第八章 割れた仮面
フィンが兵舎へ下りていったあとも、私は城壁に残った。
夕方に大聖堂の前庭で炊いた粥の、薄い塩の味が、まだ舌の奥に残っていた。麦が椀に三粒浮いているかどうかの粥だった。列に並んだ人たちは、それを一滴も残さずに啜っていった。
いちばん得意なやつ、とフィンは言った。
いちばん得意なものを訊かれたら、出汁巻きと答える。それなら、いちばん不味かったものは何だろう。
考えるまでもなく思い出すのはいつかのアパートで初めて鍋を握ったあの日だった。
◇
呼び鈴を鳴らすと、扉の向こうで寝ぼけた声がした。
「……開いてるぞ」
中学二年の、二月だった。
その日、斂は稽古を休んだ。風邪だ、と祖父は言った。それきり誰も何も言わなかった。道場の誰にとっても、斂が一人で寝込んでいることは、気に留めるほどのことではないらしかった。
私は学校の帰りに、スーパーの袋を提げてアパートの鉄の階段を上った。袋の中には米と、卵と、葱が入っていた。お得意の見様見真似でかき集めた食材だった。
扉を開けると、六畳間の真ん中に布団が敷いてあって、その上で斂が丸くなっていた。
猫みたいでいいなと内心思ったのは秘密だ。
「……なんで、お前が来んだよ」
「祖父が、風邪だと言った」
「だから、なんで来んだよ」
答えられなかったので、台所に立った。
粥というものは、米を水で煮れば出来るのだと思っていた。
家ではいつも台所の者が作っていた。私は膳に載って出てくるものを食べるだけで、それが鍋の中からどうやって生まれるのかを、見たことがなかった。
米を研がずに鍋に入れ、水の量はとりあえず沢山入れた。火にかけると吹きこぼれたので慌てて弱めたら、今度は底が焦げついた。塩はどれくらい入れるものか見当がつかなかった。少ないよりは多いほうが、体に効く気がした。
葱を刻むのは唯一うまくいった。
仕上げ用の卵は割るのに失敗した。殻が少し入った。
椀に盛ったそれは、粥というより、焦げの匂いのする白い泥だった。
自分で一口食べて、私は黙った。
ひどい出来だった。塩辛くて家の膳なら手を付けないだろう。
捨てようかと思った。
「……いい匂いする」
布団の中から、斂の声がした。
焦げの匂いしかしないはずだった。
斂は布団の上に起き上がって、椀を受け取った。額に載せた濡れ手拭いがずり落ちるのも構わずに、匙を口に運んだ。
一口目で、手が止まった。
私は斂の顔を見ないようにしていた。見たら、私のほうが先に何か言ってしまいそうだった。
斂は二口目を食べた。三口目を食べた。殻を一つ、黙って指でつまみ出して、また食べた。
「無理に食べなくていい」
「無理じゃねえよ」
「不味いだろう」
「不味い」
斂はあっさり言った。それから、また一口食べた。
「でも、あったけえ」
椀の底を匙が擦る音がした。斂は最後の一粒まで食べた。鍋肌から剥がした焦げのところまで。
それから椀を膝に置いて、壁のほうを向いた。
「……一人で寝込むの、慣れてんだよ」
熱のせいか、声がいつもより低かった。へらりとした響きが、どこにもなかった。
「ガキの頃から、ずっと。……誰か来たの、初めてだ」
壁を向いた横顔が赤かった。熱のせいだけではない赤さだった気がする。迷子の子供が、泣くのを我慢しているような横顔だった。
気がつくと、手が先に動いていた。
布団の上に投げ出された斂の手首を、掴んでいた。熱かった。脈が、私の指の腹を速く打っていた。
「私がいる」
自分の声が、思ったより大きく六畳間に響いた。
斂がこちらを向いた。
「……は?」
「寝込んだら、私が来る。明日も来る。明後日も」
そこまで言って、自分が何を言ったのかに気がついた。
顔に血がのぼった。耳の先まで熱かった。風邪がうつったことにできればいいと思った。
続けるはずの言葉は、喉のところで固まって出てこなかった。自分の身体が言うことを聞かないのは初めての経験だった。
斂は熱で潤んだ目で、私の顔と、手首を掴んでいる手とを、何度か見比べた。
人を見るのが上手い男だった。たぶん、全部読まれていた。
手は離さなかった。離せば、熱が下がったらこの男はまたへらりと笑って、全部なかったことにする。それだけは分かった。顔を見られないように俯いて、掴んだ手首に力を込めた。
彼の手と同じくらい私の手も熱かった。
長いこと、そうしていた。同じ温度になった熱が混ざり合った気がした。
自分のなかにいた彼より今日の彼は少し幼く見えて、握る手に力がこもる。
「……明日も、来んの」
斂が言った。
私は頷いた。俯いたままでは見えないと気づいて、手首を掴む指に一度だけ力を入れた。
