第二章 白の剣士
最初の雪は、峠の中腹で降り始めた。
灰色の空から粉のような雪が音もなく落ちてきて、根の背の岩肌に積もり、枯れた草の穂先に積もり、私の肩に積もった。
近衛の濃紺の外套は、焼けた村の少年兵の上に置いてきた。今着ているのは、境の町の古着屋で買った茶色い羊毛の外套だ。ガルムが分けてくれた銀貨で買った。袖が少し長く、肩が少し余っている。
それでも寒さは、外套の合わせ目から容赦なく入り込んできた。
峠の先にドワーフの領地があるという。その先に塔の国が。その先に海が。
私は雪の中を歩き続けた。
谷を出てから半月が過ぎていた。
峠の麓の村で、自分の名を聞いた。
村の辻の掲示板に、触れ書きが一枚貼られていたのだ。
魔族を逃がし、傭兵を傷つけた女。黒髪。剣を使う。術は使わない。名はカリン。
生け捕りにて、銀貨三十枚。
私はしばらくその紙の前に立っていた。
魔族の首は、一人につき銀貨三枚だった。私の首は三十枚。十人分だ。
そう思って少しだけ笑いそうになり、笑えなかった。
その隣に、もう一枚貼られていた。
雨に何度も濡れて乾いたのだろう、紙が波打ち、墨が滲んでいる。王子殺しの大罪人、仮面の男。見かけた者は役所へ届け出よ。金貨の数が書かれていたが、そこだけ滲んで読めなかった。
人相書きの代わりに、白い仮面がひとつ描かれていた。目の穴が二つ空いているだけの、のっぺりとした絵だった。
懐の中の、割れた片割れと同じ形だった。
仮面の下の顔を知っているのは、この国で私と侯爵だけだ。日に焼けたような浅黒い肌。笑うと目尻にだけ皺が寄る顔。九十年経っても、高校生のままだった顔。
描いてやろうか、と思った。
炭を一本拾って、この仮面の下に、あいつの顔を描き足してやる。そうすれば誰もが探す。誰もが追う。私ひとりが追わなくても済む。
炭を拾うことは、しなかった。
私は自分の触れ書きだけを剥がして、懐に入れた。仮面の絵のほうには、指一本触れなかった。触れれば、剥がして持っていってしまいそうな気がした。
あいつに繋がるものなら、紙切れ一枚でも懐に溜め込もうとする。その指を、私は外套の袖の中で固く握り込んだ。爪が掌に食い込んだ。谷で仮面の割れた縁を握りしめたのと、同じところだった。
背後で、誰かが立ち止まる気配がした。
振り返ると、籠を抱えた腰の曲がった女が立っていた。籠の中に、焼いたばかりのパンがいくつか並んでいる。
女は私の顔を見て、黒い髪を見て、掲示板を見て、もう一度私の顔を見た。
私は剣の柄に手をかけなかった。
女はしばらく黙っていた。それから籠の中からパンを一つ取り出して、私の手に押しつけた。焼き上がって間もないのか、手のひらがじんわり温まった。
「……峠は、今夜から雪になるよ」
女はそれだけ言った。
代金を払おうとすると、手をひらひらさせて私を追い払った。
故郷の商店街の、メンチカツの親父さんと同じ仕草だった。あいつのアパートへ向かう道で、揚げすぎたと言っては紙包みを押しつけてきた、あの手つきだ。
女は振り返らずに、通りの向こうへ歩いていった。
私はパンを握ったまま、しばらくその背中を見ていた。
パンは、少し塩が強かった。
半分を歩きながら食べ、残りの半分は懐に入れた。割れた仮面と結晶塊と、剥がした触れ書きの隣で、パンだけがしばらく温かかった。
◇
峠の頂の手前で、足音に気づいた。
背後から。一人ではない。五人。いや、六人。
雪を踏む音が少しずつ近づいてくる。私は足を止めずに歩き続け、尾根の道が少し広くなった場所で振り返った。
男たちが雪の中に立っていた。
