第九章 救済の勇者
カリンさんのあんな顔を見たのは初めてだった。
いつも凛と澄まして、まるで剣のように美しいカリンさんが激情で顔を歪ませていた。
ただの怨みや悲しみ感情ではないと思う、そこあるのは渇望…?そこまで考えて胸がチクリと痛む。
追いかけようと思った。でもその前に確かめないといけないことがある。
侯爵も殿下もリエルさんも皆この上にいるはずなのだ。
塔の上にたどり着いたとき、僕はしばらく、何が見えているのか分からなかった。
朝の光が石の床を照らしていた。
その光の中に、三人が倒れていた。
殿下と、リエルさんと、侯爵様。
殿下とリエルさんは、並んで仰向けになっていた。殿下の手が石の上を這うように伸びて、リエルさんの手に触れていた。
リエルさんは目を閉じていた。
殿下は、目を開けていた。
首をわずかにリエルさんのほうへ傾けて、その顔を見ていた。朝の光が瞳に差しこんでも、瞬きひとつしなかった。
眠っているようには見えなかった。見ているように見えた。
そう見えただけだった。
石の床に広がった赤いものが、二人の下で一つに繋がっていた。
閉じてさしあげなければ、と思った。
膝をついて手を伸ばした。指が瞼に届く前に、止まった。
リエルさんの目だけが閉じられていた。誰かがリエルさんの目を閉じて、殿下の目はそのままにしていったのだ。
誰がそうしたのか、分かる気がした。
僕は手を引いた。
侯爵様だけが動いていた。
肩から腹にかけて外套が裂けていた。真っ白な髪が石の上に広がって、朝日を受けて細かく光っていた。
胸が上下していた。
生きていた。
侯爵は、生きてる。
階段ですれ違ったとき、カリンさんはそれだけ言った。
殿下は、と僕は訊いた。リエルさんは、と。どこへ行くんですか、と。袖を掴んだ。
カリンさんは答えなかった。僕の手を振り払って、階段を駆け下りていった。指から布が抜けていく感触が、まだ手のひらに残っていた。
答えなくても分かることだったからだ、と思った。
思おうとした。
侯爵は、生きてる。
僕はその言葉を、侯爵様を頼む、という意味だったのだと思うことにした。そう思わなければ、カリンさんがあの一言だけを僕に置いていった理由が、どこにもなかった。
僕は侯爵様の傍らに膝をついた。
傷口に手を当てた。
どうすればいいのか分からなかった。僕の術は、燃やすことと固めることと吹き飛ばすことしかできない。治すことはできない。
治せたのはリエルさんだけだった。
そのリエルさんが、すぐそこで目を閉じていた。
「……騎士よ」
侯爵様の唇が動いた。
緑の目が薄く開いていた。
「侯爵様。喋らないでください。今、術師の方たちが」
「……あの娘は」
「カリンさんは、行きました」
どこへ、とは言えなかった。
僕は見ていない。
見ていないけれど、分かった。塔の上の誰もいない場所に、白いものの欠片が一つ落ちていた。仮面の片割れのような。
侯爵様は目を閉じた。
「……そうか」
それきり侯爵様は何も言わなかった。
階段の下から術師の人たちが駆け上がってきた。神殿騎士の人たちも。
皆が口々に悲しみを口にする。
僕にはそれが出来なかった。
殿下もリエルさんも
村を去ってからの僕の日常を照らす陽だまりのような人たちだった。
彼らのようにただ結末を受け入れることはできない。
◇
その日のうちに、王都の西の三分の一が落ちた。
あの女の人はいなくなっていた。
仮面の男を追って平原の向こうへ消えたのだと、門を守っていたドワーフの人たちが言っていた。
それでも門は破られていた。
あの女の人がいなくなった門から、帝国の兵たちが流れ込んできた。
先頭に立っていたのは、青い波の旗だった。
水の都の兵。
ヴァイス・アクアレイスの兵だった。
あの男は、あの女の人がいなくなるのを待っていたのだと思う。
