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越境者の足跡  作者: 野良野良猫
三.私の旅路
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23/31

第一章 流浪

 腹が鳴った。

 他人の腹の音を聞くような気分で、私はそれを聞いていた。

 酒場の軒下の石段に腰かけている。秋の雨が軒の縁から細い糸になって落ち、通りの向こうでは荷車の車輪がぬかるみに取られて軋んでいた。

 世界樹の根の東にある、小さな宿場町だった。名前は看板で知った。ハルデン。王都の地図なら東の辺境のさらに端に、針の先ほどの字で載っているような町だ。

 王都を出たのは初夏だった。それが今は、軒から跳ねる雨粒が足首に冷たい。

 斂の足跡を見失った谷から、世界樹の根の縁を伝って東へ歩いた。焼けた村を抜け、焼けていない村を抜け、何もない荒れ野を抜けた。どの村でも、黒い髪で槍を持った男を見なかったかと訊いた。

 誰も見ていなかった。

 仮面の男の噂なら、どこでも聞いた。王子を殺した帝国の刺客。九十年前の勇者の亡霊。噂は村をひとつ越えるたびに形を変え、そのどれもが男の行き先だけは知らなかった。

 ここに着いて三日になる。

 懐には銅貨が二枚しかない。近衛の給金は、王都の兵舎の寝台の下に置いたままになっている。塔の上からそのまま斂を追って、一度も兵舎へ戻らなかったからだ。持っているのは腰の剣と着ている服と、懐の二つの重みだけだった。

 割れた仮面と、結晶塊。

 どちらも食べられない。

 雨の音に飽きると、仮面を取り出して眺める。

 白い、何の飾りもない仮面だ。割れた縁には、谷で握りしめたときの私の血が茶色く乾いてこびりついている。裏返すと、鼻の当たるところの塗りがわずかに擦れていた。

 一度だけ、顔を近づけたことがある。

 汗と鉄と、知らない油の匂いがした。

 アパートの六畳間に染みていた、洗いざらしの綿と安い石鹸の匂いではなかった。九十年ぶん私の知らないところで暮らした男の匂いだった。

 それきり、顔は近づけていない。

 投げ捨てようとしたことも何度かある。そのたびに親指が割れた縁をなぞっていて、気がつくと懐に戻していた。

 酒場の扉が開いて、肉を焼く匂いが流れてきた。

 また腹が鳴った。

 焦げた脂の匂いだ。焼き過ぎだ、と思う。あの火加減では肉の汁がみんな落ちてしまう。塩を振るのも早すぎる。

 そんなことを考えている場合ではなかった。けれど考えずにはいられなかった。考えていないと、別のことを考えてしまう。

 塔の上の、石の床のことを。

 扉から男がひとり出てきた。

 大柄な男だった。四十を少し過ぎたくらいのヒューマンで、熊のような肩をしている。革の胴着の上に使い込んだ剣帯を斜めに掛け、顎の左側に古い刀傷が一本走っていた。

 男は軒下の私を見下ろし、それから私の腰の剣を見た。

「おい、嬢ちゃん。三日前から、ずっとそこに座ってるな」

「座るのに、金は要らない」

「そりゃそうだ」

 男は笑った。笑うと顎の傷が引き攣れた。

「その剣、飾りじゃねえだろう」

「飾りではない」

「使えるのか」

「使える」

 男はしばらく私の顔を見ていたが、やがて顎で酒場の中を示した。

「傭兵の口がある。一人足りねえ。……飯は前払いで食わせてやる」

            ◇

 男はガルムと名乗った。

 灰狼団という傭兵団の頭だという。団といっても、ガルムを入れて八人しかいない。

 酒場の奥の卓に、残りの七人が座っていた。年寄りの弓使い。双子の兄弟の槍使い。無口な大男。痩せた若い結晶術使いの女。それから獣人の少年がひとりと、片目に眼帯をした中年の男。

