第十章 敗戦
斂を追うのは難しかった。
帝国の軍勢の後ろを抜け、焼けた村を三つ過ぎ、世界樹の根が岩盤を押し上げてできた深い谷へ下りたところで谷底を、細い川が流れていた。
斂はあれでよく目立つ。人伝に行方を聞いて回ってここまできたが、人がいない自然の中ではそれも難しい。
しかし足跡を見つけた。
重心のかけ方、脇に突かれた石突きのあと。
彼のそれに整合する。
確証はない。突き動かされるようにそれを追いかけた。
その足跡も川の縁の砂の上に、最後の足跡が一つ。
その先には、何もなかった。
対岸の砂にも。川の中の石にも。
まるで、そこから空へ消えたように。
私は川の縁に膝をついて、その足跡を見下ろしていた。
どれほどの間そうしていたのか、分からない。
谷の上の空が橙色に変わり、紫に変わり、黒くなった。
足跡は少しずつ、川の水に崩されていった。
私はそれを、止められなかった。
あの女の足跡も、途中で見た。
大きな、踏みつけるような足跡だった。私よりも先に、斂の足跡を追っていた。
その足跡は、二日目の昼に踵を返していた。
北西へ。帝国の軍勢のほうへ。
追うのを諦めたのだろう。
あるいは、飽きたのか。
あの女なら、どちらもありそうだった。
私は諦めなかった。
斂の足跡は、迷いのない歩幅で続いていた。踵が浅く、爪先が深い。急いでいるのに、ふらついてはいない。
二日目の朝、露に濡れた草地で、ふと自分の足もとを見た。
私の足跡が、斂の足跡の左に並んでいた。
半歩、遅れて。
道場からの帰り道を、そうして歩いた。斂は車道の側を譲らなかった。私はその左で、半歩遅れて、斂の肩の高さを見上げながら歩いた。追いつこうと思えばいつでも追いつけたのに、その半歩を、私は一度も詰めなかった。
濡れた草の上に、二人ぶんの足跡が並んでいた。片方の主はとうに先へ行っていて、もう片方は私だった。
私は斂の足跡の上に踏み込んだ。踵で、露ごと土をにじった。
次の足跡も。その次も。
十いくつ踏み潰したところで、息が上がっていた。撥ねた泥が長靴の縁まで飛んで、冷たかった。
それでも次の足跡を見つけると、私の足はまた、その左の半歩後ろに戻っていた。
諦めなかったのに、見失った。
◇
谷の岩陰で、夜を明かした。
火は焚かなかった。帝国の軍勢の斥候が、まだ近くを歩いているかもしれなかった。
懐から、割れた仮面の片割れを取り出した。
白い、何の飾りもない仮面。
その隣に、結晶塊があった。
どちらも冷たかった。
私は二つを膝の上に並べて、月の光の下で見下ろしていた。
斂。
声に出さずに、名前を呼んだ。
三年間、アパートの扉の前で、心の中で呼び続けた名前だった。
あの頃は、呼べばいつか返事が返ってくると思っていた。
今は、返事の代わりに、リエルの胸を貫いた斧槍の穂先が浮かんだ。
殿下の胸を裂いた刃が。
侯爵の旗杖を叩き折った一撃が。
それから、仮面の下の顔が。
泣きそうな、子供のような、あの顔が。
ごめん、と斂は言った。
誰に向けた言葉だったのか。
目を閉じると、あのアパートの台所が浮かんだ。
狭い流し台。錆びかけたガスコンロ。油の跳ねた壁。
私はそこで、何度もトンカツを揚げた。
衣の粒を揃えて、肉の筋を切って、二度揚げして。
斂はちゃぶ台の前であぐらをかいて、揚がるのを待っていた。待ちきれずに、何度も台所を覗きに来た。邪魔だと言うと、へらへら笑って、また覗きに来た。
皿に載せて出すと、斂はひと切れ目を口に入れて、しばらく黙った。
それから、美味いな、と言った。
いつも、同じ言葉だった。
それだけで、よかった。
王都の食堂で出てきた、甘酸っぱいたれの揚げ物。
あの味をこの世界に持ち込んだのが、斂だった。
九十年前に。
私のいない台所で。
私の揚げたものを、思い出しながら。
そうだったのかもしれない。
そうでなかったのかもしれない。
私は仮面を強く握りしめた。
割れた縁が、掌に食い込んだ。