あの女の人がいる間は、手柄はすべてあの女の人のものになる。いなくなれば全部、自分のものになる。
公爵様のドワーフたちが、西の大通りで踏み止まった。
銀の盾を並べて、斧槍を揃えて。
それでも少しずつ下がっていった。
殿下がいなかった。
誰がどこへ兵を動かすのか、決める人がいなかった。
近衛の古参の人たちが、それぞれに叫んでいた。こっちだ、あっちだ、と。叫び声はばらばらだった。
殿下はそういうとき、いつも黙って書類を揃えていた。揃えて、それから一言だけ言った。その一言で全部が決まった。
その一言が、なかった。
夕方には、西の大通りから大聖堂の手前までが、青い旗で埋まっていた。
王城の門が閉じられた。
陛下は王城の中にいるという。
殿下の亡骸も、リエルさんの亡骸も、王城の中へ運ばれていた。
侯爵様も。
日が傾いた頃、王城の礼拝堂のほうから鐘が聞こえた。
夜明けの鐘とは違う、低くてゆっくりした鐘だった。間を長くとって、一つずつ。
黄昏の弔いの鐘だった。
大通りの瓦礫の陰で、ドワーフの人たちが盾を下ろした。誰も何も言わなかった。
僕は一度だけ王城を振り返った。
尖塔の先が、夕陽の色に沈みかけていた。
村が焼けた日も、こうして黄昏に振り返った。あのときは烏が鳴いていた。今日は烏の代わりに、どこか遠くで屋根の崩れる音がしていた。
振り返ったのは一度だけだった。それ以上は、前を向いていなければならなかった。
夜になって、侯爵様の寝台の傍に座った。
王城の奥の、窓の小さな部屋だった。術師の人たちが代わる代わる治療の術をかけていた。侯爵様の傷は深かった。治療の術は傷を塞ぐことはできても、失った血を戻すことはできない。
侯爵様は目を閉じていた。
真っ白な髪の半分以上が、ランタンの灯りの中で瞬いていた。
僕は自分のうなじに手を当てた。
ちりちりしていた。
今日、僕はほとんど術を撃たなかった。
撃てなかった。
西の大通りで、ヴァンパイアの放った氷の刃がドワーフの人の兜を貫くのを見た。僕は左手を突き出した。蒼い炎を撃とうとした。
息を数えた。
一。二。三。
四つ目の息で、うなじに手を当てた。
ちりちりしていた。
次の一撃は、半分に絞れ。
侯爵様の言葉が、頭の中で鳴った。
半分に絞った炎は、氷の刃を半分しか溶かせなかった。残りの半分が、別のドワーフの人の肩に刺さった。
恐れを、数えよ。
数えられる恐れは、そなたの味方になる。
数えた。
数えたから、撃てなかった。
撃てないまま、下がった。
僕の後ろで、誰かが倒れていく音を聞きながら。
「……騎士よ」
侯爵様の声がした。
目を開けていた。
「起きていらしたんですか」
「そなたの息の音が、うるさくてな」
侯爵様の口の端が、わずかに動いた。
笑ったのだと思う。
「撃てなかったか」
僕は答えられなかった。
侯爵様は天井を見上げていた。
「それでよい」
侯爵様は言った。
「撃てぬ日も、ある。……撃てぬまま、生き延びた。それでよい」
「でも、それじゃ」
「分かっておる」
侯爵様の手が、毛布の上でわずかに動いた。
「それでよいが、それでは足りぬ。……わしが、一番よく知っておる」
侯爵様は目を閉じた。
「騎士よ。そなたの、その首の」
侯爵様の声が少し掠れた。
「……梟を、大事にせよ」
僕は胸元のペンダントに手を当てた。
村長が、最後に僕に握らせたものだ。
侯爵様は、それ以上何も言わなかった。
寝息が聞こえ始めた。
僕はしばらくその寝息を聞いていた。
それから、そっと部屋を出た。
◇
王城の西の城壁の上に、一人で立った。
眼下に、王都の西の街並みが広がっていた。
青い旗の兵たちの篝火が、大通りに沿って点々と灯っていた。ところどころで家が燃えていた。煙が夜空に細く立ち上っていた。
世界樹の枝が、その上に覆いかぶさっていた。
