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越境者の足跡  作者: 野良野良猫
二.割れた仮面
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17/33

第六章 後退

 殿下の天幕の卓の上に、小石が並んでいた。

 緩衝地帯の地図の上に、帝国の軍勢を示す黒い小石と、こちらの軍勢を示す白い小石。軍議のたびに、誰かがそれを動かす。

 夏の終わりには、白い小石は、川の西の丘の上にあった。

 あの谷で、侯爵の連奏が、あの女を退けた日の翌朝。白い小石は、丘の上から、さらに半里ほど西へ進められた。天幕の中で、誰かが小さく拍手をした。

 それが、一番西だった。

 それから先、白い小石は、一度も西へ動かなかった。

           ◇

 最初の知らせは、秋の初めに、海のほうから来た。

 西の沿岸に、帝国の船が現れたという。

 水の都の旗を掲げた、黒い帆の船だった。十隻、二十隻。数えきれないほどの船が、フェリシアの港から南へ下り、ルンシアの西の海岸に沿って、いくつもの漁村に兵を降ろした。

 陣の後ろの、村々に。

「ヴァイス・アクアレイスの手勢だ」

 殿下は、地図の上に、黒い小石を三つ、置いた。

 どれも、白い小石の、後ろだった。

「前から攻めてくるのは、あの女。後ろを掻き回すのは、水の都。……帝国の皇帝は、この二人を、互いに競わせているのだろう」

 殿下は、黒い小石を、指先で弾いた。

「どちらも、自分の手柄を欲しがっている。だから、どちらも、手を抜かぬ」

「フェリシアの港は、なぜ水の都の船を通すのです」

 近衛の古参の一人が、呻くように言った。

「あの国は、帝国の属国とはいえ、港の出入りは外務大臣の采配だと聞きます。あれほどの船を、黙って通すなど」

「黙ってはおらぬだろう」

 殿下は、言った。

「通す代わりに、何かを受け取っている。……あの蛇は、そういう男だ」

 三日月を咥えた蛇の封蝋を、私は思い出していた。

 殿下の革の書類入れは、卓の脇に置かれたままだった。

 天幕の中が、静まり返った。

 侯爵が、地図の上の、西の海岸を見下ろしていた。

 そこには、侯爵の都があった。

 シルフェリオ。

 白い石の回廊と、海に向かって建つ宮殿の都。

「……術師団の半分を、西へ回したい」

 侯爵が、低い声で言った。

 殿下は、侯爵を見た。

「連奏は」

「少なくとも、谷のあれは撃てん」

 侯爵は、答えた。

「箱の中のものは、谷で、ほとんど使い切った。……連奏そのものは撃てる。並の術など比べものにならん。雑兵の群れなら、まとめて焼き払えよう。だが、あの女には、効かぬ」

 天幕の中の誰もが、侯爵の顔を見ていた。

 侯爵は、誰の目も避けなかった。

「その程度の連奏でも、海から上がってきたヴァンパイアどもを、村から追い払うことはできる。……ここで、あの女の前に並べておくよりは、ましな使い道だ」

 殿下は、しばらく黙っていた。

 それから、頷いた。

「行け」

 侯爵は、深く頭を下げた。

 天幕を出ていくとき、侯爵は、入口の脇に控えていたフィンの前で、一瞬だけ足を止めた。

 何か言いかけたように見えた。

 けれど、何も言わずに、出ていった。

 侯爵と術師団の半分が西へ発ったのは、翌朝だった。

 金錦の旗が、秋の朝の光の中を、遠ざかっていった。

 フィンは、陣の外れに立って、それを見送っていた。

「……夜の稽古、しばらく、なしですね」

 フィンは、言った。

 笑おうとして、うまく笑えていなかった。

           ◇

 その秋、私は、何度も勝った。

 あの女は、あの谷のあと、しばらく姿を見せなかった。深手が癒えるまで、森の奥に籠もっているのだろうと、誰かが言った。

 あの女のいない帝国の軍勢は、また、ばらばらに戻っていた。

 ばらばらに攻め寄せてくるヴァンパイアを、私は、殿下の傍らで斬った。

 影を見て。

 影の、次を読んで。

 あの女と戦ってから、私の目は、少しだけ変わっていた。影が見せてくれる一手の、その次。そのまた次。あの女ほど速くない相手なら、三手先までは、読めるようになっていた。

