第一章 流浪
腹が鳴った。
他人の腹の音を聞くような気分で、私はそれを聞いていた。
酒場の軒下の石段に腰かけている。秋の雨が軒の縁から細い糸になって落ち、通りの向こうでは荷車の車輪がぬかるみに取られて軋んでいた。
世界樹の根の東にある、小さな宿場町だった。名前は看板で知った。ハルデン。王都の地図なら東の辺境のさらに端に、針の先ほどの字で載っているような町だ。
王都を出たのは初夏だった。それが今は、軒から跳ねる雨粒が足首に冷たい。
斂の足跡を見失った谷から、世界樹の根の縁を伝って東へ歩いた。焼けた村を抜け、焼けていない村を抜け、何もない荒れ野を抜けた。どの村でも、黒い髪で槍を持った男を見なかったかと訊いた。
誰も見ていなかった。
仮面の男の噂なら、どこでも聞いた。王子を殺した帝国の刺客。九十年前の勇者の亡霊。噂は村をひとつ越えるたびに形を変え、そのどれもが男の行き先だけは知らなかった。
ここに着いて三日になる。
懐には銅貨が二枚しかない。近衛の給金は、王都の兵舎の寝台の下に置いたままになっている。塔の上からそのまま斂を追って、一度も兵舎へ戻らなかったからだ。持っているのは腰の剣と着ている服と、懐の二つの重みだけだった。
割れた仮面と、結晶塊。
どちらも食べられない。
雨の音に飽きると、仮面を取り出して眺める。
白い、何の飾りもない仮面だ。割れた縁には、谷で握りしめたときの私の血が茶色く乾いてこびりついている。裏返すと、鼻の当たるところの塗りがわずかに擦れていた。
一度だけ、顔を近づけたことがある。
汗と鉄と、知らない油の匂いがした。
アパートの六畳間に染みていた、洗いざらしの綿と安い石鹸の匂いではなかった。九十年ぶん私の知らないところで暮らした男の匂いだった。
それきり、顔は近づけていない。
投げ捨てようとしたことも何度かある。そのたびに親指が割れた縁をなぞっていて、気がつくと懐に戻していた。
酒場の扉が開いて、肉を焼く匂いが流れてきた。
また腹が鳴った。
焦げた脂の匂いだ。焼き過ぎだ、と思う。あの火加減では肉の汁がみんな落ちてしまう。塩を振るのも早すぎる。
そんなことを考えている場合ではなかった。けれど考えずにはいられなかった。考えていないと、別のことを考えてしまう。
塔の上の、石の床のことを。
扉から男がひとり出てきた。
大柄な男だった。四十を少し過ぎたくらいのヒューマンで、熊のような肩をしている。革の胴着の上に使い込んだ剣帯を斜めに掛け、顎の左側に古い刀傷が一本走っていた。
男は軒下の私を見下ろし、それから私の腰の剣を見た。
「おい、嬢ちゃん。三日前から、ずっとそこに座ってるな」
「座るのに、金は要らない」
「そりゃそうだ」
男は笑った。笑うと顎の傷が引き攣れた。
「その剣、飾りじゃねえだろう」
「飾りではない」
「使えるのか」
「使える」
男はしばらく私の顔を見ていたが、やがて顎で酒場の中を示した。
「傭兵の口がある。一人足りねえ。……飯は前払いで食わせてやる」
◇
男はガルムと名乗った。
灰狼団という傭兵団の頭だという。団といっても、ガルムを入れて八人しかいない。
酒場の奥の卓に、残りの七人が座っていた。年寄りの弓使い。双子の兄弟の槍使い。無口な大男。痩せた若い結晶術使いの女。それから獣人の少年がひとりと、片目に眼帯をした中年の男。
誰も歓迎する顔はしていなかった。
「女か」
双子の片方が鼻を鳴らした。
「しかも剣一本。術は」
「使えない」
卓の周りが静かになり、それから双子が揃って吹き出した。
「術なしで傭兵かよ」