「明後日も」
もう一度、力を入れた。
「……そういうことで、いいんだな」
何が、とは訊けなかった。訊けば声が裏返る気がした。
三度目は、指が震えて、うまく力が入らなかった。斂はそれで分かったらしかった。掴まれた手首が小さく返って、斂の指の背が一度だけ、私の手の甲に触れた。
熱かった。
「……佳凛」
名前で呼ばれたのは、初めてだった。それまでずっと、お前、だった。
返事をしようとして、声が出なかった。斂は布団に倒れ込み、額から落ちた手拭いを自分で拾って載せ直した。
「うつるぞ」
「うつらない」
「なんでだよ」
「鍛え方が違う」
斂は手拭いの下で、喉の奥で笑った。いつものへらりとした笑いではなかった。
帰り道、みぞれが降っていた。
傘はなかった。でも火照った身体を冷やすには丁度良かった。
次は、美味いものを食べさせる。
角を曲がるところで、そう決めた。
振り返ると、アパートの二階に、明かりが一つだけ点いていた。その窓の向こうに、斂がいるはずだった。
明かりは見えた。斂の顔は、見えなかった。
◇
身体の冷たさに目を開けると、篝火の数はひとつも減っていなかった。
右手が、何かを掴む形のまま固まっていた。開くと、掌に剣の柄の革の跡が赤くついていた。
焦げの苦さも、手首の熱さも、混ざり合った熱も、全部覚えていた。
斂の顔だけが、出てこなかった。
三年のあいだ、毎日なぞってきた顔だった。目を閉じればいつでも見えるはずだった。それが、壁のほうを向いたまま、こちらを向いてくれなかった。
私がいる、と言ったのは私だった。
明日も、明後日も、と。
いなくなったのは、あいつのほうだった。
城壁の内側の聖堂の詰め所で、リエルが眠っているはずだった。明日の朝、あの子は塔の上で歌う。その歌が終わるまで、私は傍にいる。
門楼の奥では、殿下がまだ地図を広げているはずだった。傍を離れるな、と言われていた。
私がいる。
今その言葉を向けている相手を数えかけて、やめた。数えれば、最初に向けた相手のことまで数えてしまう。
胸壁の上を夜風が渡っていった。私は剣の柄を握り直し、篝火を一から数え直した。
数え終わる前に、帝国の陣が動いた。
包囲の四十日目が、そうして始まった。
それまでのどの夜とも違う動き方だった。黒い群れが、西の城壁の前に音もなく集まっていった。
旗が揃っていた。黒地に銀の星の旗を先頭に、蝙蝠も、薔薇も、牙も、三日月も、青い波の旗も。
一つの獣のように。
◇
「総攻めだ」
西の大門の上で殿下が言った。
殿下は細剣を腰に吊り、軍装の上から近衛の外套を羽織っていた。
殿下は細剣を握り世界樹に翳す。篝火の赤を返すだけでなんの変哲もないその細剣を無表情に見つめていた。
「近衛。今日、この門を、守り切る」
殿下は私を見た。私の肩のあたりを。それから、ほんの一息だけ私の顔を見た。
「クルシマ・カリン。我の傍を、離れるな」
「はい」
私の反対側にフィンが立っていた。右手に剣を握り、左手を軽く開いていた。その左の掌に、小さな蒼い炎が揺らがずに灯っていた。
フィンは私を見て、小さく頷いた。
撃つべきときを、選ぶ。
その顔は、もう迷っていなかった。
西の城壁の塔の一つに、白い衣の小さな人影が立っていた。黒い紗のベールが、夜明け前の風に揺れていた。
その下で、細く澄んだ歌が始まった。
腰の袋の上から、指で中を探った。干し柿は、最後の一つになっていた。
今日が終わったら、塔から降りてきたリエルに渡す。そう決めて、袋の口を固く縛り直した。
王都の中で、夜明けの鐘が鳴った。
城壁の上の兵たちが、弓を下ろし、いっせいに東へ向き直って片膝をついた。古参の兵も、昨日初めて石段を上がった若い兵も。フィンも膝をついた。
殿下も、膝をついていた。
殿下の膝が石に落ちる音を、私は初めて聞いた。
私は立っていた。西を向いたまま、黒い群れから目を離さなかった。誰も咎めなかった。殿下の背中だけが、私の足もとで小さく見えた。
夜が、明けた。
東の空の地平の向こうから、最初の光が差した。その光が西の城壁を照らした。
城壁の上に並んだ兵たちの顔を。
公爵の銀の兜を。
侯爵の金錦の旗を。
リエルの白い衣を。
兵たちが立ち上がり、弓を取った。私は西の平原を見下ろしていた。
黒い群れが、動き出そうとしていた。
その先頭に、瑠璃色の髪の女が立っていた。女は城壁の上の私を見上げて笑っていた。
それから、ふと笑みを消した。
女の目が私から逸れた。私たちのいる城壁の上ではなくその根元、門の前を凝視している。
身を乗り出して城壁の下を覗き込む。