木漏れ日の都。
夜の木漏れ日は、どこにもなかった。
カリンさんは、どこにいるんだろう。
仮面の男を追って、あの女の人と同じ方角へ走っていった。公爵様が見ていたのだという。門はこっちだと怒鳴ったのに、カリンさんは門を通らず、崩れかけた西の城壁の石を蹴って外へ出ていった。一度も振り返らなかった、と。
平原の向こうの、帝国の軍勢のさらに向こうへ。
一人で。
僕の手を振り払って。
約束したのに、と思った。
戦が終わったら、カリンさんの国の料理を作ってくれるって。
いちばん得意なやつを、って。
卵を探してきますって、僕は言った。
出汁も手伝いますって。
夜風が城壁の上を吹き抜けていった。
僕は膝を抱えて、城壁の縁に座り込んだ。
村が焼けたとき、僕は間に合わなかった。
今日も、間に合わなかった。
殿下にも。リエルさんにも。カリンさんにも。
何度、同じことを繰り返せばいいんだろう。
「よう、坊主」
声がした。
背後から。
僕は跳ね起きた。
振り返って、左手を突き出した。
城壁の上の少し離れた暗がりに、男が一人立っていた。
フードを被っていた。
顔はよく見えなかった。
背は、僕より少しだけ低い。細身で、肩の力が抜けている。
抜けすぎている。
その手に、長いものを握っていた。
槍のように見えた。穂先の片側に、斧のような刃が張り出している。暗がりの中で、その刃が鈍い、紫がかった金色に光っていた。
もう片方の手に、細い剣が一振り握られていた。
柄に、白い石が嵌め込まれていた。
殿下の腰にあった剣だった。
「……あなたは」
僕の声が震えていた。
その声を、僕は知っていた。
王都の外れの空き地で。夜ごとに。
僕の術を見て、へらへら笑いながら、どこが綻んでいるか全部言い当てた、あの声。
突く前に肩が下がる癖がある、と言った、あの声。
剣にこだわるな、術は術として撃て、と言った、あの声。
「……空き地の」
「おう。久しぶりだな」
男はフードの奥で、笑ったようだった。
「背、伸びたな。前は、俺と同じくらいだったのに」
僕は答えなかった。
なぜなら彼の獲物はに見覚えがあったから。
左の掌に、光が集まっていた。
集まるのを止められなかった。
「……あなたが」
光が蒼い炎になった。
「あなたが、殿下を。リエルさんを」
炎が揺らいだ。
揺らいだまま、膨れ上がった。
数えていなかった。
一も、二も、三も。
「あなたが!」
炎が放たれた。
まっすぐに、男の胸へ。
男は斧槍を軽く突き出した。
穂先が炎に触れた。
炎が、ほどけた。
蒼い光の粒になって、夜空に散っていった。
男は一歩も動いていなかった。
「……相変わらず、撃つ前に肩が下がるな」
男が言った。
あの空き地で、何度も聞いた言葉だった。
僕の膝から力が抜けた。
城壁の石の上に、膝をついた。
うなじが、ちりちりしていた。
さっきの一撃で。数えずに撃った、あの一撃で。
「恨んでいい」
男が言った。
声から笑いが消えていた。
「恨まれるようなことを、した。……言い訳は、しない」
男は僕の前まで歩いてきた。
それから、しゃがみ込んで、僕と目の高さを合わせた。
フードの奥の顔が、少しだけ見えた。
黒に近い茶色の髪。同じ色の目。日に焼けた肌。
若かった。
僕よりも若く見えた。
空き地で会っていた頃と、少しも変わっていなかった。
「その代わりにってわけじゃないが」
男は、殿下の細剣を僕の前に差し出した。
柄を、僕のほうに向けて。
「こいつは、お前が持て」
僕は細剣を見た。
それから、男の顔を見た。
「……何を、言ってるんですか」
「そのまんまだ」
「殿下の剣です。あなたが、殿下から奪った」
「ああ」
「そんなもの、受け取れるわけ」
「この都を、守りたいんだろ」
男が僕の言葉を遮った。