「頭。いくら人が足りねえからって、こいつは」
「黙れ」
大きな声ではなかった。けれど双子はぴたりと口を閉じた。
「腕は俺が見る」
ガルムは卓の上の肉の皿を、私の前に押しやった。
「まず食え。話はそれからだ」
皿の上の肉は、やはり焼き過ぎていた。
一切れを口に運んだ。硬くて塩辛くて、噛むたびに顎がだるくなった。
美味かった。
三日ぶりの食べ物だった。私は黙って皿の上のものを全部食べた。食べ終える頃には、卓の周りの誰も笑っていなかった。
眼帯の男だけが、ずっと私の顔を見ていた。顔を上げると目が合い、男は何も言わずに目を逸らした。
◇
翌朝、町外れの空き地でガルムと向き合った。
団の者たちが周りで見物している。ガルムは剣を抜かず、木の棒を二本持ってきて一本を私に放った。
「来い」
私は棒を正眼に置いた。ガルムも構えた。
重心が低い。足の指が地面を掴み、踵がわずかに浮いている。いつでも前に出られる足だ。棒の先が呼吸に合わせて、ほんの小さく上下していた。何年も戦場を渡り歩いてきた者の構えだった。
間合いは、互いの棒の先が触れるか触れないか。どちらも動かない。空き地の端で誰かが唾を呑む音がした。
目を閉じて、開けた。
世界が二重になった。
透けたガルムが踏み込んでくる。上段から肩口へ。それが途中で軌道を変えて脇腹へ落ちる。
本物のガルムはまだ動いていない。
私は棒の先を、指一本ぶんだけ下げた。肩口が空く。戸を一枚、開けておくのだ。
ガルムが来た。
肩口へ落ちてくる棒が、途中で脇腹へ折れる。そのときにはもう、私は半歩左にいた。ガルムの棒は私のいない場所を叩き、地面で乾いた音を立てた。
その音が消える前に、私の棒の先がガルムの喉元で止まっていた。
空き地が静まり返った。
ガルムは喉元の棒を見下ろし、それから私の顔を見た。
「……もう一度だ」
もう一度やった。同じだった。三度目も同じだった。
四度目でガルムは棒を下ろした。肩で息をしていた。
「術なしで傭兵か」
ガルムは双子のほうを見た。
「文句のある奴は、こいつとやってみろ」
誰も何も言わなかった。
空き地を出るとき、眼帯の男が横に並んだ。
背の低い痩せた男で、五十は過ぎているだろう。片方だけの目が灰色に濁っていた。
「……まるで陽炎か」
私は足を止めなかった。
「何のことだ」
「去年の秋まで、西の緩衝地帯にいた。王国の側の雇われ兵でな」
男は前を見たまま言った。
「近衛に、黒髪の女騎士がいた。どんな術も当たらねえ。揺らめくばかりで。……兵どもは陽炎と呼んでた」
私は黙っていた。
「王都の決戦で死んだと聞いた」
男はちらりと私の顔を見て、また前を向いた。
「死んだ奴の話だ。……俺は誰にも言わねえよ」
それだけ言うと、男は足を速めて先へ行ってしまった。
私はその小さな背中を見ていた。
王都では、私は死んだことになっているのか。殿下の仇を追って。
誰がそう決めたのだろう。フィンはそれを、どんな顔で聞いたのだろう。
考えないことにした。考えないことには、もう慣れていた。
◇
灰狼団の最初の仕事は隊商の護衛だった。
ハルデンから東へ、世界樹の根の間を縫う古い街道を抜けて、ドワーフの領地との境の町まで。十日ほどの道のりだという。荷車は六台で、積み荷は麦と塩と布だった。
戦のあとで、東の辺境には物が足りなかった。物が足りないところには、物を奪う者が出る。
野盗だけではない、とガルムは言った。
「戦から逃げてきた奴らがいる。王国の脱走兵。貴族の私兵の、はぐれた奴ら。……それから、帝国の軍から置いていかれた下級魔族の残党だ」
ガルムは街道の先を見ていた。