 誰も歓迎する顔はしていなかった。

「女か」

 双子の片方が鼻を鳴らした。

「しかも剣一本。術は」

「使えない」

 卓の周りが静かになり、それから双子が揃って吹き出した。

「術なしで傭兵かよ」

「頭。いくら人が足りねえからって、こいつは」

「黙れ」

 大きな声ではなかった。けれど双子はぴたりと口を閉じた。

「腕は俺が見る」

 ガルムは卓の上の肉の皿を、私の前に押しやった。

「まず食え。話はそれからだ」

 皿の上の肉は、やはり焼き過ぎていた。

 一切れを口に運んだ。硬くて塩辛くて、噛むたびに顎がだるくなった。

 美味かった。

 三日ぶりの食べ物だった。私は黙って皿の上のものを全部食べた。食べ終える頃には、卓の周りの誰も笑っていなかった。

 眼帯の男だけが、ずっと私の顔を見ていた。顔を上げると目が合い、男は何も言わずに目を逸らした。

           ◇

 翌朝、町外れの空き地でガルムと向き合った。

 団の者たちが周りで見物している。ガルムは剣を抜かず、木の棒を二本持ってきて一本を私に放った。

「来い」

 私は棒を正眼に置いた。ガルムも構えた。

 重心が低い。足の指が地面を掴み、踵がわずかに浮いている。いつでも前に出られる足だ。棒の先が呼吸に合わせて、ほんの小さく上下していた。何年も戦場を渡り歩いてきた者の構えだった。

 間合いは、互いの棒の先が触れるか触れないか。どちらも動かない。空き地の端で誰かが唾を呑む音がした。

 目を閉じて、開けた。

 世界が二重になった。

 透けたガルムが踏み込んでくる。上段から肩口へ。それが途中で軌道を変えて脇腹へ落ちる。

 本物のガルムはまだ動いていない。

 私は棒の先を、指一本ぶんだけ下げた。肩口が空く。戸を一枚、開けておくのだ。

 ガルムが来た。

 肩口へ落ちてくる棒が、途中で脇腹へ折れる。そのときにはもう、私は半歩左にいた。ガルムの棒は私のいない場所を叩き、地面で乾いた音を立てた。

 その音が消える前に、私の棒の先がガルムの喉元で止まっていた。

 空き地が静まり返った。

 ガルムは喉元の棒を見下ろし、それから私の顔を見た。

「……もう一度だ」

 もう一度やった。同じだった。三度目も同じだった。

 四度目でガルムは棒を下ろした。肩で息をしていた。

「術なしで傭兵か」

 ガルムは双子のほうを見た。

「文句のある奴は、こいつとやってみろ」

 誰も何も言わなかった。

 空き地を出るとき、眼帯の男が横に並んだ。

 背の低い痩せた男で、五十は過ぎているだろう。片方だけの目が灰色に濁っていた。

「……まるで陽炎か」

 私は足を止めなかった。

「何のことだ」

「去年の秋まで、西の緩衝地帯にいた。王国の側の雇われ兵でな」

 男は前を見たまま言った。

「近衛に、黒髪の女騎士がいた。どんな術も当たらねえ。揺らめくばかりで。……兵どもは陽炎と呼んでた」

 私は黙っていた。

「王都の決戦で死んだと聞いた」

 男はちらりと私の顔を見て、また前を向いた。

「死んだ奴の話だ。……俺は誰にも言わねえよ」

 それだけ言うと、男は足を速めて先へ行ってしまった。

 私はその小さな背中を見ていた。

 王都では、私は死んだことになっているのか。殿下の仇を追って。

 誰がそう決めたのだろう。フィンはそれを、どんな顔で聞いたのだろう。

 考えないことにした。考えないことには、もう慣れていた。

           ◇

 灰狼団の最初の仕事は隊商の護衛だった。

 ハルデンから東へ、世界樹の根の間を縫う古い街道を抜けて、ドワーフの領地との境の町まで。十日ほどの道のりだという。荷車は六台で、積み荷は麦と塩と布だった。

 戦のあとで、東の辺境には物が足りなかった。物が足りないところには、物を奪う者が出る。

 野盗だけではない、とガルムは言った。

「戦から逃げてきた奴らがいる。王国の脱走兵。貴族の私兵の、はぐれた奴ら。……それから、帝国の軍から置いていかれた下級魔族の残党だ」

 ガルムは街道の先を見ていた。

「一番厄介なのは、腹を空かせた奴らだ。どいつもこいつも、失くすものがねえ」

 街道は根の間を縫うように続いていた。

 根といっても、地面の上に這い出しているのはほんの一部だ。岩盤を押し上げて山のように盛り上がった根の背が、東西にどこまでも連なっている。その谷間を街道が曲がりくねって抜けていく。