城壁の作る影が濃くて何も見えなかった。
日が昇るにつれ城壁が作る影と影、その隙間に走る陽光の上に誰かが立っていた。
遠かった。顔は見えなかった。ただ、その顔が白い何かで覆われているのだけが見えた。顔全体を覆う、白い仮面だった。明らかに仕立てのいい服に、黒い外套。
身元を隠したい意図は伝わったがいかんせんよく目立っている。
その人影の手に、長い何かが握られていた。
槍のように見えた。穂先の片側に、斧のような刃が張り出している。その刃が朝の光の中で、鈍い、紫がかった金色に光っていた。
城壁の下で、あの女が叫んでいた。喜びとも怒りともつかない声で。
「……来やがったな」
女の声は、裏返っていた。
「来やがったな、てめえ!」
女の声を無視してふとこちらを見上げた彼と目が合った。
その瞬間、朝の風が止んだ。
剣の柄が、掌の中でぬるりと滑った。握り直しても、汗は引かなかった。
指の腹にだけ、熱い手首の脈が残っていた。
理由は、分からなかった。
男はゆらりと視線をあの女に向ける。
そして挑発するように天にくるりと円を描いた槍の穂先が帝国に向けられた。
そのとき帝国の陣の奥で、光が膨れ上がっていた。
ヴァンパイアはプライドが高い。
単騎でしかも自信満々に侮られれば当然の結果だった。
統率も何もないただの暴発。しかし数が多かった。
直撃を受ければ王都の城壁も門も長くは持たない量だろう。
殿下が何か叫んでいた。術師たちが陣を描こうとしていた。
間に合わないと、誰もが分かっていた。
赤い塊が放たれた。
城壁へ。西の大門へ。
その軌道の真下に、白い仮面の人影が立っていた。
人影は斧槍を構えていた。片手で。穂先を、迫ってくる赤い塊にまっすぐ向けて。
それは長い鍛錬に裏打ちされた突きだった。
瞬く間に無数の突きが赤い塊を迎撃する。
術をそう容易く武器で迎撃できるわけもない。
大地が揺れた。
衝撃が城壁を揺らし粉塵が視界を遮った。
あの女がニヤリと笑ったのが分かった。
粉塵が晴れると、彼とその後ろの壁だけがまるで切り取られたように無傷だった。
帝国の陣営に衝撃が走る。
散発的に再び術が放たれる。
しかし彼が槍を振るうと嘘のように術が霧散した。
砕けたのではなかった。弾かれたのでもなかった。
固く結ばれていた紐が、一か所を引かれただけでするりと解けるように消えてなくなったのだ。
平原の全体が、静まり返っていた。
殿下が、私の隣で城壁の縁を掴んでいた。顔から血の気が引いていた。
「……あの、者は」
殿下の声が、喉の途中で一度かすれた。
殿下は城壁の下の人影から目を離さなかった。
「九十年前」
殿下は呟いた。
「我は、あの者の隣で、戦った。……忘れるはずもない」
それきり殿下は口を閉ざした。
"女神は我らを見捨てていない。黒髪の勇者が戻ってきた。"
誰かがそういうと城の上に士気が戻っていく。
朝日に照らされ希望が戻りつつある王国にあって、殿下はしかし苦い顔をしていた。
人影は帝国の軍勢の中へ歩いていった。
散歩でもするように。いつか瑠璃色の髪の女がそうしていたように。
術をほどかれたヴァンパイアに、人影は斧槍の石突きを叩き込んだ。倒して、次へ。倒して、また次へ。
戦慣れしていると思った。
もともと統制の少ない帝国はそれでも、力と権威でまとめられて軍の体裁保っている。
その楔となっている強力なヴァンパイアのみも的確に効率よく屠っている。
次第に軍が崩れ黒い群れの中に、一本の道が切り開かれていった。
その道の先に、瑠璃色の髪の女がいた。
女は動かずに人影を待っていた。
人影が女の前で足を止めた。二人はしばらく向かい合っていた。城壁の上からは、二人の声は聞こえなかった。ただ、女が何か叫んだのが見えた。
女が盾に手を突っ込み、大剣を引き抜いた。人影が斧槍を構えた。
二人が同時に動いた。
大剣と斧槍がぶつかった。鉄と鉄の音が、遅れて城壁まで届いた。
女の大剣が斧槍を押し込んでいく。人影の足が地面を削って後ろへ滑る。
女は術を撃たなかった。撃ってもほどかれると知っているのだろう。ただ大剣を振った。人ではあり得ない力で。何度も。何度も。
人影はそれを、斧槍の柄で受け、流し、躱した。
巧かった。目がいいのだろう。
人間離れしたあの女の動きに反射でついていっている。
けれど押されていた。一合ごとに、人影は後ろへ下がっていた。
大剣の一振りが人影の外套を裂いた。次の一振りが肩を掠めた。
お返しとばかりに斧槍が横に薙ぎ払われ二人は距離をとる。
男がニヤリと笑った気がした。
懐から何かを取り出し地面に叩きつけると激しい閃光と音が戦場を引き裂いた。