血が一筋、仮面の白い面を伝った。
痛みはすぐに消えた。
掌の傷も、朝にはもう塞がっているのだろう。
いつものように。
九十年前の、黒髪の勇者。
三年前に消えた、斂。
その二つが、同じ人間だった。
どうしてなのかは分からない。
けれど、一つだけ分かったことがあった。
伸びない髪。変わらない寸法。三日で消える傷。
並んだ二つの数字。
ひとつずつなら、何でもないことだった。
何でもないことに、していた。
九十年を生きた斂の顔は、三年分しか歳を取っていなかった。
私の身体も、たぶん同じなのだ。
この世界の時間の中で、私たちだけが別の時計で生きている。
フィンの背は伸びた。
私の髪は伸びない。
いつか、フィンは私を追い越していく。
殿下のように。リエルのように。
私の知らない速さで、先へ行ってしまう。
斂は九十年、それを見てきたのだ。
そう思ったとき、初めて涙が出た。
塔の上でも流れなかった涙だった。
誰のための涙なのか、自分でも分からなかった。
◇
四日目の朝、谷を出た。
どこへ向かえばいいのか、分からなかった。
王都へは、戻れなかった。
殿下は、私に何も命じなかった。追えとも、戻れとも。最後の息で呼んだのはリエルの名で、最後に触れたのはリエルの手だった。
持ち場を離れたのは、私だ。古参の騎士の手を振りほどいたのも、袖を掴んだフィンの指を振り払ったのも、門はこっちだと怒鳴る公爵の声に背を向けたのも。誰に背を押されたのでもない。
全部を、自分の手で塔の上に置いてきた。
置いてきたものを、今さら拾いに戻る道はなかった。
それに、まだ何も分かっていなかった。斂がなぜリエルを貫いたのかも。なぜあんな顔で、ごめん、と言ったのかも。
分からないまま、引き返すことはできなかった。
昼過ぎに、焼けた村に出た。
家々は、もう燻ってもいなかった。何日も前に焼かれたのだろう。灰が風に舞っていた。
村の外れの道端に、若い兵が一人倒れていた。
ルンシアの兵だった。革の鎧の胸に、王家の紋章が縫い付けられていた。
もう、息はしていなかった。
目を開けたまま、空を見上げていた。
まだ、少年と言っていい顔だった。
私はその傍らに膝をついた。
目を、閉じてやった。
少し離れた草の中に、兜が転がっていた。仰向けになった椀の内側に、小刀で刻んだ印が見えた。翼を畳んで丸くなった雛鳥。刻み方が拙くて、片方の翼だけがやけに大きかった。
倒れたときに、女神さまが見つけてくださる。
陣で、古参の兵がそう言っていた。
見つけてもらえなかったのか。それとも、見つけてもらって、それでも立てなかったのか。
私は兜を拾って、少年の頭の脇に置いた。雛鳥が空を向くように。
それから、自分の外套を脱いだ。
近衛の、濃紺の外套。叙勲の日に初めて袖を通したもの。背中に、銀の糸で近衛の紋章が刺繍されている。
塔の上で、殿下とリエルと侯爵の血を吸って、裾が黒く固まっていた。
私はそれを、少年の兵の上に掛けた。
顔まで、すっぽりと。
埋めてやる道具も時間も、なかった。
これくらいしか、できなかった。
私には重い外套も彼のためなら少しくらい役に立つだだろう。
外套の下で、少年の身体はひどく小さく見えた。
私は立ち上がった。
外套のない肩に、風が冷たかった。
腰の剣の柄に、近衛の飾り紐が巻かれていた。
組紐の環の上に手を置いて、この身を王家の剣とし盾とすると誓った日から、ずっと巻いてきた紐だった。
その王家の剣が、王子の倒れた塔に背を向けて、門の前の公爵を置き去りにして、ここまで来た。
誓いを捨てて出てきた者が、誓いの紐を巻いて歩くわけにはいかなかった。
ほどいて、外套の上に置いた。
指に、紐の撚りの跡がしばらく残っていた。
その手を開いて、閉じた。代わりに握っていたものは、二つとも塔の上で手から落ちた。それでも手の中は空にならなかった。最初に握っていたものだけが、まだそこに残っていた。
