第七章 籠城
その冬、王都は人で溢れた。
西から逃げてきた人々だった。焼け出された村の人々、海岸を追われた漁師たち、糧を奪われた農夫たち。荷車と家畜と泣く子供を連れて、西の大門から途切れることなく流れ込んできた。
大通りの両脇に、布を張っただけの小屋が並んだ。広場という広場で焚き火が焚かれた。大聖堂の前庭には、朝から晩まで粥を待つ列が伸びていた。
世界樹の枝の下の、木漏れ日の都。
その木漏れ日の中で、人々が身を寄せ合って震えていた。
私たちが王都に戻ったのは、冬の初めだった。
二年近くぶりにくぐった西の大門は、出ていくときと同じ門のはずなのに、ひどく低く見えた。
出ていくときは、花が投げられた。
戻るときは、誰も何も投げなかった。
通りの両側から、人々が黙って私たちを見ていた。泥にまみれた鎧。痩せた馬。包帯を巻いた兵たち。
誰かが小さな声で言った。
「……負けたのか」
誰も答えなかった。
大聖堂の前を通ったとき、灯の並び方が変わっているのに気づいた。
冬至の祭りの夜には、人の流れはまっすぐ正面の大扉へ向かっていた。二本の槍を立てた主神の像が見下ろす、あの扉へ。今は誰もがそこを素通りしていく。灯が集まっていたのは、大扉の脇の小さな祠のほうだった。
乳白の石を彫った、背丈ほどの女神の像だった。細い剣を胸に抱き、足もとに雛鳥が身を寄せている。その台座のまわりに、小皿に油を注いだだけの灯明が、石畳の目地が見えなくなるほど置かれていた。
油の焦げる匂いが、冷えた石の上に低く溜まっていた。風が吹くたびに小さな炎がいっせいに同じ方へ傾き、また起き上がった。
冬の半ば、侯爵が西から戻ってきた。
術師団は、出ていったときの半分ほどに減っていた。金錦の旗は端が焦げていた。
侯爵は白い馬の上で背筋を伸ばしていた。けれどその髪は、もう毛先だけではなかった。肩から背中へ流れる真っ白な髪の半ばほどまでが、冬の光を受けて細かく瞬いていた。
西の海岸で、何度連奏を撃ったのだろう。
侯爵は王城の門をくぐる前に、一度だけ馬を止めた。振り返って西の空を見た。それから何も言わずに門の中へ入っていった。
シルフェリオはまだ持ちこたえている、と聞いた。
ただ、あの白い回廊の宮殿から、海はもう見えないのだという。
港を埋め尽くした黒い帆の船で。
その夜、フィンが侯爵の屋敷を訪ねた。
戻ってきたのは夜更けだった。兵舎の裏の井戸の縁に私が座っていると、フィンが隣に腰を下ろした。
「侯爵様、髪のことは何も言わなかったです」
フィンは言った。
「僕の髪のことも、何も訊かなかった。……ただ、手紙は読んだか、って。読みました、って答えたら、そうか、って」
フィンは胸元に手を当てた。手紙と梟のペンダントが、そこにあるはずだった。
「それから、明日からまた夜に来い、って。……春までに、撃つべきときを選べるようにしてやる、って」
フィンは少しだけ笑った。
あの谷の夜の、はしゃいだ笑い方ではなかった。もっと静かな、何かを決めた人の笑い方だった。
何日かして、殿下の使いで侯爵の屋敷に書状を届けた。
通された奥の庭で、侯爵とフィンが向かい合っていた。
侯爵は椅子に腰かけていた。立っているのは、もう辛いのだろう。膝の上に金錦の旗杖を横たえていた。
「息を、数えよ」
侯爵が言った。
「集めるときに、一。結ぶときに、二。放つときに、三。……四つ目の息で、うなじに手を当てよ。ちりちりするなら、次の一撃は半分に絞れ。しないなら、そのまま撃て」
フィンが左の掌を前に出した。
目を閉じて息を吸うと、掌の上に蒼い炎が灯った。吐くと、炎が細く固く締まった。もう一度吸ったとき、炎は庭の隅の的に向かってまっすぐに走った。
的の中心が焼け落ちた。
フィンは四つ目の息で、うなじに手を当てた。しばらくして手を下ろした。
「……大丈夫です」
「よい」
侯爵は頷いた。