突然の刺激に頭がくらくらする。
女の叫び声が平原に響いた。今度は城壁の上まで、はっきりと聞こえた。
「逃げんのか! また、逃げんのかよ、てめえ!」
男はもう城壁の上にいた。
西の大門のすぐ北。私たちの立つ塔から、城壁伝いに五十歩ほど離れた場所へ。
仮面の人影は城壁の上に立ったまま、しばらく動かなかった。
こちらを見ていた。
正確には殿下を見ていた。
「クルシマ・カリン」
殿下が言った。
殿下は城壁の下を見ていた。仮面の人影が去ったあとの、帝国の軍勢を。
主力が総崩れにはなっているとはいえ、厄介な相手が残っている。
瑠璃色の髪の女が、大剣を担いで、西の大門へ向かってまっすぐ歩いてきていた。女の顔は、城壁の上からでも分かるほど歪んでいた。
「あの女が、門を破る」
殿下は言った。
「有象無象の相手には、公爵のドワーフたちがいる。だが、あの女を止めるには足りぬ。……あの女を、門の前で、足止めできるのは、そなただけだ」
「殿下の傍を離れるな、と」
「命を、変える」
殿下は私を見た。私の顔を。まっすぐに。
「行け」
私は殿下の顔を見返した。
王の声が耳の奥で聞こえた。
エルデリックを、頼む。
白い仮面の人影を見やる。何をしに、ここへ来たのか。帝国の術をほどき、ヴァンパイアを倒し、あの女と刃を交えた。
味方なのか。
分からなかった。
分からないものを、殿下の傍に残していくのか。
「殿下」
「行け、と言った」
殿下の声が低くなった。
「言うただろう。あれは知り合いだ。……そなたは、門を守れ。門が破られれば、この都が終わる」
殿下の手が、腰の細剣の柄にかかっていた。
迷っている暇はなかった。門の外で、女の大剣が振りかぶられていた。
殿下は私の反対側に立つフィンにも、短く命じていた。術師団の陣へ走り、侯爵に連奏を急がせよ、と。フィンは一瞬だけ私の顔を見て、反対側の階段へ駆けていった。
私は殿下に一礼して、塔の階段を駆け下りた。
◇
門が破られた。
私が門の内側に着いたとき、分厚い樫の扉が内側に向かって弾け飛んでいた。蝶番ごと引きちぎられた扉の破片が、門の内側に並んだドワーフたちの銀の盾に叩きつけられた。
土煙の中から、瑠璃色の髪の女が歩み入ってきた。
「どけ」
女は言った。
公爵が、右腕一本で斧槍を構えていた。
「どかん」
「髭。今日は、本当にお前に用はねえんだよ」
「知っとる。だが、どかん」
女が大剣を振った。公爵の斧槍がそれを受けた。公爵の足が石畳にめり込んだ。
私はその横から、女の懐へ飛び込んだ。
影を見て。影の、次を読んで。
女の大剣が公爵から離れて、私へ向かう。その軌跡の次。女の左の手が盾に伸びる。盾から何かを抜こうとしている。
抜かせない。
私の剣が、女の左の手首を浅く裂いた。
女の手が盾の前で止まった。
女が私を見た。歪んでいた顔が、一瞬だけほどけた。
「……黒髪」
「門は、通さない」
女はしばらく私を見下ろしていた。それから大剣を肩に担ぎ直した。
「今日は、お前とも遊んでやれねえんだよ」
女の目が、私の頭の上を越えて城壁の上を見た。
「あいつが、上にいる」
女の声の底が、ざらついていた。
「七十年前の借りだ。最後に取り逃がしてから、ずっと待ってた。……どけ、黒髪。お前は、あいつの次だ」
城壁の上へ上がる石段は、門を抜けた内側にしかない。女がこの門にこだわる理由が、そのときようやく分かった。
私は振り返らなかった。振り返れなかった。女から目を離せば、その瞬間に門を抜かれる。
けれど女の言葉が、頭の中で鳴り響いていた。
あいつ。
黒髪の勇者。
城壁の上。
殿下のいる、塔。
公爵が間に入り女に斧槍を振りかぶる。
女も正面から受けるのは嫌らしい、後ろに跳んで距離を取る。チッと舌打ちが聞こえた。
そう。舌打ちが聞こえるくらい静かだった。
はっとして後ろを振り返る。歌が、止まっていた。
城壁の上からずっと流れていた、リエルの歌が。
途切れたのではなかった。止まった。細く澄んだ声が、最後の一音を途中で失ったように。
石段の下の王家の旗が、風もないのに、だらりと垂れて見えた。
背筋がすーっと冷たくなる。
城壁の上を見上げた。
西の大門の上の塔。先端は物見櫓になっていて景色がいい。
故にこちらから中がよく見えた。そこに白い衣の小さな人影が立っていた。黒い紗のベールが風に揺れていた。両手に、二振りの細い剣を握っていた。
その前に、白い仮面の人影が立っていた。
その後ろに、殿下が膝をついていた。
私は走った。
背後で女が何か叫んでいた。聞こえなかった。