 見上げると、根の背の上に世界樹の幹が空を塞いでいた。

 王都から見上げた幹とは角度が違う。王都では幹は真北にあって、頭の上から覆いかぶさってきた。今は北西の空に、その東の肩を見上げている。

 振り返っても、あの都はもう幾重もの根の背に隠れて見えなかった。

 五日目の夕方、谷間で野盗に襲われた。

 十人ほどだった。王国の兵の擦り切れた鎧を着た者が何人かいる。脱走兵なのだろう。

 私は荷車の前に立った。

 影を見て、影の次を読む。三人を斬らずに倒した。剣の腹で打ち、足を払い、手首を叩いた。

 四人目は斬った。荷車の御者の喉に、刃を当てていたからだ。

 野盗たちは逃げていき、倒れた三人はガルムたちが縄で縛った。

 斬った一人は若い男だった。鎧の胸に王家の紋章が縫い付けられていた。焼けた村の外れで外套を掛けてやった少年兵と、同じ紋章だった。

 私と同じ側で戦っていた男だった。同じ旗の下で。正しい戦の、同じ側で。

「気にすんな」

 ガルムが私の肩を叩いた。

「逃げた時点で、もう王国の兵じゃねえ。ただの野盗だ」

 私は答えずに、剣の血を拭った。

 夕陽が谷間を赤く染めていた。拭っても拭っても、布の上に赤が足されていくような色だった。

           ◇

 その夜、野営の焚き火で鍋を借りた。

 隊商の積み荷の麦を少し分けてもらい、昼間に谷間で摘んだ野草と、ガルムが仕留めた山鳥の骨で粥を炊いた。骨は先に焚き火で炙ってから湯に沈めた。そのほうが香りが立つ。

 焚き火の周りの男たちが、黙って椀を差し出した。双子の兄弟も、無口な大男も、年寄りの弓使いも。

 獣人の少年は二杯目を、三杯目を差し出した。頭の上で丸い耳がぴくぴく動いている。モモの耳とよく似ていた。

「……姉ちゃん。どこでこんなの覚えたんだ」

「家で」

「家って、どこ」

 私は少し考えた。

「遠いところだ」

 少年は首を傾げ、また粥を啜った。

 焚き火の向こうで、眼帯の男が椀を持ったまま私を見ていた。私は目を逸らさなかった。男のほうが先に逸らした。

 片付けを終えると、少年が隣に座り込んできた。

 名はティオ。十二だという。東の辺境の村の生まれで、村が野盗に焼かれたあとにガルムに拾われたのだと言った。

「頭は口は悪いけど、飯はちゃんと食わせてくれる」

 ティオは空になった椀を、名残惜しそうに舐めていた。

「姉ちゃんは、なんで傭兵なんかやってんの」

「食べるためだ」

「それだけ?」

「人を探している」

「誰」

「……昔の、知り合いだ」

 知り合い、という言葉が舌の上でざらついた。砂の混じった粥を噛んだときのようだった。

 ティオはふうんと言って、私の顔を覗き込んだ。

「その人、見つかったら、どうすんの」

 答えられなかった。

 何度も考えたことではあった。歩きながら。眠れない夜に。雨の軒下で。

 最初に浮かぶのは、いつも手のほうだった。あいつの胸ぐらを掴む手。頬を打つ手。打った掌が熱を持ち、じんと痺れるところまで思い描ける。リエルのぶん。殿下のぶん。私の外套の裾を黒く固めた、あの血のぶん。