もう、殿下の近衛ではなかった。
殿下は、もういない。
私は、ルンシアの騎士でもなかった。
誰に命じられたのでもなく、持ち場も誓いも捨てて出てきた者だった。
あの男が九十年前に、そうしたように。
そう思って、少しだけ笑いそうになった。
笑えなかった。
日が傾く頃、村の外れの井戸のそばで物音がした。
私は剣の柄に手をかけた。
井戸の陰に、小さな影がうずくまっていた。
子供だった。
痩せた、十にもならない男の子。粗末な布の服。耳の先がわずかに尖っていた。口元から、小さな牙が覗いていた。瞳に色がなかった。
下級魔族の子だった。
帝国の軍勢が引き揚げるときに、置いていかれたのだろう。あるいは、はぐれたのか。
男の子は私を見て、身体を縮めた。
両手で、何かを抱えていた。
焦げたパンの、半分だった。
焼けた村のどこかの竈から拾ったのだろう。
私は剣の柄から手を離した。
男の子は、私の顔と私の手を、交互に見ていた。
震えていた。
緩衝地帯の陣で、水の革袋を抱えて震えていた、あの捕虜の少年と同じ目だった。
情けは要らんぞ、とあのとき、通りがかった騎士は言った。
あれも魔族だ。放っておけば、いずれ牙を剥く、と。
私は、男の子の前にしゃがみ込んだ。
懐を探った。
出てきたのは、割れた仮面と、結晶塊と、乾いた豆が一握りだけだった。
豆を、男の子の前に置いた。
男の子はそれを見て、私を見た。
それから、ひったくるように豆を掴んで、焦げたパンと一緒に胸に抱え込んだ。
私は立ち上がった。
男の子は動かなかった。
私が背を向けて歩き出しても、ずっと井戸の陰から、私の背中を見ていた。
あの地下室を作った者たちと、同じ血を引く子供だった。
リエルを貫いたのは、人族の男だった。
殿下を斬ったのも。
私が世界で一番よく知っているはずの、人族の男だった。
正しい側など、どこにあったのだろう。
私は東へ向かって、まっすぐ歩き出した。
王都には寄らず、世界樹の根に沿って。
斂の足跡が消えた谷の、その先へ。
世界樹の根の、さらに向こうへ。
どこへ行けば会えるのかも、知らないまま。
◇
ルンシアの王城の北の塔の一室に、老いた王が座っていた。
窓の外で、初夏の木漏れ日が揺れていた。
包囲が解けて、ひと月が過ぎていた。
王都の西の焼け跡では、人々が瓦礫を片付け始めていた。大聖堂の前の粥の列は、少しずつ短くなっていた。
それでも、王城の中は静かだった。
静かすぎた。
王子の執務室の扉は、閉ざされたままだった。書類の山は誰にも揃えられることなく、机の上で埃をかぶり始めていた。
王子と踊り子の葬儀は、包囲が解けた七日後の黄昏に行われた。
教会は、踊り子の亡骸を、大聖堂の地下の代々の踊り子が眠る廟に納めると言った。王子の亡骸は、王家の墓所へ。
王はそれを退けた。
「並べて葬れ」
教会の老いた名代が、何か言いかけた。
王はそれを、目だけで黙らせた。
「あれらは、最後に、手を取り合っておった。……引き離すことは、許さぬ」
王子と踊り子は、王家の墓所の片隅に、並べて葬られた。
墓碑は、二つ。
けれど墓碑と墓碑の間は、手を伸ばせば届くほどしか離れていなかった。
葬儀のあとで、教会の者たちが、踊り子の二振りの剣を黒い革の箱に納めて運び去っていった。
次の踊り子に渡すのだという。
王は、それを止めなかった。
止める力は、もう王にはなかった。
扉を叩く音がした。
侍従が、客の来訪を告げた。
帝国からの使者だった。
通されてきたのは、背の高い、黄金の髪のヴァンパイアだった。見た目は三十代の半ば。整った顔立ちに、濃い疲れの色が滲んでいた。仕立てのいい礼装の襟元が、わずかに緩んでいた。
男は王の前で、深く一礼した。
「エテルナ帝国皇帝レヴィン・エテルノスの名代、バルタザールと申します」
王は男を見ていた。
男の目の下の、濃い隈を。
「……遠路、ご苦労」
「恐れ入ります」
バルタザールは、懐から一通の書状を取り出した。