「恐れは、捨てるものではない。数えるものだ。数えられる恐れは、そなたの味方になる」
侯爵はそれから、自分の髪を一房、指ですくい上げた。真っ白な髪の半ばまでが透き通っていた。
「わしは、数えるのが下手だった。……だから、こうなった」
侯爵が指を離すと、透き通った髪が肩の上でかちりと小さく鳴った。
侯爵の目が、フィンの胸元へ移った。鎖の先の、梟のペンダントへ。
「騎士よ。そなたの村の、村長は」
「え?」
「達者だったか」
フィンは少しだけ目を伏せた。
「……死にました。村と、一緒に」
侯爵は、しばらく何も言わなかった。庭の木の枝で、小さな鳥が鳴いていた。
「そうか」
侯爵は、それだけ言った。
私は書状を侍従に預けて庭を出た。振り返ると、侯爵はまたフィンに息の数え方を教えていた。
その声は、御前会議の間で聞いたどの声よりも穏やかだった。
◇
雪が解けると同時に、帝国の軍勢が現れた。
王都の西の平原を、黒い群れが埋め尽くしていた。緩衝地帯で見たどの軍勢よりも多かった。旗の数も数えきれなかった。蝙蝠、薔薇、牙、三日月。その真ん中に、黒地に銀の星の旗が立っていた。
それだけではなかった。
平原の南の端に、見慣れない旗の一団がいた。青い旗だった。波の紋様が、銀の糸で織り込まれていた。
「水の都の旗だ」
城壁の上で、殿下が言った。
殿下は西の大門の上の見張りの塔に立っていた。私はその傍らに控えていた。
「海から上がってきた連中が、陸を回って合流したのだろう。……あの男が、自ら来たか」
殿下の声が、わずかに硬かった。
黒い群れは、西の大門から南へ、東へと、ゆっくり広がっていった。三日のうちに王都は、世界樹の幹に背を預ける形で三方を囲まれた。
北は世界樹だった。
巨木の根が岩盤を押し上げ、絶壁のように王都の背後を塞いでいる。そこから逃げる道はない。そこから攻め込まれる道もない。
逃げ場のない都で、人々は城壁の上を見上げていた。
包囲の四日目の朝、帝国の陣から使者が来た。
白い旗を掲げた一台の馬車だった。西の大門の前で馬車が止まり、扉が開いた。
降りてきたのは、背の高い痩せた男だった。黄金の髪を背中の半ばまで伸ばし、一つに束ねている。蝋のように白い肌。青い瞳。仕立てのいい深い青の外套を纏い、襟元に銀の波の紋章を留めていた。
ヴァンパイアだった。
それも、これまで戦場で見てきたどのヴァンパイアとも違っていた。
何が違うのか、すぐには分からなかった。
それから、分かった。
男は、城壁の上の私たちを見上げていなかった。
見下ろしていた。
地面に立ったまま、城壁の上の私たちを見下ろしているように見えた。
「ルンシアの王子殿下に、申し上げる」
低く柔らかい声だった。大声を張り上げているわけでもないのに、城壁の上まではっきりと届いた。
「我は、水の都アクアレイスの主、ヴァイス・アクアレイス。帝国の皇帝陛下の名代として、参った」
皇帝陛下、という言葉を、男はほんの少しだけゆっくりと言った。何かを舌の上で転がすように。
「用件は、二つ。一つ。王都の門を開き、降れ。降れば、王族の首だけで、民の命は取らぬ。……二つ。西の侯爵、オズヴァルドの身柄を、差し出せ」
城壁の上がざわめいた。
殿下は何も言わなかった。
事実上の降伏勧告だった。
しかしフェリシアの実情を知っているものにとっては受け入れるわけにはいかないものだった。
単に国がなくなる。王族が絶えるという話ではない。その先に待つのは、人族が永劫魔族の食料として搾取される未来。
希望は見えずとも戦うしかない。
殿下が腰にかけた金の細剣を固く握る。
美しいだけでなんの変哲もないその剣はただそこにあるだけだった。
男はそれを気にする様子もなく、城壁の上をゆっくりと見回した。その目が、私の上で止まった。
「……ほう」
男が目を細めた。
「黒髪」
冬の風が、首筋に浮いた汗を一筋ずつ冷やしていった。