塔の階段を駆け上がった。登り切っても櫓の入口は反対側だった。細い明かり取りの窓から、櫓の中の様子が切れ切れに見えた。
リエルが踊っていた。殿下の前で。
二振りの剣の弦が触れ合い、高い音が鳴った。見えない刃が仮面の人影へ飛んだ。
人影はそれを、斧槍の柄で受けた。
ほどけなかった。
あの弦の刃は結晶術ではないのだと、そのとき初めて分かった。
人影が踏み込んだ。リエルが弦で斧槍を受けた。弦がたわみ、跳ね返り、斧槍が弾かれた。人影は弾かれた勢いのまま身体を回して、もう一度踏み込んだ。
リエルの足がもつれた。
次の窓から見えたとき、リエルは身体を折って咳き込んでいた。
冬の間ずっと歌い続けてきた身体だった。今朝も夜明け前から歌い続けていた。もう何も残っていなかったのだ。
それでもリエルは、殿下の前から動かなかった。
私の足も、もつれた。
影が、見えなかった。
いや正確には見えていた。しかし私に必要な影が見えなかった。
心臓が耳の奥で鳴っていた。石の壁に手をつくたびに、掌の汗が冷たく擦れた。
◇
ようやく開けた入口から中を見渡せた。
最初に見えたのは、リエルの背中だった。
白い衣の、小さな背中。両手を左右に広げていた。二振りの剣を握ったまま。殿下の前に。殿下を、背中に庇うように。
その白い衣の胸のあたりが、赤く染まっていた。
斧槍の穂先が、リエルの胸を貫いていた。
仮面の人影が、その柄を握っていた。
リエルの足もとに、黒い紗のベールが落ちていた。風が、リエルの白に近い金の髪を揺らしていた。
「……リエル」
喉から出たのは、声の形をした息だけだった。
リエルの首元で、何かがぷつりと鳴った。
黒い首飾りが弾けた。革の紐が切れて宙に舞い、塔の石の上に音もなく落ちた。
リエルの身体が、ふっと軽くなったように見えた。
リエルの唇が動いた。声はなかった。ただ、ほんの少しだけ口の端が上がった。
ずっと、ずっと我慢していたものを、ようやく下ろしたような。そんな顔だった。
仮面の人影が、斧槍を引き抜いた。
ゆっくりと崩れ落ちるその小さな身体を、仮面の人影は片腕で抱きとめた。何か呟いて、そっと石の上に寝かせた。
リエルの向こうで、殿下が膝をついていた。
軍装の脇腹が裂けていた。血が石の上に広がっていた。
殿下はリエルに目を奪われながら細剣を杖にして、立ち上がろうとしていた。横たわるリエルを見つめる殿下の瞳に見たことのない色が混じっていた。
「……お前が踊り子を殺すのはこれで二度目だな」
殿下が言った。仮面の人影に。かすれた、けれど少しも揺れていない声で。
「お前とは何処で間違えたのだろうな」
「最初からさ。価値観の相違ってやつだよ。」
仮面のせいかくぐもった声。ただその抑揚がひどく心をざわつかせる。
「この国を恨んでいるだろうに、なぜあんな真似」
「この国にはいい思い出もある。」
殿下が細剣を構えると仮面の人影が動いた。
斧槍の穂先が、殿下の細剣を弾き飛ばした。細剣が宙を舞い、そのまま斧槍の刃が、殿下の胸を斜めに裂いた。
殿下の身体が後ろへ倒れた。塔の石の上に。リエルの、すぐ隣に。
宙を舞った細剣を、仮面の人影が片手で掴み取った。
私は動けなかった。
間に合わなかった。何もかも、間に合わなかった。
塔の反対側の階段から、誰かが駆け上がってきた。
真っ白な髪の老人だった。背中の半ばまでが結晶になった髪を振り乱して、金錦の旗杖を両手で握りしめて。
侯爵だった。
侯爵は倒れた殿下とリエルを見た。それから仮面の人影を見た。緑の目が見開かれた。
「……貴様」
侯爵の声は、錆びた蝶番のように軋んでいた。
旗杖が掲げられた。侯爵の周りに光が集まった。術師団の連奏ではない。侯爵一人の術。それでも並のヴァンパイアの術よりも、ずっと多い光だった。
バチバチと雷鳴が轟く。
それは拡散し再び彼へ収束していく。
仮面の人影は、すぐには突かなかった。
ほんの一瞬、何もない空の一点へ顔を向けた。侯爵のほうでも、雷のほうでもなかった。塔の上の、誰も立っていない宙のあたり。まるでそこにいる誰かに、目で何かを確かめるように。
それから、斧槍を突いた。
雷鳴がほどけた。侯爵の術が、朝の空に散っていった。
侯爵の目が、さらに見開かれた。驚きではなかった。知っている者を見る目だった。
仮面の人影が侯爵に向かって踏み込んだ。
斧槍の刃が、侯爵の旗杖をはじき飛ばす。金錦の旗が宙に舞った。刃はそのまま、侯爵の身体を肩から腹へ斜めに走った。
侯爵が倒れた。白い髪が塔の石の上に広がって、朝の光の中で瞬いていた。
仮面の人影は侯爵を見下ろしていた。
