第五章 連奏
荷車の幌が外されたのは、川の向こうへ下がって十日目の夜だった。
私は、殿下の供をして、陣の後ろの術師団の区画にいた。
篝火がいくつも焚かれ、その明かりの中で、深緑の長衣の術師たちが、木箱の鉄の帯を一本ずつ外していた。王都を発ったときから、一度も開けられることのなかった箱だった。
蓋が、開いた。
中には、藁が詰められていた。
術師の一人が、藁の中に手を入れ、何かを取り出した。
石だった。
そう見えた。
大人の拳ほどの大きさの、半ば透き通った塊。篝火の光を受けて、淡い虹色を返している。
術師は、それを布の上に並べた。
次の塊を取り出した。
また、次を。
布の上に、透き通った塊が、いくつもいくつも並んでいった。大きさも、形も、ばらばらだった。
丸いものがあった。
細長いものがあった。
五本の、細い枝のようなものが、根元で一つに繋がっているものがあった。
私は、その形から、目を離せなかった。
枝の一本一本に、節があった。
先端に、薄い、平たい何かが張りついていた。
爪の形だった。
私の手が、ひとりでに、懐の奥に伸びていた。
布越しに、あの結晶塊に触れた。
村を焼いた盗賊の懐から転がり出た、親指ほどの塊。端々が削れて、元の形は分からない。
綺麗な石だと思って、拾ったものだった。
アーロンが、なじった。貴様とて、同類ではないか、と。
あのときは、その意味が分からなかった。
今は、分かった。
布の上に並べられていく塊と、私の懐の塊は、同じものだった。
「……殿下」
声が、掠れた。
殿下は、布の上の塊を見下ろしていた。
何の表情もなかった。
「あれが、何か分かるか」
殿下が、言った。
「分かります」
「そうか」
殿下は、それ以上、何も言わなかった。
篝火が、ぱちりと爆ぜた。
術師団の天幕の入口に、侯爵が立っていた。
金錦の旗杖を手に、布の上に並べられていく塊を、黙って見ていた。
真っ白な髪の毛先が、篝火の光の中で、塊と同じ色に瞬いていた。
侯爵が、ふと、顔を上げた。
私と、目が合った。
侯爵は、目を逸らさなかった。
何も言わなかった。
ただ、静かに、私を見返していた。
御前会議の間で、王の目を正面から受け止めていたときと、同じ目だった。
先に目を逸らしたのは、私のほうだった。
◇
「明日、あの女を、この谷に呼び込む」
殿下が、地図の上の一点を指した。
川から西へ半里ほどの、浅い谷だった。両側を低い丘に挟まれ、谷底を古い街道が一本、通っている。
「谷の底に、侯爵の陣を描く。術師は丘の陰に伏せる。あの女が谷に入ったら、連奏を撃つ」
「入ってくれますかね」
公爵が、頭の布をいじりながら言った。
「入る」
殿下は、私を見た。
私の肩のあたりを。
「あの女は、黒髪を探している。黒髪が谷の奥にいれば、必ず来る」
天幕の中の目が、私に集まった。
私は、頷いた。
「囮は、私が」
「待ってください」
フィンが、声を上げた。
近衛の古参たちが、じろりとフィンを見た。フィンは、それでも引かなかった。
「カリンさんは、まだ、肋が」
「もう繋がっている」
私は、言った。
本当だった。救護の兵が首を傾げるほど、もう痛みはなかった。
「それに、剣を返してもらう約束がある」
腰には、殿下が用意させた代わりの剣が吊られていた。騎士団の支給品と同じ、両刃の長剣だった。重さも長さも、あの剣とは違った。
「連奏の支度には、どれほどかかる」
殿下が、侯爵に訊いた。
「あの女が陣の真ん中に来てから、放つまで。百を数えるほど」
侯爵は、答えた。
「術師六十人の意識を、この旗の下に一つに束ねる。束ねたものを、晶素に乗せて、結ぶ。……それだけの間、あの女を、陣の中に留めておかねばならん」
「百」
公爵が、唸った。
「あの女の前で、百も数えられる奴がおるか」
天幕の中が、静まり返った。
そのとき、天幕の入口の布が、上がった。
白い外套の神殿騎士の隊長が、入ってきた。
その後ろに、小さな人影が続いていた。