黒い紙に、銀の墨。封蝋には、翼を広げた竜。
宣戦の書状と、同じ紙だった。
「和議の条件を、お持ちしました」
王は、書状を受け取らなかった。
「読め」
バルタザールは少しだけ間を置いた。
それから封を切り、読み上げた。
一つ。帝国とルンシアは、和を結ぶ。
一つ。ルンシアは、フェリシアとの境の緩衝地帯より兵を退き、以後、これを侵さぬ。
一つ。ルンシアは、西の侯爵領シルフェリオを、帝国に割譲する。
バルタザールの声が、そこでわずかに止まった。
それから、続けた。
一つ。割譲されたシルフェリオは、水の都アクアレイスの主、ヴァイス・アクアレイスに預ける。
王の眉が、わずかに動いた。
「……水の都の主に、か」
「はい」
バルタザールは、書状から目を上げなかった。
「陛下のお考えです。あの男は、この戦で、手柄を立てました。手柄には、報いねばなりません」
バルタザールはそこで、ほんの少しだけ口の端を上げた。
「ヴァイス卿は、新しい領地を、たいそうお喜びです。……帝都から遠く、海の向こうの、新しい領地を。これからは、自ら治めに通われるそうで」
王はしばらく、バルタザールの顔を見ていた。
それから、低く笑った。
しわがれた、乾いた笑いだった。
「首輪か」
「何のことでしょう」
「あの若い皇帝は、手柄を立てた犬に、遠い犬小屋を与えたのだな。……犬が、己の首に何が掛けられたのかに気づくのは、いつのことか」
バルタザールは答えなかった。
ただ、もう一度深く頭を下げた。
王は侍従に、筆を持ってこさせた。
黒い紙の上に、署名をした。
手は、震えていなかった。
震えていないことが、王にはひどく不思議に思えた。
九十年前、同じような紙に父王が署名するのを、傍らで見ていた。
あのとき、父王の手は震えていた。
あのときは、国境を一つも譲らなかったのに。
今は、国の半分ほども大切なものを手放そうとしているのに。
手は、震えなかった。
老いたからなのか。
それとも、もう震えるほどのものが残っていないからなのか。
署名を終えた書状を、バルタザールが受け取った。
丁寧に、懐にしまった。
それから、ふと顔を上げた。
「陛下。一つ、お尋ねしても」
「申せ」
「黒髪の、女の騎士がおりましたね。エドガーを討ち、フェルミナ様と何度も刃を交えた」
王の目が、わずかに細くなった。
「……それが、どうした」
「フェルミナ様が、たいそう気にかけておいでで」
バルタザールは、少しだけ困ったような顔をした。
「あの方は、仮面の男を取り逃がして、たいそう機嫌を損ねて帝都へ戻られました。それはもう、宮殿の柱を三本ほど。……その上で、黒髪はどうした、次はいつ遊べる、と。私に、訊いてこいと」
王はしばらく黙っていた。
それから、言った。
「行方知れずだ」
バルタザールの顔から、困ったような表情が消えた。
「……そうですか」
「伝えよ。黒髪の騎士は、もうおらぬ、と」
バルタザールは長いこと、王の顔を見ていた。
それから、静かに一礼した。
「お伝えいたします。……あの方は、きっと、ひどくがっかりなさるでしょう」
バルタザールは踵を返した。
扉の前で、一度だけ足を止めた。
「陛下。私には、娘がおります。戦が始まる前の夏に、七つになりました。……この夏で、十になります」
王は何も言わなかった。
「この戦のあいだ、一度も、誕生日を祝ってやれませんでした。……帰って、祝ってやろうと思います」
バルタザールは振り返らずに言った。
「それだけです。失礼いたしました」
扉が閉まった。
王城の中庭を抜けるとき、バルタザールは一人の若者とすれ違った。
白に近い金の髪。緑の目。腰に、細い剣を吊っていた。
柄に、白い石が嵌め込まれていた。
バルタザールは足を止めずに、横目でそれを見た。
報告書の一行を思い出していた。
水の都の兵を、たった一人で王都から追い落とした人族の若者。救済の女神の剣を持つ、新しい勇者。