「話は聞いている。フェリシアで、我が血族の末席を討った、黒髪の騎士」
男は小首を傾げた。
「エドガー・メルヴェイン。躾の行き届かぬ、品のない犬だった。献上の品をくすねる、卑しい犬でもあった。……だが、我が犬だ」
冬の湖のようだと、エドガーの目を見たとき私は思った。
この男の目は、湖ではなかった。
底が、なかった。
「犬を殺されて、黙っている飼い主はおらぬ。……覚えておこう。その顔と、その髪の色を」
男はそれから、ふっと鼻を鳴らした。風上に立つ獣のように。
「若いな。……いい匂いがする」
気づいたときには、剣の柄を握っていた。
殿下の手が、私の手首を上から押さえた。見ると殿下は男を見下ろしたまま動かず、その手だけが私の手首を強く押さえていた。
「使者殿」
殿下が口を開いた。
「王都は、門を開かぬ。侯爵も、差し出さぬ。……帰って、皇帝陛下に、そうお伝えあれ」
男は笑った。声を出さずに、口の端だけで。
「皇帝陛下に、か」
男は馬車の扉に手をかけた。
「伝えるとも。……もっとも、あの若造に伝えたところで、我がすることは変わらぬがな」
そのときだった。
帝国の陣の最前列から、一人歩み出てきた者がいた。
瑠璃色の髪の女だった。肩のあたりで揃えた髪を風になびかせて、大股で馬車のほうへ歩いてくる。
「おい、ヴァイス」
女の声が平原に響いた。
「使者の口上は、終わったか」
「……フェルミナ様」
振り返った男の顔から、笑みが消えていた。
「口上はもう済んだろ。とっとと帰れ。……ついでに言っとくが」
女は男の目の前で足を止めた。男よりも頭一つ背が高かった。
「陛下の名代だってんなら、陛下の名代らしい口を利け。次に、あの子のことを、若造なんて呼びやがったら」
女は、にかっと笑った。
「その髪、根元から引っこ抜くぞ」
男はしばらく女を見上げていた。それから、優雅に一礼した。
「……肝に銘じましょう」
男が乗り込むと扉が閉まり、馬車は帝国の陣へ戻っていった。
女はそれを見送ってから、城壁の上を見上げた。
私を。
それから片手を上げて、ひらひらと振った。
「よう、黒髪。久しぶりだな。……剣は、ちゃんと預かってるぜ」
女は踵を返して、陣へ戻っていった。
殿下の手が、私の手首から離れた。
「……あの二人は、互いを憎んでいる」
殿下が呟いた。
「リッチの長女と、水の都の主。帝国の皇帝は、あの二人を、同じ戦場に置いた。……首輪を、互いにかけさせているのだ」
殿下はしばらく帝国の陣を見下ろしていた。
「だが、首輪をかけ合っていても、二匹の獣は、二匹の獣だ。この門を噛み破るのに、首輪は邪魔にならぬ」
◇
包囲の七日目、帝国の軍勢が王都に攻めかかった。
黒い群れが西の城壁に押し寄せた。城壁の上から術師たちの術が降り注ぎ、矢が降り注ぎ、煮えた油と石が降り注いだ。
それでも黒い群れは止まらなかった。
ヴァンパイアたちの術が城壁を撃った。赤い塊が石を削り、砕き、城壁の上の兵たちを吹き飛ばした。
城壁へ上がる石段の下に、王家の旗が一本立てられていた。王城の尖塔に掲げられているのと同じ、王家の紋を金糸で縫い取った旗だった。上がっていく兵たちは、一人ずつその裾に額をつけてから石段に足をかけた。
私の前で額をつけた古参の兵が、振り返って言った。
「主神様は世界のことでお忙しいからな。こういうときは、王家と女神様に頼むのが筋さ」
兵の額に、旗の金糸の跡が赤く残っていた。兵はそれを拭いもせずに石段を駆け上がっていった。
西の大門の前には、ドワーフの重装兵たちが並んでいた。門の内側で銀の盾を並べ、斧槍を揃えていた。
公爵がその先頭に立っていた。包囲の初日に、去年折った左腕をまた同じところで折ったのだという。布で吊ったまま、右腕一本で斧槍を構えていた。
「門が破られても、ここは通さん」
公爵は言った。
「ヴァルムハイムの銀は、まだ溶けとらんぞ」