六人。厚い毛皮を着込み、手に手に剣や斧を握っている。顔に見覚えはなかった。ガルムの団の者ではない。
その後ろに、もう一人いた。
背の高い細身の男だった。灰色の長衣を纏い、手に杖を持っている。長衣の裾から覗く靴は上等な革で、淡い金の髪の間から、尖った耳の先が覗いていた。
エルフだった。
長衣の胸元に、見覚えのある刺繍があった。細い葉の紋様。王都の宮廷術師たちが、揃いの深緑の長衣に縫い付けていたものと同じだった。
けれど、その長衣は灰色だった。
色を抜いたのだ。
「……黒髪。剣一本。術なし」
男たちの一人が懐から紙を取り出し、私と見比べた。
「間違いねえ。銀貨三十枚だ」
「生け捕りだぞ。手足は斬るな」
「分かってるよ」
男たちは雪の中を左右に広がっていった。私を囲むように。
エルフの男だけが動かなかった。杖を握ったまま、私を見ていた。
緑の目だった。森の色が冬の沼に沈んだような、濁った緑だった。
「……近衛の、黒髪」
低い声だった。
「王都の決戦で死んだと、聞いていた」
私は答えなかった。
「私は宮廷の術師団にいた。緩衝地帯で、あの谷の連奏にも加わった」
男の口の端がわずかに歪んだ。
「術師団の半分は、あの戦で死んだ。侯爵閣下の旗の下で、息を揃えて、結晶になって。……私は逃げた。死にたくなかった」
男は杖の先で雪を払った。
「逃げた術師に、行く場所はない。こうして首に値のついた者を追って、食いつないでいる」
男は私を見た。
「お前も逃げたのだろう。王都から。……同じだ」
逃げた。王都から。
九十年前にも、この国を捨てて消えた男がいた。今年の初夏、その男はもう一度この国を捨てていった。私はその背中を追って、同じ方角へ歩いている。
剣の柄が、手袋のない掌に冷たく吸いついた。
私は剣を抜いた。
「同じではない」
男は何も言わず、ただ杖をゆっくりと掲げた。
◇
男たちが一斉に踏み込んできた。
六つの影が見えた。剣と斧が、私の足へ、腕へ、肩へ。生け捕り、手足は斬るな。それでも打ち据えて動けなくするつもりの振りだった。
私は影の隙間を抜けた。
一人目の斧の柄を、剣の腹で横へ流した。二人目の剣には触れずに、半身になって前を通した。勢い余った二人目の背中が三人目にぶつかり、私はもつれた二人の足をまとめて払った。
雪が舞い上がった。
四人目が背後から組みついてこようとしていた。影が先に私の肩へ伸びてくる。私は身を沈めた。腕が頭の上を空振りし、その脇腹に剣の柄を打ち込んだ。毛皮越しに、肋の軋む手応えがあった。
四人目が雪の中に倒れた。
五人目と六人目が足を止め、顔を見合わせていた。
そのとき、エルフの男の杖が光を放った。
光は私に向かってこなかった。空へ昇っていった。
私の頭の上で、光が弾けた。弾けた光は無数の細い線になって降り注ぎ、私の周りの雪に突き刺さって、そこで止まった。
ぐるりと、光の線が私を囲んでいた。
檻のように。
光の線の一本一本から、透けた光が内側へ伸びてくる。前から。後ろから。右から。左から。上から。私の立っている場所へ。
結晶術はこんな事も出来るのか。
隙間がなかった。
あの女の大剣の前に立ったときと同じだった。躱す場所がどこにもない。
力押しの魔族では決して使わない。
それ故に警戒が遅れた。
「生け捕りだ」
檻の外からエルフの男の声がした。
「殺しはしない。……ただ、しばらく動けなくなるだけだ」
光の線が明るさを増していった。
私は剣を構えた。
見えた道が一本もないときに、どうするか。影の次を読む。あの夜、陣の外れで、私はそう思った。
けれど読めなかった。