ヴァイス卿が頬に傷を負って戻ってきたのは、この若者のせいだという。
若者はバルタザールに気づかずに、王城の奥へ歩いていった。
胸に、濃紺の布を抱えていた。
何かを、ひどく大切そうに。
バルタザールは王城の門を出てから、一度だけ振り返った。
世界樹の枝葉の下に、白い石の王城が、木漏れ日の中に沈んでいた。
「……陛下に、報告することが増えたな」
バルタザールは呟いた。
それから、深く長い溜息をついた。
家に帰りたい、と思った。
◇
その日の夕方、王のもとに一人の騎士が通された。
白に近い金の髪。緑の目。背の高い、細身の若者だった。
腰に、救済の細剣を吊っていた。
王都の人々が、勇者と呼ぶ若者だった。
若者は王の前で膝をついた。
その手に、濃紺の布を抱えていた。
近衛の外套だった。
裾が黒く固まっていた。背中の銀の刺繍が、夕陽を受けて鈍く光っていた。
その上に、近衛の飾り紐が一本、載せられていた。
「……斥候が、見つけてまいりました」
若者の声は静かだった。
静かすぎた。
「王都から、西へ三日ほどの、焼けた村の外れで。……若い兵の亡骸に、掛けられていたそうです」
王は外套を見ていた。
「亡骸は」
「兵の亡骸だけでした。……ほかには、何も」
若者は外套を、膝の上で握りしめた。
「近衛の外套です。この飾り紐も。……近衛で、行方の分からない者は、一人しかいません」
若者の指が、黒く固まった裾をなぞった。
「血が、こんなに」
それは塔の上で、殿下と踊り子と侯爵の流した血だった。
若者は、それを知らなかった。
若者の肩が震えていた。
「あの人は、仮面の男を追って、帝国の軍勢の中へ、一人で入っていきました。……あの村は、帝国の軍勢が引き揚げていった道の、すぐ脇です」
若者は、そこで言葉を切った。
それ以上、何も言わなかった。
言わなくても、分かることだった。
王は長いこと、何も言わなかった。
窓の外で、木漏れ日が揺れていた。
「……クルシマ・カリン」
やがて、王が呟いた。
「黒い髪の、近衛騎士」
若者が顔を上げた。
「あれに、頼んだのだ。エルデリックを、頼む、と」
王は若者を見ていなかった。
窓の外の、世界樹の枝葉を見ていた。
「頼まれたことを、あれは、果たせなかった。……果たせなかったから、国を離れたのかもしれぬ。九十年前の、あの男のように」
「違います」
若者が言った。
声が震えていた。
「カリンさんは、逃げたりしない人です。……逃げたんじゃなくて、追いかけたんです。殿下の、仇を。追いかけて、それで」
若者は、その先を言えなかった。
王は若者を見た。
若者の緑の目から、涙が一筋落ちていた。
落ちたまま、若者はそれを拭わなかった。
「……そうか」
王は言った。
「そうだな。そなたが、そう言うのなら、そうなのだろう」
王は目を閉じた。
「近衛騎士クルシマ・カリンは、殿下の仇を追って、帝国の地にて、戦に斃れた。……そう、記させよう」
若者はしばらく、何も言わなかった。
それから、小さく頷いた。
外套を、胸に抱きしめていた。
まるで、そうすればまだ温もりが残っているとでもいうように。
◇
王城の門の外で、赤茶色の髭の男が若者を待っていた。
左腕を布で吊ったまま、右手で、ドワーフの重装兵たちの隊列に出立の合図を送っていた。
公爵は、若者が胸に抱えた外套を見た。
それから何も訊かずに、若者の肩を右手で一度だけ叩いた。
「……嬢ちゃんに、一振り、打ってやる約束をしとったんだがな」
公爵は、髭の中で呟いた。
「あの女が、盗む気も起きんくらいのを、とな」
若者は何も言わなかった。
公爵は東の空を見上げた。
ヴァルムハイムの火山の煙が、遠く夕空に細く伸びていた。
「坊主。気が向いたら、うちの領にも来い。湯はある。飯も、そこそこある。……嬢ちゃんの川魚ほどじゃないがな」
公爵はそう言って、隊列の先頭に戻っていった。