付き人に手を引かれた、リエルだった。
「その百、教会がお引き受けいたしましょう」
隊長が、言った。
「御方が、歌われます」
軍議のあと、リエルの天幕の前に兵の列ができていた。
誰もが兜を脱いで胸に抱えている。列はゆっくりとしか進まなかった。先頭の兵が付き人に兜を差し出し、付き人がそれを裏返して、天幕の入口に立つリエルの手もとへ運ぶ。兜の内側の額が当たるあたりに、小刀で刻んだ小さな印があった。翼を畳んで丸くなった雛鳥の形だった。
リエルは見えない指でその刻み目を探り当て、端から端まで一度だけなぞった。兵は兜を受け取ると、雛鳥の上に自分の額を押し当ててから被り直した。
「救済の女神さまの雛鳥だ」
列の後ろにいた古参の兵が、私の視線に気づいて言った。
「兜の内に刻んでおけば、倒れたときに女神さまが見つけてくださる。見つけて、もう一度立たせてくださる。踊り子さまに撫でてもらった印は、なおよく見つけてもらえるって話だ」
古参は自分の兜を裏返して見せた。雛鳥の下に、縦に二本、古い傷が平らに削られた跡があった。
「若い頃は、主神さまの槍を刻んだもんだがな。戦になると、どうもこっちのほうが近く思えていけねえ」
古参は笑って、列の先へ目を戻した。
篝火の明かりの中で、リエルの指は列が尽きるまで動き続けた。百を超える兜の内側を、同じ速さで、同じ丁寧さでなぞっていった。どの兵の顔も見えないまま。
列が捌けたあとで、神殿騎士たちが黒い革の箱を運び込むのを見た。
細長い、古い箱だった。蓋に、上向きの三日月と、下向きの三日月が、並んで彫られていた。
リエルは、天幕の入口に立って、その箱が運び込まれるのを聞いていた。
見えない目で。
私に気づくと、リエルは、いつものように笑った。
「カリンは、谷の奥で、待っていてくださいまし」
「君が、あの女の前に出るのか」
「わたくしは、歌うだけですわ」
リエルは、首元の黒い首飾りに、指先で触れた。
「百でしたわね。……わたくし、数を数えるのは、得意ですのよ」
触れて、すぐに離れた。
リエルは、付き人に手を引かれて、天幕の中へ消えた。
入口の布が下りる直前、中から、箱の留め金を外す音が聞こえた。
それから、何か細い糸を、指で確かめるように弾く音が。
高く、澄んだ音だった。
◇
翌朝、谷には霧が立ち込めていた。
私は、谷の奥の、街道の真ん中に立っていた。
一人だった。
背中のずっと後ろで、夜明けの鐘が鳴った。
霧を吸って重くなった音だった。いつもなら陣じゅうに響く青銅の音が、濡れた布越しに叩いたように鈍く、短く届いた。今頃、谷の出口の向こうで近衛たちが東へ膝をついている。丘の陰の術師たちも、伏せたまま額を土に寄せているだろう。
東は霧に塗り込められていた。どちらが光の来る方角なのか、ここからは分からなかった。
私は立ったまま、鐘の余韻が霧に吸われていくのを聞いていた。
背後には、谷の出口。その向こうに、殿下と近衛たちが控えている。左右の丘の陰には、術師たちが伏せていた。谷底の土には、昨夜のうちに描かれた陣が、霧の下に隠れている。
陣の中心に、あの透き通った塊が埋められていることを、私は知っていた。
足もとの土の下に、誰かの指があった。
私は、それを考えないようにした。
霧の向こうから、足音が近づいてきた。
一人分の足音だった。
散歩でもするような、軽い足音。
霧が、裂けた。
瑠璃色の髪の女が、そこに立っていた。
「よう、黒髪」
女は、にかっと笑った。
「もう起きたのか。早えな。……肋、三本はいったと思ったんだけどな」
「繋がった」
「へえ」
女は、目を細めた。
「人族にしちゃ、治りが早えな。あの踊り子の歌か?」
私は、答えなかった。
女は、谷の両側の丘を、ぐるりと見回した。
それから、足もとの霧を、つま先で軽く払った。
「で、ここに何が埋まってる?」
私の背中が、冷たくなった。
女は、楽しそうに笑っていた。