攻めかかられて三日目の夕方、侯爵の連奏が放たれた。
西の城壁の上に術師たちが並び、金錦の旗が夕陽の中で翻った。
谷のときのような、天を貫く光の柱ではなかった。城壁の前の平原を横一文字に薙ぐ、光の帯だった。
光の帯が通ったあとに、黒い群れは残っていなかった。草も。土も。そこにいた下級魔族たちも。
帝国の陣がどよめいた。城壁の上から歓声が上がった。
光の帯が薙いだ跡の、そのわずかに外側に、あの女が立っていた。
女は自分のつま先の先で途切れている焼け跡を見下ろして、口笛を吹いた。それから城壁の上の侯爵を見上げて、にやりと笑った。
一歩も下がっていなかった。
あの女は、どこまで届くかを最初から読んでいたのだ。
私は侯爵を見ていた。
侯爵は旗杖を振り下ろしたまま、城壁の縁に手をついて身体を支えていた。真っ白な髪が夕陽を受けて瞬いていた。背中の半ばを越えるところまでが。
フィンが城壁の上を駆けていくのが見えた。侯爵の傍らに膝をつき、その身体を支えた。
侯爵は、フィンの手を払わなかった。
その夕方、城壁の内側の広場で、その日の死者が送られた。
日が沈みかけていた。司祭の短い祈りのあいだ、兵たちは立ったまま西を向いて頭を垂れた。西を向けば、城壁の向こうに帝国の篝火が灯りはじめているのが見えた。それでも誰も向きを変えなかった。
城壁の上に、烏が三羽とまっていた。祈りが終わるまで鳴かなかった。
城壁の上には、攻めかかられた初日から歌が流れていた。
リエルの歌だった。
城壁の上の塔の一つに、白い衣の小さな人影が立っていた。黒い紗のベールで顔を隠して。
声は、冬の間に少しだけ戻っていた。それでも掠れていた。掠れたまま歌っていた。
城壁の上で倒れた兵が立ち上がり、立ち上がってまた弓を引いた。
城壁の内側の通りでは、粥の椀を持った人々が足を止めていた。椀を足もとに置き、塔のほうへ向かって手を組んでいた。目を閉じている者もいた。誰も大聖堂のほうは向いていなかった。
歌の合間に、リエルは時おり身体を折って咳き込んだ。
咳き込むたびに、黒いベールの内側に小さな布を当てていた。その布を付き人がすぐに受け取って、袖の中に隠した。
布に何がついていたのか、城壁の上からは見えなかった。
その歌の中で、私は殿下の傍らで西の大門の上に立ち続けた。
城壁をよじ登ってきたヴァンパイアを斬った。
一人。二人。
影を見て。影の、次を読んで。
城壁の上は狭かった。躱す場所は限られていた。それでも読めた。狭い場所では、相手の動ける場所も限られている。
青い波の旗の下から来たヴァンパイアは、緩衝地帯で戦ってきた者たちと術の色が違った。
赤い槍ではなかった。
水だった。
手のひらから噴き出した水が宙で細い刃になり、凍りつき、白い氷の刃になって飛んでくる。城壁の石に当たった氷の刃は、砕けずに深く食い込んだ。
水の都の術なのだと殿下が言った。海と共に生きてきた者たちは、水を結ぶのが巧いのだと。
けれど氷の刃も、放つ前に影が見えることに変わりはなかった。
一人が、城壁の縁に片手をかけたまま、三本の刃を扇のように開いて放った。私は真ん中の一本の影だけを見ていた。左右の二本は、私が一歩斜めに出れば勝手に外れる軌道だった。真ん中の一本が鼻先を過ぎる冷気を頬に受けながら、その一歩で相手の懐に入っていた。
喉を裂いた。
倒れたヴァンパイアの手から水が零れて、城壁の石の上に広がった。
それは、ただの水に戻っていた。
城壁の下で、あの女が時おり私を見上げていた。
あの女は、城壁を登ってこなかった。
まるで、何かを待っているように。
◇
包囲がひと月を超えた。
王都の中の糧は尽きかけていた。大聖堂の前庭の粥の列は日に日に長くなり、椀の中の粥は日に日に薄くなった。サルヴィナの祠の灯明は、逆に日ごとに増えていった。
非番の日、私はその粥を炊く手伝いをした。