光の線には身体がない。重心も、肩の力みも、足の指の向きも。読むものが何もなかった。
目の前の一本を剣で払った。刃は線をすり抜けた。水の中で剣を振ったように手応えがなく、線は少しも揺らがずにそこにあった。
光の線が、すべての方向から同時に放たれた。
私は目を閉じなかった。閉じても何も変わらないと分かっていた。
その瞬間、檻の外から白いものが飛び込んできた。
◇
白かった。
雪よりも白かった。
人だった。白い髪。白い肌。飾り気のない、白い着物のような衣。
その人は、光の檻の線を一本斬った。
斬った、としか言いようがなかった。腰から抜き放った細い刃が、白線となって光の線を横一文字に断ち切っていた。断ち切られた線は、そこでふっと消えた。
檻に隙間が空いた。
その隙間から、白い人が私の前に滑り込んできた。私に背を向けて、降り注いでくる光の線のすべてに向き合って。
刃が閃いた。
一度。二度。三度。
数えられなかった。刃の閃きが目に届くより先に、光の線が消えていた。風を切る音は、すべてが終わってから、ひとまとまりになって耳に届いた。
前から来る線も、上から来る線も、右から来る線も。私に届くはずだった光が、一本残らず白い人の刃の前で消えていった。
最後の一本が消えた。
雪が静かに降っていた。光の檻は、どこにもなかった。
白い人が刃を下ろした。
私はその人の背中を見ていた。
細い背中だった。私と同じくらいの背丈。身体の線は細いのに、立ち姿に少しの揺らぎもない。白い髪が首の後ろで束ねられ、雪の中ではほとんど見分けがつかなかった。
その人の手の中の刃を見た。
雪の冷たさが、急に遠のいた。
細身の、片刃の剣だった。刀身にゆるやかな反りがある。鍔は小さな円い鉄の鍔。柄には黒い紐が、菱形の目を作るように巻かれていた。
刀だった。
この世界に来てから、一度も見たことのない形だった。騎士団の剣も、近衛の剣も、殿下から賜ったドワーフの細身の長剣も、どれも両刃のまっすぐな剣だった。
反りのある片刃の剣は、どこにもなかった。
私の家の、道場の、刀掛けの上以外には。
刀掛けの前はいつも丁子油の匂いがした。手入れの日には、その匂いが道場の隅々まで甘く重く垂れこめて、斂は決まってくしゃみを三つした。お前んちの刀は香水つけてんのか、と鼻をこすりながら言うので、祖父に拳骨をもらっていた。
「な……」
エルフの男が、檻のあった場所の外で杖を握りしめていた。顔から血の気が引いている。
「術を、斬った? 結晶術も、晶具も、使わずに……」
白い人は答えずに、エルフの男のほうへ歩き出した。
散歩でもするように。
けれど速かった。雪の上に、足跡がほとんど残らなかった。
エルフの男が杖を振った。光が三つ、四つ。
白い人は足を止めずに刃を振った。光が消えた。
次の瞬間には、もう男の目の前にいた。
刃の峰が杖を叩き、杖が二つに折れた。返す峰が男の首筋を打った。
乾いた音が二つ、尾根の向こうの岩肌に跳ね返って戻ってきたときには、エルフの男は雪の中に崩れ落ちていた。
残っていた二人が、叫び声を上げて逃げ出した。
白い人は追わなかった。倒れた男たちを見下ろし、それから刀を腰の鞘に収めた。
鍔が鞘の口に当たって、ちん、と小さく鳴った。
その音を、私は知っていた。
道場の、朝の音だった。祖父が稽古の終わりに刀を納める音だった。
板張りの床の冷たさが、足の裏によみがえった。あの音が鳴ると、道場の隅で槍の手入れをしていた斂が、腹減ったなと必ず言った。
◇
白い人が振り返った。
顔を見た。