 そこから先が、いつも浮かばない。

 打ったあとの手が、どこへ行くのか。

 中学一年の冬、私は慣れない針で、あいつの制服にボタンを付けた。三度指を刺した。下手くそだな、と笑われた。あの夜の指先のちくりとした痛みのほうが、思い描いた掌の熱よりずっとはっきり残っている。

 問い詰めるのか。斬るのか。

 それとも。

「……分からない」

 ティオは首を傾げ、それからあくびをして、私の肩に頭を預けて眠ってしまった。

 小さな頭が温かかった。丸い耳が寝息に合わせて、ぴくぴくと動いていた。

 焚き火を囲んで、男たちが戦の話をしていた。

 王都の決戦で救済の女神の剣を持った新しい勇者が現れ、水の都の兵を一人で追い払ったのだという。

「フィン、とかいう名前だったな」

 双子の片方が言った。

「南の森の村の出だって話だ。ただの狩人の小僧だったのが、今じゃ勇者様だとよ」

「羨ましいこった」

「羨ましいか? 俺は御免だね。王様の犬になって、死ぬまで戦わされるんだ」

 私は焚き火を見ていた。

 フィン。あの子が勇者と呼ばれている。あの細剣を持って。斂が持ち去った、あの細剣を。

 どうしてあれがフィンの手にあるのか、分からなかった。分からなかったけれど、フィンが生きていることだけは分かった。

 それで十分だった。

 焚き火を枝でつつくと、火の粉が夜空に舞い上がった。その向こうに世界樹の幹が黒くそびえていた。

「それから、仮面の男の話だ」

 双子のもう片方が声を落とした。

「王子様と踊り子を殺した仮面の男。帝国の刺客だったって話もあるし、九十年前に消えた黒髪の勇者の亡霊だって話もある」

「亡霊が王子様を殺すかよ」

「殺したから亡霊なんだろ」

 双子は顔を見合わせて笑った。

 枝がぽきりと折れた。

 握っていたのは私の手だった。焚き火の周りが静かになり、男たちがこちらを見ていた。

「……どうした、嬢ちゃん」

「何でもない」

 折れた枝を火の中に放り込んだ。生木だったのか、しゅうと湿った音がして、青臭い煙が目に沁みた。

「その仮面の男がどこへ消えたのか、知っている者はいるか」

 男たちは顔を見合わせた。答えたのは年寄りの弓使いだった。

「東、だと聞いたな。世界樹の根を越えて、東の海のほうへ。……噂だがな」

 東の海。

 海の見える街にいる。フィンが叙勲の前の晩にそう言っていた。空き地の槍の男がそう言い残して消えた、と。

 どちらも噂でしかなかった。けれど噂でも、私にはそれしかなかった。

           ◇

 八日目の朝、街道沿いの小川で顔を洗った。

 水面に自分の顔が映っていた。首の後ろで束ねた髪をほどいて指で梳く。この世界に来た日と同じ長さだった。

 六年と半年。一度も切っていない。切る必要がなかった。

 斂の顔は、九十年で三年分しか歳を取っていなかった。

 九十年。

 王都の食堂で出てくる、甘酸っぱいたれをかけた揚げ物は、あいつが持ち込んだものだという。槍の一突きで術をほどいた勇者の話なら、王都の子供でも知っていた。九十年のあいだに、あいつはこの世界のあちこちに足跡を残した。

 そのどれひとつとして、私のいる方角を向いてはいなかった。

 帰る道を探したのだろうか。探して、見つからなかったのか。それとも、どこかで探すのをやめたのか。

 やめたのだとしたら、いつ。

 私があのアパートの呼び鈴を百回目に鳴らした頃か。それとも、もっと前か。

 小川の水を両手ですくって、もう一度顔にかけた。指の間から零れた水が顎を伝い、襟の中へ入って、鳩尾のあたりまで冷たい筋を引いた。

 私の顔は、六年でどれだけ歳を取ったのだろう。

 水面の顔は、アパートの扉の前で呼び鈴を鳴らしていた頃と、何も変わっていないように見えた。

 私は水面を手でかき乱した。顔が崩れて、消えた。

 十日目の昼、隊商はドワーフの領地との境の町に着いた。

 ガルムは隊商の主から報酬を受け取ると、酒場の卓の上でそれを九つに分けた。私の前にもひとつ。銅貨ではなく銀貨だった。

 その銀貨の半分で、町の古着屋の軒先に吊るされていた外套を買った。厚手の羊毛で、色は枯れ葉のような茶色をしている。店の親父は奥から濃紺のものを出してきて、こっちのほうが似合うと言った。私は茶色を指さした。