大鍋の底を木の匙でかき回していると、列の中から小さな女の子がじっと私を見ていた。赤い頭巾をかぶった、痩せた子だった。
椀を受け取るとき、女の子は小さな声で言った。
「それ、なんのお歌?」
匙が止まった。
歌っていたつもりはなかった。鼻の奥にまだ、旋律の端が残っていた。音の高さも節回しも、この国のものではなかった。夕方の狭い台所で、皿を洗う水音に混ぜて、いつも誰かが鼻歌にしていた節だった。題も知らない。歌詞も覚えていない。私の耳が勝手に覚えて、私の喉が勝手に返していた。
「……知らない」
私は言った。
「遠いところの、歌だ」
女の子は、ふうん、と言った。それから私を見上げたまま続けた。
「かげろうの、騎士さま」
私はもう一度手を止めた。
「お父さんが、言ってたの。黒い髪の騎士さまが、村を守ってくれたって。……でも、そのあと、村、燃えちゃった」
女の子は椀を両手で持ったまま、私を見上げていた。責める目ではなかった。ただ見上げていた。
「お父さんは」
私は訊いた。
女の子は首を振った。それから椀の粥を、少しずつ大切そうに啜り始めた。
私は鍋の底から少しだけ濃いところを掬って、女の子の椀に足した。
それしか、できなかった。
鍋をかき回す手に戻ってから、口を固く閉じていた。閉じていないと、また喉が勝手に節をなぞりそうだった。湯気の向こうで、粥の表面に小さな泡が浮いては弾けていた。
城壁の上の兵は減り続けた。
リエルの歌が届くところでは、兵は死ななかった。
けれど、リエルの歌は城壁のすべてには届かなかった。
ある夜、殿下の供をして教会を訪ねた。
リエルが塔から降ろされて休んでいるのだという。三日ぶりの休みだった。
出がけに、兵舎の竈を借りた。
配られた麦をひと晩水に浸しておいたのを、ほんの少しの脂で炊いた。粥より固く、握れば形の残るくらいに。それを蓋つきの小さな錫の箱に詰めた。木の匙の背で片側へ寄せて、空いた隅に、刻んで炒った根菜を押しこんだ。
その上に干し柿を一つ載せた。
王都に戻った冬の初め、市場の隅で老婆の籠に残っていたのを、ありったけ買ったものだった。包囲が始まってから、市場には何も並ばなくなった。腰の袋の中で干し柿は一つずつ減っていった。リエルに会う日に一つ。私は一つも食べていなかった。
蓋を閉めて布で包んだ。対角の端を二度結んで、結び目の両端を指でつまんで上へ立てた。
立ててから、手が止まった。
耳みたいだ、と言われたのだ。毎朝、玄関で包みを受け取るたびに。兎の耳だ、と斂は言って、片方を指で弾いた。私はやめろと言った。翌朝も同じ形に結んだ。
結び目をほどいて、平らに結び直した。
結び直した指が、また端をつまんで立てていた。
私はそれをそのまま懐に入れた。竈の火はもう落ちていた。錫の箱の温みが、外套の内側で胸の骨に当たっていた。
教会の奥の中庭は、冬の間に噴水が止められていた。水のない水盤の縁に、リエルが座っていた。付き人たちは回廊の陰で待っていた。
殿下は中庭の入口で足を止めた。
リエルのほうを見ていた。
それから、目を逸らした。
いつものように。
「……殿下?」
リエルが顔を上げた。見えない目が中庭の入口のほうを向いた。
「殿下の足音ですわね。カリンと、ご一緒ですの?」
「……ああ」
殿下は一歩だけ中庭に入った。それ以上は近づかなかった。
「具合は、どうだ」
「元気ですわ」
「声が、掠れている」
「元気ですわ」
リエルは同じ言葉を繰り返して、笑った。
殿下はしばらく黙っていた。それから、リエルの足もとのあたりを見ながら言った。
「……明日からは、塔に上がらなくともよい。我から、教会に」
「殿下」
リエルが殿下の言葉を遮った。静かな声だった。
「わたくしは、踊り子ですわ」
殿下は口を閉じた。
「踊り子は、歌うためにおりますの。殿下が、王子として、ここにおられるように」