白かった。肌も、睫毛も、瞳も。瞳の白は雪の光を映して、ほんのわずかに青みがかって見えた。
若い女だった。二十歳くらいに見える。整った顔立ちなのに、その顔には何の表情もなかった。
リエルの人形の顔とも違った。リエルの人形の顔は、何かを押し殺した顔だった。この人の顔は、押し殺すものが最初から何もないような顔だった。
白い人は私を見て、首をわずかに傾げた。
「……お嬢さん」
声は低く、静かだった。
「けが、ない」
問いかけなのか、確かめているのか、分からなかった。
私は自分の身体を見下ろした。どこも斬られていなかった。
「……ない」
「そう」
白い人は頷いた。それだけだった。雪が降り続けていた。
私は剣を鞘に収め、白い人の腰の刀を見た。
「その剣」
声が掠れていた。雪の冷気が喉に貼りついていた。
「その、剣は」
白い人は自分の腰の刀を見下ろし、また私を見た。
「……刀?」
「知っている」
私は言った。
「それを、どこで」
白い人は黙っていた。しばらく黙っていた。雪が白い髪に積もっていくのに、払おうともしなかった。
「……もらった」
「誰に」
白い人はまた黙り、それからほんの少しだけ首を横に振った。
「……ひみつ」
それだけだった。表情は少しも変わらなかった。
私は息を吐いた。白い息が雪の中に溶けていった。
さっきの動き。
光の線を斬ったときの足の運び。檻の隙間に滑り込んだときの重心の移し方。エルフの男の杖を峰で叩いたときの腰の切り方。
全部、知っていた。
道場で、祖父の背中を見ながら何千回も繰り返した動きだった。
来島の動きだった。
誘いこそ使っていなかった。相手に隙を見せることも、相手の身体を吸い寄せることもなかった。けれど、その根っこにあるものは同じだった。正面から打ち合わない。受けずに流す。相手の力を相手自身に返す。
女で、子供で、力のない者が生き延びるための剣。祖父が私に叩き込んだ剣。
それを、この白い人が使っていた。
この世界で。私以外の誰かが。
「……名前を」
私は言った。
「名前を、教えてくれ」
白い人は私を見ていた。しばらく何も言わなかった。答えないのかと思った。
「……チトセ」
「チトセ」
私は繰り返した。
耳慣れた響きだった。この世界の人々の名前は、どれも舌の上で転がすような長い響きをしている。エルデリック。ジークハルト。オズヴァルド。フェルミナ。
チトセ。
その短い響きは、この世界のどの名前にも似ていなかった。似ていたのは、私が生まれた国の名前だった。
千歳、と書くのだろうか。千の歳。
この人の顔は二十歳くらいにしか見えない。それなのに、名前の響きのほうがずっと似合っている気がした。
「チトセ、というのか」
「……ん」
白い人は頷いた。
姓は名乗らなかった。私も訊かなかった。訊けば、何かが崩れてしまう気がした。
「私は、カリンだ」
「知ってる」
チトセは言った。
雪の降る音が、一瞬聞こえなくなった。
「……なぜ」
チトセは、雪の中に落ちていた紙を指さした。倒れた男たちの一人の懐から零れ落ちたものだった。
私の首に値をつけた触れ書きだった。名はカリン。生け捕りにて、銀貨三十枚。
私はしばらくその紙を見下ろしていた。それから、肩から少しだけ力が抜けた。
「そうか」
「……ん」
◇
峠の頂の岩陰で、火を焚いた。
倒れた男たちは手足を縛って、岩陰の風の当たらない場所に転がしておいた。エルフの男も。
雪が止むまで、ここで待つしかなかった。
チトセは何も言わずに私の隣に座っていた。背筋をまっすぐに伸ばしたまま、刀を膝の上に横たえて。