「一番厄介なのは、腹を空かせた奴らだ。どいつもこいつも、失くすものがねえ」
街道は根の間を縫うように続いていた。
根といっても、地面の上に這い出しているのはほんの一部だ。岩盤を押し上げて山のように盛り上がった根の背が、東西にどこまでも連なっている。その谷間を街道が曲がりくねって抜けていく。
見上げると、根の背の上に世界樹の幹が空を塞いでいた。
王都から見上げた幹とは角度が違う。王都では幹は真北にあって、頭の上から覆いかぶさってきた。今は北西の空に、その東の肩を見上げている。
振り返っても、あの都はもう幾重もの根の背に隠れて見えなかった。
五日目の夕方、谷間で野盗に襲われた。
十人ほどだった。王国の兵の擦り切れた鎧を着た者が何人かいる。脱走兵なのだろう。
私は荷車の前に立った。
影を見て、影の次を読む。三人を斬らずに倒した。剣の腹で打ち、足を払い、手首を叩いた。
四人目は斬った。荷車の御者の喉に、刃を当てていたからだ。
野盗たちは逃げていき、倒れた三人はガルムたちが縄で縛った。
斬った一人は若い男だった。鎧の胸に王家の紋章が縫い付けられていた。焼けた村の外れで外套を掛けてやった少年兵と、同じ紋章だった。
私と同じ側で戦っていた男だった。同じ旗の下で。正しい戦の、同じ側で。
「気にすんな」
ガルムが私の肩を叩いた。
「逃げた時点で、もう王国の兵じゃねえ。ただの野盗だ」
私は答えずに、剣の血を拭った。
夕陽が谷間を赤く染めていた。拭っても拭っても、布の上に赤が足されていくような色だった。
◇
その夜、野営の焚き火で鍋を借りた。
隊商の積み荷の麦を少し分けてもらい、昼間に谷間で摘んだ野草と、ガルムが仕留めた山鳥の骨で粥を炊いた。骨は先に焚き火で炙ってから湯に沈めた。そのほうが香りが立つ。
焚き火の周りの男たちが、黙って椀を差し出した。双子の兄弟も、無口な大男も、年寄りの弓使いも。
獣人の少年は二杯目を、三杯目を差し出した。頭の上で丸い耳がぴくぴく動いている。モモの耳とよく似ていた。
「……姉ちゃん。どこでこんなの覚えたんだ」
「家で」
「家って、どこ」
私は少し考えた。
「遠いところだ」
少年は首を傾げ、また粥を啜った。
焚き火の向こうで、眼帯の男が椀を持ったまま私を見ていた。私は目を逸らさなかった。男のほうが先に逸らした。
片付けを終えると、少年が隣に座り込んできた。
名はティオ。十二だという。東の辺境の村の生まれで、村が野盗に焼かれたあとにガルムに拾われたのだと言った。
「頭は口は悪いけど、飯はちゃんと食わせてくれる」
ティオは空になった椀を、名残惜しそうに舐めていた。
「姉ちゃんは、なんで傭兵なんかやってんの」
「食べるためだ」
「それだけ?」
「人を探している」
「誰」
「……昔の、知り合いだ」
知り合い、という言葉が舌の上でざらついた。砂の混じった粥を噛んだときのようだった。
ティオはふうんと言って、私の顔を覗き込んだ。
「その人、見つかったら、どうすんの」
答えられなかった。
何度も考えたことではあった。歩きながら。眠れない夜に。雨の軒下で。
最初に浮かぶのは、いつも手のほうだった。あいつの胸ぐらを掴む手。頬を打つ手。打った掌が熱を持ち、じんと痺れるところまで思い描ける。リエルのぶん。殿下のぶん。私の外套の裾を黒く固めた、あの血のぶん。
そこから先が、いつも浮かばない。
打ったあとの手が、どこへ行くのか。
中学一年の冬、私は慣れない針で、あいつの制服にボタンを付けた。三度指を刺した。下手くそだな、と笑われた。あの夜の指先のちくりとした痛みのほうが、思い描いた掌の熱よりずっとはっきり残っている。