「レーンベルみたいな村を、もう二度と焼かせたくないんだろ。空き地で、そう言ってたじゃねえか」
僕は口を閉じた。
言った。
確かに、言った。
あの空き地で、術が上手く撃てなくて、悔しくて、泣きそうになりながら。
「なら、撃てよ」
男が言った。
「遠慮なく、撃て。……撃てないのは、それのせいだろ」
男の目が、僕のうなじのあたりを見ていた。
「髪の先。固くなってる。……今日、ずっと、撃つのを渋ってたな。塔の上から、見えてた」
僕はうなじに手を当てた。
男は細剣の柄で、僕の手の甲を軽く叩いた。
「こいつはな、持ち主の身体を、元に戻す」
男は言った。
「斬られても、戻す。焼かれても、戻す。……石になりかけても、戻す」
僕は息を止めた。
「救済の女神ってのは、そういう女神だ。自分を剣にして、持ち主を死なせないようにした。……持ち主が、何度でも立ち上がれるように。会ったことはないが、それくらいしか、愛し方を知らなかったんだろう。神ってやつは、そういう奴らだ」
男の声が、少しだけ低くなった。
「それが救いなのかどうかは、俺には分からんがな」
男は細剣を、僕の手に押しつけた。
「アーティファクトってやつには意思がある。力を貸す相手を選り好みしてるんだ。」
男の手が、細剣から離れた。
僕の手の中に、細剣が残った。
軽かった。
驚くほど軽かった。
「お前になら力を貸すと思うぜ。その資格もあるしな」
男は立ち上がった。
「待ってください」
僕は男の外套の裾を掴んでいた。
「カリンさんは」
男の身体が、ぴたりと止まった。
「カリンさんは、どこですか。あなたを追いかけて、行ったんです。一人で」
男はしばらく何も言わなかった。
フードの奥で、男の顔が見えなくなっていた。
「……あいつは」
男の声が掠れていた。
さっきまでとは、まるで違う声だった。
「あいつは、追ってくるだろうな。……昔から、そういう奴だ」
昔から。
僕はその言葉の意味を、訊こうとした。
男は僕の手を、外套からそっと外した。
カリンさんのときとは違った。振り払われたのではなかった。指を一本ずつ、布からほどかれた。
「坊主」
「……はい」
「俺が言えた義理じゃないが、この都を、頼んだ」
男は城壁の縁に足をかけた。
それから、夜の中へ跳んだ。
黒い外套が翻った。
城壁の下の暗がりに、男の姿が消えた。
足音もしなかった。
◇
僕は城壁の上に、一人で座っていた。
手の中に、細剣があった。
柄に嵌め込まれた白い石が、夜の中で淡く光っていた。
鞘には、淡い藤色の糸で、雛鳥の羽のような模様が織り込まれていた。兵の人たちが兜の内側に刻んでいるのと同じ、翼を畳んで丸くなった形だった。
叙勲の日、玉座の後ろのタペストリーで見た剣だった。細剣にすがってよろめく少女と、その足もとで羽を寄せ合う雛鳥たち。
建国の勇者様と、救済の女神様。
村の子供なら、みんな知っている話だ。
僕は細剣を、鞘から抜いた。
細い刀身が、夜気の中でかすかに鳴った。
その瞬間、手のひらから温かいものが流れ込んできた。
陽だまりのような。
ずっと昔、まだ村が焼ける前、冬の朝に囲炉裏の傍で、誰かに背中をさすってもらったときのような。
温かいものが、手のひらから腕へ。腕から肩へ。肩から、首の後ろへ。
うなじの、ちりちりが消えていった。
僕はうなじに手を当てた。
髪の先が柔らかかった。
固くなっていたはずの、あの髪の先が。
僕は手のひらを見た。
今日、西の大通りで、氷の刃が掠めた傷があった。浅い傷だった。
その傷が、目の前で塞がっていった。
ゆっくりと。
けれど、確かに。
僕はしばらく、自分の手のひらを見つめていた。
それから、左の手を夜空に向けた。
光の粒が集まってきた。
数えなかった。
集まるだけ、集めた。
蒼い炎が掌の上に灯った。膨れ上がった。僕の頭よりも大きく。いつもなら、ここでうなじが焼けるように痛む。