私は背嚢の中身を確かめた。麦が一握り。干した豆が少し。峠の麓の村で買った、塩漬けの豚の脂身がひと切れ。
小さな鍋に雪を詰めて火にかけた。
雪が溶けて湯が沸いた。麦と豆を入れた。脂身を刃で薄く削いで落とした。塩は脂身の塩気だけで足りた。
岩陰の枯れ草の中から、細い葉の香りの強い草を摘んできて、最後に刻んで散らした。
湯気が立ち上った。
チトセが鍋の中をじっと見ていた。表情は変わらない。けれど目が鍋から離れなかった。
私は椀に粥をよそって、チトセに差し出した。
チトセは椀を見て、私を見た。
「……いいの」
「助けてもらった」
チトセは両手で椀を受け取った。
ひと口啜って、しばらく動かなかった。もうひと口啜って、また動かなかった。
それから残りを一息に啜り込み、椀を下ろして私を見た。
「……おいしい」
表情は少しも変わっていなかった。けれど椀を持つ指先に、ほんの少しだけ力がこもっていた。
美味いな、と言う男がいた。
何を出しても同じ言葉で、ひと切れ目を口に入れてしばらく黙ってから言う。黙っているあいだ、あいつの喉仏が一度だけ上下するのを、私は台所の柱の陰から毎回見ていた。
チトセの「おいしい」の前の沈黙は、それとよく似た長さだった。
私は黙って、鍋の残りをチトセの椀に注いだ。チトセはそれも全部食べた。
火の粉が雪の夜空に舞い上がっていた。
私はチトセの横顔を見ていた。白い髪。白い肌。白い睫毛。火の光を受けても白いままだった。
チトセの左の手の甲に、細い傷が一筋走っていた。さっきエルフの男の光の一つが掠めたのだろう。血が滲んでいた。
その傷が、目の前で塞がっていった。
ゆっくりと、けれど確かに。焚き火の前で粥を食べているあいだに、傷は細い線になり、それから消えた。
私は自分の手の甲を見た。
この人も、そうなのか。
私の傷も治りが早い。三日で消えたエドガーの槍の傷。リエルが首を傾げた、あばらの骨。
けれど、見ている間に消えるほどではない。
チトセは自分の手の甲をちらりと見て、何事もなかったように火を見つめ直した。
「チトセ」
「……ん」
「なぜ、助けた」
チトセは火を見たまま、しばらく黙っていた。
「……見てた」
「見ていた?」
「ずっと。……谷から」
私はチトセの横顔を見た。
北の谷。灰狼団。下級魔族の子供たちの前に立った、あのとき。
峠道の尾根で振り返ったとき、岩陰に揺れた白い布のようなもの。
あれは、この人だったのか。
「なぜ」
チトセは答えず、少しだけ首を傾げた。
「……ひみつ」
また、その言葉だった。
私はそれ以上訊かなかった。訊いても答えないだろうと思った。
それに、見ていたのが谷からなら、この人はあの子供たちを逃がした私を見て、助けることに決めたのだ。
それで十分な気がした。
「チトセ」
「……ん」
「術を、斬ったな」
「……ん」
「どうやって」
チトセは少し考えるような間を置いた。
「……見える」
「何が」
「線。……どこを、どう振ればいいか」
チトセは膝の上の刀の柄に、指を置いた。
「見えたとおりに、振る。……斬れる。それだけ」
私は黙っていた。
どこをどう振ればいいかが、見える。
私に見えるのは、相手の少し先の姿だ。どう振ればいいかまでは見えない。見えた影から、自分で読むしかない。
王都の城壁の上で、仮面の男が斧槍の一突きでヴァンパイアの術をほどいたのを思い出していた。
あれとも違う気がした。あれは、術のほうがひとりでにほどけていった。穂先が触れた瞬間、糸の結び目を見つけて引いたように、光がばらばらにほどけた。
槍しか振らせてもらえなかった男が、九十年かけて辿り着いた突きだった。