「見え見えなんだよ。谷の奥に黒髪が一人。両側に丘。オレでも分かる。……まあ、いいや。乗ってやるよ」
女は、左腕の盾に、右手を突っ込んだ。
引き抜かれたのは、細身の長剣だった。
刀身に、流れるような波の紋が浮いていた。
私の剣だった。
「約束だったろ。これで相手してやる」
女は、私の剣を、軽く振った。
風を切る音が、私の知っている音と、少しだけ違った。
持ち主が違うと、剣の鳴り方も変わるのだと、初めて知った。
「取り返してみろよ、黒髪」
私は、目を閉じた。
開けた。
世界が、二重になった。
同時に、読んだ。
女の身体ではなく、女の手の中の剣を。
あの剣の重さも、長さも、しなり方も、私は知っている。あの剣が、どう振れば、どこまで届くか。どう振っても、届かない場所はどこか。
女の身体は読めなくても、私の剣なら読める。
影が、見えた。
私の剣が、私の首へ走る軌跡。
その軌跡の、次。
あの剣で首を狙えば、振り抜いた先で、刃は右の下へ流れる。そこから返すには、手首をこう返すしかない。
私は、首を傾け、同時に、右の下へ半歩出た。
返ってきた刃の、内側へ。
女の目が、見開かれた。
私の剣の柄が、女の手の中で、わずかに泳いだ。
私は、その柄へ手を伸ばした。
指先が、柄頭に触れた。
次の瞬間、女の膝が、私の腹にめり込んでいた。
身体が、浮いた。
背中から、地面に落ちた。
息が、詰まった。
「惜しい」
女が、私を見下ろしていた。
笑っていた。
さっきよりも、ずっと嬉しそうに。
「今のは、惜しかった。剣の癖を、読みやがったな。……やっぱりお前、面白えわ」
女は、私の剣を、肩に担いだ。
「けど、剣がオレの手にあれば、オレは剣だけで戦ってやる義理はねえんだよな」
その言葉が終わる前に、女の周りに、光が集まり始めていた。
そのときだった。
谷の入口のほうから、歌が聞こえてきた。
◇
細く、澄んだ声だった。
霧の中を、まっすぐに渡ってくる。言葉は分からない。古い言葉だ。けれど、その旋律は、私の知っているものだった。
フェリシアの館の地下で。救護の天幕で。私の枕元で。
何度も聞いた歌だった。
王都では、聖堂の夕べの歌に間に合うよう、詰所から石畳を走るのが日課だった。務めが長引いた日は外套の留め具も外したまま走った。一度も遅れたことはない。刻限より先に着いて柱の陰で歌い出しを待つ、その待ち方だけは日本の朝に覚えたものと同じだった。
今朝は、歌のほうが私のところへ来た。
霧の中から、小さな人影が歩み出てきた。
白い衣。限りなく白に近い金の髪。顔は、黒い紗のベールで隠されていた。
それでも、すぐに分かった。
リエルだった。
付き人は、いなかった。
神殿騎士も、いなかった。
一人だった。
両手に、見慣れない武器を握っていた。
片刃の、細身の剣だった。二振り。右手と左手に、一振りずつ。
けれど、刃がなかった。
刃があるはずの場所に、細い金の糸が、一本ずつ、ぴんと張られていた。朝の霧の中で、その糸だけが、淡く光を返していた。
リエルは、歌いながら、歩いてきた。
一歩ごとに、足が、地面の上で小さく弧を描いた。
歩いているのではなかった。
踊っていた。
「……踊り子か」
女が、呟いた。
笑みが、消えていた。
「上弦と下弦の月。……まだ、あんな子供に持たせてやがんのか、ルンシアは」
女の声に、初めて、苛立ちのようなものが混じっていた。
リエルの右手が、ゆるやかに振られた。
金の糸が、左手の剣の糸に、触れた。
弦を、弾くように。
音がした。
高く、細く、澄んだ音。
次の瞬間、女の足もとの地面が、一文字に裂けた。
見えない何かが、霧を切り裂いて、女のすぐ脇を走り抜けていた。
女が、跳んだ。
着地した女の頬に、細い赤い線が走っていた。
「……ちっ」
女は、頬を拭った。
リエルの歌は、止まなかった。
歌いながら、リエルは、もう一度、弦を弾いた。
また、音がした。
また、見えない何かが、女へ走った。
女は、それを、私の剣で受けた。