銀の鎧の列が、地響きのような足音を立てて東の大門へ向かっていった。
若者が退出したあと、王は一人で窓辺に立った。
夕陽が、世界樹の枝葉の向こうに沈みかけていた。
城壁の向こうから、人々の声が聞こえていた。
勇者様。
勇者様。
あの若者が、王城の門を出たのだろう。
あの声は、もう何日も止まない。
侍従の話では、大聖堂の脇の祠の灯明は、包囲のさなかよりもさらに増えたという。灯の前で両手を重ねる者たちは、細剣を抱いた女神の名と、その剣を継いだ若者の名を、並べて口にするのだという。
王城の門に垂らした王家の旗の裾に触れていく者は、日ごとに減っていた。
民は、王の名を呼ばない。
王子の名も、呼ばない。
勇者の名を、呼ぶ。
九十年前も、そうだった。
あのとき、民が呼んだ名の主は、この国を捨てて去った。
そして、九十年経って、戻ってきた。
仮面の下の顔を見たのは、二人だけだという。近衛の娘と、侯爵と。侯爵は、目を覚ますなり王にそれだけを告げた。
王子を、斬るために戻ってきたのか。
それとも九十年前、教会が勇者の傍らに置き、そして勇者自身の手で斬らせることになった、あの踊り子のことを、まだ忘れていないからか。
背後で、扉が開く音がした。
杖をつく音が、それに続いた。
振り返ると、白い髪の老人が立っていた。
真っ白な髪の半分以上が、夕陽を受けて瞬いていた。肩から腹にかけて、厚く包帯が巻かれていた。杖にすがっていなければ、立っていられないようだった。
西の侯爵だった。
「……寝ておれと、言われておろう」
「聞き飽きましたな」
侯爵は杖をついて、王の隣まで歩いてきた。
二人は並んで、窓の外を見た。
「シルフェリオを、渡した」
王が言った。
「聞きました」
侯爵の声は平らだった。
「……水の都の主に、預けるそうですな」
「そうだ」
「わしの宮殿の、あの回廊を、あの男が歩くのですか」
侯爵は低く笑った。
乾いた、ひび割れたような笑いだった。
「海が、見えなくなったと聞いた時から、覚悟はしておりました。……それでも、あの男とは」
侯爵は、それ以上言わなかった。
杖を握る手が、白くなっていた。
しばらく、二人とも黙っていた。
城壁の向こうの、勇者を呼ぶ声が、少しずつ遠ざかっていった。
「侯爵」
「は」
「我らの時代は、終わったのかもしれぬな」
王は言った。
「民は、王家の旗ではなく、勇者の剣を見上げている。貴族どもは、己の領地が燃えれば、兵を引き上げる。王子は死んだ。……余は、老いた」
王は、窓枠に手を置いた。
「九十年前、あの男が国を去ったとき、余は思った。これで、また王家の時代に戻る、と。……戻らなかったのだな。あの男が去っても、勇者の影は、この国から消えなかった」
侯爵は何も言わなかった。
王は窓の外の、世界樹を見上げた。
巨木の枝葉が、夕陽を透かして赤く燃えていた。
木漏れ日の国。
その木漏れ日が、いつか消える日が来るのだろうか。
「……まだ、終わらせませぬ」
侯爵が言った。
王は侯爵を見た。
侯爵は窓の外を見ていた。
西を。
シルフェリオのある方角を。
それから、東を。
世界樹の東の麓の、根と根の間に収まる、壁の街のある方角を。
「わしの都は、取り戻します。この老骨が、石になりきる前に」
侯爵の緑の目に、夕陽が映っていた。
その火は揺れていなかった。
御前会議の間で、魔族を根絶やしにせよと言ったときと、同じ火だった。
王はしばらく、その横顔を見ていた。
それから何も言わずに、窓の外に目を戻した。
夕陽が、世界樹の向こうに沈んでいった。
◇
帝都エテルノスの宮殿の、窓のない執務室で、少年の姿の皇帝が一通の報告書を読んでいた。
バルタザールが、ルンシアから早馬で送ってきたものだった。
読み終えると、少年はそれを机の上に置いた。
執務室の隅の長椅子に、瑠璃色の髪の女が仰向けに寝転がっていた。
肩のあたりで揃えた髪が、長椅子の端から垂れていた。女は天井を睨んだまま、片足を肘掛けに乗せて、ぶらぶらと揺らしていた。