痛まなかった。
ちりちりしかけて、すぐに温かいものがそれを押し流した。
炎を夜空に向けて、放った。
蒼い光が一直線に、世界樹の枝の隙間を貫いて、星の見える空まで昇っていった。
僕はうなじに手を当てた。
柔らかかった。
何も変わっていなかった。
もう、数えなくていい。
そう思った。
恐れを捨てたわけじゃない。侯爵様の言葉を、忘れたわけでもない。
ただ、今は数えている暇がない。
この都には、まだ守らなきゃいけない人たちがいる。
大聖堂の前で粥を待っていた人たちが。赤い頭巾の女の子が。
殿下が、塔の下を守ると約束したリエルさんは、もういない。
殿下も、もういない。
カリンさんも、いない。
だから。
僕は立ち上がった。
◇
夜が明ける前に、王城の門を出た。
公爵様が、門の内側でドワーフの人たちと一緒に座り込んでいた。
右腕一本で、斧槍を抱えていた。左腕の布は、血で黒く染まっていた。
「……坊主」
公爵様が僕を見上げた。
それから、僕の腰に吊られた細剣を見た。
公爵様の目が見開かれた。
「その剣は」
「預かりました」
僕は言った。
「西の大通りへ行きます。……公爵様の銀を、少し、貸してください」
公爵様は長いこと、僕の顔を見ていた。
それから、髭の中で何か呟いた。
聞き取れなかった。
公爵様は立ち上がった。
「全員、立て! 坊主の後ろにつけ! ヴァルムハイムの銀は、まだ溶けとらんぞ!」
座り込んでいたドワーフの人たちが、一人、また一人と立ち上がった。
西の大通りに、青い旗が並んでいた。
夜明けの薄明かりの中で、ヴァンパイアたちが僕たちに気づいた。
何人かが笑った。
ドワーフの一団と、その先頭に立つ人族の若造一人。
そう見えたのだろう。
術が飛んできた。
氷の刃が、十、二十。
僕は左手を地面に向けた。
石畳が盛り上がった。
大通りの幅いっぱいに、岩の壁が迫り出した。
氷の刃が壁に突き刺さって、止まった。
一本残らず。
ヴァンパイアたちの笑いが止まった。
僕は左手を、壁の向こうへ振り抜いた。
風が固まった。
固まった風が、岩の壁を粉々に砕きながら大通りを奔った。
前列のヴァンパイアたちが、踏ん張りきれずに後ろへ吹き飛んだ。旗が倒れた。
うなじが、ちりちりした。
すぐに、温かいものがそれを押し流した。
僕はもう一度、左手を突き出した。
蒼い炎を固めた。
固めて、固めて、細く、細く、針のように。
それを放った。
蒼い光の線が、大通りをまっすぐに貫いた。
光の線の通ったあとに、ヴァンパイアの結晶の壁が三枚、四枚と穴を穿たれて崩れていった。その後ろにいた兵たちが倒れていった。
大通りが静まり返った。
背後で、ドワーフの人たちが息を呑む音がした。
僕はうなじに手を当てた。
柔らかかった。
左手を、もう一度構えた。
掌の上に、白い光がぱちぱちと弾け始めた。
雷だった。
侯爵様が最後に教えてくれた術だった。撃てば身体の奥まで焼けるように痛むから、滅多に撃つな、と。
今は、痛まなかった。
雷を放った。
白い光が大通りを這うように広がり、青い旗の兵たちの足もとを走った。
兵たちが一斉に身体を硬直させた。
手から武器が落ちた。膝が崩れた。
「今です!」
僕は叫んだ。
背後から、公爵様の野太い声が響き渡った。
「押せぇぇ!」
銀の鎧のドワーフたちが、僕の横を駆け抜けていった。
◇
昼を過ぎた頃、大聖堂の前の広場で、その男と向き合った。
背の高い、痩せた男だった。黄金の髪を背中の半ばまで伸ばしている。深い青の外套。襟元の、銀の波の紋章。
城壁の下で、カリンさんを見上げていた男だ。
ヴァイス・アクアレイス。
男の周りには、もう手勢はほとんど残っていなかった。
男は僕を見ていた。
城壁の上を見上げていたときと、同じ目で。
僕を見下ろしていた。