 ある日、牙の紋章の旗を掲げた、大柄な男と向き合った。

 男は、両手に光を集めながら、私との間合いを測っていた。

 影が、見えた。

 右手から、赤い刃が三つ。私の胸と、左右へ。

 その次を、読んだ。

 三つの刃で私の足を止めて、左手の術で仕留める。左手に集めている光の量が、右手よりずっと多い。だから、本命は左だ。

 その次。

 左手の術を撃つには、男は、半身を切らなければならない。右の足を、後ろへ引く。

 右の刃が放たれるより早く、私は、男の左へ踏み込んでいた。

 右手の刃は、私のいた場所を通り過ぎた。

 左手の光は、まだ、集まりきっていなかった。

 半身を切ろうとして引いた男の右足の、その膝の裏を、私の剣が払っていた。

 男が、崩れた。

 崩れながら、左手の光を放とうとした。

 放つ先に、もう、私はいなかった。

 ヴァンパイアたちは、私の前で、術を撃つ前に倒れた。

 陣の兵たちは、私を見ると、道を開けるようになった。

 陽炎、と呼ぶ声が、どこへ行っても聞こえた。

 帝国の側でも、私の名が知られ始めていると聞いた。

 それでも、地図の上の白い小石は、動かなかった。

 いや。

 動いていた。

 東へ。

 少しずつ。

 私が斬ったヴァンパイアの数だけ、どこかで村が焼けていた。

 西の海岸の漁村。川沿いの農村。陣の後ろの、兵たちの糧を運ぶ街道沿いの宿場。

 水の都の兵は、前から攻めてこなかった。後ろに回り込み、守りの薄いところだけを選んで、焼いた。焼いては、船に戻った。船に戻っては、また別の海岸に上がった。

 追いかけても、追いつけなかった。

 追いついたときには、もう、焼け跡しか残っていなかった。

 街道には、東へ向かう人の列が、途切れなく続くようになった。

 焼け出された村の人々だった。荷車に家財を積み、子供の手を引き、老人を背負って、王都のほうへ歩いていく。

 陣の脇を通るとき、人々は、兵たちを見上げた。

 ある日、赤子を抱いた若い母親が、私の馬の前で足を止めた。

「騎士様」

 母親の頬は、煤で汚れていた。

「勝っているんですよね。この戦」

 私は、答えられなかった。

 母親は、しばらく私の顔を見ていた。

 それから、黙って頭を下げて、列の中へ戻っていった。

 腕の中の赤子が、ずっと泣いていた。

 陣に届く糧が、少しずつ減っていった。

 黒いパンが、半分になった。

 干し肉が、三日に一度になった。

 兵たちの頬が、こけていった。

 ある日、殿下の命で、陣の後ろの村へ向かった。

 水の都の手勢が、近くの海岸に上がったという知らせがあった。近衛の騎士十人と、フィンと、私。馬を飛ばせば、半日で着く距離だった。

 着いたとき、村は、まだ燃えていなかった。

 村の入口で、ヴァンパイアが二人、手勢の下級魔族を二十人ほど率いて、家々に火をかけようとしていた。

 私たちは、間に合った。

 ヴァンパイアの一人は、私が斬った。

 もう一人は、フィンの蒼い炎が、壁ごと撃ち抜いた。

 下級魔族たちは、主が倒れると、散り散りに逃げていった。

 村の人々が、家の中から、おそるおそる出てきた。

 腰の曲がった老人が、私の手を握った。

 皺だらけの手が、震えていた。

「ありがとう、ございます。騎士様。ありがとう」

 老人は、何度も、何度も、頭を下げた。

 その後ろで、小さな女の子が、母親の脚にしがみついて、私を見上げていた。

 その夜は、村の集会所に泊めてもらった。

 村の人々は、なけなしの麦で、粥を炊いてくれた。薄い粥だった。それでも、陣の汁よりは、ずっと温かかった。

 フィンが、粥をすすりながら、ぽつりと言った。

「……守れましたね」

「守れた」