この人の刃は、ただ斬っていた。そこに斬れないものがあるとは、少しも思っていないように。
「チトセは、術を使わないのか」
「……使えない」
チトセはさらりと言った。何でもないことのように。
「わたし、は。……使えない。一つも」
術を使えない。それなのに、宮廷の術師の光の檻を一本残らず斬って消した。術を使わずに、術の中を歩いていた。
私も術は使えない。集める力がまるでないからだ。けれど私にできるのは、術の影を見て避けることだけだ。斬ることはできない。
この人は斬った。
「チトセ」
「……ん」
「その剣を」
言いかけて、言葉を切った。
焚き火の爆ぜる音だけが、しばらく岩陰に響いていた。
私はもう一度口を開いた。
「その剣を、教えてくれないか」
チトセが私のほうを向いた。白い瞳が私を見ていた。
「私は剣を習った。……その剣と、同じ根っこの剣を。祖父に。子供の頃から」
私は自分の手を見下ろした。
「けれど、足りなかった。見えるのに、届かなかった。見えた道が一本もないとき、私は何もできなかった。……さっきも、そうだった」
光の檻の中で。あの女の大剣の前で。
塔の上で、斂の顔を見たときも。
あのとき、私の剣は鞘の中で重かった。抜けば届く距離だった。抜かなかったのか、抜けなかったのか、今でも分からない。
「強くなりたい」
私は言った。
「強くなって、追いつきたい人がいる。……追いついて、訊きたいことがある」
訊きたいことは、ひとつではなかった。なぜリエルだったのか。なぜ殿下だったのか。塔の上で、なぜ、ごめんと言ったのか。あれは誰に向けた言葉だったのか。
九十年のあいだに、一度でも、出雲の雪を思い出したことがあったのか。
チトセは長いこと私の顔を見ていた。表情は変わらない。何を考えているのか、少しも読めなかった。
焚き火がぱちりと爆ぜた。
「……いいけど、術は切れないかも?」
私は顔を上げた。
「いいのか」
「……ん」
チトセは頷き、それから少しだけ首を傾げた。
「どこ、行くの」
「東だ。海の見える街を、探している」
チトセはしばらく黙っていた。それから、また頷いた。
「……同じ」
「同じ?」
「わたしも、東。……帰る、ところ」
チトセはそれ以上何も言わなかった。膝の上の刀を横たえ直し、背筋をまっすぐに伸ばしたまま目を閉じた。
眠ったのかどうかも分からなかった。
私は眠れなかった。
外套にくるまって火の番をしていると、岩陰の外で雪が枝から落ちる音が、ときどきどさりと響いた。
日本でも、雪の夜があった。
出雲の冬は、海から湿った雪を運んでくる。道場の稽古が終わって外へ出ると、門の前の道がもう白くなっていて、斂が手に息を吐きかけながら待っていた。待っていなくていいと言っても、毎回待っていた。
寒い寒いと騒ぐくせに手袋をしない男で、私の手を取ると、そのまま自分の上着のポケットに突っ込んだ。ポケットの中で、あいつの指は私よりずっと冷たかった。それなのに、家の門に着く頃には、二人ぶんの手がちゃんと温まっていた。
あの手が、斧槍を握っていた。
リエルの胸を貫いた穂先の、その柄の端を。
焚き火に枝を一本足した。乾いていない枝で、煙ばかりが立った。目に沁みたのは煙のせいだった。
ポケットの中の温度を、私はまだ指先で覚えている。忘れてしまえれば、打つ手もためらわずに済むのに。
チトセは、背筋を伸ばしたまま動かなかった。白い睫毛の先に、火の粉の照り返しが小さく揺れていた。
◇
翌朝、雪が止んだ。
峠の頂から東を見下ろした。雪に覆われた根の背が幾重にも連なり、その向こうに黒い煙が何本も細く立ち上っていた。
