった。絡み合いながら、一本の縄に撚られていくようだった。
ひと月が過ぎた頃、礫が一つも当たらない日があった。
その日はチトセの刀の峰も、一度も私の手首に触れなかった。私の剣も、チトセには一度も届かなかった。
稽古の終わりに、チトセは刀を鞘に収めた。ちん、と鍔が鳴った。
チトセは私を見た。
「……一」
何の一なのかは言わなかった。私も訊かなかった。
ある夕方、チトセが、鍋の前に座っている私の手元をじっと見ていた。私は根の野菜の皮を剥いていた。
「……やる」
少し迷ってから小刀を差し出すと、チトセは首を横に振った。腰の刀をすらりと抜いた。
止める間もなかった。
刃が、まな板代わりの平たい石の上で何度か閃いた。とん、とも鳴らなかった。根の野菜が転がり、転がりながらばらばらに崩れた。同じ厚さ、同じ大きさの、薄い輪切りになって。
皮だけが、一枚の細い帯になって石の上に残っていた。
私はしばらくそれを見下ろしていた。それから小刀で、残りの野菜を手に取った。
薄く輪切りにしたものに、浅く切り込みを入れていく。五つの花弁を一枚ずつ。縁がわずかに反り返るように。
レーンベルの村の、バルトの家の台所で、初めてこの世界の人に見せた飾り包丁だった。
チトセが私の手元を見ていた。
花の形になった野菜を石の上に置くと、チトセはそれを長いこと見つめていた。
「……きれい」
峠の氷の柱を見ていたときと、同じ声だった。
チトセは刀を鞘に収め、私の手元の小刀をじっと見た。
「……それ、も。教えて」
私は少しだけ笑った。
「剣の稽古の、代わりにか」
「……ん」
その夜から、夕方の少しの間だけ、私がチトセの師になった。
チトセの花は、最初の十日、どれも花弁が四枚だった。なぜ四枚になるのか、私にも、チトセにも分からなかった。
◇
冬の終わりのある夜、鍛冶場の老人に酒を振る舞われた。
鍛冶場の奥の、炉の火が赤々と燃える部屋だった。壁一面に槌や鉄箸や打ちかけの刃物が掛けられ、床には鉄の削り屑が黒い砂のように溜まっている。
老人は棚の奥から煤けた陶の瓶を下ろしてきた。栓を抜くと、焦がした麦と樽の木の匂いが部屋に広がった。老人はそれを木の杯に三つ注いだ。琥珀色の酒が、炉の火を映して杯の底で揺れていた。
私は杯を見下ろしていた。
酒を飲んだことがなかった。
祖父の家では正月になると、大人たちが朱塗りの盃で屠蘇を回した。子供の私の前にも同じ朱の盃が置かれたが、中身はいつも白湯だった。
台所の床下には、祖母の梅酒の瓶が何本も眠っていた。
毎年六月になると、祖母は青梅を笊に山と盛り、縁側で一粒ずつ竹串でへたを取った。ある年、その手伝いに斂も駆り出された。不器用な私より、あいつのほうがずっと手際がよかった。へたを取った梅を布巾で拭きながら、この瓶はいつ飲めるのかと祖母に訊いていた。
あんたたちが漬けた瓶は、あんたたちが二十歳になるまで寝かせておく、と祖母は言った。
そのときは俺が一番に飲む、と斂が言った。私が先だ、と私は言った。どちらが先かで、青梅の匂いのする縁側でしばらく言い合った。祖母は笑いながら、瓶の口に和紙を張って麻紐で縛った。
祖母は時々、床下の蓋を開けて瓶を傾け、色を見ていた。透き通っていた液が、年を追うごとに薄い琥珀色に変わっていく。私も隣にしゃがんで覗き込んだ。甘い匂いが、湿った土の匂いと一緒に上がってきた。
私が知っているのは、その匂いだけだ。
この世界で、酒の歳を訊く者はいなかった。騎士団の宴でも戦の陣中でも、杯を勧められたことは何度もあった。そのたびに水でいいと断ってきた。
なぜ断るのか、自分でもよく分からなかった。
床下のあの瓶の蓋を、私はまだどこかで閉じたまま取っておいたのかもしれない。
老人は杯を差し出したまま待っていた。煤で黒くなった、節くれ立った手だった。
私は杯を受け取った。
鼻を近づけると、焦がした麦の奥に、干した果物のような甘い匂いがあった。梅とは違う。けれど床下から上がってきたあの匂いと、どこか同じ棚に並んでいそうな匂いだった。
少しだけ口をつけた。
舌の先がちりりと痺れた。次の瞬間、喉が焼けた。火の粉をひとつ呑み込んだようだった。思わず咳き込んだ。
老人が髭を揺らして笑った。
「なんだ、嬢ちゃん。初めてか」
「……はい」
「そうか。そいつは光栄だ」
老人はそれ以上何も言わなかった。
私はもう一度口をつけた。