「レーンベルのときは、間に合わなかったから」

 フィンは、椀の中の粥を、じっと見つめていた。

「今日は、間に合いました」

 私は、頷いた。

 その夜、久しぶりに、よく眠れた。

 翌朝、陣へ戻る途中で、煙を見た。

 街道の先。一里ほど南。

 別の村だった。

 私たちが、昨日の村を守っている間に、別の手勢が、別の海岸から上がっていた。

 着いたときには、もう、何も残っていなかった。

 焼け落ちた家々。黒く焦げた柱。まだ燻っている藁屋根の残骸。

 道の真ん中に、小さな木の人形が、落ちていた。

 片方の腕が、焦げていた。

 フィンが、馬から降りた。

 人形の前で、膝をついた。

 拾い上げようとして、手を止めた。

 それから、そのまま、動かなくなった。

 私は、馬の上から、フィンの背中を見ていた。

 四年前の夏、狩りから戻る道で見た、あの煙。

 あのとき、フィンは、村へ向かって走った。

 今は、走らなかった。

 走っても、もう、何も間に合わないことを、知っていたからだ。

           ◇

 冬が来た。

 緩衝地帯の冬は、早かった。丘の草が枯れ、川が凍り、北西の森が、白く霞んだ。

 帝国の軍勢は、冬の間も、止まらなかった。

 ヴァンパイアは、寒さを苦にしない。夜が長いほうが、むしろ動きやすいのだという。

 こちらの兵は、凍えていた。

 糧は、さらに減っていた。

 天幕の中で、兵たちは身を寄せ合って眠った。朝になると、目を覚まさない者が、何人かいた。

 リエルの歌は、傷は治せても、飢えと寒さは治せなかった。

 私は、料理番の天幕を借りて、大鍋に湯を沸かした。

 干し肉の最後の切れ端と、兵たちが雪の下から掘り出した根菜と、陣の外れで摘んだ、苦みのある冬の草。骨は、捨てずに取っておいたものを、全部入れた。

 料理番の竈の縁にも、素焼きの像が座っていた。

 塩の壺は、底が見えていた。指でさらうと、湿った粒が爪の先にようやく引っかかるほどしか残っていない。料理番の老兵が、私の手もとを見ていた。

 私はそのひとつまみを、像の足もとに置いた。

 鍋に入る分が、それだけ減った。老兵は何も言わなかった。黙って火打石を打ち、薪に火を移した。塩の粒が熱を浴びて、いつもより小さな音で一度だけ跳ねた。

 ひと晩、弱い火で煮た。

 骨の髄が溶け出して、湯が、白く濁った。

 塩は、ほとんどなかった。それでも、根菜の甘みと、骨の旨みが、湯に移っていた。

 朝、近衛の天幕の前に鍋を運ぶと、兵たちが、黙って列を作った。

 一人に、椀一杯。

 それしか、なかった。

 兵たちは、椀を両手で包み込むように持って、ゆっくりと啜った。

 誰も、何も言わなかった。

 列の最後に、頭に布を巻いた公爵が並んでいた。

 椀を受け取ると、公爵は、髭を湯気で濡らしながら、ひと口啜った。

「……美味えな」

 公爵は、言った。

 夏に、川魚の串を齧ったときと、同じ言葉だった。

 けれど、あのときのようには、笑わなかった。

「嬢ちゃん。これで、何人が、今日一日、生き延びる」

「分かりません」

「そうか」

 公爵は、椀を空にして、私に返した。

「俺にも、分からん。……分からんが、今日のこいつは、美味かった」

 公爵は、そう言って、自分の天幕へ戻っていった。

 私は鍋の底に張りついた骨の滓を、黒パンの耳でこそげた。

 こそげた端を、気がつくと口に入れていた。焦げた髄の苦みと、かすかな脂の甘み。塩の味は、ほとんどしなかった。

 鍋の底をパンで拭うのは、斂の癖だった。行儀が悪いと私が叱ると、もったいない、と言い返された。あのアパートの、蓋の歪んだ片手鍋の前で。私は呆れた顔のまま、その手つきが終わるまで、いつも台所の戸口に立っていた。