刃と、見えない何かがぶつかって、金属を擦るような音が、谷に響いた。
女の足が、半歩、後ろへ滑った。
リエルは、歌いながら、踊っていた。
一歩踏み出すたびに、身体がくるりと回る。回るたびに、二振りの剣の弦が、触れ合う。触れ合うたびに、音が鳴る。音が鳴るたびに、見えない刃が、女へ飛ぶ。
見えない目で。
女の足音だけを、頼りに。
「カリン」
リエルが、歌の合間に、私の名を呼んだ。
振り向きもせずに。
「立てますわね」
私の腹の痛みが、消えていた。
リエルの歌が、霧と一緒に、私の身体に染み込んでいた。
私は、立ち上がった。
女が、リエルに向かって、踏み込んだ。
速かった。
剣が、リエルの首へ走る。
リエルは、踊りの一歩のまま、左手の剣を差し出した。
刃ではなく、弦で。
剣が、金の弦にぶつかった。
弦が、たわんだ。
たわんで、跳ね返った。
剣が、女の手ごと、大きく弾き返された。
女の身体が、初めて、ぐらりと傾いだ。
その一瞬に、私は、踏み込んでいた。
影の、次を読んで。
女が体勢を立て直すために、左の足をつく場所へ。
私の代わりの剣が、女の左の腿を、深く裂いた。
女が、声を上げた。
痛みではなかった。
笑い声だった。
「いいじゃねえか!」
女が、叫んだ。
腿から血を流しながら、笑っていた。
「いいじゃねえか、お前ら! 黒髪と、踊り子と! 九十年前みてえだ!」
黒髪と、踊り子。
九十年前の黒髪の勇者の隣には、踊り子がいた。
霧の冷たさが、首筋から急に引いた。代わりの剣の柄が、掌の中でぎしりと鳴った。いつの間にか、革が軋むほど握り込んでいた。
九十年も前の顔も知らない男の隣に、誰が立っていようと関わりはない。関わりのないことの、はずだった。
握り込んだ指が、なかなかほどけなかった。
女の身体の周りに、光が溢れた。
私の剣を担いだまま、女は、空いた左手を掲げた。
光の粒が、谷中から、女の掌に吸い寄せられていく。霧が、渦を巻いて晴れていく。
足もとの陣が、露わになった。
谷底一面に描かれた、巨大な光の紋様。
女は、それを見下ろして、笑った。
「やっとかよ、爺!」
女の掌の上で、光が、赤く燃え上がった。
そのとき、丘の上で、金色の何かが翻った。
◇
金錦の旗だった。
丘の頂に、侯爵が立っていた。
両手で、旗杖を高く掲げていた。
旗が、風に鳴っていた。
その旗の下に、深緑の長衣の術師たちが、丘の陰から一斉に立ち上がった。六十人。一人残らず、目を閉じ、両手を胸の前で組んでいた。
詠唱が、始まった。
六十の声が、一つの声になっていた。
いや。
一つの声ではなかった。六十の声が、一つの旋律を、六十の高さで、同時に歌っていた。
リエルの歌と、どこか似ていた。
旗が、輝いた。
金の糸が、朝の光を受けて、眩しいほどに光った。その光が、術師たちの額へ、細い線になって伸びていく。六十本の線が、旗から放たれ、六十人を一つに繋いでいく。
足もとの陣が、応えた。
光の紋様が、脈打った。
陣の中心で、何かが、ぱきりと鳴った。
また、ぱきり。
ぱきり。ぱきり。ぱきり。
土の下に埋められた、あの透き通った塊が、一つずつ、砕けていく音だった。
砕けるたびに、陣の光が、強くなった。
指の形をした塊が、砕けていく。
誰かの身体だったものが、光になっていく。
私は、その光の中に立っていた。
美しかった。
それが、何よりも、恐ろしかった。
「カリン! こちらへ!」
リエルが、私の手を掴んだ。
見えない目で、正確に。
小さな手に、信じられないほどの力で引かれて、私は陣の外へ走った。
陣の中心に、女が一人、残っていた。
女は、逃げなかった。
足もとの光を見下ろして、それから、丘の上の侯爵を見上げた。
私の剣を担いだまま。
掌の上に、赤く燃える光を載せたまま。
笑っていた。
「来いよ、爺」
侯爵が、旗杖を振り下ろした。
谷が、白くなった。
音は、なかった。
少なくとも、私には聞こえなかった。