火山の煙だと、チトセが言った。ドワーフの領地の煙だと。
そのもっと向こうで、空と地面の境目が白く霞んでいた。海はまだ見えなかった。
縛っておいた男たちは、夜のうちに縄を解いて逃げていた。
エルフの男だけが岩陰に残っていた。縄は解けているのに、逃げていなかった。折れた杖を膝の上に置いて、雪の中に座り込んでいた。
私たちが近づくと、男は顔を上げた。
「……殺さないのか」
チトセは男を見下ろし、何も言わなかった。
私は男の灰色の長衣の、色を抜いた胸元の刺繍を見た。
「侯爵は生きている」
男の濁った緑の目が見開かれた。
「深手を負ったが、生きている。……術師団も、半分はまだ王都にいるはずだ」
男は何も言わなかった。
私は男に背を向けた。
「帰れる場所があるなら、帰ればいい。……私には、もうない」
チトセが私の隣に並んだ。二人で峠を下り始めた。
背後で、男が何か言ったような気がした。振り返らなかった。
峠道は東へ向かって長く続いていた。
私の少し前をチトセが歩いていた。雪の上に足跡をほとんど残さずに。白い髪が朝の光の中で、雪と同じ色に光っていた。
腰の刀の黒い柄巻きだけが、その白の中でひどく目立っていた。
私はその背中を見ながら歩いた。
刀をもらった、とチトセは言った。誰に、とは言わなかった。
この世界に、刀を知っている者がいる。刀を打てる者がいる。刀をこの白い人に与えた者がいる。
私は懐の割れた仮面に触れた。冷たかった。
道場の刀掛けの前を通るたびに、斂は首をすくめていた。触ったら先生に殺される、と言って。祖父に剣は向いていないと言われてから、あいつは一度も刀に手を伸ばさなかった。
そのはずだった。
考えないことにした。まだ、考えるには早すぎた。
峠の中ほどで、チトセがふと足を止めた。
道の脇の岩肌から細い水が落ちていた。夜の寒さで途中から凍りつき、何本もの透き通った柱になって岩から垂れ下がっている。朝の光が、その氷の柱を内側から光らせていた。
チトセはそれを見ていた。長いこと見ていた。表情は少しも変わらなかった。
「どうした」
私が訊くと、チトセは少しだけ首を傾げた。
「……きれい」
それだけ言って、また歩き出した。
私は氷の柱を振り返った。きれいだった。
この人は、あの光の檻を一本残らず斬り捨てた刃を持っていながら、岩から垂れた氷をあんなに長く見つめるのだ。
しばらく歩いてから、チトセが前を向いたまま言った。
「追いつきたい、人」
「……ああ」
「どんな、人」
私は少し考えた。それから言った。
「へらへらしている。口が悪い。すぐ人をからかう。……真面目な顔をしていても、どこかで笑っている」
チトセは何も言わなかった。
「料理を出すと、美味いな、としか言わない。何を出しても同じだ。……それでも、毎回、全部食べる」
チトセの足が、ほんのわずかに遅くなった。一歩の半分ほど。すぐに元の速さに戻った。
「……そう」
「それから」
言葉が勝手に続いた。
「人を、斬る。……斬らなくてもいい人まで」
峠を吹き下ろす風が、外套の裾を叩いた。乾いた雪が頬に当たり、ちりちりと痛んだ。
チトセは振り返らなかった。今度は足も遅くならなかった。
「……そう」
同じ言葉だった。さっきより、少しだけ低かった。
私はその白い背中を見ていた。何を思ったのか、少しも読めなかった。
チトセが振り返った。
「……お嬢さん」
「なんだ」
「おそい」
私は少しだけ足を速めた。チトセはまた前を向いた。
峠の下に、ドワーフの領地の煙が少しずつ近づいてきていた。
(第二章 了)