リエルは小首を傾げた。
「殿下は、明日、城壁に上がらなくともよい、と言われたら、上がらずにいられますかしら」
殿下は答えなかった。
答えられなかったのだろう。
リエルは、くすくすと笑った。
「殿下は、いつも、わたくしのお顔を見ずにお話しなさいますのね」
殿下の耳の先が赤くなった。久しぶりに見る赤さだった。
「……見えておらぬのに、なぜ分かる」
「声の向きで、分かりますわ。殿下のお声は、いつも、わたくしのお顔より、少し下に向いておりますもの」
殿下は何か言いかけて、口を閉じた。
それから、ほんの少しだけ顔を上げた。
リエルの顔を見た。
ほんの、一息ほどの間。
すぐにまた逸らした。
「……明日も、歌うのだな」
「歌いますわ」
「では、我は、そなたの塔の下を守る」
殿下はそう言って踵を返した。
中庭を出ていく殿下の背中に、リエルが小さな声で言った。
「殿下。……今、お顔を、見てくださいましたわね」
殿下の足が一瞬だけ止まった。それから振り返らずに、回廊の闇の中へ消えていった。
私は中庭の入口に立ったまま、リエルを見ていた。
リエルは見えない目で、殿下の足音が消えていったほうをずっと見ていた。
気がつくと、私の右手が自分の頭の上に載っていた。
髪の上から、つむじのあたりを押さえていた。誰かの大きな手がそこに載っていたときと同じ重さを、自分の掌で確かめるように。道場で泣きそうになるたびに、そこをぐしゃぐしゃにされた。やめろと払いのけても、払いのけた手のほうがいつも先に笑っていた。
夜気に冷えた髪が、掌の中でつめたかった。
私は手を下ろした。リエルに見られなくてよかったと思い、見えないのだと思い出した。
中庭に入って、懐の包みをリエルの膝に載せた。
リエルの指が布の上を探って、立った結び目に触れ、それから包み越しに干し柿の丸みを見つけた。見えない目が少しだけ細くなった。リエルは包みを両手で胸に抱えて、ほどかなかった。
塔に上がっている日のリエルはほとんど何も口にしないのだと、付き人から聞いていた。だから私はいつも、ここへ来る日に持ってきた。前に来た日も。その前も。持ってこなかった日は一度もなかった。
「カリン」
「なんだ」
「殿下は、不器用な方ですわね」
「そうだな」
「でも、わたくし、殿下のお声は、嫌いではありませんの」
リエルは水のない水盤の縁を、指先でなぞった。
「殿下のお声は、いつも、何かを我慢していらっしゃる音がしますわ。……わたくしと、同じ音」
私は何も言えなかった。
リエルの首元で、黒い首飾りが月の光を鈍く返していた。
革の縁が、前よりも深く肌に沈んでいた。痩せたのは首のほうなのに、首飾りは少しも緩んでいなかった。縁に沿って、白い肌が細く赤く擦れていた。
私は自分の外套を外して、リエルの肩にかけた。襟を立てて、首元が隠れるように前で合わせた。夜気が冷たいからだ、と思った。
王都に戻ってから、私はそこを一度もまともに見ていなかった。見なければ、それはまだ外さずにいるだけのものだった。外せないものには、ならなかった。
中庭を出ると、回廊の闇の中で、殿下が柱に背を預けて立っていた。
私が追いつくと、殿下は前を向いたまま言った。
「……クルシマ・カリン」
「はい」
「我は、あれの顔を見るのが、ずっと怖かった」
殿下の声は低かった。
「あれを塔に上げると決めたのは、教会だ。だが、それを止めなかったのは、我だ。……あれの顔を見れば、止めずにはおれなくなる。止めれば、兵が死ぬ。だから、見なかった」
殿下は柱から背を離した。
「今、見てしまった」
殿下は、それ以上何も言わなかった。
歩き出した殿下の半歩後ろで、私は振り返った。
回廊の向こうに、水のない水盤の縁に座るリエルの、小さな背中が見えた。
◇
翌朝、王城に呼ばれた。
殿下ではなかった。王だった。
玉座の間には、王と侍従が一人しかいなかった。