 袖が少し長く、肩が少し余った。それでも羽織ると、焼けた村で外套を脱いで以来はじめて、背中に風が入らなくなった。

 襟を立てると、知らない誰かの汗と、古い羊の脂の匂いがした。

「次の仕事がある」

 ガルムは言った。

「町の役人から頼まれた。……北の谷に、魔族の残党が隠れてるらしい。帝国の軍から置いていかれた連中だ。近くの村の家畜が何頭かやられた」

 ガルムは卓の上に一枚の紙を広げた。役所の触れ書きだった。

 魔族の残党、一人につき銀貨三枚。首を持参のこと。

 双子の片方が口笛を吹いた。

「十人いりゃ、三十枚か」

「数にもよるがな」

 ガルムは紙を畳んだ。

「嬢ちゃんも来い。魔族相手なら術も飛んでくる。……お前の目が要る」

 私は畳まれた紙を見ていた。

 首を持参のこと。銀貨三枚。

 エドガーの館の地下で見た、あの帳面を思い出した。ヒューマン、女、十四歳。赤い髪紐。フェリシア行き。

 人の命に値がついていた。あのとき私は、それを許せないと思った。

 今、目の前の紙の上でも命に値がついている。相手が魔族だというだけで。

「……行く」

 行かなければ分からないと思った。自分が何を見て、何をするのか。

            ◇

 北の谷は、世界樹の根の深い裂け目の底にあった。

 灰狼団の八人と私とで谷へ下りた。

 谷底には岩を積んだだけの粗末な小屋がいくつか並び、煮炊きの煙が細く立ち上っていた。ガルムが手で合図をすると、団の者たちは音を立てずに散っていった。

 私はガルムの隣で、岩陰から小屋を見下ろしていた。

 小屋の前に人影があった。下級魔族の女だった。獣人に近い姿の痩せた女が鍋をかき混ぜていて、その足もとに小さな子供が二人まとわりついている。鍋から立つ湯気は薄く、匂いもほとんど上がってこなかった。水ばかりの鍋なのだろう。

 別の小屋から腰の曲がった老人が出てきた。それから片腕のない若い男が。

 片腕の男は帝国の兵の擦り切れた革鎧を着ていた。兵と呼べるのはその男ひとりで、あとは女と子供と老人だった。十人にも満たない。

「……頭」

 双子の片方が岩陰から小声で言った。

「九人だ。銀貨、二十七枚」

「子供も数に入るのか」

「触れ書きには、魔族一人につき、としか書いてねえ」

 双子のもう片方がにやりと笑った。

「子供の首でも、魔族の首だ」

 私は立ち上がっていた。

 ガルムが腕を掴もうとした。その手を振り払って谷底へ駆け下りた。

 小屋の前の女が私に気づき、悲鳴を上げて子供たちを抱きかかえた。片腕の男が女の前に飛び出した。残った腕に錆びた短剣を握っている。その切っ先が細かく震えていた。

 私は足を止めた。

 男と女と子供たちの前で、彼らに背を向けて。灰狼団の者たちに向き合って。

「どけ、嬢ちゃん」

 ガルムが谷底に下りてきていた。団の者たちも岩陰から姿を現していた。双子が槍を構え、年寄りの弓使いが矢をつがえ、結晶術使いの女の掌に光が集まり始めている。

「どかない」

「こいつらは魔族だぞ」

 双子の片方が叫んだ。

「帝国の魔族だ。王国の村を焼いて、王子様を殺した連中の仲間だ。……正しい戦だったんだろうが! 魔族を根絶やしにしろって、偉い侯爵様も言ってたじゃねえか!」

 王子様を殺した連中。

 違う、と喉まで出かかった。殿下を斬ったのは魔族ではない。人族の男だ。私が誰よりもよく知っている男だ。夕方の台所の前でちゃぶ台にあぐらをかき、揚がるのを待ちきれずに何度も覗きに来た男だ。