 同じ手つきで、私はパンの耳を最後まで噛んだ。

 鍋の底には、もう、何も残っていなかった。

 冬のさなか、殿下の天幕で、軍議が開かれた。

 天幕の中は、秋よりも、ずっと人が少なかった。

「北の辺境伯が、手勢を引き上げると言ってきた」

 近衛の古参の一人が、書状を読み上げた。

「領地の海岸に、水の都の船が現れたと。己の領地を守るのが先だ、と」

「隣の子爵もです」

 別の騎士が、言った。

「南の伯爵も。……どの家も、同じことを」

 殿下は、黙って聞いていた。

 ルンシアの主力は、貴族たちが束ねる騎士たちだ。王家の兵ではない。貴族たちの、私兵だ。

 貴族たちは、自分の領地が燃えていれば、自分の兵を引き上げる。

 誰も、それを止められなかった。

 王家に、それを止める力はなかった。

「……好きにさせよ」

 殿下は、言った。

 古参の騎士が、顔を上げた。

「殿下、それでは」

「己の領地の民を守りに帰る、と言う者を、我は止められぬ。……止めて、ここで凍え死にさせるのか」

 殿下は、卓の上の書状の束に、手を伸ばした。

 端を、指で揃えた。

 何度も。

 何度も。

 私は、天幕の隅で、その指を見ていた。

 殿下の分類に書き込んだ、あの項目。

 固まる前に、目を逸らす。それから、書類を揃える。

 あれは、照れているときの仕草だと思っていた。

 違った。

 殿下は、どうしようもないときに、書類を揃えるのだ。

 揃えても、何も変わらないと知っていて。

 その夜、天幕を出るとき、殿下に呼び止められた。

 他の者たちが出ていったあとで、殿下は、卓の上の地図を見下ろしていた。

「クルシマ・カリン」

「はい」

「そなたは、この秋、何人のヴァンパイアを斬った」

 私は、少し考えた。

「数えるのは、やめました」

「そうか」

 殿下は、地図の上の白い小石を、指先で一つ、つまみ上げた。

「我も、やめた」

 殿下は、小石を、少しだけ東に置き直した。

「そなたは、よく戦っている。近衛の誰よりも。……九十年前の戦で、我は、あの黒髪の勇者の戦いぶりを見た。そなたの戦いぶりは、あれに劣らぬ」

 殿下の声は、平らだった。

「それでも、この小石は、東へ動く」

 殿下は、地図から目を上げなかった。

「一人の騎士が、どれほど強くとも。一つの戦で、どれほど勝とうとも。……戦は、そういうものでは決まらぬ」

 私は、何も言えなかった。

 言えなかったのに、口のほうが先に動いた。

「……その勇者は、背丈はどれほどでしたか」

 殿下が、初めて地図から目を上げた。

 緑の目が、私の顔の上で一度だけ止まった。