叙勲の日にはあれほど多くの近衛と貴族で埋まっていた広間が、がらんとしていた。高い窓から差し込む木漏れ日だけが、あの日と同じように床の上でまだらに揺れていた。玉座の上の壁では、二本の槍を立てた男の浮彫が、あの日と同じように誰のことも見ていなかった。
王は玉座に深く腰かけていた。
叙勲の日よりも、ずっと老いて見えた。白くなった金の髪が額に落ちかかっていた。それでも、その目だけはあの日と同じだった。
「近衛騎士、クルシマ・カリン」
王の声はしわがれていた。
「はい」
「近う」
私は玉座の前まで進み、膝をついた。
王はしばらく私を見下ろしていた。私の顔を。私の髪を。
「黒い髪か」
王は呟いた。叙勲の日、声もなく動いた唇の形と同じ言葉だった。
「……九十年前にも、この広間で、黒い髪の若者が、こうして膝をついた」
私は顔を上げた。
王は、私ではない何かを見ていた。
「余は、まだ王子だった。父王の傍らで、その若者を見下ろしていた。……その若者は、この国を救った。二度も」
王の目が私に戻った。
「そして、去った」
王の声には何の色もなかった。殿下の声とよく似ていた。
去った、という音が、膝の下の石から冷たく上がってきた。
九十年前。黒い髪の若者。ある日、去った。
祭りの夜の人混みの向こうへ消えた、肩の力の抜けすぎたフードの背中が、また瞼の裏に浮かんだ。払いのけた。九十年前の話だ。三年前に消えた人間が、九十年前のこの広間で膝をつけるはずがない。
そう思いながら、膝をついている石の冷たさを測っていた。九十年前の若者の膝も、この同じ石の上にあったのだろうか。その若者は、名を呼ばれたとき、どんな声で返事をしたのだろう。
もしかしたら、と思いかけた。
まさか、と打ち消した。
打ち消せるうちは、まだ大丈夫だと思った。
王は玉座の肘掛けを、指で一度だけ叩いた。
「おぬしはそうならぬと信じている。エルデリックを、頼む」
私は王の目を見た。
「あれは、余に似ず、情の深い子だ。情を捨てようとして、捨てきれずにいる。……その情が、いつか、あれの命取りになる」
王は目を閉じた。
「近衛の務めとして、ではない。……一人の老いぼれの、頼みだ」
「承りました」
私は頭を下げた。
王は目を閉じたまま、小さく頷いた。それから侍従に、退室を促す仕草をした。
私は玉座の間を出た。
扉が閉まる直前、振り返った。
王は玉座の上で目を閉じていた。
木漏れ日が、その白い髪の上で揺れていた。
◇
包囲の四十日目の、前の晩。
西の城壁の上で、フィンと並んで帝国の陣の篝火を見ていた。
平原を埋め尽くす、無数の火。夜風が城壁の上を吹き抜けていった。
「カリンさん」
「なんだ」
「戦が終わったら、カリンさんの国の料理、作ってくれるって、言いましたよね」
私はフィンを見た。
叙勲の前の晩の、兵舎の近くの食堂。いずれな、と私は言った。
「いずれ、とは言った」
「じゃあ、いずれは、戦が終わったら、ってことにしてください」
フィンは篝火を見たまま言った。
「僕、あれ、ずっと楽しみにしてるんです。カリンさんが、いちばん得意なやつ。……それ食べたら、たぶん、この戦のこと、少しは忘れられる気がして」
出汁巻きだ、と思った。
斂が一口食べて、しばらく黙り込んで、負けた、と呟いたもの。
それは口に出さなかった。
「卵が、たくさん要る」
「探してきます」
「出汁も、一から引くことになる」
「手伝います」
「手間がかかる」
「知ってます」
フィンは笑った。久しぶりに、村の森で会った頃のような笑い方だった。
私は少しだけ黙った。
それから言った。
「……作ろう。戦が終わったら」
「約束ですよ」
「約束だ」
フィンは満足そうに頷いた。
それからしばらく、二人とも黙って篝火を見ていた。
叶えなければならない約束が、また一つ増えた。
(第七章 了)