問い詰めるのか。斬るのか。
それとも。
「……分からない」
ティオは首を傾げ、それからあくびをして、私の肩に頭を預けて眠ってしまった。
小さな頭が温かかった。丸い耳が寝息に合わせて、ぴくぴくと動いていた。
焚き火を囲んで、男たちが戦の話をしていた。
王都の決戦で救済の女神の剣を持った新しい勇者が現れ、水の都の兵を一人で追い払ったのだという。
「フィン、とかいう名前だったな」
双子の片方が言った。
「南の森の村の出だって話だ。ただの狩人の小僧だったのが、今じゃ勇者様だとよ」
「羨ましいこった」
「羨ましいか? 俺は御免だね。王様の犬になって、死ぬまで戦わされるんだ」
私は焚き火を見ていた。
フィン。あの子が勇者と呼ばれている。あの細剣を持って。斂が持ち去った、あの細剣を。
どうしてあれがフィンの手にあるのか、分からなかった。分からなかったけれど、フィンが生きていることだけは分かった。
それで十分だった。
焚き火を枝でつつくと、火の粉が夜空に舞い上がった。その向こうに世界樹の幹が黒くそびえていた。
「それから、仮面の男の話だ」
双子のもう片方が声を落とした。
「王子様と踊り子を殺した仮面の男。帝国の刺客だったって話もあるし、九十年前に消えた黒髪の勇者の亡霊だって話もある」
「亡霊が王子様を殺すかよ」
「殺したから亡霊なんだろ」
双子は顔を見合わせて笑った。
枝がぽきりと折れた。
握っていたのは私の手だった。焚き火の周りが静かになり、男たちがこちらを見ていた。
「……どうした、嬢ちゃん」
「何でもない」
折れた枝を火の中に放り込んだ。生木だったのか、しゅうと湿った音がして、青臭い煙が目に沁みた。
「その仮面の男がどこへ消えたのか、知っている者はいるか」
男たちは顔を見合わせた。答えたのは年寄りの弓使いだった。
「東、だと聞いたな。世界樹の根を越えて、東の海のほうへ。……噂だがな」
東の海。
海の見える街にいる。フィンが叙勲の前の晩にそう言っていた。空き地の槍の男がそう言い残して消えた、と。
どちらも噂でしかなかった。けれど噂でも、私にはそれしかなかった。
◇
八日目の朝、街道沿いの小川で顔を洗った。
水面に自分の顔が映っていた。首の後ろで束ねた髪をほどいて指で梳く。この世界に来た日と同じ長さだった。
六年と半年。一度も切っていない。切る必要がなかった。
斂の顔は、九十年で三年分しか歳を取っていなかった。
九十年。
王都の食堂で出てくる、甘酸っぱいたれをかけた揚げ物は、あいつが持ち込んだものだという。槍の一突きで術をほどいた勇者の話なら、王都の子供でも知っていた。九十年のあいだに、あいつはこの世界のあちこちに足跡を残した。
そのどれひとつとして、私のいる方角を向いてはいなかった。
帰る道を探したのだろうか。探して、見つからなかったのか。それとも、どこかで探すのをやめたのか。
やめたのだとしたら、いつ。
私があのアパートの呼び鈴を百回目に鳴らした頃か。それとも、もっと前か。
小川の水を両手ですくって、もう一度顔にかけた。指の間から零れた水が顎を伝い、襟の中へ入って、鳩尾のあたりまで冷たい筋を引いた。
私の顔は、六年でどれだけ歳を取ったのだろう。
水面の顔は、アパートの扉の前で呼び鈴を鳴らしていた頃と、何も変わっていないように見えた。
私は水面を手でかき乱した。顔が崩れて、消えた。
十日目の昼、隊商はドワーフの領地との境の町に着いた。