「……人族の、小僧が」
男の声は柔らかかった。
柔らかいまま、ひどく冷たかった。
「一晩で、これほどのことを」
男の手に、水が湧いた。
水が宙で渦を巻き、凍りつき、無数の氷の槍になった。
さっきまでのヴァンパイアたちの術とは、比べものにならなかった。
広場いっぱいに、氷の槍が浮かんでいた。
百。二百。
数えきれなかった。
その一本一本が、僕に向いていた。
「散れ」
男が指を鳴らした。
氷の槍が一斉に、僕へ降り注いだ。
初撃が肩に刺さる。
痛い。でもそれだけだった。
氷の槍が地面に落ちるとたちどころに傷が癒える。
痛いのはいやだからなるべく避け、剣で払う。
でもその必要も本当はなかった。
氷の槍が尽きた。
僕は左手を突き出した。
蒼い炎。固めて、細く。白い閃光となったそれを男に向け手放つ。
男が氷の壁を立てたが閃光は何の抵抗もなく、氷の壁を貫いた。
男の頬を掠め、黄金の髪が一房焼け落ちて、石畳の上に散った。
男は動かなかった。
自分の頬に、指で触れた。
指先に、赤いものがついていた。
男はそれを、長いこと見つめていた。
それから、僕の手の中の細剣に目を移した。
「……なるほど」
男が呟いた。
「サルヴィナの剣か。……これではあの忌々しい瑠璃色の悪魔どもと同じ⋯⋯いやそれよりたちが悪いではないか」
男は、焼け落ちた自分の髪を見下ろした。
それから、優雅に踵を返した。
「今日のところは、引いてやろう。」
男は振り返らずに言った。
「小僧。名は」
僕は少しだけ迷った。
それから、答えた。
「フィン・レーンベル」
「覚えておこう」
男は広場の向こうへ歩き去っていった。
残っていた青い旗の兵たちが、それに続いた。
◇
夕方には、青い旗は王都から一本残らず消えていた。
西の大門の外の帝国の陣も、夜のうちに平原の向こうへ退いていった。あの女の人のいない帝国の軍勢は、もうばらばらだった。
王都の人たちが、通りに出てきていた。
家の中から。地下の酒蔵から。大聖堂の奥から。
西の大通りで、誰かが僕を指さした。
「あの人だ」
別の誰かが言った。
「あの人が、一人で、水の都の兵を」
声が広がっていった。
通りの両側から、人々が僕を見ていた。
誰かが叫んだ。
「勇者様だ!」
その声に、誰かが続いた。
勇者様。
勇者様。
救済の女神の剣を持った、新しい勇者様。
その声が、大通りを埋め尽くしていった。
人垣の前のほうで、年寄りの女の人が、胸の前で両手を重ねていた。雛鳥を包む形だった。その手は僕の顔ではなく、僕の腰の剣のほうを向いていた。
一人がそうすると、隣の人も同じ形に手を重ねた。その隣も。
僕はその真ん中に立っていた。
何を言えばいいのか、分からなかった。
人混みの中に、赤い頭巾が見えた。
小さな女の子が、母親らしい人の手を握って、僕を見上げていた。
カリンさんが、粥を足してあげていた子だった。
女の子は何も言わなかった。
ただ、僕を見上げていた。
僕はその子に、小さく手を振った。
女の子は少しだけ迷って、手を振り返した。
王城の門をくぐると、中庭に陛下が立っていた。
侍従たちに支えられることもなく、一人で。
陛下の背後の、礼拝堂の扉が開いていた。その奥に、白い布をかけられた台が二つ、並んでいるのが見えた。
殿下と、リエルさんだった。
僕はその場に膝をついた。
陛下はしばらく何も言わなかった。
城壁の向こうから、まだ人々の声が聞こえていた。
勇者様。
勇者様。
陛下は、その声のほうを見ていた。
「……聞こえるか、騎士よ」
陛下が言った。
しわがれた、けれどよく通る声だった。
「民は、王の名を呼ばぬ。王子の名も、呼ばぬ。……勇者の名を呼ぶ」
陛下の声には、何の色もなかった。
「九十年前も、そうだった」
陛下は、僕の腰の細剣に目を落とした。
長いこと見ていた。