二度目も熱かった。けれど今度は、熱さが喉を通り過ぎてから、胸の奥へゆっくり落ちていくのが分かった。腹の底で、炉の熾火のように広がっていく。舌の上には焦げた麦の苦さが残り、それを追いかけるように、遅れて甘さが来た。鼻の奥を、樽の木の匂いが抜けていった。
これが酒の味か、と思った。
美味いのかどうか、分からなかった。分からないまま、もうひと口が欲しくなった。
一番に飲むと言ったのは、斂だった。
あいつはこの世界のどこかで、初めての一杯を飲んだのだろう。二十歳を待たずに。祖母の瓶を待たずに。どこかの酒場で、誰かの注いだ杯で。どんな顔で咳き込んで、誰に笑われたのか。
私の知らない誰か。私の知らない酒場。私の知らない夜。
言ったとおり、あいつは先に飲んだのだ。九十年も先に。
杯の縁を指でなぞった。木の杯は、炉の熱で生ぬるくなっていた。
ずるい、と思った。
思ってから、それが縁側で言い合ったときと同じ言葉だと気がついた。
チトセは杯を両手で持ったまま、一滴も飲まずに炉の火を見つめていた。
老人は自分の杯を一息に空けると、チトセの腰の刀を顎で示した。
「その刀な」
チトセが老人を見た。
「うちの公爵様が、打ったもんだろう」
私は杯を置いた。
チトセは何も言わなかった。否定もしなかった。
「肌の波で分かる。あの波の線は、公爵様しか打てん。領の職人がこぞって真似しとるが、あそこまで細かくは寄らん。……何十年も前にな、公爵様が妙な形の剣を打ってくれと頼まれたって話を、若い頃に聞いたことがある。反りのある、片刃の、細い剣。こっちの剣の作り方とは、まるで逆の打ち方をするんだと」
老人は自分の杯に、また酒を注いだ。
「頼んだのは、人族の若いのだったそうだ。……公爵様は面白がって、三日三晩かけて打ったらしい。だが頼んだ当人は、結局それを使いこなせなかったって話だ」
老人は笑った。
「剣がからきし向いてねえ男だったんだと。自分で頼んでおいて、振ってみたら、まるで様にならなかった。……で、どっかに持って行っちまった」
老人はチトセの刀を、もう一度見た。
「そいつが巡り巡って、白い嬢ちゃんの腰にある。……世の中、分からんもんだ」
私はチトセを見た。
チトセは炉の火を見ていた。表情は少しも変わらなかった。
「チトセ」
「……ん」
「その刀は、その人から、もらったのか」
チトセはしばらく黙っていた。それから、ほんの少しだけ頷いた。
「……使えないから、って」
「その人は、どんな人だ」
チトセはまた黙った。炉の火がぱちぱちと爆ぜていた。
「……ひみつ」
いつもと同じ言葉だった。けれどその声が、いつもよりほんの少しだけ柔らかかった気がした。
剣がからきし向いていない男。自分で頼んでおいて、振ってみたら、まるで様にならなかった。
私は杯の中の琥珀色の酒を見下ろしていた。
祖父の声が、頭の奥で聞こえた。
お前には剣は向いていない。槍を持て。
道場の板張りの床の上で。夏の夕暮れに。私の隣で困ったように笑っていた、あの顔。
道場の刀掛けの前で、首をすくめていた顔。
私は首を振った。
この世界にも、剣の向いていない男はいくらでもいる。人族の若い男。何十年も前。
何十年も前なら。
九十年前も、何十年も前だった。
刀掛けに触れることもできなかった男が、この世界で、一振りの刀を打たせた。振れもしない刀を。
誰のために。何を思い出しながら。
私は杯を一息に空けた。
喉が焼けた。頭の芯まで熱くなった。
考えないことにした。まだ、考えるには早すぎた。
炉の火が、ぐらりと揺れて見えた。揺れているのは炉ではなかった。
隣でチトセが、一滴も減っていない自分の杯を、黙って私の前から遠ざけた。それから水の入った椀を、私の手に握らせた。
「……のんで」
「……ああ」
水は冷たかった。
翌朝、頭の芯が鈍く痛んだ。
口の中に、焦げた麦の苦さがまだ貼りついていた。
床下の梅酒は、きっとこんな味ではないのだろう。もっと甘くて、もっと柔らかくて、縁側の青い匂いがするはずだ。
確かめる日が来るのかどうかは分からなかった。あの瓶の和紙を破るとき、隣で、一番は俺だと言う声がするのかどうかも。
こめかみの鈍い痛みが、いつの間にか、肋の下のほうへ降りてきていた。
◇
雪解けの頃、村に客が来た。
招かれざる客だった。
夜明け前、見張りの若いドワーフが鐘を鳴らした。横穴から飛び出すと、谷の入口に松明の火が並んでいた。
十人ほどの男たちだった。先頭に、馬に乗った男がひとり。その後ろに徒歩の男たちが、手に手に剣や斧を握っている。
そしてその中に、灰色の長衣を着た者が二人いた。