ガルムは隊商の主から報酬を受け取ると、酒場の卓の上でそれを九つに分けた。私の前にもひとつ。銅貨ではなく銀貨だった。
その銀貨の半分で、町の古着屋の軒先に吊るされていた外套を買った。厚手の羊毛で、色は枯れ葉のような茶色をしている。店の親父は奥から濃紺のものを出してきて、こっちのほうが似合うと言った。私は茶色を指さした。
袖が少し長く、肩が少し余った。それでも羽織ると、焼けた村で外套を脱いで以来はじめて、背中に風が入らなくなった。
襟を立てると、知らない誰かの汗と、古い羊の脂の匂いがした。
「次の仕事がある」
ガルムは言った。
「町の役人から頼まれた。……北の谷に、魔族の残党が隠れてるらしい。帝国の軍から置いていかれた連中だ。近くの村の家畜が何頭かやられた」
ガルムは卓の上に一枚の紙を広げた。役所の触れ書きだった。
魔族の残党、一人につき銀貨三枚。首を持参のこと。
双子の片方が口笛を吹いた。
「十人いりゃ、三十枚か」
「数にもよるがな」
ガルムは紙を畳んだ。
「嬢ちゃんも来い。魔族相手なら術も飛んでくる。……お前の目が要る」
私は畳まれた紙を見ていた。
首を持参のこと。銀貨三枚。
エドガーの館の地下で見た、あの帳面を思い出した。ヒューマン、女、十四歳。赤い髪紐。フェリシア行き。
人の命に値がついていた。あのとき私は、それを許せないと思った。
今、目の前の紙の上でも命に値がついている。相手が魔族だというだけで。
「……行く」
行かなければ分からないと思った。自分が何を見て、何をするのか。
◇
北の谷は、世界樹の根の深い裂け目の底にあった。
灰狼団の八人と私とで谷へ下りた。
谷底には岩を積んだだけの粗末な小屋がいくつか並び、煮炊きの煙が細く立ち上っていた。ガルムが手で合図をすると、団の者たちは音を立てずに散っていった。
私はガルムの隣で、岩陰から小屋を見下ろしていた。
小屋の前に人影があった。下級魔族の女だった。獣人に近い姿の痩せた女が鍋をかき混ぜていて、その足もとに小さな子供が二人まとわりついている。鍋から立つ湯気は薄く、匂いもほとんど上がってこなかった。水ばかりの鍋なのだろう。
別の小屋から腰の曲がった老人が出てきた。それから片腕のない若い男が。
片腕の男は帝国の兵の擦り切れた革鎧を着ていた。兵と呼べるのはその男ひとりで、あとは女と子供と老人だった。十人にも満たない。
「……頭」
双子の片方が岩陰から小声で言った。
「九人だ。銀貨、二十七枚」
「子供も数に入るのか」
「触れ書きには、魔族一人につき、としか書いてねえ」
双子のもう片方がにやりと笑った。
「子供の首でも、魔族の首だ」
私は立ち上がっていた。
ガルムが腕を掴もうとした。その手を振り払って谷底へ駆け下りた。
小屋の前の女が私に気づき、悲鳴を上げて子供たちを抱きかかえた。片腕の男が女の前に飛び出した。残った腕に錆びた短剣を握っている。その切っ先が細かく震えていた。
私は足を止めた。
男と女と子供たちの前で、彼らに背を向けて。灰狼団の者たちに向き合って。
「どけ、嬢ちゃん」
ガルムが谷底に下りてきていた。団の者たちも岩陰から姿を現していた。双子が槍を構え、年寄りの弓使いが矢をつがえ、結晶術使いの女の掌に光が集まり始めている。
「どかない」
「こいつらは魔族だぞ」
双子の片方が叫んだ。
「帝国の魔族だ。王国の村を焼いて、王子様を殺した連中の仲間だ。……正しい戦だったんだろうが! 魔族を根絶やしにしろって、偉い侯爵様も言ってたじゃねえか!」
王子様を殺した連中。