「覚えておらぬ」

 殿下は、小石に目を戻した。

 嘘だと思った。けれど、問い返す言葉は出てこなかった。何を確かめたくて訊いたのか、自分でも分からないふりをした。

 本当は分かっていた。私の額がちょうど顎の下に収まる高さ。冬の土手を並んで歩くとき、風よけにしていた肩の高さ。その寸法を、九十年前の男に当てはめようとしていた。

 九十年前だ。三年前ではない。

 燭台の火が揺れて、白い小石の影が地図の上で東へ伸びた。

 殿下は、それ以上、何も言わなかった。

 私は、一礼して、天幕を出た。

 雪が、降っていた。

 世界樹の枝の届かないこの野では、雪は、何にも遮られずに、まっすぐ降ってきた。

 殿下の天幕の前には、王家の旗が立っていた。

 冬になってから、朝の出撃の前に、兵たちがその旗竿の根もとに触れていくようになった。王都を発つ日に旗の裾に触れたのと同じように、手袋を外し、凍った木肌に素手の掌を一度だけ当てて、それから持ち場へ向かう。

 陣の隅には、従軍の司祭が主神の小さな像を据えた天幕もあった。その前の雪は、いつも誰にも踏まれずに白かった。

 旗竿の根もとの雪だけが、毎朝、泥の色に踏み固められていた。

 その冬、不寝番で殿下の天幕の前に立つ夜は、いつも、中の灯りが朝まで消えなかった。

 一度、交代の刻限に中を覗いたことがある。

 殿下は、卓に向かって、筆を走らせていた。

 卓の上に、紙が何枚も重なっていた。どの紙にも、短い文と、名前が一つずつ書かれていた。

 その日に死んだ、近衛の騎士たちの名だった。その朝、旗竿の根もとに掌を当てていった者も、きっといた。

 家に宛てた手紙なのだと、分かった。

 殿下は、一枚書き終えるたびに、その紙の端を、指で揃えた。

 揃えてから、次の紙に取りかかった。

 私は、声をかけずに、入口の布を下ろした。

 翌日から、日が暮れる前に陣を回るようになった。

 その日に死んだ近衛の名と、生まれた村の名と、家で待っている者の名を、隊ごとに訊いて歩いた。綴りの怪しいものは同じ隊の者に何度でも訊き直した。それを一枚の紙に清書して、殿下が筆を取る前に卓の隅へ置いた。

 誰にも頼まれていなかった。

 最初の晩、殿下は紙を一瞥しただけで何も言わなかった。翌朝、送り出す手紙の束を見ると、宛名の綴りが私の紙のとおりになっていた。

 それからは毎晩そうした。殿下が書き終えた手紙に封蝋を落とし、糧を運んできた荷車が戻るときに御者へ預けるところまで、気がつくと私の務めになっていた。死者の少ない日は、手の置き場がなかった。紙の端を何度も揃え直していて、それが誰の癖だったかを思い出してやめた。