 言葉は出てこなかった。口の中に、錆びた匙を舐めたような味だけが残った。

 魔族を根絶やしにせねばならぬ。一匹残らずだ。

 御前会議の間で侯爵がそう言ったとき、私は頷きかけていた。あの地下室を見たから。あれを作った者たちに向ける言葉を、ほかに持っていなかったから。

 その言葉が今ここに届いていた。世界樹の根の深い裂け目の底まで、銀貨三枚の触れ書きになって。

「……正しい戦だった」

 自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。

「私もそう思っていた。今も、たぶんそう思っている」

 私は剣を抜いた。

「それでも、この子たちの首に銀貨三枚の値はつけさせない」

 双子が同時に踏み込んできた。

 二本の穂先が私の胸と腹へ来る。影の、その次まで見えた。右の兄は突いたあと必ず穂先を左へ払う。左の弟は兄の払いに合わせて下から突き上げる。兄弟で何百回も合わせてきた型なのだろう。合いすぎていて、ひとつ外せば両方が止まる。

 私は身を沈めて、兄の穂先の下をくぐった。兄の払いが頭上で空を切り、その風が髪を揺らした。弟の突き上げが来る前に、弟の槍の柄を剣の腹で横から叩いた。柄が弟の手の中で回り、穂先が兄の脛のほうへ泳いだ。兄が慌てて跳びのいた。

 その着地に合わせて、返した剣の腹で兄の手首を打った。

 二本の槍が、ほとんど同じ音で地面に落ちた。

 矢が来た。

 弦の鳴る音より先に、影が私の耳の横を通っていた。首を傾けると、本物の矢がそこを抜けて小屋の壁に突き立った。羽根の震える音が遅れて届いた。背後で子供が泣き叫んでいた。

 結晶術使いの女が光を放った。赤い礫が三つ、四つ。私はその間を歩くように抜けて女の前に立ち、剣の柄で女の掌を打った。集まりかけていた光が散り、女は手を押さえて膝をついた。

 ガルムが剣を抜いて、私の前に立っていた。

「……嬢ちゃん」

 声は静かだった。

「お前がどこの誰だったのかは知らねえ。知りたくもねえ」

 ガルムは剣を構えた。

「だが俺は、こいつらの首で団の奴らに飯を食わせなきゃならねえ。……俺たちにも、失くすものはねえんだよ」

 顎の傷が引き攣れていた。笑ってはいなかった。

 間合いは空き地のときより一歩遠い。ガルムは慎重になっている。木の棒で四度負けた男が、真剣で同じ手を使うかどうか。

 使う、と思った。身体に染みついた癖は、追い詰められたときほど顔を出す。

 私は剣先を下げて肩口を開けた。空き地のときと同じ戸を、同じ幅だけ。

 ガルムの目がそこへ吸い寄せられた。

 来た。肩口と見せて、途中で脇腹へ。

 私は脇腹の前に、剣を斜めに置いていた。受けるのではない。ガルムの刃が私の刃の上を滑り、火花をひとつ散らして、斜めのまま前へ流れていく。重い剣だった。流した手首に、遅れて痺れが来た。

 ガルムの身体が前へ泳いだ。その首筋に剣の峰を落とした。

 ガルムは地面に膝をつき、首を押さえて呻いた。

 谷底が静まり返った。

 立っているのは私と、眼帯の男と、獣人の少年と、無口な大男だけだった。眼帯の男は剣を抜いていなかった。ティオは震えながら大男の陰に隠れ、大男は腕を組んだまま一歩も動いていなかった。