違う、と喉まで出かかった。殿下を斬ったのは魔族ではない。人族の男だ。私が誰よりもよく知っている男だ。夕方の台所の前でちゃぶ台にあぐらをかき、揚がるのを待ちきれずに何度も覗きに来た男だ。
言葉は出てこなかった。口の中に、錆びた匙を舐めたような味だけが残った。
魔族を根絶やしにせねばならぬ。一匹残らずだ。
御前会議の間で侯爵がそう言ったとき、私は頷きかけていた。あの地下室を見たから。あれを作った者たちに向ける言葉を、ほかに持っていなかったから。
その言葉が今ここに届いていた。世界樹の根の深い裂け目の底まで、銀貨三枚の触れ書きになって。
「……正しい戦だった」
自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。
「私もそう思っていた。今も、たぶんそう思っている」
私は剣を抜いた。
「それでも、この子たちの首に銀貨三枚の値はつけさせない」
双子が同時に踏み込んできた。
二本の穂先が私の胸と腹へ来る。影の、その次まで見えた。右の兄は突いたあと必ず穂先を左へ払う。左の弟は兄の払いに合わせて下から突き上げる。兄弟で何百回も合わせてきた型なのだろう。合いすぎていて、ひとつ外せば両方が止まる。
私は身を沈めて、兄の穂先の下をくぐった。兄の払いが頭上で空を切り、その風が髪を揺らした。弟の突き上げが来る前に、弟の槍の柄を剣の腹で横から叩いた。柄が弟の手の中で回り、穂先が兄の脛のほうへ泳いだ。兄が慌てて跳びのいた。
その着地に合わせて、返した剣の腹で兄の手首を打った。
二本の槍が、ほとんど同じ音で地面に落ちた。
矢が来た。
弦の鳴る音より先に、影が私の耳の横を通っていた。首を傾けると、本物の矢がそこを抜けて小屋の壁に突き立った。羽根の震える音が遅れて届いた。背後で子供が泣き叫んでいた。
結晶術使いの女が光を放った。赤い礫が三つ、四つ。私はその間を歩くように抜けて女の前に立ち、剣の柄で女の掌を打った。集まりかけていた光が散り、女は手を押さえて膝をついた。
ガルムが剣を抜いて、私の前に立っていた。
「……嬢ちゃん」
声は静かだった。
「お前がどこの誰だったのかは知らねえ。知りたくもねえ」
ガルムは剣を構えた。
「だが俺は、こいつらの首で団の奴らに飯を食わせなきゃならねえ。……俺たちにも、失くすものはねえんだよ」
顎の傷が引き攣れていた。笑ってはいなかった。
間合いは空き地のときより一歩遠い。ガルムは慎重になっている。木の棒で四度負けた男が、真剣で同じ手を使うかどうか。
使う、と思った。身体に染みついた癖は、追い詰められたときほど顔を出す。
私は剣先を下げて肩口を開けた。空き地のときと同じ戸を、同じ幅だけ。
ガルムの目がそこへ吸い寄せられた。
来た。肩口と見せて、途中で脇腹へ。
私は脇腹の前に、剣を斜めに置いていた。受けるのではない。ガルムの刃が私の刃の上を滑り、火花をひとつ散らして、斜めのまま前へ流れていく。重い剣だった。流した手首に、遅れて痺れが来た。
ガルムの身体が前へ泳いだ。その首筋に剣の峰を落とした。
ガルムは地面に膝をつき、首を押さえて呻いた。
谷底が静まり返った。
立っているのは私と、眼帯の男と、獣人の少年と、無口な大男だけだった。眼帯の男は剣を抜いていなかった。ティオは震えながら大男の陰に隠れ、大男は腕を組んだまま一歩も動いていなかった。
振り返ると、下級魔族の女が子供たちを抱きしめたまま私を見上げていた。片腕の男は錆びた短剣を握ったまま立ち尽くしていた。
「行け」
男は動かなかった。言葉が通じていないのかもしれない。
私は谷の奥を剣先で指した。
「行け。……早く」