 紙を届けるときは、天幕の前で名乗って、中からの声を待った。

 殿下はたいてい何かを書いていて、返事はすぐには来なかった。雪が外套の肩に積もる音がするほどの間があった。

 ある晩、その間を数えている自分に気づいた。

 呼び鈴を押して、扉の向こうの無音を聞いて、もう一度押すか帰るかを決めるまでの長さ。錆びた鉄階段の上で、毎日測っていた長さだった。同じだった。

 違う、と思った。

 ここでは、返事が来る。

「入れ」

 低い声がして、私は入口の布を持ち上げた。持ち上げる前に、外套の雪を払うのを忘れていた。

 年が明けて間もなく、殿下が、教会の神殿騎士の隊長と言い争っているのを聞いた。

 天幕の外まで、声が漏れていた。

「三日に一度は、休ませよ。あれの声が、もう出ておらぬ」

「殿下。御方の歌は、女神様の御業。御方ご自身のお力で歌っておられるのではございません」

「女神の御業だろうと、喉を使うのはあれだ」

「猊下の御言葉です。御方は、兵が一人でも倒れている限り、歌われる。……それが、踊り子というものでございます」

 しばらく、声が途切れた。

 それから、殿下の低い声が聞こえた。

「……下がれ」

 隊長が、天幕から出てきた。

 私の前を、会釈もせずに通り過ぎていった。

 天幕の中からは、それきり、何の音もしなかった。

            ◇

 フィンの術が、弱くなっていた。

 冬の戦で、私は、それに気づいた。

 蒼い炎が、以前ほど、蒼くなかった。岩の壁が、以前ほど、厚くなかった。撃ち分けていた三つの術が、二つになり、一つになった。

 右手の剣を、使うことが増えた。

 私と毎晩合わせてきた剣は、確かに上達していた。けれど、剣だけで戦うフィンは、術を撃ち分けていた頃のフィンよりも、ずっと弱かった。

 ある夜、焚き火の前で、フィンが、首の後ろの髪を、小刀で切っていた。

 私は、隣に腰を下ろした。

 フィンの足もとに、切り落とされた髪が、落ちていた。

 焚き火の光を受けて、髪の先が、ちかりと光った。

 私は、それを拾い上げた。

 白に近い金の髪の、先端の、ほんの一粒ほど。

 そこだけが、固く、透き通っていた。

「……ばれちゃいましたね」

 フィンは、小刀を膝の上に置いた。

「秋の終わりくらいから、です。術を撃ったあと、うなじの髪が、ちりちりして。触ると、先っぽが、硬くなってて」

 フィンは、自分の首の後ろに、手を当てた。

「切っても、意味はないって、侯爵様に教わりました。結晶になるのは、晶素が身体の中に溜まるからで、髪を切っても、溜まったものは減らないって。……だから、術を撃つしかない。撃って、外に出すしかない」

 フィンは、焚き火を見つめた。

「でも、撃てば撃つほど、集める量も増えるんです。僕、集める力のほうが、強いみたいで。放つ力で追いつかない分が、少しずつ、残っていく」

 フィンは、自分の手のひらを見下ろした。

 剣の胼胝の上に、焚き火の影が揺れていた。

「侯爵様の髪、見ましたよね。あの谷のあと、肩のところまで、光ってた」

「見た」

「侯爵様の弟子の人たちは、みんな、ああなって死んだって。御前会議で、侯爵様、そう言ってましたよね」

 私は、頷いた。

 フィンは、少しだけ笑った。

「怖いんです」

 王都の井戸端で聞いたのと、同じ言葉だった。

 あのときは、戦争が怖いと言った。

 今は、違うものが怖いのだと、分かった。

「撃たなきゃいけないって、分かってるんです。撃てば、もっと多くの人を守れる。レーンベルみたいな村を、一つでも多く。……でも、撃とうとすると、手が止まるんです。うなじが、ちりちりするのを思い出して」