斧槍の穂先を、侯爵の喉元に向けた。
そのとき私は、もう動いていた。
◇
考えていなかった。何も。
塔の石を蹴ったとき、光が見えた。
朝日ではなかった。もっと白い、目の奥へ直に射しこんでくる光だった。その光の中を、女が一人、私の少し先を歩いていた。
後ろ姿だけだった。白金の髪が背中に流れ、薄紅の衣の裾が揺れていた。女は振り返らなかった。片手を前へ伸ばして、行く先を指していた。
指の先に、斧槍の穂先と侯爵の喉のあいだの、拳ひとつほどの隙間があった。
瞬きをすると、女はいなかった。
隙間だけが残っていた。それと、その隙間へ穂先が沈んでいく一瞬先の軌跡が、薄い影になって見えていた。これまで見たどの影よりも、くっきりと。
私の剣は、影よりも先にそこへ着いていた。
穂先が剣の腹に乗った。受け止めはしなかった。手首をわずかに返すと、穂先は剣の腹を滑り、侯爵の喉から指一本ぶん逸れて、石を噛んだ。
火花が一つ散った。
仮面の人影が、こちらを向いた。
白い仮面だった。目のところに細い切れ込みが二つ入っているだけの、何の飾りもない仮面。
その切れ込みの奥の目が、私を見た。
見えない、と思った。仮面の奥は暗くて、何も見えなかった。
それでも、その目が私を見て止まったのが分かった。
ほんの、一息ほどの間。
私は踏み込んだ。
世界が二重になった。
今度は、見えた。
仮面の人影がそこにいる。その少し前に透けた人影がいて、斧槍を横に払っている。私の胴へ。
私は身を沈めた。
本物の斧槍が頭の上を通り過ぎた。遅れて来た風が、髪を揺らした。
石突きが下から、私の顎へ。
すり足で半歩身を引く。
次。穂先が引かれて、また突き出される。私の喉へ。
私は、その影の次を読んだ。
この人は、槍が巧い。
驚くほど巧い。無駄がない。隙がない。突いて、引いて、払って、また突く。その繋ぎ目がどこにも見えない。
けれど、違和感があった。刃を向けてくるのは大振りで分かりやすい攻撃のみ。むしろ避けにくい攻撃こそ石突きが向けられている。
それにその巧さのどこかに、何か覚えのあるものが混じっていた。
足の運び。腰の切り方。穂先を引くときの、手首の返し方。
どこかで。ずっと昔に。
見たことがある。
どこで。
私は右の肩を開けた。
わざと。相手を誘うために。
道場で祖父に叩き込まれた、来島の誘い。戸を一枚、こちらから開けてやる。相手の身体がその隙に吸い寄せられる。その一瞬の重心の傾きを斬る。
あの女にも効いた誘いだった。
けれどこの人が、こんな見え見えの誘いに乗るはずがない。
乗るはずが。
仮面の人影の身体が、開けた右の肩へ吸い寄せられた。
迷いもなく。反射のように。動くものを見たら身体が先に動いてしまう、というように。
その瞬間、私は知っていた。
この癖を。
だから剣は向いていない、と祖父は言った。
剣は誘いと誘いの騙し合いだ。お前のように目のいい者ほど騙される。だから、槍を持て、と。
道場の、板張りの床の上で。夏の夕暮れに。
私の、隣で。
私の剣が、仮面の縁を捉えていた。
考えるより、先に。
乾いた音がした。
白い仮面に、一筋の亀裂が走った。額から顎まで、まっすぐに。
仮面が二つに割れた。割れた仮面が石の上に落ちて、からんと鳴った。
その下の顔を、私は見た。
ほとんど黒に近い、茶色の髪。同じ色の瞳。少し日に焼けた、浅黒い肌。
最後に見たときよりも、少しだけ頬の線が細くなっていた。少しだけ大人びていた。
それでも分かった。
分からないはずがなかった。
毎日チャイムを鳴らした扉の、向こうにいるはずだった顔。
もう二度と見ることはないと、どこかで諦めていた顔。
「……斂」
私の口から、その名前が零れた。
返事が返ってくるかもしれない場所でその名を呼んだのは、この世界に来て初めてだった。
斂の目が見開かれていた。
私を見ていた。私の顔を。私の髪を。私の手の中の剣を。
斂の唇が動いた。
「……佳凛」
その声は、私の知っている声だった。
夏の夕暮れの道場で、私の名前を呼んだ声。アパートの台所で、私が作った料理を食べながら、美味いな、と言った声。
その声が、ひび割れていた。
「…最悪だ」
斂が言った。
「なんで、お前が、ここに」
斂の手から、斧槍の穂先がゆっくりと下がっていった。もう片方の手には、殿下の細剣が握られたままだった。
斂の足もとに、殿下が倒れていた。リエルが倒れていた。侯爵が倒れていた。三人の血が、塔の石の上で一つに混じり合っていた。
私はそれを見ていた。それから斂の顔を見た。
見ているものが、繋がらなかった。何一つ。
「……なんで」