男は私の顔を見て、それから女を見た。女が子供たちを抱え上げ、男が老人の手を引いた。九人の下級魔族が、谷の奥へよろめきながら逃げていった。
最後に片腕の男だけが一度振り返った。何か言った。帝国の言葉で、私には分からなかった。分からなかったけれど、礼の言葉でないことは分かった。男の目は私を許していなかった。
私はルンシアの騎士だった。あの男の同胞を何人も斬った。あの片腕を落としたのが私ではなかったとしても。
それでも男は生きて逃げていった。
それでよかった。よかったのだと思うことにした。
◇
眼帯の男が横に立っていた。
「……行け、嬢ちゃん」
男は言った。
「頭が起きたら、お前はこの辺りじゃ生きていけねえ。役人に訴えられる。魔族を逃がした女、ってな。……首に銀貨がつく」
男は懐から革の小袋を取り出して私に押しつけた。重かった。
「俺の取り分だ。持ってけ」
「受け取れない」
「受け取れ」
片方だけの灰色の目が私を見ていた。
「緩衝地帯で、あんたに助けられたことがある。……あんたは覚えてねえだろうがな。村を焼きに来たヴァンパイアを、あんたが斬った。俺はあの村の、焼けなかった家の中にいた」
覚えていなかった。あの秋、私はいくつもの村へ走った。間に合った村にも、間に合わなかった村にも。
「死んだ奴に、借りを返しただけだ」
男は背を向けた。
「東へ行くなら、根の背を越える峠道がある。ドワーフの領地を抜けりゃ、その先は塔の国だ。……海も見えるだろうよ」
男は倒れたガルムのほうへ歩いていき、振り返らなかった。
私は谷を出た。
ティオが大男の陰から私を見ていたのは分かっていた。あの子の目に、私はどう映ったのだろう。飯を食わせてくれた男たちを打ち倒した女か。魔族の子供を逃がした女か。
どちらでもよかった。どちらも本当のことだった。
懐の小袋が、割れた仮面と結晶塊の隣で重かった。
背後の谷底からガルムの怒鳴り声が聞こえてきた。起きたのだろう。私の名を呼んでいるのかどうかは分からない。私は名乗っていなかった。カリン、とだけ言った。
それだけの女が、魔族を逃がして消えた。
それでいい。
峠道は険しかった。
日が暮れる頃、根の背の上の細い尾根に出た。振り返ると、谷の向こうに世界樹の幹がそびえていた。夕陽を受けて、幹の片側だけが赤く燃えている。
その向こうのずっと遠くに王都がある。フィンがいる。リエルと殿下が眠っている。
日暮れだった。
あのアパートの廊下から見た空も、こんな色をしていた。熟れた柿の色が家並みの向こうへ沈んでいくあいだ、私は鳴らない扉の前で無音を聞いていた。三年。待つのは楽だと祖父に言った。何もしなくていいから、と。
今は違う。
足の裏の豆が潰れ、雨に冷えた指がかじかみ、腹が鳴る。歩かなければ何ひとつ近づかない。あいつが残していった足跡の上を、私の足で一つずつ踏んでいく。九十年ぶん遅れて。
それが呼び鈴を鳴らすよりましなことなのかどうか、まだ分からなかった。
私は前を向いた。
尾根の先は夕闇の中に沈んでいた。その闇のずっと向こうに、海があるはずだった。
海の見える街。斂はそこにいるのだろうか。
分からないまま、私は尾根を歩き出した。
背後で、小石が転がる音がした。
振り返った。尾根の下の岩陰には何もいなかった。
夕闇の中に、白いものが一瞬だけ揺れた気がした。風に翻る白い布のような。
目を凝らした。もう何も見えなかった。影も見えなかった。
私は剣の柄に手をかけたまま、しばらくその場に立っていた。
それから、また歩き出した。背中に誰かの視線を感じたまま。
(第一章 了)