 フィンは、両手を握りしめた。

「僕、臆病ですね」

「臆病ではない」

 私は、言った。

「侯爵が、君に、逃げろと言った」

 フィンが、顔を上げた。

「あの女と出会ったら、戦うな、逃げろ、と。……逃げろと言われて逃げられるのは、臆病ではない。生き延びる、ということだ」

 フィンは、しばらく私の顔を見ていた。

 それから、うつむいた。

「……でも、逃げてばかりじゃ、何も守れない」

 私は、答えられなかった。

 それは、私自身の問いでもあった。

 私は、逃げていなかった。

 毎日、戦って、毎日、勝っていた。

 それでも、何も守れていなかった。

 私は、手の中の、小さな結晶の粒を見下ろした。

 フィンの髪の先だったもの。

 懐の奥の、あの結晶塊と、同じ色をしていた。

 私は、それを、焚き火の中に落とした。

 燃えなかった。

 灰の上で、ちかりと光ったまま、そこに残っていた。

 数日後、西の海岸から、フィン宛ての手紙が届いた。

 侯爵からだった。

 封蝋には、金糸を織り込んだ旗の紋が押されていた。

 フィンは、焚き火の前で、その手紙を読んだ。

 読み終えると、しばらく黙っていた。

 それから、私に、手紙を差し出した。

 短い手紙だった。

 術は、撃つ者を選ぶ。恐れを知る者だけが、術を長く撃てる。恐れを忘れた者から、結晶になる。わしの弟子たちは、皆、恐れを忘れて死んだ。

 恐れを捨てるな。恐れたまま、撃て。撃つべきときを、恐れの中で選べ。

 それができぬうちは、剣を振れ。

 署名の下に、小さく、一行だけ書き添えられていた。

 死ぬな。

 私は、手紙をフィンに返した。

 フィンは、それを丁寧に畳んで、胸元にしまった。

 鎖の先の、梟のペンダントの、すぐ隣に。

 金糸の旗の封蝋が、焚き火の光を受けて、鈍く光っていた。

 あの封蝋と同じ形を、私は、帝国の黒い紙の上で見た。

 同じ手が、この手紙を書いた。

 どちらも、同じ人の手だった。

             ◇

 リエルの声が、掠れていた。

 冬の間、リエルは、ほとんど毎日、歌っていた。

 戦のある日は、戦場で。戦のない日は、救護の天幕で。凍えて動けなくなった兵の手足を温め、飢えで倒れた兵を起き上がらせた。

 歌で、飢えは治せない。

 それでも、教会の人々は、リエルに歌わせた。

 立ち上がった兵は、少なくとも、その日は戦える。

 ある晩、リエルの天幕を訪ねると、リエルは、寝台の上で、膝を抱えていた。

 前より、ずっと小さく見えた。

 もともと細かった手首が、骨の形が分かるほど、細くなっていた。

「カリン」

 リエルの声は、ほとんど、息だけだった。

「今日は、お喋り、できませんの。……声が、出ませんのよ」

「喋らなくていい」

 私は、リエルの隣に座った。

 リエルの手を、握った。

 冷たかった。

 いつも、冷たかった。

 リエルは、私の肩に、頭を預けた。

 しばらく、そのまま、二人とも黙っていた。

 天幕の外で、風が鳴っていた。

「……カリン」

 やがて、リエルが、掠れた声で言った。

「わたくしの、やりたいこと。いくつ、叶いましたかしら」

「三つだ」

 私は、答えた。

「海の音。柿。雀の声」

「四つ目は」

「今、叶えている」

 リエルは、小さく息を吐いた。

 笑ったのだと、分かった。

「では、五つ目は」

 私は、少しだけ、黙った。

 桜の木の下で、私の弁当を食べること。

 この国には、桜はない。

 この戦は、終わる気配もない。

「……探している」

 私は、言った。

「まだ、探している」

「そう」

 リエルは、目を閉じた。

「では、待っておりますわ。……わたくし、待つのは、得意ですのよ。ずっと、ずっと、教会の中で、待っておりましたもの」

 リエルの寝息が、聞こえ始めた。

 私は、リエルの手を握ったまま、朝まで動かなかった。

            ◇

 春になって、あの女が戻ってきた。

 瑠璃色の髪は、焦げたところを切り落としたのか、肩のあたりで揃えられていた。左の腕は、元通りに動いていた。

 黒い群れが、また、あの女の後ろに揃った。

 旗と旗が、また、一列に並んだ。

 あの女が歩くところで、こちらの前衛は崩れた。