「姉上」
「なんだよ」
「宮殿の柱の修繕に、三月かかるそうです」
「知らねえよ」
女は天井を睨み続けていた。
「あいつが悪い。また逃げやがった。九十年前も、アストルテでも、今度も。……いっつも、いいところで、背中見せやがる」
少年は報告書を、指先で軽く叩いた。
「バルタザールからです。姉上が気にかけておられた、黒髪の騎士のことも」
女の足が止まった。
女は首だけを、少年のほうへ向けた。
「……で」
「行方知れずだそうです。ルンシアでは、戦死と記されるだろう、と」
女はしばらく何も言わなかった。
それから、また天井に目を戻した。
「死んでねえよ」
女は言った。
「あの匂いは、そう簡単に消えねえ。……あいつもそうだった。死んだって噂が流れるたびに、どっかでへらへら笑ってやがった」
女は長椅子の上で寝返りを打った。
少年に背を向けた。
「剣、返しそびれちまったな」
女の左腕の星空の小盾が、灯りの中で静かに瞬いていた。
少年は姉の背中を、しばらく見ていた。
それから、机の上の書類の束を指先で揃えた。
一枚一枚、角を合わせるように。
◇
同じ頃。
世界樹の根の、東の果て。
岩と岩の間の細い道を、一人の女が歩いていた。
黒い髪を、首の後ろで一つに束ねていた。外套を着ていない肩に、夕暮れの風が冷たかった。腰に、両刃の長剣を一振り吊っていた。柄には、何も巻かれていなかった。
懐に、二つの重みがあった。
割れた仮面と、小さな結晶の塊。
道が二つに分かれるところに、膝の高さほどの石の祠があった。二本の槍を立てた男の、顔の削れた像が中に収まっていた。祠の前に、行き交う者たちの置いていった小石が、小さな山になっていた。
女は祠の前を、一度は通り過ぎた。
いくらも行かないうちに足が止まって、戻ってきた。足もとの小石を一つ拾い、山のいちばん上に置いた。それから、東へ延びるほうの道を選んだ。
少し行ってから、女は立ち止まって振り返った。
西の空の、ずっと向こう。
幾重にも連なる根の背に隠れて、もう木漏れ日の都は見えなかった。
女はしばらく、その方角を見ていた。
それから、前に向き直った。
歩き出した。
東へ。
まだ見たことのない、道の先へ。
落葉歴九百八十九年、初夏。
第二次人魔大戦は、ルンシア王国の敗戦をもって終わった。
西の侯爵領シルフェリオは帝国に割譲され、王都は、救済の細剣を手にした新たな勇者によって守られた。
近衛騎士クルシマ・カリンの名は、戦死者の列に記された。
秋の初め、王家の墓所の外れに、戦死した近衛騎士たちの名を刻んだ石碑が建てられた。
その一番下に、新しく刻まれた名が一つあった。
石工はその名の綴りに、ずいぶん苦労したという。この国の言葉にはない響きの名だった。
朝靄の中、一人の若者がその石碑の前に立っていた。
腰に、細い剣を吊っていた。
若者は刻まれた名を、指でなぞった。
それから、石碑の足もとに小さな包みを置いた。
油紙に包んだ、揚げたての何かだった。衣は粗く、形はいびつだった。
「……作ってみたんです」
若者は言った。
「パン粉から。油も、探してきました。……でも、全然、上手くできなくて」
若者の声が途切れた。
「本当は、カリンさんが作ってくれるはずだったのに。……僕が先に作っても、食べてくれる人が、もう、いないのに」
朝靄の向こうから、小さな足音が近づいてきた。
赤い頭巾をかぶった女の子が、野の花を一輪握りしめて立っていた。
女の子は若者を見上げた。
それから黙って、石碑の足もとの包みの隣に、花を置いた。
若者は、女の子の頭にそっと手を置いた。
二人はしばらく、石碑の前に並んで立っていた。
世界樹の枝葉の隙間から、朝の木漏れ日が石碑の上に落ちていた。
その後もしばらくの間、毎朝、同じ若者がその石碑の前に立っていたという。
(第十章 了)
(越境者の足跡 二.割れた仮面 了)