私も、同じ言葉を口にしていた。
「なんで、斂が」
私の声は叫び声になっていた。自分の声だとは思えなかった。
「なんで、斂が、リエルを。殿下を。……なんで!」
斂は答えなかった。答えられないように見えた。
斂の顔が歪んでいた。
私の知っている斂は、こんな顔を人に見せなかった。いつも飄々としていた。何があっても、どこか笑っているような顔をしていた。私が怒っても泣いても、困ったように笑って頭を撫でた。
その顔が今、ぐしゃぐしゃに歪んでいた。泣きそうな、子供のような顔だった。
熱に浮かされて壁のほうへ向けた、あの日の横顔に、少しだけ似ていた。
斂が一歩、後ろへ下がった。
「……ごめん」
斂が言った。
誰に向けた言葉なのか、分からなかった。私に。リエルに。殿下に。それとも、ここにいない誰かに。
斂は背を向けた。
塔の縁を蹴った。城壁の外へ。朝の光の中へ。黒い外套が翻った。
私は塔の縁に駆け寄った。
気づいたら、胸壁に片足をかけていた。下は城壁の外の空だった。石畳までは人の背の十倍ではきかない。それでも足は、胸壁の石を蹴ろうとしていた。
斂の背中が、城壁の下の帝国の軍勢の向こうへ遠ざかっていくのが見えた。黒い群れをかき分けるように。誰にも止められずに。一度も振り返らずに。
その手に、殿下の細剣を握ったまま。
城壁の下で、あの女の叫び声が上がった。
「待てぇ! 待ちやがれ、てめえ!」
門の内側まで踏み込んでいた女が、踵を返していた。大剣を担いだまま、斂の消えた方角へ黒い群れをかき分けて駆けていく。門のことなど、もう忘れたように。
頭の中で、ばらばらだったものが音を立てて組み上がっていった。
王都の食堂の品書きにあった、あの二文字。九十年前の黒髪の勇者。槍一本で術を片っ端から散らした、とあの女は言った。あの男は最後にこの国を捨てた、と殿下は言った。王都の空き地でフィンに術の撃ち方を教えた、槍の男。海の見える街にいる、と言い残して消えた男。
全部が、斂を指していた。
けれど、九十年前だ。斂が消えたのは、私がこの世界に来る三年前だ。
繋がるはずがなかった。繋がるはずがないものが、今、目の前で繋がっていた。
分かったのは、斂がここにいたことと、斂がリエルを貫いたことだけだった。
◇
背後で、息の音がした。
濡れた布を絞るような音だった。
胸壁から足を下ろして、振り返った。
殿下が仰向けに倒れたまま、目を開けていた。胸の傷から、血が止めどなく流れていた。
私は殿下の傍らに膝をついた。殿下の手を握った。
冷たかった。
「殿下」
殿下の目は、私を見なかった。
唇が動いた。ほとんど息だった。
「……リ、エル」
殿下がその名を口にするのを、私は初めて聞いた。あれ、とも、そなた、とも呼ばずに。
殿下の手が、私の手の中からするりと抜けた。私の掌には、汗とも血ともつかない湿りだけが残った。
その手が石の上を這って、隣に横たわるリエルの手に触れた。
触れたまま、動かなくなった。
殿下の目は、リエルの顔を見ていた。
閉じないまま。
もう、逸らさないまま。
私には、何も言わなかった。
リエルの顔は穏やかだった。見えない目を開けたまま、朝の空を見上げていた。
首元に赤い痕が残っていた。首飾りがずっと巻かれていたところだった。その痕の上で、白い肌が朝の光を受けていた。
私はリエルの目を、指で閉じた。睫毛が指の腹をかすめた。私の顔を覚えるとき、リエルの指が同じところを撫でていったのを思い出した。
それから、殿下の瞼に指をかけた。
下ろせなかった。
閉じれば、殿下はもうリエルの顔を見られない。中庭でほんの一息だけ見て、すぐに逸らした顔を。ようやく見られるようになった顔を。
私は指を離した。
二人の手は、触れ合ったまま離れなかった。
侯爵が呻いていた。
肩から腹へ走った傷から血が溢れていた。それでも侯爵は生きていた。真っ白な髪を石の上に広げたまま、私を見上げていた。緑の目が、何かを言おうとしていた。
私は侯爵の傍らに膝をついた。
侯爵の手が私の袖を掴んだ。血に濡れた指が、驚くほどの力で。
「……あれは」
侯爵の声は掠れていた。
「あれは、わしが……術を、教えた男だ」
侯爵は咳き込んだ。口の端から血が零れた。
「九十年前……この国の、勇者だった」
侯爵の唇が歪んだ。笑ったのかもしれなかった。
「……あれに、恨まれる覚えなら……いくらでも、ある」
侯爵の指が、私の袖から滑り落ちた。
目は開いていた。息もしていた。ただ、それ以上何も言わなかった。
階段の下から足音が聞こえた。何人もの足音が。術師たちだった。神殿騎士たちだった。