 振り返ると、下級魔族の女が子供たちを抱きしめたまま私を見上げていた。片腕の男は錆びた短剣を握ったまま立ち尽くしていた。

「行け」

 男は動かなかった。言葉が通じていないのかもしれない。

 私は谷の奥を剣先で指した。

「行け。……早く」

 男は私の顔を見て、それから女を見た。女が子供たちを抱え上げ、男が老人の手を引いた。九人の下級魔族が、谷の奥へよろめきながら逃げていった。

 最後に片腕の男だけが一度振り返った。何か言った。帝国の言葉で、私には分からなかった。分からなかったけれど、礼の言葉でないことは分かった。男の目は私を許していなかった。

 私はルンシアの騎士だった。あの男の同胞を何人も斬った。あの片腕を落としたのが私ではなかったとしても。

 それでも男は生きて逃げていった。

 それでよかった。よかったのだと思うことにした。

            ◇

 眼帯の男が横に立っていた。

「……行け、嬢ちゃん」

 男は言った。

「頭が起きたら、お前はこの辺りじゃ生きていけねえ。役人に訴えられる。魔族を逃がした女、ってな。……首に銀貨がつく」

 男は懐から革の小袋を取り出して私に押しつけた。重かった。

「俺の取り分だ。持ってけ」

「受け取れない」

「受け取れ」

 片方だけの灰色の目が私を見ていた。

「緩衝地帯で、あんたに助けられたことがある。……あんたは覚えてねえだろうがな。村を焼きに来たヴァンパイアを、あんたが斬った。俺はあの村の、焼けなかった家の中にいた」

 覚えていなかった。あの秋、私はいくつもの村へ走った。間に合った村にも、間に合わなかった村にも。

「死んだ奴に、借りを返しただけだ」

 男は背を向けた。

「東へ行くなら、根の背を越える峠道がある。ドワーフの領地を抜けりゃ、その先は塔の国だ。……海も見えるだろうよ」

 男は倒れたガルムのほうへ歩いていき、振り返らなかった。

 私は谷を出た。

 ティオが大男の陰から私を見ていたのは分かっていた。あの子の目に、私はどう映ったのだろう。飯を食わせてくれた男たちを打ち倒した女か。魔族の子供を逃がした女か。

 どちらでもよかった。どちらも本当のことだった。

 懐の小袋が、割れた仮面と結晶塊の隣で重かった。

 背後の谷底からガルムの怒鳴り声が聞こえてきた。起きたのだろう。私の名を呼んでいるのかどうかは分からない。私は名乗っていなかった。カリン、とだけ言った。

 それだけの女が、魔族を逃がして消えた。

 それでいい。

 峠道は険しかった。

 日が暮れる頃、根の背の上の細い尾根に出た。振り返ると、谷の向こうに世界樹の幹がそびえていた。夕陽を受けて、幹の片側だけが赤く燃えている。

 その向こうのずっと遠くに王都がある。フィンがいる。リエルと殿下が眠っている。

 日暮れだった。

 あのアパートの廊下から見た空も、こんな色をしていた。熟れた柿の色が家並みの向こうへ沈んでいくあいだ、私は鳴らない扉の前で無音を聞いていた。三年。待つのは楽だと祖父に言った。何もしなくていいから、と。

 今は違う。

 足の裏の豆が潰れ、雨に冷えた指がかじかみ、腹が鳴る。歩かなければ何ひとつ近づかない。あいつが残していった足跡の上を、私の足で一つずつ踏んでいく。九十年ぶん遅れて。

 それが呼び鈴を鳴らすよりましなことなのかどうか、まだ分からなかった。

 私は前を向いた。

 尾根の先は夕闇の中に沈んでいた。その闇のずっと向こうに、海があるはずだった。

 海の見える街。斂はそこにいるのだろうか。

 分からないまま、私は尾根を歩き出した。

 背後で、小石が転がる音がした。

 振り返った。尾根の下の岩陰には何もいなかった。

 夕闇の中に、白いものが一瞬だけ揺れた気がした。風に翻る白い布のような。

 目を凝らした。もう何も見えなかった。影も見えなかった。

 私は剣の柄に手をかけたまま、しばらくその場に立っていた。

 それから、また歩き出した。背中に誰かの視線を感じたまま。


(第一章 了)

 

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