陣の中心から、光の柱が、天へ向かって突き上がっていた。谷の底から、世界樹の枝の高さまで。いや、もっと高く。雲を貫いて、見えなくなるまで。
光の柱の中で、女の姿が、黒い影になった。
影は、動かなかった。
光が、影を呑み込んだ。
世界が、揺れた。
私の足もとの地面が、波打った。丘の上の木が、根こそぎ倒れた。遅れて、音が来た。音というより、胸の中を殴られるような衝撃だった。
リエルが、私の腕にしがみついていた。
私は、リエルの頭を抱えて、地面に伏せた。
◇
光が消えたとき、谷の形が、変わっていた。
陣のあった場所に、深い穴が穿たれていた。穴の縁の土は、硝子のように溶けて、固まっていた。
穴の底に、女が立っていた。
立っていた。
革の軽装は、ほとんど焼け落ちていた。瑠璃色の髪が、半分ほど焦げて縮れていた。蒼白な肌のあちこちが、赤く爛れていた。左の腕が、だらりと垂れ下がっていた。
それでも、女は、立っていた。
右手に、私の剣を、握ったまま。
左腕の星空の盾は、傷一つなく、瞬いていた。
女は、穴の底から、丘の上を見上げた。
侯爵を。
それから、声を上げて、笑った。
喉が焼けているのか、掠れた、ひどい声だった。
「……いいじゃねえか、爺」
女は、言った。
「効いたぜ。久しぶりに、効いた」
女は、穴の縁に、手をかけた。
身体を、引き上げた。
それから、私のほうを見た。
私の腕の中の、リエルを。
「今日は、ここまでだな」
女は、私の剣を、盾の中にしまった。
「黒髪。剣は、まだ預かっとく。踊り子。……お前は、せいぜい長生きしろよ」
女は、足を引きずりながら、北西の森へ歩いていった。
誰も、追わなかった。
誰も、追えなかった。
女の背中が見えなくなってから、ようやく、陣のあちこちで、歓声が上がり始めた。
帝国の軍勢は、その日のうちに森の奥へ退いた。
あの女が深手を負って戻ったことが、黒い群れを、ばらばらに崩したのだろう。旗と旗が、またそれぞれの方向へ散っていった。
こちらの前衛は、川を渡って、失った丘を取り戻した。
勝った、と兵たちは言った。
今度こそ、本当に勝ったのだ、と。
丘の上で、侯爵が、膝をついていた。
術師たちが、侯爵の身体を支えていた。侯爵は、金錦の旗杖を握ったまま、肩で息をしていた。
勝利に浮き立つ陣内でただ一人苦虫を噛みつぶしたような顔をしていた。
真っ白な髪の毛先が、朝の光を受けて、瞬いていた。
その瞬きが、昨夜よりも、長く伸びていた。
肩のあたりまで。
侯爵は、自分の毛先を、指でつまんだ。
それから、何事もなかったように、手を下ろした。
殿下の供をして丘を登ると、侯爵は、術師に支えられながら、顔を上げた。
殿下と短く言葉を交わしたあとで、侯爵の目が、私に向いた。
「近衛の娘」
侯爵は、言った。
「昨夜、術師団の天幕で、そなたは、あれらを見ておったな」
「見ました」
「何か、言いたいことがあるなら、言え」
私は、侯爵の目を見た。
緑の目は、疲れていた。けれど、揺れてはいなかった。
「あれは、誰かの指でした」
私は、言った。
「そうだ」
侯爵は、答えた。
何の飾りもなく。
「帝国の民の、亡骸だ。……使わねば、ただの石だ。墓にも入らず、箱の中で、ただ光っているだけの石だ」
侯爵は、谷の底の、硝子のように溶けた穴を見下ろした。
「使って、今日ここで死ぬはずだった我らの兵が、千は生き延びた。あの女を退け、丘を取り戻した」
侯爵は、私に目を戻した。
「どちらが、死者への冒涜か。わしには、分からん」
侯爵は、旗杖を握る手に、力を込めた。
「分からんが、活かす術を知っておきながら、くだらん倫理のために民を死なせる。それは、国を背負う者のすることではない」
私は、答えられなかった。
懐の奥の結晶塊が、重かった。
侯爵は、それ以上何も言わず、術師たちに支えられて、丘を下りていった。
金錦の旗が、その背中の上で、力なく垂れていた。
◇
戦況が落ち着いたのは、昼を過ぎてからだった。