それから、礼拝堂のほうへ振り返った。
「エルデリックは、その剣を、ただの剣だと言っておった。……そなたの手にあって、ようやく、あれも、伝承のとおりの剣に戻ったか」
陛下は、礼拝堂の中へゆっくりと歩いていった。
扉が閉まった。
僕は膝をついたまま、閉じた扉を見ていた。
扉の向こうからは、何の音も聞こえなかった。
王城の奥へ戻ると、侯爵様が窓辺の椅子に座っていた。
術師の人たちが止めるのも聞かずに、自分で寝台から這い出したのだという。
侯爵様は窓の外を見ていた。
夕陽に染まった、西の大通りを。
僕が部屋に入ると、侯爵様はゆっくりと振り返った。
僕の顔を見た。
それから、僕の腰の細剣を見た。
侯爵様は長いこと、それを見ていた。
「……そうか」
侯爵様は言った。
何が、そうか、なのか。
訊こうとして、やめた。
侯爵様の顔が、今まで見たどの顔とも違っていたからだ。
御前会議の間で、陛下の目を真正面から受け止めていた顔とも。
谷で、あの女の人に連奏を撃ち込んだ顔とも。
焚き火の前で、僕に息の数え方を教えていた顔とも。
もっと、ずっと柔らかい顔だった。
「騎士よ」
「はい」
「数えなくなったな」
僕はうなじに手を当てた。
柔らかかった。
「……はい」
侯爵様は小さく頷いた。
「それでよい。今は、それでよい」
侯爵様は、窓の外に目を戻した。
「だが、その剣を手放す日が来たら、また数えよ。……数え方を、忘れるな」
「はい」
侯爵様は、それ以上何も言わなかった。
夕陽が、侯爵様の真っ白な髪を茜色に染めていた。
半分以上が石になった髪を。
◇
その夜、僕はまた西の城壁の上に立った。
眼下の西の街並みに、もう青い旗の篝火はなかった。代わりに、王都の人たちが灯した小さな灯りが、焼け跡のあちこちで揺れていた。
いちばん明るいのは大聖堂のあたりだった。正面の大扉の前ではなく、その脇の小さな祠のまわりが、夜の底に溜まった蜜のように光っていた。
西の平原の、さらに向こう。
暗い夜の底に、帝国の軍勢の篝火が小さく瞬いていた。
その、もっと向こう。
カリンさんは今、どこにいるんだろう。
仮面の男を追って。
あの人を追って。
昔から、そういう奴だ、とあの人は言った。
あの人は、カリンさんを知っていた。
昔から。
どうして。
分からなかった。
分からないことばかりだった。
僕は腰の細剣の柄に、手を置いた。
温かかった。
鞘の雛鳥を、指でなぞった。
兜の内に雛鳥を刻んでおけば、倒れたときに女神様が見つけてくださる。陣で、兵の人たちはそう言っていた。
カリンさんが兜に雛鳥を刻んでいるところを、僕は一度も見たことがない。たぶん、刻もうと思ったこともなかったと思う。女神様に見つけてもらう印を、何ひとつ持たずに行ってしまった。
「サルヴィナ様」
声に出していた。
祈りの言葉なんて、村の子供が覚える短いのしか知らない。それも、ちゃんと最後まで言えた覚えがない。
「カリンさんを、見つけてください。……僕じゃ、まだ、見つけられないので」
夜風が、外套の裾を揺らしていっただけだった。
「カリンさん」
今度は、あの人の名前を呼んだ。
夜風が、その声を西の平原へ運んでいった。
「僕、勇者って、呼ばれちゃいました」
誰も答えなかった。
「似合わないですよね。……カリンさんなら、真顔で、似合っていると言うんでしょうけど」
笑おうとした。
うまく笑えなかった。
「早く、帰ってきてください。ごはん、作ってくれるって、約束したじゃないですか」
夜風が、城壁の上を吹き抜けていった。
世界樹の枝葉が、頭の上でざわざわと鳴っていた。
僕は、西の平原を見つめ続けた。
篝火の一つ一つを。
その中の、どれか一つの傍に、カリンさんがいるかもしれないと思って。
夜が白み始めるまで。
(第九章 了)