誰かが侯爵の名を叫んでいた。誰かが殿下の名を。誰かが、御方、と泣き叫んでいた。
城壁の下では、まだ戦が続いていた。門の内側で、公爵の野太い声がまだ響いていた。女が去ったあとも、帝国の兵は破れた門へ押し寄せ続けているのだろう。
私は立ち上がった。
塔の縁に立って、西の平原を見た。帝国の軍勢の、その向こう。
斂の背中は、もう見えなかった。
足もとに、割れた仮面の片方が落ちていた。
拾い上げた。
内側が、まだ温かかった。
人の顔の形にくぼんだ白い内側に、さっきまでそこにあった肌の温みが、薄く残っていた。その縁のすぐ外に、リエルの血が乾きかけて、黒く貼りついていた。
温みと、血と。
一つの仮面の、裏と表に。
指が、仮面の縁を握りつぶすほどに締まっていた。
三年、扉の前に立った。チャイムを鳴らして、返ってこない音を聞いて、帰った。待っていれば、いつか開くと思っていた。この世界に来てからも、待てないことのほうが怖かった。
待っていた相手は今、リエルを貫いて、殿下を斬って、私の名を呼んで、背中を向けて行った。
また、行った。
歌の刻限に遅れまいと走っていく先も、背を守って立つ場所も、同じ朝のうちに塔の石の上で冷えていった。この国で毎日両手に握り直してきたものが、二つとも指の間から抜け落ちた。空いた手のひらに、ずっと奥へ押し込んでいたものが、熱を持って戻ってきた。
口の中に鉄の味が広がった。いつの間にか頬の内側を噛み切っていた。
殴りたかった。問い詰めたかった。斬りたいのかもしれなかった。泣きつきたいのかもしれなかった。どれなのか、自分でも分からなかった。分からなくてよかった。どれをするにしても、あの背中に追いつかなければ何も始まらない。
もう、扉の前では待たない。
私は割れた仮面を懐に押し込んだ。あの結晶塊の、すぐ隣に。
近衛の騎士の一人が、私の腕を掴んだ。
「クルシマ! どこへ行く!」
髭に白いものの混じった古参の騎士だった。籠手の上から食い込む指が、私の腕の骨を探り当てていた。
「殿下が……殿下が! 持ち場へ戻れ! 陛下に、何と申し上げるつもりだ!」
私は、その手を振りほどいた。
騎士の指が籠手の縁に引っかかり、外れた。驚いた顔が、一瞬だけ目の端を流れていった。
この身を王家の剣とし、盾とし。
組紐の環の上で口にした言葉が、どこか遠くで鳴った。浮彫の二本の槍の男は、あの日も誰のことも見ていなかった。
あの男は最後にこの国を捨てた。そなたは、捨てるな。
天幕の入口で、殿下はそう言った。
その殿下は、私に何も言わずに、リエルの手を取って逝った。
全部を、塔の石の上に置いていった。
私はこの国に剣を預けてなんていなかった。
私は殿下個人に剣を預け、ただ友人を守るためにそれを振るっていただけだった。
塔の階段を駆け下りた。
階段の途中で、駆け上がってくる誰かとぶつかりかけた。
フィンだった。左の手に蒼い炎を灯したまま、肩で息をしていた。
「カリンさん! 上で、何が……歌が、止まって」
フィンは私の顔を見て、言葉を失った。
私の顔がどんな顔をしていたのか、分からない。
「侯爵は、生きてる」
足を止めずに、それだけ言った。
すれ違いざま、フィンの手が私の袖を掴んだ。
「カリンさん、殿下は。リエルさんは。……どこへ行くんですか! 門は、こっちじゃ」
私は答えなかった。
腕を引いた。フィンの指が布から外れていく感触が、袖の内側を擦っていった。
そのまま、階段を駆け下りた。
背後でフィンが、階段を駆け上がっていく足音がした。それから途中で、止まった。塔の上にたどり着いたのだろう。
何の声も聞こえなかった。
門の内側では、ドワーフたちが、なだれ込む帝国の兵とまだ戦っていた。
銀の盾の列の向こうで、公爵がこちらに気づいた。
「嬢ちゃん!」
吊った左腕を揺らして、公爵が怒鳴った。
「どこへ行く、門はこっちだ! 嬢ちゃん!」
私は、そこを通らなかった。
西の城壁の崩れかけた箇所へ。積み上がった石を蹴って、城壁の外へ。帝国の軍勢の、その向こうへ。
誰かが、まだ私の名を呼んでいた。
フィンの声だったのかもしれない。公爵の声だったのかもしれない。
振り返らなかった。振り返るということを、思いつきもしなかった。
リエルの閉じた目。殿下の閉じなかった目。王の頼み。フィンの約束。
全部を背中に置き去りにして。
夜明けの光が、背中に当たっていた。東から差すその光に押されて、私の影が足もとから西へ長く伸びていた。斂の消えた方角を指して。
その影の先を踏むように、私は走った。
(第八章 了)