帝国の軍勢が退いても、谷の外では、まだ戦が続いていた。森へ逃げ遅れた手勢と、それを追うこちらの前衛が、丘のあちこちでぶつかっていた。
フィンも、その中にいた。
右手に剣を握り、左手を前に突き出していた。
ヴァンパイアの放った赤い槍を、足もとから迫り出させた岩の壁で受け止める。壁が砕けるより早く、左の掌から、固めた風を叩きつける。ヴァンパイアの身体が、踏ん張りきれずに後ろへよろめく。その胸へ、蒼い炎が走る。
右手の剣は、ほとんど使っていなかった。
左手一本で、三つの術を、息をつく間もなく撃ち分けていた。
ふた月前には、蒼い炎一つ、思うように出せなかった手で。
リエルは、そのすべての場所で、歌っていた。
神殿騎士たちに囲まれ、丘から丘へ運ばれながら。
リエルの歌が届くところでは、誰も倒れなかった。
斬られた兵が、立ち上がった。
腕を落とされた兵の腕が、繋がった。
腹を裂かれた兵の腹が、閉じた。
立ち上がった兵たちは、また、剣を握った。
また、斬り合った。
また、斬られた。
また、立ち上がった。
歌が、止まなかった。
私は、殿下の傍らで、それを見ていた。
殿下も、見ていた。
丘から丘へ運ばれていく、白い衣の小さな人影を。
神殿騎士たちに囲まれ、休む間もなく歌い続ける、その横顔を。
殿下の手が、手綱を握りしめていた。革が、軋むほどに。
「……止めさせますか」
私は、訊いた。
殿下は、しばらく答えなかった。
「止めれば、兵が死ぬ」
やがて、殿下は言った。
前を見たまま。
「止めねば、あれが削れる。……どちらを選んでも、我は正しい」
殿下は、それ以上、何も言わなかった。
手綱を握る手は、最後まで、緩まなかった。
丘の斜面で、一人の若い兵が、三度目に立ち上がるのを見た。
兵の目は、虚ろだった。
口の端から、血の泡が零れていた。脱げかけた兜の内側に、刻んだ雛鳥が覗いていた。
それでも、兵は、剣を握っていた。
握らされていた。
リエルの歌が、その兵を、戦場から降ろしてくれなかった。
本来なら、とうに倒れて、眠っているはずの傷だった。
眠らせてもらえなかった。
あの歌は、救いの歌だと、教会の人々は言う。
救済の女神の、慈悲の歌だと。
けれど、私の目の前で、あの歌は、誰も休ませなかった。
戦場を、終わらせなかった。
誰も倒れない戦場は、どこまでも広がっていった。
丘から丘へ。
歌が届く限り、どこまでも。
私は、いつか神殿騎士の誰かが口にしていた呼び名を、思い出した。
救済の女神に捧げる、古い歌。
戦場では、兵たちはあの歌を、別の名で呼ぶのだという。
鎮魂の歌、と。
◇
その夜、リエルの天幕を訪ねた。
付き人たちは、今夜だけは何も言わなかった。リエルが、自分で私を呼んだのだという。
リエルは、寝台に腰かけていた。
二振りの剣は、枕元の、あの三日月の箱に収められていた。
リエルの手は、膝の上で重ねられていた。
私は、その隣に座った。
リエルの手を、握った。
氷のように冷たかった。
今日のリエルは、朝から夕方まで、一度も歌を止めなかった。
「カリン」
「なんだ」
「わたくし、今日、何人を殺しましたかしら」
リエルの声は、静かだった。
いつもの、弾むような響きは、どこにもなかった。
私は、答えられなかった。
「数えておりますのよ」
リエルは、言った。
「弦を弾くと、音が飛びますでしょう。飛んだ音が、何かに当たると、音が変わりますの。肉に当たった音。骨に当たった音。地面に当たった音。……わたくし、目が見えませんから。耳は、とても良いんですの」
リエルの指が、私の手の中で、わずかに動いた。
「十七、でしたわ」
天幕の外で、誰かが笑っていた。
勝利の酒を、酌み交わしているのだろう。
「それから、わたくしの歌で立ち上がって、また斬られて、それでも立ち上がって。……最後に、歌が届かなくなったところで、倒れた方が」
リエルは、そこで、言葉を切った。
しばらく、黙っていた。