 侯爵の連奏は、ここにはなかった。

 侯爵と術師団の半分は、まだ西の海岸で、水の都の手勢を追っていた。残った術師たちの陣では、あの女の足を、一瞬止めることさえできなかった。

 公爵のドワーフたちが、あの女の前で、最後まで踏み止まった。

 銀の盾を並べ、斧槍を揃え、あの女の大槌を、三度、四度と受け止めた。受け止めるたびに、誰かが吹き飛んだ。それでも、隊列は崩れなかった。

 五度目で、公爵自身が、斜面を転がり落ちた。

 起き上がった公爵の左腕が、あり得ない方向に曲がっていた。

 公爵は、それを見下ろして、髭の中で、何か罵った。

 それから、右腕一本で斧槍を拾い、叫んだ。

「退けぇ! ヴァルムハイムの銀を、こんな野っ原で溶かしてたまるか!」

 ドワーフたちは、公爵を担いで、隊列を崩さないまま、下がっていった。

 殿下は、あの女と戦うことを、禁じた。

 私にも。

「あの女が出たら、下がれ」

 殿下は、言った。

「そなたが斬られれば、兵の心が折れる。……今のこの陣で、まだ折れていないのは、そなたの名だけだ」

 私は、下がった。

 下がって、あの女のいないところで、ヴァンパイアを斬った。

 あの女は、ときどき、遠くから私を見ていた。

 手を振ることもあった。

 一度だけ、声が届いた。

「黒髪! 逃げてばっかりじゃ、剣は返してやれねえぞ!」

 私は、答えなかった。

 答えられなかった。

 白い小石は、東へ動いた。

 川の西の丘から、川の東へ。

 川の東の丘から、さらに東の、古い砦の跡へ。

 砦の跡から、さらに東の、名前も知らない村の外れへ。

 一つ下がるたびに、一つ、村が、帝国のものになった。

 私は、一度も負けなかった。

 私の前に立ったヴァンパイアは、一人残らず、倒れた。

 それでも、下がった。

 下がって、下がって、下がり続けた。

 夏の終わり、陣は、王都から三日の距離まで下がっていた。

 その夜、陣の外れの丘に、一人で立った。

 東の空の下に、世界樹が見えた。

 巨大な幹が、夜空を塞いでいた。その根元に、王都アルセリアがある。王城の尖塔の灯りが、ここからでも、針の先ほどに見えた。

 一年半前、あの都の大門をくぐって、西へ出た。

 正しい戦だと、信じて。

 私の剣は、ああいうものを斬るためにある、と。

 私は、ヴァンパイアを斬った。何人も。数えきれないほど。

 あの地下室を作った者たちを。

 斬っても、斬っても、地下室は、なくならなかった。

 私が一人斬るあいだに、どこかで、また一つ、村が焼けた。焼けた村の子供たちが、どこへ連れていかれるのかを、私は、もう知っていた。

 正しい戦だった。

 今でも、そう思う。

 あの地下室を作った者たちが、間違っていないはずがない。

 けれど、正しい側に立って、正しく剣を振るっても、それで救われるものは、あまりにも少なかった。

 それでも、村は焼けた。

 兵は飢えた。

 リエルは、声を失った。

 フィンは、術を撃てなくなった。

 殿下は、書類を揃えることしかできなくなった。

 一人の騎士が、どれほど強くとも。

 殿下の言葉が、耳の奥で、何度も繰り返された。

 私は、自分の手を見下ろした。

 剣を握り続けて、固くなった手のひら。

 この手で、何を変えられたのだろう。

 何も。

 何一つ。

 背後で、草を踏む音がした。

 振り返ると、フィンが立っていた。

 何も言わずに、私の隣に並んだ。

 並ぶと、やはり、私が見上げる格好になった。

 フィンは、東の空の下の、王都の灯りを見ていた。

「……帰ってきちゃいましたね」

 フィンが、言った。

「帰ってきた」

 私は、言った。

 帰ってきた。

 勝ち続けて、ここまで。

 風が、丘の草を渡っていった。

 西の空は、もう暗かった。

 その暗さの向こうから、黒い群れが、少しずつ、近づいてきていた。

 落葉歴九百八十八年、夏の終わり。

 ルンシアの軍勢は、緩衝地帯のすべてを失い、王都の西の平原まで退いた。

 翌年の春、帝国の軍勢は、王都アルセリアを包囲することになる。


(第六章 了)

 

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