術師だった。峠で倒した、あのエルフの男ではない。けれど同じように、胸の刺繍の色を抜いた長衣を着ていた。逃げた宮廷の術師たちだ。
馬上の男が叫んだ。
「黒髪の女を出せ! 魔族を逃がした、銀貨三十枚の女だ! 匿っているのは分かっている!」
鍛冶場の老人が横穴の前に出た。手に鍛冶の大槌を握っていた。
「うちの村に、そんな女はおらん」
「嘘をつけ! 峠の麓の村で、白い髪の女と黒い髪の女が、この谷へ下りていくのを見た奴がいる!」
若いドワーフたちが老人の後ろに並んでいた。手に晶具の筒を握っている。狩り用の、しょぼい晶具。あれで宮廷の術師二人とは戦えない。
私は横穴の前に出た。チトセが隣に並んだ。
「……お嬢さん」
「分かっている」
私は剣を抜いた。
「村の者に、手を出させるわけにはいかない」
「……ん」
チトセは刀を抜かなかった。柄に手をかけてさえいなかった。
ただ私を見て、それから一歩後ろへ下がった。私に前を譲るように。
チトセの白い瞳が、私を見返していた。何も言わなかった。言わなくても分かった。
見せて、と言っているのだ。ひと冬の稽古の答えを。
◇
私は雪解けの泥の上を、男たちへ向かって歩いた。
散歩でもするように。いつか瑠璃色の髪の女が、そうしていたように。
馬上の男が目を剥いた。
「……一人で来るか。舐めやがって」
男が手を振った。徒歩の男たちが一斉に私へ向かって駆け出した。その後ろで二人の術師が杖を掲げ、光が集まり始めた。
私は目を閉じなかった。開けたまま、影を見た。
一つだけ。
先頭の男の剣が振り下ろされる軌跡。それだけを見て、あとは決めた。
決めたとおりに動いた。
先頭の男の剣の内側へ。泥を蹴る音が自分の耳に届く前に、もう二人目の懐にいた。斧が振り下ろされるより先に、柄頭で顎を突き上げる。三人目が組みつこうと広げた腕の、外側へ抜ける。抜けざまに剣の腹で膝の裏を払った。
打って、払って、叩いて。
見ない。決めて、動く。動きながら、見る。
背後で男たちの倒れる音が、ばしゃり、ばしゃりと遅れて重なっていった。
術師の杖の先で、光が膨れ上がっていた。
私は術師の目を見た。術師は私を見ていた。私の胸を。
私は左の肩を開けた。
戸を一枚、開けるように。
術師の目が、開けた左の肩へ吸い寄せられた。ここにいる、と。撃つなら、ここだ、と。
杖が光を放った。
光の槍が、私の左の肩のあった場所へ、まっすぐに飛んだ。
私はそこにいなかった。光の槍は誰もいない泥の上に突き刺さって弾け、泥と雪解け水を高く跳ね上げた。冷たい飛沫が、私の背中に降ってきた。
二人目の術師が慌てて杖を振り直した。光が半分しか集まっていない。焦った術師の目が、私の右の足もとへ吸い寄せられた。私がわざとそこへ重心を落として見せたからだ。
光が放たれた。私の右の足もとへ。
私はもう、その術師の目の前にいた。
剣の峰が術師の杖を叩き折った。返す柄が術師の顎を打ち上げた。術師が泥の中に崩れ落ちた。
一人目の術師が杖を構え直そうとしていた。
私は振り返らずに、剣の切っ先をその喉元に向けていた。
術師の手が止まった。杖の先の光が、ふっと消えた。
谷が静まり返った。
徒歩の男たちは泥の中で呻いていた。馬上の男は手綱を握りしめたまま、私を見下ろしていた。顔から血の気が引いていた。
「……帰れ」
私は言った。
「この村に、銀貨三十枚の女はいない」
男は何か言おうとして、口を閉じた。馬の首を返した。泥の中の男たちがよろめきながら立ち上がり、その後を追っていった。杖を折られた術師も、喉元に切っ先を向けられた術師も。
誰も振り返らなかった。
私は剣を鞘に収めた。
息は少しも乱れていなかった。身体のどこにも傷はなかった。
振り返ると、横穴の前にチトセが立っていた。腕を組んで。表情は少しも変わっていない。けれどその白い瞳が、まっすぐに私を見ていた。
チトセの後ろで、鍛冶場の老人と若いドワーフたちが、ぽかんと口を開けていた。
私は泥を踏みしめて、チトセの前まで戻った。
「……どうだ」
チトセは少しだけ首を傾げた。それから、ほんの少しだけ頷いた。
「……一」
それだけ言うと、くるりと背を向けて横穴の中へ入っていった。
私はその背中を見ていた。
横穴の奥から、チトセの声がした。
「……お嬢さん」
「なんだ」
「おなか、すいた」
鍛冶場の老人が腹を抱えて笑い出した。若いドワーフたちもつられて笑い出した。
雪解けの谷に、笑い声が響いていた。
私も少しだけ笑っていた。
この世界に来てから、いつ以来だろう。声を出して笑ったのは。
(第三章 了)