「たくさん、おりましたわ」
リエルは、見えない目を、天幕の布の天井へ向けた。
「わたくしの歌がなければ、あの方々は、最初に斬られたところで、眠れましたのに」
私は、リエルの手を、強く握った。
それしか、できなかった。
リエルは私が守る。
王都で口癖のように言ってきた言葉が、喉もとまで来て止まった。今朝の谷で、霧の中から私の名を呼んで立たせたのは、この冷たい手のほうだった。
「カリン。いつか、申しましたわね」
リエルは、言った。
「世界は、カリンが思っているほど、優しくありませんわ」
王都の市場の帰り道で、リエルはそう言った。
あのとき、私は、その言葉の重さを分かっていなかった。
「わたくし、ずっと、そう思っておりましたの。生まれたときから、ずっと。……教会の方々は、わたくしに、救済の女神の歌を教えてくださいましたわ。女神様は、世界をお救いになるのだと。わたくしの歌は、救いの歌なのだと」
リエルは、小さく笑った。
笑ったのに、少しも笑っていない顔だった。
「救いなんて、どこにもありませんのにね」
リエルの首元で、黒い首飾りが、ランタンの灯りを鈍く返していた。
それから、リエルは、ふっと顔を上げた。
いつもの顔に、戻っていた。
弾むような、子供のような顔に。
「なんて」
リエルは、私の手を、握り返した。
「申しましたら、カリンは、困ってしまいますかしら」
「困らない」
私は、言った。
「君がそう思うなら、そう思えばいい。私は、それを聞く」
リエルは、しばらく黙っていた。
それから、私の肩に、そっと頭を預けた。
「……カリン」
「なんだ」
「サクラの話を、してくださいまし」
私は、少し考えた。
それから、話し始めた。
生まれた家の庭に、一本だけ、古い桜の木があったこと。祖父が、その木の下で、毎年、一人で酒を飲んでいたこと。散り始めると、道場の床板の上にまで、花びらが舞い込んできたこと。掃いても掃いても、次の朝には、また積もっていたこと。
それから、祖父の酒の銘柄の話をした。
リエルは、目を閉じて、それを聞いていた。
冷たかった手が、少しずつ、温かくなっていった。
やがて、リエルの寝息が聞こえ始めた。
私は、リエルを寝台に横たえて、毛布をかけた。
枕元の革の箱の、二つの三日月が、ランタンの灯りの中で、静かに光っていた。
天幕を出ると、フィンが、外の焚き火の前に座っていた。
待っていたのだろう。
私は、その隣に腰を下ろした。
フィンは、首の後ろを、しきりに手でさすっていた。
「どうした」
「……なんでもないです」
フィンは、手を下ろした。
それから、少しだけ迷って、言った。
「今日、岩の壁と風を、立て続けに撃ったんです。あの女の手勢の、ヴァンパイアに向けて。……撃ち終わったあと、うなじのあたりが、ちりちりして」
「ちりちり」
「髪の毛が、固くなったみたいな。……すぐ、治りましたけど」
フィンは、笑った。
少しだけ、ぎこちない笑い方だった。
「気のせいです、たぶん」
私は、フィンのうなじを見た。
白に近い金の髪が、焚き火の光を受けていた。
何も、変わったところはなかった。
少なくとも、私の目には、見えなかった。
丘の上で、侯爵が、自分の毛先をつまんでいた姿を、私は思い出していた。
「フィン」
「はい」
「無理はするな」
フィンは、少しだけ驚いたような顔をして、それから、頷いた。
「はい」
陣のあちこちで、まだ、勝利の歌が続いていた。
兵たちの、調子外れの、酒に酔った歌。
王家の旗をたたえ、救済の女神の雛鳥をたたえる歌だった。何度繰り返されても、主神の名は一度も出てこなかった。
その向こうで、救護の天幕から、細い歌声が一つだけ、まだ聞こえている気がした。
耳を澄ますと、何も聞こえなかった。
リエルは、眠っているはずだった。
それでも、私の耳の奥では、あの歌が、まだ止んでいなかった。
その年の夏、この戦で、私たちが一番勝っていた夜だった。
(第五章 了)




